GS新掲示板 発言集[42](No.4101〜4200)


 

[4200] ガ島補給戦25 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/17(Wed) 19:51
だがコブ山は地質が砂利で壕を掘りにくく防御に適した地形ではなかった。
27日は米軍がママラを砲撃、ついで偵察部隊が接近しいつも通りに経過した。
通常だと次の28日には米軍が猛砲撃を実施するはずである。
だが妙な事に小規模な偵察部隊が出現しただけであった。

ここで矢野少佐は米軍が密林を迂回して包囲して来る事を警戒し「もっと陣地構築に適した地点までの後退」を考え大隊副官を派遣する。
戦史叢書28巻530頁によるとこの時米軍は約400名の迂回兵力を進出させていたらしい。
そして同日夜、矢野大隊はボネギ川東方400mの地点まで後退し陣地を構築した。
29日、米軍はコブ山に猛砲撃を加え偵察部隊が同地を占領している。

やはり前日の後退は正解だったのだ。
だが翌30日、後方の司令部から大橋中佐が作戦指導に派遣されてきた。
29日夜の後退が第2歩兵団長の逆鱗に触れたのである。
第2師団の戦友会誌によるとこの第2歩兵団長は健常者なのに移動に際し担架の上に胡座をかいて運ばせる問題人物だったらしい。
その人物が戦況の推移を無視して死守に近い行動を命じてきたのである。

31日、米軍の砲撃及び偵察部隊の接近がいつも通りに実施された。
だがこの日はたった1両だけだが遂に米軍の戦車が出現した。
何故、1両だけなのか?
それは翌日、戦車による本格的な攻撃を実施する為、地形をテストするのが目的と思われる。
更にこの日の砲撃で山砲が損害を受け残りは1門となってしまった。
この状況で戦車を含んだ敵の猛攻を受ければ壊滅は免れない。

よって矢野少佐はドブ川への後退を決意し大橋中佐も同意した。
矢野大隊が同夜、ドブ川に到着した時、既に歩兵第124連隊の千々和隊(約60名)や第2師団の今井隊(約30名)、森田隊(50名)などが守備しており後方への有線通信も設置されていた。
ここで矢野少佐は後衛部隊に編入された事を知り松田大佐からドブ川陣地で5日間の死守を要請される。
そして大橋中佐は師団司令部へと去っていった。
第2次の撤収に参加する為である。

明けて2月1日、この日は二つの大事件が起こった。
ひとつめは同日夜に実施された第1次撤収である。
第1次撤収は当初、1月31日の予定であった。
しかし有力な米艦隊の接近によりレンネル島沖海戦が発生(米重巡シカゴ撃沈)し1日延期されたのである。
これによって第38師団が撤収した。
以降、日本軍の作戦は第2師団が乗船地域まで移動し後衛部隊が戦線を守る第2段階に移行する。

さて、ふたつめを解説する前に位置関係をおさらいしよう。
ガダルカナル島北岸の中部に米軍のヘンダーソン飛行場が所在するルンガがある。
その西方12kmの地点にあるのが1月24日まで矢野大隊がいたコカンボナだ。
そこから北西に7km離れたドブ川で現在、矢野大隊が守備している。
更に北西へ18km離れた所にあるのがエスペランスでそこから西へ6km離れたカミンボと共に撤収作戦の乗船地域である。
そのカミンボから南西に7km離れた所にあるのがマルボボだ。

2月1日、日本軍の不意をつき1個大隊(第132歩兵連隊第2大隊)がマルボボに上陸したのである。
日本軍がこれ以上、後退できない様に包囲する作戦であった。
かくしてガ島の日本軍は袋の鼠となった。  (続く) 

[4199] 国連軍 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/17(Wed) 17:44
北鮮への経済制裁を進める為、バンクーバーで20カ国外相会議が開催されているそうだ。
顔ぶれを見るとこれがビックリなんだねえ。
ウィキで朝鮮戦争に派兵した17カ国のリストを見てご覧。
今度の20カ国と大体、一緒なのだ。
習の旦那は呼ばれなく腹を立てているらしいが、まあもっともな話だ。
なにしろ朝鮮戦争の時、ソ連と中共はあっち側で参戦してたんだから。 

[4197] Re:[4194] SF世界 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2018/01/16(Tue) 19:47
> 3.国家指導者の所在を隠す。

となると世界中に影武者が満ち溢れますね。
某国は整形外科技術で有名ですから重宝されるでしょう。

> 1は今、一生懸命にやってるけど完璧にできるかどうかは難しい。

そうなんですか。
迎撃ミサイルの数が少ないのが問題なだけで数が揃えば安心だと思ってました。

> 世界中の国家指導者が地下に潜り地表に住む人と決別する。

ジャブローのモグラってやつですね。

[4196] エース列伝(3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/16(Tue) 19:22
「ブレンダン・エイモン・ファーガス・フィヌーカン」

彼は1920年10月16日にアイルランドのダブリンで銀行員の息子として生まれた。
そして11歳の時に航空ショーを見てパイロットになりたいと願った。
両親がそのままアイルランド国民でいたならばその夢は消え去ったか、もしくはアマチュア飛行家となって叶えられたであろう。

だが1936年11月、家族で英国へ移住した為、環境が大きく変わった。
16歳の彼は当初、事務員として就職したのだが17歳の時、英空軍へ志願した。
そして1939年8月、少尉に任官しスピットファイア装備の第65飛行隊に配属される。

初陣は英本土航空戦で1940年8月12日に初撃墜を果たした。
ただし英本土航空戦で彼が挙げたスコアは4に過ぎずさして目立ってはいなかった。
1941年4月、彼は濠州人で編成された第452飛行隊へ転属する。
それまでのスコアは7(協同含まず)で綺羅星の如く並んだエース達とは比べるべくも無かった。

更に5月3日には指揮官機と飛行中に接触事故を起こして負傷してしまう。
だが彼は8月3日から10月13日までに17機を撃墜し大きくスコアを伸ばした。
そして42年1月には第602飛行隊の指揮官に昇進する。

2月20日に負傷してしまうが3月13日には部隊へ復帰した。
スコアはどんどん伸び続け5月17日にはマランと同数で公認では英軍トップの32に達し6月27日、中佐へ昇進する。
ホーンチャーチ基地司令に就任した彼はまだ21歳で英空軍で最も若い中佐であった。

このまま進めば彼は英空軍で最も若い大佐や准将になれたかも知れない。
だが7月15日、彼は対空砲火で被弾し英仏海峡を渡りきれず戦死した。
葬儀はウェストミンスター寺院で行われ2500人が参列したと伝えられる。

彼の撃墜ペースは1941年後半がピークで1942年は低下するが、これは相手が今までのBf109からFw190に代わり防御力が強くなった為である。
堕ちにくくなったので撃墜は出来なかったが撃破は逆に増えた。

1942年以降で彼が撃墜したFw190は6機(協同を含まず)だが撃破は5機に及ぶ。
パイプ愛好家の彼は通称パディーと呼ばれており視力が良くて射撃が上手く若いながらリーダーとしても優秀であった。
性格がおくゆかしく内気なので機体にスコアマークを表記せず出撃前は禁酒するなど自制心にも優れていた。

良い所だらけの名パイロットだが事故が多い事と若くして戦死した事から幸運にはあまり恵まれていないようである。
1941年に彼が乗機としていたスピットファイアはウィーゼー・アンナ号と命名されており機体がダークグリーンとオーシャングレーの迷彩で下面はミディアムシーグレー、スピナーは白で胴体に空色の帯が1本描かれていた。
コードレターはUDWである。



「アドルフ・ギズバート・マラン」

1910年3月24日、彼は南アフリカのウェリントンで裕福な牧場主の息子として生まれ13歳で海軍に入隊(彼の通称がセーラーである由縁)した。
その後、1924年2月にユニオンキャッスル蒸気船会社に入社する。
幹部候補生となった彼は練習船ジェネラル・ボーサ号に3年間乗り航海士へ昇進した。

だが彼は航海士になったにも関わらずリンドバークの大西洋単独横断飛行(1927年5月20日)に感化されてしまった。
船への情熱が冷めパイロットを志望するようになったのである。
かくして彼は1935年末にイギリス空軍へ入隊して操縦訓練を受けた。

1937年1月6日に彼は少尉に任官し第74飛行隊へ配属されている。
またこの頃、リンダ・フラサーと結婚した。
第74飛行隊の装備機は当初、複葉のグロスター・ガントレットだったが1939年2月からスピットファイアへ機種変更された。

翌月、彼は大尉へ昇進し1939年9月の大戦勃発を迎える。
1940年5月にダンケルクで初陣を経験した彼は5月21日に初撃墜を挙げた。
以降、5月27日までに5機を撃墜しエースとなる。
ちなみに彼が撃墜したのは全て爆撃機であった。

更に6月には英軍初の夜間撃墜を果たす。
この時、彼の妻は出産直後であり首相が名付け親となった。
7月28日には独のエースであるメルダースと戦い負傷させる。

8月には第74飛行隊の指揮官に昇進し11月末までにスコアを18まで伸ばす。
1941年3月、彼はビギンヒル基地の司令に昇進し6月には9機を撃墜した。
それなのに彼は年齢及び肉体的な限界を悟り7月には実戦配置を離れる。

もっと長期間、前線勤務を続ければ何時かは戦死するだろうが5機や10機、スコアを伸ばせたであろう。
多くのエースはそれを望む。
だが彼はそうしなかった。
個人的な功績より英空軍全体への貢献を選んだのである。

もし彼のスコアが10増えても枢軸側は10機の航空機を失うだけだ。
しかし彼がスコア10のエースを10人育て上げれば枢軸側は100機の航空機を失う。
この為、彼は「空戦十則」を定め部下の教育に力を尽くした。

もっとも彼のスコアは決して少なくはない。
1944年6月30日にJ・E・ジョンソンがスコア33を挙げるまで公認記録では彼の32が英国トップだった。
フィヌーカンも同位だったが1942年7月に戦死している。
つまり彼は3年間に渡り英軍のトップエースだったのである。

前線を去った彼は渡米し帰国後に大佐へ昇進、航空射撃学校校長に就任する。
ついで1944年7月、高等航空射撃学校(キャットフォス)の校長に任命される。
キャットフォスは各戦線から選り抜きのエースを集めて戦技研究をする現代のトップガンに相当する組織であった。

彼は戦後、南アで反アパルトヘイト運動にたずさわる政治家となり1963年9月17日に死去した。
1941年に彼が乗機としていたスピットファイアは機体がダークグリーンとオーシャングレーの迷彩で下面はミディアムシーグレー、スピナーは空色で胴体にも空色の帯が1本描かれていた。
コードレターは表記されず彼のイニシャルのGMAが表記されていた。
彼は焼夷弾と近距離集弾を好む射撃の名手で愛犬の名前はピーターであった。 

[4195] アップデートのお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2018/01/16(Tue) 18:46
本日「アップデートサービス」のページを更新し、
 『太平洋戦記3アップデートプログラムVer2.01』
 『太平洋戦記3アンインストーラー』
 『大和計画アップデートプログラムVer1.21』

をリリースいたしました。
http://www.general-support.co.jp/update.html 

[4194] SF世界 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/16(Tue) 09:49
核ICBMの実用化に成功したら変な髪型の肥満児は世界中の国家元首に宣言するだろう。
「俺はおまえらのどいつでも殺れるんだよ。同時に全部は無理だけどね。」と。

核ICBMの保有国は言うだろう。
「ああ、そうかい。でもこっちはおまえよりたくさんもってるんだ。そっちを民族ごと消し去ってやるぜ。」と。
肥満児は答える。
「別にかまわねえよ。刺し違えればいいんだ。」と。
テロリスト国家の指導者は選挙で選ばれる訳じゃないから自国民がどうなろうと大して気にしちゃいないのだ。
こうなるとどの大国も北鮮と立場はイーブンだ。

となると・・・
各国の国家指導者は以下の手段を取らざるを得ない。
1.核ICBMに対する完全な阻止手段を獲得する。
2.核に耐えうる地下の防御施設を構築する。
3.国家指導者の所在を隠す。
先制攻撃で北鮮の核ICBMを排除するって手段もあるけどすぐに撃ち返してくるかも知れないからリスクが大きい。
1は今、一生懸命にやってるけど完璧にできるかどうかは難しい。

やっぱり2と3になんるんだろうな。
「えっ!国民はどうなるの?国家指導者だけ安全ってアリ?!」って声が聞こえそうだ。
でもね、国家指導者を隠す事で核攻撃を未然に防げるなら国民にとっても有益なんだよ。
まあ、「地表に住む人は皆、人質」って話になるんだけどさ。

世界中の国家指導者が地下に潜り地表に住む人と決別する。
まるでSF世界みたいだ。

[4193] Re:[4192] [4190] [4189] これは演習ではない 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/15(Mon) 20:05
> ペンス副大統領はどうなっちゃうんでしょうね?

さあてね。
通常、外交儀礼だったら国務長官がいくでしょ。
でも国務長官やジェネラルズが行くと何かあった時、政権自体が回らない。
かといってイバンカさんなどの家族に何かあったら嫌だろう。

だからペンスが選ばれたんじゃないかな?
いなくなっても当面は問題ない人物として。
だって、副大統領ってのは「大統領にもしもの事があった時以外は無用の存在」として有名だもん。

って事は・・・
「もしも」があると米国は考えてるって事かな?
いずれにせよ安倍首相や小池知事が出席を見合わせたのは正解みたいだ。 

[4192] Re:[4190] [4189] これは演習ではない 投稿者:いそしち 投稿日:2018/01/15(Mon) 19:16
> 五輪開催中は半島中央部に人質がワンサカだ。

ペンス副大統領はどうなっちゃうんでしょうね?
たしか冬期五輪に派遣されると報道されましたが。

[4191] エース列伝(2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/15(Mon) 17:01
「デビッド・L・ヒル」

テックス・ヒルとして知られる彼は大戦前半期に国民的英雄として名を馳せた異色のエースである。
ちなみにテックスとはテキサスを意味し日本的に言えば「テキサス野郎」といったニュアンスになる。
その名を体現するが如く彼はいつもカウボーイブーツを履いていた。

ただし彼の出生地はテキサスではない。
1915年7月13日にキリスト教宣教師の息子として韓国で生まれた彼は6歳の時に米国のテキサスに帰国した。
彼は大変、腕力が強くオースチン大学ではボクシングの選手としてテネシー州ミドル級チャンピオンにもなっている。

その後、1939年に彼は海軍へ入隊しパイロットとなった。
彼はSB2U艦爆やTBD艦攻を操縦する爆撃機乗りとして空母サラトガや空母レンジャーで勤務し1941年には空母ヨークタウンに乗り組んでいた。
排水量19875t、搭載機数87機のヨークタウン型は1933年度計画で2隻建造された米海軍初の本格的量産型空母であった。

乗艦中の彼は友人のレクターと共に海軍を辞職しフライングタイガースへ入隊(一説によれば艦内ではなくノーフォーク航空基地で辞職したとも伝えられている)した。
シェンノート将軍率いるフライングタイガースは正規のルートを辿らずに中国国民党政府に対する米国の軍事支援を行う目的で設立された傭兵部隊で100名のパイロットが募集された。

予定された兵力は米陸軍のP40戦闘機100機である。
パイロットには敵を1機撃墜するたびに給料とは別に500ドルの報償が約束された。
しかし100名のパイロット(一説によれば110名)が集まったものの肝心の陸軍航空隊出身パイロットは僅か15名(他は海軍及び海兵隊出身)に過ぎなかった。
また100名のうち戦闘機パイロットは17名だけだったので募集はしたものの相当の飛行訓練を必要とした。
この飛行訓練中に40名のパイロットが脱落している。

だがフライングタイガースは開戦を迎えるやいなや獅子奮迅の活躍をし多くのエースを生み出した。
彼が初めて日本戦闘機と空戦したのは開戦後、1ヶ月近く経った1月3日で相手は77戦隊の97戦であった。
この空戦で彼は相手を撃墜したものの33発被弾している。

以降、彼は半年の間に12機を撃墜しエースの座を不動の物とした。
更に彼はサルウィン河防衛戦が激化した5月6日からは爆装のP40に搭乗して対地攻撃を繰り返し元爆撃機乗りの実力を発揮した。
フライングタイガースが米陸軍航空隊に吸収され発展的解消を遂げると彼は米陸軍に移籍し75戦闘飛行隊の指揮官となった。

以降、マラリアと赤痢で苦しみつつも1944年秋まで前線で戦い続けてスコアを18にまで伸ばし最終的には准将にまで昇進した。
1945年に彼が乗機としていたP51はOD単色(下面はニュートラルグレー)でスピナーは赤、尾翼に黄帯2本があった。
機番は267、当然、機首にはシャークティースが描かれていた。



「ジョン・コールマン・ハーブスト」

全米35位のエースだが1位から40位の中でもっとも高齢であった。
彼より高齢のエースは日本陸軍のトップ15及び日本海軍のトップ50に存在しない。
更にドイツのトップ25や英のトップ35、ソ連のトップ10にも存在しない。

彼は1909年9月25日、カリフォルニア州のサンディエゴで生まれた。
1932年に南カリフォルニア大学を卒業した彼は精油会社へ就職している。
趣味は航空機の操縦で戦争さえ無かったら良き家庭人として豊かで平穏な人生を送っていたであろう。

だが第二次世界大戦の勃発が彼の運命を変えた。
急遽、戦闘機パイロットへの道を志したがもはや年齢的に米陸軍航空隊は無理であった。
そこで彼は1941年5月に隣国のカナダへ渡って英空軍に入隊した。

この時、既に彼には7歳になる息子がいた。
家庭を捨て祖国と交戦していない国と戦う為に他国へ渡る胸中はいかばかりであろう。
訓練終了後、彼は地中海戦域に配属されBf109を1機撃墜している。

その後、英空軍に在籍した米国人パイロットは逐次、米空軍へ編入され、彼も1942年5月に米国軍人となった。
だが米陸軍航空隊が彼に与えた任務は戦場のパイロットではなく訓練教官であった。
しかし彼は諦めずエグリン基地で懇意になったフライングタイガースのエースとして名高いテックス・ヒルに中国戦線への配属を頼み込んだのである。

もはやこの時点で彼は34歳(理由はさだかでは無いが最初の妻とはこの時に離婚した)であったが1944年5月7日、中国戦線の米第14空軍に配属される。
そして6月17日には日本相手の初撃墜を果たした。
彼は当初、P51装備の第75戦闘飛行隊に配属されていたが同年7月上旬にはP40装備の第74戦闘飛行隊の指揮官に任命されスコアをぐんぐん伸ばしていく。

だが彼は指揮官としても有能だった為、戦死を恐れたシェンノート将軍はスコアが11になった時、彼を地上勤務に転属させてしまった。
第74戦闘飛行隊は空戦で64機撃墜し162機を地上撃破したが空戦での自軍戦死者数は0だったのである。
最終的に彼は144回の出撃でスコア21(18とする説もある)を挙げ1945年2月には中佐に昇進した。
なんと彼は「訓練の名目」で出撃し12機以降のスコアを挙げたのである。

彼は高齢だったので通称パピー(父親の意)と呼ばれていた。
戦後はテストパイロットや実験飛行隊の指揮官として活躍したが1946年7月4日の建国記念デモフライトで息子と2度目の妻の眼前で事故死した。
テックス・ヒルは彼を「知る限りでのベストパイロット」と絶賛している。



「W・ウルバノビッチ」

1908年3月30日にアウグストゥフで生まれた彼は1926年、ポーランド陸軍へ入営した。
その後1926年に空軍士官学校へ入校、1933年にはパイロットの資格を取得した。
当初、彼はワルシャワの第1爆撃連隊に配属されていた。
だが戦闘機搭乗員に転向し第111飛行隊や第113飛行隊に所属が変わった。

なお、1936年8月に彼はソ連の領空侵犯機を撃墜している。
この為、彼は懲罰として訓練部隊の教官に左遷されてしまった。
そして彼は多くの練習生を抱えた教官のまま第二次世界大戦の勃発を迎えたのである。

彼が実戦で存分に腕が振るえないうちにポーランドは降伏した。
ルーマニアへの脱出を余儀なくされた彼はフランス経由で英国に渡った。
勿論、枢軸側と戦い祖国を取り戻す為である。

彼は当初、英空軍の第145飛行隊に配属され8月8日に英国での初撃墜を挙げた。
そして英国でのスコアを4に伸ばしてから1940年8月21日にハリケーン装備の第303飛行隊に転属した。
この飛行隊は別名コシュースコ部隊と呼ばれ殆どの搭乗員がポーランド人であった。

操縦技術が優秀で士気も高いこの部隊は「英語が下手」と言う理由だけで実戦に参加できず悲嘆に暮れていた。
だが8月30日から実戦参加が許可され彼のスコアも伸びていった。
彼は9月7日には第303飛行隊長に抜擢され9月27日に4機、9月30日にも4機を撃墜している。

その後、1941年4月にポーランド第1航空団の初代司令に就任した。
ついで同年夏には渡米し後に駐米大使館付武官を命ぜられる。
彼は前線勤務を望んでいたが通常、大使館付武官であれば実戦に参加する機会はない。

そこで彼は知己となった米軍のシェンノート将軍(フライングタイガースを設立した人物)に中国大陸に展開する米第14空軍への派遣を頼み込んだ。
彼は1943年10月23日に中国へ派遣され第16戦闘飛行隊や第74戦闘飛行隊、P40装備の第75飛行隊に所属し日本陸軍の第85戦隊などと戦ってスコアを挙げた。
部隊が何度も変わったのは駐在武官の派遣で正式な所属ではなかったからである。

だが駐在武官が何時までも前線で戦っている訳にはいかない。
1943年12月には帰米を命ぜられて駐在武官の職務に戻り終戦まで米国に駐在した。
1945年7月には中佐として退役し一旦、ポーランドに帰国するが共産国となった母国の風は冷たく結局は米国に帰化し民間航空会社で勤務する。
そして1996年8月17日、彼はニューヨークで死去した。
スコアは英本土航空戦で17機とする資料や英国での合計19機とする資料などがある。
これに中国でのスコア(3機説や11機説がある)と戦前の1機を加えると最大31となる。
搭乗員としての特徴は空戦で1回も被弾しなかった事につきよう。
これは巧みな操縦技術と天性の勘に恵まれていなければ達成できない。
彼は無口で物静かな美男子であり通称はコブラであった。 

[4190] Re:[4189] これは演習ではない 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/15(Mon) 16:08
テロリストは多数の人質が確保できる時に行動を起こす。
五輪開催中は半島中央部に人質がワンサカだ。
よって米国は五輪開催中だと如何なる事態が生起しても大規模な武力行動を実施できない。

地図で平昌の位置を確認するといいよ。
平昌駅から北鮮国境までたった89キロなのだ。
もっと国境に近いソウルに宿泊して会場に行かれる方も多かろう。
北鮮が長射程ロケットランチャーを撃てばみんなオシマイである。

北鮮が武力行使をしなくとも「北鮮が核実験を再開した時の対処」として米軍が核攻撃を実施するかも知れない。
だが米軍が北鮮を核攻撃した場合、風向きによってはフォールアウトで甚大な被害が生ずる可能性がある。
だから米軍は五輪開催中は何もできない。
たとえ多数の空母を沖合に遊弋させてもね。

世界中から人質が自発的に集まってくれるんだ。
これを逃すとは考えられない。
北鮮に取って五輪開催は誠に有り難いお祭りだ。 

[4189] これは演習ではない 投稿者:legerity 投稿日:2018/01/14(Sun) 22:58
ハワイの知人が弾道弾警報の誤報で驚かされたとFBにアップしておりました。見ると、例のThis is not a drill.の記述もありました。これってどうやら、緊急時の慣用句なんですね。
しかし、避難しろと言われても備えもないので、ビーチに逃げた人もいたとか。実戦だとどうなっていたやら... 

[4188] ガ島補給戦24 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/14(Sun) 19:32
ここで第17軍の布陣に目を転じよう。
前述の如く沿岸部は第2師団、内陸部は第38師団が担当している。
そして撤収する乗船地域はカミンボとエスペランスである。
常識的に考えるなら前線では両師団及び各独立部隊が並列に展開して戦線を形成し米軍と対峙しているので各部隊から少しずつ撤収させればよい。
もしくはまず沿岸部の第2師団を第1次で撤収させ、同時に内陸部の第38師団を沿岸部に移動させてから第2次で撤収させる方法もある。
だが第17軍が決定したのは第1次で第38師団、第2次で第2師団という撤収順序であった。

いずれにせよ全部隊が乗船地域へ向かって後退すれば良い訳ではない。
当然、米軍の追撃を防ぐ部隊が必要となる。
よって後方へ下がりながら戦線を縮小し乗船地域へ向かう撤収部隊と戦線を維持する防御部隊で前線は錯綜した。

矢野大隊主力が前線の百武台に到着し陣地を構築したのは1月17日であった。
同日、第1中隊も前線の宮崎台に到着している。
そして翌日より1日1食に食事制限される。
当初、保有した食糧が10日分、これまでに4日分食べているので残り6日分を3倍の18日分とする為であった。
1月18日から18日後は2月5日である。
果たして矢野大隊が第3次撤収でガ島を後にしたのは2月7日であった。
もっとも撤収が本格化してからは備蓄してあった食糧の交付が多くなっていったので後衛部隊は極端な飢餓に陥らずに済んだのであるが。

さて、守備についた矢野大隊に対し米軍は迫撃砲の猛射を加えた。
この時点ではまだ第17軍による撤収機動命令は発令されていない。
よって指揮下の全部隊は前線ならびに後方で守備配置についている。
そして1月20日午前10時、第17軍は撤収機動命令を発令した。

内陸部にあった第38師団は沿岸部の乗船地域に向かい後退を開始、22日にはコカンボナを通過する。
ついで22日夜には第2師団にもコカンボナへの転進命令が下る。
第38師団の隷下にあった矢野大隊主力はコカンボナで第2師団の隷下に移り23日払暁より同地で陣地を構築した。
またここで第1中隊が矢野大隊主力と合流している。

更に23日早朝には後方から矢野大隊の山砲中隊が到着した。
土肥山砲中隊長は矢野大隊唯一の大尉であり次席指揮官である。
早速、5〜6発米軍へ砲撃を加えたところ数百発の反撃を受け砲撃を中止する。
この砲撃では米軍に損害を与えられなかったが後日の作戦に大きな影響を及ぼす。

24日夜、軍司令部から矢野大隊へママラへの転進が命ぜられる。
すぐに同地へ向かい陣地を構築する。
この様に夜間移動し陣地構築が繰り返されるが1日1食の給養状況で壕を掘るのは大きな負担となる。
ましてや将校はシャベルなどを携行しておらず鉄帽で掘らねばならない。

夜が明けるなり米軍は前日まで在陣したコカンボナへ猛砲撃を実施する。
23日に山砲を5〜6発撃った為、米軍は日本軍の前線に砲兵が進出している事を察知し安易に接近できなくなったのである。
充分な砲撃をした後の1400、米軍の偵察隊はコカンボナを占領してママラに接近、矢野大隊はこれを小火器火力で伏撃した。

米軍偵察隊の撤収後、米軍はママラへの砲撃を実施するが既に日没近くになっており大きな被害はでない。
ただし翌日は米軍からの猛烈な砲撃が矢野大隊を襲った。
そして昼にはやはり米軍偵察隊が出現し小火器の交戦となる。

今回も米軍偵察隊の撃退には成功したが明日、本格的な攻撃を受ければほぼ玉砕は必至の状況を迎える。
よって26日夜、矢野少佐は独断でコブ山までの後退し同地に陣地を構築した。
矢野大隊が守備したこれらの陣地は後方の司令部と伝令以外の通信手段を持たず独断で行動するしかないのである。   (続く) 

[4187] エース列伝(1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/13(Sat) 20:48
「杉田庄一」

彼は大戦中盤以降に活躍した日本海軍のエースである。
実家は新潟の山深い農家でバスも通っておらず険しい道程を小学校6年、高等小学校1年の7年間、通学し1940年、15歳で舞鶴海兵団に入隊した。
以降、予科練丙3期に合格し1942年4月、戦闘機搭乗員となる。

彼が初めて配属された部隊は第6航空隊で当時、木更津に展開していた。
零戦装備の6空は占領地にいち早く進出し制空権の奪取を目的とする部隊で前線での機動運用専門に編成されていた。
当初、6空はミッドウェー作戦後、同地に進出する予定であり彼も輸送船に乗船してミッドウェー作戦に参加した。

だがミッドウェー海戦は日本海軍の大敗に終わった。
やむなく6空のミッドウェー進出は中止となり彼も日本に帰還している。
そして8月7日、米軍のガダルカナル上陸を皮切りとして戦局の焦点はソロモン方面に移り6空もまたラバウルへ進出する事となった。

6空の先発部隊は8月21日にはラバウルへ進出したがまだ新米であった彼は内地に残留を命ぜられた。
その後、10月7日に6空本隊と共に彼は空母瑞鳳でラバウルへ進出している。
ついで6空はブインへ進出、11月1日には部隊名も204航空隊と変更された。

この時点で彼はまだ新米であり初撃墜を果たしていない。
彼が初撃墜を果たすのは12月1日、相手はB17である。
この空戦で彼は肉薄攻撃で敵機と追突し果敢な攻撃精神を如何なく発揮した。

以降、ポートモレスビー攻撃や船団の上空直衛、ブイン防空戦などを転戦し翌年4月18日までに28機(重爆9機を含む)のスコアを挙げる。
だがこの日、大きな不幸が彼に訪れた。
彼が護衛(彼の他に5機)する連合艦隊司令長官山本五十六大将搭乗の1式陸攻をP38が迎撃し山本長官が戦死してしまったのである。

大きな自責が彼を襲った。
だが彼は戦い続け8月26日にブインで撃墜され負傷するまでスコアを延ばし続けた。
一旦、内地へ帰還し療養後、彼は大村航空隊で教員配置に就きソロモン戦多数撃墜者として表彰される。

彼が前線に戻るのは1944年3月に263航空隊へ転属してからである。
同部隊は濠北、マリアナを転戦、ダバオで201空と合流し解散する。
ついで彼は本土に帰還し紫電改装備の343航空隊(通称「剣部隊」)に配属され本土防空戦で活躍したが1945年4月15日、離陸直後を攻撃され戦死した。

戦死時の階級は上飛曹であったが二階級特進し少尉となる。
スコアは70機とされているが120機とする説もある。
彼は豪放磊落で闘志の塊でありアッケラカンとした性格をしていた。
常に気合いで行動するタイプであり「天性の勝負師」と言えよう。
家族には「空中戦というもんはのう、とにかく勝つか負けるしか、なかでのう」と語ったと伝えられる。



「坂井三郎」

日本でもっとも高名なエースである。
「僚機を1名も失わなかった」、「1対15の空戦を切り抜けた」、「敵基地上空で編隊宙返りをした」、「片目になっても戦闘機乗りとして通用した」、「終戦後、最後の空戦でB32を撃破した」など数多くのエピソードを持つ。
ただしこれらの中には信憑性に疑問が持たれている例もある。

彼のスコアは60数機とされるが、能力的には取りたてて操縦が上手い訳でも射撃が上手い訳でも勘が優れている訳でもない。
他人より優れている点があるとすれば視力であり、これも天性の物ではなく訓練によって得た能力であった。
彼はこの能力を最大限に活かし自己の克己心と精神力を鍛え上げ本来の能力以上の働きを示した。
その結果として60数機のスコアを挙げ戦争を生き抜いて来られたのである。
まさに「空戦のプロフェッショナル」と言えよう。

1916年生まれの彼は1933年、佐世保海兵団に入隊し戦艦霧島に配属された。
配置は副砲の砲手である。
その後、砲術学校を優秀な成績で終了し戦艦榛名の主砲砲手として配属される。
だが彼は一念発起して操縦練習生を受験し1937年4月、航空兵へ転科した。

つまり元は砲術系であり航空兵としては遅れて参入した「遅咲きの花」だったのである。
彼と同年に入隊し兵曹長まで同時に進級したパイロットに片翼飛行の帰還で有名な樫村寛一がいる。
樫村は1934年2月に航空兵となっているので同じ階級ながらパイロットとしてのキャリアは常に3年以上の差がついてしまう。
彼はこの差を視力の強化や編隊空戦のチームワークで補おうとした。

遅れてパイロットとなったのだから日華事変での彼のスコアは階級の割に少なく僅か4機に過ぎない。
だが精鋭台南航空隊の小隊長として開戦後はメキメキとスコアを伸ばしていった。
比島航空戦や蘭印航空戦、ニューギニア航空戦などで彼のスコアは50以上に達する。

しかしガダルカナルに上陸した米船団に対する攻撃で負傷し内地送還を余儀なくされた。
以降は教官任務に従事していたが1944年5月、実験部隊である横須賀航空隊に転属し同部隊の精鋭で編成された八幡部隊の一員としてマリアナの戦いで出撃する。
その後、松山の343航空隊勤務を経て1945年7月、再び横須賀航空隊に戻り終戦を迎えた。

彼は優れた視力を活用して常に敵を先制発見し、敵の視界外から接近して攻撃するのを得意とする。
もし敵に察知され巴戦となったなら無理に敵を倒してスコアを挙げるより自己が生還する道を優先した。
こうした合理的な空戦を実施する為、彼は常に健康に気を配り酒も呑まなかった。



「羽藤 一志」

羽藤二飛曹は序盤のラバウル航空戦で活躍した海軍航空隊の若手エースである。
1922年8月18日、愛媛県今治で誕生した羽藤は1938年6月に予科練乙飛9期として海軍に入隊した。
彼は搭乗員としての教育終了後、1942年2月1日に南太平洋を守る千歳航空隊(千歳空と略)へ配属される。
なお、この部隊には後に日本海軍最強のパイロットとして名を馳せる西沢(乙飛7期)が彼の先輩として既に在隊していた。

そして2月中旬、ラバウルを最前線とする千歳空の派遣部隊から第4航空隊(以下4空と略)が新設され両名は揃って転属する。
更に4月16日に台南航空隊(以下台南空と略)が同地へ進出するにおよび4空の戦闘機隊はこれと合流し台南空へ編入された。
こうして羽藤は坂井、笹井、太田などのエース達と巡り逢う。

ただし5日前の4月11日にラエ防空戦(P40を1機撃墜)で初撃墜(4月10日のポートモレスビー攻撃で初撃墜との資料もある)を挙げたばかりの羽藤は駆け出しのヒナであり渾名は「ポッポ」であった。
この名は彼の名(ハトウ)と「ハトポッポ」に由来する。
しかしポッポは鳩にとどまっておらず猛者揃いの台南空の一員としてラバウルや前進基地のラエで激戦を繰り広げ、瞬くうちに猛禽に成長した。

だが戦局の悪化は台南空搭乗員に重くのしかかり次々と偉大なエース達が失われていく。
8月7日のガダルカナル攻撃で羽藤は「大空のサムライ」として名高いエース坂井の3番機として出撃する。
そしてこの空戦で坂井は重傷を負い戦列を去る。

更に8月26日の出撃では笹井中隊長の3番機として出撃するがこの日の空戦で笹井中隊長は未帰還となる。
ついで9月13日、とうとう彼に順番が巡ってきた。
ガダルカナルへ出撃した零戦9機編隊の最後尾に位置する彼はグラマンF4Fの奇襲を受け儚くも散華した。

まだ二十歳であった。
彼の戦歴は初撃墜から戦死まで僅か5ヶ月あまりに過ぎない。
だがその間に彼が撃墜した敵機は公認19機を数える。 

[4186] ガ島補給戦23 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/12(Fri) 19:40
松田大佐が実戦経験皆無なのは前述した通りだ。
だが久留米第1予備士官学校の中隊長から大隊長要員としてラバウルに来た矢野桂二少佐は実戦経験が豊富であった。
矢野少佐は台湾歩兵第1連隊の中隊長として日華事変の武漢三鎮攻略作戦や海南島攻略作戦、南寧作戦などを転戦している。

歴戦の将校がベテランの兵士を引き連れた精鋭部隊は強いと誰もが考える。
だが果たして「いつでも強い」だろうか?
確かに矢野少佐は歴戦の将校だが矢野大隊の兵士は実弾射撃訓練の経験すら無い高齢の補充兵である。
だがガ島撤収作戦では巧みに戦い、見事に任務を果たした。

それに比べ一木支隊の基幹である歩兵第28連隊はどうであったろうか?
歩兵第28連隊はノモンハン事件に従軍した歴戦部隊である。
ノモンハンに於ける損害は参加兵力1770名、戦死568名、負傷675名に及ぶ。
負傷者のうち何名が退役したのは判らないが部隊全体として実戦経験が豊富なのは確かだ。
その一木支隊第1梯団916名は最初の交戦で約780名を失い壊滅した。
どうやら歴戦の精鋭部隊が「いつでも強い」とは言えないようである。

さて、1月14日にガ島へ到着した矢野大隊は16日午後の第17軍作戦命令により大隊主力は内陸部に布陣する第38師団、大江中尉が指揮する第1中隊(3個小隊を配属し増強)は海岸沿いに布陣する第2師団へ配属された。
これを受けて翌日、第38師団長は矢野大隊主力を歩兵第229連隊への増援に派遣する。
当時、ガ島の日本軍は第2師団を沿岸部、第38師団を内陸部に配置して米第25師団、アメリカル師団、第2海兵師団からなる優勢な米第14軍団(パッチ少将)と対峙していた。

この時点で既に緒戦時の強敵であった第1海兵師団はガ島を離れている。
だがガ島在陣の米軍兵力は1月7日の時点で5万名を越えていた。
それに対し日本軍の兵力は前年11月20日の時点ですら総兵力20671名(戦闘可能な兵員13325名)と劣勢(出典戦史叢書28巻付録)であり1月中旬の戦闘可能な兵力は1万名を割り込んでいたのである。
つまり2個師団対3個師団の戦いではなく兵力比1対5の戦いになろうとしていた。
重火器の数量差や弾薬の備蓄量などを考慮すれば実質的な戦力差は10倍以上と思われる。
なにしろ前年11月20日の時点で第17軍が保有していた100ミリ以上の火砲は15榴12門、10榴4門に過ぎなかったが米軍の1個師団は野砲兵4個大隊で105ミリ榴弾砲36門、155ミリ榴弾砲12門を保有しており第14軍団の直轄砲兵を除いても200門以上であった。
小火器の不足も深刻で矢野大隊だけは人員570名(擲弾筒や軽機、重機、山砲の要員及び弾薬手も含む)の時点で小銃344丁を保有していたものの歩兵第28連隊などは兵員300名に対し小銃は僅か56丁しか保有していなかった。
そして日米の戦力差は時間の経過と共に逐次、増大していった。

こうした状況下、米軍は1月中旬を期してアウステン山を攻略し漸次、西進して日本軍主力を包囲殲滅する事を目論んでいた。
アウステン山を守備するのは歩兵第124連隊(元の川口支隊)や歩兵第228連隊などである。
アウステン山の守備隊は大隊単位で次々と包囲されて壊滅し日本軍は後退のやむなきに至った。
ここに矢野大隊が到着したのである。

さて、日本軍の撤収計画だが第1次で第38師団、第2次で第2師団及び第17軍司令部と軍直轄部隊、第3次で矢野大隊や歩兵第28連隊(元の一木支隊)、歩兵第124連隊(元の川口支隊)などで編成された後衛部隊となっていた。
ガ島へ投入された部隊は一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団、矢野大隊の順序で上陸している。
つまり妙な事に撤収作戦では矢野大隊を除き順序が全く逆なのだ。
撤収は後になるに従って困難となり「第3次はほぼ絶望」と見られていた事は前述した。
よってこの撤収順序は大きな意味をもつ。   (続く) 

[4185] 航空機用発動機(その21) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/11(Thu) 15:35
中島(その3):

かくして日本の航空機用空冷エンジンの雄たる中島飛行機は9気筒の寿と光で国産化の偉業を達成した。
ついで14気筒化に際しては既存のシリンダー以外にも新シリンダーを採用した。
寿は14気筒のハ5が開発されたが光は14気筒化されず新たに内径155ミリ、ストローク170ミリの護(排気量44.9L、エンジン直径1380ミリ)が大型エンジンとして開発された。
更に小型エンジンとして内径130ミリ、ストローク150ミリの新シリンダーを使用した栄(排気量27.9L、エンジン直径1150ミリ)が開発されたのである。

栄の特徴は日本の航空エンジンの中では極端にシリンダーの内径が細い事であった。
これより細いのは空冷直列4気筒の初風(排気量4.3L、内径105ミリ)や空冷星形単列7気筒の神風(排気量8.37L、内径115ミリ)くらいでこれらは栄と同サイズのシリンダーを使用した空冷星形単列9気筒の天風(17.9L)と共に練習機などへ装備されていた。
他国の実用機用エンジンでも栄ほど内径が細い例はあまり見られない。

栄の対抗馬であった三菱の空冷星形複列14気筒エンジン瑞星は排気量28Lだったがシリンダーの内径は140ミリ、ストロークは130ミリであった。
栄と比べると排気量は互角だがシリンダーの形状に設計思想の差が大きく表れている。
瑞星の内径は栄より10ミリ太くストロークは逆に20ミリ長い。
つまり極端にズングリしているのである。

シリンダーがこの様な形状であればエンジン直径が小さくなり空気抵抗が軽減される。
だから瑞星のエンジン直径は1118ミリで栄より32ミリ小さい。
当時は「水冷でなければ600q/hを突破できない」との風説が罷り通っており空気抵抗が高速力発揮の壁と考えられていた。
三菱の開発陣はその影響を大きく受けていたと思われる。
雷電の設計に際してもプロペラ延長軸や紡錘形カウリングなどを採用し実用性を無視しても空気抵抗軽減に対処している。
それに比べ中島の2式単戦は同じ爆撃機用大型エンジンを装備した迎撃戦闘機でありながら普通に装備しており殊更、空気抵抗軽減に努力した形跡は窺えない。
爆撃機用の大型エンジンにしても三菱の火星と中島の護は双方ともストロークが170ミリで等しかったがエンジン直径は火星の1340ミリに対し護は1380ミリと大きかった。

中島とてエンジン直径を小さくする事に無頓着だった訳ではない。
金星と栄、ハ43と誉を比較すると同一気筒数で同一ストロークだが中島製の方がエンジン直径が小さい。
これはクランク周辺部が小さいからでありシリンダーの間隔が短くなる。
つまり三菱は空気抵抗を減らす為に紡錘形カウルを採用したりストロークの短いシリンダーを採用したのだが中島はクランク周辺部を小さくしたのである。
クランク周辺部を小さくしたのは当時の日本に於いてあまり良い結果を生まなかった。

さて、栄は戦闘機用の小型エンジンとして開発されたが、最初に装備したのは1939年12月に制式化された日本海軍の97式艦上攻撃機3号型であった。
その後、1940年7月に制式化された零戦11型に装備され陸軍の99式双発軽爆撃機(1940年5月制式化)や1式戦1型(1941年5月制式化)にも装備された。
これらの栄は1速式過給器の1X型で日本陸軍ではハ25と呼称していた。

ついで過給器を2速とした2X型(陸軍ではハ115と呼称)が量産され零戦22型や32型、52型、1式戦2型、夜間戦闘機月光、99式双発軽爆撃機2型などに装備された。
更に大戦末期には水メタ噴射装置を付加した3X型(陸軍ではハ115ルと呼称)が開発され1式戦3型に装備されたが水メタ噴射装置の生産は順調に進まなかった。
そこでやむなく水メタ噴射装置を省略した31甲型が生産され零戦53/63型に装備された。
よって31甲型の性能は高度性能の適正化を除き実質的に2X型と殆ど変わらなかった。

零戦は日本航空史上の最多生産機であり1式戦は日本陸軍の最多生産機である。
かくして栄は日本航空史上の最多生産エンジンとなった。
その生産数は30100基(グランプリ出版「歴史の中の中島飛行機」による数値)に及ぶ。

栄で成功をおさめた中島飛行機は同一シリンダーを18気筒化した排気量35.5Lの誉を開発した。
エンジン直径は1180ミリである。
1943年8月から量産を開始した紫電、同年11月から量産を開始した海軍の陸上爆撃機銀河、1944年4月に制式化された偵察機彩雲や陸軍の4式戦など大戦後半に続々と開発された多くの新鋭機へ誉が装備された。
この時点での誉は1X型で未解決の問題点が多く出力も1800馬力であった。

その後、冷却フィンの改良による生産効率の向上や水メタ噴射装置の装備位置を改善した21型が完成、回転数も高くなり2000馬力の発揮が可能となった。
更に23型では低圧燃料噴射装置が加えられて稼働率と信頼性が向上し24ル型では排気タービンも装備されたが量産に移行する前に終戦を迎えた。
なお陸軍では誉をハ45と呼称している。

誉を装備した機体は前述の他、紫電改や艦上攻撃機の流星、試作機では局地戦闘機の天雷や大型陸上攻撃機の連山など多岐に渡った。
誉は整備性の悪さや低稼働率で悪名を馳せたが数々の欠点(混合気の配分問題や軸受破損、出力低下、配線燃焼など)のうち幾つかは時間と共に解決された。
だが「根本的要因」による欠陥は何時までも残り続けた。
新型エンジンが順調に動く様になるまでにはそれなりに時間がかかるのである。

誉の特長は排気量35.5Lかつエンジン直径1180ミリの小型エンジンでありながら2000馬力の大出力を発揮できる点にあった。
ライバルとなった米国P&W製R2800の排気量は45.9Lでエンジン直径は1342ミリ、出力は2000馬力である。
すなわち数値的には誉の方が高性能エンジンと言える。
しかし高性能ではあったものの構造が緻密で整備時に隙間が狭くて指が入らなかったり配線が加熱部分に当たると焼け焦げてしまったり整備に多くの難点を抱えていた。
この点、R2800は信頼性の高い名エンジンとして戦場では充分な性能を発揮した。 

[4184] 航空機用発動機(その20) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/10(Wed) 17:35
中島(その2):

航空機のレシプロエンジンは水冷と空冷に大別される。
水冷と空冷は各々に長所と短所があり優劣はつけ難い。
航空機は高速で飛行するのでシリンダーを冷却するのに空気だけでも事が足りる。
だから空冷だと同一サイズで水冷より大馬力化が可能なのだ。
ただし空冷星形だと空気抵抗が大きくなるので高速化は難しい。
よって速力を重視する戦闘機などには水冷、搭載力を重視する爆撃機や輸送機には空冷が多く装備される。

この為、多くの国では双方をバランス良く開発し生産する。
だが、戦前及び戦中に於ける日本の航空機エンジンは空冷星形に偏重していた。
日本に於いて水冷は他国のライセンス化エンジンかその改良型に過ぎない。
なぜであろうか?
日本の工業技術の何処に水冷航空機エンジンを阻む要素があったのだろうか?

ここで冷却方式を水冷とした各国の航空エンジンメーカーを列挙して見よう。
米国のアリソンとパッカード、英国のロールスロイス、フランスのイスパノスイザ、ドイツのダイムラー・ベンツ、イタリアのフィアットなど水冷は自動車エンジンメーカーばかりだ。
反対に空冷では米国のライトとP&W、英国のブリストル、イタリアのピアッジョなど純然たる航空機用エンジンメーカーと鉄道会社が並ぶ。
ドイツのBMWは空冷航空エンジンを量産しながら自動車(オートバイ)メーカーとしても名高かったが、戦間期は水冷航空機エンジンの分野でも有力であった。

この様に水冷航空エンジンは自動車産業と不可分であり共に発達してきた。
自動車産業が発達していれば簡単に水冷航空エンジンへ技術移転できたのである。
そもそも自動車のエンジンに空冷星形はあり得ない。
戦車の中にはM4シャーマンの如く空冷星形を装備した例もあるが、これは例外と言えよう。

それでは1930年代に日本の自動車産業がどの様な状況にあったか概括してみよう。
昭和産業史によると1931年の日本の自動車輸入数は23200両、国産は434両(乗用車は2両のみで他はトラック及びバス)であった。
ウィキによる同年の米国自動車生産数は176万1665両である。
マクミラン統計による同年の英国自動車生産は22万両、仏は20万両、ドイツは8万両、イタリアは3万両となっている。
なんと日本の自動車生産量(外国メーカーのノックダウン生産を除く)は米国の僅か0.022%なのだ。

第一次世界大戦の痛手から脱し切れていないドイツや米国へ出稼ぎにいった家族の仕送りで経済を維持するイタリアに比べても日本の自動車産業は規模が小さい。
言うなれば第二次世界大戦は「自動車産業国家連合VS自動車無し国家連合の戦争」もしくは「お金持ちVS貧乏人の戦争」であった。
もっともドイツは第一次世界大戦に負けていなければ英国に伍する工業大国だったので生産量はともかく技術的にはトップクラスでありイタリアや日本と同列に扱うべきではなかろう。

その欧州勢の底辺に位置するイタリアと比べても日本の自動車産業は1.3%に過ぎない。
1931年のイタリアの人口が4117万であったのに対し日本は本土約6545万+朝鮮1971万+台湾460万+樺太30万の合計9006万で2倍以上であった。
よって人口を考慮すると1.3%どころか日本の自動車産業規模は0.65%位だったのである。

ただし日本に自動車が無かった訳ではない。
国産はされていなかったが輸入及びノックダウン生産で自動車保有量は着実に増え1923年の12765両から1924年は24333両、1926年は40070両となった。
これだけの需要がありながら国産できなかったのは製造技術が無かったからである。

明治維新以来、日本は鉄鋼業、化学産業、造船、鉄道などの各分野で欧米諸国を急追し、場合によっては凌いできた。
それなのに自動車産業だけはこの様に遅れを取って来たのだが、その理由は何処にあるのだろうか?
実にその理由は江戸期の日本が持つ交通機関の特殊性とインフラの整備にあった。
日本にだけは僅かしか存在せず世界の殆どの国に存在する交通機関、それは馬車である。
欧米では富裕階層は優雅な二頭立て馬車、財布に余裕の無い階層は乗り合い馬車に乗る。
よって道路は馬車が通行出来る様に整備される。
そして産業革命を迎え馬車は自動車に換えられてゆく。

日本はどうであったろうか?
江戸期は富裕階層も一般大衆も駕籠に乗っていた。
すなわち人力だ。
だが明治維新を迎え駕籠は廃れた。
馬車や自動車に取って代わられたのであろうか?
いや、人力車に取って代わられたのである。
日本に於ける乗り合い馬車保有量のピークは1916年だが8976両にしか過ぎなかった。
それに比べ人力車の保有ピークは1896年で約21万台にものぼっている。

なぜ日本ではこうまで人力に依存したのか?
駕籠で最低2名必要であった要員が1名に減り速度も向上したが所詮、人力である事に変わりはない。
明治期の日本の交通法規では乗り合い馬車の乗車定員を1頭につき6名としている。
人力車は基本的に乗車定員が1名だから6倍だ。
幾ら人件費が安いとはいえ車夫6名の年間生活費の合計が馬1頭の年間維持費より安いのだろうか?
やはり日本の都市構造及び道路の問題、去勢を含めた馬匹管理の問題、見慣れない大型動物への恐怖感など様々な要因があったと考えられよう。

まあ、それはともかく、人力車は日本特有の交通機関として外国人観光客に人気(アジア各地に少しは存在するが先進工業国としては日本だけだ)だが「駕籠の存在」があってこその交通機関であった。
ここで我々は「なぜ日本だけ駕籠なのか?」と言う問題に直面する。
その回答は「江戸幕府の政策」と「島国なので大規模な貨物輸送は海上の船舶輸送が有利」になるが、あまり深く話を進めると本稿の論旨から大きく逸脱してしまうのでここで一旦、中断とする。

こうした次第で1931年時点の日本は水冷エンジンの開発技術に関し皆無に近い状況であった。
だが空冷星形については各国もスタートラインに着いたばかりで差は開いていない。
日本の航空機エンジンが空冷を主流とした要因はここにあると言えよう。 

[4183] 航空機用発動機(その19) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/09(Tue) 16:55
中島(その1):

元海軍大尉の中島知久平(1884〜1949)が創設した中島飛行機は日本有数の航空機及び航空エンジンのメーカーである。
だが当初から自力でエンジンの開発が出来た訳ではない。
当初は英国のジュピター(空冷星形9気筒、排気量28.7L)や仏のロレーヌ(水冷W型12気筒、排気量24.4L)などをライセンス生産し自社で開発した航空機に装備していた。
そうした技術の蓄積を経た上で1930年代中盤、中島は2種類の国産エンジン開発に成功した。

光と命名された空冷星形の9気筒大型エンジン(排気量32.6L)及び寿と命名されたやはり空冷星形の9気筒小型エンジン(排気量24.1L)である。
寿の命名由来は当時、中島がジュピターのライセンス生産をしていた関係でジュを寿に読み替えた為だが寿はジュピターの模倣品ではない。
ジュピターのシリンダーは内径146ミリ、ストローク190ミリでエンジン直径は1384ミリだったが寿のシリンダーは内径146ミリ、ストローク160ミリでエンジン直径は1290ミリであった。
エンジン直径が小さい寿は空気抵抗が少なく高速を要求する戦闘機に適していた。

一方、光のシリンダーは内径160ミリ、ストローク180ミリで寿より格段に大きく大馬力を発揮できたがエンジン直径は1360ミリで寿よりは大きいもののジュピターに比べれば小さかった。
なお、寿と光の機構は米国ライト社の空冷星形9気筒エンジンR1820(通称サイクロン9、排気量30L)の影響も受けていたがこのエンジンのシリンダーは内径155ミリ、ストローク174ミリでエンジン直径は1400ミリもあった。
つまり寿と光はR1820の機構を流用してはいるが独自の小型シリンダーで高性能化を図った国産エンジンなのである。
後に中島はR1820のライセンス権を取得している。
寿は日本海軍の96式艦上戦闘機(三菱)や日本陸軍の97式戦闘機(中島)に装備され1940年初頭には日本の主力戦闘機の殆どが寿を装備するに至った。
ちなみに寿は日本海軍での名称で日本陸軍ではハ1と呼称していた。

一方、大型の光は戦闘機ではなく爆撃機や偵察機に装備され幅広く運用された。
光もまた海軍での名称で陸軍ではハ8と呼称している。
ハ8を装備した日本陸軍の97式司令部偵察機は朝日新聞に売却され1937年の「神風号による英国親善飛行」で世界中から日本エンジンの優秀性を称賛された。
当時、単発機で欧州まで飛行するのは極端に信頼性の高いエンジンでなければ不可能だったからである。
中島製エンジンと日本陸軍と朝日新聞の協力によってこの偉業は達成され日本航空史に大きな足跡を残した。

こうして寿と光は日本陸海軍の主要な空冷星形9気筒エンジンとなったが14気筒化に際しては光は対象外となり寿だけが14気筒化された。
かくして開発されたのが寿と同一のシリンダーを14気筒化したハ5(排気量37.5L、エンジン直径1260ミリ)である。
ただしハ5は戦闘機用の小型エンジンではなく基本的には爆撃機用の中型エンジンとして位置づけられた。
小型エンジンとしては内径130ミリ、ストローク150ミリの新シリンダーを14気筒化した栄(排気量27.9L、エンジン直径1150ミリ)が新たに開発されている。
栄は零戦や1式戦などに装備され日本航空史上に於ける最多生産エンジンとなった。

これら以外にも大型エンジンとして内径155ミリ、ストローク170ミリのシリンダーを14気筒化した護(排気量44.9L、エンジン直径1380ミリ)が開発された。
だが同時に3種類の14気筒エンジンを完成させるのは無理であり生産開始はハ5が1937年、栄が1939年、護は1941年となった。
よって護が完成するまでの間、中島が供給できる爆撃機用エンジンはハ5しか無かったのである。

かくしてハ5は1938年6月に制式化された陸軍の97式軽爆撃機や1938年初頭から生産開始された97式重爆撃機1型に相次いで装備された。
その後、ハ5に若干、改良を加えたハ41が登場し100式重爆撃機1型に装備されたが爆撃機のみならず迎撃戦闘機の2式単戦1型にも装備される事になった。
過給器はハ5、ハ41の双方とも1速であった。

ハ41の過給器を2速としたのがハ109で100式重爆撃機2型と2式単戦2型に装備されている。
ハ5系エンジンの更なる改良は18気筒化でハ44(排気量48.2L、エンジン直径1280ミリ)として完成した。
ハ44は高高度戦闘機のキ87やキ94に装備されたが終戦までに23基しか完成しなかった。

だが寿系列のエンジン開発はまだ続いた。
内径146ミリ、ストローク160ミリのシリンダーを使用する9気筒の寿は14気筒化されてハ5やハ41、ハ109となり18気筒化でハ44となったが更に36気筒化されたのである。
これがハ54(排気量96.4L、エンジン直径1550ミリ)で米本土爆撃を目論む超大型陸上攻撃機富嶽用に開発された。
富嶽は6発機なのでシリンダー総数は216本に及ぶ。
これは寿を装備する97式戦闘機24機分に相当した。
ただしハ54は完成に至らなかった。 

[4182] 航空機用発動機(その18) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/08(Mon) 19:41
ユモ:

ユモを生産するユンカース社は1895年にユンカース博士が設立したメーカーである。
ユンカース社は航空機とエンジン双方を扱うドイツ航空界きっての名門であった。
ただし反ナチであったユンカース博士は会社を奪われた末、1935年に死去しており第2次世界大戦時のユンカース社には殆ど影響を及ぼしていなかった。
なおユモ系やDB(ダイムラー・ベンツ)系のドイツ製水冷エンジンには4点の技術的特色があった。

1.倒立V型の採用
V型水冷エンジンはコックピット前面左右にシリンダー頂部があるので機首に武装を装備する場合は空気抵抗が大きくなってしまった。
そこでドイツでは空気抵抗が小さいまま機首武装が可能な倒立配置が採用された。

2.ボッシュ式燃料噴射装置
これによりドイツ機では急動作状態であっても常に適正な混合気が供給された。
一方、キャブレターで混合気を供給した英軍機はバトル・オブ・ブリテンで苦杯を嘗めた。

3.トルクコンバーターの原型となるフルカン接手過給器。
通常の過給器は特定高度で最高能力を発揮するがフルカン接手により全高度で適正な能力が発揮できた。
とは言えフルカン接手は排気タービンやインタークーラー付2段過給器に及ぶ物ではない。
どの過給器が高性能か一概には言えないがおおまかな処では一番優秀なのが排気タービン(米のP38やP47など)、2番目が2段式過給器(英のスピットファイアや米のP51)、3番目がフルカン接手(独のBf109G)、4番目が1段2速式過給器(日本の零戦52型や1式戦2型)、5番目が1段1速式過給器、最低なのが過給器なしとなる。
ただし1速式であっても高々度専用に設定された過給器は限定的ながらハイパワーである。
また2段であってもインタークーラーが無ければ実質的には1段式と大差ない。

4.GM1
他国ではエンジン冷却に水メタ噴射が多用されたが独ではこれに加え亜酸化窒素を噴射するGM1(一般的にニトロ噴射装置と呼ばれる)が開発された。
なお独にも水メタ噴射のMW50があり重量はGM1が300s、MW50は140sであった。

もっともこれらの技術は最初から全てが導入された訳ではなかった。
1932年10月22日、ユンカース社はユモ210(排気量19.7L)の試作品を完成させた。
シリンダー内径124ミリ、ストローク136ミリのユモ210は燃料噴射装置を備えておらず過給器も1段1速式だった。
初飛行は1934年7月5日、量産開始は1934年末である。

その後、ユモ210Da型から2速化しG型から燃料噴射装置が追加されるなど次第に改良されていった。
よって再軍備から間もない頃の独ではユモ210が多く装備されBf109戦闘機の初期型(A〜D型)もユモ210装備でスペイン内乱に投入された。
生産数は6500基でJu87A型急降下爆撃機やBf110双発戦闘機にも装備されている。
これらの機体は当初、DB600の装備が予定されていたが生産が間に合わなかったのである。
同時期に量産されたDB600の生産数が2281基だった事と比較すると大成功だったと言えよう。
だがユモ210の排気量は20L未満に過ぎず出力不足は明白であった。

そこでシリンダーを内径150ミリ、ストローク165ミリに拡大したユモ211(排気量35L)の量産が1937年7月から開始された。
ユモの倒立V型が実用的な軍用機エンジンとなるのはユモ211になってからである。
ところがユモ211は排気量が増大したにも関わらず同時期にDBが量産を開始したDB601より回転数が低かったので出力が小さかった。
よって当初の予定通りBf109はE型、Bf110はC型からDB601が装備されている。

ユモ211もB型以降のJu87やJu88急降下爆撃機、He111重爆などに装備され大活躍したがユンカースで開発したエンジンをユンカースの航空機に装備するのは当然の帰結と言えよう。
ただしユモ211の生産数は68248基と多くDB601(19180基)やその後継たるDB605(42400基)を合計した61580基を上回った。

さて、ユモ211A型で1000馬力(2200rpm)だった出力はJ型で1400馬力(2600rpm)に向上したが更なる出力の増大が求められた。
そこでユモ211の内部構造を再設計したユモ213が開発され1943年から量産を開始した。
排気量はユモ211と変わらなかったが出力は大幅に増えた。
ユモ213は1940年には試作が完成し1943年には量産が開始されたが生産数は約9000基に過ぎなかった。
1段2速式過給器付のユモ213AはFw190D戦闘機やTa152A戦闘機、2段3速式過給器付のユモ213EはTa152H戦闘機に装備されている。

一般的にDBは戦闘機用、ユモは爆撃機用と位置づけられる事が多い。
だがそれは結果論であり大部分の戦闘機がユモを装備していた時期もある。
また、大戦末期のドイツに於いて最も高性能なレシプロ戦闘機用エンジンがユモであった事も忘れてはならない。 

[4181] 航空機用発動機(その17) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/07(Sun) 18:47
三菱(その2):

三菱重工は航空機エンジンの国産化で中島飛行機の後塵を拝した。
だが、空冷星形単列9気筒エンジンでは遅れを取ったものの空冷星形複列14気筒エンジンで巻き返しを図り金星(排気量32.34L)の開発に成功する。
金星はそれまでライセンス生産していた関係上、米国のP&W製エンジンの影響を若干は受けていたが複列化に際しては独自の技術革新で中島に追いつきその後の18気筒化では優位にさえ立った。

加えて三菱は金星に続き小型高速機用の瑞星、大型機用の火星を別シリンダーで開発し空冷星形複列14気筒シリーズを形成したのである。
金星のシリンダーは内径140ミリ、ストローク150ミリでエンジン直径1218ミリ、瑞星(排気量28L)は内径140ミリ、ストローク130ミリ、エンジン直径1118ミリ、火星(排気量42.1L)は内径150ミリ、ストローク170ミリ、エンジン直径1340ミリであった。
以降、三菱のエンジン開発はこの3種類のシリンダーを軸に進められ18気筒化に際し金星からはハ43、火星からはハ42が同一シリンダーで開発された。

ここで注意して頂きたいのは三菱のシリンダー内径が140ミリと150ミリの2種類に限定されている事である。
日本に於いて空冷星形のもう一方の雄である中島のシリンダー内径は栄(後に誉に発達)が130ミリ、寿(後にハ5系やハ44に発達)が146ミリ、護が155ミリ、光が160ミリで主要量産型だけで4種類もあった。
シリンダーの内径はエンジンの冷却効率の大きな影響を及ぼす。
よってシリンダーの冷却特性を知悉する事は開発陣にとって非常に重要である。

つまりシリンダータイプが増えると言う事は混乱と開発期間の長期化、情報資源の分散化を招く。
中島のエンジン開発陣が他種類のシリンダーを使用したのは技師に一匹狼的な人物が多く自己の主義、主張、理論を優先させた為であるが三菱では上意下達のチームプレイによってシリンダータイプを限定した。
三菱でこの開発方法が可能だったのはエンジン開発のチーフである深尾淳二技師のパーソナリティと業績による所が大きい。

瑞星は1速過給器の1X型(陸軍はハ26と呼称)が零式水上観測機、99式襲撃機、100式司令部偵察機1型などに装備され2速過給器の2X型(陸軍はハ102と呼称)が2式複戦や100式司令部偵察機2型などに装備された。
本来は軽快な単発戦闘機用に設計されたエンジンにも関わらず全く単発戦闘機に装備されなかったのは単発戦闘機に求める要求機能が軽快な機動力より大出力を要求する速力や上昇力に変化した為である。
瑞星は開発コンセプトその物が不遇なエンジンであった。
よって生産数(グランプリ出版「歴史の中の中島飛行機」による数値)は12800基に過ぎず金星の16700基や火星の14300基に比べて最も少なかった。

一方、小型過ぎて不遇だった瑞星に比べ火星のエンジン直径は1340ミリでライバルであった中島製ハ5の1260ミリに比べ遥かに大きかった。
もっとも大きいからと言ってさして困る事はない。
火星は速力より搭載力を重視する大型機用なので空気抵抗より出力の方が重要であった。
かくして火星は1速式過給器の1X型が1式陸攻11型や2式大艇11型、2速過給器の2X型が1式陸攻22型や24型、34型などに装備されていった。

ところが戦闘機に求められる機能が速力や上昇力を必要とする迎撃戦に変化し局地戦闘機や水上戦闘機に大馬力の火星装備が求められたのである。
だがエンジン直径の大きな火星では空気抵抗も大きく戦闘機のエンジンに適していない。
そこで空気抵抗を減らすべくカウリングを紡錘形にする事が考案された。

通常ならエンジンの直前にプロペラが装備されるが紡錘形にする必要上、プロペラの位置は前に移動せねばならず延長軸が採用される事になった。
かくして火星装備の局地戦闘機として雷電が設計されたのだがトラブルが頻発し開発は著しく難航した。
更に水上戦闘機として強風も設計されたが生産は97機に過ぎず同機を陸上機に改造した紫電ではエンジンが誉に変更された。
雷電に装備された火星は雷電21型が23型、雷電33型が26型である。
火星の生産数は14300基であった。

なお三菱では火星を18気筒化した航空機用エンジンとしてハ42(陸軍はハ104と呼称)を開発し4式重爆などに装備された。
4式重爆は大戦末期に大活躍したので同じ18気筒ながら問題多発で難航した誉に比べハ42は高い運用実績を残した。
これはひとえに三菱重工エンジン開発陣の堅実な開発ポリシーの賜物と言えよう。 

[4180] 航空機用発動機(その16) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/06(Sat) 22:02
三菱(その1):

金星は三菱重工としては初めて量産化に成功した空冷エンジンである。
それまで三菱重工は仏製イスパノスイザ12Lbr(水冷12気筒)や米国P&W社製のR1690(空冷星形9気筒)などをライセンス生産し自社製航空機に装備してきた。
ライセンスであれば高価になるので当然の事ながら国産化が望まれる。
かくして空冷星形9気筒エンジンに先鞭を付けた中島飛行機は寿や光の開発に成功した。

遅れを取った三菱は自社製航空機にも中島製エンジンを装備する屈辱を味わう羽目になった。
その三菱重工が社運をかけて開発したのが金星(排気量32.34L)である。
金星は空冷星形14気筒複列でエンジン直径1218ミリ、シリンダーの内径は140ミリ、ストロークは150ミリであった。

すなわち三菱重工の国産エンジン開発には空冷星形単列9気筒時代を経ずにいきなり複列14気筒から始まったのである。
金星は日本海軍の96式陸上攻撃機(1935年制式化)に装備され1937年の上海事変では渡洋爆撃で大きな戦功をおさめた。
更に金星を装備した96式陸攻改造輸送機が毎日新聞に売却(ニッポン号と命名)され1939年の世界一周飛行では世界中に日本エンジンの優秀性が絶賛された。
日本航空史に燦然と輝くこの偉業は三菱製エンジンと日本海軍と毎日新聞の協力によって達成されたのである。

金星は1速過給器の4X型が99式艦爆11型や96式陸攻22型などに装備され、続いて2速過給器の5X型が99艦爆22型や96式陸攻23型に装備された。
本来ならここが金星の終末であったろう。
しかし中島が誉を開発しシリンダー供給の為に栄の生産が縮小されるとこれを補填する為に金星が充当され生産数は更に増大していった。

加えて水冷のアツタ及びハ40/140の問題が露呈しこれの代替にも金星が充当された為、金星は終戦まで生産され続けた。
生産数は16700基に達している。
こうして大戦後半に生産された金星は性能向上の為に水メタ噴射装置を追加した62型(陸軍はハ112-IIと呼称)で零戦54型や1式戦3型、5式戦闘機、100式司令部偵察機3型などに装備された。
更に62型へ排気タービンを加えた高高度型(陸軍はハ112-IIルと呼称)も開発され5式戦闘機2型や100式司令部偵察機4型への装備が予定されたが量産化の前に終戦を迎えた。

なお三菱では金星のシリンダーを使用し次世代の空冷星形複列18気筒エンジンとしてハ43を開発した。
14気筒の時点では小型機用に瑞星、大型機用に火星、その中間として金星が位置するシリーズ構成であったが18気筒化に関し瑞星は除外され金星の後継にハ43、火星の後継にハ42が開発された。
よってハ43は小型エンジンとして烈風や震電、キ83などの戦闘機に装備される予定であったが惜しくも量産化には至らなかった。
もしも早期にハ43を開発出来ていれば戦局に大きな影響を与えたであろう。

ハ43と誉のストロークは双方とも150ミリだがエンジン直径は誉の1180ミリに対しハ43は1230ミリで50ミリ大きい。
これは何を意味するか?
単に「中島の設計陣は優秀だから三菱より小さくまとめる事が出来た」のか?
誉の実用成績に問題がないのならそう言えよう。
だが問題が多発し誉の実用成績は非常に悪かった。
これはハ43に比べ誉はクランク周辺の設計に無理があった為ではなかろうか。

「誉は欠陥だらけだったがハ43の欠陥が露呈しなかったのは量産されなかったからだ。もしも量産されていたら誉同様、欠陥だらけだったに違いない。」と断じる人士もいる。
だが果たしてそうであろうか?
同じ量産化された18気筒エンジンながら三菱のハ42は誉ほどの悪評は聞かない。
その三菱が手がけたハ43だ。
それなりにノウハウが蓄積されているだろう。
加えて前述した50ミリの余裕がある。
50ミリの余裕が実際、どの程度の影響を及ぼすのか今となっては判らないが「どうせハ43だって駄目に違いない。」と決めつけるのは早計ではなかろうか。 

[4179] 航空機用発動機(その15) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/05(Fri) 20:13
ダイムラーベンツ:

独の水冷倒立V型12気筒はユモ(ユンカース社)とDB(ダイムラー・ベンツ)が双璧である。
ユモは爆撃機、DBは戦闘機に多用されたがこれは結果論に過ぎない。
それどころか当初は逆にユモが戦闘機に多く装備されDBは重爆に装備されていた。
なお、ユモ及びDBには機首武装が可能な倒立V型配置、信頼性の高いボッシュ式燃料噴射装置、トルクコンバーターの原型となるフルカン接手過給器、水メタ噴射装置のMW50や一般的にニトロ噴射と呼ばれるGM1など多彩な特色があった。
ただしこれらは全て最初から導入された訳ではない。

さて、1890年に創業し第1次世界大戦中はメルセデスエンジンを量産していたダイムラー社は1926年にベンツ社(1906年創業)と合併しDBとなった。
DBが開発した最初の航空機用エンジンは1932年に試作が完成した水冷倒立V型12気筒のF4Aである。
F4AはDB600(排気量33.9L)として開発が進められ1935年には試作が完成、翌年から量産が開始された。
DB600のシリンダーは内径150ミリ、ストロークは160ミリである。
燃料噴射装置は備えておらず過給器は1段1速式で生産数は2281基だった。

一方、ユモも1932年に水冷倒立V型12気筒のユモ210(排気量19.7L)の試作を完成させた。
量産開始は1934年である。
排気量がDB600に比べ2/3なのだからユモ210の出力は当然、小さい。
よってユモ210はBf109戦闘機のA〜D型やJu87急降下爆撃機のA型、Bf110双発戦闘機のA〜B型に装備されDB600はHe111重爆のB型などへ装備された。
つまりこの時点では大型エンジンのDB600、小型エンジンのユモ210で明確な区分がなされていたのである。

だがユモは次に排気量を35Lに増大させたユモ211を開発し1937年から量産を開始した。
かくして大型と小型の区分はなくなりDBとユモはライバルとなった。
DBも1935年には燃料噴射装置やフルカン接手を備えたDB601の試作を完成させ1937年に量産を始める。
以降、DB601はBf109E型に装備され欧州の空を席巻する。
ユモに対するDBの優位は歴然としていた。
両者はほぼ同じ排気量だったが出力では大きな差が開いた。
これは両者の回転数が違っていたからである。
ユモ211Aの離昇出力は1000馬力(2200rpm)だったがDB601Aは1100馬力(2400rpm)であった。
DBの倒立V型が実用的な戦闘機用エンジンとなったのはDB601になってからなのである。

ただしDBエンジンの悲願であった同軸火器の装備はBf109Eに装備されたDB601Aでは実用化できなかった。
Bf109F1型に装備されたDB601Nで遂に20ミリFF機関砲(エリコン製)が装備可能となった。
DB601Nの離昇出力は1175馬力(2600rpm)である。

だがFF機関砲は口径こそ20ミリであったが初速が遅く装弾数も少なく性能的に充分ではなかった。
そこでBf109F2型からは15ミリMG151機関砲に改良された。
更にBf109F4型からはエンジンがDB601E、火器は20ミリMG151機関砲となった。

DB601Eでは離昇出力も1350馬力(2700rpm)に増大している。
なおDB601AはBf110C、DB601NはBf110Eにも装備された。
DB601の生産総数は19180基である。

次なるDB系エンジンの改良は排気量の増大による出力の増大であった。
かくして1942年からシリンダーが内径154ミリ、ストローク160ミリに拡大されたDB605A(排気量35.7L)の量産が開始されBf109G型に装備された。
DB605Aの離昇出力は1475馬力だったがMW50使用時には1775馬力に増大した。
DB605Bは双発機用でBf110G型に装備されている。

DB605Lは2段2速過給器付で高高度性能の向上が期待されたが、これを装備したBf109K−14型は終戦までに2機しか生産できなかった。
DB605の生産総数は42400基に及ぶ。
またDB605を2基合体させたのがDB610でHe177重爆へ装備された。
ちなみにDB601を2基合体させたのはDB606である。

こうしたDB600から続いた流れとは別に現れたのが水冷倒立V型12気筒DB603(シリンダー内径162ミリ、ストローク180ミリ、排気量44.5L)であった。
DB603はMe410双発戦闘機やHe219夜戦、Ta152C型戦闘機等に装備された。
生産総数は8758基である。

なおDB系水冷エンジンは他国でのライセンス化も非常に多かった。
日本はDB601をハ40(海軍ではアツタ)として生産し3式戦飛燕や彗星に装備している。
イタリアもまたDB601をアルファロメオRA1000として生産しMC202に装備した他、DB605をフィアットRA1050として生産しMC205をはじめとする5シリーズに装備した。 

[4178] 賀正 投稿者:ケンツ軍曹 投稿日:2018/01/05(Fri) 07:02
新年明けましておめでとうございます。
どうか皆様、本年も宜しくお願いします。 

[4177] 謹賀新年 投稿者:いそしち 投稿日:2018/01/05(Fri) 00:25
初夢を見ました。
遊び人の金さんと名乗る太った若者とアジアの命運を賭けてトランプをするのです。
ポーカーで手札はダイヤのロイヤルストレートフラッシュ一歩手前で浮いたカードはスペードのA。
A2枚を温存してスリーカードを狙うか大きく勝負するか?
悩み抜いた所で目が覚めました。 

[4176] 恒例行事 投稿者:プラモ派 投稿日:2018/01/04(Thu) 23:07
あけましておめでとうございます。
まるで恒例行事の如く今年も出遅れてしまいました。
宿酔恐るべしです。
高齢化が進むと共に正月の稼働率が低下して困ります。
もうじき仕事始めだと言うのに。

[4175] 航空機用発動機(その14) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/04(Thu) 22:41
シュベツォフ:

シュベツォフ設計局はソ連の航空エンジン開発機関である。
1920年代のソ連は内戦によって科学技術の水準が地に落ち、エンジンを開発するには外国から技術を習得せねばならない状況にあった。
この状況を打開する為に1930年12月3日、ソ連空軍局長ピョートル・I・バラーノフ(1892〜1933)はソ連中央航空エンジン研究所(TsIAM)を設立した。
以降、ソ連では中央管理体制でエンジン開発が実施される。

最初にライセンス化されたのはM22と命名された英の空冷星形9気筒ジュピター(排気量28.7L、シリンダー内径146ミリ、ストローク190ミリ)である。
ついで4種の外国製エンジンをライセンス化しそれらを改良しながらソ連航空機用エンジンの歴史が幕を上げた。
ソ連では中央航空エンジン研究所で開発されたエンジンにはMナンバーが命名され各設計局に移管してからは設計局ナンバー(シュベツォフの場合はASh)に改称される。
かくしてスベルドロフスク出身のアルカージー・D・シュベツォフ(1892〜1953年)は1934年、ウラル地方のペルミに空冷星形エンジンを専門とする設計局を開設した。

シュベツォフ設計局がM25としてライセンス化したのは米国ライト社製の空冷星形9気筒R1820(排気量30L、シリンダー内径155.6ミリ、ストローク174.6ミリ)でI−15やI−16戦闘機などの初期型に装備された。
ついでシリンダー内径を156ミリ、ストローク175ミリのソ連規格に変更し過給器を2速化した改良型のASh62(当初はM62と呼称)が開発されI−15やI−16戦闘機の後期型に装備されている。
更に複列14気筒化したASh82(排気量40.9L)が開発されSu−2襲撃機後期型やTu−2爆撃機、La−5やLa−7などのLa系戦闘機に装備された。
シリンダーは内径155.5ミリ、ストローク155ミリの新型に変更されている。

次に戦争終結には間に合わなかったが複列18気筒のASh73(排気量58.1L)も開発された。
シリンダーサイズはまたもや変更され内径155.5ミリ、ストローク170ミリとなった。
この様に頻繁にシリンダーサイズを変更したのがシュベツォフ系エンジンの特徴と言えよう。

空冷星形エンジンのシリンダーでストローク長を変更すると言う事はエンジン直径が変わると言う事であり空気抵抗面積が著しく変化する。
日本の三菱では空冷星形14気筒エンジンとして大型の火星、中型の金星、小型の瑞星の3種類が量産された。
3種類も量産した理由はサイズによって用途が異なるからで出力重視の大型機用には大型、速力重視の小型機用には中型もしくは小型が装備された。
ストローク長は火星が170ミリ、金星が150ミリ、瑞星が130ミリで20ミリずつ差がある。
エンジン直径の差は火星と金星の場合、122ミリであった。
つまり20ミリのストローク差はそれだけ大きな空気抵抗の差を生ずる。
ASh62とASh82のストローク差は19.4ミリ、エンジン直径も118ミリの差があった。
よってASh82は9気筒のASh62を単に14気筒化したエンジンではない。
新シリンダーで高速機用の14気筒エンジンを新設計したと考えた方が正しいのである。

なお、戦後になってからASh82のシリンダーを流用した7気筒の空冷星形エンジンが開発された。
ASh21と命名されたこの小型エンジンはYak−11練習機に装備され生産数は7636基であった。
この様に第一線機がジェットエンジンに移行しても信頼性の高いレシプロエンジンの需要は大きかった。

大戦末期に開発されたASh73は対日戦略爆撃に参加したB29がソ連に不時着した為に開発された。
ソ連は早速、B29をコピーしたTu−4重爆撃機を開発したがB29が装備したR3350(離昇2200馬力、排気量54.5L)に相当するエンジンが生産できなければ用を為さない。
米国のライト社製R3350はR1820を18気筒化したエンジンでシリンダーは内径155.6ミリ、ストローク160ミリであった。
更に燃料噴射装置が採用されており1基のエンジンに2基の排気タービンを装備していた。

R3350とソ連のASh73とはシリンダーサイズが異なるものの同じエンジンから発達したエンジンなので構造が酷似した反面、補機類に関しては大きな差があったのである。
ASh73の燃料供給はキャブレター式で排気タービンは装備されていなかった。
つまり初期型のTu−4はB29に外見が酷似し馬力は同等であったものの高々度性能が劣り故障も頻発するデッドコピー(後日、改良された)に過ぎなかった。
ASh73の生産数は14310基である。

その後、Tu−4の改良型として開発されたTu−80重爆に装備する為、ASh73を空冷星形4列28気筒としたASh2(排気量82.4L)が開発された。
だが時代の趨勢がジェット及びターボプロップに移行した為、量産化される事はなかった。
シュベツォフ設計局は戦後、ソロヴィヨフ設計局となってジェットエンジン開発の根幹を築き現在もアビアドビガテルの傘下でエンジン開発の一翼を担っている。 

[4174] 年賀 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2018/01/04(Thu) 21:52
あけましておめでとう御座います。
本年も宜しく御願い致します。 

[4173] 航空機用発動機(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/03(Wed) 20:11
P&W:

フレデリック・B・レンチュラー(1887〜1956)は米国の航空エンジン設計者兼実業家である。
オハイオ州で生まれたレンチュラーは1909年にプリンストン大学を卒業し機械技師となった。
第一次世界大戦では陸軍将校として軍務に服し大尉に昇進している。

戦後、彼は航空機業界に入り1919年、ライト・エアロノーチカル社の社長に就任する。
だが1924年、彼は水冷エンジンを重視する重役陣と意見が折り合わずやむなく辞職(後任の社長はローレンス)のやむなきに至る。
しかし翌年、P&W社と25万ドルの資金提供と工場貸与による支援が成立しエンジン開発を再開した。

P&W社(プラット&ホイットニー社)はF・プラットとA・ホイットニーがコネチカット州ハートフォードで1860年に創業した機械製造メーカーである。
ミシンや小火器用の工業機械を製造するのがP&W社の主な事業であった。
そして1925年のクリスマスイブにレンチュラーは傑作エンジンとして後世に名を残す空冷星形単列9気筒のR1340(排気量22L)を完成させる。

内径146ミリ、ストローク146ミリのシリンダーを使用したこのエンジンはワスプと呼称され以降、世界中の空冷星形エンジン開発者に多大な影響を与えた。
また小型版として内径132ミリ、ストローク132ミリの小型シリンダーを使用したR985(排気量16.1L、通称ワスプJR)が1929年に開発された。
更に1932年にはこのエンジンを14気筒化したR1535(排気量25.1L、通称ツインワスプJR)と内径140ミリ、ストローク140ミリの新シリンダーを14気筒化したR1830(排気量30L、通称ツインワスプ)も完成させている。

これらのエンジンは多くの米国航空機に装備された他、外国でもライセンス化が進められた。
特にR1830は米国の空冷星形エンジンとしては直径が1222ミリと小さく戦闘機に向いていた。
ライバルのカーチス・ライト社が量産した9気筒のR1820はほぼ同じ排気量ながら直径が178ミリも大きかったのである。
つまり、この時点で米国の空冷星形エンジンは直径の差で二極化していた。
この為、1段2速過給器付のR1830−76が米海軍のF4F3戦闘機、2段2速過給器付のR1830−86がF4F4戦闘機に装備された。
これらの米艦戦は大戦前半期、太平洋戦域で零戦を相手に激戦を繰り広げた。
一方、R1820の方はB17重爆やDC2輸送機などの大型機に装備されている。

また1930年代中盤の米陸軍戦闘機でもP35AにはR1830−45、P36AにはR1830−17が装備された。
ただし米陸軍ではアリソンのV1710の完成以降、関心が水冷エンジンに移りR1830は戦闘機に装備されなくなっていった。
なお、戦闘機以外でも4発重爆のB24には排気タービン付のR1830−65が装備されている。
つまりR1830は必ずしも戦闘機専用のエンジンだった訳ではない。

R1830の後継となるR2800(排気量45.9L、通称ダブルワスプ)でも戦闘機用に適した直径の小さいエンジンが求められた。
だが同じシリンダーのままで18気筒化しても排気量は大きく増えない。
そこで内径146ミリ、ストローク152ミリのやや大きなシリンダーで18気筒化する事になった。

かくして1937年に完成したR2800のエンジン直径は1342ミリとやや大きくなってしまったが同時期に開発されたカーチス・ライト社のR2600(排気量42.7L)より55ミリ小さかった。
R1820とR1830の直径差が178ミリで用途が歴然と分かれていたのに対しR2600とR2800では差が55ミリに縮まり用途の違いは不明確となった。
だが大排気量かつコンパクトであれば性能差の優劣は明白である。

よってR2800は数多くの戦闘機に装備されたが双発爆撃機のA26BにR2800−27、B26GにR2800−43を装備するなど高速を要求される機体全般で使われた。
戦闘機ではF4U1にR2800−8、P61にR2800−65、F6FにR2800−10が装備された他、水メタ噴射装置の付いたR2800−18WがF4U4、R2800−34WがF8Fに装備され排気タービン付のR2800−59がP47に装備されている。
R2600の生産数が約50000基なのに対しR2800は125334基も生産された。
この数字がR2800の成功を物語っている。 

[4172] 航空機用発動機(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/02(Tue) 22:03
BMW:

現在では自動車やオートバイで名高いBMW社(バイエルン・モーターレン・ベルケ)が創設されたのは1917年4月である。
ただしBMWは3社の機械工業が合併して創設されたメーカーであり母体となった各社はそれ以前から企業として活動していた。
創設が第一次世界大戦中なので当然の事ながら軍需が中心であり航空機エンジンが主な製品であった。

当時、BMW社が開発及び生産していたのは航空機用の水冷V型エンジンである。
水冷直列6気筒のBMWVa(19.1L)はフォッカーDZ戦闘機などに装備され戦後には排気量を23Lに増大したBMWWが開発された。
これをV型12気筒にしたのがBMWY(排気量46.9L)である。

BMWYは1926年から生産が開始された。
ただし当初はベルサイユ条約で軍用機の保有が禁じられていたのでドイツでの生産量は少なかった。
逆に日本やソ連などでライセンス化され改良型も次々と開発されている。
ドイツの再軍備後、BMWYはDo17爆撃機の初期型(577機生産)などへ装備された。
だが第2次世界大戦時、独の水冷エンジンはDB(ダイムラー・ベンツ)及びユモ(ユンカース)の倒立V型に席巻されBMW社は空冷星型エンジンへの生産転換を余儀なくされたのである。

その基本となったのは米国のP&W社製空冷星型単列9気筒R1690(排気量27.7L、通称ホーネット)を1928年にライセンス化したBMW132であった。
BMW132はJu52輸送機、Hs123急降下爆撃機やAr196水上偵察機などに装備された。
シリンダーの内径は155ミリ、ストロークは162ミリである。

Ju52は5000機近く生産され各機が3基のBMW132を装備していた。
よってその総数は非常に多く約21000基にのぼった。
なお当時、ジーメンス系のブラモ社がBMW132の対抗馬として英国のブリストル社製空冷星形単列9気筒ジュピター(排気量28.7L)をライセンス化し改良したブラモ323を量産していた。
ブラモ323(排気量26.8L)のシリンダーは内径154ミリ、ストローク160ミリでBMW132と殆どサイズ及び性能が変わらない。

1939年、ブラモ社はBMWへ吸収合併され以降はBMW社がBMW323として生産した。
だが同じ性能のエンジンを2種類生産するメリットはなくBMW323の生産数は少量にとどまった。
一方、BMW132を拡大した新型複列空冷エンジンとしてシリンダーのサイズを変えずに空冷星形18気筒化したBMW139(排気量55.4L)が開発された。
更に空冷星形14気筒のBMW801(排気量41.8L)も開発されたがこちらでは内径156ミリ、ストローク156ミリの新シリンダーを採用していた。

BMW139は大排気量だがエンジン直径も大きいので爆撃機向けである。
BMW801はエンジン直径が小さいので戦闘機向けなのが特徴(元となったBMW132に比べても90ミリ小さい)であった。
当初、新型複列空冷エンジンは爆撃機用として計画されておりBMW801は重視されていなかった。

だがFw190を設計するクルト・タンク博士が空冷エンジンの装備を提案し状況が一変した。
当時、ドイツ空軍は再軍備やスペイン内乱への介入などで兵力の拡張を続けており戦闘機が不足していた。
主力となるBf109の生産が間に合わない背景として同機が装備するDB601水冷エンジンの供給不足が大きな問題であった。
そこでDB601以外のエンジンで戦闘機を開発する必要があったのである。

かくしてFw190が開発されたのだがBMW801が間に合わず試作機にはBMW139が装備された。
この試作機では冷却不良が頻発しBMW139は開発中止となった。
1940年からはBMW801の量産が開始され冷却不良を改善する為に強制冷却ファンがエンジンとプロペラの間に設置された。

BMW801の最初の量産型はFw190A1及びA2に装備されたC型(離昇1560馬力)である。
ちなみにA型は試作でありB型はそれに対応した双発機用のプロペラ逆回転タイプであった。
その後、1942年春から量産が開始されたFw190A3以降は離昇1700馬力のD型が装備された。
更に同年夏から水メタ噴射装置が装備される様になり最大出力は2100馬力に増大した。

なおBMW801は戦闘機のFW190だけでなくJu88SやDo217などの爆撃機に装備された他、6発エンジンの超巨大輸送機Ju390にも装備された。
これらの機体に装備されたのは大型機用にギア比を変更したG型である。
当然の事だがG型のプロペラ逆回転タイプとしてH型が量産された。

BMW801の生産総数は約28000基である。
なお日本や米国では高高度空戦に対応する為、空冷星形エンジンへの排気タービン装備が着目されたがドイツでは試作はされたものの量産には至らなかった。
その理由は水冷のユモ213を装備したFw190D型が高高度戦闘機として比類なき性能を発揮したからである。 

[4171] 航空機用発動機(その11) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/01(Mon) 12:37
クリモフ:

クリモフ設計局はウラジミール・Y・クリモフ(1892〜1962年)を創設者とするソ連の航空エンジン開発機関である。
モスクワ生まれのクリモフはバウマン高等技術学校を卒業し1917年10月、コロメンスキー工場のエンジニア・コンストラクターとなった。
革命後はNAMIの研究員として働き1931年に航空中央自動車研究所のガソリンエンジン部門統括責任者へ就任している。

さて、1920年代のソ連は内戦によって科学技術の水準が地に落ち、全ての分野で外国から技術習得せねばならない状態に陥っていた。
クリモフ設計局がライセンス化したのは仏のイスパノスイザ製水冷12気筒V型12Yである。
12YはD−51O戦闘機やD−520戦闘機、MS−406戦闘機に装備されたておりソ連ではM100として制式化された。
排気量は36L、シリンダーの内径は150ミリ、ストロークは170ミリである。

なおソ連では中央航空エンジン研究所(TsIAM)で開発されたエンジンにMナンバーを命名し各設計局に移管してからは設計局ナンバー(クリモフの場合はVK)に改称される。
よってクリモフエンジンの名称はSB2爆撃機などに装備された改良型の時点ではM103であった。
その後、内径を148ミリに変更し過給器を2速とした量産型ではM105からVK105に改称された。

シリンダーサイズを変更したのは同軸火器を装備する為でありYak系戦闘機が本エンジンを使用し続ける重要な要素となった。
元来、仏のイスパノスイザ12Yエンジンは同軸火器である20ミリHS404機関砲装備を前提として設計されていたがソ連では自国製の20ミリShVAK砲に換装した。
その理由は当時、60発ドラム弾倉(後に英国でベルト給弾も開発された)だった20ミリHS404機関砲に比べ20ミリShVAKはベルト給弾なので装弾数が遥かに多かった為である。
ただし初速はHS404の830m/sから750m/sに低下した。

M105は9万1000基生産されLaGG−3戦闘機、Yak−1戦闘機、Yak−3戦闘機、Yak−9戦闘機、Pe−2爆撃機など多数の航空機に装備された。
その型式は初期型の戦闘機に装備されたM105P、低空性能を向上させたM105PF、爆撃機に装備されたM105Rなど多岐に渡る。
その後、Yak−9Uや全金属製Yak−9Pのに装備する為、改良型のVK107が開発された。
M105PFの回転数は離昇時2600rpmで1210馬力だったがVK107の回転数は離昇時3200rpmで1650馬力に向上した。
だがVK107は高性能ではあったものの耐用時間は僅か25時間に過ぎなかった。
よって大戦中に実戦投入されたのは少数にとどまっている。

更に戦後、クリモフ設計局はロールスロイス・ニーンを基礎とするVK1ジェットエンジンを開発した。
VK1を装備したMiG−15は冷戦下の東側主力戦闘機として量産され朝鮮戦争で大いに活躍している。
加えてクリモフ設計局ではロールスロイス・ダーウェントもコピーしRD500として制式化した。
RD500はLa−15戦闘機などに装備されている。 

[4170] 謹賀新年 投稿者:旧式野郎 投稿日:2018/01/01(Mon) 11:20
新年、明けましておめでとうございます。
昨年は、本当にお世話になりました。本年も、よろしくお願いいたします。

新年早々、ジェネラル・サポート様に、このようなことを、お伺いして大変恐縮なのですが
「軍事資料データベース 第二次世界大戦・ヨーロッパ編」を、発売されるご予定は、ありますでしょうか。

昨年、遅ればせながら「軍事資料データベース増補版 第二次世界大戦・太平洋編」を購入したんですが
とても完成度が高く、情報量も多く、非常に感動しました。毎日、活用させていただいております。

「軍事資料データベース 第二次世界大戦・ヨーロッパ編」が発売されることを、心より願っている次第であります。 

[4169] 年頭の御挨拶 投稿者:阿部隆史 投稿日:2018/01/01(Mon) 08:55
新年明けましておめでとう御座います。
どうか、本年も宜しく御願い申し上げます。 

[4168] 大晦日の挨拶 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/31(Sun) 14:02
本年を無事に過ごさせて頂き誠に有難う御座います。
どうか皆様、良いお年を。 

[4167] 航空機用発動機(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/31(Sun) 13:46
ライト:

1903年12月17日、史上初の飛行機が空に舞い上がった。
世に名高いライト兄弟の初飛行である。
当時、ライト兄弟は自転車屋を経営していた。
そして1908年7月4日、グレン・カーチスもまた飛行に成功した。
米国史上二人目(当時の公式記録では米国初)のカーチスも自転車屋であった。
両者は互いを敵視し訴訟を繰り返した。

1909年にはライト兄弟が航空機メーカーのライト社を創業しカーチスもまたヘリング・カーチス社を創業(翌年カーチス社と改名)している。
ただし1912年に兄のウィルバー・ライトが死亡した後、弟のオービル・ライトは1915年にライト社の経営権を売却した。
翌年、ライト社はマーチン社と合併(ライト・マーチン社設立)している。

だが1917年、マーチンはマーチン社として独立し社名は再びライト社に戻った。
更に同年、マサチューセッツで生まれエール大学を卒業したチャールズ・L・ローレンス(1882〜1950)がローレンス航空エンジン社を創業した。
そして1919年、ライト社はライト・アエロノーチカルに改称しプリンストン大学出身のF・B・レンチュラー(1887〜1956)が社長に就任する。

ついで1923年、ライト・アエロノーチカル社はローレンス航空エンジン社を合併した。
1924年、重役陣と対立したレンチュラーは辞任してP&W社へ移りローレンスが社長に就任する。
この様にして時代の趨勢は野心家の自転車屋から大学卒の若き技術者達へと移ったのである。

1925年、ライト・エアロノーチカル社は空冷星形単列9気筒エンジンP−2(排気量27.1L)を完成させる。
同年末、P&W社もまたR1340(排気量22L、通称ワスプ)を完成させた。
そして1929年、カーチス社の関連企業とライト社など合計12社が合併し米国最大の航空機メーカーカーチス・ライト社(資本金7500万ドル)が設立されたのである。

1931年にはP−2の改良型としてシリンダーを内径155ミリ、ストローク174ミリの新型に換えた空冷星形単列9気筒のR1820(排気量30L、通称サイクロン9)の量産が開始される。
信頼性の高いR1820は長きに渡って生産されソ連でもM25としてライセンス化された。
しかしR1820は技術的には単なる旧式9気筒エンジンに過ぎなかった。
同時期にP&W社が開発した14気筒のR1830に比べ排気量が同等ながらエンジン直径が178ミリも大きかったのである。
よって空気抵抗が多く高速が必要な戦闘機にはあまり適していなかった。

R1820はDC2やDC3などの双発輸送機で様々なタイプが装備された他、艦上爆撃機のSBD(通称ドーントレス)にはR1820−52やR1820−60及びR1820−66が装備された。
4発重爆撃機のB17には排気タービン付のR1820−97が装備されている。
また戦闘機にも全く装備されなかった訳ではなくFM2にR1820−56、F2AにR1820−40を装備した例がある。

P&W社はR1830の後継として排気量の増大化を狙いやや大型のシリンダーでR2800を開発した。
逆にライト社ではR1820の後継としてストロークが18ミリ短い内径155ミリ、ストローク160ミリの新シリンダーで14気筒化したのである。
だが1935年に完成したR2600(排気量42.7L、通称サイクロン14)のエンジン直径はR1820に比べ僅か3ミリしか小さくならなかった。

P&W社でも1937年には早くもR1830の後継となる空冷星形複列18気筒エンジンとしてR2800(排気量45.9L、通称ダブルワスプ)を完成させた。
両者を比較した場合、R2800の方が排気量が大きいのにエンジン直径は逆に55ミリ小さかった。
結果が歴然としていたのでR2600は戦闘機に装備されず爆撃機専用のエンジンとなった。

双発爆撃機のB25CにはR2600−13、A20GにはR2600−23が装備されている。
艦上爆撃機のSB2C4(通称ヘルダイバー)にはR2600−20、TBF1(通称アベンジャー)にはR2600−8が装備された。
なおカーチス・ライト社ではR2600と共に同一シリンダーを18気筒化した新エンジンとしてR3350(排気量54.5L、通称デュプレックスサイクロン)の開発も進めていた。
だがR3350は1937年に試作が完成したものの開発が難航し実用化が大幅に遅れてしまった。
このエンジンを装備した最初の量産機は大戦中に日本本土防空戦の仇敵となったB29である。
カーチス・ライト社を総括すると米国を代表する爆撃機用エンジンメーカーと言えよう。 

[4166] ガ島補給戦22 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/30(Sat) 18:02
松田大佐が歩兵第28連隊に着任する前、どの部隊にいたのかは判らない。
連隊長を離任した1944年1月7日以降、どこに所属したかも判らない。
なお、松田大佐はガダルカナルが初陣で戦場経験が皆無だったそうだ。
これも当時の日本陸軍に於ける歩兵大佐としては数少ないケースであろう。

その松田大佐はガ島撤収作戦の後衛部隊を指揮し見事に任務を完遂した。
だが昇進する事も無く功績は讃えられなかった。
何故であろうか?

ガダルカナル戦が負け戦であったからか?
だから歴史の闇に葬り去れれたのか?
どうやら、そうとも言えない例がひとつある。

ここでもう一人、松田大佐(陸士28期)と同期の人物に御登場願おう。
開戦時に陸大の教官であった宮崎周一少将は1942年10月6日に第17軍参謀長(任命は10月1日)となり10月29日、ガ島へ渡った。
その後、宮崎少将は苦心惨憺してガ島で第17軍司令部にとどまった。
その挙げ句、大本営から撤収命令を携えてガ島へ来た井本参謀に対し玉砕戦を主張したのである。

最終的に第17軍司令官百武中将の決裁で撤収したが実に危ない所であった。
その宮崎少将は撤収後の1944年10月、中将に昇進し12月14日には参謀本部第1部長に就任している。
参謀本部第1部長と言えば要職中の要職で日本陸軍の中枢なのだ。
最終的な決裁は参謀総長や次長に委ねられるが実質的な作戦計画は第1部長と作戦課長が決定すると考えて間違いない。

その宮崎中将の作戦計画の下で日本陸軍はルソン防衛戦、硫黄島防衛戦、沖縄防衛戦を遂行した。
圧倒的に劣勢だったし誰がやっても負けたと思う。
だけど・・・
極端に人命を軽視し「本土決戦は絶対にやる!」との前提で立案された諸計画にはガダルカナルで彼が取った作戦統帥が大きく反映されているのではなかろうか。
ガダルカナルで負けた参謀長がここまでの要職に栄転し松田大佐が評価されないのは不思議でならない。

ところで井本参謀だが亀井宏著「ガダルカナル戦記」1004頁によると彼がガ島へ来た時、随行員含め4名は各人60kgの荷物を運んだそうだ。
そしてこの荷物に第17軍司令部へのミヤゲとしてウィスキー12本がある。
ガラス瓶に入ったウィスキーの重量は約1.2kgなので約15kgだ。
どうせなら米を運ぶべきだと僕は思う
司令部職員が呑む末期の酒を運ばされた随行員は餓死しつつある戦友を見てどう思ったろう。
井本参謀はちょっと頭がおかしいか、想像力が欠如しているのではなかろうか?
それともそんな参謀達が補給計画を立案したからガ島戦は苦境に陥ったのだろうか?

ガダルカナル戦の経過を見ると日本陸軍の参謀諸氏にこうした傾向が散見される。
今までこうした事を書くと大先生方から怒られるのでずっと黙っていたけどね。
いつまでも書く機会があるとは限らないからこれからはどんどん書く事にしよう。

さて、陸士28期には忘れてはならない人物があと二人いる。
一人目は宮崎少将が第17軍参謀長となるきっかけを作った人物。
そう、前任の第17軍参謀長だった二見秋三郎少将だ。
二見少将は日本陸軍きっての智将としてガ島戦に於ける精緻な状況分析をしたが陸軍上層部に受け入れられず不遇な境遇に追いやられた。
その顛末に付いては前述しているのでここでは省略する。

そして二人目は・・・
松田大佐の前任連隊長である一木清直大佐だ。
精神主義で名高い一木大佐は盧溝橋事件勃発時、当事者の歩兵大隊長で勇名(悪名とも言える)を馳せた。
その後、日本陸軍としては最初にガ島へやって来て「泥沼のガ島戦」の端緒を作った人物だがここでの詳述は省略する。

この様に陸士28期の4人はガ島戦で大きな役割を果たした。
ただしこの4人だけが「ガ島戦に参加した陸士28期の将校」ではない。
10月26日に戦死した歩兵第29連隊長古宮正次郎大佐の様に他にも陸士28期の将校はいる。
だが前述の4人はガ島戦の帰趨に大きな影響を与えたのである。      (続く)

[4165] 航空機用発動機(その9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/29(Fri) 16:46
アリソン:

米国のミシガン州で生まれたJ・A・アリソン(1872〜1928)は1904年9月、インディアナ州でコンセトレイテッド・アセチレン社を設立した。
業務内容は自動車用ヘッドライトの生産と販売である。
この事業は大成功し莫大な資産を得た彼はヘッドライト生産事業をユニオンカーバイト社へ売却する。
そして1915年、新たにスピードウェイチーム社を設立しレースカー業界へと進出した。

だが1917年、米国は第一次世界大戦に参戦し自動車産業は軍需生産への転換を余儀なくされた。
レースカーの高度なエンジン開発技術はトラックなどの大型車両エンジンより航空機エンジン分野に近い。
よってスピードウェイチーム社は航空機用に開発されたリバティ・エンジンなどの部品製造に従事した。
リバティは内径127ミリ、ストローク178ミリのシリンダーで構成された水冷エンジンである。
単列の4気筒や6気筒、V型の8気筒も開発されたがリバティの主力はV型12気筒であった。
米国は国家総力戦への移行に際し官民を挙げての集中量産体制を確立する必要に迫られた。
この為、高性能かつ生産性の良い汎用大型エンジンを国家主導で開発し国内の各エンジンメーカーに生産協力を求めたのである。

こうして生産されたのがリバティL−12(27.03L)で航空機用として1917年から約20000基が生産された。
装備したのは米国でライセンス生産された英国のDH4軽爆撃機(約4800機)やDH9A軽爆撃機(約2000機)などである。
ただしL−12の馬力は400〜450馬力に過ぎず1920年代の航空機エンジンとしては充分であっても1930年代になると陳腐化は避けられなかった。

だがそれでもL−12は生産され続けた。
英国のナフィールド社が戦車用エンジンとしてL−12をライセンス生産しクルセイダーをはじめとする各種巡航戦車に装備したからである。
ソ連もまたL−12をライセンス化したM5をBT戦車に装備している。

さて、スピードウェイチーム社は第一次世界大戦後の1920年にアリソン・エンジニアリング社に社名を変更し小型船舶用エンジンの分野に進出した。
また1928年には新開発のベアリング技術でエンジンの耐用年数を大きく向上させた。
本拠地もフロリダ州に移転する。
そしてJ・A・アリソンが死去した翌年、アリソン社はGM社の傘下に入った。

新社長となったN・H・ギルマンは1000馬力クラスの水冷航空機用エンジンの開発に着手した。
かくしてアリソン社は1930年6月、水冷12気筒V型のV1710を完成させた。
V1710の登場以前、米陸軍戦闘機のエンジンはP&W社の空冷星形エンジンを装備するのが主流でありボーイングP26(通称ピーシューター)にはR1340、セバスキーP35やカーチスP36(通称モホーク)にはR1830が装備されていた。

水冷エンジンとしては1926年から生産が開始されたカーチス製V1570(通称コンカラー)があったがもはや旧式化しておりコンソリデーテッドP30(生産数60機)やカーチスP6ホーク(生産数70機)など極めて少数の戦闘機にしか装備されていなかった。
だがV1710の量産化により状況は一変し続々と水冷エンジン装備の戦闘機が開発されていった。
米陸軍の関心が水冷エンジンに向かったのは当時、「空気抵抗の少ない水冷式でなければ600q/hの壁は突破できない」と信じられていたからである。

V1710はベルP39Dに1段1速過給器付のV1710−35、カーチスP40EにはV1710−39が装備された。
双発のロッキードP38Fには排気タービン付のV1710−49、P38Lには排気タービンと水メタ噴射装置の付いたV1710−111が装備されている。
またソ連に多数が輸出されたベルP63には2段2速過給器付のV1710−93が装備され生産数は69305基に及んだ。

V1710の拡大型としては2基連結したW型24気筒のV3420が開発され1937年に試作機が完成している。
V3420を装備する機体にはP38を巨大化させたロッキードXP58双発戦闘機(自重9.8tで零戦21型の5.7倍!)やフィッシャーP75戦闘機があった。
だが双方とも大戦中に試作機が完成したものの量産には至らなかった。
どちらもコンセプトが不明確な航空機で「戦争遂行上、必要な存在」ではなかったからである。
こうしてV3420(生産数約150基)は日の目を見ずに姿を消したがアリソン社は大戦中、いち早くジェットエンジンに着目し英国のロールスロイス・ダーウェントをライセンス化した。
これがJ33で後にP80ジェット戦闘機に装備されて名声を博し6600基以上、生産された。

なお米国製航空機エンジンの命名基準だがRは空冷星形、Vは水冷V型を表し続く数字は排気量(ただしメートル法ではなくインチ法)を表している。
更にサブタイプとして末尾に数字とアルファベットが付くが末尾の数字が偶数だと海軍用、奇数だと陸軍用となり空冷星形の場合、Wは水メタ噴射装置付きである事を示す。 

[4164] 航空機用発動機(その8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/28(Thu) 19:20
ミクリン:

1932年11月10日、1機のドルニエ・ワール飛行艇が故国ドイツに帰還した。
機長の名はウォルフガング・フォン・グロナウ。
彼は111日で「飛行艇による初の世界一周」を成し遂げたのである。

この偉業を達成するには何よりも信頼性の高いエンジンを必要とする。
世界一周の途次で故障が頻発してはゴールに達する事が出来ないからだ。
彼の乗機には名エンジンと名高い水冷12気筒V型BMWY(排気量46.9L、シリンダー内径160ミリ、ストローク190ミリ)の改良型であるBMWZが装備されていた。

改良点は馬力と整備性の向上である。
同一シリンダーを使用しているので基本構造の変化はない。
なお、原型となったBMWYはドイツのみならず他国でもライセンス化されている。

1920年代のソ連は内戦によって科学技術の水準が地に落ち、エンジンを開発するには外国から技術習得せねばならない状況にあった。
この状況を打開する為に1930年12月3日、ソ連空軍局長ピョートル・I・バラーノフ(1892〜1933)はソ連中央航空エンジン研究所(TsIAM)を設立し中央管理体制でエンジンが開発された。
かくして次々と外国製エンジンがライセンス化されソ連航空機用エンジンの歴史が幕を上げた。

1895年にウラジミーロフで生まれたアレクサンドル・ミクリンが担当したのはドイツ製の水冷12気筒V型BMWYである。
彼はM17としてこのエンジンのライセンス生産に着手した。
ソ連では中央航空エンジン研究所で開発されたエンジンにはMナンバーが命名され各設計局に移管してからは設計局ナンバー(ミクリンの場合はAM)に改称される。
M17は約27000基以上生産されうち19000基が初期型TB3重爆などの航空機用に使用された。
なお、残りのうち多数がBT戦車などに装備されている。

M17の後継となるのが回転数を1850rpmに向上させ730馬力であった出力を825馬力に増大させたM34で後期型TB3重爆などに装備された。
次のAM35(2050rpm、2050馬力)には2速式過給器も装備され高高度性能が向上した。
AM35はMiG−1及びMiG−3戦闘機に装備されたがクリモフエンジンと異なり同軸火器が装備できなかった。
加えて主翼が木製なので翼内火器も装備できず火器は機首に装備せざるを得なかった。

しかもBMW系水冷エンジンはDBの様に機首に火器を装備し易い倒立型ではなく一般的なV型だった。
よってエンジン上に火器を装備できずエンジン後方に3門もの火器がズラリと装備されたので機首の長い珍妙なデザインとなった。
ミクリン系エンジンは木製戦闘機用には適していなかったのである。

なおA・ミクリンは1943年に設計局を設立したので以降はエンジン名がAMに改称されている。
AM38(2350rpm、1700馬力)は過給器を1速式に戻した低空専用で主翼にVYa23ミリ砲を装備するIL2襲撃機(シュトゥルモビク)に装備された。
IL2以外には殆ど装備されなかったがIL2はソ連軍最多生産機なのでAM38の生産数は36163基にものぼった。

AM42(2500rpm、2000馬力)は最終発達型でIL10襲撃機に装備された。
ミクリン系エンジンは基本構造を変えずに改良されたので排気量は終始、46.9Lだったが最初のM17の乾燥重量が553sだったのに対しAM42では996sに増加していた。
A・ミクリンは1956年までミクリン設計局のリーダーとして活躍し以降はジェットエンジン設計者として名高いセルゲイ・K・ツマンスキー(1901〜1973年)に席を譲った。

ちなみにBMWYは日本の川崎重工でもライセンス化され87式重爆撃機などに装備された。
川崎重工では後にシリンダーのストロークを170ミリに変更した水冷12気筒V型ハ9を開発し95式戦闘機や98式軽爆撃機などに装備している。
ただしソ連のミクリン設計局の様に極限までの性能向上は行われず日本の水冷エンジン開発はDB系に代えられていった。 

[4163] 航空機用発動機(その7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/27(Wed) 17:47
ブリストル:

ブリストル鉄道(1870年代に創業)の子会社として1910年に創設されたブリストル社は英国航空界を代表する航空機メーカーとして名高い。
本拠地は当然、英国のブリストル市近郊である。
ただし当初の社名は「ブリティッシュ・アンド・コロニアル飛行機会社」であった。
ブリストル社の特徴は空冷星形エンジンの開発及び生産とそれを装備した航空機の開発、生産にある。
英国航空界を代表する軍用機エンジンメーカーはブリストル社の他にもネイピア社やロールスロイス社などがあるが他社はエンジン専業メーカーで航空機開発には着手しなかった。

なお創業から戦間期までは単発小型機を生産していたが第二次世界大戦時は双発中型機を多く生産した。
第一次世界大戦時に量産されたブリストル社のスカウト偵察機は戦場に於ける航空機の有用性を証明しF2戦闘機は最終的に5000機以上が生産された。
だが第一次大戦中に量産されたブリストル社製航空機は他社のエンジンが装備されていた。
同社がエンジンの開発及び量産に進出するのは1920年の社名変更時にコスモス・エンジニアリング社を合併してからとなる。

ブリストル製エンジンはジュピター(排気量28.7L、シリンダー内径146ミリ)から始まる。
第1世界大戦直後に生産開始されたこのエンジンは瞬くうちに世界中に広がり各国航空機業界を席巻した。
ジュピターを装備したブリストル製航空機としてはブルドック戦闘機が有名だが戦間期で需要が少ない事から生産数は僅か443機と少ない。

ジュピターは単に輸出されただけではなくソ連ではM22としてライセンス化された。
日本でも改良版が中島の寿(寿の「じゅ」はジュピターのジュ)として生産されている。
第2次世界大戦勃発時になると流石にジュピター本体は実戦機用エンジンと呼べる存在では無くなっていたがその子孫が続々と生まれていた。

まずジュピターに過給器を装備したペガサス。
シリンダーのストロークを25ミリ短くし戦闘機用に小型化したマーキュリー。
マーキュリーを3バルブ化した改良型のパーシュース。
これを14気筒化し馬力を増大させたハーキュリーズ(排気量38.7L)。
更にストロークの短い新シリンダー(内径127ミリ、ストローク137ミリ)に換えて空気抵抗を減らしたトーラス(排気量25.400L)などが続々と開発された。

ジュピターからトーラスへの流れはシリンダーの小型化とそれを補う為の気筒数増大及びバルブや過給器など周辺機器の改良につきる。
よって排気量自体は最初のジュピターに比べハーキュリーズも約10Lしか増えていない。
排気量=馬力ではないので英国技術力の真価を表す好例と言えよう。

だがブリストル製空冷星形エンジンの最終決定版は内径148ミリ、ストローク178ミリの長大な新シリンダーを18気筒化したセントーラスで排気量は日本のハ42(4式重爆装備)や米のR3350(B29装備)に匹敵する53.600Lに及んだ。
ただしセントーラス装備機は第二次世界大戦に間に合わなかった。
星形空冷エンジンにとって気になる直径はトーラスが1170ミリ、マーキュリー系が1307ミリ、ハーキュリーズが1320ミリ、セントーラスが1405ミリ、ペガサス系は1405ミリである。

大戦中、ブリストル製空冷星形エンジンを装備したのはペガサスがソードフィッシュ雷撃機、双発爆撃機のハンプデンやウェリントン1型であった。
マーキュリーはブレニム双発爆撃機(自社製)、グラジエーター戦闘機などである。
パーシュースはスキュア艦爆やロック艦戦、トーラスはボーフォート雷撃機(自社製)、アルバコア雷撃機に装備された。
ハーキュリーズを装備したのはウェリントン重爆(3型や10型が装備、2型はマーリン装備)や自社製のボーファイター戦闘機(1型、6型、10型が装備、2型はマーリン装備)、重爆のスターリングやハリファックス(3型、6型、7型などが装備、他はマーリンなどを装備)、ランカスター2型など多岐に及ぶ。
こうした例で見る様に英国では1種類の航空機でも多種のエンジンを装備する事が多い。 

[4162] 航空機用発動機(その6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/26(Tue) 19:18
ネイピア:

ネイピア社は1808年に創業した印刷機メーカーである。
その後、変遷を重ねて20世紀初め頃には自動車メーカーとなり船舶エンジン分野にも販路を広げた。
ついで第1次大戦が勃発するとネイピア社は航空機用エンジン分野へ進出した。
航空機エンジンでもネイピア社はそれなりに成果を挙げた。

ネイピア製エンジンの特色は他社に比べて非常にシリンダー数が多い事である。
シーフォックス水上偵察機に装備されたネイピア製レイピアなど16気筒であった。
ただし気筒数が多くてもレイピアの排気量は8.5Lで出力は僅か395馬力に過ぎない。
レイピアのシリンダーは極端に小さく内径89ミリ、ストローク89ミリしかないのである。
レイピアはこのシリンダーをH型に配置した空冷エンジンであった。

航空機エンジンの冷却方式には空冷と水冷がありシリンダー配列には直列、星型、V型、X型、H型などがある。
更に星型は単列や複列、3列、4列に細分化される。
またV型にも正V型と倒立V型、H型にも正Hと横H(日本語ではエと表示した方が判りやすい)がある。
この様に多様化した要因は「如何にしてシリンダーで発生したエネルギーをクランクに伝えるか?」と言う事と「如何にしてシリンダーを冷やすか?」に尽きる。

当たり前の話だが全シリンダーは均等に冷却されねばならない。
これを空気で冷やすとなると基本的には星型とならざるをえない。
なぜならプロペラ軸線に対しズラリとシリンダーが並ぶと1本目は冷やせても2本目以降は順次、冷却効率が悪くなるからだ。
星型にしても複列からは冷却が難しくなり3列以上では問題が多発する。

V型は大部分が12気筒で上に開いた形で左右6本ずつのシリンダーが配置される。
英のマーリンやグリフォン、米のアリソンに独のBMW6及びこれを発達させた日本のハ9系やソ連のミクリン系、仏のイスパノスイザ12Y及びこれを発達させたソ連のクリモフ系などがV型の水冷である。
倒立V型はV型の亜流と言うべきエンジンでシリンダーが下に開いている。
独のDB600系(日本のハ40系とアツタそれにイタリアのRA1000なども含む)とユモ210系などが倒立V型でこれらも水冷12気筒である。
バランスのとれたエンジンは水冷V型12気筒(倒立も含む)か空冷星型になるのがセオリーと言えよう。

一方、H型だがこれは前面から見ると直立した上向き2本、下向き2本の計4本がプロペラ軸線上に連なったシリンダー配列でレイピアの場合は16気筒だから4列に並ぶ。
興味深いのはレイピアが星型ではないのに空冷である事でネイピア社の設計陣は「小型シリンダーを多数配列すれば冷却装置を省略できる」と考えたらしい。
だがレイピアはオーバーヒートが頻発しシーフォックス(総生産機数64機)にしか装備されなかった。

ネイピア社はレイピアに続きシリンダーを内径96.8ミリ、ストローク95.2ミリに拡大し24気筒化した空冷H型24気筒エンジンのダガーを開発したがこれも失敗作に終わった。
次にネイピアが送り出したセイバー2A(排気量36.7L)では無理な空冷を諦めて水冷化し反対にシリンダーを内径127ミリ、ストローク121ミリと更に大きくした。
配列はHを継承したもののシリンダーを横に並べた横Hとなっている。

最初にセイバー2Aを装備したのはホーカー社のタイフーン戦闘機だがここで故障が大頻発した。
セイバー2Aそのものに問題が多かったうえタイフーン自体も多くの欠陥を抱えていたのである。
充分な時間をかけ試作機の段階で問題を排除できれば良かったのだが見切り発車で量産指示を出した為、実戦部隊で事故が続出し初期生産期142機中、135機で事故が発生した。
量産開始後の9ヶ月間は戦闘による損耗より事故による損耗の方が遥かに多かった。

加えてセイバー2Aは1段2速過給器だったのでマーリンに比べ高々度性能が大きく劣った。
ただしセイバーは問題を多く抱えていたものの調子が悪くなければ高性能を発揮した。
スピットファイア14型が装備したグリフォン65型の排気量はセイバーと同じ36.7Lで出力は2035馬力であったがテンペスト5型装備したセイバー2Bの出力は2420馬力に達したのである。
なお、ネイピア社は1942年、イングリッシュ・エレクトリックに合併され134年の歴史を閉じた。 

[4161] 戦後の終わり 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/26(Tue) 08:34
みんな、今朝の読売新聞朝刊を見た?!
どうも日本政府が空母の保有を決定したらしいよ。
かつて1980年代に防大の教授だった三木先生(元陸将)に言われたもんだ。
米国は日本の核保有と空母保有、爆撃機の国産化を許さないと。
でもこうして核以外は徐々にパンドラの箱が開かれたのだ。
(爆撃機に関しては練習機を改造したF1を爆撃機とみなすか?とか原型がF16のF2を国産と見なすか?など諸説あるが)
あぁ、戦後は終わってゆくんだね...

核については?
できうればこれからも日本が核を持たなくて良い状況にあって欲しいものだ... 

[4160] 航空機用発動機(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/25(Mon) 17:41
ロールスロイス:

1904年5月4日、C・S・ロールスとH・ロイスは運命の邂逅をした。
その日、二人が出会わなければロールスロイス社が創設される事も水冷12気筒航空エンジンの名器マーリンが世に出る事もなかったであろう。
ロールスロイスは自動車及び自動車エンジンで有名なメーカーで二人の出会いも自動車の試乗に始まる。
なお、ロールスは英国航空協会の創設メンバー(英国で二人目の飛行ライセンス取得者)でもあり後に史上初の英仏海峡無着陸往復飛行を為し得た稀代の飛行家でもあった。
ただしロールスは1910年7月12日に航空事故で死亡してしまう。

残されたロイスはロールスロイス社を自動車メーカーとして不動の地位にのし上げたが1914年に勃発した第一次世界大戦で航空エンジンへの参入を果たした。
第一次大戦後、ロールスロイス社はシュナイダーカップ用に設計された水上レーサーのエンジンで脚光を浴びるがその基礎を確立したのはケストレルであった。
ケストレルは排気量21L、シリンダー内径127ミリ、ストローク140ミリの水冷V型12気筒エンジンで1927年から生産され始めた。
出力は当初、450馬力だったが次第に改良が加えられ745馬力にまで向上している。

このケストレルに過給器を装備したのがペリグリンでロールスロイス社はここで大きな賭にでた。
ペリグリンは所詮、ケストレルの改良型に過ぎず大した性能向上は期待できない。
次の大きなステップアップが排気量増大でありそれにはより大きなシリンダーを開発するか気筒数を増やすしか方法が無いのは明白であった。
かくしてロールスロイス社はX型24気筒エンジンの開発に着手した。

X型とは倒立V型12気筒エンジンの上に通常のV型12気筒エンジンを結合させ合計24本のシリンダーで1枚のプロペラを駆動するエンジンの事である。
2基のペリグリンを結合するのだから排気量は42Lにも及ぶ。
大排気量に比例するが如く大きな期待を寄せられたこのエンジンはバルチャーと命名され1935年9月に設計着手された。

だがロールスロイス社はバルチャーだけに全てを委ねていた訳ではなかった。
前述した様に多気筒化が無理ならば大きなシリンダーを開発すれば良い。
ロールスロイス社はバルチャーの開発と並行し内径137ミリ、ストローク152ミリの新シリンダーを使用した水冷12気筒V型エンジン「マーリン」(排気量27L)の開発も進めていたのである。

設計に携わったロイスは1933年4月に死去したがその半年後、マーリンは完成した。
さて、バルチャーの方は4年の歳月をかけ大戦勃発直前の1939年8月に審査を終えたものの残念ながら生産性が悪くて故障も頻発し最後まで期待に応えられなかった。
最終的にバルチャー装備を予定された航空機は次々と他のエンジンへの変更を余儀なくされたのである。

また、バルチャーは一挙に排気量の2倍化を狙う画期的エンジンであったがその分、重量及びサイズも大きく当時の航空機にとって使い勝手の良いエンジンでは無かった。
もし問題点が解決したとしても実用的エンジンとなりえたかは疑問である。
それに比べ重爆から戦闘機まで装備可能なマーリンは手頃なエンジンで信頼性も高かった。
よって英国三大名機として名高いスピットファイア、モスキート、ランカスターは勿論、ハリケーンやバトル、フルマー、バラクーダなど多くの機種にマーリンが装備された。
更に基本型はマーリンでなくてもウェリントン、ボーファイター、ハリファックスなどの様に派生型がマーリンを装備した例が多岐に渡る。
ライセンス型も入れればP40やP51、果ては戦後にスペインで生産されたBf109にまでもマーリンが装備された。

マーリンの生産数はライセンス型も含め16万8040基(栄は3万100基)に達する。
これ程、マーリンが長く広く使用され続けたのはロールスロイス社によるたゆまぬ技術革新(特に過給器設計のスタンレー・フーカーの功績が大きい)と改良があったからに他ならない。
スピットファイア1型やハリケーン1型が装備した初期型のマーリン2及び3は1段1速過給器だったがマーリン20系(20〜25、27〜28)では1段2速となりハリケーン2型やモスキート、ランカスターなど様々な機体に装備された。

その後、スピットファイア5型用として開発されたマーリン45系(派生型に47や50など)は1段1速過給器に戻ったが高高度では絶大な性能を発揮した。
ついでスピットファア9型に装備されたマーリン60系(61、63、64、66、70など)では画期的な2段2速過給器となった。
2段2速とは2基の過給器を装備し1段目で圧縮した空気をインタークーラーで冷却し2段目の過給器で再圧縮する装置である。
これによりマーリンは排気タービンに匹敵する程の高々度性能を発揮できた。

だがマーリンとていつかは廃れる。
これを見越してロールスロイスが開発したのがグリフォンである。
グリフォンには新しく内径152ミリ、ストローク168ミリのシリンダーが採用され排気量は36.7Lに増大している。

グリフォンを装備したスピットファイア14型は大戦末期、大いに活躍したが同機は「史上最良のレシプロ戦闘機」とは呼ばれずその名はマーリン装備(正式にはパッカード)のP51に冠された。
この事をもってしてもマーリンが不世出の名エンジンであると伺い知れよう。
なおマーリンを陸上用に転用したミーティアも生産されクロムウェル戦車などに装備された。
クロムウェルは第二次世界大戦中に於ける最速の主力戦車として知られている。

なおマーリンのライセンス版として生産されたのが米国製のV1650でパッカード社で生産された。
1899年創業のパッカード社は米国の自動車メーカーである。
水冷V型12気筒エンジンで名高い同社は高級車の販売で好評を博し世界でも有数の自動車メーカーとなったが1920年代の大恐慌は同社の経営に大打撃を与えた。
高級車なので不況下では売れず第二次世界大戦の勃発が追い打ちをかけた。
統制経済で乗用車の生産が禁止されてしまったのである。

ただし第二次世界大戦の勃発はパッカード社にとって災厄と共に福音ともなった。
水冷V型12気筒エンジンを生産していた為、いち早く航空機用エンジンに生産転換できたのである。
かくしてパッカード社で英国ロールスロイス製水冷12気筒V型「マーリン」(排気量27L)がV1650としてライセンス生産される事になった。

ライセンス契約は1940年9月に成立し翌年8月から量産が始まった。
最初に生産されたのは1段2速過給器のマーリン28をモデルとしたV1650で米国製のP40Fやカナダで生産されたアブロ・ランカスター重爆撃機に装備された。
なお、当時の米国製水冷航空エンジンはアリソン社のV1710の寡占状態でP38やP39、F型を除くP40など殆どの米陸軍戦闘機に装備されていた。
しかし、これらの米陸軍戦闘機は援英機として多数が欧州に送られたが英国としては性能的に満足してはいなかった。

そこで英国は米国のノースアメリカン社が提案した新型戦闘機NA73(V1710−81装備)を発注したのである。
NA73は期待以上の高性能を発揮し米陸軍もまた同機をP51A型として採用した。
そして更なる性能向上を求めエンジンを2段2速過給器付のマーリン63をモデルとしたV1650−3に換装したP51B型が新たに開発された。

ついでマーリン66をモデルとしたV1650−7にエンジンを換装しキャノピーを涙滴化したP51D型、水メタ噴射装置付のV1650−9(マーリン100をモデル)を装備した最終量産型のP51H型などが次々と開発されていった。
P51は「史上最良のレシプロ戦闘機」と評価されるがその高性能の源はV1650にあったと言っても過言ではない。
V1650の生産数は約55000基にものぼる。
なお、パッカード社は戦後、自動車メーカーに復帰したがあまり業績が向上せず1962年には軍用トラックメーカーとして名高いスチュード・ベーカー社に合併されてしまった。 

[4159] 航空機用発動機(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/24(Sun) 20:43
フィアット:

トリノ市はイタリア北西部ピエモンテ州の州都として名高い工業都市である。
1899年、トリノ市に多数の事業家(貴族、地主、銀行家、弁護士、企業経営者など)の出資によってフィアット社が創業された。
フィアット(FIAT)とはイタリア・トリノ・自動車製作所の略であり事業内容は呼んで字の如く自動車の製造を主に行っていた。
すなわちフイアット社は単なる同族会社ではなくトリノ市を代表する企業であった。

そして1902年、このフィアット社の社長にビッラール・ペローサ町長であったジョバンニ・アニェッリ(1866〜1945)が就任する。
彼は巧みな経営手腕で各方面へ事業を拡大しフィアット社をイタリアを代表する工業財閥へと隆盛させていった。
1908年、フィアット社は最初の航空機エンジンSA8/75を開発し航空産業へも進出する。
とは言えフィアット社の主軸が自動車産業であった事は変わらず1925年にはイタリアの自動車産業の87%がフィアット社の傘下にあった。

フィアット社が開発した航空機用エンジンで最初に量産されたのは水冷直列6気筒のA10(9.5L)で1914年に完成し第一次大戦中、Ca32爆撃機などに装備されていた。
次に量産されたA12も水冷直列6気筒だったが遥かに大きく排気量は21.715Lに増大した。
A12はCa40爆撃機やCa44爆撃機などに装備され13260基もの多数が生産された。

更にA14では水冷V型12気筒になり排気量は57.25Lになった。
だがA14は当時、世界最大出力の航空エンジンであったものの生産数は約500基に過ぎなかった。
A14は大型単発機のARF競争機やBR1爆撃機に装備されている。

A18はフィアットには珍しい空冷星形9気筒であったがA20(18.995L)では水冷V型12気筒に戻りS・ロザテッリの設計によるCR20戦闘機に装備された。
続くA22は排気量を27.92Lにした拡大型の水冷V型12気筒でSM55双胴双発飛行艇などに装備された他、M39競争機に装備されシュナイダーカップを米カーチス競争機と争った。
SM55やM39は「紅の豚」に登場するので目にされた方は多いのではなかろうか。

3発双胴飛行艇のS66に装備されたA24(43.429L)やBR3単発軽爆に装備されたA25(54.48L)も水冷V型12気筒で爆撃機用の大型エンジンであった。
だが次のA30(24.05L、シリンダー内径135ミリ、ストローク140ミリ)は水冷V型12気筒ながら戦闘機用の小型エンジンでCR20の後継としてS・ロザテッリが設計したCR30戦闘機などに装備された。
このCR30の改良型として開発されたCR32戦闘機は1930年代のイタリア航空機を代表する傑作戦闘機として勇名を馳せた。
スペイン内乱ではフランコ側への義勇軍として多数のCR32が派遣されボンザーノ大佐(15機)、マンテリ中尉(15機)、リッチ大佐(10機)、ノビリ大佐(10機)など数多くのエースを輩出した。

なおCR32の後継機として開発されたCR42戦闘機にはこれまでの水冷V型12気筒に代わり新たに開発された空冷星形複列14気筒のA74(排気量31.2L)が装備された。
新開発されたこのエンジンはツインワスプJrと呼ばれた米国P&W社製R1535(排気量25.2L)のライセンス版で原型では内径132ミリ、ストローク132ミリであったシリンダーが内径140ミリ、ストローク145ミリに拡大されていた。
T・ゼルヴィ技師(1891〜1939)とA・フェーシャ教授(1901〜1968)によって開発されたA74は性能的に充分とは言えなかったが信頼性は高くフィアット社のCR42やG50、マッキ社のMC200など多くの戦闘機に装備された。

しかしイタリアはMC205をはじめとする5シリーズの次期戦闘機に装備する為、新たな空冷星形エンジンを量産しなかった。
もはや国産エンジンで連合軍戦闘機に対抗するのは無理だと悟りドイツ製の水冷倒立V型12気筒DB601(排気量33.9L)をライセンス化したアルファロメオ社のRA1000やDB605(排気量35.7L)をライセンス化したフィアット社のRA1050に移行したのである。
A74に続き空冷星形複列18気筒のA80(排気量45.7L)も開発されたが内径140ミリ、ストローク165ミリの大型シリンダーを使用した爆撃機用エンジンであり戦闘機には装備されなかった。
なおA80の排気量は米国P&W社のR2800(排気量45.9L)に匹敵したが回転数が低いので出力はR2800(2000馬力)に比べ僅か半分の1000馬力に過ぎなかった。
A80はBa65軽爆撃機やBR20重爆などへ装備され約2000基が生産された。 

[4158] 航空機用発動機(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/23(Sat) 21:58
枢軸側ジェットエンジン:

1939年8月27日、史上初の本格的ジェット機He178が初飛行に成功した。
現代ではプロペラ機に比べジェット機の優位を疑う者はいない。
だが1930年代末の時点ではプロペラ推進以外の航空機は荒唐無稽とされていたのである。

ただしハインケル社の創設者であるエルンスト・ハインケルは1935年の段階でプロペラ推進による航空機の速度限界を800km/hと予測しておりプロペラを使用しない新エンジンを模索していた。
既に1930年に英国の技術士官F・ホイットルがプロペラを使用しない推進機関として遠心式ターボジェットを提唱していたが理論的存在に過ぎず実現への道はまだ遠かった。
転機は1936年3月に訪れた。
個人的にジェットエンジン研究を続けていたハンス・フォン・オーハイン(1911〜1998)がハインケル社へ入社したのである。

1937年3月、彼は水素を燃料とするHeS1を完成させたが実用性は皆無に等しかった。
そこでHeS2を経てガソリンを燃料とする実用的なHeS3(推力450kg)が開発された。
HeS3は1938年3月(9月とする資料もある)に完成しレシプロ機の補助推進器として実験が繰り返された。
その後、初のジェット実験機として単発のHe178が設計されたのである。

He178の速力は598Km/hでプロペラ機と大差なかったが将来への可能性は大きかった。
ところが初のジェット機を前にしてドイツ航空省の目は冷たかった。
確かにジェット機には限りない未来が開けていた。
だが、5日後に控えた第二次世界大戦の開戦を前にドイツ航空省は「それどころではない状態」になっていたのである。

戦力化への道程は実験機の初飛行から実戦機の計画、設計、量産化を経なければならない。
だから戦力として期待しうるのは遥か先になる。
短期決戦であれば「未来の戦闘機」より「現用機の量産拡大」が焦眉の急となるのだ。
加えてハインケル社は航空機生産メーカーであって航空エンジン生産メーカーではない。
よって未知の器材であるジェットをエンジンメーカーでないハインケル社が生産するのは困難であった。

更に社長のE・ハインケルが政治的信条からナチ政権に批判的だったのでハインケル社は冷遇されていた。
これらの理由によりハインケル社のジェット機開発はドイツ航空省に認知されなかったが独自に開発が進められ1940年9月には初の実戦機であるHe280双発戦闘機の試作機が完成した。
ただしエンジン開発(HeS8:600kg)が難航し初飛行は翌年4月2日まで遅れた。

He280の性能については速力930km/h(航空ジャーナル)、820km/h(英ウィキ)、780km/h(モデルアート)など諸説ある。
これらの数値では最高速から最低速まで150km/hの差があるが最低速でもプロペラ機を圧倒的に凌駕している。
ジェット機はプロペラ機に対し航続距離で劣ったものの速力の面では遥かに高性能であった。
ドイツ航空省でもウーデット上級大将の様にジェット機を評価する人物も現れた。

一方、第二次世界大戦は既に二年目に突入し短期決戦の夢は雲散霧消と化していた。
よってドイツ航空省はジェット機に対してより積極的な開発を求め始めだした。
ただしハインケル社でのジェットエンジン開発は前記の理由から難しかった。
そこで航空省特殊エンジン課のマウホ課長は「開発の長期化が予測されるが空気抵抗が少なく高性能が期待しうる軸流式ターボジェット」の開発をユンカース社とBMW社に指示した。
かくして推力800kg、重量623kgのBMW003と推力890kg、重量719kgのユモ004の開発が開始されMe262双発戦闘機とAr234双発爆撃機への装備が予定された。

だが本命であるBMW003の開発が難航し両機はやむを得ずユモ004を装備して完成した。
後にBMW003が完成し、これを装備した単発戦闘機He162と4発のAr234Cが開発された。
ついで遠心式と軸流式の長所を兼ね備えたダイアゴナル式ターボジェットのHeS011(推力1300kg、重量950kg)も開発され単発のTa183戦闘機(通称フッケバイン)や双発のMe262HG3への装備が予定されたが試作は完成したものの量産化には至らなかった。
大戦後、ドイツのジェットエンジン開発技術はソ連に流出しBMW003はRD20、ユモ004はRD10としてコピー生産されYak−15やMiG−9などに装備されている。

戦力化はできなかったが日本でもジェットエンジンが開発された。
なお日本海軍では種子島大佐(1902〜1987)によってかなり早くからジェットエンジン研究が行われていた。
だが開発されていたのはエンジンだけでそれを装備する航空機の開発はまだ先の予定であった。

ところが1944年7月、ドイツに於けるジェットエンジン開発資料とエンジン本体及び巖谷中佐を載せた伊29がドイツからシンガポールに帰還し事態は大きく変わった。
日本では既にネ12の開発に着手していたが高性能のドイツ製ジェットエンジンをライセンス生産できれば早急に戦力化できる。
国産ジェット戦闘機開発を提唱する巖谷中佐(1903〜1959)はすぐに一部の資料(BMW003)を携え航空機で内地に向かった。
だが伊29はバシー海峡で米潜に撃沈され開発資料の大部分とエンジン本体が失われたのである。
やむなく日本はライセンス化を諦め独自にジェットエンジンを開発せねばならなくなった。

さて、巖谷中佐は高性能迎撃機としてのMe262の活躍に強く心を動かされてジェット機開発を発案したのだが日本海軍中央の受け取り方はかなり違っていた。
日本海軍中央はジェット機開発に同意はしたもののそれは特攻機としてであった。
意外に思われるかも知れないがジェット機はレシプロ機に較べ経済的である。
燃料に高品質ガソリンを必要とせずエンジン構造が簡便で量産向だからだ。
当然の事ながらジェット機は性能についてもレシプロ機より格段に優れていたのだが日本海軍は性能より経済性の方に着目したのであった。

こうして開発された特攻機が橘花である。
橘花に装備する予定のエンジンは当初、推力340sのネ12であった。
しかし遠心式のネ12は推力が小さかったうえ開発が難航していた。
よって急遽、BMW003を参考とした軸流式のネ20(重量470kg)が開発された。
だが推力が475sに増大したもののMe262が装備した推力890sのユモ004(重量719kg)に較べるとまだ遥かに小さかった。
ただしもともと重量がユモ004の65%しかないのだから推力が53%しかないのも当然であった。

一方、特攻機として橘花を開発した海軍と違い日本陸軍では純粋な戦闘機としてキ201を開発した。
戦闘機としての機動性を求めるのならユモ004に近い推力のジェットエンジンが必要となる。
かくして開発されたのがネ130(推力900s)とネ230(推力885s)であった。
だが1944年12月に開発着手したネ20を翌年4月に完成させたのが関の山でネ130やネ230は日の目を見ない内に終戦を迎えた。
橘花の開発指示は1944年12月に中島飛行機へだされ1945年6月末に試作1号機が完成した。
高岡中佐による初飛行は1945年8月7日、木更津で実施され日本海軍航空史に有終の美を飾った。 

[4157] 航空機用発動機(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/22(Fri) 17:55
ピアッジョ:

名スクーターとして名高いベスパを開発したピアッジョ社は1884年にジェノバで創業した。
創業者はリナルド・ピアッジョ(1864〜1938)である。
当初、ピアッジョ社は船舶や鉄道関係の機械メーカーだったが1915年から航空産業に進出した。
1927年にはイタリア航空界屈指の航空機設計者ジュセッペ・ガブリエリ(1903〜1987)が入社している。
トリノ理工科大学を卒業しドイツのアーヘンで航空工学を学んだ彼は後にフィアット社に移籍し大戦中、G50(生産数782機)やG55(生産数役300機)などの名戦闘機を設計した。
彼は戦後もG91ジェット戦闘機(生産数約770機)などを設計している。

ピアッジョ社は航空機メーカーであると共にエンジンメーカーでもありその源流は仏のグノーム・ローヌ製空冷星形単列9気筒9K(通称ミストラル、24.86L)をライセンス化したP9にある。
P9やその改良型であるP10は3発のSM81爆撃機やSM73輸送機などに装備された。
P9の通称はステラである。
英のブリストル製空冷星形単列9気筒ジュピターもP8(28.63L)としてライセンス化されたがあまり多くは生産されていない。
続いてグノーム・ローヌ製空冷星形複列14気筒14K(排気量38.7L、通称ミストラル・メジャー、シリンダー内径146ミリ、ストローク165ミリ)をライセンス化したP11が開発された。
出力1000馬力のP11はRe2000戦闘機やBa88戦闘爆撃機、カントZ1007重爆、SM84重爆など多くの航空機に装備されている。

P12(排気量53L)はシリンダーのストロークを176ミリに拡大し18気筒化したP11系列のオリジナル空冷星形複列エンジンでトルネードと呼称された。
装備したのはカントZ1018重爆とピアッジョP108重爆である。
イタリア唯一の量産型4発重爆であるP108は外側エンジンナセルに12.7ミリ連装機銃を遠隔砲塔で装備しているのが外見的特徴であった。
ただしP108の生産数は派生型の輸送機も含め約50機に過ぎない。
トゥルビーネと呼ばれるP19はP11の出力向上型で1175馬力になりRe2002に装備された。
Re2001はRe2000のエンジンをP11からドイツ製のDB601に換装した改良型だがあまり性能が向上しなかったうえ、エンジンの供給が枯渇してしまった。
そこでエンジンを再び国産のP19に換装したRe2002が開発されたのである。
Re2002は戦闘爆撃機として活躍し225機が生産された。

こうしてイタリア航空機産業に多大の貢献を為したピアッジョ社であったが第二次世界大戦での敗北は同社の命運に大きな影響を与えた。
航空機開発から全面撤退した訳ではなくP148などの練習機開発は継続したものの軽工業への進出も余儀なくされたのである。
かくして設計されたのが1946年に発売されたベスパで瞬く内に世界のスクーター市場を席巻した。 

[4156] 航空機用発動機(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/21(Thu) 17:44
連合軍ジェットエンジン:

大戦中のジェット機開発に関してはドイツが著名であるが端緒を開いたのは英国の方が早かった。
フランク・ホイットル(1907〜1996)は英国が輩出した稀代のジェットエンジン設計者である。
彼はコベントリーで生まれ1926年にクランウェル空軍士官学校へ入校する。

そして同年、王立航空研究所(ROE)のアラン・アーノルド・グリフィス(1893〜1963)は「タービンの空力的設計」とする論文を発表した。
この論文でグリフィスは軸流式ターボでプロペラを駆動するターボプロップエンジンを次世代航空エンジンとして位置づけた。
それに対し1928年に少尉へ任官したホイットルは翌年、簡便な遠心式ターボによるジェットエンジン開発の方が有利であると考え「航空機設計の展望」とする論文を発表する。

まだ21歳で少尉になったばかりのホイットルは既に35歳で経験と実績が評価されていたグリフィスに比べ若輩であった。
だが、1930年に中尉、1934年には大尉に昇進して地歩を固めていく。
そして1936年、ホイットルはラグビー市でパワージェッツ社を創業した。
以降、ホイットルは独自の判断でエンジン開発を始め1937年4月には初の遠心式ジェットエンジンW.Uを完成させる。

ついで1940年12月、航空機に装備する実用エンジンW.1(推力386kg)の試作を完成させた。
W.1は英国初のジェット機グロスターE.28/39実験機に装備され翌年5月15日に初飛行した。
量産用としてはより大型のW2が開発され設計をパワージェッツ社、量産を自動車メーカーのローバー社が担当したが開発方針を巡って両社は対立してしまった。
そこへ2段式過給器で名高いスタンレー・ジョージ・フッカー(1907〜1984)が率いるロールスロイス社の技術陣も介入し事態は更に混乱した。

開発の遅延を憂慮した軍需省は頓挫した場合に備えフランク・ハルフォード(1894〜1955)の設計によるH.1(「イギリス軍用機の全貌」によれば推力675kg)の開発も開始させた。
ところが案に相違してH.1の方が開発が進み1942年4月13日には試運転が行われたのである。
かくして本来はW.2を装備する予定だった英軍初の実用双発ジェット戦闘機グロスター・ミーティアにH.1を装備しての初飛行が1943年3月5日に実施された。

ただし完成したとは言ってもH.1はまだ試作段階で量産体制へ移行するのは不可能だった。
よってW.2の完成が待たれたがローバー社は撤退を決定、施設と人員はロールスロイス社に移管された。
最終的にW.2は多数の試作を繰り返しW.2B23C(後にロールスロイス・ウィランドと改名)として完成、1943年6月12日にはミーティアに装備され初飛行に成功する。

ウィランド(推力765kg)は167基生産され装備機はミーティアF.1として量産された。
その拡大改良型はW.2B26として開発されたダーウェント(推力900kg)で装備するミーティアF.3は1944年9月11日に初飛行した。
加えて1944年10月27日、ロールスロイスの開発陣が独自のコンセプトで設計しホイットルのデザインを払拭したRB.41ニーンの試作を完成させた。
ただしRB.41ニーンは第二次世界大戦には間に合わなかった。
ちなみにこれらロールスロイス製ジェットエンジンの名称は河川名に由来している。
戦後、ニーンとダーウェントはソ連に輸出されクリモフによるジェットエンジン開発の基礎をなした。

その後、ホイットルは1944年に大佐へ昇進したものの、各方面と対立して孤立し開発陣から去った。
戦後の1948年、ホイットルは准将へ昇進したが1976年に米国へ移住し余生を過ごした。
晩年期、やはり米国へ移住していたドイツのオーハイン(元ハインケル社のジェットエンジン設計者で戦後の米国ジェットエンジン開発で多大な貢献をした)とホイットルは親交を結んでいる。

なお1943年11月13日にはF.2(推力830kg)装備のミーティアも初飛行に成功していた。
F.2は軸流式ターボジェットでターボプロップに行き詰まったグリフィスが開発したエンジンである。
一方、H.1は改良された後、ゴブリン(推力1225kg)と命名されデ・ハビラント社の単発ジェット戦闘機バンパイア(1943年9月20日初飛行)に装備された。
ついでこの頃、デ・ハビランド社はハルフォードの会社を買収してエンジン部門を設立している。

H.1に続いて開発された新設計のH.2はゴーストと命名され1945年9月に試作が完成した。
デ・ハビラント社のエンジン名は「おばけ」の名称に由来している様に見える。
だが4番目に設計されたのがジャイロン(紋章学の意)なので単に「頭文字がG」で命名されたらしい。

米国のジェットエンジン開発はティザード使節団の英米技術交流でW.1を入手した事により始まる。
早速、GE社がH.1のコピーを製作し1942年4月18日にT−Aの試作を完成させた。
そして米軍初のジェット機となるベルP−59双発戦闘機がT−Aを装備し10月1日に初飛行した。

その後、T−Aは改良され1943年4月に量産型となるJ31の試作が完成する。
ただしP−59の性能は速力665km/hと低かった。
当時、量産されていたレシプロ単発戦闘機のP−51(707km/h)やP−47C(697km/h)に比べても大きく劣っていたのである。
ベル社は汚名を挽回する為、より強力なエンジンを装備したXP−83双発戦闘機を次に開発した。

1945年2月25日にXP−83は初飛行した。
装備されたエンジンは英国から米国に送られたダーウェントをアリソン社でライセンス生産したJ33で速力は840km/hであった。
これは当時、最新鋭レシプロ戦闘機であったP−47N(1944年9月初飛行、740km/h)やP−51H(1945年2月初飛行、784km/h)より速かったが制式化には至らなかった。
その理由はP−80A単発戦闘機が米陸軍の次期主力戦闘機として量産化されたからである。

ゴブリンも1943年7月に米国に送られJ36としてライセンス生産される事になった。
J36の量産を請け負ったのはトラクターメーカーのアリス・シャルマース社である。
そしてロッキード社でもJ36装備のP−80単発戦闘機が開発され1944年1月8日に初飛行した。

だが試作機にゴブリンを装備しての飛行は成功したもののJ36の開発は遅々として進まなかった。
やむなくエンジンをJ33に変更したP−80Aが開発され1944年6月に初飛行した。
P−80Aは期待以上の高性能(897km/h)を発揮し1945年2月には量産が開始された。

高価で鈍重な双発戦闘機より安価で軽快な単発戦闘機の方が高性能ならどちらを選ぶか自明の理である。
かくしてP−80Aに軍配が上がりXP−83は制式化されなかった。
なおこれら以外にもウェスティングハウス社が米国初の軸流式ターボジェットのJ30を開発した。
J30の試作は1943年3月19日に完成、より小型のJ32と大型のJ34が続いた。
ただし米国の軸流式ターボジェットは全て第二次世界大戦に間に合わなかった。 

[4155] 航空機用火器(その18) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/20(Wed) 18:45
米国大口径機銃:

単発単座戦闘機の火器装備位置とエンジンには密接な関わりがある。
エンジンが牽引式なら装備位置は斜銃、胴体前部、主翼、同軸の4点に絞られる。
これら4カ所のどこにするかで利害得失があり制約を受ける。
まず斜銃だが特殊な機体にしか装備されていないので除外する。

次に胴体前部だが水冷V型の場合、空気抵抗が大きくなるので芳しくない。
更に胴体装備には精度の良い同調装置が不可欠であり火器の発射速度も高い必要がある。
主翼は1式戦など装備スペースの無い多桁構造の機体や木製主翼など脆弱な機体だと装備できない。
更に脚の折畳形式次第でも相当の制約を受ける。
翼内燃料タンクや各種ボンベ(特にドイツ)との共存からも制約が生ずる。
それに命中率は低く重心が中心から離れるので機動性が低下する欠点もある。

同軸は「同軸火器を装備する為に開発された水冷エンジン以外」は全て装備不可能だ。
だが同調装置が不用な上、発射速度が遅くても装備可能かつ命中率が高く重心が中心で機動性も高い。
ただし対応しているエンジンは仏のイスパノスイザとその発達型に当たるソ連のクリモフ系及び独のDB600系とユモ213系だけに過ぎなかった。
そこで米国のベル社は同軸に対応していないアリソンV−1710装備のP−39の設計に際し疑似同軸とも言うべき特殊な方式を導入した。

通常、同軸装備では前方からプロペラ、エンジン、火器、パイロットの順で配置される。
ところがP−39ではプロペラ、火器、パイロット、エンジンの順となっていた。
それではどの様にしてプロペラを回したかと言うとコックピットの下に延長軸を通しエンジンの動力を機体後部から前部のプロペラまで伝達したのである。
こうしてP−39は初の疑似同軸装備戦闘機となった。
そしてその為に開発されたのが37×145ミリ弾を使用するオールズモービル製T9機関砲である。

T9の初速は610m/s、発射速度は毎分140発であった。
P−39Dなどに装備されたT9機関砲の重量は96s、弾頭重量608gで破壊力が大きい。
だが特殊な無限リンクで給弾していたので装弾数は僅か15発に過ぎず実戦的ではなかった。
よって英国に供与されたP−39では37ミリ機関砲が20ミリ・イスパノMK1機関砲に換装された。
この20ミリ・イスパノMK1機関砲装備のP−39はP−400の名称で米軍にも配備されている。

米空軍が超大口径の37ミリを開発した理由は大型機に対処する為であった。
当時、米空軍は4発重爆のB−17を量産しており枢軸側も同様に4発重爆を開発すると考えていた。
B−17クラスであれば20ミリでも対処可能だがB−29クラスとなるとより大口径が必要となる。
後の日本本土空襲では37ミリホ203機関砲を装備した日本陸軍の2式複戦が大いに活躍している。

だが戦闘機相手の空戦だと37ミリ機関砲は発射速度が遅すぎて使い物にならない。
枢軸側がB−29クラスの4発重爆を量産していれば37ミリ機関砲も存在意義を見いだせたに違いない。
ところが枢軸側の重爆は双発と3発が大部分であり12.7ミリや20ミリでも充分に対処できた。
かくして米軍にとって37ミリ機関砲はもはや意味のないお荷物に過ぎなくなったのである。

P−39Qなどに装備する為、装弾数を30発に増大した37ミリM4機関砲も開発されたが装弾数が増えても発射速度は遅いままだったのでやはり空戦では役に立たなかった。
ただし空戦では威力を発揮出来なくとも対地攻撃では大いに活躍した。
約4700機のP−39を援助物資として受け取ったソ連空軍では37ミリ機関砲を高く評価している。
更に第二次世界大戦中のソロモン戦域では20ミリ・イスパノMK1機関砲に換装されて余剰品となっていた多数の37ミリ機関砲が魚雷艇の臨時装備として有効活用されケガの功名となった。

ついでP−39の後継機として開発されたP−63に装備する為、給弾をベルト式に改良し装弾数を58発に増加した37ミリM10機関砲が開発されたが重量が109sに増大してしまった。
M10は発射速度が毎分150発にしか向上しなかったのでやはり戦闘機には対処できなかった。
P−63は約3300機生産されたが2400機がソ連に送られている。
なおソ連軍では弾薬が充分に供給できず大戦末期にはやむなく20ミリB−20機関砲へ換装した。

米国製37ミリ機関砲の欠点は発射速度が遅い事だが多数の火器を装備すれば欠点を補える。
そこで米空軍はP−38の拡大型として37ミリ機関砲を4門装備した超大型戦闘機XP−58(全備重量17777s)を開発したが37ミリ機関砲その物が無用となった為、制式化には至らなかった。
疑似同軸形式には日本陸軍も大いに興味を示しP−39と同じ配置でやはり37ミリ機関砲装備のキ88の開発を進めたが1943年末に計画中止となっている。
米国と違い、日本軍では本土防空戦での活躍が期待できたので誠に残念である。 

[4154] ガ島補給戦21 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/20(Wed) 17:49
組織や団体である以上、統率者が必要であり統率者に欠員が生じれば後任人事が発令される。
まあ、当たり前の話だ。
確かに当たり前なのだが...
まれに「如何に何でもこんな時に?」と思わざるを得ない人事がある。
ガ島戦末期にそうした人事が発生した。

1943年1月21日、松田教寛大佐(陸士28期)は潜水艦輸送でガ島に着任した。
補職は歩兵第28連隊長(着任は1月22日)である。
何故、松田大佐はガ島へ派遣されたのであろうか?

歩兵第28連隊は一木支隊として最初にガ島へ派遣された陸軍部隊だ。
兵力は戦史叢書83巻と77巻では約2400名、14巻では約2000名、28巻では2108名としており独立速射砲第8中隊を含め2507名とする資料もある。
一木支隊は一木清直大佐と大隊長の蔵本信夫少佐が指揮する約900名の第1梯団と連隊本部付の水野鋭士少佐が指揮する残部で編成された第2梯団に別れて上陸し第1梯団は8月21日に壊滅した。

従来、歩兵第28連隊は指揮下に歩兵1個大隊しか保有しない縮小編制であった。
以降、第2梯団は熊大隊の名称で水野少佐の指揮により作戦に従事する。
だがその水野少佐も10月13日に戦死し後任として北尾淳二郎少佐(陸士45期)を迎える。
北尾少佐の補職は第28連隊長代理としている資料もあるが戦史叢書28巻などでは北尾大隊と記述している箇所もあるので大隊長なのかも知れない。
なにしろ戦史叢書28巻によると11月20日時の北尾大隊(つまり歩兵第28連隊であり一木支隊であり熊大隊の残余)は約400名(ただし戦闘に従事しうる者65名)に過ぎず兵力的には大隊にすら遠く及ばなかったのだから。
それなのに食糧不足であえぐ前線へ大佐の連隊長を新たに送るのは常軌を逸している。

さて、これまでガ島戦の経緯を連綿と記して来たが1942年の大晦日、御前会議が開催されガ島からの撤収が決まった。
遂に大本営は「ガ島を攻略するのは不可能に近い」と悟ったのである。
モーゼじゃないので歩いては撤収できない。
よって海軍に艦艇を出して貰う必要がある。
加えて疲弊した第17軍の兵力だけで撤収するのはほぼ不可能に近い。
そこで後退戦を担当する元気な部隊として750名の矢野大隊が編成され1月14日にガ島へ輸送された。

ただし...
矢野大隊は元気ではあったが幾つかの問題点を内包していた。
編成は歩兵3個中隊(各150名)と機関銃1個中隊(重機6門)、山砲1個中隊(野砲3門)で糧食の保有量は10日分であった。
問題となるのは人的構成で指揮官の矢野桂二少佐(陸士45期)はベテランであったが3個歩兵中隊の小隊長計9名全てが見習士官であり山砲中隊以外の兵は全員戦闘未経験の補充兵(下士官を除く)だったのである。
当然、階級は全て二等兵で年齢は30歳前後に達していた。
本来なら彼等は第38師団に所属する各部隊の欠員を補充する為、分散して配属されるはずであった。
だが戦局が逼迫し前線部隊へ配属ができないまま補充兵はラバウルに滞留した。
この兵力を集成し、やはり前線へ送れないまま残留していた山砲兵第38連隊第8中隊を編入し矢野大隊としたのである。
まさに急場しのぎの部隊で通常なら戦力発揮を期待できるレベルではなかった。

さて、矢野大隊が米軍を阻止し、その間隙を縫って第17軍が撤収するのだが残った矢野大隊はどうなるのであろうか?
どうも第17軍司令部は当初、矢野大隊を撤収させるつもりは無かったらしい。
戦史叢書28巻461頁によると矢野大隊の軍装検査に立ち会った井本参謀は「これを一人残らず殺すのだと思って見たときは感極まるの外はなかった」と回想している。
戦史叢書83巻に記載されている南東方面艦隊の予測だと投入する駆逐艦22隻の1/4が沈没、1/4が損傷、撤収兵力は5000名程度となっている。
絶望的な数字だ。
また戦史叢書28巻536頁だと第17軍司令部は「第1次の撤収は成功するかも知れないが第2次、3次の撤収作戦は相当に困難」としている。
だとすれば矢野大隊は帰還できない。

矢野大隊を見殺しにするのはかなり非道に見えよう。
だが日本軍としては当初から完全撤収など夢想だにしていなかった。
戦史叢書66巻28頁によると1943年1月4日にラバウルで開催された陸軍の会議(綾部部長列席)で在陣兵力2万で5〜6千が撤収可能と目算している。
更に41頁では1月18日に大本営6課長が行った現地視察報告で在陣兵力1万5千で5千を撤収と目算している。

つまり第1次は奇襲的要素があり成功の可能性があるが2次は米軍も迎撃体制を整えているので困難であり3次となればほぼ絶望と言う事なのだ。
そうした絶望的撤収作戦に虎の子の駆逐艦を出撃させるのは忍びない。
よって海軍は第3次撤収に関し駆逐艦を出し渋った。
やむなく第17軍は舟艇機動による第3次撤収を模索する。

かくして矢野大隊を主力として編成された後衛部隊が米軍を阻止している合間に第38師団を基幹とする第1次撤収が2月1日、第17軍司令部及び第2師団を基幹とする第2次撤収が2月4日に実施された。
後に残るのは約2000名の後衛部隊と歩行不能な為に残置された多数の傷病兵のみである。
そして後衛部隊の指揮官に任命されたのが松田大佐であった。
何故、松田大佐が任命されたのか?
他に大佐はいなかったのか?
そんな事はない。
失われた軍旗を捜索し1月26日に戦死した歩兵124連隊の岡明之助大佐を別にしても歩兵大佐は鈴木章夫歩兵第4連隊長、堺吉嗣歩兵第16連隊長、小原重孝歩兵第29連隊長、東海林俊成歩兵第230連隊長、陶村政一歩兵第228連隊長、田中良三郎歩兵第229連隊長などがいる。
第38師団の阿部芳光参謀、第2師団の玉置温和参謀、第17軍司令部の小沼治夫参謀も大佐だ。
他にも工兵連隊長や砲兵連隊長、輜重連隊長の大佐もごろごろいる。
それなのに一番最後にガ島へ着任し地形や状況を知悉していない松田大佐が後衛部隊の指揮官に任命されたのは不思議と言わざるを得ない。

その松田大佐に与えられた兵力は歩兵第28連隊、歩兵第124連隊、野戦重砲第4連隊第2中隊、野戦高射砲第45大隊、船舶工兵第3連隊などである。
名前だけみると大兵力に見える。
だが実態は合計約1300名程度に過ぎない。

興味深いのは重砲の96式15榴2門(資料によっては1門)と弾薬25発を保有している事だ。
戦史叢書28巻546頁には「1回の発射弾は約5発とし最後の5発は7日払暁」と射撃命令が記載されている。
また高射砲1門と弾薬39発、高射機関砲1門と弾薬3箱にも最後の射撃は7日未明または払暁と指示されている。
これらの砲撃は撤収の意図を米軍から秘匿するのが目的であった。         (続く) 

[4152] 米朝開戦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/19(Tue) 13:01
発言[4072]で元海将の伊藤氏(元呉総監で潜水艦乗り)と香田氏(元自衛艦隊司令官で水上艦艇乗り)がEMP爆弾について正反対の意見を開陳したと書いた。
そして今度は12月16日の読売新聞朝刊(東京)の15面で再び二人の元海将は反対の意見を述べた。
香田氏が「最も早いタイミングは12月から年明けの1月までの開戦」または「来年2月の平昌五輪までの米軍の奇襲攻撃もありうる」と述べたのに対し伊藤氏は「実際には米国の軍事行動はないだろう」と述べた。

はてさて、どうなるか。
「米国がどうしたいか?」も重要だが相手の出方次第で話は変わってくる。
変な髪型の肥満児が「次に何を何時、どこでするか?」は窺い知れない。

それにしても正反対の意見を持つ論客を二人抱えその意見を両方、掲載するとは...
読売新聞の度量の深さには敬服する。
「元海将の仰る事だ。間違いなかろう。」と鵜呑みにしちゃいかんと言う事を教えてくれるからね。
元海将の意見にも色々、あるのだ。 

[4151] 航空機用火器(その16) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/18(Mon) 18:42
マウザー系大口径機銃:

ドイツの水冷倒立V型エンジンは空気抵抗面積が少なく機首の火器と同軸火器を両方とも装備出来るので単発戦闘機用としては理想的なエンジンであった。
ただし「優れた同軸火器があれば」の話である。
Bf109は試作4号機に7.92ミリMG17機関銃を同軸で装備した。
だが同軸のMG17は放冷不足で正常に機能しなかった。
後にB1やC2にも同軸のMG17が装備されたが、やはり放冷不足で使用されないか、部隊で撤去されるなどの措置が取られている。

また試作4号機では実験的に20ミリ機関砲を同軸で装備したが放冷問題に加え震動問題が発生した。
20ミリ機関砲は当初、スイスのエリコン社製FFS(20ミリ×110ミリ弾使用)が予定されていた。
だが大きすぎてエンジンとサイズが合わずやむなく、より小型のFF(20ミリ×72弾使用)を基礎にイカリア社がライセンス化したMGFF(20ミリ×80弾使用)が開発された。
更にMGFF(重量28s、初速600m/s)には放冷問題、震動問題以外にも「60発弾倉なので装弾数が少ない」と言うエリコン系特有の欠点(初期のイスパノスイザ系も含む)もあった。
そして、この欠点を解消する為、ベルト給弾のMG151/15がモーゼル社で開発される事になった。

1867年創業のモーゼル社(別名マウザー)はドイツが誇る伝統的小火器メーカーである。
同社で開発されたGew98小銃は第一次世界大戦で帝政ドイツの主力小銃となった。
後継として生産されたKar98k小銃も第二次世界大戦での主力小銃となっている。
ただし機関砲の開発に関してモーゼル社はラインメタル社の後塵を拝する状況にあった。

さて、MGFFはBf109のC3やC4、D1などに装備されたがウィキペディア、世界の傑作機、サンケイ第二次世界大戦ブックス、航空ファン、河出書房の世界の偉大な戦闘機、航空ジャーナル、丸、ドイツ航空機の全貌などの各書籍で「装備されたが撤去されたケース」、「実験機のみに装備されたケース」、「計画だけで生産されなかったケース」、「一部のみ装備したケース」などが混在し記述が一貫していない。
なお、これらのBf109が装備していたエンジンは水冷倒立V型のユモ210であった。
次に量産されたのがDB601装備のEシリーズでE3に同軸と主翼の双方でMGFFが装備された。
だが、こうして紆余曲折の変遷を遂げ同軸火器の実用化が図られたがいずれにせよ実用的ではなかった。
すなわち実戦で使用された初期のBf109に装備された同軸火器は全て使い物にならなかったのである。

放冷問題と震動問題を解決した実用的同軸火器を初めて装備したのはF1であった。
ただしMG151/15の開発が間に合わなかったのでF1にはMGFFが装備された。
15ミリ×96弾を使用するMG151/15(重量42.7s)を初めて装備したのは1941年2月に生産を開始したF2からである。

MG151/15ではベルト給弾が採用された為、装弾数が200発に増えた。
初速が960m/sと速く貫徹力が射距離300mで18ミリと高かったが弾頭重量はMGFFの92gに比べ57gと軽く破壊力が小さかった。
すなわち機体構造の破壊を目的とする対爆撃機戦には向いていない。

よって新たに弾頭重量92gの20ミリ×82弾を使用するMG151/20が開発された。
MG151/20(発射速度毎分800発、同調時720発)の重量は42.5sでMG151/15と殆ど変わらなかった
しかし初速が800m/sに低下したので貫徹力は射距離300mで12ミリへ低下した。

最初に装備したのは1941年10月から生産されたFw190A2(同調式の主翼装備)で同軸に装備したのは1942年初頭に生産を開始したBf109F4からであった。
MG151/20で同調式が可能だったのは発射速度が速かったからである。
これはライバルであったエリコン系やイスパノ系の20ミリ機関砲に比べ大きな利点(ソ連のShVAKは同調可能)となった。

以降、MG151/20はドイツ空軍機の主力火器として広範囲に装備された。
ドイツ以外でもMC205をはじめとするイタリア空軍5シリーズや日本陸軍の3式戦闘機飛燕、ルーマニアのIAR81Cなどにも装備されている。
なお、大戦末期に生産されたBf109Kシリーズでは同軸火器が30ミリのMK103もしくはMK108に変更された為、MG151/20は主役の座を降りたが一部の機体では従来、機首に装備されていた2門の13ミリMG131が撤去され代わりに同調式のMG151/15が2門装備されている。
またMG151/15及びMG151/20は航空機用火器のみならず3連装銃架に搭載されSdKfz251/21対空自走砲などにも装備され対空火器としても活躍した。 

[4150] 急告 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/18(Mon) 08:40
経営不振なのでGSは早晩、無くなるかも知れない。
よって弊社の製品がお入り用の方は早くに購入される事をお勧めする。
もう店頭在庫もあまり無いので。
価格comによるとヨドバシの場合、本日の時点で全国で太平洋戦記3は7本らしい。 

[4149] 航空機用火器(その15) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/17(Sun) 19:32
ブローニング系中口径機銃:

1918年3月、ドイツ軍の新型機が西部戦線の連合軍を襲った。
史上初の装甲軍用機として名高いユンカースJ・Iの実戦投入である。
当時、前線に配備されていた7〜8ミリクラスの対空機銃では5ミリの装甲(全装甲重量470s)で覆われていたユンカースJ・Iのコックピットを貫通できず跳梁するにまかせる他なかった。

事態を憂えた欧州派遣米軍総司令官パーシング大将は充分な貫徹力を持つ重機関銃の開発を要請した。
かくしてジョン・ブローニングによって反動利用式のM1921型12.7ミリ水冷重機関銃(重量72kg)とM1921型12.7ミリ航空機関銃が開発された。
ちなみに後者は空冷式だったので重量が大幅に軽減されていた。
航空機用であれば常に風を受けるので特に冷却機構を考慮する必要が無かったからである。
なおM1921型は第1次世界大戦に間に合わなかったとする資料が多いがPANZER誌323号ではM1921を第1次世界大戦で戦地に送ったと記述しており名称もM1としている。

ウィキ(英)によると1926年にブローニングが死去してから以降、S・H・グリーンが1932年まで改良を続けたとしているが資料によって完成日時、制式化日時等で若干の相違が見られる。
1920年に制式化されたとする資料や1928年をもって完成したとする資料もある。
1933年にM2重機関銃として採用され航空機用が以降、AN/M2(重量29kg)と呼称されたのは確からしいが海軍で使用された水冷式がこれに含まれるのかは不明である。
改良の主眼点は給弾機構でこれまでは左側給弾だけだったが左右とも給弾可能となった。
かくして従来は片側しか装備出来なかった航空機の機首に両方可能となり実用性が大幅に向上した。
また、これまで水冷だった地上用を空冷化したのがM2HB型(HBは重銃身の意)で1938年に採用された。
M2HB型の重量は本体38kg、三脚20kgの合計58kgで水冷式よりは大幅に軽量であった。
初速は887m/s、発射速度は毎分450〜550発である。
M2及びM2HB型は大戦中に生産された米軍の装甲戦闘車両や輸送車両に対空兵器として多数装備された他、魚雷艇などの海軍艦艇にも幅広く装備された。

AN/M2は重量29kg、発射速度は毎分750発で以降、大部分の米軍機に装備された。
装弾数はP40E(6門装備)が各281発、P51B(4門装備)は内側銃350発、外側銃280発である。
P51D(6門装備)は内側銃400発、中と外側銃が270発、P47D(8門装備)は425発であった。
英国のスピットファイア(E翼)にもAN/M2が装備(装弾数250発)されたが数は少なかった。

AN/M2に続き発射速度を毎分1200発に向上させたAN/M3が開発された。
ただし実用化は戦後になりF86などのジェット戦闘機に装備され朝鮮戦争で活躍した。
米空軍が戦後になっても中口径の12.7ミリに固執し発射速度の向上やレーダー装備の照準装置による命中率向上で補えると考えていた事は世界各国の戦闘機開発と照らし合わせて稀有な例と言えよう。

日本陸軍もAN/M2をコピーし一式12.7ミリ機関砲(ホ103)として量産した。
ただし弾薬を変更し薬莢長が99ミリから81ミリに小型化したので性能が低下してしまった。
弾頭重量は46gから36.5gになり初速も780m/sに落ちている。

更に日本陸軍では拡大型として2式20ミリ機関砲(ホ5)も開発し多くの戦闘機に装備した。
ホ5の初速は735m/s、発射速度は毎分750発、弾頭重量は84.5gで3式戦丁型(装弾数120発)、4式戦(150発)、5式戦(200発)などに装備された。
日本海軍もAN/M2をコピーし三式13ミリ機銃として量産した。
三式13ミリ機銃では口径も13.2ミリに変更したので弾頭重量は52gと若干増えている。
初速は780m/s、発射速度は毎分800発(同調式の機首銃は700発)で装弾数は零戦52型丙の場合、機首銃230発、翼内銃240発であった。
この機首銃は機関部がコックピットに突き出していたので操縦性が非常に悪かった。 

[4148] 航空機用火器(その14) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/16(Sat) 18:36
日本空対空ロケット弾:

日本でも戦略爆撃機を攻撃する為に空対空ロケット弾を開発したがその経緯はドイツと大きく異なった。
1943年12月7日、ラバウルの日本海軍航空隊基地に新型兵器の3番3号爆弾が到着した。
3番3号爆弾は投弾後、600m落下して炸裂し144発の子爆弾を放出する親子爆弾である。
ただし、この兵器は当初から対空兵器として開発された訳ではなく元来は対地攻撃用であった。
開戦後、B17などの大型機迎撃に苦慮した日本海軍は急遽、3番3号爆弾(重量33.7kg)の空戦使用を決定し1942年2月24日から改修が重ねられた。

なお、他の3号爆弾として、より大型の6番3号爆弾(56.6kg、1944年10月部隊配備開始)や対地攻撃専用の25番3号爆弾(246kg、1943年4月部隊配備開始)も開発されていた。
3号爆弾の使用は非常に難しく技量の優れた熟練者が幸運に恵まれなければ戦果を挙げられなかった。
その理由のひとつは3号爆弾が推力を持たない自由落下式の兵器だった事、もうひとつは単座戦闘機だと爆撃時に目標を確認する下方視界が皆無だった事による。

迎撃機はまず目標の1000m上空に占位し横転して背面飛行で目標を確認せねばならない。
下方視界が無いので背面飛行しなければ目標が見えないからである。
確認後、背面飛行のままでは爆弾が投下できないので再び横転し目標に対して降下する。

400m降下した時点で投弾し退避行動を取るのだが「目標が直進し続けている事」と「目標の推定位置と爆弾の弾道が交差している事」が成立しなければ効果は期待できない。
3号爆弾はこの様に厄介極まる兵器であったが1943年12月9日に201空のトップエース岩本徹三飛曹長が2発装備の零戦で実施した初陣を皮切りに次々と実戦で使用された。
岩本は初陣で3号爆弾による撃墜を確認しておらず自著で失敗と評価しているが上層部は地上からの楽観的な目撃報告を鵜呑みにして3番3号爆弾を75000発も量産させてしまった。

3号爆弾の戦果を喧伝する資料が散見されるが本当に大戦果が挙げられたのなら戦争に負けてはいない。
後に3号爆弾の使用機は単座戦闘機から彗星や銀河など下方視界のある複座機に変更されている。
下方視界があれば幾分、攻撃の難易度が低くなるが目標が高高度性能に優れたB29の場合、上昇力の劣る日本軍機が自由落下式の3号爆弾で戦果を挙げるのは至難であった。

この3番3号爆弾を少しでも使い易くする為に開発されたのが27号爆弾(実質はロケット弾)である。
改良点は推進装置を付加してロケット弾とした事だが重量が大きくなり60kgとなってしまった。
制式化は1945年2月、炸薬は2.5kg、子爆弾の数は135発、速度は972m/sであった。
27号爆弾は大戦末期に少数が実戦投入されたが戦果は不明である。
重爆編隊に発射し直接の命中ではなく破片や子爆弾で破壊する27号爆弾はW.Gr21に近い兵器だったが重量が約半分である為、破壊力に劣り、速力も低いのであまり戦果は期待できなかった。

日本海軍が開発したもうひとつの空対空ロケット弾として1944年末に制式化された28号爆弾がある。
これはR4Mの様に直接命中を期待する小型の兵器で全長720ミリ、重量7.65kg(9kg前後とする資料あり)、炸薬0.58kg、速度1440km/hの有翼式で射程は約1500mであった。
実戦投入の記録としては1945年4月6日に芙蓉部隊の彗星(4発装備)が沖縄戦の対艦攻撃で使用した他、4月7日のB29迎撃戦では302空の彗星が28号爆弾装備で出撃したとされている。
装備数は単発戦闘機に6発とする資料もあるが零戦に10発装備した写真が残されており判然としない。

28号爆弾はR4Mに比べ炸薬量は同等ながら速度が400km/hも劣る。
加えて仮に10発装備であったとしてもR4Mの24発に比べ密度は半分以下に過ぎない。
よって命中は期待できず戦果は挙げられなかったと思われる。
何より「使い方の難しいロケット弾」は速度的優位の下に好適なポジションで発射する必要がある。
R4Mはジェット機のMe262だからこそ大戦果を挙げられたのだ。
ところが「日本軍機は米軍機に比べ絶対的に速度的劣位」であり有効に使用するのは無理であった。

なお日本陸軍も27号爆弾や28号爆弾と別にロ3弾、ロ5弾と言う空対空ロケット弾を開発した。
陸軍と海軍が似た兵器を別々に開発していた事は日本の国策上、大きな不幸であったと言えよう。
ロ3弾は重量5kg(8kgとする資料あり)、速度720km/hで1944年4月に審査終了した。
加えて1944年3月までに1式戦40機がロ3弾装備に改修されたが実戦投入の記録はない。
常識的に考えてこれ程、速度が遅くては空対空兵器として役に立たないからであろう。

ロ5弾については試作完成が1944年6月、審査終了が同年10月とあるが詳細は未判明である。
また3号爆弾類似の兵器として陸軍が開発したタ弾があり若干が実戦で使用された。
小爆弾の炸薬が成型炸薬で装甲貫徹力が高いのが3号爆弾との大きな差であった。
だが、幾ら貫徹力に優れていても自由落下式なので空戦ではやはり戦果を挙げられなかった。 

[4147] Re:[4146] 米国の責任 投稿者:ケンツ軍曹 投稿日:2017/12/16(Sat) 16:40
> 個人的責任に過ぎないけどさ。

すんません!
先週、パチンコで負けちゃいました。
なんかあったら自分の責任です...

[4146] 米国の責任 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/16(Sat) 09:16
現在の極東情勢紛糾は北鮮の核兵器保有及び近隣諸国への恫喝に起因する。
では「なぜ、この様な事態を招いたのか?」と言う点で責任を追及してみよう。
まず最初にロシアが核兵器の技術提供をした部分は大きな責任がある。
次に経済基盤であるエネルギーの提供を継続した部分で中国も同じだ。

だが、この両国は元来、資本主義陣営と対立する社会主義陣営であり「わかっていてやったんだ。責任追及とか言われる筋合いじゃない。」と言うだろう。
親分が子分に「おこずかい」をやったり「おもちゃ」を与えたりしただけの事なのだ。

韓国の責任も大きい。
ケソン工業団地なぞ作って経済支援した事で「自分で自分の首を絞めた」のである。

だが米国の責任はもっと大きいだろう。
なぜ、ブッシュ政権は2008年の時点でテロ支援国指定を解除したのだ?
2006年に北鮮が核実験してるというのに。
「ジャンパーのパーマ親父は良い人だから心配ないよ」とでも思ったのか?
まあ、彼が急死してすぐ「変な髪型の肥満児」に世代交代するとは誰も考えないからね。
それとも「あっちが核武装しなけりゃこっちが全面核攻撃をした時の大義名分が立たなくなる」と考えたのか?
だとしたらかなり怖い。
でもまあ、この時点で「北鮮に核を持たせない様にしよう」って方針は覆ってしまい今日に至った。
よって米国は「いかなる手段を取ってでも極東情勢の紛糾を解決せねばならない責任」がある。

えっ、日本の責任?
北鮮に経済的利益を与える経済的行動をした部分については少しくらいあるかも知れないね。
個人的責任に過ぎないけどさ。 

[4145] 航空機用火器(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/15(Fri) 19:15
ドイツ空対空ロケット弾:

ソ連製ロケット弾は空戦で戦果を挙げられずに戦場から消え去った。
これは戦闘機同士の空戦で使用されたからである。
だがドイツ軍は戦略爆撃機の密集編隊に対しロケット弾を有効に活用した。

面白いのはソ連では航空機用に開発されたロケット弾が陸戦用へ転用されたのに対しドイツ軍では1943年から実戦投入された陸戦用ロケット弾のネーベルベルファー42型を航空機用に転用した事である。
ネーベルベルファーは無翼の旋転安定式で直径150、210、280、300、320ミリの4種(迫撃砲タイプを除く)があった。
これらのうち航空機用のW.Gr21に転用されたのは210ミリのタイプである。

戦略爆撃機の編隊に発射されたW.Gr21は発射後、500〜1000mを飛行し時限信管で炸裂した。
W.Gr21(全長1250ミリ、速度1116km/h、通称ドデル)は重量112.5kg、炸薬は10.2kgである。
つまりRS−82の28倍、RS−132の11倍も炸薬量があり30m以内の敵機を撃破できた。
よってソ連製ロケット弾の様に命中させる必要は無く敵編隊中で炸裂させれば甚大な戦果を挙げられた。
だが敵編隊の手前で炸裂したり通過して炸裂した場合は戦果が挙げられず「バクチ的兵器」であった。

実戦で初使用されたのは1943年8月17日のシュバインフルト防空戦である。
シュバインフルトはマイン河沿いに位置するババリアの小都市で人口は僅か4万に過ぎない。
だがボールベアリング工場が林立しており戦略上、極めて重要なポジションを占めていた。
この空襲で米軍は230機の重爆を出撃させ36機が失われた。
W.Gr21は第11戦闘航空団のBf109がオランダ上空で発射し戦果を挙げたと記録されている。
熾烈な空襲の結果、ドイツのシュペーア軍需相は生産力の38%を喪失したと判断したが復旧はかなり早かった。

以降、W.Gr21は多くの防空作戦で使用されたが撃墜例はあまり多くない。
その理由はそもそも撃墜を目的とした兵器ではなく防御火力の大きい緊密な爆撃機編隊を分散させるのが目的だったからである。
よって全迎撃機がW.Gr21を装備する必要はなく最初に接敵する数機が一撃を加えれば充分だった。
Bf109やFw190などの単発戦闘機はW.Gr21を2発装備できたが運動性が大幅に低下した。
Bf110でも2発が標準であったがG2/R3では4発装備され特殊なケースでは8発も装備された。

次にドイツ軍が開発した空対空ロケット弾のR4MはW.Gr21に比べ遥かに堅実な兵器であった。
R4Mは直径55ミリ、全長812ミリ、重量3.85kgで非常に小さい。
炸薬は0.52kgで「多数を同時に撃墜する事は出来ないが1機を落とすには充分」であり速度は1890km/h、射程は1500mであった。
つまりドイツは「いつ炸裂するか判らない時限信管のバクチ」を止め、小型ロケット弾を同時に多数発射して濃密な弾幕を張る戦術に方針変更したのである。

R4Mでは速度が1.7倍に速くなったので命中精度が比較にならない程、高くなった。
W.Gr21が言わば手榴弾を投擲する様な物だったのに対し小型弾R4Mは散弾銃に近かった。
空中を飛翔する目標を撃破するのに手榴弾より散弾銃の方が有効なのは語る迄もない。
R4MはMe262戦闘機に24発装備され大戦末期の独本土防空戦で絶大な威力を発揮した。

戦後、米国ではR4M類似の空対空ロケット弾としてMk4FFARマイティマウスが開発された。
Mk4FFARは直径70ミリ、全長1200ミリ、重量8.4kgで射程は3400mだった。
装備した機体にはF−86D(24発)、F−89D(104発)、CF−100Mk5(58発)などがあり対戦略爆撃機用として防空部隊などに配備された。
これらの戦闘機の武装はMk4FFARのみであり一撃離脱戦法に特化している。

W.Gr21の系列に属する空対空大型ロケット弾としては戦後に米国でAIR2ジニーが開発された。
AIR2には核弾頭(1.5Kt)が装備されたので編隊の分散どころか命中の有無に関わらず編隊を丸ごと撃滅できた。
だが誘導機能を備えた空対空ミサイルが実用化されるに従い空対空ロケットはその存在意義を失っていったのである。 

[4144] 航空機用火器(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/14(Thu) 17:56
ソ連空対空ロケット弾:

空対空ロケット弾の歴史は意外に古く1916年に開発されたル・プリエール・ロケット弾に始まる。
フランス空軍によって開発されたル・プリエール・ロケット弾は第一次世界大戦時の連合軍主力戦闘機であったスパッドに6発、ソッピース・キャメルやバップ、ニューポールなどには8発、B・E・2やファルマンf40などには10発装備され気球攻撃や飛行船攻撃などで使用された。
この兵器が活躍できたのは目標が静止している気球だったからで戦闘機相手の空戦では役に立たなかった。
ル・プリエール・ロケット弾は炸薬量0.2kgで破壊力は大きかったが射程は115mと短く弾道が不安定で命中精度が極端に悪かったからである。

そして大戦後、気球や飛行船が次第に姿を消すと空対空ロケット弾も存在意義を失うかに見えた。
だがロケット工学の理論指導者であるK.チィオルコフスキーを擁するソ連ではロケット技術の軍事利用化が熱心に進められ1929年11月にはRS−82ロケット弾の試作発射が実施された。
ただし安定した弾道を維持するのが困難で長きに渡って試行錯誤が繰り返され1937年に入ってからようやく有翼のRS−82の実用化を果たした。

RS−82は直径82ミリ、全長600ミリ、重量6.8kg、炸薬0.36kg、射程6.2kmで速度は1224km/hであった。
そして翌年には大型のRS−132を完成させた。
RS−132は直径132ミリ、全長845ミリ、重量23kg、炸薬0.9kg、射程7.1kmで速度は1260km/hであった。
RS−82とRS−132は航空機発射用ロケット弾であるが直径の割に全長が短いのが特徴であった。

後に米軍が開発したHVAR5インチロケット弾は直径128ミリだが全長は1820ミリと長い。
よって重量が61s(炸薬3.4kg)もあり炸薬量はRS−132の3.7倍以上も大きかった。
これは取りも直さずRS−132に対してHVARの破壊力が格段に大きい事を意味する。

逆に考えると軽量なら航空機の機動性を損なわず搭載数を増やせる利点もある。
RS−82は米軍のFFAR3.5インチロケット弾(直径88ミリ、全長1400ミリ、重量24kg、速度1682km/h)に比べ重量は僅か28%に過ぎなかった。
I−15bisやI−16、LaGG−3、La−5、YaK−1、YaK−7、MiG−3など大部分のソ連軍戦闘機ではRS−82を6発装備できた。
軽爆撃機のSu−2はRS−82もしくはRS−132を10発、襲撃機のIL−2初期型はRS−82もしくはRS−132を8発、後期型はRS−82もしくはRS−132を4発、IL−10はRS−82もしくはRS−132を8発装備できた。

なにゆえソ連の航空機ロケット弾は破壊力の増大を求めず軽量化の利点を選んだのであろうか?
それはソ連軍の航空機用ロケット弾が空戦での使用を考慮して開発されたからである。
歩兵部隊や陣地が目標だと大破壊力が必要となるが航空機が目標の場合、破壊力は小さくても構わない。

かくして1939年のノモンハン事件ではI−16にRS−82が装備され空戦で使用された。
だが着発式信管なので命中しなければ何の効果も無く機動力の高い戦闘機同士の空戦で命中させるのは困難であった。
よって空戦でのロケット弾使用は早々に中止された。
ソ連側はノモンハンに於ける空戦で戦果を挙げたと主張しているが以降、空戦で使用された例が極端に少ない事から大変怪しいと言えよう。

ただしソ連製ロケット弾は命中精度が低いものの貫徹力(RS−82は50ミリ、RS−132は70ミリ)は高かった。
よって対戦車攻撃で使用される事になりドイツ軍装甲部隊を相手に絶大な威力を示した。
更に陸戦用ロケット弾としてRS82からM8、RS132からはM13が開発された。
これらの多連装発射機(BM8及びBM13)を各種トラックに搭載したカチューシャと呼ばれる車両が量産され陸戦で大きな戦果を挙げている。 

[4143] 航空機用火器(その11) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/13(Wed) 17:50
フランス小口径機銃:

第一次世界大戦中、フランスが歩兵用軽機関銃として配備していたのはmle1915型機関銃であった。
だがショーシャ大佐の設計によるこの機関銃は性能が低く早期の更新が望まれていた。
8ミリ×50R弾を使用するこの機関銃の重量は9kgと軽かったが発射速度は240発/分と遅く銃身の冷却に長時間を要した。
装弾数は僅か20発に過ぎず初速も700m/sと遅かった。
かくして新たに1921年からリーベル中佐の設計による新型軽機関銃の開発が進められた。
これがmle24軽機関銃(後にFM24/29と改称)で1924年に制式化された。

この軽機関銃は米国のBAR軽機関銃をモデルとしており作動方式はガス利用式である。
BARと同じく銃身放冷機構が欠如したままだったがストックと一体式だったグリップは独立式となった。
加えてBARでは20発だった箱型弾倉が25発に増えるなど若干の改善も見られた。
重量9.75kg、発射速度は450発/分で初速は830m/sだった。

使用する弾薬は当初(FM24)は7.5ミリ×58弾だったが後に改良(FM29)され7.5ミリ54弾となった。
FM24/29は欠陥品の多い仏軍小火器としては比較的、好評で1950年代中盤まで使用され続けた。
1931年にはmle24軽機関銃を母体としてMAC1931型車載機関銃が制式化されている。

MAC1931型では長時間射撃での耐久性を向上させる為に銃身が太くなりストックは除去された。
弾倉も100〜150発円盤弾倉に変更され長時間射撃が可能となった。
次にそれまで航空機関銃の主力であったダルヌ機関銃を更新すべくMAC1934型が開発された。
口径は7.5ミリ、発射速度は毎分1200〜1450発、初速は830m/sである。

フランスは第一次世界大戦に際しニューポール17やスパッド7など幾多の名機やギヌメール、フォンクなどのエースを輩出する航空先進国であった。
しかし航空機用火器の分野に関してはビッカース機関銃を制式化した英国や、それライセンス化したMG08(別名シュパンダウ機関銃)をいち早く量産したドイツの後塵を拝していた。
よって前述の仏製戦闘機にはビッカース機関銃やルイス機関銃が装備された。

かくして散弾銃メーカーとして名高いダルヌ社は1915年からルイス軽機関銃をライセンス生産した。
その後、自社による機関銃開発に着手し戦間期は航空機用機関銃を生産したが評価は高くなかった。
それにも関わらずダルヌ機関銃が採用されたのはベルト給弾だったからである。

1932年6月、ドボアチン社はD−50シリーズの第一陣としてD−500の試作機を初飛行させた。
ついで1934年11月には量産初号機が離陸し金属製低翼単葉戦闘機の先駆者として世界を席巻する。
装備火器は機首に7.7ミリビッカース機関銃2門(もしくはダルヌ機関銃2門)及び翼内に7.5ミリダルヌ機関銃2門の4門装備であった。
イスパノスイザ製水冷12気筒V型エンジン12X(排気量27000cc)装備のD−500は101機、生産されている。
続いて翌年からは機首の機関銃を撤去し同軸に20ミリHS7機関砲を装備したD−501が157機生産された。

同軸機関砲の採用によってドボアチン社は世界初の大口径火器装備単座戦闘機を実現した。
更にエンジンを水冷12気筒V型エンジン12Y(排気量36000cc)に強化し同軸火器を20ミリHS9機関砲に換装したD−510が120機生産され日本陸海軍にも1機ずつ輸出された。
主翼のダルヌ機関銃はMAC1934型機関銃に換装されたが300発のドラム弾倉だったので装弾数が少なく実用性にも問題を抱えていた。

D−50シリーズに続き1938年から密閉式風防で引込脚のMS−406の量産が始まりと300発ドラム弾倉のMAC1934型は同機の主翼にも2門装備された。
これに加え空冷14気筒のノームローヌエンジン(排気量38670cc)を装備するMB150やMB151の主翼にも2門装備された。
ついで1938年12月にはMB152が初飛行したが同機のドラム弾倉は500発に増加していた。

最終的にD−520戦闘機ではベルト給弾に改良されて装弾数が675発に増え翼内の機関銃装備数も倍の4門に増えている。
ただしD−520はフランス降伏までに437機しか生産されていない。
なお、MAC1934型の口径を11ミリに拡大した改良型が開発されたが、これもまたフランス降伏により完成には至らなかった。 

[4142] 航空機用火器(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/12(Tue) 19:26
日本大口径機銃:

日本陸軍は開戦当初、中口径である12.7ミリのホ103を戦闘機の主兵器としていた。
その後、米重爆の重防御に対抗する為、ドイツからモーゼル製(マウザー)MG151/20ミリ砲を輸入し急場を凌いだ。
ついでホ103の拡大型として20ミリのホ5を開発し国産化に移行する。

だが大戦末期、米国が新型重爆B29を実戦投入するともはや20ミリクラスでは対処できなくなった。
かくして21ミリ以上の超大口径火器を開発せねばならなくなっていったのである。
日本陸軍戦闘機の超大口径火器は初速が極端に遅い40ミリロケット砲や実用性皆無の75ミリ高射砲を除外すれば30ミリクラスと37ミリクラス、57ミリクラスの3段階に区分できる。
これら3段階のうち最初に実用化されたのは37ミリクラスのホ203だった。

第一次世界大戦直後の1922年、日本陸軍は敵塹壕の中枢をなすトーチカの銃眼や機関銃座を狙撃する小口径歩兵砲(トレンチガン)として11年式平射歩兵砲(37ミリ28口径)を制式化した。
これを発達させたのがホ203(実包重量838g)で2式複戦に装備され対B29戦で活躍をした。
資料により重量が60、80、90s、装弾数が16、25発、初速が410、570m/s、発射速度が毎分100、120、140発と諸説あるが日本で量産化され実績を挙げた唯一の航空機用超大口径火器であるのは間違いない。
ホ203は旧式火砲の流用ながらそれなりに優秀であった。

そしてホ203を基礎に拡大したのが57ミリのホ401である。
この火器の性能も重量150、160s、初速495、565m/s、発射速度毎分30、50、80発など諸説あってハッキリしない。
装弾数は16発、弾頭重量は1550g、実包重量は2100gらしい。
ホ401は戦車を目標とする対地攻撃火器でキ102乙襲撃機に装備された。
よってホ401は量産されたものの空戦でほとんど実績を挙げていない。

4式戦丙等の装備用に開発された30ミリのホ155も実戦投入が遅れやはり実績を挙げられなかった。
ホ155は20ミリのホ5の拡大型で元をただせば12.7ミリブローニングのコピーのホ103となる。
ホ155の実包重量は520g、発射速度は毎分600発、重量は50sで超大口径としては極端に軽い。
ただしカタログデータとしては最高傑作だったが果たして大口径化が難しいとされたショートリコイルで30ミリの実用化が達成できたか疑問とせざるを得ない。

更にこのホ155を37ミリに拡大したのがホ204で実包重量985g(弾頭475g)、重量は130、180s説、初速は600、710m/s説、発射速度は毎分200、400発説と諸説ある。
装備されたのは100司偵の改造戦闘機(斜銃)やキ102甲、キ108など2式複戦の後継と言える機体で装弾数はキ102甲やキ108が35発だったらしい。
キ93襲撃機に装備された57ミリのホ402は対地用で実包重量3250g(弾頭重量2700g)、初速750m/s、装弾数20発、発射速度毎分80発、重量500sに及ぶ。

日本海軍が開発した超大口径は2式30ミリ(弾倉式42発)と5式30ミリ(ベルト式)で2式がごく少数の雷電や零戦、彩雲夜戦型に装備されたに過ぎず5式は戦力化されなかった。
ただし5式は全く量産されなかった訳ではなく未完成の天雷や烈風改、震電、閃電、電光などに装備する為、2000門以上も生産され工場に保管されたまま終戦を迎えた。
ちなみに5式30ミリの重量は70s、発射速度は毎分350発(450発説、500発説、530発説など諸説あり)で実包重量は660gだった。 

[4141] 航空機用火器(その9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/11(Mon) 19:24
エリコン系20ミリ機銃:

1906年創業のエリコン社はスイスの精密工業機器メーカーである。
同社は20ミリ機関砲メーカーとして名高い。
だがその基本設計は第一次世界大戦時にドイツで539門生産されたベッカー20ミリ機関砲であった。
20×70弾を使用するベッカー機関砲はS・ベッカーによって1913年に設計された。
用途は航空機用で初速490m/s、発射速度は毎分300発、機構はAPIブローバック方式であった。

エリコン社はベッカー砲を基礎として3種類の火器を開発し1935年から生産を開始している。
もっとも小型なのはFF機関砲で使用弾は20×72ミリ弾であった。
発射速度は毎分520発、初速は600m/s、本体重量は24sである。
次に大きいFFL機関砲は20×101ミリ弾を使用していた。
発射速度は毎分500発、初速は750m/sで重量は30sだった。
最も大きいFFS機関砲は20×110ミリ弾を使用している。
発射速度は毎分470発、初速は830m/sで重量39sであった。
弾頭重量は全て128g、弾倉は全て60発ドラム弾倉である。

これらのうちFFSはフランスのH.S社で改良が加えられ後にHS404機関砲として量産化された。
FFは日本海軍で99式20ミリ1号銃2型としてライセンス化され零戦21型に装備されている。
ドイツでもFFをMGFF機関砲としてライセンス化したが弾薬は20×80ミリ弾に変更された。
MGFF機関砲(別名イカリア機関砲)はBf109E型やFw190A型に装備されている。

さて、エリコン系機関砲の欠点はAPIブローバックの為、発射速度が遅い事と装弾数が少ない事である。
この為、日本海軍では100発ドラム弾倉装備の1号銃3型を開発し零戦32型などに装備した。
だがドラム弾倉は100発が限界であった。

日本海軍としても大きな弾倉よりベルト式の方が良いと考えており当然、ベルト式も開発していた。
だが焦眉の急には間に合わず暫定措置として前述の100発入大型弾倉が開発されたのだ。
弾倉式とベルト式の差を比較してみよう。
弾薬1発の実包重量は192gなので60発だと11.5sになる。
100発だと19.2sになるが弾倉の重量が60発弾倉で8s、100発弾倉は17.8sもあった。

これに比べベルト式は弾薬重量+リンク重量でリンクは100発につき約1sに過ぎなかった。
つまり弾倉式とベルト式の差は100発の場合16.8s、2門装備だと33.6sにもなる。
更にベルト式は重量的に有利なだけでなくスペースさえあれば装弾数を幾らでも増加できた。
飛行時のGにも強い。
かくして田中悦太郎技術大尉の苦労により日本海軍はベルト給弾の1号銃4型を完成させ零戦52型(1門につき125発)や雷電21型(1門につき190発)に装備した。

加えて日本海軍はFFLのライセンス化にも着手し100発弾倉の2号銃3型やベルト給弾の2号銃4型を完成させた。
2号銃3型は紫電、2号銃4型は紫電改(1門につき200〜250発)に装備されている。
なおこれらのエリコン系20ミリ機関砲は発射速度が遅いので同調式を開発できなかった。
そこで日本海軍では烈風の火力強化型に装備する為、毎分720発に向上させた2号銃5型を開発したのだが完成には至らなかった。
日本海軍が生産した99式20ミリ機銃の総数は約35000門にも及ぶ。 

[4140] 航空機用火器(その8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/10(Sun) 19:47
ベレジン系機銃:

ミハイル・E・ベレジン(1906〜1950)はボログダ生まれの小火器設計者である。
レニングラードで機械工学を学びツーラ兵器工場で働いていた彼は1935年から設計部門に転属した。
彼は1937年から12.7×108ミリ弾を使用する火器の設計を開始し1938年に完成させた。

これが12.7ミリBS機関銃(同調型ベレジンの意)で1939年に制式採用された。
だが給弾装置に問題があったので改良が進められ1941年4月22日にUB機関銃(汎用型ベレジン)が新たに制式採用されるに至った。
機構はガス利用式、重量21.5s、初速860m/s、発射速度毎分1000発である。
同じ弾薬を使用する航空機用火器としては1934年に旧ShVAK(重量40kg、発射速度毎分700発)が制式化されていたがUBはそれより遥かに小型かつ高性能であった。

なお、1930年代後半のソ連軍戦闘機は小口径で発射速度の早い7.62ミリShKAS機関銃を主要装備としていた。
しかし1930年代末期になると防弾板や防漏タンクが開発されShKAS機関銃は陳腐化してしまった。
従ってより大口径の20ミリの新ShVAK機関砲が開発されYak系やLaGG系戦闘機にモーターカノン形式で装備された。
これらの戦闘機が装備できたのはクリモフ系エンジンを装備していたからである。
クリモフ系エンジンはモーターカノンの装備を前提として開発された仏のイスパノスイザYエンジンをライセンス化及び改良したエンジンで改良型も含め10万基近く生産された。

だがMiG系戦闘機は独のBMWYを原型とするミクリン系エンジンだったのでモーターカノンを装備できなかった。
しかもソ連の戦闘機は木製なので主翼には火器を装備できない。
よってMiG系戦闘機の火器装備位置は機首上面に限られスペース的に20ミリShVAKの装備は不可能であった。

そこで12.7ミリBSやUB機関銃を機首上面に主武装として1門装備し副武装には2門のShKASを同じく機首上面に装備した。
つまり機首上面に3門の火器が並んだのである。
これはあまり例を見ない火器配置であった。
その後、小口径機関銃の陳腐化が更に進むとShKASを代替する目的で12.7ミリUB機関銃はYak系やLaGG系戦闘機の副武装としても機首上面に装備された。
更にIL−2などの襲撃機及びIL−4などの爆撃機にも防御火器として多数が装備されている。
12.7ミリUB機関銃の生産数は大戦中だけで13万門もの多数にのぼった。

ついで1944年に12.7ミリUBを拡大した20ミリB−20機関砲が設計された。
ShVAKと同じ20×108ミリ弾を使用するこの機関砲の発射速度、初速はShVAKとあまり変わらなかったが本体重量はShVAKの40sに比べて25sと軽かった。
B−20機関砲はLa−7などの戦闘機に装備された。
全備重量3402sのLa−5FNがShVAK2門装備だったのに全備重量3315sのLa−7がB−20を3門装備できたのは火器が軽量だった為である。
ただし所詮、B−20は補助的な存在に過ぎず1945年の生産数はShVAKの13433門に比べると約半数の7240門だけであった。
ちなみに62機(他に友軍のP51を2機)を撃墜したソ連軍の最多スコアエースのコジェドゥブ(戦後の最終階級は元帥)が大戦中、最後に乗機としていたのはLa−7である。
彼はLa−7で17機のスコアを挙げた。 

[4139] 航空機用火器(その7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/09(Sat) 21:42
イスパノ系20ミリ機銃:

スイス人のマルク・ビルキヒト(1878〜1953)はジュネーブ出身の工業機械設計者である。
彼はスペイン軍の退役砲兵士官であったエミリオ・デ・ラ・クアドラ(1859〜1930)の創設したラ・クアドラ社へ1899年に入社し技術者として研鑽を積んだ。
その後、ラ・クアドラ社は経営者や社名が代わり紆余曲折の末、1904年に自動車メーカーのイスパノ・スイザ社(略称H.S社)として創業する事になった。
そして1911年、H.S社はフランスに進出する。

以降、H.S社はフランス、スペイン、スイスを席巻する機械工業メーカーとして自動車及び航空機のエンジン、兵器工業の分野に販路を伸ばしていった。
もっとも創業当初は単なる自動車産業に過ぎなかったが第一次世界大戦の勃発がH.S社の運命を変えた。
航空機エンジンへの参入が成功し第一次世界大戦中に生産された連合軍の航空エンジンのうち過半数をH.S社製が占めたのである。
かくしてH.S社は西欧を代表する軍需メーカーに成長し戦間期にはソ連や日本などの航空機開発後進国がこぞってH.S社からの技術導入を図った。

さて、HS社は戦間期に米国ライト社製空冷星形エンジンのライセンス版も生産したが基本的には自社開発の水冷V型12気筒エンジンを量産した。
これらには排気量27000ccで1928年に完成した12Mや1932年完成の12X、排気量36000ccで1932年に完成した12Yなどがあった。
Yシリーズは画期的な航空機エンジンで同軸火器(モーターカノン)を装備できた。
この為、HS社はスイスのエリコン社から20ミリFFS機関砲のライセンス権を購入しHS7機関砲として生産したのである。

FFS機関砲はドイツのベッカー砲を原型としており使用弾は20×110弾、発射機構はAPIブローバック式であった。
HS7機関砲はD−501戦闘機に装備され1935年から生産された。
だが発射速度は毎分350発と遅く、次にD−510用として生産された改良型のHS9もAPIブローバック式のままだったので発射速度はやはり遅かった。

よって1938年、ビルキヒトはショートリコイル式に変更した新型機関砲をHS404として開発した。
HS404の発射速度は毎分600〜700発、初速は880m/sでFFSの毎分470発、初速830m/sに比べ大幅に向上した。
しかし重量は39sから43sに増えてしまった。
フランス空軍はD−520やMS−406などの戦闘機にHS404を装備している。

英軍もまたHS404に着目しイスパノMk1としてライセンス化した。
装備機はホワールウィンドやスピットファイアの初期型、ハリケーン2型、ボーファイター及びP−400(P−39の派生型)などである。
これらの装弾数は全て60発であった。

その理由はイスパノMk1がエリコンFFSの発達型として開発された事による。
エリコンFFSがドラム弾倉だったのでイスパノMk1もドラム弾倉とせざるを得なかった。
こうした理由で装弾数が増やせなかったのだが、これは大きな欠点となっていた。

かくして装弾数不足を解消する為に給弾をベルト式に改良したイスパノMk2(重量50s)がマーチン・ベーカー社によって開発された。
イスパノMk2はスピットファイア5型(装弾数各120発)、タイフーン(各140発)、モスキート(各150発)、P−38(各150発)、P−61(各200発)に装備された。
次なる改良は軽量化と発射速度の増大であった。

この目的の為に砲身長の短いイスパノMk5型(重量42s、毎分750発)が開発されテンペスト(150発、一説によると200発)やスピットファイア21型(150発)に装備された。
ただし砲身が短くなったので初速は840m/sに低下した。
もっとも登場が遅すぎた為、イスパノMk5は戦局にはさほど寄与していない。

要約するとドイツで開発されたベッカー砲がスイスのエリコン社でFFSに発達しフランスのHS社でHS7、HS9、HS404と改良され英国に渡りイスパノMk1、2、5へ進化を遂げたのである。 

[4138] 航空機用火器(その6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/08(Fri) 17:43
ボルコフ系機銃:

第2次大戦中に生産された大部分のソ連製戦闘機は大口径航空火器として20ミリShVAK機関砲を装備していた。
だがソ連にはもうひとつの重要な大口径航空火器があった。
A・AボルコフとS・A・ヤルツェフが1940年に設計した23ミリVYa機関砲である。

ただし23ミリVYa機関砲は空戦での使用を目的とした航空火器ではない。
VYaは対地攻撃を目的に開発されシュツルモビクと称されたIL−2襲撃機に主として装備された。
だがほぼ1機種にしか装備されなかったのにVYaの生産数はなんと64655門もの多数にのぼった。
その理由はIL−2の生産数は世界航空機史上最多(Bf109を最多とする資料もある)の36183機だからであり、しかも1機に対し2門ずつ翼内装備したからである。

なお、ソ連軍が20ミリのShVAKとは別に大口径航空火器として23ミリのVYaを量産した理由は貫徹力と破壊力を向上させ装甲車両を撃破する為であった。
よってVYaとShVAKの口径は3ミリしか差がないにも関わらずケース長はShVAKの99ミリに対して152ミリと1.5倍も大きくなっており装薬量が大幅に増大している。
初速も905m/sとShVAKの750m/sよりだいぶ速くなった。
加えて弾頭重量はShVAKの97gに対しVYaは200gもあり恐るべき破壊力を発揮した。
その代わりVYaの重量はShVAKの42sと比べ66sと重かった。
発射速度もShVAKの毎分800発に対し毎分600発と低下している。

だが対地攻撃限定であるならば発射速度の低下はさほど問題とならなかった。
重量過大も機動性を重視しない襲撃機なら機動性で勝敗が決する戦闘機と違って大きな欠点ではない。
こうしてVYaは大戦終結まで対地攻撃で活躍したが戦後、新たなる23ミリ機関砲が開発された。
A・E・ヌデリマンとA・S・スラノフによって1944年に設計された23ミリNS機関砲である。

ただしこの機関砲は23ミリであったものの対地攻撃を目的としておらず戦闘機用の対空兵器であった。
用途が戦略爆撃機に対する迎撃なので必要なのは貫徹力ではなく破壊力となる。
よって弾薬はケース長を短くした23×115ミリ弾に変更され初速が690m/sに低下した。
重量は37sに減少し発射速度は毎分550発となった。

この23ミリNS機関砲はLa−9戦闘機に4門装備(装弾数各75発)されたが1秒当たりの投射弾量はShVAKで換算すると約6門に相当した。
機体が木製のLa−5FN(全備重量3402s、出力1640馬力)は重量40sの20ミリShVAK2門を装備し1秒の投射弾量は2.58sであった。
これが改良型であるLa−7(全備重量3315s、1850馬力)では重量25sのB−20機関砲3門に強化され1秒の投射弾量は3.87sになった。
更にLa−9(全備重量3425s、1850馬力)では機体が金属となって構造重量が軽減されたので武装は37sの23ミリNS機関砲4門に強化された。
La−9の1秒投射弾量は7.3sにも及ぶ。
Yak系戦闘機は最終型の9Pを除くと終始、ShVAK1門が主武装であった。
それに比べLa系戦闘機は火器を軽量化したり機体構造を金属化して段階的に武装を強化したのである。 

[4137] 航空機用火器(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/07(Thu) 18:05
シュピタリヌイ系機銃:

火器の射撃で敵機を撃墜するには「どこに当てどの様な損害を与えるか」で大きく効果が異なる。
重要な順に列挙すると操縦士、燃料タンク、エンジン、主要構造材となる。
操縦士を死傷させれば目的を達成できるが標的面積が小さく防弾板で保護されている場合、貫徹力の高い大口径火器が必要になる。

次に重要なのは燃料タンクで、ただ貫通させても効果は得られず発火させる事に意義がある。
そこで防御策としては貫通孔を即座に塞ぐ防漏タンクにする方が効果的となる。
次に「延焼を食い止める手段」として「自動消火装置」で対処する事もできる。
操縦士と燃料タンクは航空機にとって大きな弱点だがそれに比べエンジンは少々、被弾しても簡単には止まらない。
よって水冷式エンジンのラジエーターを除けば大きな弱点とは言い難い。

更に主要構造材となると機体外板に命中してもただ貫通するだけだと効果がない。
桁や肋材を破壊して飛行不能にするには相当の命中弾を与えねばならず迂遠な方法である。
なお、構造材の破壊効果では小口径火器を多数装備するより炸裂弾を撃てる大口径火器が威力を発揮する。
かくして航空機を撃墜するには操縦士を殺傷するか燃料タンクに命中させて火災を発生させるのが肝要となり操縦席の防弾板装備と防漏タンクの登場によって小口径火器は次第に陳腐化していった。

7〜8ミリの小口径火器が主流であった1920年代にいち早く中口径火器へ移行したのは米国である。
これに刺激を受けソ連でも1931年に中口径航空機用火器の開発を決定した。
使用する弾薬は1930年に開発された中口径対空機関銃DKの12.7×108ミリ弾とされた。

開発担当者は1927年にモスクワ技術大学(MAMI)を卒業後したロストフ出身のボリス・G・シュピタルヌイ(1902〜1972)である。
共同開発者はセミョーン・V・ウラジミーロフでこの12.7ミリ機関銃はShVAK(Shはシュピタルヌイ、Vがウラジミーロフの頭文字、AKは航空機関砲の意)と命名された。
12.7ミリのShVAKは1932年に試作品が完成し1934年に制式化されている。

加えて1932年、シュピタルヌイはイリナルフ・コマリツキーを共同開発者としソ連軍が小火器の標準としていた7.62×54R弾を使用する小口径航空機火器も設計し翌年には量産が開始された。
ShKAS(Shはシュピタルヌイ、Kはコマリツキーの頭文字、ASは航空機関銃の意)と命名されたこの機関銃の特徴は発射速度が早い事で毎分1800発に達した。

効率的に敵機を撃破する方法として火力の大口径化、火器の門数増加、発射速度の増大が考えられる。
ShKASは発射速度を重視する方向で開発されており発射速度がビッカース系小口径機関銃の約2倍、ブローニング系やラインメタル系小口径機関銃の約1.5倍に及んだ。
機構はガス利用式、初速は825m/sで1936年には同調式(毎分1650発)の量産が始まり1939年には毎分3000発のウルトラShKASも開発された。
ShKASの機構はガス利用式で初速825m/s、生産数は約15万丁にも及ぶ。

一方、12.7ミリのShVAKは制式化されたものの僅か86門しか生産されなかった。
1930年代中盤の時点ではまだ防弾板や防漏タンクは装備されておらず小口径で充分だったからである。
そこで将来的展望を見据えShVAKをより大口径化する方向で開発が進められた。
かくして完成したのが20×99ミリ弾を使用する新ShVAKで1936年から量産が開始された。

当時、諸国が保有していた大口径航空機火器は弾倉式なので装弾数が少なかったが新ShVAKはベルト給弾だったので装弾数が非常に多いのが特徴であった。
さて、前述したウルトラShKASだが1930年代末から急速に航空機の防弾板及び防漏タンク装備が進んだのでごく少数しか量産されなかった
代わりに脚光を浴びたのが12.7ミリのベレジン系中口径火器で多くの機体に装備された。
この時点ではもはや12.7ミリの旧ShVAKは陳腐化してしまっており全面的に20ミリShVAKに切り替えるのは困難だったからである。
20ミリShVAKの発射速度は毎分800発、初速は750m/sで大戦中に生産された大多数のソ連軍戦闘機に装備され約10万門が生産された。
シュピタリヌイは1934年に設計局を創設したがこれらの功績が評価され1949年にはモスクワ研究所の教授(測地学、航空写真術、地図製作)にも任ぜられている。 

[4136] 航空機用火器(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/06(Wed) 18:37
ビッカース系小口径機銃:

機関銃の先駆者として名高いハイラム・マキシムは1840年2月5日、米国のメイン州で生まれた。
彼はマサチューセッツ州のフィッチバーグで叔父が経営する工場の製図工として働いていた。
だが1881年に渡英し1883年から1885年にかけ反動利用式火器の特許を取得する。
更に1884年には試作銃を発表し1887年にはビッカース社の財政支援を受けて小火器製造メーカーを創設、世界各地に販路を伸ばした。

当然、英陸軍の小銃用弾薬である7.7ミリ弾(.303ブリティッシュ)を使用する1885年型が最初に量産され基本形となった。
そして4脚銃架を使用するドイツの7.92ミリMG08、車輪付銃架を使用するロシアの7.62ミリPM1910など各国の弾薬に合わせて次々とライセンス化されていった。
日本陸軍でも1890年に2門、1893年に4門が輸入され翌年から200門がライセンス生産されたが工作技術が未熟な為に動作不良が多く制式化はされなかった。
日本海軍も輸入し麻式六粍五機砲として陸戦隊などで使用している。

米のブローニングや仏のホチキスなど他国でも機関銃の開発が進められたがビッカースのマキシム機関銃はもっとも多くの国でもっとも広範囲に使用された傑作機関銃であったと言えよう。
そうした功績が認められ1900年にハイラム・マキシムは英国へ帰化し翌年、サー称号を授与された。
なお英陸軍がマキシム機関銃を制式化したのは1912年と遅く3脚装備の軽量化タイプをビッカースMk1機関銃として採用した。

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発し航空機が戦場に現れるとビッカースMk1機関銃を空冷化し同調装置を備えた航空機関銃が新たに開発された。
ビッカースMK1系の航空機関銃は戦後も長らく英軍戦闘機の主力火器として装備され続けた。
ビッカースE型機関銃は口径7.7ミリ、初速723m/s、発射速度毎分850発であった。

だがグラジエーター戦闘機を最後に英軍はビッカースE型の装備を打ち切った。
口径を7.7ミリに変更してライセンス化されたブローニング機関銃(初速811m/s、発射速度毎分1200発)に切り替えたのである。
発射速度の増大は英国戦闘機にとって大きな福音となった。
以降、スピットファイアやハリケーンなど英国の主力戦闘機はブローニング機関銃を装備している。

かくして英国戦闘機からビッカース機関銃は消えていったが日本では海軍が九七式7.7ミリ機銃、陸軍では八九式7.7ミリ機関銃としてライセンス化し多くの戦闘機に装備された。
ただし同じ7.7ミリ弾でありながら日本陸海軍の弾薬は薬莢サイズが異なり共通化されていなかった。
よって九七式7.7ミリ機銃は初速745m/s、発射速度毎分950発でビッカースE型と大差なかったが八九式7.7ミリ機関銃は初速820m/s、発射速度毎分900発でやや貫徹力が高かった。 

[4135] 航空機用火器(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/05(Tue) 14:18
イタリア小口径機銃:

現在のイタリアは火器の開発及び生産で世界有数の先進国である。
一例を挙げればオート・メララ社の76ミリ砲はイタリア海軍は言うに及ばず日米海軍を始め濠州、カナダ、韓国、イスラエル、台湾、ドイツなど各国海軍で採用されている。
またベレッタ社のM92拳銃もイタリア陸軍のみならず米陸軍(M9)やフランス陸軍(PA−MAS)などでも主力拳銃として採用され評価は高い。

だが二十世紀初頭のイタリアは列強の中では火器の開発に関して、まだ後進国に過ぎなかった。
当時は英、米、独、仏の火器メーカーが有力で機関銃の開発に鎬を削っていたのである。
自国で生産出来なければ輸入もしくはライセンス化する手段もある。
だがイタリアはそうした手段を取らず殆ど機関銃を保有していない状態で第一次世界大戦の勃発を迎えた。
急遽、輸入を模索したが主要生産国が交戦国となり機関銃を国産化せねばならなくなったのである。

かくして1914年にアビエル・B・レベリ・ディ・ボーモン(1864〜1930)の設計によるフィアット・レベリM1914重機関銃がトリノを本拠地とするフィアット社で生産される事になった。
使用弾薬は主力小銃と同じ6.5ミリ×52カルカノ弾である。
給弾は5連クリップを積み重ねる特殊な装填架方式を採用しており非常に操作性と整備性が悪く信頼性も低かった。
装填架方式は日本陸軍の11年式軽機関銃でも採用されたがやはり不評ですぐに量産が中止されている。

また1915年にはM1914重機関銃を母体にした航空機用機関銃が開発されたがこれもまた性能が劣悪であった。
そこでやむなく英国のビッカース7.7ミリ航空機関銃(.303ブリティッシュ弾)のライセンス化に変更された。
以降、イタリア空軍の小口径航空機関銃はこの弾薬が基本となる。

ビッカース7.7ミリ航空機関銃をライセンス生産したのはフィアット社傘下のSAFAT社(トリノ火器製造格式会社)であった。
当時、イタリアの機関銃生産はフィアット社の独占体制だったのである。
だがそこへ1886年にミラノで創設されたブレダ社が参入し状況が大きく変わった。
エルネスト・ブレダ(1852〜1918)によって設立されたブレダ社は現在、火器メーカーとして名高い。
もっとも当初は鉄道車両製造メーカーで1894年からは脱穀機などの農業機械へ進出した。
以降、多角化経営を図り第一次世界大戦を契機として次第に兵器産業へと変貌していった。

まず1924年、イタリア陸軍は6.5ミリ×52カルカノ弾を使用する軽便な軽機関銃を求めて両社に設計を指示した。
こうして開発されたのがフィアット24とブレダ9Cである。
採用されたのはブレダ9Cで1930年にブレダM1930軽機関銃として制式化された。
この機関銃は20発箱弾倉による右側装填方式で低性能ながら15年の長きに渡り生産された。

続いて6.5ミリ弾のM1914重機関銃では火力が不充分なので新型の8ミリ×59ブレダ弾を使用する新型重機関銃への更新が決定し両社に設計が指示された。
テストの結果、ブレダ製重機関銃の方が高性能であると判明した。
だがブレダ製は量産開始までかなりの時間が掛かると予測された。
そこでフィアット製も1935年にフィアット・レベリM1935重機関銃(給弾はベルト式)として制式化され暫定的に先行生産される事になった。
ブレダ製は1937年にブレダM1937重機関銃(給弾は20発保弾板)として制式化されている。

かくしてイタリア軍の小火器弾薬は小銃及び軽機関銃様の6.5ミリ×52カルカノ弾、航空機用の7.7ミリ弾(.303ブリティッシュ)、重機関銃用の8ミリ×59ブレダ弾の3種混在となった。
他国の場合、英国は7.7ミリ弾(.303ブリティッシュ)で統一されていた。
米国は7.62ミリ×63弾(30−06)である。
ドイツは7.92ミリ×57弾、ロシアは7.62ミリ×54R弾であった。
この様に通常の国家では補給を一元化し部品を共用化する為、小銃用、重機関銃用、航空機関銃用で共通の弾薬を使用する。
小火器弾薬の3種混在によりイタリア軍の弾薬補給は煩雑化し戦争遂行上の大きな制約となった。

なおイタリア陸軍の重機関銃開発と並行してイタリア空軍もビッカース航空機関銃を更新する新型航空機関銃の開発を実施し両社に設計を指示していた。
これに対しブレダ社は米国のブローニング系機関銃を基礎とした7.7ミリと12.7ミリの2種の航空機関銃を開発した。
これらは1935年に採用され以降、イタリア空軍機の主力火器となった。
弾薬は7.7ミリ弾(.303ブリティッシュ)と12.7ミリ×81弾である。

競作に敗北したフィアット社はSAFAT社の経営権を売却し小火器開発からの撤退を決意した。
以降、SAFAT社はブレダ社に吸収合併される。
よってこの航空機関銃は7.7ミリブレダSAFAT航空機関銃、12.7ミリブレダSAFAT航空機関銃と呼称される事になった。
ただし性能は悪くドイツの13ミリMG131機関銃が重量18s、初速790m/s、発射速度毎分900発だったのに比べ重量29s、初速765m/s、発射速度毎分700発で大変、劣っていた。
ブレダ社は1930年代に20ミリ及び37ミリの対空機関砲を開発しイタリア陸軍及び海軍で制式化された。
また後にはBa65やBa88などの爆撃機を開発して航空機産業にも進出している。 

[4134] 航空機用火器(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/05(Tue) 13:56
ドイツ小口径機銃:

1919年6月28日、ベルサイユ条約が締結され第一次世界大戦はドイツの敗北で幕を閉じた。
同条約によりドイツは軍備の制限を受け戦車、軍用機、潜水艦、ガス兵器などの保有が禁じられた。
この軍備制限については兵力のみならず個艦のサイズや兵装、火砲の口径など細目で様々な既定があった。
そしてその中に「ベルト式給弾の機関銃の保有禁止」と言う条項がありドイツの機関銃開発に多大な影響を与えた。

第一次世界大戦で多数の戦死者が生じた要因のひとつに塹壕戦の多発と重機関銃の活躍が挙げられる。
重機関銃の給弾は英、独、露の主力であったビッカース(マキシム)機関銃や米のブローニング機関銃で採用されたベルト式が主流である。
他にも仏のホチキス機関銃及びその系列にある日本の38式機関銃で採用された保弾板式、伊のブレダ機関銃で採用された装填架式などもあるがベルト式に比べ劣っていた。
やむなく戦間期のドイツ軍では給弾を25発箱型弾倉もしくは75発ダブルドラム弾倉としたドライゼMG13軽機関銃(使用弾薬:7.92ミリ×57弾)を採用した。
部隊配備は1930年からである。
弾薬はドイツの小口径機関銃全てで使用される7.92ミリ×57弾であった。
7.92ミリ×57弾は1905年に制定された小銃用弾薬で第一次世界大戦時の帝政ドイツ陸軍で主力小銃とされたGew98やMG08機関銃で使用された。
更に第二次世界大戦時の主力小銃であったKar98kや陸軍の汎用機関銃であったMG34やMG42などでも使用されている。

なおMG13の採用は暫定的措置に過ぎなかった。
ドイツ陸軍はいずれ再軍備の機会があると考えスイスのソロターン社(ドイツのラインメタル社傘下のダミー会社)でL・シュタンゲ技師にMG30(社内製品ナンバーはS2−200)を開発させ1932年から秘密裡にモーゼル社で改良設計を進めた。
改良点は当初、25発箱型弾倉であった給弾を50発のベルト式に変更した事で1934年に完成した。
ただしPANZER誌336号には1934年に開発着手、1936年に原型完成、1939年1月に制式採用と記述されており開発日時にかなりの相違が見られる。

さて、1933年1月にヒトラーが首相に就任し同年3月には航空省が設立された。
そして1935年2月に空軍の存在を公表、同年3月の再軍備宣言とドイツ空軍は急速に組織を拡大する。
だがベルト式給弾の航空機関銃がなければ戦闘機の国産化できない。
そこで、やはりソロターン社のT6−200機関銃を原型としたMG17航空機関銃の開発をラインメタル社に命じ1932年から着手された。
同時に爆撃機等の銃座で使用する旋回機関銃がT6−220を元にMG15として開発されている。
後にMG15は日本陸軍の98式旋回機関銃や日本海軍の一式7.92ミリ旋回機銃としてライセンス生産された。
ドイツではMG15の後継としてより発射速度の高いモーゼル社のMG81が開発されている。

MG17は初速840m/s、発射速度毎分1200発で小口径航空機関銃としては高性能であった。
だが既に米国の12.7ミリM2、伊の12.7ミリブレダ、仏の20ミリHS7、ソ連の20ミリShVAKなど各国空軍はより大口径の火器に移行し始めていた。
よってドイツも早晩、火器を強化せねばならない事は明白であった。
かくしてラインメタル社は1938年にMG131をL・シュタンゲ技師に設計(予備研究は1933年から既に実施)させた。

MG17を基礎とし新開発の13ミリ×64弾を使用するMG131の特徴はコンパクトな点にある。
従来、Bf109やFw190などのドイツ空軍単座単発戦闘機は機首にMG17を2門装備していた。
これらの機体は少しコブが突きだしただけでMG131をそのまま2門装備出来た。
MG131(13ミリ)の弾頭重量(34g)はMG17(11.5g)の約3倍でMG151/15(57g)に近い。
それなのに銃本体の重量は僅か18s(資料によっては16.6s)に過ぎずMG151/15の42sよりMG17の12.6sにずっと近かった。
全長はMG17と同じ1.17mでMG151/15の1.96mより遥かに短い。
初速790m/s、発射速度毎分900発のMG131はまさにドイツ戦闘機の機首に装備するために開発された機関銃であった。
だが1941年初頭から生産開始されたものの、機首に装備したのはBf109が43年初頭のG1北アフリカ仕様機、Fw190は44年初頭のA7からであった。
MG131を最初に装備したのは1940年末に初飛行したFw190Aの試作2号機だったが主翼装備(量産型のA0ではMG17に変更)だったのである。

次にMG131を装備したのは1941年初頭から量産された双発複座戦闘機のMe210であった。
ところが装備位置はなんと胴体側面の遠隔旋回銃座であった。
以降、爆撃機のHe111やJu88等へ旋回機関銃としての装備が進められた。
そして単発単座戦闘機への機首装備は前述の如く大幅に遅れたのである。
誠に惜しいと言わざるを得ない。 

[4133] 航空機用火器(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/05(Tue) 13:50
ブローニング系小口径機銃:

1855年1月23日、米国のユタ州オグデンで銃砲店を営むモルモン教徒の家に一人の男児が誕生した。
ジョンと名付けられた少年は父の仕事を継ぎ銃器の修理や販売を生業とする。
そして1879年には独自のレバー式ライフルを設計した。
このライフルに着目したウィチェスター社は早速、製品化し同社はレバー式ライフルで隆盛を極めた。
以降もジョン・ブローニングは銃器を設計しウィンチェスター社はその製品化で成功を重ねた。
両者の関係は雇用ではなくあくまでも外部の設計者と特許/設計に対する使用料の関係であった。

1890年頃から彼は発射の際に銃器から発生するガスに着目しこれを利用した自動火器の設計を始める。
かくして誕生したのが米海軍により1895年に制式化された口径6ミリのM1895重機関銃であった。
製造メーカーはコルト社である。
しかしM1895重機関銃は銃身に冷却機構が無く長時間の射撃が出来なかった為、実用性が乏しかった。
よって軍事的には同時期に登場したマキシム機関銃の後塵を拝した。

ただし機関銃では遅れを取ったもののジョン・ブローニングが設計した拳銃、小銃はベルギーのFN社や米国のレミントン社でも製品化され好評を博している。
更に1914年に勃発した第1次世界大戦で小火器の需要が拡大すると兵器市場の門戸が彼に開かれた。
今度は銃身を水冷式とし機構を反動利用式に変えたM1917型機関銃を設計し米陸軍に採用される。

ついで翌年にはBARとして名高いガス利用式のM1918型自動小銃が制式化された。
2年後には空冷式銃身のM1919型機関銃、その後は12.7ミリM1921重機関銃など彼は続々と設計し1926年に死去した。
これらのうちM1919型機関銃は三脚に装備するA4型が標準であった。
A4型の他にグリップの無い車載用のA5型、二脚で軽機関銃タイプのA6型など多彩な派生型があり航空用機関銃としても装備された。
また使用弾薬を米軍標準の7.62ミリ弾から英国の7.7ミリ弾に変更したタイプも英国でライセンス生産されスピットファイア(装弾数300発)などに装備されている。 

[4132] Re:[4129] 日本海は漂流民で満員だ! 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/05(Tue) 10:02
今朝の読売新聞で北海道の無人島で略奪行為をおこなった漂流船事件の捜査に関する記事が載っていた。
捜査員は感染症を警戒し防護服で臨んだそうだ。
これで日本は安心だ。
マタンゴと北鮮など恐るるに足らず! 

[4129] 日本海は漂流民で満員だ! 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/02(Sat) 21:17
何やら正体の知れぬ漂流民が裏日本にドシドシ流れ着いている。
入管や警察はちゃんと警戒して対処してるのかなあ?
しょっちゅう来てるとマンネリになって気が緩みだすよ。
そこを狙ってペストや出血熱の感染者が送り込まれたら大変な事になる。
「武装難民が紛れ込んだら大変」とか言ってる政治家がいるけど日本を困らせるには病原菌をばらまくのが一番、効果的なんだ。
だから漂流者は充分、警戒して隔離しなくちゃいけない。
みんなだってマタンゴみたでしょ。
えっ、みてない?
それは大変だ!!

[4128] Re:[4124] 布(その6) 投稿者:うらマッハ 投稿日:2017/12/02(Sat) 20:02
> そして日本は絹を売る立場となった。

文明開化の影響で必需品の品目も増えるでしょうから、買わないといけない資源も増えそうですね。
ある意味、贅沢が敵かも(笑) 

[4127] Re:[4126] 睡眠不足 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2017/12/02(Sat) 08:21
> 誰だって気持ちよく寝ている所を起こされるのは嫌な物だ。
> その点、先日の北鮮ミサイルではJアラートが鳴らずに済み有り難かった。
> 変な髪型の肥満児が気を遣ってくれたのかな?

金さんの恰幅の良さは伊達じゃありませんね。
腹の太さにはまったく感心します。
寒心に堪えませんからどうか日本をまたいでミサイルを撃たないでください。

[4126] 睡眠不足 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/12/01(Fri) 08:36
誰だって気持ちよく寝ている所を起こされるのは嫌な物だ。
その点、先日の北鮮ミサイルではJアラートが鳴らずに済み有り難かった。
変な髪型の肥満児が気を遣ってくれたのかな?
射程が長くとも日本をまたがなければJアラートが鳴らなくて済むもんね。

でも・・・
どうもそうじゃなさそうだ。
やはり今回のは米国に対するメッセージなんだろう。
極東と米国の時差は10時間。
発射は午前3時だから米国では午後1時。
「トランプをビックリさせてやろう!」と肥満児が考えたなら米国での深夜時間に発射したはずだ。

もしビックリさせたなら?
機嫌の悪い御老体は変なスイッチに手を伸ばすかも知れない。
なにしろ1944年6月6日にはチョビ髭おじさんの寝起きの悪さ恐れて誰も「ノルマンディーにお客さんがやって来た事」を御注進に行けなかったくらいだ。
また、1969年4月には酒に酔ったニクソン米大統領が北鮮に対し核攻撃を命令(統合参謀本部議長の判断で延期され後に命令中止)した事もある。
いやいや、米大統領に対しては変なイタズラや冗談は止めた方がいい。
それが判っているから昼食後で一番、気が安らいだ時間に発射したんだろうね。

でも、まあ・・・
そんな気遣いが出来るんなら発射しないのが一番だと思うけどね。

[4125] Re:[4124] 布(その6) 投稿者:いそしち 投稿日:2017/11/30(Thu) 22:13
大変面白く読ませて頂きました。
やはり日本と木造住宅、米は切り離せませんね。
麻の服が多かったとは知りませんでした。
それと床があったから日本は土足禁止なのですね。 

[4124] 布(その6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/30(Thu) 19:57
もう少し衣食住を細分化するとしよう。
まず衣服だが日本では前述の通り必須となる大衆衣料が江戸期以前で麻、江戸期以降は木綿、必須ではない高級衣料に絹があった。
木綿の栽培に必要なのは温暖な気候と大量の水及び肥料で絹の生産に必要なのはカイコと養蚕技術及び桑畑である。
日本以外では大衆衣料が麻と羊毛、獣皮で高級衣料は絹と一部の毛皮であった。
羊毛を得る為には当然、羊が必要で羊の糞は有益な肥料にもなった。

次は食だが日本の場合、主要カロリー源は米が主で補助として麦及び芋類、植物性蛋白として大豆と豆類、動物性淡泊は海産物や淡水漁などから摂取された。
日本以外(特に欧州)では主要カロリー源が麦、補助として米及び芋類、植物性蛋白は豆類、動物性淡泊は鳥獣肉、乳、海産物や淡水魚などであった。
重要なのは羊毛を得る為に飼育された羊と乳を得る為に飼育された牛でこの2種の家畜は欧州経済に大きな影響力を与えた。
ビタミン源として野菜類を摂取するのはエスキモー(生肉から摂取)や砂漠の遊牧民(乳や茶葉から摂取)以外、どこでも大体同じである。

最後に住だが木造であれば木と伐採具ならびに大工道具、石造であれば石切技術、土造であれば漆喰や煉瓦の製造技術が必要だ。
日本は高温多湿かつ天然の森林資源に恵まれているので木造住居が多い。
日本以外だと都市及び森林資源に恵まれない地域では石造や土造となる。
もうひとつ、忘れてはならない住の一部として寝具がある。
なぜなら人が住居を必要とする理由は寝場所を確保する為だからだ。
木造であれ石造であれ土造であれ平屋の簡易構造住居では土間となる。
土間だと温帯以北は冬期に居住できない。
よって寝具が使われる様になった。

寝具とは何かを問われた時、日本なら布団と枕、洋式ならベッドとマットレスに布団(もしくは毛布)及び枕と皆が答えるであろう。
日本にベッドが無いのは他地域に比べいち早く床が建築構造に取り入れられたからでその理由は前記の如く温多湿で降水量が多く天然の森林資源に恵まれていたからだ。
日本語で寝具を寝床と称するのはこれに由来する。
欧州や中国でベッドが多用されたのは「寝る場所」だけを地面から離したに過ぎず日本の住宅構造は「屋内の大部分がベッド」に近いと言える。
ベッドのある暮らしを文化的生活と憧れる欧米崇拝者をたまにお見受けするがベッドなぞ「寝る場所だけ床」の名残に過ぎない。

枕はさておき、布団は洋の東西を問わず基本となる寝具でその充填物には真綿、木綿綿(もめんわた)、羽毛、羊毛、藁などがある。
これらのうち藁は本稿でこれまで触れていなかったから是非、言及したい。
藁と言っても稲藁、麦藁と色々あるが有史以来、日本では過半数の人間が明治中盤(農村地域では昭和中盤)まで藁布団を使用していた。
藁置場で直に就寝する場合などを別にすると、もっとも粗末な寝具は叺(かます)の中に藁を充填した物でちょっとましであれば布で包まれていた。
床が無い場合、これらを土間に置き寝るのである。
本来なら農村部でも昭和初期には木綿綿の布団に移行できたのだが太平洋戦争の惨禍による物資欠乏で昭和中盤まで藁布団が残った。

ただし布団だけが日本の寝具ではない。
藁を充填物としイグサを貼ったのが畳だがこれはそもそも寝具であり普段は積んでおき就寝時にだけ敷くので「畳む」と言う動作から「タタミ」となったらしい。
すなわち畳は欧州のマットレスに相当するのである。
床構造で全室畳敷の日本家屋は欧州の観点から見ると「家全体がベッドで出来ている不思議な建築物」となる。
土間に叺を置いて寝た貧者から畳の部屋で真綿を充填した絹の布団を敷いて寝た長者まで寝具の差は大きかったが藁が果たした役割は大きい。

なお、日本の主要穀物は稲で多量の藁を産出したがその利用価値は頗る広かった。
屋根などの建材、家畜飼料、肥料はもとより防水着としての蓑(みの)、履物としての草鞋(ぞうり)、稲縄、編んで面状にした筵、それを袋状にした叺、米や炭などの運搬用包装材としての俵(たわら)など多岐に渡っている。
これら稲藁を原料とした物品生産は農家に於ける農閑期の大切な副業であった。
かくも稲は日本にとって欠くべからざる重要な農業資源なのである。

欧州に於いても藁(麦)は寝具、建材、家畜飼料として広く使われている。
L・ライト著「ベッドの文化史」78頁によると中世の英国修道院で使用されたベッドのマットレスは藁(麦)を充填しており年に1度、藁は交換された。
なお、藁をマットレスに使用するのは修道院が貧しかったからではなく92頁ではヘンリー7世(在位1485〜1509年)のマットレスにも藁が使用されていたと記されている。
ただしヘンリー7世のマットレスの藁は毎日交換されマットレスの上にはたくさんのシーツやら羽根布団、毛布、ベッドカバーが並べられたらしい。
19世紀に欧州でスプリングマットレスが発明されるに従いマットレスは藁や羊毛などの素材から脱却して格段の進歩を遂げた。

さて、ここで鎖国について総括しよう。
江戸幕府は禁教令を断行する目的で鎖国を実施しこれによって生じた生糸不足を奢侈禁止令でコントロールした。
日本に於ける生活必需品は米と副産物の藁、麦などの雑穀と豆類、芋類と野菜、海産物や淡水魚、麻もしくは木綿、木材と伐採具や大工道具、安全保障と治安維持に必要な武器などである。
生糸や絹などは贅沢品であって必需品ではない。
よって絹などなくても基本的に民衆の生活は困らないはずであった。
石高制は才覚のある人間にはつまらなく映るだろうが凡人には「ちゃんと働けばそれなりに収入を得られる石高制」の方が「相場で収入が変動したり何の仕事をすれば儲かるか情報を収集しなければならない貫高制」より向いていた。
つまり貫高制だと情報収集に右往左往したり相場の変動で大損害を蒙ったりするケースが多くGDPが向上しないのである。

豊臣政権時において実施された石高制への移行は農民の専業化による生産量拡大と税制の公平化(左派学者は究極の搾取と評するが限界を超えない為の合理性でもある)を目的としており商業経済は一部の大商人によって寡占化された。
多大な食糧を消費する外征軍を維持する為、石高制が必要だったのである。
これは大戦中に日本で実施された国家総動員法や戦時中の米国経済に近い。
一方、江戸幕府での鎖国体制下による石高制は冷戦期のソ連経済に似ている。
キッチン討論でフルシチョフが米国市民の電化製品に対し「我が人民にはその様な贅沢品は必要ない。」と喝破した様に。
豊臣政権と江戸幕府は双方とも石高制であったが目的(外征戦争達成と鎖国体制の維持)は相反していたのである。
その後、江戸幕府によって石高制は日本全土に定着し武士の位階、格式、経済力を示す指標となった。

鎖国政策で日本は禁教の断行と引き替えに贅沢品の絹を失った。
だが石高制による身分制度と保守的思想の定着化及び奢侈禁止令による市場の統制化は江戸幕府が260年にも渡って継続する要因となった。
それでも日本人の絹への憧れは絶ちがたくその間、不屈の努力によって絹の国産化が進み内需を充分に賄える段階に達した時、新たなる変革が訪れた。
黒船の来航と開国である。
そして日本は絹を売る立場となった。   (了)

[4123] 布(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/29(Wed) 12:28
それだけではない。
呉服屋だって町人だ。
日本中の富がどんどん衣料費として呉服屋(町人)に吸い上げられていくのは幕府にとって困った事態となる。
確かに統制経済は商業経済の発展を阻害する。
だが、そもそも江戸幕府は商業経済より農業経済を重視していた。
楽市楽座に始まる商業経済の発展は織豊政権に莫大な富をもたらしたが三河の地方大名に過ぎない徳川家にとってあまり魅力的に映らなかった。
こうした点で徳川家は後進的であり誰の支配も受けずに天下を狙う戦国大名の伊達、北条、上杉、武田、毛利、長宗我部、島津などとは一線を画していた。
徳川家は織豊政権の家臣でこそなかったが織豊政権にとっては属国レベルの同盟関係に過ぎなかったのである。

さて、戦国期に於いて大半の地域では年貢を貨幣で納めていた。
これが貫高制で収穫した農産物は貨幣を得る為、村単位で売却された。
すなわち村は利害関係を共有するコミュニティ的共同体であり農民は商人的側面を持っていた。
物納ではなく金納だったのは領主(武士)にとっても都合が良かったからである。
そして領主もまた物品の売買をしていたので日本の住民全てが商人的だった。
戦国期の日本では兵農分離がなされていなかったが商業もまた分離されてはいなかった。
つまり農民と武士の境界が曖昧で大部分の男は農業に従事し商業活動にも関わり武装もしていた。
こうした社会構造では才覚を働かせ効率よく行動すると労働時間に対し大きな利益が期待できる。
農民であっても田畑の耕作より効率の良い作業があるなら、その作業で稼ぎ年貢を納めれば問題とはされなかった。
だから各村にどれだけの耕作面積があるのか領主も把握できていない。
領主としても「各村が規定通りの年貢を貨幣でちゃんとおさめるか?」が重要なので「各村にどれだけの田畑があるか?」には関心が無かった。
そして効率よく資産運用するには情報量が要となった。

だが豊臣政権になって太閤検地が実施され事態は大きく変化した。
検地により日本全土の耕作面積が判明(メイクも多かったらしいが)した。
そもそも検地は田畑の収益を精査し年貢負担の公正性(くまなく絞り上げる為とも言えるが)を向上させる目的で実施されたが刀狩で農民を武装解除すると共に金納を廃止して農民の商人化を排除する目的もあった。
かくして日本全土の耕地面積が判明し金納の貫高制から物納の石高制へ移行する事が出来たのである。
ただし全国同時に貫高制から石高制に移行した訳ではない。
豊臣政権下の有力大名は元来、敵であった外様が多く強固な自治権と独自性を維持していたので石高制となった地域はあまり広くはなかった。
豊臣政権が施行した制度改革としては一般に兵農分離が知られるが石高制導入による商業改革も含め職能分化と捉えるべきではなかろうか?

豊臣政権が石高制を実施した要因のひとつとして通貨不足も挙げられる。
室町から戦国期の日本では勘合貿易や東シナ海を跳梁した和冦の私貿易によって流入した明の通貨が使用されていた。
だが、勘合貿易の破綻及び明が紙幣を導入した事によって輸入が途絶え次第に通貨不足となっていったのである。
更に文禄・慶長の役で明との国交は断絶し通貨不足に拍車をかけた。

商業政策に疎い江戸幕府は豊臣政権の石高制を継承し鎖国も断行した。
石高制は広く日本全土へ浸透し武士、農民、商人の職能分化も定着していった。
職能分化の定着により様々な分野で保守的思考が改革的思考を凌駕し社会は反乱、独立、下克上を忌避する安定重視の方向へ進んだ。
楽市楽座については当初、許容していたが商人の経済力が増大するにつれて看過できなくなり米将軍吉宗による享保の改革では遂に座の復活とも言える株仲間制度へ逆行した。
ここが豊臣政権と大きく異なる点である。

次に江戸幕府が経済基盤とした米について考えてみよう。
米は主要食糧品であり国家の必須生産物だ。
一般的に武士の収入及び身分は所領の米穀生産石高で表される。
つまり「どれだけ米を生産できるか?」が全ての経済的指標となるのだ。
「衣食住足りて礼節を知る」と言われるが衣食住が人間生活の根幹を為す必須要件である事は論を待たない。    (続く) 

[4122] 布(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/26(Sun) 10:11
大抵の人間は他者から軽んぜられたり軽侮されたり非道な真似をされたくない。
となると精一杯、上等な衣服で着飾りたくなる。
かくして倹約令に抵触すれすれまでの上等な衣服が着用された。
例えば股引と言う一種のズボンがある。
現代では下着として扱われる股引だが当時は大工などの職人階層が着用する立派な外出用の衣服で一般的に生地は木綿だった。
だが股引には生地を絹とした物もあり江戸ではパッチと呼ばれていた。
いなせな職人がパッチをはいて岡場所に行けばさぞやもてた事であろう。

こうして江戸期の文化が育まれていったのだが奢侈禁止令には「着用が許可された身分の者から拝受した場合」は着用可能な抜け穴があった。
でも貰い物ばかりを着ている訳にもいかないし倹約令に抵触して衣服を没収されたり捕縛されたりしてもつまらない。
よって表面上は質素を装い影で贅を尽くす事が流行り「粋」とされていった。
通常は粋は「これ見よがしの贅沢」を「野暮」と笑い見えない所に金をかけると思われ勝ちだが、何の事はない。
奢侈禁止令があるから贅沢が裏地に回っただけなのである。

それではなぜ、奢侈禁止令が施行されたのであろうか?
一般に言われている様に農工商を虐める為か?
どうもそうではないらしい。
奢侈禁止令については前述の他、価格統制の部分もあり1663年に明正天皇(上皇)の衣服に銀500目、将軍正室は銀400目の上限が課せられ1683年には一般販売の小袖の上限は銀200目(約4両)となった。
更に1689年には銀250目以上の衣服の販売が全面禁止され1713年には朝廷が上限銀500目、将軍及び大名家が銀400目、それ以下は300目とされている。
加えて1745年には町人の衣服が絹・紬・木綿・麻布のみに制限された。

何故であろうか?
まず最初に「鎖国体制なので生糸が得られず需要に対し供給が不足している事」を思い出して頂きたい。
基本的に価格が自由であれば供給が不足した時、価格は高騰する。
武士の経済力が充分であれば幾ら高騰しても購入できよう。
だが・・・
台頭する町人の経済力に対し「固定化された年貢を基盤とした武士の経済力」は抗し得ず「無い袖は振れない状況」に陥っていった。
だから武士階層が絹製品を購入するには「絹製品は高価であってはならず、かつ統制物品でなければならなかった」のである。        (続く) 

[4121] 服装侮辱問題 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/11/25(Sat) 15:51
>服装に無頓着な私としては、江戸時代は衣服で人物の階層、収入、識見(野暮だと軽侮される)が評価される「すごく嫌な社会」だったらしい。

わたしも、服装には無頓着です。

最近は、自分の服装が多少アレでも、あからさまに侮辱してくる人間は少なくなりました。
でも、80年代〜90年代頃が、酷かったですね。服装に対する侮辱が。
侮辱されて、殴ったりでもしたら、こっちが悪者になってしまいます。
だから、服装侮辱問題に関しては「やったもん勝ち」になってしまいますね。
侮辱する側が悪いのか、侮辱される側が悪いのか・・・ 

[4120] 布(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/22(Wed) 19:03
さて、日本に於ける布の定義は広義だと前述の如く毛織物、絹織物、木綿、麻系、葛、化繊など幅広いが狭義には麻系や葛などを指す。
そして化繊と毛織物は明治維新以前は殆ど流通せず、絹織物と木綿は江戸中期まで輸入が主体で高価であった。
よって狭義の布は江戸幕府成立以前の大衆衣料に他ならない。
そして「狭義の布」は木綿の国産化で衰退し商品価値を失っていった。
日本各地に存在した麻系植物の畑は江戸時代に逐次、消え去っていったのである。

それでは大衆が絹を着る事は全くなかったのであろうか?
NHKデータ情報部編「江戸事情4」110頁によると農民の衣服は基本的に布もしくは木綿で名主は絹、紬が着用出来ると記述されており111頁でも名主、長百姓は紬が許される事があったと記述されている。
ウィキによると1628年に農民の衣服は布・木綿に制限(ただし、名主および農民の妻は紬も可)され1642年には襟や帯に絹を用いる事も禁じられた。
更に脇百姓以下は男女とも布及び木綿に制限され紬が許された上級農民も長さに制限が加えられた。
ついで翌年には農民の衣服について紫や紅梅色の使用が制限されている。

次に武士、僧侶は皆が皆、絹を着用したのであろうか?
そんな事は無い。
武士と言っても足軽と大名では雲泥の差がある。
1628年の段階で下級武士の衣服は絹、紬までに制限されたが下級武士が所持する絹や紬は行事等で着用する一張羅なので所持は許されるが必ずしも所持しているとは限らなかった。
ちなみに、この場合の絹は絹織物全般ではなく綾織や繻子、緞子などの特に高級な絹織物を除外した物を指している。

なお、江戸時代を通じ日本全体で上記の着用制限が普遍的であった訳ではない。
何度も奢侈禁止令や倹約令が出されたが景気が良くなれば規制は緩む。
加えて藩によって状況は異なり「大名と言えども木綿を多用する例」もあれば「豪農が隠れて絹織物を多用する例」も多く見られた。
真綿を原料とする紬を如何に扱うかは微妙な所だし帯などの装身具を衣服の範疇に含むかの判断や裏地、襟などでの使用基準も難しい。

それでは、武士(僧侶を含む)や農民以外の町人はどうであったろうか?
「江戸事情6」の103頁によると商人の場合、丁稚は木綿(縞物)で手代になると結城紬になったらしい。
通常の商家は丁稚、手代、番頭、主人でヒエラルキーが構成されるが江戸三大呉服店の一角を成す白木屋(本店は京都)の場合は少し異なっており従業員のうち8年未満の物は木綿、元服未満は唐木綿、11年未満は青梅木綿、15年未満は太織木綿、18年未満は紬で18年以上になると絹の着用が許された。
勿論、これは普段着ではない。
そして小頭ともなると縮緬が着用できる様になり組頭は普段着でも絹の着用が認められる。
ちなみに小頭より上が支配役(衣服については変化なし)である。

この様に江戸時代の大店商人の衣服は軍隊の階級章の如き厳密な格付を表しており個人の収入差や嗜好で衣服の選択はできなかった。
ただし全住民の衣服が固定化されていた訳ではない。
倹約令は上等の衣服に対する制限なので「無理をして身分にふさわしい衣服を買え」と経済振興策を謳っている訳では無いのである。
当然、身分が高くともそれなりの所得がなければ上等な衣服は購入できない。
その場合、布や木綿など格下の衣服で我慢するしかなかった。
ただし、外出したら周囲の人間は「それなりの対応」をしたであろう。

服装に無頓着な私としては、江戸時代は衣服で人物の階層、収入、識見(野暮だと軽侮される)が評価される「すごく嫌な社会」だったらしい。
もっとも現代日本だってそんなに良い社会ではない。
全裸で路上を疾走し「ユーレカ!」と叫んでも古代ギリシャでは許されただろうが現代の日本で同じ事を私がしたら「公然わいせつ罪」で逮捕されるであろう。
果たして公然わいせつ罪が軽いのか重いのか・・・
私が生きてきた年月の中でも大きく変わってきた様に思う。
昨今では有名人だと社会的生命を失う事すらあるらしい。
未成年者の飲酒並びに喫煙、立ちションも同じだ。
それに比べ昭和の中頃は随分、大らかだったのではなかろうか。      (続く) 

[4119] 『GS資料集』発売のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/11/14(Tue) 12:37
本日、新商品『GS資料集』を発売いたしました。
この商品は弊社デザイナー、阿部隆史が雑誌に執筆した記事、掲示板で発表した論稿、ゲームを作る際に作成した資料などをまとめたものです。
新たに画像や表類が追加されているため、読みやすくなっております。
なお本商品は弊社通信販売のみの販売となります。

GS資料集コーナーで「お試し版」として序盤部分を公開しておりますのでご覧下さい。
http://www.general-support.co.jp/column/columun.html 

[4118] 江川太郎左衛門 投稿者:K−2 投稿日:2017/11/13(Mon) 22:07
江川英龍さんの活躍は、みなもとたろうの「風雲児たち」でも詳細に語られていますね。
人格者で勤勉で博識で、しかも遠山の金さんみたいなことをリアルにやっていたとか。
伊豆沖にイギリス船がやってきて、勝手に測量を始めたときには自らイギリス船に乗り込んで
オランダ語で交渉して追い返したという逸話もあるようです。

ペリーは・・・カツラ疑惑がかなりあったようですが(笑)
イージス艦のO・H・ペリーはお兄さんの方なんですよね。
弟の方が全然知名度低くて。
世界的に、日本を開国させたのは(シーボルトのせいもあって)ロシアのプチャーチン
という風に思われているそうなので、ペリーなんて名前を知っているのは日本人くらいだとか。
しかし、捕鯨船の補給港が欲しくて日本を開国させておいて、
20世紀には日本の捕鯨を批判するんですからホントヤンキーは勝手ですね。 

[4117] 文献紹介 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/13(Mon) 11:40
今日は日本に来た外国人についての文献を幾つか紹介しよう。

E・S・モース著「日本その日その日」(講談社)
アーネスト・サトウ著「一外交官の見た明治維新」(岩波書店)
セーリス著「日本渡航記」(雄松堂書店)
E・ヨリッセン、松田殻一共著「フロイスの日本覚書」(中央公論)

低価格の文庫版もあるので宜しかったら是非。 

[4116] Re:[4115] [4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/12(Sun) 19:58
> アメリカ人は独善的で本当に駄目ですね。

いや、米国人が駄目なんじゃなくてペリーが駄目なんだよ。
貝塚で有名なモース教授の様に親日家で立派な米国人もいるし英国人のアーネスト・サトウなんかも本当に親日的で立派な人物だ。
ウェルニーなどのフランス人にも親日家は多い。
どの国の人にも駄目なヤツと立派な人物はいる。
だけど、どの国にも駄目なヤツと立派な人物が同率で存在する訳ではない。
残念だが駄目なヤツが多い国もまた存在する。
でも、そんな国にも「立派な人物が少しくらいはいる」って事を忘れずにいたいね。

ちょっと説教臭くてゴメン。 

[4115] Re:[4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:いそしち 投稿日:2017/11/12(Sun) 18:09
> マシュー・カルブレイス・ペリーと名乗るこの男、傲慢にして不遜、無礼で高圧的、実に嫌な奴である。

読みました。
本当に嫌なヤツですね。
ビックリしましたよ。
アメリカ人は独善的で本当に駄目ですね。 

[4114] よこすかグルメ物語(第6回) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/12(Sun) 12:37
「ヤンキーが日本にやってきた!その2」

今度はもっと昔に横須賀へやってきたヤンキーの話だ。
マシュー・カルブレイス・ペリーと名乗るこの男、傲慢にして不遜、無礼で高圧的、実に嫌な奴である。
もっとも彼は横須賀に来た初めてのヤンキーではない。
既に1846年には東インド戦隊司令官のビドル提督が浦賀へ来航し幕府に外交交渉を要請していた。
ちなみにビドル提督は「横須賀に来た初めてのヤンキー」ではあるものの「横須賀に来た初めての白人」ではなかった。
ヤンキーではなくジョンブルだが17世紀初頭には既に三浦按針(ウィリアム・アダムス)が横須賀で旗本としての領地を与えられている。

なおビドル提督は傲慢でも不遜でもなく礼儀をわきまえており命令にも忠実だったので高圧的な態度は取らず幕府が鎖国を国是とする事を理解するとおとなしく退去した。
ビドル提督の後任となるシュブリック、ガイシンガー、ボーヒーズ、オーリックの諸提督も「功績目当ての無頼漢」ではなかったから来日したりしなかった。
だが1852年11月に東インド戦隊司令官へ就任した彼は違った。
1853年7月8日、彼は4隻の米東インド戦隊を引き連れて浦賀沖に来航し「日本側の許可も得ずに勝手に測量」した後に「勝手に地名を命名」して好き放題した挙げ句、再来を通告して去っていった。
命名した地名は「走水の御所ヶ崎=ルビコン岬」などである。
そしてもっとも目立つ島はペリー島と名付けられた。
実に自己顕示欲に忠実な命名と言えよう。

さて、幕府は黒船の来寇に際し諸侯は言うに及ばず各界の有識者から意見を募り対策を講じた。
1853年に集められた意見書は719件にも達する。
本庄栄治郎著「幕末の新政策」によればこれらのうち藩を代表したものは54件であり「意見なし」が4藩、開戦派が水戸や佐賀の8藩、拒絶派が仙台や土佐、薩摩の26藩、受諾派が小濱や津山など14藩、開国派は僅か2藩であった。
つまり日本の国論としては開国などは論外で主流は攘夷だったのである。
勿論、後に尊皇攘夷の旗印を掲げる薩摩、長州、土佐、肥前、水戸のいずれも攘夷を是とする開戦派もしくは拒絶派であった。
ではなぜ、幕府は開国への道を歩んだのであろうか?
それはひとえに「たった2藩の開国派」であったうちの片方が井伊直弼を藩主とする彦根藩であったからに他ならない。

黒船来寇時の老中首座であった阿部正弘は1955年10月に首座を辞任。
代わって1958年4月には井伊直弼が大老へ就任し幕府は開国へまっしぐらに突き進んだのである。
だが彦根藩だけの力で時流を制する事はできない。
当然、盟友が必要だ。
幕府は4年後の1857〜1858年にかけて2回目の意見書を募集したがこの時は34藩が応じ1回目とは大きく形勢が変わった。
「意見なし」は7藩、開戦派は土佐、長州など3藩、拒絶派は水戸をはじめ4藩、受諾派は16藩、開国派は4藩であった。
つまり前回は全体で63%を占めた攘夷派(開戦+拒絶)は僅か20%に激減し開国派と受諾派は合わせて29%から58%まで大きく増えたのである。

これは井伊直弼の開国策への同調者が増えた為であるが様々な政治的暗闘が繰り広げられた事は語るまでもない。
中でも重要なのは第1回で攘夷であった薩摩が第2回では開国に鞍替えした事でこれには1856年の13代将軍と薩摩藩の篤姫成婚が大きく関係している。
薩摩が幕府側の舵を切った事は後の政局に大きな影響を与えた。
ちなみに幕府海防政策の根幹を為した江戸防衛に任ずる御固四藩(1847年成立)は彦根藩が開国派、川越藩が攘夷派、忍藩と会津藩は受諾派であった。

ここで江川英龍と言う旗本を紹介しよう。
海防掛の幕臣で石高は僅か150俵取(地方知行に換算すれば150石に相当)ながら代官職を務めていたのでその支配地域は5万4千石(ウィキには26万石ともあるが彼の死亡時には8万8千石だったらしい)にも及んだ。
彼は幕末の才人で反射炉の建設、国産火砲の製造、パンの国産化、お台場の建設などで活躍している。
加えて人望が厚く西洋技術の理論指導者でもあり彼の門弟は一説には4千(多分、孫弟子も含むんじゃないかな?)と言われる程、多かった。
門弟の中には後に日本幕末史に多大な影響を与えた佐久間象山、鳳圭介、橋本左内、桂小五郎、大山巌、黒田清隆、ジョン万次郎などがいる。
「幕末の新政策」539頁によるとその英龍は第1回の意見募集で米国に対し攘夷、ロシアに対しては交易と唱えた。
理由は「浦賀に来た時の米国の振る舞いが無礼至極であったから」である。
けだしペリーの傲慢不遜ぶりがうかがわれる逸話であろう。

米国の開国要求に対して幕府は1年後の回答を約し7月17日にペリーは一旦、香港へ去った。
だが、翌年2月13日には9隻の艦船を引き連れ早くも日本へやってきた。
約束の期限より5ヶ月も早い。
本来ならこの様な勝手は許されるはずもなく交渉そのものが頓挫するであろう。
だが幕府としては12代将軍の急死やら防御態勢の進捗不備やら色々のゴタゴタがあって交渉を拒絶できなかった。
その足下を見透かしてペリーはやってきたのである。
さっそくペリーは艦船の物資補給を要求した。
ペリー著「ペリー日本遠征日記(雄松堂出版)」317頁によると1854年1月27日に幕府は薪と水の補給地を浦賀と指定したがそれに対し彼は
「すなわちそれらの品がどこから来ようと我々にとってはどうでも良い事である。」
「何故なら私は浦賀に行くつもりはなく、しかももし日本人が我々の所に水を運んでくれないなら、私は海岸に人を派遣して何らかの方法でそれを手に入れるつもりである。」と書いている。
これは略奪に他ならない。
つまりペリーは最初っからルールを守るつもりなどなかったのである。

さて、ナポレオン戦争後の欧州を再構築したウィーン会議は「会議は踊る」と称されたが日米の外交交渉は会食の応酬で始まった。
幕府は江戸の名店「百川」に2千両の予算で300人前を依頼(1人前約7両)しており1両=4000文、蕎麦1杯16文、蕎麦の現世価格300円とするなら7両は52万5000円となる。
随分と張り込んだものだ。

それではどんな御馳走が出されたのか紹介してみよう。
当時、浦賀奉行所に在勤した川島平蔵が記した嘉永新聞と言う文書に献立が記載されている。
まずは一献とお銚子が出てそれに添えられたのが干肴のスルメと結昆布。
乾き物だけじゃなんだからお猪口に載せたカレイとツマのボウフウ、ワサビも添えられる。
続いて大根と花子巻鯛の吸物、フキノトウとタイラ貝の吸物、鯛ひれの吸物、ハマグリの皿、カマボコや伊達巻の硯蓋(本膳料理の献立)、ヒラメ、メジマグロ、鯛の刺身(本書では差身と書いてある)、肉寄串子と鶏卵葛引のふた煮(どんな料理だ?)、鴨と筍と茗荷の花椀が出された。
ここまでが前座でメインイベントの本膳にはアワビと赤貝のなます、奈良漬、車海老と銀杏の丼、鯛とホウボウと山芋とツクシの鉢物、シメジとゴボウの汁物、豆腐としの巻菜の煮物だ出る。
そして続く二の膳は鯛と海老の焼き物、鯛の塩焼、ヒラメの刺身、甘鯛と昆布の汁物、大カマボコ、吉野魚の吸物だ。
ちょっと省略したがざっとこんな所である。
食べ過ぎじゃないかって?
いやいや、品数が多いだけでどれも「ほんのひとくち」だったろうよ。

それにしても・・・
当時の御馳走ってのは吸物と汁物のオンパレードで動物性蛋白質は鯛ばかりなんだね。
僕としてもちょっとビックリだ。
この御馳走を前にしてヤンキーどもは喜んだかって?
いやいや、少なくともペリーのお気には召さなかったようだ。

前述の「ペリー日本遠征日記」397頁で彼は
「信じられないほど貧弱な物−僅かの小魚、若干の野菜、米及び大豆−であってよく働くアメリカ人を生かしておくにはとても充分と言える代物ではない。」と述べている。
363頁でも日本料理に対し
「表向きの見栄えやけばけばしさにどんなにお金をかけようとも(中略)彼らの台所には別に素晴らしい物は何もないのである。」と書いており
「正餐の貧弱さにについては陳謝の言葉が述べられその理由が主として神奈川では最上の物を入手するのが困難とされていた事は事実である。しかしこの言葉は軽薄な口実に過ぎなかった。」とも書いている。

何を言ってるのやら・・・
日本ではね、御馳走でも表面上は「つまらぬ物ですが。」って言うのだ。
言ってる事を額面通りに取るんじゃないよ。
日本じゃ「お前らの為に素晴らしい御馳走を用意したぞ、有り難がって喰うが良い。ガハハ!」なんて言うヤツはいないんだ。
口に出してる事と実際が違うからっていちいち他人を嘘つき呼ばわりするもんじゃない。
こちとら強引で口汚く罵り合う新世界の方々と違う謙譲の世界の住人なんだから。
そしてこの物知らずは
「ポーハタン号艦上で私が理事官達(奉行の事)と彼等の随員達数人に出した正餐は彼等のそれの20倍はあったであろう。」とも書いてる。
物量かい?
肉の重さが全てかい?
さすが○○人らしいや。

365頁でもペリーは
「私は彼等の魚入りスープのあてがい分と比べてアメリカ側の親切なもてなしにつき何らかの印象を与えたいと願ってこの多人数からなる一行に対して極めて豊富に振る舞うのに労を惜しまなかった。」
「私のパリ生まれのコック長は一週間、夜も昼も苦労してニューヨークのデルモニコ(レストランチェーン経営者)が見たら流石に立派だと言っただろうような様々の装飾を凝らした料理を作り上げた。」
と書いているがいやはや、なんたる俗っぽさ・・・
おまえは「おそ松君」に登場するイヤミか?
「私はもし交渉が有利な方向に転じたらいつでもこの正餐を出すつもりでいたのであり、そしてそれ故、牛1頭、羊1頭、家禽数羽を生きたままとって置いた。」
「これらの肉がハム、タン、多くの塩漬けの魚、野菜、果実と共に盛りだくさんの御馳走として出た。」だそうだ。
食べ慣れない四つ足の肉を食わされた方々には同情を禁じ得ないよ。

更に日米の習慣の違いは食文化にとどまらず贈答品でも齟齬を生じた。
374頁で彼は日本から贈られた多数の美術品と骨董品及び絹織物に対し
「彼等の贈り物はほとんど価値の無い物であった。」と書いており368頁でも
「これらの贈り物は日本の産物である漆器、絹織物、その他の品々であまり大した価値のある物ではなかった。」と書いている。
それでは彼等は日本側に何を贈ったのであろうか?

米国から老中への贈答品は洋書1、ウィスキー10ガロン、石版画1、柱時計1、拳銃1、ライフル1,剣1,香水12本と書いてある。
また巻末では将軍にライフル5、マスケット銃3、カービン銃1、拳銃20、ウィスキー31.5ガロン、儒学者の林復斎と老中首座の阿部正弘にはライフル1、拳銃1、ウィスキー20ガロン、他の老中5名には各ライフル1、拳銃1、ウィスキー10ガロン、接待役だった北町奉行の井戸対馬守、浦賀奉行の伊沢美作守、目付の鵜殿鳩翁にはライフル1、拳銃1、ウィスキー5ガロン、儒学者の松崎柳浪には拳銃6、ウィスキー5ガロンが贈られたらしい。
こうして拳銃36、ライフル15、マスケット銃3、カービン銃1が日本に渡った。
これらのうち拳銃1丁をどうした経緯か攘夷派の水戸藩が入手してコピー生産し、そのうちの5丁が後に桜田門外の変で使用され井伊大老は絶命するに至った。
いやはや、人間の運命とは判らない物である。
と、まあそれはさておき「高貴な人間に贈るのは美術品」と考えた日本側に対し米国は「役に立つのは銃器と酒」と考えた様だ。
武器を自慢する野蛮人に美術館を見せたって喜ばないのも道理である。

欧米人の彼は東洋人の中でも随分と日本人を嫌っていたがその原因はどこら辺にあったのだろうか?
これは僕の想像に過ぎないのだが「チョンマゲ」にあったのかも知れない。
アメリカにはモヒカン族と言うヒャッハーな連中がいて頭頂部にだけ髪を生やしており多くの白人から忌み嫌われ恐れられていた。
日本のチョンマゲもモヒカン刈に結構、似ている。
当然、モヒカン族の顔はアジア人だしね。
まあ、良くて野蛮人、悪けりゃ猿ぐらいとしか見てなかったんだろう。
だから354頁では日本人女性が醜く米国人女性が美しい事を一所懸命に喧伝している。
ちなみに彼が「ペリー島」と命名した島の日本名は「猿島」である。
きっとあの世でさぞ、がっかりしているであろう。 

[4113] EMP爆弾(その21) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/08(Wed) 10:11
でもまあ、これらは戦術核の話だ。
今回は戦略核がメインテーマだったので地対空ミサイルなど一部の戦術核しか扱わなかったが対潜兵器や対艦兵器、陸戦兵器の分野で多数の戦術核が存在する。
それどころか、1960年代前半頃の核兵器は殆どが戦術核だったと言っても過言ではない。
この時期の米国核弾頭保有数は約27000発だが戦略核7000発に対し戦術核は約20000発で約70%以上にものぼった。
だが戦術核の数については殆ど注意が払われなかった。
そこで1972年に締結された第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)で戦術核は対象外(そりゃそうだ看板に戦略って書いてあるもん)となり米国は大陸間弾道弾1000基と潜水艦弾道弾710基、ソ連は大陸間弾道弾1410基と潜水艦弾道弾950基の現状維持で増加は禁止となった。
ここで問題なのはミサイル数が禁止されただけでミサイルのサイズや弾頭数は制限外だった事である。
よってMIRV化が進んで核弾頭数が増えミサイルもどんどん大きくなった。
SALT1が締結されたにも関わらず核弾頭数は増え続けたのである。

これでは人類滅亡のチキンレースとなってしまう。
更に1986年にチェルノブイリ事故が発生して核エネルギー管理体制の不備が問われはじめたが1990年の戦略核弾頭数は米国10271発、ソ連10975発となり軍事予算はどんどん膨れ上がった。
これに対応し1991年7月に第一次戦略兵器削減条約(START1)が締結されたが効を奏さず同年末にソ連は崩壊してしまう。

START1によって米ソは戦略核弾頭数6000以下(大陸間弾道弾はこのうち4900以下)、戦略核投射投射手段1600基以下の制限が課された。
ちなみに戦略核投射投射手段とは大陸間弾道弾と潜水艦弾道弾及び戦略爆撃機の合計数である。
かくして1999年に米の核弾頭保有数12000発となった。
なお、ソ連崩壊によって両陣営の武力対決危機が回避されたので戦術核の必要性は大きく低下し1992年には約5000発、1995年以降は約3000発にまで減少(誘導兵器の進歩も大きな影響を与えた)した。
つまり戦略核と戦術核の保有比率は完全に逆転したのである。
更に2002年にはモスクワ条約が締結された。
この制限内容は戦略核の核弾頭配備数を2012年までに1700〜2200発に減らす事で配備されていない予備や備蓄の核弾頭は制限外とされた。
つまりMIRVの核弾頭数を減らして予備や備蓄としたのである。
2003年に米国が保有していた戦略核弾頭数は5968発であった。

これが2009年になると米国が保有している核弾頭数は9400発、配備されている戦略核は2126発、ロシアは核弾頭数約13000発で配備されている戦略核2668発、全世界の核弾頭総数約23000発となる。
ついで2011年、新戦略兵器削減条約(新START)が締結された。
この条約では7年以内に戦略核弾頭の配備数を1550発まで削減せねばならなかったが備蓄は無制限であり投射手段の制限が多いのが特徴であった。

世界国勢図絵2012/2013の資料1によるとロシアが2012年に配備した戦略核1800発、核弾頭総計10000発に対し米国が配備した戦略核1950発、核弾頭総計8000発(うち戦術核200発)で世界全体では戦略核の配備4200発、核弾頭総計19000発となっている。
資料2ではロシアが2012年に配備した戦略核の弾頭数を2435発、米国を1952発としており数値に差が見られる。
世界国勢図絵2017/2018ではロシアが2017年に配備した戦略核を1950発、核弾頭総計7000発としており米国が配備した戦略核を1650発、核弾頭総計6800発(うち戦術核150発)、世界全体での戦略核が配備4150発、核弾頭総計14930発としている。

要約すると1986年に約70000発だった世界全体の核弾頭は2009年 に1/3の約23000発、2012年には27%の約19000発となり今年は1/5に近い14930発となった訳だ。
数値だけを見ると世界は随分と平和で良くなった様に見える。
本当にそうだろうか?
僕は世界の核弾頭総数がピークに達した頃に現代戦のシミュレーションゲームをデザインしたがその時代の方が遥かに核戦争が勃発する危機は低かった。
大事なのは数では無い。
確かに数が増えれば事故や偶発的危険性は増えるであろう。
だが重要なのは数値ではなく「どの国家が何の目的で保有しているか」である。
独裁体制国家が他国への恫喝を目的に保有しているとするならばこれを看過する訳にはいかない。
戦後、連綿と続いてきた核戦略とは違った次元の問題に我々は今、直面している。
もはや過去のセオリーは通用しないであろう。
よってこれまでの経緯をもう一度振り返りその上で「今、我々は何を為すべきか?」が問われねばならないのだ。  (了) 

[4112] EMP爆弾(その20) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/06(Mon) 19:17
まあこうして、PAC3やらTHAADやらGBIやらSM3を統合しTMDだかNMDだかBMDだかGMDだか、単にMDだか様々な防衛計画が策定され試行錯誤し現在に至る。
正直言って「なんだかよく判らない事」も多いが、まあ現在進行中の技術革新ってのは得てしてしてそんな物なのだろう。
だって、あけすけに発表出来ない事も多いじゃない。
大事な国民や人民の生命、財産を預かってるんだし自分の政権支持率が下がるのも困るしね。

EMPについて要約すると人類が核の脅威に直面した1945年以降、1950年代末頃から1970年代中盤まで「核の脅威を排除する為に核(ABM)を使用する」と言う軍事思想が米ソ両陣営首脳部を支配した。
だが多くの高高度核実験でEMPの存在が判明し米国はABMの開発を放棄、ソ連は継続してふたつの道に分かれた。
新たな道へ進んだ米国は衛星とレーザー及びビーム兵器を主軸としたSDIで回り道をした末、炸裂しない通常弾頭の直撃で弾道弾を迎撃する事にした。
高速で飛翔する物体同士が直撃するには高精度な位置及び速度変換をせねばならず膨大な量の計算を瞬時に成し遂げる電子計算機と情報通信の飛躍的技術革新が必要とする。

これが・・・
できちゃったんだよね。
昔の電話とz80パソコンを思い出して頂きたい。
それと今の動画をリアルで通信できる最新スマホ(もう電話とコンピューターは一体化しちゃったからパソコンの方は比較しなくていいや)を比べるのだ。
雲泥の差でしょ。
卵が先か鶏が先かを問うてもしょうがないが、科学技術と軍事政策の進歩は表裏一体なのである。
果たしてEMPは大きな脅威なのか、そうでもないのか?
米国とロシア(ソ連)で見解が異なるのは今まで書いてきた通りだ。
だから核の脅威とEMPの脅威の内、ロシアは前者は重視し米国は後者を重視して来た。
どちらが正しいのか、それは判らない。
だって環境が違うからね。

1945年以降、人類は核の脅威に晒され続けてきた。
最初は米国のみの専有物だった核兵器は次第に安保理の常任力国である戦勝5カ国全てに行き渡った。
この時点で核は大国のステータスシンボルだったと言えよう。
ステータスシンボルなんだから実用品ではなく床の間に飾っておく為の物である。
だが次に紛争対峙国のインドとパキスタンやら、中東の火種イスラエルやら、第三世界の問題児たる南ア(ここは放棄したが)やら変な髪型の肥満児が支配する北鮮やら「どうにも怪しげな国々」が加わってきた。
彼等にとって核は「チンピラのナイフ」であり実用品だ。
チンピラはすぐに喧嘩するし負けそうになったら本当に刺すよ。
話し合いで解決しようなんて思わない。
まあ、北鮮以外は「割とまともな国家指導者」に恵まれているから今は安心だけどね。
でもいつ何時、とんでもない国家指導者に代わるか知れないのだ。
だから国家指導者の髪型が変になってきたら御用心、御用心。

さて、それでは最後に核弾頭数の推移を書いて幕を引く事にしよう。
1944年以前には存在しなかった核弾頭のピークは1986年で全世界の合計約70000発である。
ただし米国のピークは1966年の32000発、ソ連は1986年の45000発だった。
なぜ、20年もの開きがあるのかと言うと米国はいちはやく電子計算機を実用化して誘導兵器を自家薬籠中の物とし「力押しによる戦術核」とオサラバしたからである。

電子計算機の進歩が核を不要としたのはABMに限らない。
米国がアスロックの弾頭を核からホーミング魚雷に代えたのにソ連では対潜ミサイルの弾頭に核を使用し続けモスクワ型ヘリ空母はおろかキエフ型空母にすらRPK1(西側呼称FRAS1、10Kt)を装備した。
クレスタ2型巡洋艦やカーラ型巡洋艦が装備したRPK3(西側呼称SSN14サイレックス)だって弾頭は5Ktの核魚雷もしくは通常弾頭の誘導魚雷だ。
誘導魚雷がちゃんと当たるんなら核なんか積まないであろう。
現在はロシア海軍も誘導魚雷だけらしいのでだいぶ進歩したんだろうね。    (続く) 

[4111] EMP爆弾(その19) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/05(Sun) 11:31
射程が短いのも心配である。
よってもっと遠方、すなわち高高度で迎撃するのがTHAAD(0.6t、200km、高度145km)だ。
大きさもPAC3よりはずっと重い。
これら直撃ミサイルが果たして本当に当たるかどうか、鍵を握るのはCPUの処理速度である。
かつては命中精度の低さを補う為に大きな破壊力を求め核弾頭が装備された。
だがコンピュータは日進月歩で開発が進み以前は不可能と考えられた弾頭の直撃も不可能では無くなった。

こうして米国はクリントン政権期にTMD(戦域ミサイル防衛)でTHAADとPAC3の実戦配備を実現化したのである。
更にNMD(米本土ミサイル防衛もしくは国家ミサイル防衛)でより遠方での弾道弾迎撃が求められGBI(12.7t、射程不明、速度不明、高度不明)が開発された。
弾道弾は発射後、上昇して速度と高度を増し目標に向かって放物線を描きながら飛行した後、徐々に下降して着弾する。
前述のTHAADとPAC3は下降して着弾するまでの終末期に対応した兵器だ。
それに対しGBIは中間段階での迎撃を目的としている。
よって高度が高く射程(数値は未発表だけどね)も遥かに長い。
GBIは1997年に発射テストを開始しアラスカや西海岸などに配備されているが現在もテスト及び開発は進行中だそうだ。

ちなみにアラスカに配備されている理由はロシアの11個大陸間弾道弾師団の内、モスクワに近いウラジーミル周辺諸基地の5個師団を除くカザフ国境のオレンブルグ周辺諸基地(ドムバロフスキー、ニジニ・タギル)とシベリアのオムスク周辺諸基地(バルナウル、ノボシビルスク、イルクーツク、ウジュル)の6個師団が米国西岸を攻撃するとアラスカ上空を通過するからである。
それでは東岸を攻撃した場合はどうなるのか?
ウラジーミル周辺諸基地が米国を攻撃した場合は?
潜水艦弾道弾や中国(ここにも洛陽と懐化にちょびっとだけ大陸間弾道弾があり米国に照準を合わせている)の大陸間弾道弾は?

さいわい、これらの脅威の多くは海を越えて飛来する。
よって米国は海軍兵力で対処する事にした。
すなわちイージス艦が装備する艦対空のSM2スタンダード(0.7t、170km、M3.5、高度24km)から直撃用のSM3が開発されたのである。
SM3はSM2(MR)に比べブロック1Aでブースターが付いて全長が長くなって性能が向上しブロック2Aではブースターが太くなって性能が更に上がった。
石川氏は射程500km、高度160km、速度M8としており江畑氏は1Aを射程1200km、高度120kmとしている。
ウィキだと1Aが射程700km、高度150〜500kmでM10、2Aだと射程2500kmでM15だ。
どれが本当なのか、どれも本当では無いのか、開発途上兵器なのでちょっと判らぬが1Aで近距離弾道弾、1Bだと中距離弾道弾に対処でき2Aは大陸間弾道弾に限定的対処(う〜ん、悩ましい言い方だ)できるらしい。
まあ、それはさておきSM3は、陸上用にもイージス・アショアとして配備される事になったそうだ。
多分、それだけ予想以上に高性能だったんだろう。

ちなみに米国のミサイル防衛局はブロック1Aの価格を約1000万ドル、ブロック1Bで約1400万ドル、ブロック2Aで約2200万ドルと考えている。
日本も2Aからは開発に参加し予算の半分弱を負担しているらしい。
確かに安くはない。
だが国民の生命と財産と自由を守る大事な兵器である。
投資するだけの値打ちはあろう。
それに比べ日本のどこかの左巻き新聞は総火演の時みたいに「煙と消えた2200万ドル」なんて言うのだろうか・・・

さて、カナダを越えて彼方から飛来するのはどうするかって?
どうすんだろうね。
海を殆ど通過(通過しても北極海じゃあね)しないでカナダを通過するコースで来たらさぞ、困るだろう。
昔はCIM10(ボマーク)をカナダに配備したりしてたのになあ。    (続く) 

[4110] EMP爆弾(その18) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/03(Fri) 13:17
更にソ連はEMPに関し米国とは違ったアプローチを試みた。
「EMPが発生するからABMを廃止する」のではなく、「ABMによって発生するEMPに如何に対処するか」を模索したのである。
そもそも高高度用のABMは空気が存在しない大気圏外での弾道弾迎撃に使用するので爆風や熱線ではなく放射線で弾道弾を破壊する兵器であった。
よってその放射線量は非常に大きく防護には前記の様に真空管などが使用される。
かつてベレンコ中尉が日本へ亡命した時、MiG25に真空管が使用されているのを見て「ソ連はこんなに遅れているのか!」と多くの軍事関係者がビックリしたらしいが実はEMP対策だったとも言われている。
モスクワ近郊のABM基地はA350がA30(西側呼称SH08ガゼル、8t、10Kt、80km、M17、高度40km)やA50(西側呼称SH11ゴルゴン、33t、破壊力不明、350km、速度不明、高度不明)に代わった現在でも存在しているのだから相当のEMP対策が講じられていると思われる。

かくして米国が手を引いた以上、ABM開発はソ連の独壇場となった。
だがABMはソ連の国家防衛に於ける根幹を為す防衛システムなのでロシア共和国になった今でもその全容は明らかではない。
ABMの開発経緯が全て判明すれば「現在のABMが何をどれだけできるか?」が米国の知る所となり外交交渉でイニシアティブを失うからである。
米国が知ったとしても「よし、今なら勝てるぞ」と米大統領が核戦争を始めたりはしないだろうがロシアにとって面白い成り行きにはならない。
よってこれからも全容解明は期待薄と考えられよう。

さて、米国はABMを放棄したが「弾道弾からの防衛」を諦めた訳ではない。
核弾頭を使用せずEMP抜きで弾道弾を防ぐ技術を模索したのである。
そして米国は衛星とレーザー及びビーム兵器によるSDI(戦略防衛構想:通称スターウォーズ計画)を立案した。
だがSDIは実現性が乏しく予算ばかりが高騰する評判倒れであった。
おまけに衛星技術の革新が必要なのに肝心のスペースシャトルは1986年の事故で2年間休止するわ、1991年にソ連が崩壊して戦略的意義を見失うわ、で結局の所、殆ど成果を挙げないまま雲散霧消した。

だが、ソ連がロシア共和国に代わっても米国への弾道弾の脅威は消えはしない。
そこで次には通常弾頭での弾道弾迎撃に焦点が移った。
とは言ってもいきなり大陸間弾道弾を対象とするのはハードルが高すぎる。
よって通常弾頭の地対空ミサイルだったMIM104パトリオットPAC1(0.7t、70km、M3)を改良し、弾道弾を迎撃可能なPAC2(0.9t、航空機70km、弾道弾20km、M5)が開発された。
ただしPAC2は元来、航空機に対処する目的で開発された兵器だったので近接信管により至近距離で炸裂し弾片効果で目標を撃破する。
しかしこれではスカッドなど小型弾道弾しか撃破できず撃破率も非常に低かった。

そこで目標へ直撃するERINT(0.3t、20km、M5、1992年初飛行)が新たにPAC3として採用された。
特徴となるのは大変、小型な事である。
弾片よりは重いが弾頭重量1tのスカッドDくらいならともかく、弾頭重量重量9t近いロシアの重ICBMには「だいじょうぶかなあ?」と心配になる。
まあ、信ずるより他にしょうがないが。   (続く) 

[4109] 日本の選挙や中国の党大会も終わったしそろそろかな 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/02(Thu) 10:30
なんでも今、使えるのはB61しかないそうだ。
だったらミシガンの出番はないな。
やっぱりスーパーホーネットがアレをやるのかな。
アレをやる前に変な髪型の肥満児がココロを入れ替えればいいんだけど・・・
多分、無理だな。 

[4108] EMP爆弾(その17) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/11/01(Wed) 17:59
この様に米国はABMの開発を諦めたがソ連は違っており以降も開発を進めた。
その理由は前述の如く「理解の差」による部分が多いと思われるが「環境の差」による部分も無視できない。
さて、どの様な差があったのか説明していこう。

まず差のひとつとして政治形態の差が挙げられる。
御存知の様に米国の指導者は大統領で選挙によって選ばれる。
ソ連の方は共産党書記長で権力闘争もしくは「密室の談合」によって決定される。
随分と大きな差だ。
ABMを使用すればEMPで生活水準が低下するのは米ソとも同じ。
ただし政権の基盤に民意を必要としないのならどうと言う事はない。
人民に「我慢しろ。」と言えば良いのだから。
だが選挙で国家指導者を選出するとなると生活水準の低下は容認できないのだ。
よってソ連で採用できたABMを主軸とした防衛戦略は米国だと採用できなかったと考えられる。

次に「どれだけ生活水準が下がるか?」にも大きな差があった。
1970年代の米国は最先端の先進国で国民はその恩恵を大いに享受していた。
一方、ソ連の科学技術は軍事こそ最先端であったものの1959年7月にフルシチョフとニクソンが対決した「キッチン討論」で明らかな様に人民の生活水準は低く電化製品の普及率は米国の遥か下をはいずっていた。
それでも「スターリン時代よりはマシ」だったので大きな不満とはならなかった。
高度に電化されているから19世紀に戻ったら大混乱となるので「最初っから後進的な生活水準」だったら19世紀にもどってもさして困らない。
つまり「存在しない高度な電化製品」はEMPでも壊れないのだ。
これはソ連にとって大きな利点であった。
ちなみにキッチン討論の時、米国は270万杯のペプシコーラをモスクワ市民に振る舞ったそうだがニクソンはペプシの元顧問弁護士だったそうだ。

もうひとつ、ソ連人民特有の利点としてダーチャの存在がある。
ソ連(もしくはロシア)と言う国は政情不安定でいつ飢饉や政変、戦争、革命が起こるか判らないし都市住民が食糧不足に直面する危機は常に存在する。
よって都市住民は郊外に小規模な菜園(600平方m)と住居を所有し春から秋夏の週末だけ住む。
これがダーチャだ。
別荘と訳される場合もあるが大半はそんなに立派な物じゃない。
まあ、都市の住民全てが屯田兵や屯田工場労働者、屯田営業マン、屯田商人、屯田官僚、屯田芸術家にでもなったと思えば良い。
つまり農民を除くほぼ全ロシア人が兼業農家なのである。
菜園の規模は小さく、作物を売って儲ける程の量は育てられないがイザと言う時、家族が飢えずに済むくらいは収穫できる。
折角の夏の休暇をバカンスに行かず畑仕事に費やすのだから偉いものだ。
日本のロハスな人とちょっと似ているが農薬使用の是非が大きく異なる。
ロシア人は害虫に野菜を喰わせる気など毛頭ないのだ。

ダーチャで収穫された野菜はキャベツやキュウリなら酢漬、豆なら干して乾燥させ、ジャガイモやニンジンなら袋に詰めて翌年まで保存し適宜、食べる。
一説によるとロシアで栽培されるジャガイモの9割がダーチャで取れるそうだ。
勿論、秋になるまでの間、緑黄野菜は新鮮なまま食べる。
基本的に穀物は作らない。
だってそこまでやったら半農じゃなくて全農になっちゃうでしょ。
かつてソ連が崩壊しロシア共和国になった時、物凄いインフレとなって大勢の人が困窮し餓死者続出が懸念された。
だが、あにはからんや殆ど餓死者はでなかった。
その謎を解く鍵がダーチャにある。
自分で作物を育てて食えばインフレは関係ないのだ。
つまりソ連(ロシア)は農産物と食料に関する限り貨幣経済以前の状態にあるとすら言える。

なお、プーチンはアル中の蔓延を断つ為、極端なウォッカの値上げを断行した。
当然、ウォッカの販売量は激減したがアル中は全然、減らなかった。
ロシア人はダーチャで酒を自製(つまり密造)したのである。
この酒をサマゴンと言う。
ダーチャがある限りロシア人はちょっとやそこらではへこたれない。
ハラショー!            (続く) 

[4107] EMP爆弾(その16) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/31(Tue) 12:46
興味深いのはここからである。
1965年11月に初飛行したスプリントは1972年に完成した。
一方、スパルタンの完成は1975年まで遅れたが同年10月1日に低空用のスプリント70基、高空用のスパルタン30基で米国のABM基地が完成する。
ところがその翌日、突如として米国議会がABM基地の閉鎖を決定したのである。
よって米国のABM基地が活動したのは1975年10月から1976年前半まで僅か数ヶ月に過ぎない。
なぜこんな事になったのであろうか?

その理由はABMが高高度で核爆発した際に生ずるEMP(電磁パルス)が非常に大きく「ABMは国土防衛兵器足り得ない」と判断されたからである。
EMPは大規模停電を発生させるだけでなく半導体及び電子回路に重大な損傷を与え電子機器を破壊する。
つまり携帯電話をはじめとする大部分の通信機器が使用不能となりエレベーターは止まったままとなり冷蔵庫は壊れ乗用車は動かなくなる。
これを防ぐには金属箔によるケーブルのシールドや真空管の採用など幾つかの方法があるが経費がかかり不効率となるので軍事施設や政府関連施設に限られる。
だから都市の上空で高高度核爆発が発生すると熱線や爆風の被害が生じなくとも都市には上記の如きありさまとなる。
「壊れた電気製品や電子機器はまた生産すれば良い」とする考え方もあるが電気製品工場やインフラも破壊されたらそうとも限るまい。
ある学者は「石器時代に戻る」と言い別の学者は「19世紀に戻る」と言う。
21世紀からいきなり19世紀に戻るのだから大混乱となり飢饉や暴動、伝染病が蔓延し、ある学者は「米国では人口の9割が1年以内に死亡する」と言う。
まあ、米国全土で電子機器が使用不能となったら相当に被害が出るだろう。
でも地域が小規模なら救済できるかも知れない。

そもそも事の起こりはABMの効果を検証する為に1958年8月、ジョンストン島で実施されたティーク実験(1日、高度75km)とオレンジ実験(12日、高度42km)で周囲一帯に大規模な停電と電波障害が発生した事だった。
当時、米国は太平洋各地で多数の核実験(一連の核実験はハードタック作戦と称する)を行っていたがこの2回では3.8Mtの核弾頭を使用している。
ついで8月27日から9月6日にかけ今度は大西洋で核実験を実施した。
この核実験はアーガス作戦と呼ばれ核弾頭は1.7Ktと小さかったものの高度は200〜539kmと高かった。
更に1962年7月9日にジョンストン島で実施されたフィッシュボール作戦のスターフィッシュ・プライム実験(高度400km)では1.4Mtの核弾頭が使用されたがEMPで多数の衛星が破壊され1400km離れたハワイでも大規模な通信障害が発生した。
これらにより米国は徐々にEMPの危険性を把握していったのである。

ソ連はどうであったろうか?
当然、ソ連だって1957〜61年にかけてカプースチン・ヤールで核の高高度爆発実験を行い1962年には200Ktの核弾頭を使用して3回に渡り高度59〜290kmで核実験をしている。
つまりソ連も相応にEMPの危険性は理解していると考えられよう。
だが米ソ両陣営が同一の実験をした訳ではなく相互に実験結果を提供しあった訳では無いのでEMPに対する理解は米ソで当然、大きな差がある。
情報の提供どころか核実験の資料は国家機密なのでアーガス作戦の結果が文書で公表されたのは1982年になってからであった。       (続く) 

[4106] EMP爆弾(その15) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/30(Mon) 08:38
ABM(弾道弾迎撃ミサイル)の理屈は簡単である。
飛来する敵の弾道弾の飛翔経路前方にABMを発射して核爆発を起こし物理的に破壊するだけだ。
ただしそれには敵の弾道弾が発射されたらいち早く探知し経路を算定して迎撃に移らなければならない。
もたもたしてると自国に敵の弾道弾が到達してしまう。
精度の高い早期警戒衛星と演算能力の高い電子計算機、大規模なOTHレーダー網があって初めてABMは実用可能となる。

第二次世界大戦で英国はドイツからのミサイル攻撃に晒された。
この時、巡航ミサイルのV1は戦闘機や対空砲の迎撃で多くを撃破できたが弾道弾のV2には有効な迎撃手段がなく発射基地を撃滅するしか対処できなかった。
以降、米英は弾道弾を撃破する手段について模索し続ける。
その一環として進められたのが「ウィザード計画」である。
だが米国としては大陸間弾道弾が登場するまでは「対岸の火事」でもあった。
ソ連が1957年に初の大陸間弾道弾R7を打ち上げるまでは・・・

1955年、既に米国は弾道弾を迎撃する目的でナイキ2の開発に着手しており1956年にはナイキ・ゼウスと改名された。
このミサイルは対航空機用であったMIM14(ナイキ・ハーキュリーズ)を拡大改良しただけに過ぎない。
当時はまだ弾道弾の脅威は「対岸の火事」だったので開発ペースは遅々としていたのである。
当初、開発されたゼウス(重量5t、破壊力20Kt、射程320km、速力M4)は1959年に初飛行を予定していたがMIM14の射程が延伸しただけだったので1958年にはより大型で破壊力の大きいゼウスB(10.3t、400Kt、400km、M4)に移行した。
これに伴い、それまで開発されていたタイプはゼウスAと改称されウィザード計画も中止となり新計画の策定へと進んでいった。

1961年5月にゼウスBが初飛行し以降、試作機のテストが繰り返された。
前述した様に弾道弾迎撃ミサイルの運用には衛星と電子計算機、レーダー網の連携が欠かせない。
よってミサイル単体のテストに続き1964年にはこれらと短距離迎撃ミサイルのスプリント(3.5t、数Kt、40km、M10)を加えたナイキX計画のが発表された。

しかし1966年に入り米国のABM開発を揺るがす重大事件が勃発した。
既にソ連がABMの開発を終了し実戦配備している事が発覚し11月にはマクナマラ国防長官がこれを記者会見で発表したのである。
ソ連のABM開発は1956年に「Aシステム」として始まりミサイルは小型のV100(8t)を経て1958年にはより大型で実戦兵器となるA350(西側呼称ABM1ガロッシュ、33t、3Mt、350km、M4)を使用する「A35システム」へと移行した。
A35システムは1962年に初発射を実施し以後、数多くのテストを重ね191967年までにモスクワを取り巻く諸地域への配備された。
ただしこの時点ではまだ不備が多かったらしくMIRVへも対応できていない。

だが不備が多かったにしてもソ連がABM開発で先行した事は事実であり米国に大きな衝撃を与えた。
よって1967年9月、ゼウスBをより強力な拡大型のスパルタン(13.1t、5Mt、740km、M4)に代えたセンチネル計画が発表された。
1968年3月に初飛行したスパルタンの特徴は射程が大幅に延伸した事と破壊力が極端に大きくなった事、高度が280kmから560kmに伸びた事である。
なお、制式名はゼウスからスパルタンまで一貫してLIM49であった。

1969年3月、都市防空に重点を置いた高額なセンチネル計画(スパルタン480基、スプリント192基)から戦略爆撃機基地及び大陸間弾道弾基地の防空に重点を置いた小規模なセーフガード計画に変更される。
以降、米ソ両陣営はABMの充実化に邁進したが二つの障壁が行く手を阻んだ。
そのひとつはこれまで平和が保持されてきた要因である「核の均衡」が崩れる事でもうひとつは巨額な予算による国家経済の疲弊であった。

二人の男が互いの胸に剣を突きつけ睨み合っている。
だがどちらかの男が楯を持ったらどうであろう。
楯を持っていない男は瞬くうちに殺されてしまう。
だが双方が楯を持っていたら?
楯の厚さが勝敗を決するだろう。
だから双方とも楯の厚さは相手に教えない。
楯の厚さには随分と差があり見た目では判らないのだ。
ひょっとしたら頑丈そうに見えて実は薄いのかも知れない。
双方が楯を持っていても自分のが頑丈で相手のが薄かったら勝てるだろう。

米ソのABM開発はこの楯と同じだ。
相手に先駆け新技術が実用化した時、悪魔が囁く。
「やっておしまい、今なら勝てるよ。」
敵が新技術の開発に着手したと察知した時も悪魔がささやく。
「実用化される前にやっておしまい、やるのは今しかないよ。」
悪魔の囁きは疑心暗鬼を呼び核戦争へ向かう列車は運行速度を加速する。

とまあ、こうした次第でABMの存在は一旦は均衡した核戦争の危機を倍加した。
ABMは敵の弾道弾を防ぐ防御兵器で大量殺傷を目的とした兵器ではない。
だから一見、平和的かつ人道的だが睨み合った二人の剣士に楯を渡す事は均衡を崩し戦闘開始の合図になるのである。
おまけにこの楯は滅法、値段が高かった。
運用するには多数の衛星や大規模なOTHレーダー、通信システム、電子計算機を必要としたのだから。
かくして1972年にABM条約が締結され両陣営のABMは双方2基地で200基(1974年の改訂で1基地100基)に制限されたのである。    (続く) 

[4105] EMP爆弾(その14) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/25(Wed) 10:00
一応、これで戦略爆撃機と潜水艦弾道弾、大陸間弾道弾のトライアド(三本柱)及び核兵器の破壊力についての個別解説を終える。
それでは次にトライアドについての総合解説を始めよう。
まず核兵器の運用方法だが前述した様に最初は戦略爆撃機から始まった。
第二次世界大戦終結時に最大の空軍を保有していたのは米国だった。
在日米軍基地と在欧米軍基地の存在によって地勢的にも有利であった。
その後、潜水艦弾道弾と大陸間弾道弾が登場してトライアドが確立する。

潜水艦弾道弾(SLBM)にせよ、空対艦ミサイル(ASM)にせよ、大陸間弾道弾(ICBM)にせよ、弾道弾迎撃ミサイル(ABM)にせよ、その開発はソ連が先行し米国は後塵を拝した。
何故であろうか?
ソ連の科学技術が米国に優っていたからであろうか?
そんな事はない。
その理由は「必要は発明の母である」からで「持たざる者こそ知恵に頼る」からなのだ。
絶大な洋上制空権を確保しているのにASMを開発する必要があろうか?
戦略爆撃機の数的優勢と同盟諸国の前進基地を確保しているのにICBMやSLBMに頼る必要があろうか?
もしも米国が戦略爆撃機よりICBMやSLBMを選択するとすれば経済性も含めた「何かしらの理由」が存在しなければならないであろう。
まず最初に「何かしらの理由」として面子があった。

確かに米国は大陸間弾道弾の開発でソ連に先を越されたが、米国とてかなり前から大陸間弾道弾の開発に着手しておりソ連のR7が初飛行してから幾ばくも時が過ぎぬうちにアトラスの初飛行を実施している。
つまり技術的にはたいして差はなかったのだ。
そして大陸間弾道弾の開発は有人ロケット及び宇宙開発に直結する。
こうなると国家的事業であり相手に背は向けられなかった。

だが潜水艦弾道弾についてはソ連に対し約5年の遅れが生じた。
これは空母と艦載巡航ミサイルに対する米海軍の依存が大きな要因であろう。
この遅れを挽回した大きな技術革新は固形燃料の採用であり大陸間弾道弾に於いても固形燃料の経済性と信頼性がソ連の液体燃料を凌駕した。
加えて米ソ両陣営が地対空ミサイルを実用化したので戦略爆撃機が逐次、陳腐化していったのも大陸間弾道弾と潜水艦弾道弾の開発競争に拍車をかけた。
前述した様にトライアドは各々、長所と短所があり補いあって成立する。

まず戦略爆撃機だが長所は運用の柔軟性と戦力的生残性が高い事が挙げられ短所としては人的生残性が低く危機管理が緩い点が挙げられる。
運用の柔軟性とは核攻撃以外の任務にも充当できる事や目標の変更にすぐ対処できる事である。
戦力的生残性は頻繁に基地を変更して相手に存在位置を秘匿する事で高められる。
人的生残性が低いのは人間が搭乗する以上、仕方がない事であり、ヒューマンエラーが介在するので危機管理も緩くならざるを得なかった。
「博士の異常な愛情」は「有り得そうな話」のひとつだったのである。

大陸間弾道弾の長所は信頼性、即応性、命中率、危機管理に優れ射程が長い事であり短所は戦力的生残性が低く高価な点にあった。
価格については初期にソ連が開発したR7や重ICBMは国家経済を圧迫するほど高価であり低廉な固形燃料を実用化した米国と大きな差がついた。
戦略的生残性が低い理由は発射台がサイロに固定されているからで相互の大陸間弾道弾はまず最初に相手の大陸間弾道弾サイロを攻撃するのがセオリーとされた。
国家が核攻撃を意志決定した場合、確実に発射でき核攻撃の中止が決定されたなら確実に中止できるのは大陸間弾道弾だけであった。
命令があればすぐ撃てるのも大陸間弾道弾だけで相手のサイロを確実に破壊出来るほど命中率が高く射程が長いのも利点だった。
ただし相手が先制核攻撃した場合、真っ先に破壊されてしまうのが欠点だった。
サイロ式ではない地上移動式大陸間弾道弾をトンネルの多い地形で運用した場合、戦略的生残性はかなり高くなる。
米国では地上移動式への移行は何度も検討されながら実用化に至らなかったがソ連/ロシアでは実用化の域に達し戦略核兵器の一翼を担っている。

潜水艦弾道弾の特性は大陸間弾道弾の真逆である。
よって命中率が低いので相手のサイロ攻撃には使用できず都市攻撃もしくは戦略爆撃機基地攻撃に使用するのがセオリーとされた。
射程が短いので相手の沿岸にまで進出せねばならないのも欠点であった。
ただし価格面だけは発射母体の原潜建造費を含めると高価で真逆ではなかった。
戦略爆撃機の欠点が「博士の異常な愛情」で表現できるのなら潜水艦弾道弾の欠点は「レッドオクトーバーを追え」で表現できる。
命中率が低いのは潜水艦自体が自己位置の確定が困難だった部分もあり時代が進むにつれ射程、命中率が向上し信頼性、即応性、危機管理を除けば大陸間弾道弾とあまり変わらなくなった。
だとすれば戦力的生残性の高さは大きな利点であり現代の米国では戦略核兵器の主力となっている。

お判り頂けただろうか?
昔、戦略核はトライアドだった。
相互に睨み合う大陸間弾道弾、都市を狙う潜水艦弾道弾、昔は主役だったがどんどん立場が弱くなってゆく戦略爆撃機。
まず最初に戦略爆撃機が表舞台から去り技術革新で潜水艦弾道弾が大陸間弾道弾の役割まで入り込んできた。

核戦争で重要なのは「どちらが先制核攻撃をするか?」と言う問題である。
セオリーでいけば先制側は大陸間弾道弾で相手の大陸間弾道弾を叩き潜水艦弾道弾で相手の都市を叩く。
やられた側は潜水艦弾道弾で相手の都市に報復する。
敵潜水艦の位置を特定するのは困難だから報復を防ぐ手だてはなく先制攻撃してもあまり意味はない。
双方で多くの人が死ぬ。
それは好ましい事ではないからどちらの政治指導部も核戦争を望まない。
よって均衡が保たれてきた。

ある意味、20世紀に於ける大国間の平和は潜水艦弾道弾の報復核攻撃がもたらした産物なのである。
当初はそれでも先制攻撃すれば相手の大陸間弾道弾サイロや戦略爆撃機基地を破壊する事ができた。
だが早期警戒衛星とOTHレーダーの技術革新により大陸間弾道弾で先制攻撃しても相手に探知され着弾前に相手が大陸間弾道弾を発射できる様になってきた。
こうなると向き合った電気椅子に両者が座り双方同時に電流が流れるスイッチを両者が握りしめている状態に等しい。

どうすればこの状態が打破できるか?
この状態を打破する鍵は「敵の弾道弾を破壊する兵器の開発」にある。
こうして開発された最初の兵器が弾道弾迎撃ミサイル(ABM)であった。         (続く) 


[4104] EMP爆弾(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/24(Tue) 18:51
ところで横須賀を参考例にして色々と書いてきたが「阿部は横須賀に飛来する核を50〜100Ktと想定しているのか?」と言うとそんな事はない。
サンプルとしてよく知悉している都市(みんなもイベントや艦船見学とかで来る事もあるでしょ)を例示したまでだ。
なにしろ東洋一の軍事都市だからね。
武山のPAC3に迎撃されるかも知れないしイージス艦がごちゃまんといるからオーバーキルを承知で何発も撃ってくると思うよ。
軍艦ってのは頑丈だから核で沈めようと思ったら相当、破壊力のあるヤツを撃ってくるだろうし。
その昔の冷戦期には多数のソ連製弾道弾が横須賀に照準を合わせてたんだろう。

この様にリアルな話を書いたのは諸兄に核攻撃について理解を深めて頂きたいからである。
「核戦争が始まったら何もかも終わりになるから考えたってしょうがない。」と言う人士もおられるが目標となった都市の住民が必ずしも即死する訳ではない。
20Ktであれば木造家屋の2km以内とビルの0.6km以内はほぼ即死するであろうがそれ以上の距離だと重傷もしくは死亡、軽傷も負わずに済むには4.2km以上、爆心地から離れねばならない。
住民の半数が木造建築に居住していたと想定してみよう。
爆心地から4.2km以内の面積は55.4平方kmでこれを100%とする。
即死するのは2km以内の木造家屋(6.3平方kmで11%)と0.6km以内のビル(0.56平方kmで1%)の合計12%。
ビルでは火傷が1度減少すると仮定しよう。
だとすれば3.2km以遠のビル住民(11.5平方kmで20%)は負傷しないので重傷から軽傷までの負傷者は68%になる。

ウィキによると広島の場合、爆心地から0.5km以内は即死が90%、加えて一週間後までに5%、11月までに4%が死亡し合計98〜99%が死亡した。
0.5〜1kmは即死が60〜70%で11月までに20〜30%が死亡し合計90%である。
当時の広島市街は木造家屋が大部分なのでビルの多い現代社会とは負傷者と死亡者の比率に大きな差があると思われる。
更に救護体制の差も顕著なので現代では落命せずに済む負傷者も多いであろう。
とは言え、爆発直後に命が助かってもその後の火災で焼死する可能性は高い。
前述した参考例では4.2km以内の住民で即死12%、負傷68%と算定したが負傷後の焼死や傷の悪化による死亡を勘案すると死亡者数は激増する。

また命が助かったにしても財産を失い、職を失い、健康な体を失い、家族や友人を失い、もしくは家族に大きな健康障害が生じたりするのだから大変である。
現代に於いて核兵器が都市に対して使用された時、「一瞬で死亡する人数」より「負傷してかなり苦しんだ後に死亡する人数」や「死亡せずに済んだが自己もしくは家族の負傷で辛い人生を送る人数」の方がかなり多いと考えられよう。
映画などでは一瞬の閃光で「文明の滅亡」でジ・エンドとなるがそれはマヤカシに過ぎない。
核の破壊力が増大すれば「一瞬で死亡する人数」は増えるが加害半径が増大するので「負傷してかなり苦しんだ後に死亡する人数」や「死亡せずに済んだが自己もしくは家族の負傷で辛い人生を送る人数」はもっと増える。
仮に20Mtであったにしても即死するのは木造家屋で30km、ビルで6.4km以内に過ぎず安全圏は53km以遠の遥か彼方だ。
まあ、20Mtなんてデカブツはソ連製重ICBMくらいしか搭載してないが。

さて、話を元に戻そう。
「大威力1発と小威力多数ではどちらが有効か?」と言う話だった。
まず大威力や多数と言っても限りがある。
大威力の上限はソ連製重ICBMの20Mtであろう。
ソ連には100Mt(実験は50Mtに制限して実施)のAN602(通称ツァーリボンバ)があったが大きすぎて弾道弾に搭載できずTu95に搭載された。
だが自由落下式爆弾では敵の上空まで進出せねばならず兵器としての有効性は限りなく低かった。

米国の潜水艦弾道弾ポラリスはA1で0.6Mt、A2で0.8MtだったがA3では0.2Mt3発となり続くポセイドンでは50Kt14発となった。
MIRV(多目標多弾頭)の上限は14発の様でトライデント1、トライデント2でも14発が踏襲された。
ただしトライデント1では100Kt、2では475Ktになっており性能向上の重点は長射程化と破壊力増加に重点が置かれた。 

[4103] EMP爆弾(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/22(Sun) 19:42
さて、R36は20Mtの巨大核弾頭を装備していたがR36Mでは0.75Mt10発となった。
単純計算ではR36Mの破壊力は合計7.5Mtで約1/3に過ぎない。
だが実際はどうであろうか?
まずは核兵器の破壊力についてざっとおさらいしよう。

前に広島に投下されたリトルボーイ(14Kt、爆発高度600m、原料ウラン)の破壊力について熱線(屋外)は爆心から1.2km以内で致命傷、2km以内で死亡もしくは重症の火傷、爆風は2km以内の木造家屋全壊と記述した。
だが核兵器の破壊力算定には諸説あってウィキの「核爆発の効果」では20Kt(爆発高度540m)の破壊力を木造家屋破壊1.7km(ビル0.6km)、火災2km、3度火傷2.5kmとし陸自では20Ktの暴露人員被害を1.7km、重橋梁破壊を0.7kmとしている。
これが1Mt(爆発高度2000m)では20Ktに対し距離が50倍になるかと言うとそんな事はなくウィキでは木造家屋破壊6.2km(ビル2.4km)、火災10km、3度火傷12km、陸自の教範では暴露人員被害9.7km、重橋梁破壊4kmとしている。
50倍にならないのは爆発エネルギーが横方向だけではなく縦方向にも広がり三次元的に拡散される為だ。
なお、20Mt(爆発高度5400m)はウィキで木造家屋破壊17km、火災30km、3度火傷38kmとなっているが陸自では記載されていない。
ウィキでの20Ktと20Mtを比較すると破壊力が1000倍となるのに危害半径は木造家屋破壊が10倍、火災と火傷が15倍になる。
なぜ異なるかは木造家屋破壊が爆風に起因するのに対し火災と火傷は熱線に起因するからである。
つまり計算式が違うのでウィキの数値から中間の100Ktや500Ktを産出するのは面倒であり陸自の数値(0.5、1、2、10、20、50、100、500Ktの各段階で表記)を使用した方が便利だ。
ちなみに20Ktと1Mtの核爆発の加害半径はウィキで爆風が3.6倍、熱線が5倍、陸自が5.7倍となる。

1Mtの場合、ウィキの火災10km、陸自の暴露人員9.7kmの数値から10km以内でアウト、20Ktは1.7〜2km以内でアウトと推測できる。
0.75Mtはどうだろうか?
陸自では0.5Ktを7km、1Mtを9.7kmとしているから8.5kmくらいではなかろうか?

それでは加害面積を計算してみよう。
20Mtの危害半径は30kmなので面積は2826平方kmとなる。
0.75Mtは227平方kmなので10発では2270平方kmだ。
1/3ではないが20Mtの方が2割ほど広い。
では何故、多弾頭化(MIRV)されたのか?
その理由は「モスクワやニューヨーク、パリ、ロンドンなどの大都市を攻撃するには超大型核兵器は有効」だが「多数の中規模都市を攻撃するには核弾頭が多数の方が効率的」だからである。

横須賀の場合を例にとって説明しよう。
陸自の表によれば50Ktの場合、危害半径は2.5kmである。
仮にJR横須賀駅上空でこれが爆発した場合、北西の自衛艦隊司令部まで2.5km、北東の米空母用6号ドックまで1.5km、南東の県立保健福祉大学まで2.5km、南西の池上十字路まで2kmだ。
つまり衣笠、久里浜、浦賀、追浜を除く市街全域が破壊される事を意味する。
500Ktだったら危害半径7kmなので他の地域も全てアウトだ。
ちなみに北鮮が今回、実験したのは250〜300Ktだそうだ。
中規模の都市を攻撃するにはあまり破壊力が大きくなくても充分なのである。

ところで「うちは木造家屋ではなくマンションだから2.5km以内でも安心」と考える方もおられるのではなかろうか?
ところがどっこい、20Ktの場合、0.6km以上離れていればビルは倒れないものの木造家屋が全て破壊されるくらいの爆風が吹き荒れるので爆心方向に向いたガラス窓は全て飛散し周囲に被害を与える。
窓から熱線が入ってくるのでカーテンやカーペットなど可燃物は全て燃え出す。
市街地全域のビル全てで火災が発生するのだから消防署だって何もできない。
破壊された木造家屋は片っ端から燃えるしね。
おまけに横須賀共済病院、ヨゼフ病院、うわまち病院(昔の国立横須賀病院)は全て爆心から2.5km以内にあるので何も出来なくなるだろう。
となったら動けるのは林の市民病院か衣笠病院くらいだ。
多分、ビルの居住者であってもただでは済まないと思うよ。
地下のシェルターにでも避難していれば別だと思うけど。 

[4102] 大連 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/21(Sat) 13:50
大連を覗くのも面白いよ。
中国の新造空母の建造進捗状況がよく判る。
中国人はサービス精神旺盛だね。
隠そうとせず大威張りで見せびらかしたがるから戦争には向いてそうもないよ。 

[4101] 謎の潜水艦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/21(Sat) 08:18
みんな、面白れえぞ!
北鮮がSLBMを搭載する潜水艦を新浦で建造してるらしい事は知ってるよね。
今、さっきグーグルマップの航空写真で北鮮の新浦を見物してたら色々と妙なモノが写ってた。
半島付け根右側に緑色屋根でスロープの付いた細長い建築物がある。
船台だろうなあ。
やっぱ、屋根が付いてるって事は見られたくないんだろう。
工事をするには屋根や壁があっちゃ邪魔だしどう見ても不自然だ。

そしてその右上に防波堤で四角に囲まれた小さな港があり、そこに1隻の潜水艦が泊まっているのだ。
その艦首がね、チャーリー型みたいにズングリと丸いの。
とすると、巷間でゴルフ型のコピーって言われてるのは間違いでもっと高性能なのかも知れないな。
日光の影が映ってるからセイルの形状や大きさも判るよ。
随分と幅がありそうだしSLBMを装備してるんじゃないかな?
それと新浦の対岸にある島の周囲を良く見てごらん。
ロメオ型とおぼしき潜水艦が14隻もいるから。
やっぱ「のぞき見」は止められないね! 

いなくなっちゃう前に早く見た方がいいよ。
あそこの潜水艦が出払った時・・・
それは我々にとってかなりヤバイ時だ。 

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