GS新掲示板 発言集[41](No.4001〜)



[4034] ダウンロード販売開始のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/07/20(Thu) 19:15
本日、激闘!八八艦隊海戦史DX文庫版パワーアップキット『真実の大和』の販売を開始いたしました。
http://www.general-support.co.jp/link2.html

他のダウンロード販売サイトも随時、販売を開始いたします。 

[4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/19(Wed) 10:45
やった。
価格コムのPCゲームソフトランキングで太平洋戦記3が7位に入った。
毎年、8月が近づくと伸びるね。 

[4032] Re:[4030] [4029] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/07/15(Sat) 19:09
> そんな中でピカリと光るのは「飢餓陣営」だ。
> もし宜しかったら是非、御一読を。

読みました。
面白いですね。
宮沢作品は不幸な結末の話が結構、多いのですがハッピーエンドだったので楽しめました。
これほどの傑作を今で知らなかったとは汗顔の至りです。 

[4031] 対馬貿易 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/12(Wed) 10:52
次は3の「対馬及び釜山に於ける朝鮮王国との貿易」である。
ここで重要なのは李氏朝鮮王国がオランダや中国の様な通商国ではなく外交を含んだ通信国であり琉球の様な複数国に服属する「?」な立場ではない事だ。
更に文禄・慶長の役で日本は中国(当初は明、後に清)及び朝鮮とは敵対関係にあり、まずは外交関係の修復から始める必要があった。
この任に当たったのは対馬の宗氏であり1607年に国交回復、貿易は1611年に開始されたが日本と朝鮮で相互認識の乖離が大きく道は険しかった。

中でも問題となったのは徳川将軍家の立場である。
中国に皇帝が存在し冊封体制の朝貢国(平たく言えば属国だ)として服属する李氏朝鮮王国では「名目上の存在に過ぎない天皇家と実質的な統治者としての徳川将軍家の関係」は理解不能であった。
よって宗氏では江戸幕府から朝鮮王国に送付した文書と朝鮮王国から江戸幕府に送付した文書を改竄して双方を納得させた。
甚だしいのは徳川秀忠の立場を「日本国主」と書かれていた文書の「主」の部分の「、」を修正(主−>王)して「日本国王」にしてしまった事である。
その後、紆余曲折あって徳川将軍家の朝鮮に於ける公職名は「大君」となり幕末期に於ける西洋諸列強でも徳川将軍家は「タイクーン」と呼ばれた。

さて、朝鮮貿易だが「物語藩史8巻」163頁によると品目が固定され儀式的な進上貿易と進上貿易を補完する目的で実施され価格を朝鮮が決定する公貿易、商人同士が任意に行う私貿易の3種があり日本から輸出品目は銀、銅、錫、水牛角、胡椒、紅、輸入品目は木綿、生糸、漢方薬、獣皮だったらしい。
公、私貿易の利潤は当初23〜24万両にものぼったそうだ。
ただし1686年に幕府が銀の流出阻止の為、輸出入総額を18000両に制限(後に30000両に復活)し1775年に私貿易は廃止されたとある。

う〜ん、もっと詳しい資料はないかな?
おお、あったぞ。
「新編物語藩史12巻」55頁によると進上貿易の輸出品目は胡椒、紅、銅盤、輸入は漢方薬、獣皮、筆、墨、公貿易の輸出は銅、錫、水牛角、輸入は木綿及び食糧、私貿易の主な輸出は銀、主な輸入は生糸、漢方薬だそうだ。
ちなみに17世紀初頭、日本の銀採掘量は全世界の1/3にも達したらしい。
だが採掘量は徐々に低下し事態を憂いた幕府は1686年に上記の制限を課したが制限は守られず以降も輸出入は平均10万両、多い時には20万両にも上り利潤は輸出入合わせて10万両、多ければ20万両を越えたとも記述されている。
よって17世紀末の対馬貿易は長崎交易より遥かに生糸の輸入量が多い。
木綿(当時木綿は輸入に依存しており国産の低価格繊維製品は麻やカラムシで占められていた)と漢方薬(主として朝鮮人参、当時の日本の医者は漢方医が大部分だっただからね)の輸入量が多いのも朝鮮貿易の特徴であった。

他にも資料は・・・
あった、「新編物語藩史11巻」24頁によると1694年の朝鮮貿易の利益は34万両で1685年の対蘭貿易高は5万両とある。
う〜ん、対蘭貿易は密貿易を含まない数値だな。
こりゃダイレクトには比較できないぞ。
でも朝鮮貿易の利潤が大きいのは確実な様だ。

だが莫大な利潤を挙げ対馬藩を支えた朝鮮貿易もやがて凋落の時を迎えた。
良質な生糸及び木綿の国産化が進み輸入に頼る必要が無くなったのである。
かくして対馬藩はどんどん貧乏になっていった。
鎖国を支えた4つの交易ルートのうち朝鮮貿易が一番、浮き沈みが激しい。 

[4030] Re:[4029] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/08(Sat) 22:05
> 阿部さんは宮沢賢治作品の中でどれがお好きですか?

実は宮沢賢治について不屈の努力家である事、多彩な才能がある事などは認めるが彼の思想や価値観には共鳴出来ないし作品にしても好みの物は非常に少ない。
そんな中でピカリと光るのは「飢餓陣営」だ。
もし宜しかったら是非、御一読を。 

[4029] Re:[4025] 宮沢賢治について 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/07/08(Sat) 21:56
> は商業出版され世に知られる前に数々の名作を著述した。

阿部さんは宮沢賢治作品の中でどれがお好きですか? 

[4028] Re:[4027] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/08(Sat) 21:43
> 上野に国立科学博物館という施設があります。

懐かしいな。
初めて行ったのは50年以上前で父に連れていってもらったよ。
野外のクジラと館内の恐竜の骨格標本が印象的だったよ。
ミイラと干首もね。


> 常設展示されているものではただ一つ、地球館3階に展示されているボルネオオラウータンの剥製がその時代からの展示物で関東大震災時は別の博物館に貸し出していたため焼失を免れたと言う逸話があります。

覚えてないなあ・・・
同じ日に上野動物園にも行ったんだが「糞を投げるゴリラ」がいてその方が印象的だったからねえ。

> つまり、常設展示されているものの中で宮沢賢治が「見た可能性」のある唯一のものがそれと言う事になります。
> 一見するとなんて事のない、そして時代的に見て仕方がないとは言え出来のよろしくない剥製ですがそうして見ると不思議とドラマを感じるようになるのが面白いところかと。

同じ景色と言えばJR横須賀駅。
階段の無い不思議な駅だ。
不思議な事に建て替えてないから昔とちっとも変わらないね。
そこから見える景色はある人間にとっては故郷へ向かう天国への入口、ある人にとっては娑婆と別れる地獄への入口。 

[4027] Re:[4025] 宮沢賢治について 投稿者:よし 投稿日:2017/07/08(Sat) 00:37
上野に国立科学博物館という施設があります。
その前身は明治に遡り関東大震災で東京国立博物館の前身の博物館と共に建物と資料や展示物などほぼ全てを失い、その後再建された博物館です。
宮沢賢治も上京時に科博に立ち寄ったのが明らかになっていますが、彼が立ち寄った後に関東大震災が起きましたので彼が見た可能性がある展示物はほとんど残っていない状況です。
常設展示されているものではただ一つ、地球館3階に展示されているボルネオオラウータンの剥製がその時代からの展示物で関東大震災時は別の博物館に貸し出していたため焼失を免れたと言う逸話があります。
つまり、常設展示されているものの中で宮沢賢治が「見た可能性」のある唯一のものがそれと言う事になります。
一見するとなんて事のない、そして時代的に見て仕方がないとは言え出来のよろしくない剥製ですがそうして見ると不思議とドラマを感じるようになるのが面白いところかと。

そして、数年前に鉱物好きだった宮沢賢治の企画展である「石の世界と宮沢賢治」が開催され企画展の主役となりました。
博物館と言うのは時代を超えて人をつなげる教育施設と言うのを実感できます。

そして先日、科博のニュース展示でシドッチ神父の遺骨から複顔像が展示されていました。
下でも書かれている鎖国政策の中布教のため日本にやってきて捕まるも新井白石の助力で死罪を免れ切支丹屋敷に軟禁された人物ですが、この二人の知識人の出会いとそれを記した西洋紀聞が後の開国への流れの中でいかに重要なファクターとなったかを人類学の先生に解説していただけました。

建国記の開始となる明治元年の到来に間接的に関わったシドッチ神父。
建国記の時代を生き抜いた宮沢賢治。
それらを感じることができる国立科学博物館。
本当に素晴らしい施設です。

最後に科博の地球館二階に零戦が展示されていますが、その近くにひっそりと竪削盤と言う工作機械が展示されています。
1863年、幕府がオランダに注文して納品され、その後1998年まで現役で働き続けた工作機械です。
建国記の開始から終了までより長い時間働き続けた彼は今博物館の一角で第二の人生を歩んでいます。 

[4026] 蝦夷地に於けるアイヌ交易 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/07(Fri) 19:35
それでは話をオランダから鎖国へ戻そう。
え〜と、どこからだったかな?
2の「蝦夷地に於けるアイヌ交易」が今回のテーマだ。
アイヌ交易を実施したのは松前藩である。
通商相手はアイヌだ。

だがアイヌは松前藩の領民なのか、そうでないのか?
蝦夷地は松前藩の領地なのか、そうでないのか?
アイヌは鎖国政策の対象なのか、そうでないのか?
これらは甚だ不明確であり江戸初期から幕末まで大きく変化する。

江戸幕府成立期の北海道(蝦夷)は和人(日本人)が居住する和人地とアイヌが居住する蝦夷地に区分されており和人地は松前藩が支配していた。
通常、江戸期の藩は米を経済基盤としており生産石高で藩の財力が示される。
だが北海道は寒冷地なので当時の農業技術だと稲作が不可能であった。
そこで松前藩はアイヌと交易して俵物(干鮑、鱶ヒレ、干海鼠)及び海産物(干魚、昆布、鯣)、獣皮、羽根などを入手しそれを売却する事で財源とした。
勿論、和人地に於いては和人漁師による漁労活動も実施されている。

なお、これら交易品の売却価値は時代の変遷と共に大きく変化していった。
対清交易が隆盛を極めた時期であれば生糸の対価となる俵物の比重が大きくなり琉球交易が盛んであれば昆布の需要が大きくなる。
アイヌ交易は清から生糸を輸入する為に必要不可欠だったのである。
干魚は江戸を中心とした東国消費地へは塩鮭、京大阪を中心とした西国消費地へは干鱈、双方へは身欠鰊が供給されたが時代の変遷と共に次第に増えていった。
鰊については日本全体の農産地の生産力拡大と共に肥料としての需要も増えた。
これら水産物の対価としてアイヌに支払われたのは米などの食糧、酒、繊維製品、武器、調度品で収支の差が松前藩の利益となった。

つまり普通の藩が「百姓からの年貢」で経済が成り立っていたのに対し松前藩は商業中心に経済が成り立つ特異な存在であった。
そして商業を支える交易拠点が蝦夷地に設けられた商場(あきないば)である。
商場は北海道のみならずクナシリ、エトロフ、樺太にも設けられ松前藩の上級家臣(場所持と言う)が運営する独立採算性経済機関であった。
普通の藩で家臣は**石取で俸禄が示され収入は基本的に変わらない。
だが松前藩の家臣は自己の才覚次第で収入が大きく変化するのである。
「新編物語藩史1」45頁によると1669年時の家臣は場所持が34人、中級及び下級家臣の切米取が40〜50人の総計80余名であった。
ただし幾ら商人的な武士であったとしても武士だけで商場を経営するのは無理で実質的な経営には多くの近江商人が介在した。
なお松前藩の家格だが5代将軍期には交代寄合席(無高)の旗本で1719年に1万石待遇の大名に昇格した。
その後、紆余曲折を経て1855年には35000石+18000両+1万350石(預かり地)の約6万石に増加している。

さて、それでは蝦夷地を支配していたのは誰であったろうか?
アイヌはコタンと呼ばれる小村を基本的な生活単位としコタン群を統括する族長はいるんだか、いないんだかよく判らない状態であった。
よって和人の商場が町に相当する大集落であり経済の中心地となった。
和人は支配者ではないのだからアイヌは松前藩の領民ではない。
だが交易のレートは商場を管理する側が一方的に設定したので経済的に隷属せざるを得ず搾取され軋轢が生じた。
かくして1669年の「シャクシャインの乱」や1789年の「クナシリ・メナシの乱」などの蜂起が発生、アイヌ側は常に敗北し統制は逐次、強化された。
つまり最初は割と自由だったのが次第に隷属の度合いが増していったのである。

それでは人口で和人とアイヌの関係を比較してみよう。
「新編物語藩史1」57頁によると和人人口は1749年が21107人、1756年が22632人、1777年が26633人である。
またウィキによる和人人口は1804年が32664人、1839年が41886人、1854年が63834人、1873年が105058人となっている。
つまり124年間で5倍に増えた訳だ。
アイヌ人口は1804年頃に26350人だったのが1822年には24339人、1854年には18428人、1873年には16272人と減少した。
64年間で約6割に減ったのである。
ただし蝦夷地は松前藩の直接支配する地域では無いのでアイヌ人口の詳細については判然としておらず数値の精度についても確かとは言えない。
アイヌ人口の最も古い数値として残されている1804年時は「クナシリ・メナシの乱」の直後でありこの蜂起が松前藩及び幕府に与えた衝撃が窺える。

次に松前藩の家臣について述べよう。
前述の様に1669年時は80余名だった家臣は商場の拡大で増加していった。
だがアイヌの蜂起やロシアの南下で蝦夷の重要性がクローズアップされ1807年に幕府は蝦夷を直轄化し松前藩は内地に転封(9000石)となった。
その後、1821年に再び蝦夷に転封されるがこの時点での家臣は「新編物語藩史1」によると上級及び中級家臣の士分78名、下級家臣の足軽33名の計111名とされている。
また1807年の転封時、180名の家臣が蝦夷に残留したと記載されているので1807年の転封前、家臣総数は約300名であったと推察される。
慶安の軍役規定では1万石の家臣数235名なので1807年時の松前藩は家格とあまり乖離してはいないと言えるだろう。

松前藩が1万石なのは収益でも家臣数でも領土面積でもなく暫定的に決定された石高に過ぎず以降、徐々に実態にそぐわなくなってくる。
家臣数は1825年時に556人に増え1850年には5091人に達した。
つまり181年間で63倍(1万石であった1807年時を基準とすれば43年間で17倍)にも増加している。
この様な藩は類例を見ない。

和人や松前藩家臣が増大した理由はそれだけ蝦夷の開拓が成功し需要が増大し外的脅威も拡大したからである。
なお大規模な家臣団を支えるにはそれだけの経済基盤がなくてはならない。
よって松前藩は前述の様に約6万石となったのだが慶安軍役規定の家臣数ではそれでも約1200名に過ぎない。
しかも約6万石となった背景には蝦夷地の大半を江戸幕府直轄とする代わりに内地の領地及び援助金を与えると言う政策で実質的な歳入は大きく減少した。
よって1866年の収支は歳入見込み11万2242両、歳出12万2567両で約1万両の赤字財政となってしまったのである。

アイヌ交易でもうひとつ特異なのが山丹交易である。
1858年のアイグン条約でロシアへ割譲されるまで朝鮮半島の北東に位置する沿海州は外満州(もしくは山丹国)と呼ばれ清国領土であった。
ここに居住するのが山丹人である。
日本は鎖国しているので松前藩と言えど勝手に清国と交易できなかったがアイヌは独自に山丹人との交易ルートを持っていた。
こうしてアイヌが仲介役となって清国の絹製品(山丹服もしくは蝦夷錦)や宝飾品が日本に輸入されたのだがあまり大きな経済的活動にはならなかった。 

[4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/07(Fri) 14:14
宮沢賢治は商業出版され世に知られる前に数々の名作を著述した。
凄い事である。
そして商業出版された自著が多くの人に読まれ感銘を与える事を知らずに世を去った。
哀しい事である。
今、自分が成さんとする事をどれだけ人に伝えられるのか、それは判らない。
でもいつだって「彼はもっと孤独で何の保証もないまま頑張ってきたんだ」と思うと前に進めそうな気がする。 

[4024] オランダについて(続きの続きの続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/02(Sun) 10:00
あまりにも戦争だらけでウンザリ(そうでもないか?うちの読者だもんね)したかも知れないがオランダを巡るこれまでの戦争を要約しておこう。
1期 両ハプスブルグ家 VS 欧州
2期 ブルボン家    VS 欧州
3期 仏及び諸国家   VS 英及び諸国家

まず1期だがハプスブルグ家は神聖ローマ帝国とスペイン王(後にポルトガル王も兼任)でミラノ公、ナポリ王、シチリア王としてのイタリア領土、更にはブルゴーニュ公国、ネーデルラントをも支配する欧州最大の君主であった。
当然、同盟国などあまり必要としない。
周辺諸大国(英、仏、スウェーデンなど)は一致団結してハプスブルグ家と戦う。
ハプスブルグ家が支配する領域内の反対派もすぐに反旗をかざす。
これが1期の特徴で1568年から1678年までおよそ110年間続いた。
その間に繰り広げられた戦争は80年戦争、1次から3次英蘭戦争、仏蘭戦争などで30年戦争がハイライトであった。
オランダの視点から見ると30年戦争と仏蘭戦争は逆に見えるが全体的視点で見るとハプスブルグ対周辺諸大国の対立構造は変わらない。

これに対し2期は王権の中央集権化に成功し経済的にも進捗著しいブルボン家の仏に主役の座が移ったのが特徴でかつては異彩を放ったハプスブルグ家は神聖ローマ帝国及びスペイン王(もはやポルトガル王を兼任していない)として周辺諸大国の一員に身を落とした。
第2期は1679年のナイメーヘンの和約直後から始まり1740年に勃発したオーストリー継承戦争までの約60年間続いた。
この間に繰り広げられた戦争は9年戦争、スペイン継承戦争などである。
4カ国同盟戦争と言うのもあるがは単なる「フェリペ5世のおいた」に過ぎない。
強大な仏を相手にほぼ全欧州が戦ったが仏が欧州でトップの座に立てた要因はルイ14世(在位1643〜1715年の72年間)、ルイ15世(在位1715〜1774年の59年間)と2代続けて長期政権が成立した事にあった。
つまり国情が安定化し王位継承に由来する内紛が減ったのである。

そして2期の間に海外植民地獲得で隆盛著しい英国の比重が大きくなり3期は仏及び諸国家陣営と英国及び諸国家陣営の対立構造となった。
仏は「強大な王権による中央集権化」によって2期に於ける欧州トップとなったが英国が3期のトップになれた要因は「議会主導の民主主義による国益拡大」であり王権は逆に弱体化し「君臨すれども統治せず」の道を歩んだ。
更に新興大国としてプロイセン王国が加わり地理的にプロイセンと隣接するロシア帝国も欧州の情勢に大きな影響を与えた。
第3期は1815年のウィーン体制確立までの約75年間続く。
この間に戦われた戦争はオーストリー継承戦争、7年戦争、アメリカ独立戦争(及び第4次英蘭戦争)、フランス革命戦争及びナポレオン戦争である。 

[4023] オランダについて(続きの続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/28(Wed) 19:34
ただし1618年にフィリップス・ウィレムが死去するとマウリッツがオラニエ公を継承し総督とオラニエ公を同一人物が兼ねる様になった。
ちなみにオラニエ公家はドイツの名門ナッソー家の傍系であり同じくナッソー家傍系のディレンブルク伯家の人物がヘルダーラント州やフローニンゲン州、フリースラント州などで総督に任命されている。
他にもメールス伯家やらレンネンベルフ伯家やらディーツ伯家やら色々いる。
ディーツ家もオラニエ家の親戚筋で最初は伯だったが後に侯になった。
まあ、ともあれ英国王ウィリアム3世死去後、ディーツ家のヨハン・ウィレム・フリーゾがオラニエ公を継承したが当初はどの州も総督に任命しなかった。
1707年にフリースラント州、1708年にはフローニンゲン州で総督に任命されたが経済の中心地であるホラント州及び他の4州では長きに渡り総督が任命されなかったのでこの時期は無総督時代とも称されている。

では誰がオランダを統治していたのであろうか?
答えは議会(スターテン・ヘネラール)である。
つまり当時、オランダの議会は単なる立法府ではなく行政府でもあったのだ。
オランダは英国との疑似同君連合が解消されても同盟関係は維持し1614年まで続いたスペイン継承戦争(1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約で講和)でも共に戦った。
いや、低地地方が主戦場のひとつだったのだから戦うのは当然とも言えよう。
さてスペイン継承戦争の勝敗だがブルボン家がスペイン王となったのだからフランスの勝利と言えるがかつてスペイン領土全てが手に入った訳ではない。
低地地方の南部10州とイタリアのナポリ、ミラノなどが神聖ローマ帝国に割譲され英国には海外植民地(特にジブラルタル!)が割譲された。

ところで前述のオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾだが1711年に死去した時、公位を継承する公子はまだ公妃の腹の中にあり6週間後に誕生した。
誕生後、ウィレム4世としてオラニエ公を継承するが総督として任命したのはフリースラント州とフローニンゲン州だけであった。
まだ赤ん坊なんだし当たり前と言えば当たり前だ。
だが1729年にはヘルダーラント州が続き1747年には全7州の総督に任命され以降、オラニエ公家による世襲化が宣言される。
かくしてオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は君主国となった。

でもね・・・
1751年にウィレム4世が死去した時、公子はまだ3歳でオラニエ公位はウィレム5世として継承したものの総督には任命できなかった。
つまりまたしても一時的にだが「無総督」になったのである。
ウィレム5世が全州総督になったのは成人(18歳)した1766年であった。

英国との同盟はどうなったかって?
1740年に勃発したオーストリー継承戦争では英国と共に戦った。
だが1756年(見方によっては1754年)から始まった7年戦争では英国が参戦しているにも関わらずオランダは中立にとどまった。
英国との関係はかなり冷えてしまったのである。
更に1775年に勃発したアメリカ独立戦争では反英側に立ち第4次英蘭戦争(1780年〜1784年)を繰り広げた。

思えば1568年に勃発した80年戦争から1714年に講和したスペイン継承戦争までの146年間でオランダが戦争していなかったのは40年間だけである。
まさに戦争につぐ戦争で激動の時代であった。
そしてこの時期のオランダに天才的戦争指導者が誕生しないはずがない。
数多の名将、名提督を輩出したがオランダの少年少女が両手を挙げて感激する二人を選ぶとするならば前述した陸のマウリッツと海のデ・ロイテルとなろう。
オラニエ公マウリッツは歩兵、騎兵、砲兵のコンビネーションを具現化した三兵戦術を考案して近代軍事革命の祖となりデ・ロイテルは四日海戦やソール湾海戦、テセル島海戦の覇者として海戦史にその名を残した。 

[4022] オランダについて(続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/27(Tue) 19:29
さて、英国の不穏な情勢の方だが1688年6月にオランダへ密使が送られた。
その後、準備が着々と整えられたが英国側の思惑から外れる部分がひとつあった。
英国側は元王女が帰国し女王メアリー2世として王位継承させるつもりだったのだが婿殿のオランダ総督ウィレム3世が妻をオランダに残したまま11月15日に2万の兵を率いて先発して英国へ上陸してしまったのである。
この上陸に対しジェームズ2世は討伐部隊を派遣したが離反が相次ぎ12月21日には国王自身がロンドンから脱出し逮捕されてしまった。
これが後に名誉革命(無血革命とも称される)と称される事件の顛末で婿殿は共同統治者の英国王ウィリアム3世として翌年2月に即位(前王は仏に亡命)した。
ちなみにメアリー2世は子が無いまま1694年に没しており以降はウィリアム3世が単独のオランダ総督兼英国王となった。
つまり「オランダ総督に嫁した王女が里帰りして女王になった」と言うより「妻の実家の内紛につけこんでオランダ総督が英国王位を簒奪した。」に近い。
こうしてオランダと英国は同君連合になった。

当然、英国はアウグスブルグ同盟に加盟し反フランスの立場で9年戦争へ参戦、マールバラ伯チャーチル(あのウィニー・チャーチルの御先祖様だ)率いる陸軍部隊を大陸へ派遣する。
9年戦争はネーデルラントからライン地方は言うに及ばずスペイン、イタリア、アイルランド各地で繰り広げられたが名前の通り9年で終わり1697年のレイスウェイク条約で講和が成立した。
勝敗は決定的な決着はつかず「仏側がやや不利な講和条件」と言った所。
つまり講和と言うより一時停戦に近い。

よって3年間の平和の後、1701年にはスペイン継承戦争が勃発する。
スペインの王位継承権に端を発したこの戦争は相も変わらず仏対ハプスブルグが中心軸であったがスペインの半分が仏側についていた。
勿論、英蘭は揃って反仏側である。
参戦した翌年、ウィリアム3世はモグラの掘った穴で乗馬が転んで頓死。
義妹のアンが女王として即位し再びマールバラ公(伯爵から出世!)率いる陸軍部隊を大陸へ送り出した。
同君連合はどうしたかって?
アン女王はオランダ総督ではなかったので同君連合ではなくなった。

ここでひとつ「総督って何?」を語らねばなるまい。
元来、ネーデルラント総督は宗主国の神聖ローマ帝国もしくはスペインがネーデルラント諸州(16世紀は17州)統治の為に任命する役職であった。
よってサボイア公妃マルグリットやハンガリー王妃マリア、パルマ公妃マルゲリータなど皇帝の親族女性が任命される例が多かった。
だが80年戦争が勃発すると各州の議会は独自の総督を選出し始める。
そして各州の議会を支配しているのはレヘントと呼ばれる豪商である。
独立を要求した北部7州は独自に総督を任命したので当然、複数の総督が存在し1人の総督が複数の州総督を兼任する場合も多かった。
更にレヘント達の合意が得られず総督が任命されない場合もある。
つまり総督の地位と権限は非常に不安定であり君主とは言い難い面があった。

ウィリアム3世の即位をもって英蘭が同君連合となったと前述したが正確には同君連合ではなかったし、江戸幕府がオランダと通商を開始した1609年時にオランダ側はオランダ総督をオランダ国王と訳したがあからさまな嘘であった。
1572年にホラント及びゼーラント州初の総督に任命されたオラニエ公ウィレム1世は1577年にはユトレヒト州、1580年にはフローニンゲン州及びフリースラント州総督を兼任したが1584年に死去した。
オラニエ公を継承したのはウィレム1世の長男フィリップス・ウィレムである。
だがフィリップス・ウィレムは旧教徒なので議会は総督に任命しなかった。
ホラント州とゼーラント州が総督に任命したのはウィレム1世の次男マウリッツであり1590年にはユトレヒト州、ヘルダーラント州、オーファーアイセル州、1620年にはフローニンゲン州の総督も兼任した。
この様にオラニエ公と総督は別であり世襲化していなかったのである。 

[4021] オランダについて(続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/26(Mon) 19:20
こうしてオランダは日本との貿易権を独占し1948年には独立も承認された。
だがその僅か3年後、新たな戦争が勃発した。
オランダの平和は二年間しか続かなかったのである。
今度の相手はかつての宗主国スペインではなくかつての同盟国英国であり戦争目的も宗教や独立から経済的覇権へと大きく変容していた。
この第1次英蘭戦争は海洋国同士なので海戦が主体で1654年に講和した。
更に10年間の平和を経た1665年に第2次英蘭戦争が再発し1667年に講和したものの4年間の平和の後、1672年3月に第3次英蘭戦争が勃発する。
この戦争は第1次及び第2次英蘭戦争とは大きく様相を異にしていた。
開戦の翌月、フランスが宣戦布告し仏蘭戦争が同時に始まってしまったのである。

海で英、陸で仏と戦う以上、オランダもいずれかと組まなければ対抗できない。
そこで仇敵のスペイン及び神聖ローマ帝国及びドイツ諸侯と同盟を結び英仏と対抗したのだが1675年からはスウェーデンが英仏側で参戦し戦局が拡大した。
こうなると30年戦争をオランダだけ入れ替えて再戦したに等しい。
もはや宗教も経済も超越した国家間の利害が絡み合い欧州全体が混乱の極に達したがもつれた糸も状況次第でやがてほどけてゆく。

まず端緒となった第3次英蘭戦争がオランダの名提督デ・ロイテルの活躍によって英国不利の状況で戦局が進展し英国内の反仏派が台頭した。
やむなく英国は1774年にオランダと講和、1677年には英国王女とオランダ総督の婚姻政策で親オランダへと舵を切り替えてゆく。
この方針変更は後にとんでもない事態を招く。
1678年まで続いた戦いで各国は疲弊し同年8月から翌年12月までナイメーヘンで開催された講和会議でとりあえず仏蘭戦争は終わる。

とりあえず9年間の平和。
そして次の戦争はとんでもない所からやってきた。
英国では国王ジェームズ2世が旧教に改宗した為、議会との対立が激化していた。
かくして議会側は王位継承者にオランダ総督と結婚していた王女を選んだ。

一方、仏蘭戦争で勝利を得られなかった仏は虎視眈々と再戦の機会を窺っていた。
機会は1688年9月にやってきた。
プファルツ選定侯の継承問題で仏が軍事介入し9年戦争が勃発したのである。
これに対しアウグスブルグ同盟加盟国(神聖ローマ帝国及びドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデン)は次々と参戦、戦火は全欧州に拡大した。
よって9年戦争は大同盟戦争、プファルツ継承戦争、ウィリアム王戦争、アウグスブルグ同盟戦争などの呼称でも知られる。 

[4020] オランダについて(続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/21(Wed) 19:21
話を元にもどそう。
80年戦争での12年停戦が始まった年に在日オランダ商館が開設された。
そして1619年、ジャカルタにバタビア城を建設し蘭印支配の拠点となった。

1622年、停戦が終了しオランダはポルトガル領(スペインと同君連合)のマカオを13隻からなる艦隊(兵力は800名の上陸部隊を含む1300名)で攻撃したが150名のポルトガル軍が勇戦し攻略に失敗する。
1624年にはゼーランディア城を建設し台湾を植民地化して交易圏を拡大するが1928年のタイオワン事件で日本との国交が1632年まで途絶してしまう。
そして1936年、第4次鎖国令で貿易に関係ないポルトガル人とその家族がマカオへ追放され在日ポルトガル人は出島での居住のみに制限される。

これで出島以外の日本にカトリック宣教師はいなくなるはずだったが実はまだ潜伏しており1937年9月には長崎で新たな密入国宣教師4名が処刑されている。
こうした状況下の1637年12月、島原の乱が勃発した。
果たして誰が画策したのであろうか?

リーダーの天草四郎は著名だが背後にスペインがいたのだろうか?
それは判らない。
バチカンが動いたのだろうか?
それも判らない。
鎖国令を実現させ対日貿易の利潤独占を図ったオランダの陰謀説は?
やはりそれも判らない。
単なる宗教一揆が暴発しただけなのかも知れないがそれとても判らない。
籠城した中に宣教師は含まれていたのだろうか?
その証拠はないが居なかったとも言い切れぬし前後の事件を考えると幕府側が「宣教師がいても当然」と考えても不思議はない。

合理的に考えれば勝算の無い宗教一揆を蜂起させても宗教弾圧が激化するだけでメリットはなくバチカンからの指示で発生したと考えるのは無理がある。
ただしバチカンからの指示はなくとも現地の判断があった可能性は否めない。
重要なのはオランダの役割で大砲5門を幕府軍へ提供し海上のオランダ船から一揆側への艦砲射撃も実施している。
島原の乱は1638年4月に終わり1624年のスペイン船来航禁止に続き1639年の第5次鎖国令でポルトガル船の来航も禁止された。

困ったのはポルトガル植民地のマカオである。
中国産の生糸を日本へ輸出する事でマカオの経済は成り立っており対日輸出の途絶は経済破綻を意味する。
よって貿易再開を江戸幕府に陳情する目的で74名の使節団が派遣された。
この時、マカオは大きな誤算をしていたのである。
中国では法令が軽視されワイロが幅をきかす。
それに対し日本は法令が重視されワイロは軽蔑の対象となる。
島原の乱で南蛮貿易の制限が厳しくなる事を予測したマカオ市がとった対策(1639年1月12日のマカオ市議事録)は銀43貫470匁で幕府要人向けの豪華な進物を準備する事であった。
この進物は効を奏さずポルトガル船は1939年10月17日に第5次鎖国令を受領してマカオへ帰港したのである。

更に回航禁止令が出ているのに長崎へ回航すると言う事は日本側からすれば陳情ではなく明らかな法令無視でありもはや敵対行為としか映らなかった。
1640年8月、盛装して幕府からの回答を待った使節団のうち江戸幕府は61名を処刑、使節船は進物として準備された銀14000テールを載せたまま沈め残りの13名はこの事実を海外へ伝聞させるに小型船でマカオへ送還させた。

さて、当時の日本を取り巻く環境だが中国にポルトガル領マカオ、台湾にオランダ領ゼーランディア、フィリピンにスペイン領マニラがあった。
これらのうちマニラは対日布教の本拠地であったがマカオは生糸輸出の拠点なので経済的指向が強くゼーランディアは対日貿易に参入する機会を窺っていた。
豊臣政権によって1597年に処刑された26聖人のうちスペイン人は4名、ポルトガル人は1名であり1633年から1637年にかけて処刑された長崎16聖人ではスペイン人4名に対しポルトガル人は皆無であった。

なお、前述した様に1581年からスペインとポルトガルは同君連合であったが何時までも仲良くしては居られず次第にポルトガルへの政治的弾圧が強まった。
同君連合でもマカオとマニラでは日本に求める物が異なると同床異夢になる。
マカオとしてはマニラから続々と宣教師が派遣され幕府の南蛮貿易が規制強化されるのは有り難くない事だったのである。

そして1640年12月、ポルトガルで新王ジョアン4世が擁立されスペインからの独立が果たされた。
かくして同君連合は解消されたが、もはや対日貿易の道は閉ざされてしまった。
そして1641年にオランダ商館が平戸から出島へ移転し唯一の対日欧州貿易国となるがこの時点でオランダはまだ正式に国家として承認されていなかった。 
それにも関わらず通商が実施されたのは日本と国交の無い中国との生糸貿易を仲介する為であり中国船を台湾に回航させ、そこから長崎へオランダが輸出した。
江戸幕府としては正式に国家として承認されていようがいまいが、中国との間で順調に生糸貿易が継続できれば構わなかったのである。 

[4019] オランダについて(続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/18(Sun) 19:42
それではこの時期の日本周辺に於けるオランダ(ネーデルラント)の動きを欧州情勢と照らし合わせて見よう。
ちなみにネーデルラントとは本来、低地地方全域を表す呼称であった。
これに対しオランダは低地地方内のホラント州のみを表す呼称である。
現在、低地地方は北部諸州によるオランダ、南部諸州によるベルギー、リュクサンブルール州の一部からなるルクセンブルグの3国で形成されている。
これら3国のうちオランダの正式国名はネーデルラントなのだが北部ネーデルラントだったらともかく低地地方全域を示すネーデルラントだと低地地方全域をさすのか北部諸州国家をさすのか曖昧になってしまう。
よって現在では「低地地方全域を指す場合はベネルクス」と呼称する場合が多い。
だが日本では一般的にネーデルラントと言う呼称を使わず江戸時代からずっと使われてきた「オランダ」と言う国名が使用されている。

さてオランダやベルギーだが「フランスとドイツの2大国に挟まれた小さな国」と言うイメージが定着していないだろうか?
現在の地図を見るとその通りだ。
だが1200年前の地図を見るとそうでもない。
当時の欧州にはアーヘンを首都とするフランク帝国と言う大きな国がありその中心部の沿海地域が低地地方なのである。
大規模交易は船が主体なので海及び大河川に面した港湾都市は大いに栄える。
よって経済を支える都市に人が集中し人口密度は農村部や山岳地域を凌駕する。

現代日本の場合、大阪府及び隣接する京都市、神戸市の合計面積は日本全土の0.8%に過ぎないが人口は日本総人口(1億2686万人)に対し1183万人で9.3%にもなる。
東京都23区部と神奈川県を合計した場合でも面積0.8%に対し人口は1859万人で14.6%だ。
日本では「大阪府は奈良県より小さい弱小自治体だなあ」とか「東京は千葉県や群馬県よりちっちゃいよ」とかあまり言わない。
現在のベネルクス、フランス、ドイツを合計した面積のなかでベネルクスが占めるのは7.4%、だが人口では16%を占める。
なりは小さいがベネルクスは欧州の心臓部なのである。

普通、大陸国では国の中央に首都があり国境に近づくにつれ辺境となって人口密度が低くなっていくが独仏国境に関しては別だ。
北の低地地方からライン河に沿ったラインラント、ロレーヌ、アルザス、ブルゴーニュなど国境に近づくにつれ都市が林立する。
これはかつてフランク帝国の中心部がそのまま国境になったからに他ならない。
フランク帝国は843年のベルダン条約で後にフランスとなる西フランク王国、後にドイツとなる東フランク王国、その中間に位置しバルト海に臨む低地地方から地中海に臨むイタリア半島までを版図とする中フランク王国に三分割された。

なぜ、中央の細長い部分が中フランクの領土となったかって?
そりゃ、中央部に首都アーヘンを含む重要都市が並んでいたからだ。
ちなみにこの中フランク王国、僕が高校生の頃は「ロタールの王国」(ロタール王国ではない)として習ったが何時の間にか名前が変わってしまったらしい。
なお中フランク王国のロタール1世はフランク帝国皇帝でもあったから元々のフランク帝国から西フランク王国と東フランク王国が独立したと言えなくもない。
さて、この中フランク王国、今度は870年のメルセン条約でイタリア以外の領土を東西フランク王国に併合されてしまう。
かくして東西フランク王国国境にズラリと続く重要都市群は以降、千年以上の長きに渡って仏独の火種となるのである。 

[4018] オランダについて 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/16(Fri) 19:40
宗教的反乱から始まりウェストファリア条約でのスペインによるオランダ独立承認で幕を閉じた80年戦争の戦争目的は時代の変遷と共に大きく変化した。
当初、陸軍兵力でスペインに抗し得ぬネーデルラント側はフランスの新教徒(ユグノー)の支援を受け海乞食による海上での通商破壊戦を実施した。
この時点ではまだ独立など無想すらせず「ネーデルラントの君主はスペイン王」だとネーデルラント側は認識していた。

状況に変化が生じたのは1581年でネーデルラント側はスペイン王の統治権を否定し新たにフランス王アンリ3世の王弟アンジュー公を君主として推戴する事を宣言したがアンジュー公は1584年に早世してしまう。
やむなくネーデルラント側は翌年、フランス王へ服属を申し出るが拒否される。
更にその5ヶ月後、今度は英国に服属を申し出るがこれも拒否された。
つまり独立の意志はこの時点では皆無に等しく以降、次第に醸成されていく。

果たしてオランダと言う国はいつ始まったのか?
ネーデルラント側がスペイン王の統治を否定したのなら1581年だ。
だがスペイン王が独立を承認したのが必要条件なら1648年となる。
英仏がネーデルラントとグリニッチ条約を締結した1596年を実質的な独立紀元とする識者もいる。

この様に1581年はオランダ(ネーデルラント)にとって重要な年だったがハプスブルグ家が統治するスペインにとっても重要な年となった。
長年のライバルであったポルトガル王家が嗣子断絶した為、スペイン王フェリペ2世がポルトガルの首都リスボンを占領しポルトガル王として即位したのである。
かくして以降、1640年までスペインとポルトガルは同君連合となった。
これはすなわち新教徒の英仏船はスペインとポルトガルの双方を敵に回さねばならない事を意味する。

当時、スペインの海外領土は北米、メキシコ、南米西岸、フィリピンに拡がりポルトガルの海外領土は南米東岸、アフリカ沿岸、インド沿岸、マレー半島、マカオにまで及んだ。
だが悪い事ばかりではない。
1585年には英国がネーデルラントの戦いに介入し1604年まで続く英西戦争が勃発し1588年には圧倒的有利な兵力を誇ったスペインの無敵艦隊(アルマダ)が英海軍に敗れ情勢が一変した。

さて、かくの如き欧州の変動は東洋にどの様な影響を与えたであろうか?
1624年に江戸幕府はスペイン船の来航を禁止し1639年の第5次鎖国令でポルトガル人を出島から追放したがその間は「同じ君主が統治する国家の船で来航可能な場合と不可能な場合の双方が存在する事態」となる。
どうやって区分したのであろうか?
船籍?船長の人種?乗員の言語?
当時の日本が同君連合についてどの様に認識していたかは興味深い問題である。

それではフランスはどうであったか?
旧教国としてネーデルラントへ侵攻してきたであろうか?
それとも不倶戴天の仇敵であるハプスブルグ家を倒す為、英国を支援したか?
答えはそのどちらでもない。
1562年から1598年まで国内が旧教徒と新教徒(ユグノー)に分かれ熾烈なユグノー戦争を繰り広げていたのである。

こうしたさなか、1609年にネーデルラントで前述の停戦協定が締結された。
そして12年間に渡る停戦協定の期間中に欧州全土を揺るがす戦乱が勃発した。
1618年から1648年まで続いた30年戦争である。
当初、神聖ローマ帝国内(すなわちドイツ)の宗教戦争であったこの戦いは東西ハプスブルグ家対ヨーロッパ諸国の戦いに変容し最終的には旧教国のフランスが反ハプスブルグ家の側で参戦したりデンマークの様に双方(1625〜1629年は反ハプスブルグ側、1643〜1645年は逆側)で戦う国も現れた。
そして1948年のウェストファリア条約で講和が成立しネーデルラントはハプスブルグ家も含めた欧州諸国から独立を承認されるに至った。
30年戦争の終結は80年戦争の終結でもあったのである。

[4017] Re:[4016] [4015] [4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/13(Tue) 18:04
ただし1万5千両と定められた上限が必ずしも守られた訳ではない。
密貿易が頻発し摘発側である長崎奉行や長崎代官が不正に手を染める事例も発生した。
定高貿易法が制定される9年前に密輸の罪で長崎代官を免職(遠島)となった末次茂朝が没収された個人資産は総額60万両にのぼったと言われる。

さて、今日はオランダについて話をしよう。
日本とオランダの関係は1600年のオランダ船リーフデ号漂着から始まる。
同船の乗員であったヤン・ヨーステンと英国人のウィリアム・アダムス(三浦按針)は徳川家の旗本に取りたてられ厚遇された。
かくして1609年、平戸のオランダ商館が開設され本格的な日蘭貿易が開始される。
当時、オランダのアジア貿易拠点は蘭印のジャカルタを中心としていたが1624年に台湾を植民地化してゼーランディア城を建設し交易圏を拡大していった。
オランダのこの動きに対し1928年びタイオワン事件が発生、同年より1632年まで国交が途絶する。
その後、幕府は1639年の第5次鎖国令でポルトガル人を出島から追放、1641年にオランダ商館を平戸から出島へ移転させ鎖国体制を成立させた。 

以降、出島に於ける日蘭貿易が幕末まで続くが「そもそもオランダとは何か?」をここで考えねばならない。
独仏国境の中間部にある海沿いの低地地方にある小国だと言うのは現代の日本人なら誰でも知っている。
だが太古の昔からその位置にオランダと言う国があった訳ではない。
1477年までネーデルラント(低地地方の意)はブルゴーニュ公の支配地域だったがオーストリーのハプスブルグ家をトップとする神聖ローマ帝国へ婚姻政策で編入された。
ついで1556年、ハプスブルグ家はスペイン王国と神聖ローマ帝国に二分されネーデルラントはスペイン王国の支配下に移る。
もとよりカトリックのハプスブルグ家とプロテスタント(カルバン派)のネーデルラント人が折り合える訳はない。
異端審問などの宗教弾圧が繰り返された後の1568年、遂に反乱が始まった。
1609年から1621年までの12年間に渡る停戦期間を挟み1648年まで続いたこの戦いは後に80年戦争と呼ばれる。
つまりリーフデ号の漂着からオランダ商館の出島移転までは80年戦争下のオランダが相手だったのである。 

[4016] Re:[4015] [4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/12(Mon) 18:55
まず長崎貿易だが一般的な認識だとオランダが主役に見える。所がさにあらず、本当の主役は中国船であった。
1685年に制定された定高貿易法では中国船の年間取引総額上限を銀6千貫目(10万両相当)、オランダ船は銀3千貫目(5万両相当)としている。
はてさて、何を輸入し何を輸出したのか。
中国船の場合、輸入品の大部分は生糸で絹製品と漢方薬原料がこれに続いた。
輸出品は金、銀、銅及び俵物(干ナマコ、フカヒレ、干アワビ)を中心とした海産物(コンブ、スルメなど)、硫黄などである。
オランダ船の場合、初期の輸入品は生糸及び工芸品、書籍などであったが次第に砂糖(生糸が減少)が増えていった。
輸出品は金、銀、銅、工芸品、美術品などである。 

[4015] Re:[4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/11(Sun) 19:50
最後に2の外交だが江戸幕府では制式な外交関係の存在する国を通信国、商業関係だけにとどまる国を通商国と区分していた。
通信国は朝鮮王国及び琉球王国、通商国は明(後に清)及びオランダである。
また他国との通商を一般的に貿易、国家でない場合は交易と呼ばれる。
そして鎖国体制下、国外との通商には以下の4タイプが存在した。

1.長崎の出島に於けるオランダ船及び中国船との貿易
2.蝦夷地に於けるアイヌ交易
3.対馬及び釜山に於ける朝鮮王国との貿易
4.琉球王国との貿易 

[4014] Re:[4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/08(Thu) 23:41
さて、3の経済だが自国の産業保護の観点からは関税操作による保護貿易などが現在は行われる。
だが、当時の日本はそんな状況ではない。
日本国内で自給不可能な物資、物品をなんとかして通商で入手せねばならない。
よって鎖国と言いながらも経済での交流は幕府のコントロール下で継続せねばならなかった。
江戸時代初期の日本が欲していた輸入品は生糸、木綿、絹織物、硝石、漢方薬原料、書籍及び情報などである。
後に絹大国となる日本はこの時点ではまだ絹後進国であった。
逆に日本が輸出できる物は俵物海産物、硫黄、金、銀などでアイヌとの交易では米、酒、調味料なども充当された。 

[4013] Re:[4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/08(Thu) 14:07
「キリスト教を排除する目的でポルトガル、スペインを排除したのにオランダを排除しなかったのはなぜか?」と言う質問をメールで頂いたのでちょっと補足説明を。
オランダとて植民地化政策の一環として海外布教を利用したし危険である事は変わらない。
だがオランダは新教国(プロテスタント)なのでポルトガル、スペインなどの旧教国(カトリック)とは対立関係にあった。
ここが重要である。
戦国から安土桃山、江戸時代初期の日本で布教活動をおこなったのは旧教のイエズス会(フランシスコ会やドミニコ会も加わった)で信者は全て旧教徒であった。
神の代理人たるローマ法王をトップとする旧教は各会派で対立が見られるものの法王庁(バチカン)の指示によって様々な世俗活動で大きな影響を及ぼした。
逆を言えばこれらの信者に対し新教国の聖職者が何を言おう何も影響がなかったのである。
もし最初に来たのが新教国で日本の信者が新教徒であったならば話はだいぶ違ったであろう。
つまりポルトガル、スペインを排除しオランダと通商関係を樹立すると言う事は「バチカンから日本信者に送る指令」を遮断するのが目的であった。
それと延暦寺や根来寺などの僧兵集団と干戈を交え、長く一向一揆に苦しめられた日本の諸侯及び各政権が宗教を背景とした武力闘争を非常に警戒していた事を忘れてはならない。 

[4012] Re:[4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/07(Wed) 17:27
次に4の宗教だがトランプ政権が「イスラム教徒は入国禁止!」と声高に叫ぶのと同じ様に日本じゃキリシタンが禁止となった。
その理由は島原の乱をあっちこっちで起こされちゃ大変だからである。
16世紀末の日本の軍事力は大したものだった。
文禄・慶長の役では約20万名の兵を海外派兵する程で日本国内の火縄銃総数は約50万丁に達したとも言われる。

当時、これだけの渡洋作戦を実施できる国は他にない。
そもそも16世紀末の日本の推定人口は約2200万人で大変多かった。
ちなみにスペイン+ポルトガルは約1050万人、英国約625万人、フランス約1050万人である。
更に日本は戦国時代から安土桃山に続く戦乱で人口に対する
兵数が極端の多く一説には日本の火縄銃保有数は全世界の火縄銃の2/3とも言われている。

金子常規著「兵器と戦術の日本史」によると全兵力に対する火縄銃兵の比率は1560年代の上杉家で6%だったのが長篠の合戦の織田家で10%、文禄の役の立花家で14%、加藤家で21%、関ヶ原の合戦では各家で35〜40%、大阪の陣の東軍では約50%に達した。
ちなみに残りの50%が騎兵、弓兵、槍兵、伝令、旗持などに充当されるのである。
つまり軍勢は火縄銃だらけだった訳だ。
だから正面決戦で防御に徹するのならどこと戦っても臆する必要はない。
(進攻するのなら船舶数や兵站能力で上限が定められてしまうから「負けなし!」とはならないが)

けどね・・・
信仰と言うプロパガンダで一揆を起こされちゃ国が真っ二つに別れて内戦になる。
一揆ったって農民ばかりがキリシタンじゃない。
大名だって洗礼を受けてるんだよ。
(島原の乱じゃ加担しなかったけどね)
精強無比な日本の武士団が二つに分かれて25万丁ずつの火縄銃をもってぶつかりあってごらん。
その後、日本を占領するのはお茶の子さいさいだ。
だから幕府が恐れたのはスペインやポルトガルの軍船や兵隊じゃなく宣教師だったのである。 
いかな軍事大国と言えど内部から崩壊すれば脆い事、このうえなし。
冷戦期の米国は国内の反戦運動によってベトナム撤兵を余儀なくされソ連もまた内部から崩れた。

さて、それでは現在の米国の如く膨れに膨れ上がった日本の鉄砲はどうなったであろうか?
元和偃武(げんなえんぶ)の号令の下、大阪の陣をピークとして減少に転じどんどん減らされていったのである。
戦がないから減ったのか、戦を無くす為に減らされたのか、それはまあ、諸説あるが慶安の軍役規定では10万石大名の兵力は21550人で鉄砲500丁となっている。
つまり23%だ。
随分、減ったものである。
ただし徳川家直参(旗本及び御家人)は95046人で4103丁、僅か4.3%に過ぎなかった。
随分、お寂しいものである。

この数値は前述の上杉家より低く「さっすが長篠で鉄砲に敗れた武田流軍学の流れを汲む見事な陣立!」と言わざるを得ない。
当然、兵器の技術革新は進まず火縄銃はずっと火縄銃のままであり続けた。
元和偃武なんだから訓練だってろくにしやしない。
そしてこのまま約250年間の長き平和の後、日本は帝国主義欧米列強と対峙し開国を迫られた。
かくして幕末、明治の先達は大いに苦労したのである。 

[4011] Re:[4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/03(Sat) 19:54
20世紀初頭、仏独と組んだ露は日本に対し三国干渉を実施した。
そこで日本は英国と同盟し米国からは外債公募と言う形で資金援助を受けて露に対抗し、からくも勝利を得た。
つまりシーパワー諸国がランドパワー諸国を打ち負かしたのである。
だが戦後の満鉄経営で日本は米国の介入を排除して権益の独占化を目論み日米間に亀裂が走った。
もし、日米揃って満鉄を経営していれば利潤は減ったろうが初期投資が少なくて済み「米国を敵に回さずに中国大陸へ進出できた」のである。
だが狭量な外務大臣が一人いたせいで日本は米国を敵に回す事になり後年、とんでもない苦杯を舐める事になった。

さて、鎖国だが「教科書から鎖国と言う単語を無くそう」とか「そもそも鎖国などなかった」と言うトンデモな方には御不興だろうが鎖国とは以下の4点の要素に対する制限であった。
1.人的交流
2.外交
3.経済
4.宗教

まず1だが「誰も出ていくな、誰も入ってくるな、情報を途絶しろ」ってんで実に判りやすい。
現在の中国がネット管理でやってるのはこれに相当する。

[4010] Re:[4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/03(Sat) 14:10
> やはりトランプ政権のパリ協定離脱の件ですか?

うん。
それと国境に壁を造ったりTPPをご破算にしたりして鎖国路線まっしぐらだ。
英国だって負けちゃいない。
EUから脱退し「栄光ある孤立」を再現しつつある。

僕は鎖国方向に進む事もひとつの政策で「必ずしも間違っちゃいない」と思う。
「寄らば大樹の影」で進めば「誰もが幸せで万々歳」って訳には行かないからね。
でも鎖国方向に進むのを手放しで楽観出来る程、マヌケにもなれない。
やはりここは日、英、米の海洋国家が結束するのが肝要だろう。
まあ、それを「有り難くない。」と思う国もあるだろうけど。 

[4009] Re:[4008] 鎖国政策 投稿者:いそしち 投稿日:2017/06/03(Sat) 09:08
> 今、世界の現状は「鎖国とは何か?」の模索で満ち溢れている。

やはりトランプ政権のパリ協定離脱の件ですか?
まるで松岡全権が颯爽と席を立って国際連盟を脱退した事を彷彿とさせ暗澹とした気持ちになります。 

[4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/02(Fri) 10:08
明治維新とはすなわち開国である。
そして開国を知るには鎖国を見ねばならない。
何の為の鎖国だったのか。
どういう利害得失があったのか?
実状はどうであったのか?
今、世界の現状は「鎖国とは何か?」の模索で満ち溢れている。 

[4007] 更新のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/05/26(Fri) 12:03
本日、激闘!八八艦隊海戦史DX文庫版パワーアップキット『真実の大和』の商品概要および登場艦型一覧を掲載いたしました。
第二次世界大戦時における各国の主力艦、巡洋艦、駆逐艦が多数、新艦型として加わっています。
是非、ご覧下さい。
http://www.general-support.co.jp/88fleet/f88ex.html 

[4006] 割引販売のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/05/23(Tue) 19:10
日本海海戦戦勝祝賀キャンペーンとして5月27日(土)より弊社商品の直接通販の20%割引販売を開始いたします。
なお弊社通販フォームからのお申し込みに限りますのでご注意下さい。 

[4005] Re:[4004] [4003] 特例 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:02
> 大改装後のレナウン型は加わりますか?

もちろん、出すよ。
大改装されなかったレパルスの第二次世界大戦時も用意する。
ちなみに竣工時のレナウン型は舷側152ミリ、バーベット178ミリだったが両艦とも舷側を229ミリに強化したのでバーベットが最大の弱点になっちまった。
上面もレナウンは127ミリに強化(レパルスも146ミリに強化したとする資料もあるがゲーム上では76ミリのままとしている)されている。
天蓋装甲は108ミリとする資料などもがあるが「世界の艦船518号」によると114ミリなので僕としてはこれを根拠とし装甲5としてデータ化した。 

[4004] Re:[4003] 特例 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/05/13(Sat) 22:20
C・D・カブール型や金剛型、伊勢型など多数の艦型が増えるとの事で楽しみです。

> 同様の理由として大落角弾対処の上面装甲強化がほぼ全ての旧式戦艦で実施されたのに対し舷側装甲強化はペナペナで名高い英のレナウン型くらいでしか実施されなかった。

大改装後のレナウン型は加わりますか? 

[4003] 特例 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/12(Fri) 08:12
ちなみにC・D・カブール型は大改装でバーベット装甲が強化されたがこれは特例である。
戦間期に多くの諸列強旧式戦艦が大改装され上面装甲(ほぼ全てで実施された)や主砲塔装甲(長門型や金剛型など)が強化されたがバーベット装甲を強化した例は少ない。
それはバーベット装甲が船体構造の深部に渡っているからでありイタリア旧式戦艦の様に抜本的な大改装でなければ着手不可能だからである。
加えてバーベット装甲が中射程以下の射距離からの命中弾に対処する舷側装甲と同じ意味合いを持つ防御策であり遠射程からの命中弾(すなわち大落角弾)への対処ではない事も理由と言えよう。
同様の理由として大落角弾対処の上面装甲強化がほぼ全ての旧式戦艦で実施されたのに対し舷側装甲強化はペナペナで名高い英のレナウン型くらいでしか実施されなかった。 

[4002] C・D・カブール型 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/11(Thu) 23:00
この様にバーベット装甲で弾薬庫をデータ化しているのだが資料によってバーベット装甲が異なるケースが多くちょっと苦労する。
例えば大改装後のC・D・カブール型だ。
ソロモンDX文庫版の場合は舷側装甲と同じなので10(250ミリ)でデータ化するだけだから問題はない。
でも八八艦隊海戦史DXでデータ化しているC・D・カブール型は竣工時だけなので「真実の大和」では新たに大改装後のバーベット装甲を調べる必要がある。

ちなみに八八艦隊海戦史DXで竣工時の弾薬庫をデータ化した基礎資料はジェーン海軍年鑑の「FIGHTING SHIPS OF WORLD 1」だ。
これにはバーベット装甲9.5インチ(241ミリ)と記載されている。
よって八八艦隊海戦史DXでは装甲10としてデータ化された。
だがこの資料はWW1なのだから当然、大改装後の数値は記載されていない。

それでは他の資料に当たるとしよう。
まず世界の艦船697号「近代戦艦史」を紐解くと・・・
竣工時が280ミリ、大改装後240ミリとある。
えっ、減っちゃうの?
とても信じ難い話だ。
竣工時にしても厚すぎるしね。
次に世界の艦船485号「イタリア戦艦史」見ると・・・
なんとビックリ!
竣工時を130ミリ(大改装後は未記載)としている。
如何に何でもそんなに薄いとは考えられない。
ちなみに同書で略同型のC・デュイリオ型は230ミリとしている。

次に世界の艦船570号「第二次大戦のイタリア戦艦」だが竣工時が130ミリで大改装後、ターレットの50ミリ追加(つまり180ミリ)と記している。
後述するがどうもこの「ターレット」は誤記らしい。
コンウェイでは竣工時127ミリ、大改装後280ミリ。
ウィキ日本語版だと竣工時280ミリで大改装後330ミリととてつもなく厚い。

ねっ、ムチャクチャでしょ?
そこで最後にウィキ英語版を開けてみよう。
ここには竣工時130〜230ミリ、大改装で要部に50ミリ追加(つまり最大厚280ミリ)と書いてある。
どうやらこれが一番、正しいらしい。

つまり竣工時で130ミリとした資料は最少値をとった事、大改装後で180ミリとした資料はそれに50ミリを足してしまった事。
竣工時に280ミリとした資料は大改装後の数値を間違えて使用したらしい事、330ミリとした資料はそれに加え更に50ミリ足してしまった事と類推される。

なぜこんなヤッカイな事になるかと言うとバーベットの装甲厚が必ずしも均一では無いからなのだ。
舷側装甲だって上部と下部では厚さが異なるでしょ。
バーベット装甲厚も変化するし場合によっては砲塔毎に違ってたりする。
いずれにせよ、C・D・カブール型ひとつをデータ化するにしても結構、手間暇がかかってしまう。
よって開発が遅れてしまっているが平に御容赦願いたい。

なお、コンウェイやジェーンの数値が他と若干異なるのは英国人が無理矢理、インチヤード単位に変換してしまった為と思われる。 

[4001] 弾薬庫 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/09(Tue) 09:26
激闘シリーズに於ける弾薬庫のデータ化についてソロモンと八八艦隊では大きな違いがある事にお気づきだろうか?
例を挙げるとソロモンでR型戦艦の弾薬庫は13だが八八艦隊では10になっている。
これは弾薬庫の装甲をソロモンでは舷側装甲から算出しているのに対し八八艦隊ではバーベット装甲から算出している為なのだ。

まず主力艦の主砲及び弾薬庫の装甲について若干、説明しよう。
主砲は旋回砲塔に装備されその下には弾薬庫がある。
これは、まあ当たり前の話だ。
さて砲塔だが装甲は前面、側面、背面、天蓋に細分化される。
基本的に戦闘中は敵に主砲を向けているので被弾するのは前面もしくは天蓋だ。
よって側面、背面は前面に比べてかなり薄い。
天蓋は命中した時、大落角弾となるので貫徹力が低いからあまり厚くはしない。
更に天蓋は面積が広いので厚くすると砲塔が重くなりすぎると言う事もある。

弾薬庫は実際には砲弾を格納する弾庫と装薬を格納する火薬庫に区分される。
弾薬庫誘爆と聞くと即座に轟沈と考える人がいるが弾庫で誘爆が発生した場合と火薬庫で誘爆が発生した場合では結果が大きく異なる。
例えば大和型の46p砲の場合、1式弾の炸薬は約34キロ、装薬は砲弾1発につき約330キロである。
つまり約10倍の差がある訳だ。
加えて炸薬は堅い砲弾の中にあるのだから信管が装着されていない限り簡単に炸裂したりはしない。
だが火薬庫の場合、装薬は薄い缶の中に入っているだけだから大爆発となる。
激闘シリーズでは轟沈が発生した場合、火薬庫での誘爆を想定しているおり通常の弾薬庫誘爆はバ−ベット内での誘爆を想定している。

さてバーベットだが弾薬庫と砲塔の中間部に位置し人間で言えば首の部分に相当する。
砲塔はグルグルと旋回するのでバーベットは丸く円筒状になっている。
主砲は仰角を上げると砲耳より後方の部分は下に下がるのでバーベットは深い。
側面図で見ると砲塔と船体構造の間のごく僅かの部分しか見えないが船体内の深い部分までバーベットで構成されているのである。
バーベットに敵弾が命中するとすぐに炸裂するか、遅延信管で落下するか、反対側も貫通して突き抜けるか、のいずれかの状態になる。
そしてバーベット内に次回やそのまた次の砲撃に備えてて砲弾や装薬がズラっと並べてある。

第三次ソロモン海戦で日本が苦杯を舐めたのもヘンダーソン飛行場への対地砲撃にそなえバーベット内に3式弾、零式弾を並べていたから弾庫の1式徹甲弾を発射するまでに時間がかかってしまった為だ。
敵艦を射撃するんだから3式弾などより1式徹甲弾の方が遥かに有力なのに霧島の場合、1次夜戦で発射した主砲弾57発のうち1式徹甲弾は27発に過ぎなかった。
2次夜戦でも117発中、1式徹甲弾は27発だけである。
つまり1次夜戦では30発(主砲8門なので1門当たり約4発)、2次夜戦では90発(1門あたり約11発)の砲弾がバーベットに並んでいたと考えられる。
もっとも装薬については安全管理の観点から砲弾と同数分、バーベットに並んでいる訳ではない。
詳しくは砲術専門家のサイトで質問するのが良いだろう。 

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