GS新掲示板 発言集[42](No.4101〜)



[4119] 『GS資料集』発売のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/11/14(Tue) 12:37
本日、新商品『GS資料集』を発売いたしました。
この商品は弊社デザイナー、阿部隆史が雑誌に執筆した記事、掲示板で発表した論稿、ゲームを作る際に作成した資料などをまとめたものです。
新たに画像や表類が追加されているため、読みやすくなっております。
なお本商品は弊社通信販売のみの販売となります。

GS資料集コーナーで「お試し版」として序盤部分を公開しておりますのでご覧下さい。
http://www.general-support.co.jp/column/columun.html 

[4118] 江川太郎左衛門 投稿者:K−2 投稿日:2017/11/13(Mon) 22:07
江川英龍さんの活躍は、みなもとたろうの「風雲児たち」でも詳細に語られていますね。
人格者で勤勉で博識で、しかも遠山の金さんみたいなことをリアルにやっていたとか。
伊豆沖にイギリス船がやってきて、勝手に測量を始めたときには自らイギリス船に乗り込んで
オランダ語で交渉して追い返したという逸話もあるようです。

ペリーは・・・カツラ疑惑がかなりあったようですが(笑)
イージス艦のO・H・ペリーはお兄さんの方なんですよね。
弟の方が全然知名度低くて。
世界的に、日本を開国させたのは(シーボルトのせいもあって)ロシアのプチャーチン
という風に思われているそうなので、ペリーなんて名前を知っているのは日本人くらいだとか。
しかし、捕鯨船の補給港が欲しくて日本を開国させておいて、
20世紀には日本の捕鯨を批判するんですからホントヤンキーは勝手ですね。 

[4117] 文献紹介 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/13(Mon) 11:40
今日は日本に来た外国人についての文献を幾つか紹介しよう。

E・S・モース著「日本その日その日」(講談社)
アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(岩波書店)
セーリス著「日本渡航記」(雄松堂書店)
E・ヨリッセン、松田殻一共著「フロイスの日本覚書」(中央公論)

低価格の文庫版もあるので宜しかったら是非。 

[4116] Re:[4115] [4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/12(Sun) 19:58
> アメリカ人は独善的で本当に駄目ですね。

いや、米国人が駄目なんじゃなくてペリーが駄目なんだよ。
貝塚で有名なモース教授の様に親日家で立派な米国人もいるし英国人のアーネスト・サトウなんかも本当に親日的で立派な人物だ。
ウェルニーなどのフランス人にも親日家は多い。
どの国の人にも駄目なヤツと立派な人物はいる。
だけど、どの国にも駄目なヤツと立派な人物が同率で存在する訳ではない。
残念だが駄目なヤツが多い国もまた存在する。
でも、そんな国にも「立派な人物が少しくらいはいる」って事を忘れずにいたいね。

ちょっと説教臭くてゴメン。 

[4115] Re:[4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:いそしち 投稿日:2017/11/12(Sun) 18:09
> マシュー・カルブレイス・ペリーと名乗るこの男、傲慢にして不遜、無礼で高圧的、実に嫌な奴である。

読みました。
本当に嫌なヤツですね。
ビックリしましたよ。
アメリカ人は独善的で本当に駄目ですね。 

[4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/12(Sun) 12:37
「ヤンキーが日本にやってきた!その2」

今度はもっと昔に横須賀へやってきたヤンキーの話だ。
マシュー・カルブレイス・ペリーと名乗るこの男、傲慢にして不遜、無礼で高圧的、実に嫌な奴である。
もっとも彼は横須賀に来た初めてのヤンキーではない。
既に1846年には東インド戦隊司令官のビドル提督が浦賀へ来航し幕府に外交交渉を要請していた。
ちなみにビドル提督は「横須賀に来た初めてのヤンキー」ではあるものの「横須賀に来た初めての白人」ではなかった。
ヤンキーではなくジョンブルだが17世紀初頭には既に三浦按針(ウィリアム・アダムス)が横須賀で旗本としての領地を与えられている。

なおビドル提督は傲慢でも不遜でもなく礼儀をわきまえており命令にも忠実だったので高圧的な態度は取らず幕府が鎖国を国是とする事を理解するとおとなしく退去した。
ビドル提督の後任となるシュブリック、ガイシンガー、ボーヒーズ、オーリックの諸提督も「功績目当ての無頼漢」ではなかったから来日したりしなかった。
だが1852年11月に東インド戦隊司令官へ就任した彼は違った。
1853年7月8日、彼は4隻の米東インド戦隊を引き連れて浦賀沖に来航し「日本側の許可も得ずに勝手に測量」した後に「勝手に地名を命名」して好き放題した挙げ句、再来を通告して去っていった。
命名した地名は「走水の御所ヶ崎=ルビコン岬」などである。
そしてもっとも目立つ島はペリー島と名付けられた。
実に自己顕示欲に忠実な命名と言えよう。

さて、幕府は黒船の来寇に際し諸侯は言うに及ばず各界の有識者から意見を募り対策を講じた。
1853年に集められた意見書は719件にも達する。
本庄栄治郎著「幕末の新政策」によればこれらのうち藩を代表したものは54件であり「意見なし」が4藩、開戦派が水戸や佐賀の8藩、拒絶派が仙台や土佐、薩摩の26藩、受諾派が小濱や津山など14藩、開国派は僅か2藩であった。
つまり日本の国論としては開国などは論外で主流は攘夷だったのである。
勿論、後に尊皇攘夷の旗印を掲げる薩摩、長州、土佐、肥前、水戸のいずれも攘夷を是とする開戦派もしくは拒絶派であった。
ではなぜ、幕府は開国への道を歩んだのであろうか?
それはひとえに「たった2藩の開国派」であったうちの片方が井伊直弼を藩主とする彦根藩であったからに他ならない。

黒船来寇時の老中首座であった阿部正弘は1955年10月に首座を辞任。
代わって1958年4月には井伊直弼が大老へ就任し幕府は開国へまっしぐらに突き進んだのである。
だが彦根藩だけの力で時流を制する事はできない。
当然、盟友が必要だ。
幕府は4年後の1857〜1858年にかけて2回目の意見書を募集したがこの時は34藩が応じ1回目とは大きく形勢が変わった。
「意見なし」は7藩、開戦派は土佐、長州など3藩、拒絶派は水戸をはじめ4藩、受諾派は16藩、開国派は4藩であった。
つまり前回は全体で63%を占めた攘夷派(開戦+拒絶)は僅か20%に激減し開国派と受諾派は合わせて29%から58%まで大きく増えたのである。

これは井伊直弼の開国策への同調者が増えた為であるが様々な政治的暗闘が繰り広げられた事は語るまでもない。
中でも重要なのは第1回で攘夷であった薩摩が第2回では開国に鞍替えした事でこれには1856年の13代将軍と薩摩藩の篤姫成婚が大きく関係している。
薩摩が幕府側の舵を切った事は後の政局に大きな影響を与えた。
ちなみに幕府海防政策の根幹を為した江戸防衛に任ずる御固四藩(1847年成立)は彦根藩が開国派、川越藩が攘夷派、忍藩と会津藩は受諾派であった。

ここで江川英龍と言う旗本を紹介しよう。
海防掛の幕臣で石高は僅か150俵取(地方知行に換算すれば150石に相当)ながら代官職を務めていたのでその支配地域は5万4千石(ウィキには26万石ともあるが彼の死亡時には8万8千石だったらしい)にも及んだ。
彼は幕末の才人で反射炉の建設、国産火砲の製造、パンの国産化、お台場の建設などで活躍している。
加えて人望が厚く西洋技術の理論指導者でもあり彼の門弟は一説には4千(多分、孫弟子も含むんじゃないかな?)と言われる程、多かった。
門弟の中には後に日本幕末史に多大な影響を与えた佐久間象山、鳳圭介、橋本左内、桂小五郎、大山巌、黒田清隆、ジョン万次郎などがいる。
「幕末の新政策」539頁によるとその英龍は第1回の意見募集で米国に対し攘夷、ロシアに対しては交易と唱えた。
理由は「浦賀に来た時の米国の振る舞いが無礼至極であったから」である。
けだしペリーの傲慢不遜ぶりがうかがわれる逸話であろう。

米国の開国要求に対して幕府は1年後の回答を約し7月17日にペリーは一旦、香港へ去った。
だが、翌年2月13日には9隻の艦船を引き連れ早くも日本へやってきた。
約束の期限より5ヶ月も早い。
本来ならこの様な勝手は許されるはずもなく交渉そのものが頓挫するであろう。
だが幕府としては12代将軍の急死やら防御態勢の進捗不備やら色々のゴタゴタがあって交渉を拒絶できなかった。
その足下を見透かしてペリーはやってきたのである。
さっそくペリーは艦船の物資補給を要求した。
ペリー著「ペリー日本遠征日記(雄松堂出版)」317頁によると1854年1月27日に幕府は薪と水の補給地を浦賀と指定したがそれに対し彼は
「すなわちそれらの品がどこから来ようと我々にとってはどうでも良い事である。」
「何故なら私は浦賀に行くつもりはなく、しかももし日本人が我々の所に水を運んでくれないなら、私は海岸に人を派遣して何らかの方法でそれを手に入れるつもりである。」と書いている。
これは略奪に他ならない。
つまりペリーは最初っからルールを守るつもりなどなかったのである。

さて、ナポレオン戦争後の欧州を再構築したウィーン会議は「会議は踊る」と称されたが日米の外交交渉は会食の応酬で始まった。
幕府は江戸の名店「百川」に2千両の予算で300人前を依頼(1人前約7両)しており1両=4000文、蕎麦1杯16文、蕎麦の現世価格300円とするなら7両は52万5000円となる。
随分と張り込んだものだ。

それではどんな御馳走が出されたのか紹介してみよう。
当時、浦賀奉行所に在勤した川島平蔵が記した嘉永新聞と言う文書に献立が記載されている。
まずは一献とお銚子が出てそれに添えられたのが干肴のスルメと結昆布。
乾き物だけじゃなんだからお猪口に載せたカレイとツマのボウフウ、ワサビも添えられる。
続いて大根と花子巻鯛の吸物、フキノトウとタイラ貝の吸物、鯛ひれの吸物、ハマグリの皿、カマボコや伊達巻の硯蓋(本膳料理の献立)、ヒラメ、メジマグロ、鯛の刺身(本書では差身と書いてある)、肉寄串子と鶏卵葛引のふた煮(どんな料理だ?)、鴨と筍と茗荷の花椀が出された。
ここまでが前座でメインイベントの本膳にはアワビと赤貝のなます、奈良漬、車海老と銀杏の丼、鯛とホウボウと山芋とツクシの鉢物、シメジとゴボウの汁物、豆腐としの巻菜の煮物だ出る。
そして続く二の膳は鯛と海老の焼き物、鯛の塩焼、ヒラメの刺身、甘鯛と昆布の汁物、大カマボコ、吉野魚の吸物だ。
ちょっと省略したがざっとこんな所である。
食べ過ぎじゃないかって?
いやいや、品数が多いだけでどれも「ほんのひとくち」だったろうよ。

それにしても・・・
当時の御馳走ってのは吸物と汁物のオンパレードで動物性蛋白質は鯛ばかりなんだね。
僕としてもちょっとビックリだ。
この御馳走を前にしてヤンキーどもは喜んだかって?
いやいや、少なくともペリーのお気には召さなかったようだ。

前述の「ペリー日本遠征日記」397頁で彼は
「信じられないほど貧弱な物−僅かの小魚、若干の野菜、米及び大豆−であってよく働くアメリカ人を生かしておくにはとても充分と言える代物ではない。」と述べている。
363頁でも日本料理に対し
「表向きの見栄えやけばけばしさにどんなにお金をかけようとも(中略)彼らの台所には別に素晴らしい物は何もないのである。」と書いており
「正餐の貧弱さにについては陳謝の言葉が述べられその理由が主として神奈川では最上の物を入手するのが困難とされていた事は事実である。しかしこの言葉は軽薄な口実に過ぎなかった。」とも書いている。

何を言ってるのやら・・・
日本ではね、御馳走でも表面上は「つまらぬ物ですが。」って言うのだ。
言ってる事を額面通りに取るんじゃないよ。
日本じゃ「お前らの為に素晴らしい御馳走を用意したぞ、有り難がって喰うが良い。ガハハ!」なんて言うヤツはいないんだ。
口に出してる事と実際が違うからっていちいち他人を嘘つき呼ばわりするもんじゃない。
こちとら強引で口汚く罵り合う新世界の方々と違う謙譲の世界の住人なんだから。
そしてこの物知らずは
「ポーハタン号艦上で私が理事官達(奉行の事)と彼等の随員達数人に出した正餐は彼等のそれの20倍はあったであろう。」とも書いてる。
物量かい?
肉の重さが全てかい?
さすが○○人らしいや。

365頁でもペリーは
「私は彼等の魚入りスープのあてがい分と比べてアメリカ側の親切なもてなしにつき何らかの印象を与えたいと願ってこの多人数からなる一行に対して極めて豊富に振る舞うのに労を惜しまなかった。」
「私のパリ生まれのコック長は一週間、夜も昼も苦労してニューヨークのデルモニコ(レストランチェーン経営者)が見たら流石に立派だと言っただろうような様々の装飾を凝らした料理を作り上げた。」
と書いているがいやはや、なんたる俗っぽさ・・・
おまえは「おそ松君」に登場するイヤミか?
「私はもし交渉が有利な方向に転じたらいつでもこの正餐を出すつもりでいたのであり、そしてそれ故、牛1頭、羊1頭、家禽数羽を生きたままとって置いた。」
「これらの肉がハム、タン、多くの塩漬けの魚、野菜、果実と共に盛りだくさんの御馳走として出た。」だそうだ。
食べ慣れない四つ足の肉を食わされた方々には同情を禁じ得ないよ。

更に日米の習慣の違いは食文化にとどまらず贈答品でも齟齬を生じた。
374頁で彼は日本から贈られた多数の美術品と骨董品及び絹織物に対し
「彼等の贈り物はほとんど価値の無い物であった。」と書いており368頁でも
「これらの贈り物は日本の産物である漆器、絹織物、その他の品々であまり大した価値のある物ではなかった。」と書いている。
それでは彼等は日本側に何を贈ったのであろうか?

米国から老中への贈答品は洋書1、ウィスキー10ガロン、石版画1、柱時計1、拳銃1、ライフル1,剣1,香水12本と書いてある。
また巻末では将軍にライフル5、マスケット銃3、カービン銃1、拳銃20、ウィスキー31.5ガロン、儒学者の林復斎と老中首座の阿部正弘にはライフル1、拳銃1、ウィスキー20ガロン、他の老中5名には各ライフル1、拳銃1、ウィスキー10ガロン、接待役だった北町奉行の井戸対馬守、浦賀奉行の伊沢美作守、目付の鵜殿鳩翁にはライフル1、拳銃1、ウィスキー5ガロン、儒学者の松崎柳浪には拳銃6、ウィスキー5ガロンが贈られたらしい。
こうして拳銃36、ライフル15、マスケット銃3、カービン銃1が日本に渡った。
これらのうち拳銃1丁をどうした経緯か攘夷派の水戸藩が入手してコピー生産し、そのうちの5丁が後に桜田門外の変で使用され井伊大老は絶命するに至った。
いやはや、人間の運命とは判らない物である。
と、まあそれはさておき「高貴な人間に贈るのは美術品」と考えた日本側に対し米国は「役に立つのは銃器と酒」と考えた様だ。
武器を自慢する野蛮人に美術館を見せたって喜ばないのも道理である。

欧米人の彼は東洋人の中でも随分と日本人を嫌っていたがその原因はどこら辺にあったのだろうか?
これは僕の想像に過ぎないのだが「チョンマゲ」にあったのかも知れない。
アメリカにはモヒカン族と言うヒャッハーな連中がいて頭頂部にだけ髪を生やしており多くの白人から忌み嫌われ恐れられていた。
日本のチョンマゲもモヒカン刈に結構、似ている。
当然、モヒカン族の顔はアジア人だしね。
まあ、良くて野蛮人、悪けりゃ猿ぐらいとしか見てなかったんだろう。
だから354頁では日本人女性が醜く米国人女性が美しい事を一所懸命に喧伝している。
ちなみに彼が「ペリー島」と命名した島の日本名は「猿島」である。
きっとあの世でさぞ、がっかりしているであろう。 

[4113] EMP爆弾(その21) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/08(Wed) 10:11
でもまあ、これらは戦術核の話だ。
今回は戦略核がメインテーマだったので地対空ミサイルなど一部の戦術核しか扱わなかったが対潜兵器や対艦兵器、陸戦兵器の分野で多数の戦術核が存在する。
それどころか、1960年代前半頃の核兵器は殆どが戦術核だったと言っても過言ではない。
この時期の米国核弾頭保有数は約27000発だが戦略核7000発に対し戦術核は約20000発で約70%以上にものぼった。
だが戦術核の数については殆ど注意が払われなかった。
そこで1972年に締結された第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)で戦術核は対象外(そりゃそうだ看板に戦略って書いてあるもん)となり米国は大陸間弾道弾1000基と潜水艦弾道弾710基、ソ連は大陸間弾道弾1410基と潜水艦弾道弾950基の現状維持で増加は禁止となった。
ここで問題なのはミサイル数が禁止されただけでミサイルのサイズや弾頭数は制限外だった事である。
よってMIRV化が進んで核弾頭数が増えミサイルもどんどん大きくなった。
SALT1が締結されたにも関わらず核弾頭数は増え続けたのである。

これでは人類滅亡のチキンレースとなってしまう。
更に1986年にチェルノブイリ事故が発生して核エネルギー管理体制の不備が問われはじめたが1990年の戦略核弾頭数は米国10271発、ソ連10975発となり軍事予算はどんどん膨れ上がった。
これに対応し1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START1)が締結されたが効を奏さず同年末にソ連は崩壊してしまう。

START1によって米ソは戦略核弾頭数6000以下(大陸間弾道弾はこのうち4900以下)、戦略核投射投射手段1600基以下の制限が課された。
ちなみに戦略核投射投射手段とは大陸間弾道弾と潜水艦弾道弾及び戦略爆撃機の合計数である。
かくして1999年に米の核弾頭保有数12000発となった。
なお、ソ連崩壊によって両陣営の武力対決危機が回避されたので戦術核の必要性は大きく低下し1992年には約5000発、1995年以降は約3000発にまで減少(誘導兵器の進歩も大きな影響を与えた)した。
つまり戦略核と戦術核の保有比率は完全に逆転したのである。
更に2002年にはモスクワ条約が締結された。
この制限内容は戦略核の核弾頭配備数を2012年までに1700〜2200発に減らす事で配備されていない予備や備蓄の核弾頭は制限外とされた。
つまりMIRVの核弾頭数を減らして予備や備蓄としたのである。
2003年に米国が保有していた戦略核弾頭数は5968発であった。

これが2009年になると米国が保有している核弾頭数は9400発、配備されている戦略核は2126発、ロシアは核弾頭数約13000発で配備されている戦略核2668発、全世界の核弾頭総数約23000発となる。
ついで2011年、新戦略兵器削減条約(新START)が締結された。
この条約では7年以内に戦略核弾頭の配備数を1550発まで削減せねばならなかったが備蓄は無制限であり投射手段の制限が多いのが特徴であった。

世界国勢図絵2012/2013の資料1によるとロシアが2012年に配備した戦略核1800発、核弾頭総計10000発に対し米国が配備した戦略核1950発、核弾頭総計8000発(うち戦術核200発)で世界全体では戦略核の配備4200発、核弾頭総計19000発となっている。
資料2ではロシアが2012年に配備した戦略核の弾頭数を2435発、米国を1952発としており数値に差が見られる。
世界国勢図絵2017/2018ではロシアが2017年に配備した戦略核を1950発、核弾頭総計7000発としており米国が配備した戦略核を1650発、核弾頭総計6800発(うち戦術核150発)、世界全体での戦略核が配備4150発、核弾頭総計14930発としている。

要約すると1986年に約70000発だった世界全体の核弾頭は2009年 に1/3の約23000発、2012年には27%の約19000発となり今年は1/5に近い14930発となった訳だ。
数値だけを見ると世界は随分と平和で良くなった様に見える。
本当にそうだろうか?
僕は世界の核弾頭総数がピークに達した頃に現代戦のシミュレーションゲームをデザインしたがその時代の方が遥かに核戦争が勃発する危機は低かった。
大事なのは数では無い。
確かに数が増えれば事故や偶発的危険性は増えるであろう。
だが重要なのは数値ではなく「どの国家が何の目的で保有しているか」である。
独裁体制国家が他国への恫喝を目的に保有しているとするならばこれを看過する訳にはいかない。
戦後、連綿と続いてきた核戦略とは違った次元の問題に我々は今、直面している。
もはや過去のセオリーは通用しないであろう。
よってこれまでの経緯をもう一度振り返りその上で「今、我々は何を為すべきか?」が問われねばならないのだ。  (了) 

[4112] EMP爆弾(その20) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/06(Mon) 19:17
まあこうして、PAC3やらTHAADやらGBIやらSM3を統合しTMDだかNMDだかBMDだかGMDだか、単にMDだか様々な防衛計画が策定され試行錯誤し現在に至る。
正直言って「なんだかよく判らない事」も多いが、まあ現在進行中の技術革新ってのは得てしてしてそんな物なのだろう。
だって、あけすけに発表出来ない事も多いじゃない。
大事な国民や人民の生命、財産を預かってるんだし自分の政権支持率が下がるのも困るしね。

EMPについて要約すると人類が核の脅威に直面した1945年以降、1950年代末頃から1970年代中盤まで「核の脅威を排除する為に核(ABM)を使用する」と言う軍事思想が米ソ両陣営首脳部を支配した。
だが多くの高高度核実験でEMPの存在が判明し米国はABMの開発を放棄、ソ連は継続してふたつの道に分かれた。
新たな道へ進んだ米国は衛星とレーザー及びビーム兵器を主軸としたSDIで回り道をした末、炸裂しない通常弾頭の直撃で弾道弾を迎撃する事にした。
高速で飛翔する物体同士が直撃するには高精度な位置及び速度変換をせねばならず膨大な量の計算を瞬時に成し遂げる電子計算機と情報通信の飛躍的技術革新が必要とする。

これが・・・
できちゃったんだよね。
昔の電話とz80パソコンを思い出して頂きたい。
それと今の動画をリアルで通信できる最新スマホ(もう電話とコンピューターは一体化しちゃったからパソコンの方は比較しなくていいや)を比べるのだ。
雲泥の差でしょ。
卵が先か鶏が先かを問うてもしょうがないが、科学技術と軍事政策の進歩は表裏一体なのである。
果たしてEMPは大きな脅威なのか、そうでもないのか?
米国とロシア(ソ連)で見解が異なるのは今まで書いてきた通りだ。
だから核の脅威とEMPの脅威の内、ロシアは前者は重視し米国は後者を重視して来た。
どちらが正しいのか、それは判らない。
だって環境が違うからね。

1945年以降、人類は核の脅威に晒され続けてきた。
最初は米国のみの専有物だった核兵器は次第に安保理の常任力国である戦勝5カ国全てに行き渡った。
この時点で核は大国のステータスシンボルだったと言えよう。
ステータスシンボルなんだから実用品ではなく床の間に飾っておく為の物である。
だが次に紛争対峙国のインドとパキスタンやら、中東の火種イスラエルやら、第三世界の問題児たる南ア(ここは放棄したが)やら変な髪型の肥満児が支配する北鮮やら「どうにも怪しげな国々」が加わってきた。
彼等にとって核は「チンピラのナイフ」であり実用品だ。
チンピラはすぐに喧嘩するし負けそうになったら本当に刺すよ。
話し合いで解決しようなんて思わない。
まあ、北鮮以外は「割とまともな国家指導者」に恵まれているから今は安心だけどね。
でもいつ何時、とんでもない国家指導者に代わるか知れないのだ。
だから国家指導者の髪型が変になってきたら御用心、御用心。

さて、それでは最後に核弾頭数の推移を書いて幕を引く事にしよう。
1944年以前には存在しなかった核弾頭のピークは1986年で全世界の合計約70000発である。
ただし米国のピークは1966年の32000発、ソ連は1986年の45000発だった。
なぜ、20年もの開きがあるのかと言うと米国はいちはやく電子計算機を実用化して誘導兵器を自家薬籠中の物とし「力押しによる戦術核」とオサラバしたからである。

電子計算機の進歩が核を不要としたのはABMに限らない。
米国がアスロックの弾頭を核からホーミング魚雷に代えたのにソ連では対潜ミサイルの弾頭に核を使用し続けモスクワ型ヘリ空母はおろかキエフ型空母にすらRPK1(西側呼称FRAS1、10Kt)を装備した。
クレスタ2型巡洋艦やカーラ型巡洋艦が装備したRPK3(西側呼称SSN14サイレックス)だって弾頭は5Ktの核魚雷もしくは通常弾頭の誘導魚雷だ。
誘導魚雷がちゃんと当たるんなら核なんか積まないであろう。
現在はロシア海軍も誘導魚雷だけらしいのでだいぶ進歩したんだろうね。    (続く) 

[4111] EMP爆弾(その19) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/05(Sun) 11:31
射程が短いのも心配である。
よってもっと遠方、すなわち高高度で迎撃するのがTHAAD(0.6t、200km、高度145km)だ。
大きさもPAC3よりはずっと重い。
これら直撃ミサイルが果たして本当に当たるかどうか、鍵を握るのはCPUの処理速度である。
かつては命中精度の低さを補う為に大きな破壊力を求め核弾頭が装備された。
だがコンピュータは日進月歩で開発が進み以前は不可能と考えられた弾頭の直撃も不可能では無くなった。

こうして米国はクリントン政権期にTMD(戦域ミサイル防衛)でTHAADとPAC3の実戦配備を実現化したのである。
更にNMD(米本土ミサイル防衛もしくは国家ミサイル防衛)でより遠方での弾道弾迎撃が求められGBI(12.7t、射程不明、速度不明、高度不明)が開発された。
弾道弾は発射後、上昇して速度と高度を増し目標に向かって放物線を描きながら飛行した後、徐々に下降して着弾する。
前述のTHAADとPAC3は下降して着弾するまでの終末期に対応した兵器だ。
それに対しGBIは中間段階での迎撃を目的としている。
よって高度が高く射程(数値は未発表だけどね)も遥かに長い。
GBIは1997年に発射テストを開始しアラスカや西海岸などに配備されているが現在もテスト及び開発は進行中だそうだ。

ちなみにアラスカに配備されている理由はロシアの11個大陸間弾道弾師団の内、モスクワに近いウラジーミル周辺諸基地の5個師団を除くカザフ国境のオレンブルグ周辺諸基地(ドムバロフスキー、ニジニ・タギル)とシベリアのオムスク周辺諸基地(バルナウル、ノボシビルスク、イルクーツク、ウジュル)の6個師団が米国西岸を攻撃するとアラスカ上空を通過するからである。
それでは東岸を攻撃した場合はどうなるのか?
ウラジーミル周辺諸基地が米国を攻撃した場合は?
潜水艦弾道弾や中国(ここにも洛陽と懐化にちょびっとだけ大陸間弾道弾があり米国に照準を合わせている)の大陸間弾道弾は?

さいわい、これらの脅威の多くは海を越えて飛来する。
よって米国は海軍兵力で対処する事にした。
すなわちイージス艦が装備する艦対空のSM2スタンダード(0.7t、170km、M3.5、高度24km)から直撃用のSM3が開発されたのである。
SM3はSM2(MR)に比べブロック1Aでブースターが付いて全長が長くなって性能が向上しブロック2Aではブースターが太くなって性能が更に上がった。
石川氏は射程500km、高度160km、速度M8としており江畑氏は1Aを射程1200km、高度120kmとしている。
ウィキだと1Aが射程700km、高度150〜500kmでM10、2Aだと射程2500kmでM15だ。
どれが本当なのか、どれも本当では無いのか、開発途上兵器なのでちょっと判らぬが1Aで近距離弾道弾、1Bだと中距離弾道弾に対処でき2Aは大陸間弾道弾に限定的対処(う〜ん、悩ましい言い方だ)できるらしい。
まあ、それはさておきSM3は、陸上用にもイージス・アショアとして配備される事になったそうだ。
多分、それだけ予想以上に高性能だったんだろう。

ちなみに米国のミサイル防衛局はブロック1Aの価格を約1000万ドル、ブロック1Bで約1400万ドル、ブロック2Aで約2200万ドルと考えている。
日本も2Aからは開発に参加し予算の半分弱を負担しているらしい。
確かに安くはない。
だが国民の生命と財産と自由を守る大事な兵器である。
投資するだけの値打ちはあろう。
それに比べ日本のどこかの左巻き新聞は総火演の時みたいに「煙と消えた2200万ドル」なんて言うのだろうか・・・

さて、カナダを越えて彼方から飛来するのはどうするかって?
どうすんだろうね。
海を殆ど通過(通過しても北極海じゃあね)しないでカナダを通過するコースで来たらさぞ、困るだろう。
昔はCIM10(ボマーク)をカナダに配備したりしてたのになあ。    (続く) 

[4110] EMP爆弾(その18) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/03(Fri) 13:17
更にソ連はEMPに関し米国とは違ったアプローチを試みた。
「EMPが発生するからABMを廃止する」のではなく、「ABMによって発生するEMPに如何に対処するか」を模索したのである。
そもそも高高度用のABMは空気が存在しない大気圏外での弾道弾迎撃に使用するので爆風や熱線ではなく放射線で弾道弾を破壊する兵器であった。
よってその放射線量は非常に大きく防護には前記の様に真空管などが使用される。
かつてベレンコ中尉が日本へ亡命した時、MiG25に真空管が使用されているのを見て「ソ連はこんなに遅れているのか!」と多くの軍事関係者がビックリしたらしいが実はEMP対策だったとも言われている。
モスクワ近郊のABM基地はA350がA30(西側呼称SH08ガゼル、8t、10Kt、80km、M17、高度40km)やA50(西側呼称SH11ゴルゴン、33t、破壊力不明、350km、速度不明、高度不明)に代わった現在でも存在しているのだから相当のEMP対策が講じられていると思われる。

かくして米国が手を引いた以上、ABM開発はソ連の独壇場となった。
だがABMはソ連の国家防衛に於ける根幹を為す防衛システムなのでロシア共和国になった今でもその全容は明らかではない。
ABMの開発経緯が全て判明すれば「現在のABMが何をどれだけできるか?」が米国の知る所となり外交交渉でイニシアティブを失うからである。
米国が知ったとしても「よし、今なら勝てるぞ」と米大統領が核戦争を始めたりはしないだろうがロシアにとって面白い成り行きにはならない。
よってこれからも全容解明は期待薄と考えられよう。

さて、米国はABMを放棄したが「弾道弾からの防衛」を諦めた訳ではない。
核弾頭を使用せずEMP抜きで弾道弾を防ぐ技術を模索したのである。
そして米国は衛星とレーザー及びビーム兵器によるSDI(戦略防衛構想:通称スターウォーズ計画)を立案した。
だがSDIは実現性が乏しく予算ばかりが高騰する評判倒れであった。
おまけに衛星技術の革新が必要なのに肝心のスペースシャトルは1986年の事故で2年間休止するわ、1991年にソ連が崩壊して戦略的意義を見失うわ、で結局の所、殆ど成果を挙げないまま雲散霧消した。

だが、ソ連がロシア共和国に代わっても米国への弾道弾の脅威は消えはしない。
そこで次には通常弾頭での弾道弾迎撃に焦点が移った。
とは言ってもいきなり大陸間弾道弾を対象とするのはハードルが高すぎる。
よって通常弾頭の地対空ミサイルだったMIM104パトリオットPAC1(0.7t、70km、M3)を改良し、弾道弾を迎撃可能なPAC2(0.9t、航空機70km、弾道弾20km、M5)が開発された。
ただしPAC2は元来、航空機に対処する目的で開発された兵器だったので近接信管により至近距離で炸裂し弾片効果で目標を撃破する。
しかしこれではスカッドなど小型弾道弾しか撃破できず撃破率も非常に低かった。

そこで目標へ直撃するERINT(0.3t、20km、M5、1992年初飛行)が新たにPAC3として採用された。
特徴となるのは大変、小型な事である。
弾片よりは重いが弾頭重量1tのスカッドDくらいならともかく、弾頭重量重量9t近いロシアの重ICBMには「だいじょうぶかなあ?」と心配になる。
まあ、信ずるより他にしょうがないが。   (続く) 

[4109] 日本の選挙や中国の党大会も終わったしそろそろかな 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/02(Thu) 10:30
なんでも今、使えるのはB61しかないそうだ。
だったらミシガンの出番はないな。
やっぱりスーパーホーネットがアレをやるのかな。
アレをやる前に変な髪型の肥満児がココロを入れ替えればいいんだけど・・・
多分、無理だな。 

[4108] EMP爆弾(その17) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/01(Wed) 17:59
この様に米国はABMの開発を諦めたがソ連は違っており以降も開発を進めた。
その理由は前述の如く「理解の差」による部分が多いと思われるが「環境の差」による部分も無視できない。
さて、どの様な差があったのか説明していこう。

まず差のひとつとして政治形態の差が挙げられる。
御存知の様に米国の指導者は大統領で選挙によって選ばれる。
ソ連の方は共産党書記長で権力闘争もしくは「密室の談合」によって決定される。
随分と大きな差だ。
ABMを使用すればEMPで生活水準が低下するのは米ソとも同じ。
ただし政権の基盤に民意を必要としないのならどうと言う事はない。
人民に「我慢しろ。」と言えば良いのだから。
だが選挙で国家指導者を選出するとなると生活水準の低下は容認できないのだ。
よってソ連で採用できたABMを主軸とした防衛戦略は米国だと採用できなかったと考えられる。

次に「どれだけ生活水準が下がるか?」にも大きな差があった。
1970年代の米国は最先端の先進国で国民はその恩恵を大いに享受していた。
一方、ソ連の科学技術は軍事こそ最先端であったものの1959年7月にフルシチョフとニクソンが対決した「キッチン討論」で明らかな様に人民の生活水準は低く電化製品の普及率は米国の遥か下をはいずっていた。
それでも「スターリン時代よりはマシ」だったので大きな不満とはならなかった。
高度に電化されているから19世紀に戻ったら大混乱となるので「最初っから後進的な生活水準」だったら19世紀にもどってもさして困らない。
つまり「存在しない高度な電化製品」はEMPでも壊れないのだ。
これはソ連にとって大きな利点であった。
ちなみにキッチン討論の時、米国は270万杯のペプシコーラをモスクワ市民に振る舞ったそうだがニクソンはペプシの元顧問弁護士だったそうだ。

もうひとつ、ソ連人民特有の利点としてダーチャの存在がある。
ソ連(もしくはロシア)と言う国は政情不安定でいつ飢饉や政変、戦争、革命が起こるか判らないし都市住民が食糧不足に直面する危機は常に存在する。
よって都市住民は郊外に小規模な菜園(600平方m)と住居を所有し春から秋夏の週末だけ住む。
これがダーチャだ。
別荘と訳される場合もあるが大半はそんなに立派な物じゃない。
まあ、都市の住民全てが屯田兵や屯田工場労働者、屯田営業マン、屯田商人、屯田官僚、屯田芸術家にでもなったと思えば良い。
つまり農民を除くほぼ全ロシア人が兼業農家なのである。
菜園の規模は小さく、作物を売って儲ける程の量は育てられないがイザと言う時、家族が飢えずに済むくらいは収穫できる。
折角の夏の休暇をバカンスに行かず畑仕事に費やすのだから偉いものだ。
日本のロハスな人とちょっと似ているが農薬使用の是非が大きく異なる。
ロシア人は害虫に野菜を喰わせる気など毛頭ないのだ。

ダーチャで収穫された野菜はキャベツやキュウリなら酢漬、豆なら干して乾燥させ、ジャガイモやニンジンなら袋に詰めて翌年まで保存し適宜、食べる。
一説によるとロシアで栽培されるジャガイモの9割がダーチャで取れるそうだ。
勿論、秋になるまでの間、緑黄野菜は新鮮なまま食べる。
基本的に穀物は作らない。
だってそこまでやったら半農じゃなくて全農になっちゃうでしょ。
かつてソ連が崩壊しロシア共和国になった時、物凄いインフレとなって大勢の人が困窮し餓死者続出が懸念された。
だが、あにはからんや殆ど餓死者はでなかった。
その謎を解く鍵がダーチャにある。
自分で作物を育てて食えばインフレは関係ないのだ。
つまりソ連(ロシア)は農産物と食料に関する限り貨幣経済以前の状態にあるとすら言える。

なお、プーチンはアル中の蔓延を断つ為、極端なウォッカの値上げを断行した。
当然、ウォッカの販売量は激減したがアル中は全然、減らなかった。
ロシア人はダーチャで酒を自製(つまり密造)したのである。
この酒をサマゴンと言う。
ダーチャがある限りロシア人はちょっとやそこらではへこたれない。
ハラショー!            (続く) 

[4107] EMP爆弾(その16) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/31(Tue) 12:46
興味深いのはここからである。
1965年11月に初飛行したスプリントは1972年に完成した。
一方、スパルタンの完成は1975年まで遅れたが同年10月1日に低空用のスプリント70基、高空用のスパルタン30基で米国のABM基地が完成する。
ところがその翌日、突如として米国議会がABM基地の閉鎖を決定したのである。
よって米国のABM基地が活動したのは1975年10月から1976年前半まで僅か数ヶ月に過ぎない。
なぜこんな事になったのであろうか?

その理由はABMが高高度で核爆発した際に生ずるEMP(電磁パルス)が非常に大きく「ABMは国土防衛兵器足り得ない」と判断されたからである。
EMPは大規模停電を発生させるだけでなく半導体及び電子回路に重大な損傷を与え電子機器を破壊する。
つまり携帯電話をはじめとする大部分の通信機器が使用不能となりエレベーターは止まったままとなり冷蔵庫は壊れ乗用車は動かなくなる。
これを防ぐには金属箔によるケーブルのシールドや真空管の採用など幾つかの方法があるが経費がかかり不効率となるので軍事施設や政府関連施設に限られる。
だから都市の上空で高高度核爆発が発生すると熱線や爆風の被害が生じなくとも都市には上記の如きありさまとなる。
「壊れた電気製品や電子機器はまた生産すれば良い」とする考え方もあるが電気製品工場やインフラも破壊されたらそうとも限るまい。
ある学者は「石器時代に戻る」と言い別の学者は「19世紀に戻る」と言う。
21世紀からいきなり19世紀に戻るのだから大混乱となり飢饉や暴動、伝染病が蔓延し、ある学者は「米国では人口の9割が1年以内に死亡する」と言う。
まあ、米国全土で電子機器が使用不能となったら相当に被害が出るだろう。
でも地域が小規模なら救済できるかも知れない。

そもそも事の起こりはABMの効果を検証する為に1958年8月、ジョンストン島で実施されたティーク実験(1日、高度75km)とオレンジ実験(12日、高度42km)で周囲一帯に大規模な停電と電波障害が発生した事だった。
当時、米国は太平洋各地で多数の核実験(一連の核実験はハードタック作戦と称する)を行っていたがこの2回では3.8Mtの核弾頭を使用している。
ついで8月27日から9月6日にかけ今度は大西洋で核実験を実施した。
この核実験はアーガス作戦と呼ばれ核弾頭は1.7Ktと小さかったものの高度は200〜539kmと高かった。
更に1962年7月9日にジョンストン島で実施されたフィッシュボール作戦のスターフィッシュ・プライム実験(高度400km)では1.4Mtの核弾頭が使用されたがEMPで多数の衛星が破壊され1400km離れたハワイでも大規模な通信障害が発生した。
これらにより米国は徐々にEMPの危険性を把握していったのである。

ソ連はどうであったろうか?
当然、ソ連だって1957〜61年にかけてカプースチン・ヤールで核の高高度爆発実験を行い1962年には200Ktの核弾頭を使用して3回に渡り高度59〜290kmで核実験をしている。
つまりソ連も相応にEMPの危険性は理解していると考えられよう。
だが米ソ両陣営が同一の実験をした訳ではなく相互に実験結果を提供しあった訳では無いのでEMPに対する理解は米ソで当然、大きな差がある。
情報の提供どころか核実験の資料は国家機密なのでアーガス作戦の結果が文書で公表されたのは1982年になってからであった。       (続く) 

[4106] EMP爆弾(その15) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/30(Mon) 08:38
ABM(弾道弾迎撃ミサイル)の理屈は簡単である。
飛来する敵の弾道弾の飛翔経路前方にABMを発射して核爆発を起こし物理的に破壊するだけだ。
ただしそれには敵の弾道弾が発射されたらいち早く探知し経路を算定して迎撃に移らなければならない。
もたもたしてると自国に敵の弾道弾が到達してしまう。
精度の高い早期警戒衛星と演算能力の高い電子計算機、大規模なOTHレーダー網があって初めてABMは実用可能となる。

第二次世界大戦で英国はドイツからのミサイル攻撃に晒された。
この時、巡航ミサイルのV1は戦闘機や対空砲の迎撃で多くを撃破できたが弾道弾のV2には有効な迎撃手段がなく発射基地を撃滅するしか対処できなかった。
以降、米英は弾道弾を撃破する手段について模索し続ける。
その一環として進められたのが「ウィザード計画」である。
だが米国としては大陸間弾道弾が登場するまでは「対岸の火事」でもあった。
ソ連が1957年に初の大陸間弾道弾R7を打ち上げるまでは・・・

1955年、既に米国は弾道弾を迎撃する目的でナイキ2の開発に着手しており1956年にはナイキ・ゼウスと改名された。
このミサイルは対航空機用であったMIM14(ナイキ・ハーキュリーズ)を拡大改良しただけに過ぎない。
当時はまだ弾道弾の脅威は「対岸の火事」だったので開発ペースは遅々としていたのである。
当初、開発されたゼウス(重量5t、破壊力20Kt、射程320km、速力M4)は1959年に初飛行を予定していたがMIM14の射程が延伸しただけだったので1958年にはより大型で破壊力の大きいゼウスB(10.3t、400Kt、400km、M4)に移行した。
これに伴い、それまで開発されていたタイプはゼウスAと改称されウィザード計画も中止となり新計画の策定へと進んでいった。

1961年5月にゼウスBが初飛行し以降、試作機のテストが繰り返された。
前述した様に弾道弾迎撃ミサイルの運用には衛星と電子計算機、レーダー網の連携が欠かせない。
よってミサイル単体のテストに続き1964年にはこれらと短距離迎撃ミサイルのスプリント(3.5t、数Kt、40km、M10)を加えたナイキX計画のが発表された。

しかし1966年に入り米国のABM開発を揺るがす重大事件が勃発した。
既にソ連がABMの開発を終了し実戦配備している事が発覚し11月にはマクナマラ国防長官がこれを記者会見で発表したのである。
ソ連のABM開発は1956年に「Aシステム」として始まりミサイルは小型のV100(8t)を経て1958年にはより大型で実戦兵器となるA350(西側呼称ABM1ガロッシュ、33t、3Mt、350km、M4)を使用する「A35システム」へと移行した。
A35システムは1962年に初発射を実施し以後、数多くのテストを重ね191967年までにモスクワを取り巻く諸地域への配備された。
ただしこの時点ではまだ不備が多かったらしくMIRVへも対応できていない。

だが不備が多かったにしてもソ連がABM開発で先行した事は事実であり米国に大きな衝撃を与えた。
よって1967年9月、ゼウスBをより強力な拡大型のスパルタン(13.1t、5Mt、740km、M4)に代えたセンチネル計画が発表された。
1968年3月に初飛行したスパルタンの特徴は射程が大幅に延伸した事と破壊力が極端に大きくなった事、高度が280kmから560kmに伸びた事である。
なお、制式名はゼウスからスパルタンまで一貫してLIM49であった。

1969年3月、都市防空に重点を置いた高額なセンチネル計画(スパルタン480基、スプリント192基)から戦略爆撃機基地及び大陸間弾道弾基地の防空に重点を置いた小規模なセーフガード計画に変更される。
以降、米ソ両陣営はABMの充実化に邁進したが二つの障壁が行く手を阻んだ。
そのひとつはこれまで平和が保持されてきた要因である「核の均衡」が崩れる事でもうひとつは巨額な予算による国家経済の疲弊であった。

二人の男が互いの胸に剣を突きつけ睨み合っている。
だがどちらかの男が楯を持ったらどうであろう。
楯を持っていない男は瞬くうちに殺されてしまう。
だが双方が楯を持っていたら?
楯の厚さが勝敗を決するだろう。
だから双方とも楯の厚さは相手に教えない。
楯の厚さには随分と差があり見た目では判らないのだ。
ひょっとしたら頑丈そうに見えて実は薄いのかも知れない。
双方が楯を持っていても自分のが頑丈で相手のが薄かったら勝てるだろう。

米ソのABM開発はこの楯と同じだ。
相手に先駆け新技術が実用化した時、悪魔が囁く。
「やっておしまい、今なら勝てるよ。」
敵が新技術の開発に着手したと察知した時も悪魔がささやく。
「実用化される前にやっておしまい、やるのは今しかないよ。」
悪魔の囁きは疑心暗鬼を呼び核戦争へ向かう列車は運行速度を加速する。

とまあ、こうした次第でABMの存在は一旦は均衡した核戦争の危機を倍加した。
ABMは敵の弾道弾を防ぐ防御兵器で大量殺傷を目的とした兵器ではない。
だから一見、平和的かつ人道的だが睨み合った二人の剣士に楯を渡す事は均衡を崩し戦闘開始の合図になるのである。
おまけにこの楯は滅法、値段が高かった。
運用するには多数の衛星や大規模なOTHレーダー、通信システム、電子計算機を必要としたのだから。
かくして1972年にABM条約が締結され両陣営のABMは双方2基地で200基(1974年の改訂で1基地100基)に制限されたのである。    (続く) 

[4105] EMP爆弾(その14) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/25(Wed) 10:00
一応、これで戦略爆撃機と潜水艦弾道弾、大陸間弾道弾のトライアド(三本柱)及び核兵器の破壊力についての個別解説を終える。
それでは次にトライアドについての総合解説を始めよう。
まず核兵器の運用方法だが前述した様に最初は戦略爆撃機から始まった。
第二次世界大戦終結時に最大の空軍を保有していたのは米国だった。
在日米軍基地と在欧米軍基地の存在によって地勢的にも有利であった。
その後、潜水艦弾道弾と大陸間弾道弾が登場してトライアドが確立する。

潜水艦弾道弾(SLBM)にせよ、空対艦ミサイル(ASM)にせよ、大陸間弾道弾(ICBM)にせよ、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)にせよ、その開発はソ連が先行し米国は後塵を拝した。
何故であろうか?
ソ連の科学技術が米国に優っていたからであろうか?
そんな事はない。
その理由は「必要は発明の母である」からで「持たざる者こそ知恵に頼る」からなのだ。
絶大な洋上制空権を確保しているのにASMを開発する必要があろうか?
戦略爆撃機の数的優勢と同盟諸国の前進基地を確保しているのにICBMやSLBMに頼る必要があろうか?
もしも米国が戦略爆撃機よりICBMやSLBMを選択するとすれば経済性も含めた「何かしらの理由」が存在しなければならないであろう。
まず最初に「何かしらの理由」として面子があった。

確かに米国は大陸間弾道弾の開発でソ連に先を越されたが、米国とてかなり前から大陸間弾道弾の開発に着手しておりソ連のR7が初飛行してから幾ばくも時が過ぎぬうちにアトラスの初飛行を実施している。
つまり技術的にはたいして差はなかったのだ。
そして大陸間弾道弾の開発は有人ロケット及び宇宙開発に直結する。
こうなると国家的事業であり相手に背は向けられなかった。

だが潜水艦弾道弾についてはソ連に対し約5年の遅れが生じた。
これは空母と艦載巡航ミサイルに対する米海軍の依存が大きな要因であろう。
この遅れを挽回した大きな技術革新は固形燃料の採用であり大陸間弾道弾に於いても固形燃料の経済性と信頼性がソ連の液体燃料を凌駕した。
加えて米ソ両陣営が地対空ミサイルを実用化したので戦略爆撃機が逐次、陳腐化していったのも大陸間弾道弾と潜水艦弾道弾の開発競争に拍車をかけた。
前述した様にトライアドは各々、長所と短所があり補いあって成立する。

まず戦略爆撃機だが長所は運用の柔軟性と戦力的生残性が高い事が挙げられ短所としては人的生残性が低く危機管理が緩い点が挙げられる。
運用の柔軟性とは核攻撃以外の任務にも充当できる事や目標の変更にすぐ対処できる事である。
戦力的生残性は頻繁に基地を変更して相手に存在位置を秘匿する事で高められる。
人的生残性が低いのは人間が搭乗する以上、仕方がない事であり、ヒューマンエラーが介在するので危機管理も緩くならざるを得なかった。
「博士の異常な愛情」は「有り得そうな話」のひとつだったのである。

大陸間弾道弾の長所は信頼性、即応性、命中率、危機管理に優れ射程が長い事であり短所は戦力的生残性が低く高価な点にあった。
価格については初期にソ連が開発したR7や重ICBMは国家経済を圧迫するほど高価であり低廉な固形燃料を実用化した米国と大きな差がついた。
戦略的生残性が低い理由は発射台がサイロに固定されているからで相互の大陸間弾道弾はまず最初に相手の大陸間弾道弾サイロを攻撃するのがセオリーとされた。
国家が核攻撃を意志決定した場合、確実に発射でき核攻撃の中止が決定されたなら確実に中止できるのは大陸間弾道弾だけであった。
命令があればすぐ撃てるのも大陸間弾道弾だけで相手のサイロを確実に破壊出来るほど命中率が高く射程が長いのも利点だった。
ただし相手が先制核攻撃した場合、真っ先に破壊されてしまうのが欠点だった。
サイロ式ではない地上移動式大陸間弾道弾をトンネルの多い地形で運用した場合、戦略的生残性はかなり高くなる。
米国では地上移動式への移行は何度も検討されながら実用化に至らなかったがソ連/ロシアでは実用化の域に達し戦略核兵器の一翼を担っている。

潜水艦弾道弾の特性は大陸間弾道弾の真逆である。
よって命中率が低いので相手のサイロ攻撃には使用できず都市攻撃もしくは戦略爆撃機基地攻撃に使用するのがセオリーとされた。
射程が短いので相手の沿岸にまで進出せねばならないのも欠点であった。
ただし価格面だけは発射母体の原潜建造費を含めると高価で真逆ではなかった。
戦略爆撃機の欠点が「博士の異常な愛情」で表現できるのなら潜水艦弾道弾の欠点は「レッドオクトーバーを追え」で表現できる。
命中率が低いのは潜水艦自体が自己位置の確定が困難だった部分もあり時代が進むにつれ射程、命中率が向上し信頼性、即応性、危機管理を除けば大陸間弾道弾とあまり変わらなくなった。
だとすれば戦力的生残性の高さは大きな利点であり現代の米国では戦略核兵器の主力となっている。

お判り頂けただろうか?
昔、戦略核はトライアドだった。
相互に睨み合う大陸間弾道弾、都市を狙う潜水艦弾道弾、昔は主役だったがどんどん立場が弱くなってゆく戦略爆撃機。
まず最初に戦略爆撃機が表舞台から去り技術革新で潜水艦弾道弾が大陸間弾道弾の役割まで入り込んできた。

核戦争で重要なのは「どちらが先制核攻撃をするか?」と言う問題である。
セオリーでいけば先制側は大陸間弾道弾で相手の大陸間弾道弾を叩き潜水艦弾道弾で相手の都市を叩く。
やられた側は潜水艦弾道弾で相手の都市に報復する。
敵潜水艦の位置を特定するのは困難だから報復を防ぐ手だてはなく先制攻撃してもあまり意味はない。
双方で多くの人が死ぬ。
それは好ましい事ではないからどちらの政治指導部も核戦争を望まない。
よって均衡が保たれてきた。

ある意味、20世紀に於ける大国間の平和は潜水艦弾道弾の報復核攻撃がもたらした産物なのである。
当初はそれでも先制攻撃すれば相手の大陸間弾道弾サイロや戦略爆撃機基地を破壊する事ができた。
だが早期警戒衛星とOTHレーダーの技術革新により大陸間弾道弾で先制攻撃しても相手に探知され着弾前に相手が大陸間弾道弾を発射できる様になってきた。
こうなると向き合った電気椅子に両者が座り双方同時に電流が流れるスイッチを両者が握りしめている状態に等しい。

どうすればこの状態が打破できるか?
この状態を打破する鍵は「敵の弾道弾を破壊する兵器の開発」にある。
こうして開発された最初の兵器が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)であった。         (続く) 


[4104] EMP爆弾(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/24(Tue) 18:51
ところで横須賀を参考例にして色々と書いてきたが「阿部は横須賀に飛来する核を50〜100Ktと想定しているのか?」と言うとそんな事はない。
サンプルとしてよく知悉している都市(みんなもイベントや艦船見学とかで来る事もあるでしょ)を例示したまでだ。
なにしろ東洋一の軍事都市だからね。
武山のPAC3に迎撃されるかも知れないしイージス艦がごちゃまんといるからオーバーキルを承知で何発も撃ってくると思うよ。
軍艦ってのは頑丈だから核で沈めようと思ったら相当、破壊力のあるヤツを撃ってくるだろうし。
その昔の冷戦期には多数のソ連製弾道弾が横須賀に照準を合わせてたんだろう。

この様にリアルな話を書いたのは諸兄に核攻撃について理解を深めて頂きたいからである。
「核戦争が始まったら何もかも終わりになるから考えたってしょうがない。」と言う人士もおられるが目標となった都市の住民が必ずしも即死する訳ではない。
20Ktであれば木造家屋の2km以内とビルの0.6km以内はほぼ即死するであろうがそれ以上の距離だと重傷もしくは死亡、軽傷も負わずに済むには4.2km以上、爆心地から離れねばならない。
住民の半数が木造建築に居住していたと想定してみよう。
爆心地から4.2km以内の面積は55.4平方kmでこれを100%とする。
即死するのは2km以内の木造家屋(6.3平方kmで11%)と0.6km以内のビル(0.56平方kmで1%)の合計12%。
ビルでは火傷が1度減少すると仮定しよう。
だとすれば3.2km以遠のビル住民(11.5平方kmで20%)は負傷しないので重傷から軽傷までの負傷者は68%になる。

ウィキによると広島の場合、爆心地から0.5km以内は即死が90%、加えて一週間後までに5%、11月までに4%が死亡し合計98〜99%が死亡した。
0.5〜1kmは即死が60〜70%で11月までに20〜30%が死亡し合計90%である。
当時の広島市街は木造家屋が大部分なのでビルの多い現代社会とは負傷者と死亡者の比率に大きな差があると思われる。
更に救護体制の差も顕著なので現代では落命せずに済む負傷者も多いであろう。
とは言え、爆発直後に命が助かってもその後の火災で焼死する可能性は高い。
前述した参考例では4.2km以内の住民で即死12%、負傷68%と算定したが負傷後の焼死や傷の悪化による死亡を勘案すると死亡者数は激増する。

また命が助かったにしても財産を失い、職を失い、健康な体を失い、家族や友人を失い、もしくは家族に大きな健康障害が生じたりするのだから大変である。
現代に於いて核兵器が都市に対して使用された時、「一瞬で死亡する人数」より「負傷してかなり苦しんだ後に死亡する人数」や「死亡せずに済んだが自己もしくは家族の負傷で辛い人生を送る人数」の方がかなり多いと考えられよう。
映画などでは一瞬の閃光で「文明の滅亡」でジ・エンドとなるがそれはマヤカシに過ぎない。
核の破壊力が増大すれば「一瞬で死亡する人数」は増えるが加害半径が増大するので「負傷してかなり苦しんだ後に死亡する人数」や「死亡せずに済んだが自己もしくは家族の負傷で辛い人生を送る人数」はもっと増える。
仮に20Mtであったにしても即死するのは木造家屋で30km、ビルで6.4km以内に過ぎず安全圏は53km以遠の遥か彼方だ。
まあ、20Mtなんてデカブツはソ連製重ICBMくらいしか搭載してないが。

さて、話を元に戻そう。
「大威力1発と小威力多数ではどちらが有効か?」と言う話だった。
まず大威力や多数と言っても限りがある。
大威力の上限はソ連製重ICBMの20Mtであろう。
ソ連には100Mt(実験は50Mtに制限して実施)のAN602(通称ツァーリボンバ)があったが大きすぎて弾道弾に搭載できずTu95に搭載された。
だが自由落下式爆弾では敵の上空まで進出せねばならず兵器としての有効性は限りなく低かった。

米国の潜水艦弾道弾ポラリスはA1で0.6Mt、A2で0.8MtだったがA3では0.2Mt3発となり続くポセイドンでは50Kt14発となった。
MIRV(多目標多弾頭)の上限は14発の様でトライデント1、トライデント2でも14発が踏襲された。
ただしトライデント1では100Kt、2では475Ktになっており性能向上の重点は長射程化と破壊力増加に重点が置かれた。 

[4103] EMP爆弾(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/22(Sun) 19:42
さて、R36は20Mtの巨大核弾頭を装備していたがR36Mでは0.75Mt10発となった。
単純計算ではR36Mの破壊力は合計7.5Mtで約1/3に過ぎない。
だが実際はどうであろうか?
まずは核兵器の破壊力についてざっとおさらいしよう。

前に広島に投下されたリトルボーイ(14Kt、爆発高度600m、原料ウラン)の破壊力について熱線(屋外)は爆心から1.2km以内で致命傷、2km以内で死亡もしくは重症の火傷、爆風は2km以内の木造家屋全壊と記述した。
だが核兵器の破壊力算定には諸説あってウィキの「核爆発の効果」では20Kt(爆発高度540m)の破壊力を木造家屋破壊1.7km(ビル0.6km)、火災2km、3度火傷2.5kmとし陸自では20Ktの暴露人員被害を1.7km、重橋梁破壊を0.7kmとしている。
これが1Mt(爆発高度2000m)では20Ktに対し距離が50倍になるかと言うとそんな事はなくウィキでは木造家屋破壊6.2km(ビル2.4km)、火災10km、3度火傷12km、陸自の教範では暴露人員被害9.7km、重橋梁破壊4kmとしている。
50倍にならないのは爆発エネルギーが横方向だけではなく縦方向にも広がり三次元的に拡散される為だ。
なお、20Mt(爆発高度5400m)はウィキで木造家屋破壊17km、火災30km、3度火傷38kmとなっているが陸自では記載されていない。
ウィキでの20Ktと20Mtを比較すると破壊力が1000倍となるのに危害半径は木造家屋破壊が10倍、火災と火傷が15倍になる。
なぜ異なるかは木造家屋破壊が爆風に起因するのに対し火災と火傷は熱線に起因するからである。
つまり計算式が違うのでウィキの数値から中間の100Ktや500Ktを産出するのは面倒であり陸自の数値(0.5、1、2、10、20、50、100、500Ktの各段階で表記)を使用した方が便利だ。
ちなみに20Ktと1Mtの核爆発の加害半径はウィキで爆風が3.6倍、熱線が5倍、陸自が5.7倍となる。

1Mtの場合、ウィキの火災10km、陸自の暴露人員9.7kmの数値から10km以内でアウト、20Ktは1.7〜2km以内でアウトと推測できる。
0.75Mtはどうだろうか?
陸自では0.5Ktを7km、1Mtを9.7kmとしているから8.5kmくらいではなかろうか?

それでは加害面積を計算してみよう。
20Mtの危害半径は30kmなので面積は2826平方kmとなる。
0.75Mtは227平方kmなので10発では2270平方kmだ。
1/3ではないが20Mtの方が2割ほど広い。
では何故、多弾頭化(MIRV)されたのか?
その理由は「モスクワやニューヨーク、パリ、ロンドンなどの大都市を攻撃するには超大型核兵器は有効」だが「多数の中規模都市を攻撃するには核弾頭が多数の方が効率的」だからである。

横須賀の場合を例にとって説明しよう。
陸自の表によれば50Ktの場合、危害半径は2.5kmである。
仮にJR横須賀駅上空でこれが爆発した場合、北西の自衛艦隊司令部まで2.5km、北東の米空母用6号ドックまで1.5km、南東の県立保健福祉大学まで2.5km、南西の池上十字路まで2kmだ。
つまり衣笠、久里浜、浦賀、追浜を除く市街全域が破壊される事を意味する。
500Ktだったら危害半径7kmなので他の地域も全てアウトだ。
ちなみに北鮮が今回、実験したのは250〜300Ktだそうだ。
中規模の都市を攻撃するにはあまり破壊力が大きくなくても充分なのである。

ところで「うちは木造家屋ではなくマンションだから2.5km以内でも安心」と考える方もおられるのではなかろうか?
ところがどっこい、20Ktの場合、0.6km以上離れていればビルは倒れないものの木造家屋が全て破壊されるくらいの爆風が吹き荒れるので爆心方向に向いたガラス窓は全て飛散し周囲に被害を与える。
窓から熱線が入ってくるのでカーテンやカーペットなど可燃物は全て燃え出す。
市街地全域のビル全てで火災が発生するのだから消防署だって何もできない。
破壊された木造家屋は片っ端から燃えるしね。
おまけに横須賀共済病院、ヨゼフ病院、うわまち病院(昔の国立横須賀病院)は全て爆心から2.5km以内にあるので何も出来なくなるだろう。
となったら動けるのは林の市民病院か衣笠病院くらいだ。
多分、ビルの居住者であってもただでは済まないと思うよ。
地下のシェルターにでも避難していれば別だと思うけど。 

[4102] 大連 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/21(Sat) 13:50
大連を覗くのも面白いよ。
中国の新造空母の建造進捗状況がよく判る。
中国人はサービス精神旺盛だね。
隠そうとせず大威張りで見せびらかしたがるから戦争には向いてそうもないよ。 

[4101] 謎の潜水艦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/21(Sat) 08:18
みんな、面白れえぞ!
北鮮がSLBMを搭載する潜水艦を新浦で建造してるらしい事は知ってるよね。
今、さっきグーグルマップの航空写真で北鮮の新浦を見物してたら色々と妙なモノが写ってた。
半島付け根右側に緑色屋根でスロープの付いた細長い建築物がある。
船台だろうなあ。
やっぱ、屋根が付いてるって事は見られたくないんだろう。
工事をするには屋根や壁があっちゃ邪魔だしどう見ても不自然だ。

そしてその右上に防波堤で四角に囲まれた小さな港があり、そこに1隻の潜水艦が泊まっているのだ。
その艦首がね、チャーリー型みたいにズングリと丸いの。
とすると、巷間でゴルフ型のコピーって言われてるのは間違いでもっと高性能なのかも知れないな。
日光の影が映ってるからセイルの形状や大きさも判るよ。
随分と幅がありそうだしSLBMを装備してるんじゃないかな?
それと新浦の対岸にある島の周囲を良く見てごらん。
ロメオ型とおぼしき潜水艦が14隻もいるから。
やっぱ「のぞき見」は止められないね! 

いなくなっちゃう前に早く見た方がいいよ。
あそこの潜水艦が出払った時・・・
それは我々にとってかなりヤバイ時だ。 

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