GS新掲示板 発言集[43](No.4201〜)



[4241] 無題 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2018/04/01(Sun) 08:55
現在はツイッターをメインにしているのでどうか、そちらの方を御覧下さい。

https://twitter.com/GS_abetakashi 

[4240] Re:[4239] [4237] ガ島補給戦31 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/24(Sat) 08:43
> 第7師団生き残りの御子息から、
> 「ガ島で負傷して動けなくなった父は、撤退する仲間から『これで自決してくれ』と手榴弾を手渡されたそうです。ここで死ぬのか、死にたくないなぁ等と考えていたら、米兵が来て捕虜になり終戦後、無事に帰ることが出来た。でも家に入ると、死んだはずの人が生きて帰ってきたもんで家族はびっくりしました。」
> という話を伺いました。

一木支隊に所属してガ島に上陸したのは2108名、生還したのは264名とされている。
すなわち12.5%だ。
だがこれは撤収作戦で帰還した人数である。
戦史叢書28巻によるとガ島に上陸し撤収できなかった陸軍の兵力は20582名、そのうち捕虜となったのは137名で0.6%に過ぎない。
滅多に聴けない貴重な体験談なのだ。

> 生き残りのお父様はNHKスペシャルの取材も受けていましたが、取材では話されなかったことも御子息にはお話になられており、貴重な話を聞くことが出来ました。

御子息だけには話されたのか...
実はガ島に渡った第17軍の参謀にS少佐がいる。
S少佐は生還されたが、その息子さんは陸自に入って陸将補にまで昇進され軍事史研究者としても高名を馳せた。
ひょっとしたらS少佐も息子さんに何かを語られたかも知れない。
荷物が重すぎ何も語られなかったかも知れない。 

[4239] Re:[4237] ガ島補給戦31 投稿者:かなやゆうき 投稿日:2018/03/23(Fri) 21:13
> そうした状況で部下を「歩行可能な者」と「歩行不能な者」に区分せねばならない指揮官の苦悩はいかばかりか。
> かくしてガ島戦では玉砕とは異なった悲劇が生じたのである。
> 
> なぜこうした事態になったのか?
> それはひとえに戦陣訓の存在が大きいと考えられよう。
> 徹底作戦は成功裡に終わったが帰れる者と残される者で大きな明暗を分けた。
> よってガ島からの帰還者は口を閉ざす場合が多い。   

第7師団生き残りの御子息から、
「ガ島で負傷して動けなくなった父は、撤退する仲間から『これで自決してくれ』と手榴弾を手渡されたそうです。ここで死ぬのか、死にたくないなぁ等と考えていたら、米兵が来て捕虜になり終戦後、無事に帰ることが出来た。でも家に入ると、死んだはずの人が生きて帰ってきたもんで家族はびっくりしました。」
という話を伺いました。
生き残りのお父様はNHKスペシャルの取材も受けていましたが、取材では話されなかったことも御子息にはお話になられており、貴重な話を聞くことが出来ました。

[4238] ガ島補給戦 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2018/03/19(Mon) 13:19
http://www.general-support.co.jp/column/gatou.html

「ガ島補給戦」を見やすくまとめたので初見の方は是非、こちらから御覧下さい。 

[4237] ガ島補給戦31 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/18(Sun) 17:01
さて、ガ島戦で日本が敗北した主因はどこにあろうか?
作戦指導上の問題や齟齬、兵力の格差などは多くの文献で詳述されている。
制海権や制空権の奪取に失敗し補給が途絶したのは一大痛恨事であったろう。
補給の途絶が如何な影響を及ぼしたかは本稿で述べた。
だが私は他にも2点、大きな問題があったと考えている。

ひとつは輸送/移動力の枯渇である。
第2師団は輓馬編成の3単位常設師団なので通常であれば兵員数約14000名、輸送には馬匹数約6000頭もしくは自動車約660両を必要とする。
1個師団が作戦するには多大な輸送力が必要となる。
だが第2師団が保有する馬匹及び自動車はガ島に上陸していない。
人員と兵器だけがガ島へ輸送され第2師団や第38師団の馬匹はラバウルの牧場に放牧されたのである。
土井全二郎著「軍馬の戦争」によるとその数は約3000頭とされる。
よって第2師団の輸送は人力に頼るしかなかった。
糧食が充分にあれば人力搬送も限定的には可能だ。
しかしその糧食が枯渇しているので人力搬送もままならなくなってしまった。

仮に馬匹をガ島へ送ったとしてもその糧秣が確保できない。
馬は草食動物だが飼い葉以外に穀物を1日に馬体重の0.6%を必要とする。
野砲牽引用の輓馬で体重は1t、駄馬でも500kg位はあるから1頭につき3〜6kgの穀物が毎日消費される。
人間すら餓死するガ島で馬匹を維持するのが不可能なのが御理解頂けよう。
馬を食べるなどは本末転倒である。
その様な事をするくらいなら馬の代わりに糧食を輸送すれば良いのだから。
大発の搭載力は馬匹10頭だが物資なら12tを積める。

次に車両だが揚陸方法が確立されていれば相当の効率が期待できる。
叢書28巻571頁にガ島で損耗した陸軍の装備として自動貨車130両が記載されている。
ただしこれは海没も含んだ数値である。
同書の付録による1942年11月20日時点の戦力表によると車両類は牽引車21両、トラック3両しか記載されていない。

この数値には記載漏れがあると考えられるがガ島の日本軍でトラックが極度に不足していたのは間違いない。
それに比べ米軍は豊富に自動車を装備していたうえ当初、ガ島に在陣していた日本の海軍部隊から可動トラック35両を鹵獲している。
ちなみに日本陸軍の保有車両で牽引車が多いのは、さすがに重砲を人力で搬送するのは不可能なので日進などで輸送したからである。

ふたつめの問題は通信の不備である。
米軍がガ島に上陸し海軍部隊が敗走してからは後方のラバウルと連絡が途絶した。
そこで現地の情報を察知する為、8月12日に航空偵察が実施された。
だが偵察機に同乗した海軍の松永参謀が極度に楽観的な報告を行い、これにより日本軍上級司令部の誤判断を招いた。
更に同日、ガ島沿岸を航行する呂33がガ島に設置された複数の見張り所と無線通連絡に成功した。
これらの見張り所とラバウルが無線による直接通信をするのは非常に難しかった。
そして8月18日、6隻の駆逐艦によって一木支隊がタイボ岬に上陸しルンガの米軍飛行場に向けて進撃を開始した。
戦争叢書14巻299頁には一木支隊と後方司令部の通信は海軍の無線に依存すると協定が結ばれていたと記述されている。
この為、駆逐艦陽炎、嵐、萩風が現地に残された。
だが8月19日に萩風はB17の爆撃で損傷し嵐に曳航され戦列を去った。
更に陽炎も燃料不足の為、ショートランドへ帰還したので通信の中継が出来なくなってしまった。

そして21日未明より繰り広げられた激戦で一木支隊は壊滅したのである。
生き残った榊原中尉が海軍の見張り所に送信を依頼した通信は奇跡的にラバウルへ届いた。
ところがラバウルではこの電文を誤報と考え詳細情報を得ようとしたが通信状況が悪くいっこうに状況を掌握できなかった。
25日になって前述の電文の発信元が判明し一木支隊の壊滅が確認された。

以降、ガ島戦では終始、通信による齟齬が発生し上級司令部の判断を迷わせた。
人数が多く糧食が不足しているとか、現有火砲と輸送されてくる弾薬が一致しないとか、戦況が悪化しているのに後方ではそれを認識できていないとか、様々な障害が通信の不備によって生じた。
海軍の松永参謀や陸軍の辻参謀の様な「出鱈目な報告」がそれに輪を掛けた。
「ミイラ取りがミイラになる」ようにガ島に来なければ現状を認識できず、現状を認識した時には後方司令部へ現状を報告する方法を失うのである。
戦史叢書28巻281頁で10月9日にガ島へ進出した第17軍司令官は川口支隊が餓死に瀕している状況を知り人員の輸送をやめ糧食及び弾薬のみの急送をラバウルへ依頼したがこの状況報告は無線ではなく参謀が帰還する時に携行した。

高温多湿で電池が消耗したのも無線が使用できなくなった大きな理由とされる。
これらの要因によってガ島戦は泥沼の様相を呈したのである。
ちなみにガ島戦を統帥した百武第17軍司令官は陸軍通信学校長や通信兵監督を歴任した陸軍きっての通信のオーソリティであった。
それにも関わらずこうした事態を招致したのはどこに原因があったのだろうか?
元来、日本陸軍は無線より有線による通信を重視していた。
その理由として有線であれば秘匿性が高い事、基本的に予想戦場が対ソ連、対中国の大陸であった為に有線で問題が無かった事、科学技術で遅れた日本陸軍にとって無線が「高嶺の花」であった事などが挙げられる。

太平洋戦争では玉砕した戦例が多い。
それに比べガ島戦は見事な撤退作戦で幕を閉じたので「玉砕しなかっただけ幸運だった」とする見解を散見する。
だがガ島では自軍の傷病兵に自決を要求したのである。
「自力での歩行不能な傷病兵」と如何なる状態を指すのか?
一歩も歩けない状態なら明白だが乗船泊地まで歩行できるのか、できないのか。
それはやってみなければ判らない事であろう。
そうした状況で部下を「歩行可能な者」と「歩行不能な者」に区分せねばならない指揮官の苦悩はいかばかりか。
かくしてガ島戦では玉砕とは異なった悲劇が生じたのである。

なぜこうした事態になったのか?
それはひとえに戦陣訓の存在が大きいと考えられよう。
徹底作戦は成功裡に終わったが帰れる者と残される者で大きな明暗を分けた。
よってガ島からの帰還者は口を閉ざす場合が多い。   (了) 

[4236] Re:[4234] 水陸両用戦車 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/16(Fri) 12:28
> それでは[1621]で出題したクイズの解答を発表するとしよう。
> なんと出題から8年経ってる。

おおっ?
御指摘を受けて確認したらなんと[1812]でクイズの解答を発表してるではないか...
実は講演会に備えて過去ファイルの整理をしていたらウッカリミスで大事な色々な物を消してしまい大混乱になってしまい...
昔の事なので自分でもアップしたのか、してないのか、誰から誰あての文章なのかも判らなくなってトホホになり...
おまけにK氏から来たと思ったメールは実は[1815]でK−2氏から来たメールであり・・・
と、いった次第で誠に申し訳ないっ!
陳謝します。m(_ _)mペコリ

[4235] 同心円避難 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/12(Mon) 08:02
2011年3月11日、未曾有の津波が東北地方を襲い福島第1原発が被災した。
「東日本大震災」である。
そして当時の内閣は福島第1原発を中心点とした同心円の距離で放射能汚染地域を設定し避難計画を策定した。
だがこれは被災時の気象状況を無視したとんでもない避難計画だったのである。

爆発時は南東から北西に向けて風が流れており原発から離れていても北西方向は避難する必要があり、その他の地域は近くても安全だった。
だが当時の政府は同心円で避難させた為、避難しなくても良い住民に避難命令が発せられ避難しなくてはならない住民に避難命令が出ない事態を招いた。
放射性物質による被害と対処には核攻撃と原発事故があるが基本は変わらない。
そして放出された放射能量と風力及び風向で汚染地域が変化する事は「当たり前」であり陸自の教範にも明記されている。

「陸自の教範なんて普通の人は読まないし知らなくてもしょうがない。」などと言ってはならない。
政権与党の重職にある者は自衛隊関係者から幾らでも助言を求められるのだ。
ウィキペディアを使用できるのなら是非、御自分で調べられると良い。
震災当時、首都防衛を任務とする第1師団長はなんと防大出身者ではなく東大工学部原子力工学科出身の俊秀だったのである。
彼が助言したのであれば「風が汚染地域の確定に影響する事」を知らぬはずはないし、もし彼に助言を求めなかったのなら「国家指導者として失格」と判定せざるを得ないだろう。

当時、政権与党の官房長官だった人物はやみくもに「ただちに人体には〜」の文言を連呼して国民の不安を煽り首相は同心円による避難計画を推し進めた。
とんでもない事である。
その官房長官は現在、新政党を結成し当時、首相だった人物達と政治活動を継続しているのだ。
我々、有権者は「原発事故の同心円避難」で福島県民に塗炭の苦しみを与えた彼等の業罪を決して忘れてはならないと思う。 

[4234] 水陸両用戦車 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/11(Sun) 11:32
それでは[1621]で出題したクイズの解答を発表するとしよう。
なんと出題から8年経ってる。
忘れてたんだ...
ゴメン!

答えはなあ〜んと!
「ナゾの戦車」なのだ。
だから明確な車輌名を解答した人以外は全員、正解!

ちなみにこの車輌、現地で作成したデッチアゲではない。
僕としてもちゃんと答えを用意しない訳には行かないから日本戦車の碩学として名高いK氏に写真を送り電話で鑑定を依頼した。
そしたらK氏も「わかんない」との事だった。
またK氏も現地でこの車輌を見て写真を3方向から撮ってきたそうなので、その写真を見せて貰った。
僕が撮ったピンボケとは違う見事な写真だ。
(ちなみにK氏は陸自の元1佐である)
K氏の写真なので弊社HPに勝手に載せる訳にはいかない。
諸兄にお見せできず残念である。

K氏の写真を見れば「現地のデッチアゲ」でない事は一目瞭然だ。
まず第一に履帯パターンが94式軽装甲車と同一である。
これはK氏の写真と「アーマーモデリング誌26号95頁にあるクビンカでの写真」を見て確認した。
よってビッカース水陸両用戦車とは無縁である。
次にK氏の写真(背部)には「ボート型に丸くなった車体後部」と2軸の推進軸がしっかり写っている。
となれば水陸両用である事は明白だ。
水陸両用戦車なんて面倒な物を現地で「よっこらせ」と作れない事は誰にだって判る。
なおK氏の写真では車体後部にエンジンのハッチらしき物が写っている。
僕の写真だと車体全部にエンジンハッチらしき物が写ってるでしょ。
車体前部と後部にエンジンハッチ?
僕はこれを「車体前部は陸上走行用、後部は水上走行用」と考えている。
あと「現地でのデッチアゲ」ではないとする理由のひとつとして「回転砲塔である事」が挙げられる。
ターレットってのは精密な物でちょっとでも誤差があると回らなくなっちゃう物なのだ。

僕の撮った写真をみると車体側部に変な物がついてるよね。
何だと思う?
車体前部にも何かついてるよね。
さて、あれは何でしょう?
更にK氏の写真だと車体上面に怪しげなフックがある。
僕はこれらの部品を全て「車体上面にキャンバススクリーンを展張する為の器具」だと推測している。

果たしてこの戦車が「何と言う戦車」で「何両作られ」、「どの部隊に配属され」、「どんな所で戦い」、「どうしてココポで展示される様になったのか」が何時の日か解明される事を僕は願ってやまない。

えっ?
どうして戦闘に投入されたか判るのかって?
僕の写真の車体後部側面を見てよ。
でっかい穴があいてるでしょ。
あれは敵弾が出ていった穴で外に向かいめくれあがっている。
K氏の写真には逆側面の進入穴が写ってるんだけど、なんと車体前部なんだ。
つまり敵弾は斜めに撃ち抜いていったって事になる。
乗員はただじゃ済まなかっただろう。

それではK氏と私の応答メールを以下に紹介する。

K氏のメール:
この車両については確か大分前に某日本戦車HPの掲示板でもかなり議論されていて、でも結局「わからない」という結論で終わっていました。
だもんでここでも書き込みませんでしたが、先日手持ちの本を眺めていたら、コイツに関する考察の載った記事がありました。

日本戦車専門の同人誌「ジェイ−タンク」第参号P27、「ラバウルの水陸両用戦車」。
車両が何なのかについては、「中国で捕獲されたビッカース水陸両用戦車」であろう、と断定しかしていませんが、なんでラバウルなんかにあるのか、なんのために送られたのか、についてはソースが示されています。
戦車第八連隊(ラバウル駐留)の部隊史の中に、「18年7月頃、陸軍技術研究本部が試作した水陸両用戦車2台の実用試験を支援した」というような記述があり、さらに防衛研究所の資料(「兵器補給に関する件」陸亜密第5233号)には、SRVとビッカース水陸両用戦車各1両をラバウルの第八方面軍へ送った事について、目的は浮遊補給品を曳航する事、と記述されているそうです。
ガ島へのネズミ輸送の物資(ゴム袋に入れて、海岸近くでバラまくやつ)を牽引するための水陸両用トラクターとして考えていたということでしょうか。
ただ、同資料には「ビッカース水陸両用戦車には水中に於ける牽引能力殆ど無し」とも書かれており、なんでそんなモノを送ったのか不可解であるとその記事には書かれています(同感)。
また、記事には同資料に掲載されていたSRV及びビッカース水陸両用戦車の性能データが載っていて、両車とも武装が九七式車載重機1となっているため(ビッカース水陸両用戦車は、ビッカース機銃装備のはず)陸軍が捕獲後に銃塔ごと武装を交換したのではないか?と考察されています。
ただ、実際どのように使われ、どこで損傷したかについては記事中では一切触れられていません。
写真は2枚、阿部さんが撮影されたのと逆方向の真横からの写真と、同方向の斜め前からの写真が載っており、かなり大きな穴が銃塔直下に空いています。

阿部のメール:
私としてはラバウルの車両は「ビッカースではない」と考えております。
その理由は
1.ビッカースと車体上部構造が異なっている。
  ビッカースの車体上面は平坦であり操縦手は車体上面から首を突き出して
  操縦(パンツァー誌262号116頁に於ける「多摩川での演習」の写真
  参照)に対しラバウルの車両は車体上部に段差のついた操縦室とおぼしき
  構造物がある。
2.ラバウルの車両のキャタピラは94式軽装甲車と同一
3.ビッカースのスクリューは一軸(少なくともA4E12は)だがラバウルの
 車両は2軸。
4.回転砲塔の換装は容易ではない。
の4点です。
ではSRVなのかと言えば...
1.幾つかの資料でSRVは92式重装甲車の改造と記述している。
2.SRVが開発されたとする昭和14年で溶接構造は考えにくい。
などがあるので「ラバウルの車両はSRV」と考えられません。
まあ、SRV自体が「ナゾの車両」なのでなんとも言えませんが。

「それでは阿部は何だと考えているのだ?」と問われると「ビッカースでなし、SRVでもなし。はてさてそれはなんじゃろな?」と答えるしかありません。
公式文書で「SRVとビッカースをラバウルへ送った」と書いてあるのですから実際に送ったのでしょう。
(それとも違うのかな?)
もしラバウルの車両がSRVでもビッカースでもないとすれば第3の車両が別途に送られた事になります。
そうでなければラバウルの車両はビッカースはSRVのいずれかと言う事になります。
またそれ以外の可能性として「公式文書ではビッカースとSRVを送ったとあるが実際に送られたのは別物だった」と言う可能性もあります。
他にも私には思いつかぬ可能性だって幾つかある事でしょう。 

[4233] ガ島補給戦30 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/03/02(Fri) 17:46
戦史叢書28巻ではガ島に投入された陸軍部隊の総数を31358名としている。
ウィキによる日本軍の総兵力は36204名だ。
この差が海軍部隊の投入兵力と考えられるが実数があまり明確でない。
それは海軍のガ島在陣兵力が流動的だからだと考えられる。
海軍のガ島在陣兵力は「米軍のガ島上陸以前から存在した設営隊、航空部隊、陸戦隊」に「その後に加わった部隊」及び「漂着した艦船、航空機の乗員数」から「撤収以前に帰還した人員数」を除いた数となる。
この「漂着した人員数」がかなり多くそれらは撤収以前、優先的に帰還した。
よって海軍のガ島在陣兵力は流動的であり不明確なのである。
こうした事情からガ島への投入兵力、損害及び撤収兵力の集計は陸軍のみで集計される場合が多い。

なお、1942年11月20日時点での海軍兵力は戦史叢書28巻の付録によると1593名(おそらく漂着者は含まれない)であった。
最終的に撤収した海軍の将兵数は戦史叢書28巻571頁などでは848名、戦史叢書83巻568頁では994名と記載されている。
陸軍部隊で撤収前に帰還した兵力は戦史叢書77巻によると740名である。
撤収した陸軍兵力は第1次から第3次を合わせ戦史叢書28巻では9817名、77巻では9800名、83巻の合計では11846名であった。
よってガ島で失われた陸軍将兵数は31358−740−撤収数=18772〜20818名と考えられる。
28巻や77巻では戦死5〜6000、戦病死1万5000としている。
ただし28巻571頁の表(宮崎参謀長の回想)では戦死12507、戦傷死1931、戦病死4203、行方不明2497、合計21138名である。

さて、撤収作戦中、前線を支えていた患者達はその後、どうなったであろうか?
戦史叢書28巻545頁によると撤収に際し「患者は絶対に処置する事」と「残留者は機密書類を残さないようにして敵が来たら自決する事」が軍司令官の意図として伝達されたとしている。
この処置とは衛生的処置ではない。
また511頁では第38師団の後退機動命令として「独歩し得ざる者を敵手に委せざる為、武士道的見地より非常処置を講ずべし」となっている。
更に546頁では「各人に昇汞錠(毒薬)2錠を分配す」と記載されている。
83巻554頁には「第17軍司令部が最も苦心したのは企図の秘匿、各部隊長の部下掌握及び単独歩行不可能者の処分であった。」と記載されている。

なお、井本参謀の回想では1月19日の時点で約12000名の人員がガ島に展開していたが撤収したのは約9800名であり約2200名の差がある。
この約2200名が処置された傷病兵かも知れない。
ただし戦史叢書83巻では撤収人員を11846名としている。
この数値が正しいのなら「処置」は殆ど無かった事になる。
高松宮日記6巻によると大本営ではガ島からの撤退兵力予想を1万5千、引キアゲタルモノ約1万2千としており3000名が処置されたとも考えられる。
だが、撤収前の人員が約1万5千、撤収人員が約9800なら消えた人員は5千200名に膨れる。
米軍に撤退を察知されず戦線を守りきったのだから、それなりの兵力(歩行不可能な傷病兵)が前線に存在したと推測されるがその数は杳として知れない。

それらの兵はどうなったのであろうか?
命令が遂行され自決したのであろうか?
米軍の捕虜となったのであろうか?
秦郁彦著「日本人捕虜」の上巻ではガ島での捕虜を約900名としている。
だがこれは陸上部隊以外も含んだ人数である。
ガ島で捕虜となった将兵は一部の例外を除きニュージーランドのフェザーストン収容所に送られた。
下巻ではフェザーストン収容所に於ける捕虜の人数が詳細に記述されている。
1942年12月18日の時点で総員684名(軍属483名)と入院者32名であったが1943年2月25日、同収容所で大規模な暴動が発生した。
その時の捕虜は総計868名だったが軍属約500名、艦艇乗員175名、航空機搭乗員28名、所属不明28名で陸軍の将兵は僅か137名であった。

なぜこの様に陸軍の捕虜が少ないのか?
捕虜になる事を潔しとせず戦陣訓に従い自決したからなのか?
確かにそうした事もあったろう。
だが「日本人捕虜」下巻434頁に記載されている様に当時の米軍地上部隊は投降した日本兵を捕虜とせずその場で殺してしまったらしい。
そこで捕虜による情報を欲していた米軍情報部は前線部隊に「捕虜を確保した者にはアイスクリームと3日間の休暇を与える」と通達し捕虜の獲得を奨励した。
だが捕虜となる日本兵は少なく米軍は1月から宣伝ビラによる投降勧告を開始、同月末までに84名が投降している。
最後の捕虜は3月25日(伝聞としては1年半後や終戦から2年後もある)だが日本軍の撤収作戦後に捕虜となった例は少数である。
陸軍の捕虜総数137名から撤収前の捕虜数84名を引くと53名にしか過ぎず、やはり多くの傷病兵は自決したと考えられる。   (続く) 

[4232] よこすかグルメ物語(第2回) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/23(Fri) 13:14
「佐久間一郎とフランスパン」(加筆修正版)

少年は歩いた。
久里浜の村落から横須賀海軍工廠に至る遠い道程を。
時は1908年(明治41年)、少年の名は佐久間一郎。
まだ、あどけなさの残る15歳であった。
「佐久間一郎伝」27頁によると彼は陽もまだ明けやらぬ5時半に起床し6時に家を出て山際の街道を歩いて大津練兵場を横切り浦賀街道へ抜け田戸を経由し7時に工廠に着いたそうだ。
彼の昼食は弁当か1銭5厘のフランスパン2個であったと言う。

ここで「フランパンってバゲットの事だろ?2本も食うとは凄えな。」と言うなかれ。
明治期の横須賀に於いてフランスパンとはバゲットに非ず。
成人男子の握り拳大で丸くてフワフワしたパンを横須賀ではフランスパンと称す。
ただし現在では外来者に誤解されぬ様にソフトフランスパンと称する店が多い。
彼が家を出てから工廠に着くまでの道筋には現在、中井パン店(創業1950年)、エスポワール(創業1894年)、横須賀ベーカリー(創業1928年)などが存在しており横須賀の老舗パン屋では今でもソフトフランスパンが売られている。
ちなみに1988年刊行の横須賀市史(市制50周年版)上巻−488頁によれば横須賀に於ける工員5名以上のパン工場と総工員数は1925年(大正14年)には1工場で8名だったのが1928年(昭和3年)には9工場で54名に増加した。
急にパンの売れ行きが増大した訳ではない。
これはそれまで家族経営だったパン屋が急速に企業化した事を表している。
さて、それではなぜ、横須賀でだけこの「ソフトフランスパン」が売られていたのであろうか?

話は1853年(嘉永6年)に遡る。
黒船来寇に日本全土は震撼し鎖国から開国に国策を転換した大老井伊掃部頭(いいかもんのかみ)は1958年(安政5年)6月、「ヘイ、カモン!」と日米修好通商条約に調印した。
黙ってないのは攘夷を断行せんとする諸藩と浪士達。
かくして日本は激動の幕末へと突き進んだのである。
そしてここに一人の英傑が日本を救わんと巨費(自分の金じゃないけどね)を投じ横須賀に一大軍港の建設を断行した。
嗚呼、誰あろうその英傑の名は小栗上野介。
今は横須賀のユルキャラとして「オグリン」(ちなみにペリー提督はペリリン)と呼ばれている。
彼が仏国より招聘したウェルニー(ユルキャラはヴェルニンらしい)は1965年(元治2年)に来日し相模の寒村横須賀に製鉄所、造船所、灯台など次々と近代西洋建築施設を築き上げた。
もとよりかくの如き大事業、彼が一人で成し遂げられる物ではない。
彼が帯同したフランス人技術者は富田仁著「横須賀製鉄所の人びと」有隣新書刊によれば約110名(石工、職工、会計、設計技師、佐官、教師、製缶、建築など)にも及ぶ。
更に上級技術者達は家族を連れて来日したのでその数は更に膨らみ横須賀の居留地はフランス村の様相を呈するに至った。
学校も開校し病院も建設される。
当然、彼らはフランス料理を食し日本人にもその技術が伝えられる。
それを受けたのが内藤兵吉(かこさとし著「よこすか開国物語」)だった。
かくして横須賀ではいちはやく西洋のパンが焼かれる様になったのだが・・・

施設の規模が拡大し人員が増えるとパンの消費量は増大する。
だが新規にパン焼カマドを拡張しても急場しのぎには間に合わない。
「横須賀スキップ創刊号」25頁によると、こうした事情により既存のパン焼カマドで効率良く生産できる様に考案されたのがソフトフランスパンだそうな。
故にこのパンは世界中で横須賀にだけ存在しているのである。
まあ、単なる丸いコッペパンに過ぎんのだが・・・
とは言え先人の叡智が生み出した日本初の本格的なフランス式パンだ。
日本初のパンであれば恐らく長崎のオランダ式だろうし純国産の観点ではパン祖と名高い江川英龍のパン(ビスケットに近いが)を忘れてはならないだろう。
薩摩の島津斉彬や水戸の徳川斉昭など開明派で名高い幕末諸侯もいち早くパンを焼かせて食っていたかも知れぬ。
もっと遡ると三浦按針(ウィリアム・アダムス)は横須賀の逸見村で領民にパン(となるとイギリス式だな)を焼かせていたそうだ。
ざびえる?
ああ、そんな人も来たっけ。
当然、バテレンの宣教師達は南蛮渡来のスペイン式やポルトガル式、イタリア式のパンを食ってたんだろうね。
だから今となって「どれが一番か?」などと詮索してもつまらぬ事だ。
それよりもソフトフランスパンが「当時と変わらぬガラパゴス的パン」でありそれを現代でも手軽に食えると言う意義が大きい。

食うべし!
いざ、食うべし!
幕末と文明開化の荒波をくぐり抜けてきて今なお残るソフトフランスパンだ。
これを食わずして開国の意義は理解できぬ!
日本の未来は旨いぜよ。
(ちなみに龍馬の妻である「おりょう」は横須賀で生涯を終え、その「終の住処」となった場所に斎場「おりょう会館」が建っている)
なお、ソフトフランスパンを買って自分の家で何か塗るのも一興だが善良なる横須賀っ子は「おばちゃん、○○塗って頂戴♪」と言ってバタなりジャムなり、クリームなりを追加料金で塗って貰う事の方が多い。
だってすぐに食べたいじゃん。
(この語尾に「じゃん」って付けるのは湘南地域の方言)

えっ?
一郎少年が誰かって?
え〜と、軍需産業中島飛行機の重役にして発動機部門の総責任者、日本航空エンジンの父と言われた人なのだ。 

[4231] ガ島補給戦29 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/13(Tue) 19:59
1942年8月7日に米海兵隊第1師団が上陸して始まったガダルカナルの戦いは1943年2月7日でちょうど半年を迎えた。
ガダルカナルの戦いは損害が大きかった点で日露戦争の旅順攻囲戦と比肩されるが旅順攻囲戦も約半年で勝敗が決している。
だが要塞の陥落により勝利で終わった旅順戦に比べガダルカナルは凄惨な敗北で幕を閉じた。

2月7日、そのガダルカナルで日本軍による最後の作戦が実施された。
第3次撤収である。
この最終局面に当たりマルボボ正面を守備していたのは約130名の独立速射砲第9中隊と臨時に集成された約50名の彦坂部隊であった。
セギロウ正面を守っていたのは前述の宮野部隊でやや後方のアルリゴには約50名からなる歩兵第230連隊第3大隊が控えていた。
宮野部隊を除くこれらの部隊には撤収時刻ぎりぎりまで守備する事が求められた。
もしも撤収時刻が予定より早まればこれらの部隊は残されたままとなる。
よって後衛部隊の各級指揮官は非常に際どい判断をせねばならなくなった。

さて、前述の様に多数の舟艇が確保できたので第3次は全員乗艇のうえで沖に待機し駆逐艦の到着を待つ事になった。
駆逐艦の到着予定時刻は2100である。
第3次撤収の経過については各資料でかなりの相違があり撤収した人員数にしても戦史叢書77巻では1796名、83巻とウィキでは2249名、28巻では1972名(ただし570頁では1796名)と異なっている。

当初の予定だと第3次の撤収兵力は1577名の予定であった。
その内訳は歩兵第28連隊(元の一木支隊)が130名、歩兵第124連隊(元の川口支隊)が300名、矢野大隊が400名、その他が747名である。
だがこれらの予定兵力より多くの将兵が加わり最終的には約2000名(最大では2249名)にまで増加した。
2249−1577=672名である。
戦史叢書28巻571頁には各部隊の撤収人員数が記載されているのでチェックしてみよう。
まず歩兵第28連隊だが撤収人員数は264名となっている。
これは前述の130名の2倍以上だ。
次に歩兵第124連隊だが撤収人員数は618名となっており前述の300名のこれまた2倍以上である。
矢野大隊の撤収人員については300名とも400名ともされるが2月4日以降は大規模な交戦をしていない事と予定時点でも400名である事、2月3日の時点で570名である事から500名前後と推測される。
上陸以来、矢野大隊は兵力の1/3を失っているがガ島に投入された他の部隊に比べると損害は至って少ない。
何よりも矢野大隊が敢闘し多くの功績をなした事は特筆に値する。

それでは各資料に於ける時間経過の相違を記述しよう。
戦史叢書28巻では乗艇開始時刻が1930で2015に乗艇終了、2100に駆逐艦の艦影を視認して舟艇が発進し2203に乗艦を終え2220に駆逐艦が帰投としている。
これに対し83巻だでは駆逐艦の到着を2120、作業終了を2302としており77巻では駆逐艦の到着が2130である。
ガダルカナル戦記では到着が2120、作業終了が2300となっている。

この様に資料によって若干の差異が見られるのだが、いずれにせよこれで乗り遅れたらもはや帰国はかなわない。
そこで大部分の舟艇が沖に出ても吉田中尉が指揮する小発2隻だけは浜辺で待機しぎりぎりまで落伍者の到着を待った。
2050、最後の2名(歩兵第16連隊の中尉と伍長)が乗艇し2130に小発はガ島を後にした。
こうしてガ島に於ける日本軍の作戦行動は幕を閉じたのである。        (続く) 

[4230] Re:[4229] 犯罪件数 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/12(Mon) 07:58
> 同じようなウソで、途上国などで、警察ができたとたん犯罪件数が跳ね上がった。警察ができると治安が悪くなる!なんてのもやれそうですね。

ケストナーの著作の中で「エレベーターボーイは早死する。なぜなら年寄りのエレベーターボーイを見たことがない。」ってセリフがある。
モーニング娘やakb48もあんまり長生きできそうにないね。 

[4229] 犯罪件数 投稿者:K−2 投稿日:2018/02/11(Sun) 20:12
>ウソ
何かのマンガにあった、「誤解を解いた人の話だと、誤解は必ず解けるものだそうですよ」を思い出しました。

同じようなウソで、途上国などで、警察ができたとたん犯罪件数が跳ね上がった。警察ができると治安が悪くなる!
(実際は、それまでは警察組織が無くて立件できない犯罪が山ほどあった)
なんてのもやれそうですね。
具体的な数字や国名をデータとして出せないのがナンですが。 

[4228] 外車 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/10(Sat) 16:23
きょうはひとつ「ウソ」をついてみましょう。
さあ、うまくウソがつけるでしょうか?

文例1)
戦前の日本にはお金持ちがたくさん住んでいました。
昭和4年から6年の間に輸入された外車は83453台でしたが、この間に国産された乗用車は僅か2台だけでした。
つまり当時の人達は皆、外車に乗っていたのです。
お金持ちで大変羨ましいですね。

ポイント)
この文例で重要なのは「どこにウソがあるか?」です。
一見、ウソに見える自動車台数にウソはありません。
ウソは「外車=お金持ち」と「国産車=貧乏」にあります。
自動車の国産化が当たり前の現代日本から自動車の国産化が出来ぬ戦前の日本を見て安易に評価してはなりません。
悪い政治家やマスコミに騙されぬ良い小国民を育てる為、ウソのつきかたや見破り方を小さなうちから教えるようにしましょう。 

[4227] 訂正 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/08(Thu) 15:55
発言「3529」で松月堂の創業を1882年以前と書きましたがお店の方に伺ったところ、米が浜は分店だそうです。
ですから本店は1882年以前、分店は1912年の創業となります。
いずれにせよ老舗である事は変わらずとても美味しい和菓子が並んでいますから皆様、来横の際は是非、御立ち寄り下さい。 

[4226] 横須賀市史の市街図について (続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/07(Wed) 16:06
「横須賀経済経営史」によると「かわしま文具店」の創業は明治5年で元は川島紙店だったそうです。
前に川嶋と誤記しましたが正しくは川島です。
ご免なさい。
川島姓はこの市街図に8軒が記載されてますが川島紙店は材木商も兼業していたそうですから下駄屋や大工の家は関係が深そうです。
雑賀屋の創業も明治5年でこの年には横須賀初の人力車も現れました。

前年、横須賀初の蕎麦屋として梅林が創業(かけ蕎麦8厘)しましたが地図には記載がありません。
廃業したのか改名して地図の梅本となったのか・・・
そういえば林と言う字は本と似てますね。
字が汚くて誤字となったのかも知れません。

ちなみに明治5年の横須賀で貸座敷は18軒、芸妓は5名だったそうです。
彼女達は「小松」で出番を待っていたのでしょう。
なんか「夢千代日記」を彷彿とさせます。

明治10年の横須賀村人名録には横須賀の名店として元町の森田屋唐物店(洋品店)、大坂屋呉服店、文字屋洋服店、松月堂菓子店、鈴木質店、三富屋旅館、磯崎の雑賀屋呉服店などが記載されていたそうです。
元町が横須賀の中心部だったようですね。

画像はこちら
https://twitter.com/GS_abetakashi/status/961036587705425920

[4225] 横須賀市史の市街図について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/06(Tue) 16:46
呉と横須賀は双璧をなす日本の軍港都市です。
呉が空襲で大きな被害を受けたのに比べ横須賀はほぼ戦前の状態のまま残りました。
ですが横須賀は関東大震災の時に壊滅的被害を受けたのです。
戦前や戦時中の呉と広島は片渕須直監督が「この世界の片隅に」で再現されました。
大震災前の横須賀はどんな街だったのでしょうか?
1957年に刊行された最初の横須賀市史には明治15年時の市街図が掲載されています。
辻井善弥著「セピア色の三浦半島」には昔の横須賀を撮った写真が数多く載っています。
こうした地図や写真で見る大震災前の横須賀には当時の人の息づかいが感じられます。

料亭の小松は明治18年に田戸(震災後、米ケ浜へ移転)で創業したのですがこの市街図では磯崎の1.に芸妓屋として見えます。
磯崎の21.にある雑賀屋(呉服屋)はのちに横須賀の老舗デパート「さいか屋」になりました。
川嶋姓の家が多いのですが現在の横須賀に「かわしま文具店」と言うとても大きな店舗があります。
元町Dの松月堂(菓子屋)は現在、分店が米が浜で営業してます。
ウェルニー官舎とは横須賀造船所の創設者L・ヴェルニーの官舎で当人ぬあ明治9年に離日しているのですが官舎はまだ残っていたようですね。
同様に軍医サバチューとは植物学者としても名高いL・サバティエの事です。
稲岡町9.に小泉儀左衛門(人夫御用達)とありますがこれは後に総理を輩出する小泉家と思われます。

画像はこちら
https://twitter.com/GS_abetakashi/status/961036587705425920

[4224] Re:[4223] [4222] 小池流ラーメン道阿部派創設 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/06(Tue) 07:19
> 小池流ラーメン道阿部派には、具に関する作法・流儀・こだわりなどはありますか?

「具」に関しては無い。
ただし「自然を愛せよ」の精神を重んずるのであまり入れない方が宜しかろう。
それと温度が下がるようなものは入れない方がよい。
作法に関しては湯を注ぐべし、蓋をするべし、麺を手繰るべし、この三箇条だけだ。
こだわりは「四角麺を愛せよ」と「丸麺は既に過去の遺物なり」及び「三角麺などはもってのほか」である。
おのれの好む袋麺をもちい精進されるがよい。 

[4223] Re:[4222] 小池流ラーメン道阿部派創設 投稿者:旧式野郎 投稿日:2018/02/05(Mon) 22:43
天才バカボンの赤塚不二夫先生は「なるとが無いとラーメンという気がしない」という
趣旨のことを仰っていたのを記憶しております。

小池流ラーメン道阿部派には、具に関する作法・流儀・こだわりなどはありますか? 

[4222] 小池流ラーメン道阿部派創設 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/05(Mon) 13:10
諸君は小池流ラーメン道を御存知か。
かの小池名人が「オバケのQ太郎」に於いて考案したとされるラーメン道だ。
丼に麺を入れ直に熱湯を注ぎ蓋をして調理するのが基本でチキンラーメンを使用するのが王道とされる。
なぜなら現在、チキンラーメン以外で丼に合わせた丸形の袋麺は殆ど見当たらなくなってしまったからだ。

だが太古の昔はチキンラーメンの他にも大多数の袋麺は丸型であった。
なにしろ丼が丸けりゃ鍋も丸いからね。
だが5個包装の徳用パックが登場したあたりから各メーカーは次々と角形麺に切り替えていった。
角形の方が生産効率が高くスペースの有効活用がはかれるからであろう。

かくして小池流ラーメン道はチキンラーメンに限定されるに至ったのである。
果たしてそれで良いのであろうか?
確かにチキンラーメンも悪くはないが他の銘柄の袋麺を小池流で食したい時もあろう。
特に廉価のPB麺の魅力に低所得者の代表格たる我輩は抗えない。

鍋で作れと?
不可!
断じて不可!
電気ポットのお湯しか使えない局面もあるのだ。

この状況に即し我輩は小池流ラーメン道阿部派を創設、新たなる袋麺の調理法を考案した。
な〜に簡単、案ずる事はない。
百円ショップでプラ製の重箱を買ってくれば良いのだ。
それで全て事は足りる。
加熱時間は標準に1分足したくらいがよかろう。
それとスープを呑む時、角に口を当てる様に心がけられたい。
でないとこぼすぞ。 

[4221] 鮫料理 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/01(Thu) 17:50
私が造る鮫料理は2種類ある。
ひとつは洋食のソテーでカイエンペッパー、レモン、塩胡椒で味付けする。
もうひとつは和食の刺身系で湯引きする。
これにはふたつのやり方がある。
熱湯で一煮立ちしてから冷水でしめるのは同じだ。
だが切り方が違う。
ひとつは小さく切ってから湯引きする方法でもうひとつは大きな塊で湯引きし食べる直前にスライスする方法だ。
どちらが良いか、人によって違うし鮫の種類や状態によっても違うのでなんとも言えない。
食べる時は生姜醤油もしくはニンニク醤油が合う。 

[4220] 納豆汁 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/02/01(Thu) 17:13
父方の祖父母が山形だったので私の実家では冬を迎えるとよく納豆汁が食卓にのぼった。
家庭料理なので各家庭によってだいぶ、材料や作り方が違うのだが我が家流の納豆汁をちょっと説明しよう。
用意する材料は大根、人参、蒟蒻、椎茸、挽き割り納豆、味噌、料理酒、出汁の素である。
分量は豚汁を作るつもりで用意すると良い。
なんか書くのがめんどくさくなってきた。
あ〜、もういいや。

1.豚肉抜きの豚汁を作る。
2.最後に油をたらし、丼でよく混ぜた挽き割り納豆を加え4分煮る。
3.完成!

僕が作るのはいつもこんな具合だが祖母が作ってくれたのはこれに里芋、ゴボウ、豆腐、油揚げ、イモガラが加わるずっと豪勢な物であった。
ちなみに油揚げをいれるなら最後にたらす油はいらない。 

[4219] 国民学校用軍艦模型 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/31(Wed) 10:46
京都書院「おもちゃ博物館19・男の子の玩具」の33頁に面白い模型が載っている。
国民学校工作用「模型軍艦製作材料」なんだが前部に3連装砲塔2基、後部に1基の1本煙突艦なのだ。
この配置の艦型は大和型とサウスダコタ型、シャルンホルスト型くらいでしか見られない。
当然、大和型を意識して作ったんだと思われるが「大和型は軍機艦で一般には知られていない」ってのが通説だったはず。
う〜ん、謎だ。
大和型の外観は当時、どれくらい一般国民に広まっていたのだろう? 

[4218] ケストナースープ 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/29(Mon) 18:55
エ−リッヒ・ケストナーの珠玉作「ふたりのロッテ」の中でロッテがスープを料理するくだりがあり、そのスープにはマカロニが入っている。
マカロニが入ったスープと言えばミネストローネが有名だ。
果たしてロッテが作ったスープはミネストローネなのだろうか?
日本語版にはそう書いてないから図書館で英語版を借りてきて確かめる。
英語版でもミネストローネとは書いていない。
図書館にドイツ語版は置いてない。
まあ、置いてあったとしても読めないからどうせ、無駄であるが。
そもそもミネストローネの定義とは何か?
どうもマカロニが入ったトマト系のスープらしいが一部にはトマト系でない物を含む時もあるらしい。
よって今回はトマト類を入れずケストナースープと命名し調理する。

さて、ネットで検索しても詳しい事は判らないので「多分こうであろう。」と類推し時分なりのやり方で作るとしよう。
「かのこまだらのフィレ肉と骨」が必要だがまあ、鶏の手羽元でも良いだろう。
セロリとあるがセロリまたはキャベツ(香辛料のセロリシードを追加)でよしとする。
ニンジンとナツメグは書いてあったから不可欠だな。
それとタマネギも不可欠だろう。

よし、始めるとするか。
1.圧力鍋で鶏の手羽元を水から煮る、10分加圧し30分以上放置。
2.キャベツの硬い所、ニンジン、玉葱、ニンニクを加えて再加圧。
  5分加熱し30分以上放置。
3.キャベツの柔らかい所を加えて3分加圧、10分以上放置。
4.その間にマカロニを1人前につき30g位、堅めに茹でる。
5.マカロニを加えナツメグ、セロリシード、塩、胡椒で味を調え完成。 

[4217] 母のおもいで 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/28(Sun) 18:31
母は優しいひとだった。
ぼくがはじめて母に買って貰った戦車のキットはミドリのタイガー戦車だった。
当時、僕はまだ幼稚園児だったので自分では作れず母に作ってもらった。
調べてみると1965年発売なので母は発売直後に買ってくれた事になる。
不思議な事にこのキットは壊れず現在もその勇姿を現している。
母は塗装などしないから現在の状態は後に僕が手を入れたものだ。
デカールもエッシーやフジミなどから転用した。
あちこちの弾痕は中学生の時、僕が「歴戦の車両っぽくカッコ良くしてやろう」とつけた。
松本零士の「ラインの虎」の影響である事は言うまでもない。 

[4216] 戦艦と巡洋艦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/28(Sun) 17:12
我が輩が幼稚園児だった頃の話である。

我、母ニ問フ。
戦艦ト巡洋艦ノ相違ハ何処ニ有リヤ。
母答ヘテ曰ク、火砲数ノ差ナリ。
我、重ネテ母に問フ。
ソノ境ハイズレカ。
母重ネテ答フ。
明日マデシバシ待レヨ。

それでね、母が翌日言う事にゃ10門以上が戦艦でそれ以下が巡洋艦なんだと。
どうも母にはワシントン軍縮条約や日本海軍の艦種分類などは関係ないらしい。
7、8年前、母がまだ存命の頃、なぜそんな答えをしたのか尋ねてみた。
そうしたら「三笠へ行って数えてきた。」って答えた。
うちの実家から三笠まで徒歩10分前後だから造作もない。
それでも我が輩の為にわざわざ行ってくれたのだから有り難い話である。

ちなみに僕がそんな質問をしたのは母が重巡インディアナポリスを買って作ってくれたからだ。
確かそのシリーズ(当時50円くらいのミニキット)にはサムナー型駆逐艦や大和型戦艦、エンタープライズ型空母(原子力のやつ)などがあった気がするがスケールがまちまちでほぼ同じ大きさだった。 

[4215] 父のおもいで 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/28(Sun) 14:48
母の次に父が戦車のキットを買ってくれた。
父は電気や機械、工作、オーディオなどが大好きな人だった。
父が買ってくれた戦車は母が買ってくれたものより遥かに大きくモーターが付いていた。
当然、それは父が作り僕の前で走らせてくれた。
僕は悲しくなった。
その戦車には足回りとキャタピラはあれどもボディや砲塔がないのだ。
父にそれも作ってくれと言うと「あんな物は飾りだ。戦車はちゃんと走れば良いのだ。」と言った。
大砲の無い戦車に比べれば恐竜戦車の方がマシである。
上半分が無いのだから僕はその戦車の名前がなんだったのか今でも判らない。 

[4213] ガ島補給戦28 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/27(Sat) 19:33
ここで話を2月2日まで戻そう。
この日、矢野少佐はドブ川陣地にいたが敵の動勢は緩慢であった。
通常は猛砲撃の後、米軍偵察部隊が接近し日本軍の後退が確認されると占領に移る。
そして占領後、米軍偵察部隊は日本軍に接敵するまで前進するのが通例であった。
だが米軍はドブ川陣地の前面から動こうとせず小規模な斥候を出すだけで砲撃も激しくは無かった。

米軍は2月1日にアメリカル師団第132歩兵連隊第2大隊を日本軍後背のマルボボへ上陸させているので、この部隊が堅固な陣地を構築するまで大規模な戦闘を生起させたくはなかったのである。
もし、この時点で全面攻勢を発起すれば矢野大隊は後退するであろう。
そして日本軍全体が後退すると第132歩兵連隊第2大隊に重圧が加えられる。
たった1個大隊で日本軍の退路を絶つには相当の堅陣に籠もらねばならない。
そうでなければ折角、大攻勢を実施しても日本軍の後退を許し殲滅の機会を逃してしまう。

2月3日も米軍の動勢は緩慢であったが同日0630、矢野少佐はセギロウ(アルリゴとする資料もある)の後衛部隊本部に来る様に松田大佐から命じられた。
矢野少佐は朝食後に出発し後衛部隊本部で松田大佐から5日まで現在の陣地を固守した後、健常者70名(矢野少佐の記憶では80名)を残置して後方に転進せよとの命令を受けた。
これに対し矢野少佐は全兵力で転進するか現陣地での死守を主張している。
だが松田大佐はこの主張を受け入れず矢野少佐はやむなく陣地に戻った。
なおこの時、松田大佐は矢野少佐に昼食を振る舞ったのだがそれは「すき焼き」だったらしい。
生肉の入手は不可能なので恐らく缶詰肉と乾燥野菜で調理したと推定されるが多分、最後の宴と考えたのであろう。
守備陣地に帰隊した後、矢野少佐も大隊の将兵に現在、保有している糧食を心おきなく食べる様に指示している。
ところで矢野少佐は内心、転進命令に従わず全兵力で死守するつもりであった。
しかし1時間後、松田大佐は命令を変更し矢野少佐に健常者は全て転進する様に命令変更したのである。
かくして矢野大隊の健常者は全て撤収できる事になった。

そして2月4日夜、矢野大隊は後退を開始した。
だが、それでは誰が戦線を守るのであろうか?
歩兵第124連隊の宮野政治中尉が指揮する傷病兵のみが残置されたのである。
その数は約100名とも128名(松田大佐の日誌)とも数百名とも伝えられる。
矢野大隊をはじめとする後衛部隊の諸部隊は敢闘しケ号作戦を見事に成功させた。
その功績は高く評価されねばならない。
だが後衛部隊の撤収を守った傷病兵達はガ島の土となり帰れなかった。
よって我々は彼等の功績と無念を決して忘れてはならない。

さて、松田大佐であるが矢野大隊が本部を通過した後の2月5日、セギロウを0400に出発しカミンボへ1500に到着した。
つまり20kmの移動に11時間を要している。
ガダルカナル戦記によると第17軍が策定した「松田部隊指導要領」では後衛部隊本部の位置を2月3日タサファロング、4日セギロウ、5日中間点、6日カミンボと予定していた。
つまり後衛部隊本部は本来2日間の行程を1日で移動し予定より1日早くカミンボに到着したのである。

この様に作戦計画は現場の判断で常に変更されるので記述されている事をそのまま信じてはならない。
戦史叢書28巻456頁の「総後衛部隊撤退計画」では指揮下に戦車中隊(2両)が明記されている。
だが独立第1戦車中隊の部隊史だと同部隊は第2次撤収でガ島を去っている。
更に部隊史によると戦車保有数は1両である。
戦史叢書28巻付録に於ける11月20日時の兵力でも1両となっているので総後衛部隊撤退計画に於ける戦車2両は誤記と思われる。    (続く) 

[4212] エース列伝(10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/26(Fri) 18:50
「リチャード・アイラ・ボング」

彼はスコア40の全米トップエースだが実に堅実な男である。
2位のマクガイアはスコア38なので差は僅か2しかない。
彼の初撃墜は1942年12月27日であった。
最終撃墜は1944年12月17日なので約2年間でスコア40を挙げた事になる。

1カ月当たり1.6機だ。
一方、マクガイアの初撃墜は43年8月18日で最終撃墜は12月26日である。
約1年4ヶ月なので1ヶ月あたり2.3機となる。

更にマクガイアは1回の出撃で3機以上撃墜した事が4回もある。
それに対しボングは僅か1回しかない。
だが彼は決して従順でも穏健でもない。
まだ前線へ出られず米国のハミルトン基地でP38の完熟訓練を受けていた頃にはサンフランシスコの金門橋の橋桁をくぐって叱責を受けてもいる。
彼は戦闘に際しては無理をせず着実にスコアを挙げる堅実さを持ちながらお茶目な面も併せ持つ稀代のエースなのである。
そうした特徴を内包するかの如く童顔で悪戯っ児の様な愛嬌のある顔立ちをしていた。

1920年9月24日、彼はウィスコンシン州で生まれた。
通称はディックである。
彼は教師となる為に高等師範学校(大学教育学部に相当)に通っていたが1941年6月、中退し陸軍航空隊へ入隊する。

1942月1月19日、彼は少尉に任官し第49戦闘飛行隊に配属された。
ここで前述の「金門橋くぐり」をやって第84戦闘飛行隊へ転属させられる。
第49戦闘飛行隊は1942年7月に欧州へ派遣されている。
もし彼が無茶をしていなければ欧州の空で活躍していたであろう。

彼は9月10日に濠州へ到着し1942年12月27日の初陣でスコア2を挙げる。
以降、彼は着実にスコアを伸ばし1943月4月は中尉、8月には大尉へと昇進する。
ついで11月、スコアは21に増え太平洋戦域のトップとして帰国の途についた。
ここで彼はマージョリーと知り合い婚約するが翌年1月には南太平洋の前線に戻る。

スコアは更に増え4月12日には第一次大戦トップのリッケンバッカーを凌ぐ28を達成、少佐に昇進し再び帰国する。
リッケンバッカーと面会してウィスキー62本の贈呈を受けたり戦時国債の宣伝活動に従事した後の9月、彼は再び前線に戻り12月17日にはスコア40を達成する。
ここでまたもや帰国し結婚、以降はP80のテストパイロットとなる。
だが1945年8月、彼はあえなく事故死を遂げた。

彼は全米トップであるにも関わらず射撃が下手なエースであった。
最終階級は少佐である。
1944年12月に彼が乗機としていたP38は全面無塗装の銀色で機首に大きな文字で993、小さな文字で597と表記されており、その後ろに婚約者(マージョリー)の写真が貼られていた。
更に尾翼には2103993と書かれスピナーは赤であった。



「王光復」

1959年4月27日、中国に新たな国家指導者が登場した。
第2代中華人民共和国主席の劉少奇である。
だが劉少奇の義兄(妻の兄)が米第14空軍に所属し日本陸軍航空隊の戦闘機と戦った戦闘機搭乗員であった事はあまり知られていない。

1916年11月10日、王光復は北京で国民党政府高官の息子として生まれた。
更に5年後、妹の光美も誕生する。
彼の父は日本の大学で学んだ知日派だったが両国の関係は次第に緊張の度合いを増した。
そうした中、彼は中国空軍に入隊し1939年7月1日、昆明の航空学校を卒業し中国空軍の航空機搭乗員となった。

当時、中国政府とソ連は密接な関係にあり多数のソ連製航空機が装備されていた。
その為、彼は1940年に国境近くのイーニンでソ連の軍事顧問から戦闘機の操縦指導を受けた。
1941年には第3飛行大隊に配属され成都や重慶の防空任務についている。

なお、中国国民党は当初、ドイツから軍事指導を受けたが次第にソ連へとシフトし、ついで米国へと代わっていった。
だが戦場では十分な訓練ができない。
よって中国軍パイロットはインドのカラチで完熟訓練を行い米第14空軍の指揮下で作戦する事になったのである。

既にスコア4を挙げていた彼は1943年10月、P40に搭乗して中国へ戻った。
梁山を基地とする第3飛行大隊は以降、日本陸軍の第25戦隊や第85戦隊を相手に激戦を繰り広げる。
特に1944年10月7日の荊門飛行場爆撃で彼は単独で1式戦2機と99式双発軽爆1機、協同で1式戦1機を撃墜している。

更に翌年、装備機がP51に代わりスコアを1増やした。
最終的に彼のスコアは協同を含んで9となった。
この数は決して多い方ではないが中国人戦闘機パイロットとしては3位である。

さて、彼のパイロットとしての苦労はここでおおかた終わるのだが人間としての苦労は太平洋戦争の終結と共に始まった。
日本と言う共通の敵がある内は国共合作が成立したが敵がいなくなれば話が変わる。
国民党と共産党は早くも1945年10月に干戈を交え燎原の火は燃え盛らんとした。

ここで米国は介入を決定し1946年1月、三者会談が開かれた。
妹の光美はこの会談で通訳を担当したのだが次第に共産党に共鳴し1948年8月21日、共産党ナンバー2の劉少奇と結婚したのである。
再び国共合作が成立すれば良かったのだが内戦は激化の一途を辿り泥沼の様相を呈した。

1949年10月、共産党は中華人民共和国の建国を宣言し国民党政府は台湾に逃れた。
かくして兄妹は台湾海峡を隔て敵対する人生を送ったのである。
なお1985年、王光復は米国へ移住し2008年に死去した。 

[4211] エース列伝(9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/25(Thu) 17:52
「ヒューバート・ゼムケ」

スコアはトップクラスではないが優秀な指揮官として名を馳せたエースである。
米陸軍航空隊のエースは米国人気質を反映してか個人的功績を求めスコアに拘泥する傾向が強い。
どこの国にもそうしたパイロットはいる。
しかし各国の上位5名を見た場合、ヒーロー揃いなのは米国くらいであろう。

彼のスコアは約18機(20機とする説もある)で米陸軍航空隊で25位に過ぎない。
だが「戦争全体での勝利への貢献」では米陸軍航空隊でもっとも優れた指揮官と言えよう。
米陸軍航空隊のトップスコア4名は米国参戦時に21〜22歳であった。
それに対し彼は27歳でやや高齢だったがその分、人間的な包容力と指導力に富んでいた。
彼が指揮した第56戦闘大隊(別名:狼部隊)では約50名ものパイロットがエースとなりその中には米陸軍航空隊の欧州戦域1位と2位が含まれているのである。

1914年3月14日、モンタナ州で生まれた彼はモンタナ大学へ進みボクシングの選手として活躍し通称ハブと呼ばれた。
米陸軍航空隊に入隊したのは1936年である。
翌年訓練を修了し最初に配属されたのはP40装備の第36戦闘飛行隊であった。

ついで1940年には軍事顧問団として渡英、1941年には貸与兵器のレクチャー要員としてソ連に派遣される。
帰国後の1942年9月16日、彼はP47装備の第56戦闘大隊指揮官に任命された。

そして1943年1月には渡英し対独戦略爆撃の護衛任務で活躍する。
5月8日、彼は大佐に昇進した。
彼がスコアを5まで伸ばしエースとなったのは10月4日であった。

1944年8月12日、彼はP51装備の第479戦闘大隊指揮官に転属する。
第56戦闘大隊の後任指揮官となったシリングとはかなりの確執があったとされている。
その後も彼は対独戦略爆撃に従事したが1944年10月30日、154回目の出撃で乱気流により墜落し捕虜となる。

欧州の空の戦いで米軍では5万4700名が戦死し4万200名が捕虜となった。
つまり戦死者より捕虜の方が少ない。
すなわち捕虜になって生還するのは運の良い方だと言えよう。

なお、第二次世界大戦で戦死した米国人は41万8500名であった。
よって欧州で戦死した米軍の搭乗員死者数はその1割以上を占めていた。
第二次世界大戦に従軍した米国軍人の中で最も死と隣り合わせでいたのは欧州戦域の航空機搭乗員だったのである。

1942年10月に彼が乗機としていたP47は機体がオリーブドラブの単色で下面はニュートラルグレー、尾翼の一部のみがミディアムグリーンで迷彩されていた。
カウリング前端は赤青黄で塗られており胴体に同色の帯が3本、描かれている。
この色分けは彼の指揮下にある3個飛行隊の飛行隊色であった。
また胴体側面には白地で大きく1と書いてありで尾翼には16002と表記されていた。



「ロバート・S・ジョンソン」

彼は1920年、オクラホマ州タルサで生まれ1941年、陸軍へ入隊した。
1943年1月、彼は第61戦闘飛行隊に配属される。
初陣は同年4月であった。

多くの場合、トップエースの陰にはライバルがある。
ライバルがいるからこそトップエースは頑張りトップの座に辿り着けたのだろう。
ただしトップとライバルの関係は民族によって大きな差がある。
ヒーローを好む米国やロシアでは顕著だが協調性を尊ぶ日本や英国ではさほどではない。

そして米陸軍航空隊では太平洋戦域トップだったボングのライバルはマクガイアであり欧州戦域トップのガブレスキーのライバルは彼であった。
だが彼とマクガイアは双方とも2位ながらプロセスが大きく異なっていた。
マクガイアはずっとトップを狙う2位でありトップになれずに散った。
一方、彼はガブレスキーより早く1943年6月13日に初撃墜を果たし常に先を行った。

彼は1943年末にスコア10を挙げ欧州の米軍トップに躍り出た。
この時点でのガブレスキーはスコア8である。
スコアはどんどん伸び1944年4月13日には25となった。

ここで重要なのは米軍にとって「26」が重要な数字だと言う事である。
第一次世界大戦に従軍した米軍パイロットのトップエースはリッケンバッカーでスコアは26であった。
つまり27に達すれば記録更新であり新たな撃墜王の誕生を意味する。

それは戦意昂揚に大きな影響を及ぼす反面、英雄が戦場で非業の死を遂げたとあらば国民の戦意は阻喪し国家の戦争指導に図り知れない打撃となる。
この「スコア27」を最初に突破したのは太平洋戦域のボングで4月12日であった。
ついで5月8日に彼が続く。

双方とも最終回の空戦では2機撃墜したのでスコアは同着1位の28となった。
かくして両名は目出度く本国帰還を命ぜられリッケンバッカーとの面会や戦時国債の宣伝活動などにかり出され一躍、時の人となったのである。
なお、彼のスコアが28になった時、ガブレスキーのスコアはまだ19であった。

この時点で彼は同着とは言いながら全米トップだったのだが本国に滞在するうちにトップの座は大きく移り変わっていった。
まずボングが前線に戻りスコアをどんどん伸ばしていった。
欧州でもガブレスキーが追い上げ7月5日には同着のスコア28となった。

ガブレスキーは7月20日に墜落し捕虜となったが彼はガブレスキーの生還を喜ぶと共にもうこれ以上追い上げてこない事を喜んだかも知れない。
だが、これで話は終わらなかった。
戦後、戦果の調査が行われた結果、彼のスコアが1減らされて27となりガブレスキーが欧州トップとなってしまったのである。

更に太平洋では海軍のマッキャンベルがスコア34、海兵隊のボイントンがスコア28で彼を上回った。
かくして彼は全米で6位、欧州では2位に転落してしまったのである。
よって現在、彼はあまり有名ではない。

パイロットとしての腕は非常に優秀であった。
出撃回数は僅か89回(一説では91回)に過ぎず、それにも関わらずスコアを28まで伸ばしたのは驚異的(世界トップのハルトマンがスコア28に達したのは194回目の出撃であった)と言えよう。
「トップの座」は結果であり勝利の女神は「意外な人物」に微笑む。 

[4210] ツイッター 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/25(Thu) 13:21
ツイッターなるものを始めたよ。
https://twitter.com/GS_abetakashi

[4209] ガ島補給戦27 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/25(Thu) 10:52
ほぼ不可能な舟艇による撤収だがいざと言う場合に備え検討が始まった。
まず大事なのは作戦計画と後衛部隊の人員数と必要な舟艇数である。
大発でブーゲンビルまで航海するのは絶望的なのでラッセル諸島に前進基地を設営しそこからは駆逐艦で輸送する事が決定された。
戦史叢書28巻545頁によると2月3日に第17軍が後衛部隊に指示した舟艇撤収計画は人員約1300名、必要舟艇は大発15を目途としていた。
これを受け松田大佐は松山中佐と検討し2月5日夜、第8方面軍参謀長に返電を送った。

その大まかな内容は以下である。
1.第2次の未乗船者や予定外の人員が増え撤収人員数が約2000名に増加する見込みである事。
2.現在の保有数は大発7、小発8、折畳艇20である事。
3.敵の銃爆撃が激しく7日までに大発は1〜2、小発は2〜3まで減少しそうである事。
4.大発以外の舟艇は外洋航行が殆ど不可能である事。
5.駆逐艦を最低3隻、できれば4隻送ってほしい事。
6.舟艇不足なので駆逐艦1隻につき大発1、小発2を用意してほしい事。
などである。

それでは大発の人員搭載量はどれくらいなのであろうか?
各資料で70〜80名となっているが70名としているのは陸戦史集「サイパン島作戦」と「マレー作戦」、戦史叢書1巻、大内健二著「輸送船入門」、世界の艦船506号、遠藤昭著「陸軍船舶戦争」などである。
80名としているのは亀井宏著「ガダルカナル戦記」、戦史叢書14巻、加登川幸太郎著「三八式歩兵銃」だ。

ついでに小発の搭載能力も記しておくと20名としているのが「世界の艦船」506号、30名としているのが戦史叢書1巻、戦史叢書14巻、「ガダルカナル戦記」で35名が「サイパン島作戦」と「マレー作戦」、40名が「輸送船入門」と「陸軍船舶戦争」となる。
この様に資料によってかなりの相違がある。
これは大発や小発に様々なサブタイプがある事と「どの様な状態の兵員を基準とするか?」で変化する為と考えられる。

1300名を大発15隻で運ぶとなると1隻当たり86名となる。
80名を若干オーバーしているが装備を失い痩せ細った将兵だから15隻で足りると第17軍司令部は判断したのかも知れない。
だが残存大発が1〜2隻では2000名のうち86〜192名だけしか撤収できず、この返電は「舟艇による撤収は不可能」と言ってるのと同じである。

ところで2月5日時点で後衛部隊本部は舟艇の現状保有数や人員数を正確には把握していなかったらしい。
それはこの後、かなり変動していくからだ。
そもそも、ガ島にどれだけの舟艇が送り込まれどれだけ損耗したのだろうか?
その数があまりにも多く実数は杳として判らない。
後方から多数の舟艇が輸送船、哨戒艇、敷設艦、水上機母艦に載ってやってきた。
駆逐艦に曳航されて来た大発もたくさんある。
自力でガ島に来た舟艇も若干はあった。

更に第1次、2次撤収に輸送任務で参加した駆逐艦も大発を各1隻曳航して来た。
後には改装によって後甲板へ大発を搭載出来る駆逐艦も現れたがこの時点では曳航するしか方法が無かった。
だが小発なら駆逐艦でも甲板に搭載できた。
撤収作戦で駆逐艦がどれだけの小発を搭載してきたか明確な総数は判らないが文脈からすれば輸送任務の駆逐艦1隻につき小発は約2隻と推定される。
加えて「陸軍船舶戦争」245頁には輸送任務の駆逐艦が折畳艇10隻を搭載したと記述している。
撤収任務の帰途は可能な限り全力で退避するので大発を曳航するとは考えられず揚収に時間のかかる小発、折畳艇も全てガ島へ残置したであろう。

だとすれば後衛部隊の舟艇保有数はかなりの数になるはずだ。
だが前述の様に2月5日の時点で大発7、小発8、折畳艇20に過ぎず7日までに大発1〜2、小発2〜3まで減少しそうであると報告している。
更に後衛部隊では保有舟艇だけだと約500名しか輸送できないから駆逐艦2隻(前述の3〜4隻と矛盾する)に大発2、小発4を載せてきて欲しいと言っており、これで400名の輸送を当て込んでいる。
大発の搭載能力を80名、小発を40名とすれば合計320名なので400名だと前述の如くオーバーする。
後衛部隊保有の舟艇数は恐らく大発2、小発3及び折畳艇と考えられる。

明けて6日の1535、第17軍参謀長から7日の第3次撤収は時間節約の為、後衛部隊は全舟艇に乗艇し駆逐艦到着時まで沖で待機せよとの命令が届く。
この時点で掌握していた舟艇数では、とても全員を輸送できない。
松田大佐は舟艇を往復させて輸送する為、駆逐艦を1時間、入泊させて欲しいと要求する。
そして1600、松田大佐は撤収命令を隷下各部隊に下達するがこの時点で人員は1577名に増えており舟艇数は大発6、小発6になっている。
よって後衛部隊を二分し最初に907名、2回目で670名を輸送する事にした。
ちなみに矢野大隊は1回目で300名、2回目で100名撤収する予定であった。
ただし駆逐艦が2回目まで待ってくれない場合、2回目のグループはラッセル諸島まで自力で航海せねばならなくなり、その覚悟をしていた。
だから矢野大隊の様に隷下諸部隊は全て1回目と2回目に二分されたのである。

だがその後、鬼塚部隊(迫撃砲第3大隊)や森玉部隊(速射砲第6大隊)など第2次撤収に遅れた部隊が続々と到着し人員数はどんどん増えていった。
ただしどういう訳か舟艇数も大発15隻、小発11隻に増えた。
恐らく掌握していなかった舟艇が続々と見つかったのだろう。
当初から多数の大発が存在していた事を後衛部隊が隠していたとも考えられるが・・・
なにしろ松田大佐は米軍の砲撃が相当激しくなっても海軍が撤収作戦を中止しないように「平穏ニシテ変化ナシ」とか「戦場静穏ナリ」とか後方司令部に報告(戦史叢書に記載されている松田大佐の述懐)しているくらいなのである。
真相は判らない。
さて、これだけの舟艇数があれば大発80名、小発40名のカタログデータで考えても1640名、若干の積載オーバーや折畳艇を加味すれば約2000名での一挙、撤収が可能となる。
よって松田大佐は急遽、一挙撤収に方針を変更した。

なお、後衛部隊の指揮官は松田大佐が任命されたが山本築郎少佐の回想録によると当初は前述の第2歩兵団長が予定されていたらしい。
第2師団の参謀であった松本博中佐の回想録でも同様である。
だが第2師団側が任命を拒否した為、1月23日になってから急遽、松田大佐が選ばれた。
ちなみに山本少佐は後衛部隊の参謀として第3次で撤収している。
山本少佐は戦後、陸自に入って陸将補まで昇進し第1通信団長になった。   (続く) 

[4208] エース列伝(8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/23(Tue) 19:50
「トーマス・B・マクガイア・Jr」

彼の身長は169センチで体重は65キロ、米国人としてはかなり小柄である。
加えて胃も弱くどちらかと言えば虚弱であった。
それにも関わらず彼は無理をして戦うタイプであまり編隊空戦を好まなかった。

ルソンで日本のベテランエースと引分けた際には56発被弾しても食い下がっている。
だが猪突猛進型ではない。
理論派で1944年5月には「西南太平洋に於ける戦闘戦術」と言う論文を提出した。

性格は偏屈ではなく酒好きで人付き合いも良く時として饒舌であった。
生まれはニュージャージー州だがフロリダ州で育ちジョージア工科大を卒業した。
入隊は1941年7月12日で翌年2月、少尉に任官している。

当初、彼はアラスカ及びアリューシャンに駐屯する第54戦闘大隊に所属しP39に搭乗していた。
その後、1943年3月に濠州で新編成された第431戦闘飛行隊へ転属している。
ただし、すぐには戦功に恵まれず初撃墜は同年8月18日まで遅れた。

後に全米軍最多エースとなるボングはこの時点で既に16機を撃墜している。
即ち、その差は歴然としており、まだ誰も彼がボングのライバルとなる事など予想もしていなかった。
しかし彼は年末までにスコアを16まで伸ばす。

もし彼が1943年10月のサラモア攻撃で撃墜されなければもっとスコアは伸びていただろう。
負傷した彼は潜水艦(一説によれば魚雷艇)に救助され6週間療養せねばならなかった。
この時点でボングのスコアは21である。

以後、両者は熾烈な撃墜競争を繰り広げ彼はスコアに拘泥していく。
1944年12月17日、スコア40でボングが帰国し彼にチャンスが訪れる。
スコア31だった彼は12月25日に3機、26日には4機を落とし、あと2機でトップとタイに持ち込む。

その翌日、彼に休養命令が下され飛行禁止となった。
休養命令が解除されたのは翌年1月7日の事である。
そして彼はこの日、ネグロスへの出撃で撃墜され全米軍2位のまま帰らぬ人となった。

彼の最終階級は少佐で通称はトミーであった。
1944年12月に彼が乗機であったP38は全面無塗装の銀色で機番は131である。
機首と胴体側面に「赤鬼」の部隊マークがあり機首側面に「PUDGY(V)」の文字が描かれていた。



「フランシス・S・ガブレスキー」

彼は1919年1月28日生まれの米陸軍戦闘機パイロットである。
出生地はペンシルバニア州オイルシティで通称はギャビーであった。
彼はノートルダム大学の医学部に進学したが1940年7月に中退し陸軍へ入隊する。

そしてパークス飛行学校で訓練を受け1941年3月、陸軍少尉に任官した。
彼の最初の任地はハワイのホイラー基地、配属部隊はP36装備の第45戦闘飛行隊であった。
ここで彼は真珠湾奇襲を受ける。

ついで1942年9月、彼は大尉に昇進して本国へ帰還した。
10月には第8空軍の連絡将校として渡英し英軍の第305飛行隊に配属される。
彼はこの部隊でスピットファイアに搭乗して初陣を迎え20回の出撃を重ねる。

更に1943年2月27日、彼は米軍の第61戦闘飛行隊に転属し乗機はP47に変わる。
初撃墜は1943年8月24日であった。
彼は射撃が上手く射弾数が少ないのが特徴であった。

加えて彼は運動性の良い機体を好んだ。
そこで彼は機体を軽くして運動性を向上させる為に半分しか弾薬を積まなかった。
通常は弾道確認の為に使われる曳光弾すら一切、積んでいない。

こうして彼は次々にスコアを挙げていったのだが同じ部隊に米軍の欧州トップであるジョンソンがいて常に後塵を拝せざるを得なかった。
1944年5月、このジョンソンが第一次大戦時のトップであったリッケンバッカーのスコア26を更新し帰国する事になる。
チャンスが訪れた。

彼はめきめきと記録を伸ばし1944年7月5日には同着1位の28にスコアが伸びる。
だが好事魔多し。
7月20日の193回目出撃で墜落し捕虜となってしまう。

ところがなんと、戦後の調査でジョンソンのスコアが1減らされる事になり米陸軍航空隊欧州トップの座は彼の物となる。
更に彼は朝鮮戦争でF86に搭乗して6.5機を撃墜しスコアは34.5に増える。
ここで海軍のマッキャンベルを抜き全米3位の座に着く。

既に1位のボングは終戦を待たずに事故死、2位のマクガイアは戦死していたので記録は塗り替えられぬまま、彼は長らく存命トップエース(2002年まで)だった。
1944年7月に彼が乗機としていたP47はオーシャングレーとミディアムグリーンの斑迷彩で下面はニュートラルグレーで胴体に白帯が3本、描かれている。
コードレターはHVAで尾翼には226418と表記されていた。
彼は甚だゴツい顔のエースであった。 

[4207] 現状認識 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/23(Tue) 15:28
ニュースによると自衛隊機が米軍機への防護任務を実施したそうだ。
同盟国なんだし近隣地域での話なんだから当然と思う。
不思議なのは護衛じゃなく「防護」だと言う事だ。
最近は「警護」なんて単語も使われる。
これらは自衛隊法やら何やらで定義されているそうだから実質的には護衛であっても警護やら防護になるらしい。

なぜこんなややこしい事になってしまったんだろう。
僕はこれらの根っこに「終戦」と言う言葉があるように思う。
だってどう考えても「敗戦」だよ。
もうちょっとマシな状況で講和してたら終戦でも良かったろうけどね。

負けたんだから占領されたんだし占領されてるんだから戦勝国のやる事に文句は言えない。
そうした状況下で制定された憲法なんだから不備だらけなのは当たり前で不備は改正されねばならないだろう。
右の方々はすぐに自存自衛と仰るが自存自衛できないから米国に負けたのである。
更に左の方々はすぐ非武装中立と仰るが武装があるからこそ日本の独立は守られてきたのだ。

サンフランシスコ条約についての誤解も甚だしい。
この条約によって日本は主権を回復したんだけど「大日本帝国と同等に戻った」のではない。
「何されても文句は言えない占領状態」から「米国の属国的立場だけど一応は独立国」に昇格しただけなのだ。

まあ、それから色々あって現在は「米国にとって格下の同盟国」にまで成り上がった。
これは大した事だ。
だから「米国とは対等だ」なんて自惚れちゃいけないと思う。
国内に米国の駐留軍がいるのに対等なんてありえない。

日米安保条約は軍事同盟だし同盟国軍が相互に護衛するのは当然なのだ。
もし相互に「あんたとは関係ないよ」と言ってたら同盟じゃなくなる。
こうした勘違いの根底に「敗戦を終戦と言い換えた事」があると僕は思うのだ。

ちなみに言い換えを発案したのは終戦時に外務省の政務局長だった安東義良氏である。
彼がテレビのインタビューで語った「言い換えた理由」は軍部と国民をごまかす為だったそうで自ら「言葉の遊戯」と仰っている。
だってそうでしょう?
国連で定めている「敗戦国条項」だって終戦国条項じゃないんだから。

負けたくせに「負けたんじゃない」って言ってるから「強い国と戦争したら負ける。負けたら酷い目に遭う。」って事が現状認識できないのだ。
「なぜ米国の言う事を聞かなくちゃいかんのだ?」と思った時、「守って貰ってるんだから仕方ないよ」ではなく「負けたんだからしょうがねえや」って思うべきなのだ。
負けたって事が判らないからサンフランシスコ条約で簡単に「米国と対等関係に戻った」なんて夢を信じられるのだ。
戦勝国が簡単に勝利で得た利益を放棄する訳ないでしょ。
もし日本が戦勝国で利益を放棄したら民衆に石を投げられるよ。
日露戦争のポーツマス会議の時みたいにさ。

いや、僕は安東義良氏が終戦と言う言葉を発案した事を責めているんじゃないよ。
厚木航空隊事件やら宮城事件やら色々と物騒な騒ぎがあったし「とりあえずここは穏便にすませよう」としたのは判る。
立派な才覚とすら言えよう。
だけどそれからもう70年が過ぎた。

そろそろ、ちゃんと現状認識しようじゃないか。
でないと変な言葉がどんどん増殖していくよ。
全滅を玉砕と言ったり陸軍を陸自と言ったり護衛を防護と言ったり大佐を1佐と言ったり歩兵科を普通科と言ったりヘリ空母を護衛艦と言ったりするのどうもいただけない。

今は戦車って呼んでるけど自衛隊創設期は特車(パトレイバーじゃないよ)って呼んでたんだよ。
砲兵が特科のままなのが「戦」より「兵」の字に対するアレルギーが強いからなんだろうね。
そうやって少しずつは良い方向に進んで来た部分もある。
単に言葉を正しくするのではなく現状認識する必要があると言う事を多くの方に是非、御理解頂きたい。
右寄りの方にも左寄りの方にも。 

[4206] エース列伝(7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/22(Mon) 18:38
「ジョン・ランダル・ダニエル・ブラハム」

第二次世界大戦で生態ピラミッドの底辺に位置するのは戦略爆撃機の猛威に晒される一般国民であろう。
特に英軍の戦略爆撃機は夜間爆撃でドイツ全土を焦土と化した。
そして英軍戦略爆撃機にとって最大の脅威となったのがドイツ夜間戦闘機である。

ドイツ夜間戦闘機は多数の英軍戦略爆撃機を撃墜し幾多の夜戦エースを生み出した。
だがドイツ夜間戦闘機にも恐るべき天敵があった。
英軍戦略爆撃機の護衛として襲来する英軍夜間戦闘機である。

ドイツ軍夜間戦闘機は防空戦が主任務なのでスコアが多くてもその殆どは英軍戦略爆撃機であった。
だが英軍夜間戦闘機のスコアの場合、かなりの部分をドイツ夜間戦闘機が占める。
ドイツ夜間戦闘機のトップエースはシュナウファーでスコア121の全てが英軍戦略爆撃機だった。

それに比べ英軍夜間戦闘機トップのブラハムが対独戦略爆撃の激化した1943年以降に夜間撃墜した7機は全てドイツ夜間戦闘機であった。
その中にはスコア55のエースであるディートル大尉(ブラハムの撃墜機と衝突して戦死)やスコア54のフィンケ曹長(生還)、スコア53のガイガー大尉(戦死)が含まれる。
この3名はドイツ夜戦エースの17〜19位でありスコア総計は162におよぶ。
それを次から次に倒すのだから英軍夜間戦闘機の強さが伺い知れよう。

言い換えるならば「英軍戦略爆撃機はドイツ夜間戦闘機の獲物」だが「ドイツ夜間戦闘機は英軍夜間戦闘機の獲物」なのだ。
他の4機はそれほど高名なエース(それでもクラフト軍曹はスコア15)ではなかった。
だが「高名なエースになる前」にブラハムが撃墜してしまったのである。
ちなみに1943年8月18日にクラフト軍曹とフィンケ曹長がまとめて撃墜された。
その1ヶ月少し後の9月28日にディートル大尉、ついで二日後にガイガー大尉が撃墜されている。

1920年4月6日、ブラハムは牧師の息子として英国サマセット州ホルコムで生まれた。
当初、彼は警察に就職したが1937年12月、空軍へ入隊する。
1938年12月に訓練課程を修了した彼は第29飛行隊へ配属された。
この部隊にはジョンと言う名前のパイロットが既に多数いた為、彼の通称はくじ引きでボブと決められた。

開戦時の乗機はブレニム夜戦で初撃墜は1940年8月24日である。
ただし翌月から乗機はボーファイター夜戦に代わった。
彼は1941年末までにスコア7にまで伸ばし後方勤務へ転属している。

彼が少佐に昇進し原隊へ復帰したのは1942年夏である。
更に11月、彼は中佐へ昇進し22歳の若さで第141飛行隊指揮官に抜擢される。
そして1943年9月30日にはスコアが20となったが後方勤務を命ぜられ再び前線を離れる事となった。

1944年2月、第2戦術空軍の参謀となった彼は本来の職務から逸脱し昼間、モスキートに搭乗して出撃を繰り返しスコアを29まで伸ばす。
なお彼のスコアのうち10は昼間の空戦によるがその内、9はこの期間に集中している。
その理由は参謀が理由をこじつけて出撃するには敵味方識別などで飛行管制の難しい夜間は無理だったからである

彼は並々ならぬ操縦能力を持っており最後に撃墜したのは単発のFw190であった。
ただし彼は6月25日にデンマーク上空の空戦で撃墜され終戦まで捕虜として過ごさねばならなくなってしまった。
戦後は1952年5月にカナダ空軍へ移籍し1968年1月に退役した。



「リチャード・ジョン・コーク」

ディッキーの通称で知られるコーク中佐は英海軍2位のエースである。
彼は1917年4月4日、ロンドンで生まれ1939年5月、英海軍少尉に任官した。
更に翌年3月、中尉に昇進し7月1日からは英本土航空戦に際しパイロット不足に悩む英空軍へ派遣される。

彼が配属されたのは片足の撃墜王として知られるバーダー中佐が指揮する第242飛行隊で彼は隊長機の列機を務めた。
この戦いで彼が挙げたスコアは5機である。
英本土航空戦後、海軍に戻った彼は空母フューリアスの第880飛行隊に配属され北大西洋及びバレンツ海での作戦に従事する。

ついで第880飛行隊は1941年11月10日に就役した新鋭装甲空母インドミタブルに移る。
そしてインドミタブルは1942年5月にビシーフランスが領有するマダガスカル攻略(アイアンクラッド作戦)に向かった。
インドミタブルは史上初の装甲空母として名高いイラストリアス型の改良型でこれまで一段だった格納庫を二段化し搭載機を大幅に増大させていた。

更にインドミタブルは同年8月、地中海でマルタ島への増援(ペデスタル作戦)に投入された。
ここで彼はシーハリケーンに搭乗し一日に5機を撃墜する。
この作戦中の8月12日、インドミタブルは爆撃を受け大きな損傷を蒙ったが装甲空母なので沈没を免れている。

マルタ島の戦いは地中海全域の帰趨を左右する重要な戦いであった。
同地に所在する英航空隊の制空権が北アフリカの枢軸軍補給線に重大な脅威を与え続けたからである。
なお同年9月、彼は少佐に昇進した。

その後、彼は中佐に昇進し1944年に空母イラストリアスの第15航空団司令(乗機はF4U)として太平洋戦域に派遣される。
だが8月14日、セイロン島で航空機の接触事故により殉職した。
最終スコアは13である。 

[4205] ガ島補給戦26 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/21(Sun) 17:52
ここで目を矢野大隊から撤収作戦全般に転じよう。
第1次及び第2次撤収はカミンボ及びエスペランスから駆逐艦による夜間撤収が前提であった。
よって成否の可能性はともかく予定通りに実施され成功した。

だが第3次撤収については陸海軍の思惑で差があり紆余曲折している。
まず成否だが「第17軍及び第2、38師団の撤収を援護する為に後衛部隊が編成されたが後衛部隊の撤収は誰が援護するのか?」と言う問題がある。
次に海軍では第1次、2次はうまくいっても第3次は難しいから駆逐艦を出したくないと言う思惑もあった。

陸軍としても楽観視はしておらず第3次撤収は大いに困難と判断していた。
よって「後衛部隊が全滅する公算は大」としていたのは同じである。
ただし陸軍は「出来うる限りの手段を尽くしたい」と考えていた。

そこで陸軍は第1次の際、大本営から派遣されてきた井本参謀を第38師団と共に率先して撤収させた。
すぐに航空機でラバウルに送り海軍と第3次撤収を協議する為である。
井本参謀の回想録には2月2日のこの協議で海軍側は駆逐艦による撤収の中止を提案してきたと記述されている。

戦史叢書83巻は海軍側の見解によるガ島戦を軸としている。
その555頁では「松田大佐の指揮する矢野大隊外4部隊(約2000名)はルッセル諸島に舟艇機動する予定であった」と記述している。
駆逐艦を出して貰えないのなら後衛部隊は舟艇により独力で撤収するしかない。
よって同日夜、井本参謀(戦後、陸将)と杉田参謀(戦後、陸幕長)は海軍側を訪問し駆逐艦による第3次撤収を要請した。

戦史叢書28巻539頁によると翌日の2月3日、陸軍の第8方面軍参謀長がガダルカナルの現地部隊に対し第3次は駆逐艦2隻による撤収と連絡している。
だが2月4日、海軍は再び駆逐艦の派遣中止を提案し論議が蒸し返された。
論議の末、結局は派遣する事になったが陸軍側に相当の不信感が残った。

更に2月7日の第3次撤収当日、海軍側は戦闘機の上空直衛が困難な為、駆逐艦の派遣中止を申し入れてきた。
これも折衝により解決したが第3次撤収部隊の作戦会議に於いて第8艦隊参謀長が「敵艦隊が出現した場合は撤収を中止して迎撃に向かう」と決定した。
米艦隊はしょっちゅう、ガ島周辺を遊弋しているのだから、これは事実上の撤収作戦中止に等しい。

そこで陸軍側は撤収の優先を要請し最終的には海軍側も同意するに至った。
ちなみに戦史叢書第28巻556頁によると第8艦隊参謀長は「第1次、第2次の撤収に於いてガ島の殆ど全部を撤収したのは大成功であり第3次はなし得たら実施するようになっている」とも述べたらしい。
こうした次第で陸軍側は第3次撤収で駆逐艦を出して貰えるのか不安であった。

舟艇でガ島に渡るのが困難なのは川口支隊の第124連隊がガ島に向かったアリ輸送で失敗した事により明白であった。
その時から状況は遥かに悪化している。
洋上の舟艇が夜間は敵の魚雷艇と駆逐艦、昼間は航空機によって壊滅するのは必至である。
それでも海軍が駆逐艦を出してくれないのなら藁にもすがる思いで舟艇による撤収を実施せねばならない。
陸軍側はこれを予測し第1次撤収の際、船舶工兵第3連隊長の松山中佐を駆逐艦でガ島に送り込んだ。
ただし松山中佐は現状での舟艇による撤収について「自信はありません」と後に松田大佐に告げている。
その理由のひとつとして大発の操作員が速成教育の臨時要員だった事が挙げられる。    (続く) 


[4204] エース列伝(6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/20(Sat) 18:56
「小高登貫」

彼は大戦後半期に活躍した日本海軍のエースである。
1923年2月26日に長野県で生まれた彼は1941年6月、横須賀海兵団へ入営した。
整備兵の彼はパイロットを志願し1942年2月、予科練の丙飛10期に合格する。
土浦航空隊で初等操縦教育を受けた彼は1943年1月、飛練25期を修了、大分空で実用機訓練を習得し零戦を装備するセレベスの202空へ配属される。

202空は開戦時に破竹の大戦果を挙げた3空を改称した部隊で濠州西部の連合軍と対峙しており蘭印油田などの資源地帯防空を主任務としていた。
彼の初撃墜は1943年2月中旬で相手はB24であった。
ついで1943年6月にはクーパン飛行場へ進出し数次に渡るポートダーウィン攻撃に参加、スピットファイア9機を撃墜する。

更に1943年8月には濠州東部及びソロモンの連合軍と対峙するラバウルの204空へ転属、約1ヶ月の間に12機を撃墜、以降もスコアを大きく伸ばした。
特に翌年1月17日の迎撃戦ではP38を3機撃墜して司令官から清酒3本を授与され、この時の映像はニュース映画にも写されている。
1944年2月5日、トラックへ転出するがその直後に発生した2月17日のトラック空襲では1日の内に4回も出撃する。
そして空襲直後、2式大艇で内地へ帰還した。

帰還後、木更津の201空分遣隊へ配属され2飛曹に昇進、中島飛行機の工場で零戦の受領テストに従事する。
201空は陸攻を主力とする千歳空の戦闘機隊を基幹として1942年12月1日にマーシャル諸島で編成された戦闘機部隊である。
当初、201空はマーシャル諸島の防空を担任していたが1943年7月からは南東方面へ派遣されラバウルやブインで戦い甚大な損害を受けた。
そこで1944年1月に再編成する為、マリアナ諸島やパラオへ移動したのだがここで米空母機動部隊の空襲を受け壊滅的な打撃を蒙る。
やむなく内地の分遣隊と各地に残存する搭乗員を集めセブとダバオで再建が始められた。

彼は5月中旬、セブへ進出し6月の「あ号作戦」ではペリリュー、ヤップ、ダバオを転戦する。
マラリアを発病しながらも彼はフィリピン各地でレイテ航空戦を戦い12月上旬、内地へ帰還し教員として谷田部空へ配属された。
ただし教員とは言いながら防空戦にも従事しており1945年2月16日にはF6Fを2機撃墜している。
更に2月末には紫電改を装備する松山の343空(剣部隊)へ転属となり1945年6月には上飛曹へ昇進した。

この頃の彼はハンサムでイナセなタイプでありながら陸軍の憲兵や海軍の巡邏下士官と喧嘩騒動を起こす程の暴れ者でもあった。
通称は「トッカン兵曹」である。
スコアは自称だが105機(協同撃墜を含む)に及ぶ。
戦後はオートバイ店を経営した。



「南郷茂章」

「日本海軍航空の父」と呼ばれた山本五十六提督の口癖は「パイロットであるうちはできるだけ結婚するな。」であった。
その理由は航空科学技術の未熟な時代にあっては航空事故が多く、平時であっても死亡率が高かったからである。
不幸な境遇となる妻子を増やすより独身であった方が良いとの考えであった。
その山本提督が空母赤城を旗艦とする第1航空戦隊の司令官であった頃、その薫陶を受け独身主義を実践した若い戦闘機乗りの海軍士官があった。

1906年7月、江田島で出生した彼は1924年、海兵55期へ入校した。
ついで1932年11月には第22期飛行学生を修了し館山航空隊へ配属される。
更に1933年4月、空母赤城乗組を命ぜられ同年11月には大尉へ昇進する。

1934年11月には横須賀航空隊に転属するが長くは在任せず、翌年2月には英大使館付武官補佐官として渡英した。
大使館勤務は海軍士官の花道であったが中でも米英大使館はエリート中のエリートが進む道であった。
2年後に帰国した彼は1937年10月、中国大陸で戦う13空に配属され出征する。
彼は前線で初陣を迎え1937年12月、新造空母蒼龍へ転属した。

蒼龍で訓練を重ねた後の翌年4月、蒼龍戦闘機隊は母艦を離れ中国の南京へ派遣される。
蒼龍戦闘機隊は同地で防空及び地上支援などに従事し激戦を繰り広げる。
更に6月、彼は新設の15空へ転属する。

だが7月18日、敵戦闘機と空中衝突して彼は戦死(死後、少佐に昇進)を遂げる。
彼のスコアは僅か8機に過ぎないが温厚かつ闘志溢れる名指揮官であった。
部下の乗機が不調であった時には自分の乗機と替えて出撃したとも伝えられる。

また、煙草は吸わず酒もあまり呑まないが付き合いはよかったと戦友は語る。
加えて「物に動ぜずいつも淡々としており口笛を吹きながら出撃する程、精神的余裕があった」とも言われる。
なお、山本提督は後に連合艦隊司令長官となり前線視察の際に撃墜され戦死した。
その葬儀に弔問した彼の父は「せがれは長官に鍛えられ心おきなく戦って、良い死に所を得ました。父親として私も満足です。」と連合艦隊司令長官の遺族に語ったと言う。
彼の父もまた日本海軍の元提督であった。

1938年7月に彼が乗機としていた96式艦戦の機体色は濃緑色と褐色の迷彩で下面は明灰白色、胴体に白色の帯が1本あった。
尾翼のナンバーは10・118である。
彼の弟もまた陸軍航空隊のエースとして名高い。 

[4203] エース列伝(5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/19(Fri) 18:47
「ハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン」

1813年4月28日、ロシアが誇る不屈の名将クツーゾフ元帥はポーランドで病没した。
代わりにロシア軍の総指揮官となったのは帰化したドイツ系貴族のヴィトゲンシュタイン大将である。
ナポレオンはモスクワ遠征の恥辱をそそぐ為、リュッツェンやバウツェンでロシア軍を攻撃した。
だがヴィトゲンシュタインは巧みな用兵でこれをかわし虎口を逃れた。

その末裔が誰であろう大戦中のドイツ夜戦エース第3位に輝くハインリヒ・プリンツ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン少佐である。
1916年8月14日生まれの彼は1937年4月、陸軍に入隊した。
そして夏にはドイツ空軍へ転籍し10月にはブラウンシュヴァイク飛行学校へ入校した。

かくして爆撃機搭乗員となった彼は第54爆撃航空団へ配属され大戦勃発を迎える。
ついで第1爆撃航空団に転属して英本土航空戦に参加した後、飛行学校で夜間飛行の専門訓練を受け1941年3月、部隊へ戻った。
バルバロッサ作戦で彼は北方地域での飛行場爆撃に奔走する。

彼は爆撃機搭乗員として150回出撃したが1941年末、夜戦搭乗員へ転向した。
西部戦線の第2夜戦航空団に配属された彼は1942年5月6日に初撃墜を記録し以降、10月までにスコアを22へ伸ばした。
ついで12月1日、第5夜戦航空団第4飛行隊長に昇進し活躍の場を東部戦線に移す。

更に1943年3月、第4飛行隊はフランスに戻り西部戦線の防空に従事した。
だが8月には第100夜戦航空団第1飛行隊と改名し再度、東部戦線に移った。
この様に彼は東部戦線での活躍が多く東部戦線だけで23機を撃墜している。

戦略爆撃機を相手とする西部戦線と違い東部戦線での相手は戦術爆撃機(安眠妨害爆撃)や輸送機なので戦い方が大きく異なる。
1943年8月、彼は東部戦線に別れを告げ第3夜戦航空団第2飛行隊長に転属した。
更に12月1日には第2夜戦航空団第2飛行隊長に転属し翌年1月1日には第2夜戦航空団司令に昇進する。

この間にスコアは鰻登りに上昇し68を数えた。
しかし1月21日の夜、5機の英重爆を撃墜した後、英のモスキート夜戦に撃墜され愛機と運命を共にする。
戦闘機搭乗員としての出撃回数は170回、最終スコアは83であった。

彼は指揮官としては問題が多かった。
だが戦闘機搭乗員としては勇敢で判断は的確、射撃も上手かった。
彼は元々が爆撃機搭乗員だったのでBf110夜間戦闘機を嫌い爆撃機を改造したJu88夜間戦闘機を好んだ。



「ギュンター・ラル」

彼は陽気なババリア人である。
よって諦めたり挫けたりしない。
天性の楽天家であるから窮地に追い込まれても切り抜けるし負傷しても回復する。
ドイツが敗北しても悲嘆にくれず、新生ドイツ連邦空軍に入隊しパイロットになった。

彼は中流階級に属する商人の家庭で生まれ育ち1936年、陸軍士官学校に入校した。
だがここで彼は空軍から転向してきた友人と知り合いパイロット志望に方針変更する。
翌年、あらためて空軍士官学校へ入校し1939年末、第52戦闘航空団に配属された。

以降、哨戒飛行に明け暮れるがなかなか会敵の機会に恵まれず初撃墜を果たしたのは1940年5月12日になってからであった。
それから彼はスコアを伸ばし続け英本土航空戦時には第52戦闘航空団第3飛行大隊第8中隊長に任命される。
スコアは更に伸び1941年11月26日には36機に達した。

だがここで彼は大きな災厄に見舞われた。
ロシア南部で撃墜された彼は背骨を3箇所骨折し陸軍病院での療養を余儀なくされた。
ただしそれでも彼は悲観したりしない。

空軍の病院なら飛行不適の診断が下される重傷だったが彼は上手く病院を言いくるめて原隊復帰し、入院中に知り合った女医と結婚もした。
前線に戻ってからは更にスコアを挙げ1942年11月には101機を達成している。
1943年4月、彼は第52戦闘航空団第3飛行大隊長に任命された。

ついで8月29日には200機、11月28日には250機とスコアは鰻昇りに増えた。
1944年3月にはドイツ本国防空を担当する第11航空団第2飛行大隊長に転属するが5月12日に2度目の災厄が彼を襲う。
今度の負傷で彼は左手の親指を失い落下傘で脱出した。

着地した所に居合わせた農夫は彼を連合軍パイロットと疑い襲いかかろうとした。
彼は自分がドイツ軍パイロットである事を説明したがあいにくババリア訛りの方言なので言葉が通じない。
最後に彼は罵り声を上げたがこれは方言でなかったので通じ窮地を脱する事ができた。

以降、6ヶ月に渡って入院し退院後は第300航空団司令として終戦を迎えた。
スコア総数275(世界3位)、被撃墜回数8である。
出撃回数は631回とも700回以上とも800回以上とも伝えられる。

彼の特徴は類いまれな記憶力と他の追随を許さぬ見越し射撃能力と不屈の精神力にある。
これらを駆使し彼は戦後も幾たびの苦難をババリア気質で切り抜けた。
連合軍は過酷な占領政策と収容所生活をドイツ軍捕虜に与えたがドイツの科学技術を吸収する事も忘れなかった。

彼は収容所で飢餓状態となった後でジェット戦闘機の調査で英本国に連行された。
連行中は色々な尋問を受けるが食料はふんだんに与えられる。
尋問が終わると彼は再び収容所に戻され今度は体重が6キロも減った。
何度も英本国と収容所を往復し体重の増減を繰り返しながらも彼は諦めなかった。
そして彼は最終的に新生ドイツ連邦の空軍総監にまで昇りつめたのである。 

[4202] エース列伝(4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/18(Thu) 18:40
「上坊良太郎」

ある資料では彼を日本陸軍の最多スコアエース(76機)として挙げている。
だが別の資料では全く彼について触れていない。
彼は資料によって扱われ方が大きく異なるので彼の存在を知らない世の人士は多い。

彼は1934年2月に第1期少年飛行兵として入隊した。
少年飛行兵の教育課程を修了し、第64戦隊に配属された彼が迎えた初陣は1938年4月12日の帰徳攻撃である。
ただしこの攻撃で彼の個人戦果はない。

彼が大きくスコアを伸ばすのは第64戦隊がノモンハン事変に投入されてからでスコアを一気に18まで伸ばす。
この時、彼の階級は曹長であったが1940年12月、航空士官学校へ入校し翌年8月、同校を修了して少尉に昇進する。
その後、明野飛行学校教官から漢口の第33戦隊へ転属し中国戦線で活躍する。

彼は「生き残る事」を優先とするエースで編隊空戦のコンビネーションを重視した。
こうしたエースの特徴として克己心と自制心が強く精神が不安定化する事を忌避する。
1943年春に彼は航空機補充任務の為、10名余の部下と共に内地へ帰還したが、部下に休暇を与えず家族との面会を禁止した。

これは一見、非情な様であるが部下に精神的動揺を起こさせない為の阻止であったと彼は語っている。
第33戦隊は1938年に編成された伝統ある部隊で当初は中国大陸で活躍しノモンハン事変にも参戦した。
太平洋戦争では1943年10月まで中国大陸で戦い以降は仏印を経てビルマ方面で転戦している。

なお、彼は1944年2月に第33戦隊を離れシンガポールの第1野戦補充飛行隊に教官として転属した。
この部隊は搭乗員の教育訓練をするのが主任務であった。
だが戦況が逼迫するにつれ実戦へも投入される様になった。
彼は11月にB29を1式戦で迎撃するがこの時の戦果はない。
ただし2式単戦に乗機を代えてからは失速反復攻撃法を編み出し大きなスコアを挙げたと伝えられる。



「篠原弘道」

彼は1913年8月に栃木県で生まれ1931年、騎兵第27連隊へ入営した。
その後、1932年4月に騎兵として満州事変へ出征するがパイロットを志願し1933年6月、所沢飛行学校へ入校する。
そして1934年1月に飛行学校を修了し伍長へ昇進した。

配属先は1932年6月に創設された飛行第11大隊である。
後に第11戦隊となる飛行第11大隊は日本陸軍の単座戦闘機部隊としては2番目に古い伝統(最古は第1戦隊となる第1大隊)を持つ部隊であった。
それまでの各飛行連隊は戦爆偵の混成だったが、これらから戦闘機中隊を抽出して集約させたのが飛行第11大隊である。
なお、名称は後に飛行連隊、飛行戦隊へと変わっていった。

ハルピンを根拠地とする第11戦隊の初陣は1933年の熱河作戦である。
だがこの時にはまだ空戦は生起していない。
以降、1937年7月の支那事変でも出撃するが空戦は発生しなかった。
同年末から第11戦隊の装備機は新鋭の97式戦に改編される。

この間、彼は1938年末に准尉へ昇進した。
そして翌年5月、ノモンハンでの戦火が燃え広がり第11戦隊へも進出命令が下される。
当初、第11戦隊は飛行場上空の哨戒飛行をするだけだったが5月27日には敵地へ初出撃し、この時の空戦で彼は初陣ながら4機を撃墜する。

更に翌日は6機を落としスコアを10にまで伸ばす。
また6月27日には1日で11機撃墜の快挙を成し遂げる。
彼は実に優秀な射撃の名手であった。
ただし回避行動は上手くなく被弾が多かった。

7月25日には撃墜されており友軍機が敵中に着陸して彼を救出している。
だが幸運はそういつまでもは続かない。
8月27日にモホレヒ湖付近で撃墜された時、運命の女神が彼を見放してしまった。

戦死後、彼は少尉に昇進しスコアは58で止まった。
彼は生前の僅かな期間だけ世界の現役トップであったが瞬く内に消えていったのである。
1939年6月に彼が乗機としていた97式戦は明灰白色で尾翼に電光の部隊マークが表時されていた。
胴体の国籍マークは存在せずスコアマークはコックピット後方の側面に8個描かれておりカウリング先端は赤色で塗装されていた。



「穴吹智」

1942年12月16日はマグウェ基地の第50戦隊にとって厄日であった。
この日、積乱雲に飛行を阻まれた編隊は第1中隊長以下、4名の行方不明者を出した。
ついで23日、今度は英軍がブレニム爆撃機で夜間にマグウェ基地を襲ってきた。

航法飛行の困難な単座戦闘機で夜間迎撃をするのは至難の業である。
それにも関わらず彼は出撃し見事、初の夜間撃墜を果たした。
更に翌年1月26日、強敵のB24重爆の撃墜に成功する。

彼の名は全軍に広まり「ビルマの桃太郎」と呼ばれる様になる。
1943年10月8日に負傷した際にはビルマ独立の英雄アウンサン将軍が見舞いに来訪する程であった。
だが1944年2月に内地帰還を命ぜられ彼はビルマを離れる。

そしてこれは1941年7月に彼が初めて配属され2年半近く苦楽を共にした50戦隊との別れでもあった。
その後も50戦隊はビルマで戦い続けたが戦局の悪化によって序々に後方のタイや仏印へ後退せざるを得なくなり最終的には台湾で主戦を迎えるに至った。
50戦隊全体のビルマでの戦果は撃墜破237機、損害は搭乗員戦死82名である。

それはさておき、内地で彼に与えられた任務は明野飛行学校の教官であった。
だが米軍の戦略爆撃が激化し米空母機動部隊が本土近海を跳梁する様になると訓練ばかりしてもいられない。
よって彼は本土防空戦にも参加する事になり来襲するB29やF6Fと激戦を繰り広げ終戦まで戦い抜いた。

彼の得意技は上方からの急降下攻撃でスコアは39とも46とも48とも51とも53とも伝えられる。
終戦時、彼の階級はまだ曹長であったが戦後、航空自衛隊へ入隊し2佐にまで昇進した。
彼の乗機は初めて部隊に配属された頃は97式戦であった。
その後、1942年6月頃から1式戦に変わり1944年後半は4式戦に搭乗していた。
1943年1月に彼が乗機としていた1式戦は濃緑色の機体で胴体に白い電光の部隊マークと白色帯が1本マーキングされている。
また尾翼にはスコアマークが12ありラダーには「吹雪」と描かれていた。 

[4201] ボードゲーム 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/18(Thu) 15:47
僕の持ってるボードSLGをね、メルカリに出そうと思ってるんだ。
まあ、買ってくださる方がいらっしゃればの話だけどね。
出した事がないんでよく判らないんだが・・・

物はとりあえずGDW/HJの「ナルビク強襲」(未使用)や「英国本土決戦」(未使用)、「フランス崩壊」(未使用)、「バルバロッサ作戦」(未使用)の4点だよ。

売れちゃったらそれまでだからこの掲示板を見てる方で購入希望の方は弊社にメールを下さい。
それとオークション初心者なので詳しい方は是非、情報があったら御教示を願います。 

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