『激闘!ソロモン海戦史DX文庫版』には日本軍55名、連合軍60名、総計115名の指揮官が登場します。
ここでは参考として一部の略歴を紹介します。
三川 軍一
開戦時は第3戦隊司令官として真珠湾攻撃に参加。
昭和17年7月、第8艦隊司令長官に昇進し南東方面作戦を担当、第1次ソロモン海戦で史上希に見る完全勝利を達成した。
ついで航海学校長や南西方面艦隊司令長官の要職を歴任したが昭和20年5月、予備役に編入され終戦を迎えるに至った。

近藤 信竹
開戦時には第2艦隊司令長官(第4戦隊司令官兼任)としてマレー攻略作戦の指揮をとる。ついでミッドウェー海戦、南太平洋海戦にも参加。
第3次ソロモン海戦(14日)では重巡「愛宕」、「高雄」からなる第4戦隊に12日の海戦で生残った「霧島」を加えて出撃、米戦艦を相手に凄絶な夜戦を繰り広げた。昭和18年4月、大将へ昇進。
以降、軍事参議官、支那方面艦隊司令長官などを歴任する。

橋本 信太郎
開戦時から昭和18年2月まで第3水雷戦隊の司令官。
エンドウ沖海戦やミッドウェー海戦、第3次ソロモン海戦(14日)等に参加し駆逐艦部隊の名指揮官として名を馳せる。
18年3月、水雷学校長に転出して内地に戻るが11月には第5戦隊司令官に任命されマリアナ沖海戦、レイテ海戦に参加。
昭和20年5月ペナン沖にて英艦隊と交戦し旗艦である重巡「羽黒」と共に壮烈な最後を遂げた。

田中 頼三
開戦時より昭和17年12月まで第2水雷戦隊の司令官としてスラバヤ沖海戦、ミッドウェー海戦などにに参加する。ソロモンの戦場では当初船団護衛を担当していたがルンガ沖夜戦で連合軍(67任務部隊)を壊滅させ勇名をはせた。この件に関しては米軍戦史家達も賛辞を惜しんでいない。
昭和18年2月、舞鶴海兵団長に転出。終戦時はビルマの第13根拠地隊司令官であった。

スコット
ソロモン戦役前半期における巡洋艦部隊指揮官。
第1次ソロモン海戦では第11巡洋艦戦隊を指揮していたが日本艦隊と会敵しないまま戦闘が終了してしまった。
サボ島沖夜戦では第64任務部隊(第6巡洋艦戦隊)を指揮し日本軍に大打撃を与えている。
その後、第3次ソロモン海戦(12日)で第62任務部隊を指揮して有力な日本艦隊と交戦し壮烈な最後を遂げた。

マクモリス
開戦時は大佐で太平洋艦隊作戦参謀であったがその後、少将へ昇進し第16任務部隊指揮官としてアッツ沖島海戦に参加した。
ついで1943年夏からスプルーアンス提督の後任として太平洋艦隊参謀長へ抜擢されている。
強気な切れ者として著名な提督である。
通称 ソック


全指揮官一覧
ゲームの解説書では前掲の6名同様、全指揮官の略歴を収録しています。
日本(55名)
提督(27名)
 三川 軍一
 五藤 存知
 松山 光治
 阿部 弘毅
 木村 進
 高間 完
 近藤 信竹
 橋本 信太郎
 田中 頼三
 秋山 輝男
 伊崎 俊二
 大森 仙太郎
 大杉 守一
 山本 五十六
 古賀 峰一
 清水 光美
 高木 武雄
 岸 福治
 栗田 健男
 西村 祥治
 原 忠一
 伊集院 松治
 原 顕三郎
 細萱 戊子郎
 森 友一
 鈴木 義尾
 白石 万隆
 早川 幹夫

司令(28名)
 荘司 喜一郎
 山田 勇助
 橘 正雄
 杉野 修一
 大江 覧治
 清水 利夫
 佐藤 寅次郎
 中原 義一郎
 折田 常雄
 金岡 国三
 原 為一
 山代 勝守
 小西 要人
 村上 暢之助
 瀬戸山 安秀
 北村 昌幸
 山田 雄二
 佐藤 康夫
 有賀 幸作
 阿部 俊雄
 島居 威美
 成田 茂一
 渋谷 紫郎
 小川 莚喜
 野間口 兼知
 天野 重隆
 高橋 亀四郎
 白石 長義
米国(60名)
提督(24名)
 ウェイラー
 エインスワース
 オルデンドルフ
 ギッフェン
 キャラハン
 クラッチレー
 ジョイ
 スコット
 スミス
 チスデール
 デイビス
 デュボース
 ドールマン
 パイ
 バーケイ
 ハルゼー
 ハンソン
 ヒル
 フィリップス
 ホワイティング
 マクモリス
 メリル
 ライト
 リー

司令(36名)
 アーリー
 アバクロンビー
 ウォーカー
 ウォンブル
 オースチン
 カーター
 カワード
 ケニー
 コンリー
 サウエル
 シリングワース
 シンプソン
 ストークス
 スムート
 セシル
 テュー
 トビン
 ニクイスト
 パーカー
 バーク
 ヒギンス
 ピューレン
 ビンフォード
 ブリスコー
 ブリュワー
 フリン
 ホルコム
 ポロック
 マクナーニー
 マクメーンス
 ミラー
 ムースブラガー
 ライアン
 ラルソン
 リッジス
 レイノルズ