GS新掲示板 発言集[41](No.4001〜4100)



[4100] EMP爆弾(その11) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/20(Fri) 10:39
さて次は大陸間弾道弾(ICBM)だ。
前述の様に人類初の大陸間弾道弾は1957年8月に初飛行したR7(西側呼称SS6サップウッド、重量280t、破壊力3Mt、射程8800km)である。
米国だって負けちゃいない。
早くも同年末にはコンベア社のアトラス(120t、1.4Mt、14000km)を初飛行させ後を追った。
R7の特徴はサイズが巨大な事で量産には全く向いてない。
そこでソ連では射程が短い準中距離弾道弾(MRBM)のR12(西側呼称SS4サンダル、47t、2080km)を基礎に中距離弾道弾(IRBM)のR14(西側呼称SS5スキーン、86t、3700km)を開発し更にそれを拡大したR16(西側呼称SS7サドラー、146t、3〜6Mt、11000〜13000km)を開発し1961年から配備を始めた。

一方、米国もアトラスに続きマーチン社が1959年2月にタイタン1(105t、3.75Mt、10140km)を初飛行させた。
タイタン1はアトラスと同時に開発された言わば競作に近い存在である。
これらの大陸間弾道弾は液体燃料を使用しており発射準備に数時間(R7は20時間)を要した。
よって実戦的ではなかったがR7やアトラス、タイタンは衛星打ち上げ用ロケットとして以降、広範囲に活用され宇宙開発に足跡を残した。
軍事的には有人衛星ほど大きな物体を大陸間弾道弾に搭載する必要はなく核弾頭程度で充分なのでありコストを低減する為には小型化する必要があった。
それに即応性も向上しなければならない。
この目的に沿ってソ連が開発したのが1964年から配備が開始されたR9(西側呼称SS8サシン、80t、1.65〜5Mt、12500〜16000km)で液体燃料ながら発射準備は20分に短縮化された。

だが1962年から配備が始まった米国のミニットマン1(35t、1.2Mt、10000〜13000km)は大陸間弾道弾の常識を覆す画期的兵器となった。
ボーイング社の開発によるミニットマン1は燃料が固形になり信頼性、即応性、コストの面で他の追随を許さない性能を誇った。
ミニットマン1に先行し海軍もロッキード社の開発による潜水艦弾道弾ポラリスを採用したがこれもまた固形燃料であり固形燃料の技術革新性こそが核兵器開発競争で米国がソ連を凌駕する要因となった。

普通なら固形燃料の開発で遅れを取れば何とか挽回しようと頑張るものだ。
だがソ連の対応は違った。
固形燃料の開発も若干は進められ一部には固形燃料弾道弾の制式化もされたが「より良い液体燃料の開発」に軸足が移されたのである。
かくして開発されたのがR36(西側呼称SS9スカープ、183t、20Mt、10200〜15200km)で1966年から配備された。
R36は重量がミニットマンの5倍にも及び重ICBMに分類される。
更に1974年からはミニットマンの7倍に達するR36M(西側呼称SS18サタン、211t、0.75Mt10発、11000〜16000km)に更新された。
1988年時にソ連が保有した大陸間弾道弾1386基のうちR36Mは308基(他は42tのUR100が420基、45tのRT2が60基、71tのUR100MRが138基、105tのUR100Nが350基、105tのRT23が10基、45tのRT2PMが100基)を占めている。
これらソ連の大陸間弾道弾の合計重量は136376tに及ぶ。
それに対し同時期の米国が保有した大陸間弾道弾はミニットマン961基と88tのピースキーパー39基で合計重量は37067t(ソ連の27%)に過ぎなかった。
大陸間弾道弾配備数は米ソが拮抗していたが内容は大きく異なっていたのである。

当然、重ICBMの製造費は莫大でソ連経済を圧迫する。
軍事費の増大はソ連崩壊を招いたが冷戦終結後、余剰となったR36Mは民需に転用(ドニエプルロケット)され宇宙開発で大いに活躍した。
通常の大陸間弾道弾は負の遺産にしかならないがサイズが巨大であった為、R36Mは衛星の打ち上げにも対応できたからである。
加えてスペースシャトル計画の挫折も大きく影響し日米及び欧州各国はソ連で開発された重ICBMで次々と衛星を宇宙へ送り出した。 

[4098] EMP爆弾(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/15(Sun) 20:01
特徴的なのは以降、米国がポラリスに続きポセイドン、トライデントなどの潜水艦弾道弾を開発し戦略原潜を改装して逐次、更新した事である。
よって米国では1967年に最後のポラリス原潜W・ロジャースを就役させてから以降、1981年にトライデント装備のオハイオ型原潜を就役させるまで14年に渡り戦略原潜を建造していない。
一方、ソ連はヤンキー型以降も続々と戦略原潜を新規に開発し建造し続けた。
つまり戦略原潜の隻数が年を経るごとに増え続けたのである。

潜水艦弾道弾の登場によって戦略核のバランスオブパワーは大きく揺らいだ。
それまでソ連戦略爆撃機に対し聖域だった米本土沿岸部は潜水艦弾道弾の脅威に曝され米国は急速に対潜戦の技術革新で対処せねばならなくなった。
戦略爆撃機から都市を守る為、地対空ミサイルが開発された様に。
かくして対潜哨戒機、それを搭載する対潜空母、高性能な攻撃型原潜、固定式水中ソナー網、曳航式ソナー、核装備の無人ヘリなどが次々と実用化されていった。
全てソ連の潜水艦弾道弾から米本土を守る為である。

一方、ソ連は当初、米国の戦略原潜に対しあまり脅威を感じていなかった。
それには二つの理由がある。
一つ目はソ連の大都市は殆どが内陸部にありレニングラードやウラジオストックなどの港湾都市も外洋には面してはいなかったからで次の理由は既にソ連の大都市が米国戦略爆撃機の脅威に曝されていたからであった。

だが後に地対空ミサイルの高性能化で戦略爆撃機は陳腐化した。
そして代わりに潜水艦弾道弾の長射程化で内陸都市が目標になり話が変わった。
ただしその時は自国の内海水域から敵国本土都市を攻撃可能となったので幾ら対潜戦戦力を拡充しても敵の戦略原潜に対処できなくなっていた。
1987年に初飛行した米国のトライデント2は射程11112km(ニューヨーク−>ウラジオストックが10300km)、1974年に実用化されたソ連のR29(西側呼称SSN8ソーフライ)は射程7800km(ニューヨーク−>ムルマンスクが6454km)に及ぶ。

攻撃力の増大も著しかった。
1971年から部隊配備が実施された米国のポセイドンC3では50Ktの核弾頭14発を搭載できポラリス原潜は1隻で224都市を攻撃可能となった。
これがトライデント2だと破壊力が475Kt(広島に投下されたリトルボーイの34倍)になり装備数が24発なので336都市が攻撃可能となる。
ソ連のタイフーン型原潜も200Kt核弾頭10発を搭載するR39(西側呼称SSN20スタージョン)を20発装備し攻撃可能都市は200を数えた。
つまり1隻でも戦略原潜が攻撃したらそれだけの都市が灰燼に帰すのである。
もっとも現在ではモスクワ条約によって戦略核の弾頭数が削減されたので、さすがのオハイオ型原潜も保有する核弾頭数は96〜120発に減少している。
だが、それでもモスクワ条約での戦略核保有数1700〜2200発のうちオハイオ型14隻(他に巡航ミサイル原潜に改装されたオハイオ型が4隻)が装備する戦略核弾頭は1344〜1680発に及ぶので「戦略原潜こそ戦略核の主力」と言えよう。

ところで今回、ソ連の潜水艦弾道弾を数多く紹介したが参考としたポルマー著「ソ連海軍事典」世界の艦船362、376、426、604、639号、土井寛著「ミサイル戦争」ウィキの英、露、日、ポルトフ著「ソ連/ロシア原潜建造史」など各資料でかなりの相違が見られる。
まずR11は2000年以前に刊行された資料では殆ど記載されていない。
次にヤンキー型が装備したR27(西側呼称SSN6)は世界の艦船362、376、ミサイル戦争などではソーフライとしているが世界の艦船639号ではサーブとしておりソ連海軍事典ではどちらでもないとしている。
現在、最新の資料ではSSN8をソーフライとしている事が多い。
重量、射程、破壊力についても各資料で大きな差が見られるのでご注意頂きたい。 

[4097] リーダーを選ぶということ 投稿者:内藤空力 投稿日:2017/10/14(Sat) 18:18
中国K市在住の内藤です。10/18から中国では第19回中央党大会です。25人の政治局員とその中から7人の常任委員を選ぶわけで、町にもなにやら看板や垂れ幕が出ています。でも、会社の中国人スタッフに聞いても、皆関心がありません。わたしが日本の新聞に載った現在の政治局員と次の候補者たちの写真入り名前記事を見せると「コピーさせてくれ」と言われました。
興味が無いというより、「選挙」という概念が存在しないのです。
以前、ある記事で「今、アジア各国の若者に民主的な選挙の具体的方法を教えているのは『AKB48の総選挙』だ」というのがあって、思わず納得してしまいました!!!
もし20年以内にアジア各国の『党』や『軍部』の独裁国家が民主化したら、秋元某氏が「ノーベル平和賞」を獲るかもしれません。 

[4096] 傘が破れた時 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/13(Fri) 19:39
軍人は数学的思考を重視しテロリストは心理学を重視する。
どちらも武力闘争に従事するがアプローチの仕方は大きく異なる。
軍人は敵軍を殲滅する事で任務を果たすがテロリストは敵国民に恐怖を与える事で任務を果たす。
よって核兵器を使用する場合でも軍人とテロリストでは優先目標が違う。
軍人は敵の打撃力を破砕する為、敵の兵力中枢を優先目標に選ぶがテロリストは人口過密地域や政権中枢が存在する地域を目標に選ぶ。
なお、戦略爆撃や戦略核攻撃はかなりテロに似た戦争形態だが恐怖が主目的ではなく「生産力の低下」が目的の一環なのでテロから除外される。

さて、核兵器の破壊力を披露したいのなら何も都市を目標とせずとも無人の島や海で威力を示せば充分じゃないかと考える方も居られよう。
僕もそう思う。
だが1945年の時だって「広島を目標とせず人的被害を極限して効果を示そう」と言う意見が米国にあったにも関わらず残念ながら却下(トルーマン大統領すら市街地への投下には反対だったらしい)されてしまったのだ。
それどころか三日後には間髪をいれず長崎にも投下された。

「核の脅威」は核兵器の保有と「核兵器の使用意志」によって成立する。
もし北鮮が核兵器を保有しても「変な髪型の肥満児」が平和を愛する人道家で相手の話を良く聞く好人物ならさして脅威ではない。
しかし「テロリスト的思考の持ち主で他者を恫喝したがる輩」なら話は別だ。
まあ、北鮮に「核の脅威」があったにしても「核の傘」が機能しているなら枕を高くして眠っていられるけどね。

だが「何よりも自国民の生命財産が大切」(北鮮を除く)なのはいずこも同じ。
米国民は「東アジアの戦争に巻き込まれて米本土の沿岸諸都市が灰になるのは嫌だ」と思うだろうし米国大統領は米国民の選挙で選ばれるんだから「日本に対する信義の為には米国民の死をも厭わず」と言わないだろう。
よって「海外派兵による職業軍人の死傷」くらいならいざしらず「米本土に対する核攻撃で市民の大量死」はちょっと受け入れ難いのだ。
日本だって「米国の戦争に巻き込まれるな!」ってすぐ言うじゃない?
あっちだって同じだ。
だから北鮮が「米本土を核攻撃できる能力」を保有したら「核の傘」はアテにならなくなってしまう。
それは北鮮の核攻撃に日本本土が晒される可能性が生じる事を意味する。

「核の脅威」が存在し「核の傘」が機能しないなら日本は「独自の核兵器保有」を検討せねばならない。
「核を撃って来たら撃ち返すぞ」と宣言し均衡を取る為にね。
つまりこの日本の核は「他国を恫喝する為の核」ではなく「日本が核攻撃を受けた時のみ使用する報復用の核」なのだ。
有識者の中には「日本は核兵器を保有せず米軍の核兵器持ち込みを認可してはどうか?」とする意見もある。
だが日本国内に米軍の核兵器があったとしても日本政府が日本国民の為に日本政府独自の判断で使用できなければ意味を為さないだろう。
なお、「核の脅威」とは必ずしも近隣諸国の核兵器保有を意味しない。
近隣諸国が核兵器を保有していても使用する意図がなければ無闇に怖がる必要は無いんだから。
ソ連は1949年、中国は1964年から既に核を保有していたでしょ?
だけど両国とも「日本に核をぶっ放すぞ!」と声高に叫んだりはしなかった。
北鮮だって2006年の段階(パーマ親父の時代だね)ではあまり過激な事は言わず「米国への対抗措置」といったスタンスだった。

それが今じゃどう?
「核で日本を海に沈める!」と恫喝してるんだよ。
これは日本にとって脅威以外の何ものでもない。

冒頭で軍人とテロリストの発想的相違について書いたが最後に核兵器を使用する側の意志決定機構について述べておこう。
国家の意思決定は多くの場合、政治家(国家指導者)に任せられる。
ではどうやって政治家(国家指導者)は選出されるのであろうか?
民主主義(ロシアも含む)の場合は選挙で政治家が選出される。
よって国家指導者は民意を無視できない。
だとすれば安心だ。
よっぽどの事でなければ国民は核の使用を容認しないからね。
中国ではどうなんだろうか?
共産党の中で役職が決定されるみたいだけど今ひとつ、はっきりとは判らない。
でも中国は独裁制ではなく「トップの座を追い落とそうとするナンバー2以下」が犇めいているから「民意や党の統制を無視した無茶」は簡単に出来ない。
だからこれまた安心(多分・・・)だ。

北鮮の場合、国家指導者の選出は実に簡単だ。
完全な世襲制だから次は「変な髪型の肥満児」の子供から選出されるのだろう。
いずれにせよ北鮮の国家的意志決定に民意は反映されない。
なにせ独裁制の世襲制なんだから。
いや、何も「民主主義=○」で「独裁制=×」って言ってる訳じゃないよ。
そりゃ民主主義は素晴らしいが衆愚政治に陥ってしまう事だってあるし民主的に選挙で選出されても国家指導者に就任してから豹変し反体制派を弾圧して独裁制に移行するケースもある。
逆に独裁者であっても中にはチトーの様に割と立派な人物(フランコの評価は難しい所だ)だっているからね。
他民族国家だったり極端に急迫した状況だと独裁制の方が良い場合もある。
えっ、変な髪型の肥満児?
あれは立派じゃないグループだ。 

[4095] ふたつの考え方 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/11(Wed) 19:37
「IL−28の話」で各地の在日米軍基地が核攻撃の危険に晒されていると書き、発言「4094」では「危険なのは在日米軍所在地ではなく日本の地方都市」と書いた。
となると「どっちがホント?」と疑問を持たれるであろう。
「IL−28の話」は北鮮の意志決定が軍人的思考を基礎にしているとの前提で記述し発言「4094」はテロリスト的思考を基礎にして書いたのがミソである。
果たしてどちらが正解なのか?
背後にいるロシアや中国との兼ね合いもあるからちょっと判らないが私としては在日米軍基地に対する核攻撃は「米国による全面的な核報復」があるので現実性は甚だ少ないと思う。

だが、もし・・・
米国が在日米軍兵力の投入を前提とした「朝鮮半島有事に際する武力行使計画」を策定し、それが北鮮に察知され、「在日米軍基地に対する核攻撃以外にそれを阻止する方法が無いと北鮮側が判断した場合」は別だ。
多分、すぐさま米国のICBMが報復として山ほど降ってくると思われるが「状況」によっては中露の外交的介入で危機を回避できるかも知れない。
「状況」とは「北鮮がSLBMを装備した潜水艦の開発に成功し北米大陸沿岸に既に進出している事」などである。

果たして現在の所、どうなんだろうか?
最近のニュースじゃプーチン大統領は「北鮮は2000年から既に核兵器を保有していたよ」と発言し世を騒がせている。
北鮮核保有を我々が確認したのは2006年だと言うのにだ。
現在、北鮮のSLBM開発は完成直前で潜水艦は「保有してるんだか、まだなのか、ちょっと判らない」と我々は判断している。
だが、ひょっとしたらもう完成して出港してるのかも知れない。
そう考えると米国としても腰が引けるのである。

そうやって相手に恐怖を与え恫喝するのがテロリストだ。
在日米軍基地が壊滅しようとも「米本土の米国民に人的被害が皆無」で米国沿岸にSLBM潜水艦がウロウロしているならば米国大統領は北鮮へICBMを撃たず米国民の安全を守る為、取引に応ずる可能性がある。
でもまあ、こんなのは滅多にはありそうも無いから除外しても良いだろう。
在日米軍基地を核攻撃する事はまず、無いと思うよ。

だけどテロリスト的な思考による日本の地方都市に対する核攻撃は・・・
状況によるけどあるんじゃないかと僕は心配している。
北鮮にとって重要なのは「米本土を核攻撃できる能力」を保有する事で「いざとなったらそれを行使するぞ」と恫喝する事である。
保有するのが目的であって実際に米本土核攻撃するのが目的ではない。

この場合、考えられるのはICBMとSLBMだが実の所、ICBMは殆ど報復核戦力として期待できないのだ。
サイロ式だったら防御は強固だが所在地が筒抜けだし移動式だと防御は脆弱(おおよその位置は推定できる)にならざるを得ない。
よって米国が先制核攻撃をした場合、ICBMは例え米本土攻撃能力を持っていたとしても瞬殺されてしまうだろう。
では北鮮が先制しICBMを米本土へ発射したらどうであろうか?
そんなにたくさんのICBMを保有するのは経済的に難しいから迎撃されてしまうだろうね。
でも・・・
SLBMだったら話は別だ。
僕は北鮮が開発している核兵器の本命はSLBMだと思っている。
このSLBM(及び装備する潜水艦)を完成させ米国に恐怖を与えるのが本意だ。
だが米国民が「怖い」と思わなかったら?
この時が日本にとっての危機と僕は考える。
テロリストにとっては「みせしめ」が重要なのだ。 

[4094] 北鮮の恫喝 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/06(Fri) 13:07
北鮮が核兵器を保有しているのは恫喝する為である。
どの国を?
勿論、中国やロシアではない。
(場合によってはありえるかも知れないが)
韓国でもない。
ソウルを叩くのは通常弾頭の対地ロケットや火砲で充分、間に合うし放射能で汚染されたら占領も資材奪取もままならないからね。
では米国か?
脅かすと言う点ではまあ、そうだ。
でも使うかとなったら話は別で自殺覚悟でなけりゃ、まずやらないだろう。

では絶対に使わないのか?
だとしたら有り難い話だが近隣諸国が「あそこは核持ってるけど使わないから安心だよ」と考える事は北鮮にとって望ましい事ではない。
恫喝にも何にもならなくなってしまうからね。
さて、消去法からすると北鮮が核兵器を使用する可能性がある国は日本だけとなる。
問題はどこに対して何の目的で使うかだ。
まともな戦争観であれば在日米軍基地となるだろう
だが米軍からの本格的な報復核攻撃を受けるのは確実なのでよっぽどの事(つまり恫喝ではない核の使用)でなければやらない。
ここで重要なのは「核の傘はちゃんと機能するか?」と言う問題である。
米露が「やられたらやり返す」とした意志と戦力を持ち「同盟国とは不可分」との理念を持つ事で「核の傘」は成立する。
厄介な事にここで「人類の滅亡は避けたい。」とする別の思考が入ってくる。
果たして米露の指導者は同盟諸国に「約束したんだから例え人類が滅亡しようとも報復核攻撃を実施するよ」と言うだろうか?
米露の国民はそれを納得するだろうか?
これはちょっと難しい問題だと思う。
仮にロシアが米軍基地が存在せず民間の米国人があまり居住していない日本の地方小都市にいきなり核攻撃を加えたとしよう。
(プーチン氏はそんな事を絶対にしないと思うが)
これに対し米国は核の傘を理由にロシアへの全面的な報復核攻撃を実施する事は無いと思う。
やったらロシアは米国へ「報復の報復」で核攻撃し人類が滅亡するからね。

だけど核を撃ったのが北鮮となったら話は別だ。
北鮮が「米本土を核攻撃する能力」を持たない限り完膚無きまで米国の核攻撃が繰り広げられるだろう。
だが北鮮が「米本土を核攻撃する能力」を持っていたとしたら?
ICBMにしてもSLBMにしてもその戦力化は目と鼻の先だ。
最終的に北鮮を世界地図から消し去り米国が勝利するにしても引き替えにサンフランシスコやロサンゼルス、ワシントンが灰燼に帰す事を米国民は容認するだろうか?
マティス米国防長官は日韓両国が大きな損害を蒙る事なしに北鮮に対する軍事行動が可能と言ってる。
おそらく「あの手」を使うのだろう。
もし北鮮が「地方都市への核攻撃」なんて事を企んでいるのなら是非、その前に「あの手」を実施して貰いたいと思う。
北鮮が「米本土を核攻撃する能力」を持つ前にね。
ミシガンの艦長に命令を下すだけなのだからそんなに難しい事ではない。
問題は「地方都市への核攻撃」など企んでいない場合だ。
だとしたら安易に「あの手」など使うべきではない。

企んでいるか、いないのか?
これは変な髪型の肥満児がテロリスト的思考をしているかどうかにかかっている。
テロリスト的思考は「恐怖による支配とインパクト」を重視しており人命は殆ど重視しない。
それどころか多数の人命が消える程、恐怖の度合いは増す。
地方小都市を灰にして周辺諸国から恐れられる事はテロリストに取って望ましい事なのだ。
自分の親族を対空機関砲で撃ったりVXガスで殺したりヨンピョン島でいきなり砲撃戦を繰り広げたりする人物は少々、テロリスト的な感じがする。
我々は日本の小都市が「次のヨンピョン島」になる事を未然に防がなくてはならない。 

[4093] 政治信条 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/05(Thu) 14:05
広島への核攻撃では直後で約9万名、昭和20年末までに約14万名が死亡した。
核兵器による破壊は熱戦と爆風及び放射能によって構成される。
熱戦の破壊範囲は屋外にいた場合、爆心から1.2km以内で致命傷、2km以内で死亡もしくは重症の火傷、3.5km以内で回復可能な火傷だったらしい。
爆風では2km以内の木造家屋が全壊した。
放射能については色々と説がありまだ未判明の部分が多い。

この核攻撃で使用されたリトルボーイは14Kt、北鮮が前回実施した水爆実験は250〜300Kt(米ホプキンス大の発表)とされる。
どうもこれだと半径7〜8kmで致命傷、10km前後で死亡もしくは重傷、それ以遠で負傷と言う事になるらしい。
いったいどれだけの被害が生ずるのやら・・・

核兵器なぞ使用されて死ぬのは嫌だし恐ろしい。
更に死ななくても四肢の欠損や失明など重度の障害を受け余生を生きるのは辛いし家族がそうなった場合、支えていくのも大変だろう。
家屋等の財産も奪われる。
職を失う人も多いだろう。
核攻撃の恐ろしさとはこうした事なのである。
この様に危険なシロモノを開発して保有し「日本を核で沈める」と豪語する変な髪型の肥満児がすぐ近くにいる。
とても物騒な話だ。
それなのに衆議院を解散し総選挙をやろうとする政権与党指導者がいる。
これまた妙な話だ。

国難とか言ってるが本当に今が国難なら政局を不安定化する場合じゃないだろう。
選挙となったら「誤解や曲解されそうな行動や言動」は慎まねばならず「良い事ではあっても危険思想と受け取られかねない言辞」は控えてしまう。
なにより「次の政権はどうなるか?」と行き先を心配する官僚、自衛官は選挙の結果が明らかになるまで動きが取れない。
それに選挙で今の政権与党が負ける事もあるんだ。
政権与党が野党になるのは自業自得だろうが新たな政権与党は当分の間、動きが取れないだろう。
それを見越しての解散ならあまりにも汚いし新たな政権与党と国民が塗炭の苦しみを舐める事になる。
自分の政権を守る為に国家を危険に晒すとはとんでもない政党指導者だ。
きっと国土防衛に無知で観念論がお好きなんだろう。
そんな政権指導者ならきっととんでもない愚物を防衛相に任命する。
ひょっとしたらメガネをかけて網タイツをはいてるかも知れない。

断って置くが僕は政権与党が嫌いなのではない。
むしろ好きだ。
防衛施策に無知な政権指導者が日本を国難に陥れるのが嫌なのである。
政権与党には妙な政権指導者(と仲間達)の他に有為な人物がいっぱいいる。
是非ともその方達には活躍し日本を引っ張っていって欲しい。
だけど政権与党に自浄能力はあるのだろうか?
どうかあって欲しい。
一時的に党から離れるのも良いだろう。
党内で改革するのも良いだろう。

もし自浄できないなら防衛相の経験がある野党指導者に期待するのも手だ。
僕が投票する選挙区で立候補する政権与党の候補者が妙な政党指導者(と仲間達)の派閥なら僕は票を入れない。
野党でも立派な人はいるんだからそっちの候補者に入れる。
僕から見て「政権与党で立派な人達」なら申し分ないんだけどね。

普段、僕は政治的発言を殆どしない。
だけど今度ばかりは別だ。
もし何も言わなかったら「後世、史家に笑われる」し死んでから神様に「おまえ何もしなかったじゃないか」と叱られるだろう。
やはり後悔はしたくない。 

[4092] EMP爆弾(その9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/04(Wed) 19:52
ここで戦略核のトライアド(三本柱)について考えてみよう。
トライアドは戦略爆撃機、潜水艦弾道弾(SLBM)、大陸間弾道弾(ICBM)の3種で構成される。
なぜ3種ではなく1種に絞れなかったのであろうか?
その理由は1950年代から1980年代までこれら3種の兵器体系はそれぞれが短所と長所を持ち、互いに補完しあって総合的戦力を発揮していたからである。

最初に実用化された潜水艦弾道弾は1955年に発射成功したソ連のR11(核装備型の完成は1958年)でズールー型潜水艦のセイルに2基装備された。
R11(重量5.4t、破壊力50Kt、射程150km)に続きソ連は1959年にR13(西側呼称SSN4サーク、13.7t、1Mt、射程600km)の発射を成功させ後期型のゴルフ型潜水艦セイルに3基装備している。
このゴルフ型潜水艦を「潜水艦史に登場する過去の遺物」と考えてはならない。
1993年に10隻のゴルフ型潜水艦がスクラップ用として北鮮に売却され部品が大量に確保されたうえ、ポルトフ氏の説によればソ連が中国に供与したゴルフ型4隻のうち1隻が北鮮に譲渡されたらしいのだ。
北鮮は2015年5月に潜水艦弾道弾北極星1号(なんと英語ならポラリス1号!)を発射したがプラットフォームはゴルフ型もしくはそれを国産化した新浦型潜水艦であったと推測されている。
つまりゴルフ型は目前に控えた脅威であり決して過去の遺物などではない。

さて、R11とR13は発射に手間のかかる液体燃料エンジン(R11は2時間、R13は1時間)であり液体燃料は毒性と発火性の面からも管理に危険が伴った。
しかも両者とも水中発射できず運用面でも大きな問題があった。
射程の短い潜水艦弾道弾で米国の都市を攻撃する為には米国沿岸まで接近せねばならずそこは常に米国の制空権下だったからである。
かくして早急に水中発射可能な潜水艦弾道弾の開発が求められ1960年9月10日にR21(西側呼称SSN5サーブ、19.6t、1Mt、射程1420km)が水中発射に成功し後期型のホテル型原潜セイルに3基装備された。
R21によりソ連の潜水艦弾道弾は大きな飛躍を遂げたかに見えた。
だが・・・

なんとその40日前、米海軍初の潜水艦弾道弾ポラリスA1(13.1t、0.6Mt、射程1852km)が水中発射に成功していたのである。
要目だけ見ればR21よりちょっと軽く、ちょっと射程が長いだけに見える。
だが、ポラリスA1にはとてつもなく優れた要素がふたつあった。
まずは燃料が固形になった事で発射準備時間が短縮し安全性が向上した。
次に全長がR21の14.2mに対し8.7mと短く1艦に多数を装備できた。
全長の長いR11やR13、R21はセイルにしか装備できなかったがポラリスA1はセイル後方の船体後部に2列で装備できたので1艦16基にも増加した。
米国はポラリスA1装備のG・ワシントン型原潜を皮切りに1967年4月までに3艦型計41隻のポラリス原潜を就役させ発射機総数は656基にも及んだ。
一方、1967年夏までにソ連が就役させた潜水艦弾道弾装備の潜水艦はズールー型5隻、ゴルフ型23隻、ホテル型8隻の計36隻で隻数だけは米国に匹敵したが発射機総数は僅か103基に過ぎなかった。

ポラリスA1の出現に衝撃を受けたソ連は全長8.9mのR27(14.2t、1Mt、2400km)を開発し1967年1月に水中発射を成功させた。
これを米国のポラリス原潜と同様の配置で16基装備したヤンキー級原潜が1967年11月以降、34隻建造されている。
R27の燃料はまだ液体だったが安全性が向上し管理面で大きく進歩した。
ソ連は潜水艦弾道弾の開発に先鞭を付けたがポラリスの登場で逆転しR27及びヤンキー型原潜で再び追いついたのである。
以降、米ソは潜水艦弾道弾の射程延伸、弾頭のMIRV化、命中精度の向上で熾烈な開発競争を繰り広げる。
ポラリスはA2で射程2800km、0.8Mt、A3で射程4630km、破壊力は0.2Mt3発に増えR27も後期型は射程3000km、破壊力はは0.2Mt3発となった。 

[4091] Re:[4090] 役人的な考えとしては 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/03(Tue) 16:22
> 先日、Jアラートで大騒ぎになって、その後、騒ぎすぎだの役に立たないだの色々批判がありましたが。

毎日1発、丑三つ時に東京越えで撃たれたら国民総不眠症になるだろうなあ。
まるで1943年にラバウル上空へB17が「夜間いやがらせ爆撃」に来た時みたいになる。

> 田舎の地方議会では、ミサイルが着弾した場合の対応や備えについて一般質問が出てきたり、
> 避難する場所が無い!とか何に注意すべきかとか(田舎じゃ地下室も頑丈な建物も無いんだぜ)

東京のこの辺だって入室可能な地下室や堅牢な建築物などへ行く前にミサイルは日本を飛び越しちゃうよ。

> ここからやっと、最初の議論が始まるんだなぁ、という感じはします。

そうだね。
本来なら最初に北鮮が「日本またぎ」を撃った1998年にすべきだったんだが。

> 実際、Jアラート鳴っても、みんな普通に朝飯食って仕事に行くんだけどね。

Jアラートが鳴った時、本当にすべきなのは「ガスやストーブの火を消す事」、「運転中だったら車を止める事」、「歩行中だったら止まってかがむ事」、「覚悟する事」くらいで充分だと思う。
と、言うかそれくらいしかできないし。

戦略核は効率よく民間人を殺傷する為の兵器体系である。
そして自分がその対象である事を決して忘れてはならない。
よそ事ではないのだ。
我々は当事者なのである。
だから多くの人に戦略核の事を忌み嫌わずもっと勉強して欲しい。
「好きこそ物の上手なれ」って言うでしょう?
嫌ってたら勉強する気になどなれないのだ。 

[4090] 役人的な考えとしては 投稿者:K−2 投稿日:2017/10/02(Mon) 22:27
先日、Jアラートで大騒ぎになって、その後、騒ぎすぎだの役に立たないだの色々批判がありましたが。
田舎の地方議会では、ミサイルが着弾した場合の対応や備えについて一般質問が出てきたり、
避難する場所が無い!とか何に注意すべきかとか(田舎じゃ地下室も頑丈な建物も無いんだぜ)
ここからやっと、最初の議論が始まるんだなぁ、という感じはします。
今まではそういう方向に持って行かせないような力が働いてた感じなので。
もしかしたらもう手遅れなのかもしれませんが(自主防衛という意味では)
今後のためには、このように、どう対処すべきかを考え始めるのは有意義だと思います。
実際、Jアラート鳴っても、みんな普通に朝飯食って仕事に行くんだけどね。

[4089] なかなかEMP爆弾に辿り着けない理由 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/10/02(Mon) 19:27
昨今、北鮮の核兵器について極端な悲観論や荒唐無稽な楽観論が見受けられる。
どうか、正しい知識の下できちんと怖がって頂きたい。
よって当初は軽くEMP爆弾について書くつもりだったのがいつの間にか「核兵器開発史」になってしまった。
北鮮はEMP爆弾のみを恐喝材料にしている訳ではない。
北鮮が使用しうる核兵器の危険性についてこの掲示板で少しでも理解していただけるなら幸甚である。 

[4088] EMP爆弾(その8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/29(Fri) 19:43
それでは次に米国の戦略爆撃機が搭載する核巡航ミサイルを解説しよう。
米国が最初に実用化した戦略爆撃機用核巡航ミサイルは1957年から開発着手され1959年に初飛行したAGM28(ハウンドドッグ)である。
AGM28は射程1250km、破壊力1.5Mt、重量4.5t、速力M2.1で胴体下部にターボジェットエンジンを装備していた。
よって外形はソ連のK10に似ていたがK10が胴体中央に主翼、後部に水平尾翼を配置していたのに対しAGM28は前部にカナード翼、胴体後部にデルタ翼を配置している点が異なっていた。

なお、AGM28の開発にはSM64(ナバホ)の基礎技術が流用された。
SM64は独のV1に触発され延々と開発されてきた大陸間巡航ミサイルの最終発展型で重量27t(ブースターを含めると69t)、射程5600km、速度M2.5の大型ミサイルであったが1957年7月に開発中止となった。
AGM28は航続16316km(戦闘半径7158km)、速力M0.84のB52の翼下に2基装備されるが離陸時にはAGM28のエンジンも補助動力として使用でき飛行中にAGM28へ燃料を補充する事も出来た。
実戦配備は1960年から実施されている。

こうして米ソは地対空ミサイルの開発で鎬を削り空対地巡航ミサイルの開発で応酬し更に高性能な地対空ミサイルの開発に邁進した。
このシーソーゲームはずっと続いたのだろうか?
いや、すぐに終わってしまった。
なぜであろうか?
恐竜の様に、戦車の様に、超ド級戦艦の様にどんどん巨大化(核巡航ミサイルと核地対空ミサイルの場合は長射程化だが)して行かなかった理由は?

その答えは核巡航ミサイルを装備した戦略爆撃機より効率的な兵器体系が徐々に頭角を現し戦略爆撃機が淘汰されていったからである。
核巡航ミサイルを装備した戦略爆撃機が衰退した以上、これを目標とする核地対空ミサイルも存在意義を失った。
だが全ての戦略爆撃機が消え去った訳ではない。
本当の意味で戦略爆撃機(都市/工場などを目標とした大量殺傷も任務に含む重爆)ではないが単なる戦術任務の重爆として様々な戦争で活躍している。
ベトナム戦争で活躍したB52やアフガンでのB1やB2の様に。
地対空ミサイルも戦略爆撃機を目標としない方向でどんどん開発が進められた。
顕著なのは任務が国土防空から戦域防空に変化した事と目標が戦略爆撃機から戦術爆撃機に変化した事でランチャーも固定式発射台から自走可能なランチャーに変わっていった。
日本の主要地対空ミサイルもMIM14(日本名ナイキJ)からMIM104(パトリオット)へと更新されている。   (続く) 

[4087] EMP爆弾(その7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/28(Thu) 20:09
さて、ソ連の核巡航ミサイル開発に対し米国としては更なる地対空ミサイルの充実を余儀なくされた。
米国が保有するCIM10(重量7t)は10Ktの核弾頭を装備していたので破壊力は申し分なかったが大型ミサイルなので高価でありMIM3(重量1.1t)は小型ではあるものの通常弾頭なので命中しなければ効果はなかった。
おまけにMIM3の速度はM2.3に過ぎなかったのである。
ソ連のS25(重量3.5t)も核弾頭(10Kt)だったので直撃せずとも目標を破壊できた。
CIM10とS25の双方とも速度はM2.5であまり速くはなかった。
だがそれに比べ直撃(もしくは至近)でしか破壊できないMIM3は目標の後方から追撃して接敵せざるを得ず、速度が遅いのは致命的であった。

一方、ソ連のS75(重量2.3t)はM3.5と速かったので通常弾頭であっても充分に目標を破壊できた。
かくして米国で機動力を向上させた新しい地対空ミサイルが開発された。
MIM14(ナイキ・ハーキュリーズ)として制式化されたこのミサイルはMIM3の拡大発達型でMIM3の1段ブースターを4本束ねた構造をしていた。
よって重量は4.8tに増加したが速度はM3.6に向上し射程も155km(MIM3は48km)に伸びた。
更に弾頭には40Ktの核もしくは500kgの通常弾頭(10カ国の同盟国にはこちらが使用された)が装備でき1958年から配備が開始された。

射程155kmではソ連軍の戦略爆撃機用核巡航ミサイル(射程550〜650km)に対して不足だとお考えの方が居られるかも知れない。
だが心配ご無用。
北部国境にズラリとMIM14の発射基地を並べておけばそれ以南は守れる。
少なくとも役に立ちそうもないMIM3よりはずっと良い。
こうして米国本土の防空態勢が急速に強化されていった。  (続く) 

[4085] EMP爆弾(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/25(Mon) 19:36
ソ連がどうしたかって?
戦略爆撃機による核攻撃の脅威を最も感じていたのはソ連だ。
勿論、地対空ミサイルを開発したよ。
最初に量産したのがS25(SA1ギルド)で1954年から配備された。
これはかなり大型で重量はMIM3の3倍以上もある3.5tだった。
弾頭は核が望ましかったが当初は炸薬320kgの通常弾頭で核弾頭の小型化に成功した1957年から核弾頭型に変更された。
位置づけとしてはCIM10やMIM14(ナイキ・ハーキュリーズ)に相当する大型ミサイルでソ連国内の都市防空用に配備されている。

ついで1957年からはS75(SA2ガイドライン)の配備が始まった。
これは重量2.3tの戦術用地対空ミサイルで炸薬195kgの通常弾頭を装備しソ連のみならず東側各国で装備された。
後に核弾頭装備型も開発されたが特殊な例であって殆ど生産されていない。
核弾頭の地対空ミサイルは破壊力絶大だけど「世界滅亡の日」まで出番はない。
それに比べ通常弾頭の軽便な地対空ミサイルはバンバン撃てるし衛星国へもドシドシ輸出/供与できるから使い勝手が非常に良い。
S75は傑作地対空ミサイルとしてベトナム戦争、中東戦争で大活躍した。

さて、こうして地対空ミサイルがずらりと並ぶと流石に勇敢な戦略爆撃機パイロット達もちょっと怯む。
でも策が無い訳じゃない。
核爆弾を上空で投下するのではなく核弾頭の巡航ミサイルを地対空ミサイルの射程外から撃てば良いのだ。
かくして次々と戦略爆撃機用の核巡航ミサイルが開発されていった。 

[4084] 戦線の薄き事紙の如し 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/24(Sun) 19:42
数日前、八雲のPAC3が函館に移駐したとのニュースをみて「なんで?」と思った。
函館の防空なんて車力のPAC3で充分じゃん。
そしたら今日、仙台駐屯地の基地祭でPAC3が展示されたとのニュースが流れ疑問が氷解した。
前に書いた様に津軽の車力から首都圏までPAC3の部隊は一切、存在しない。
この御時世に首都圏の防空をほっといて基地祭に出かける事はないだろう。
と、なると基地祭にでたのは車力のPAC3となる。

ああ、そうか。
その穴を埋める為に八雲のPAC3は函館に下がったのか。あくまでも推測にすぎんけどね・・・
いずれにせよ手持ち兵力の少ない事は哀しい。
まるで強打者を警戒して極端な防御シフトを敷いてるみたいだ。
関係者の御苦労には大いに感謝するよ。

PS.考えすぎかも知れない。
教導隊にも少しくらい教育用器材があるだろうし。

[4083] Re:[4079] [4078] [4077] EMP爆弾(その4) 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2017/09/24(Sun) 16:08
> 役に立った?

役に立ちました。
有り難う御座います。
今後も宜しく御願い申し上げます(汗) 

[4082] Re:[4081] [4080] B52 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/24(Sun) 15:58
補足しとこう。

「ちびヤン」とは海自の広報活動である。
正しくは「ちびっ子ヤング大会」と言う。
艦船見学や売店などがある。
興味のある方は是非、検索を。

えっ!
阿部はもう若くないって?
失礼な!
ぷんぷん!

ドロシーとは「オズの魔法使いに登場する少女」である。
竜巻に飛ばされてカンサスから消息不明となった。
後日、無事帰還を果たす。
かつてJ・ガーランドが映画で演じて話題となった。
また地上波で再放送しねえかな〜。 

[4081] Re:[4080] B52 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/24(Sun) 08:02
>  B52と言えば、以前はグアムのB52が台風を避けてカテナやヨコタに避難して来ました。

逆に横須賀の米海軍艦艇は台風が来ても繋留したままだよ。
海自のフネは皆、沖に退避してるのにね。
以前、ちびヤンの時、海自の人に「なんで?」って聞いた事がある。
そしたら「さあ?米軍は勇気があるんでしょうね。」て答えてきた。

さすがハルゼー台風を喰らった国だ。
洋上で台風に遭うのが怖くて仕方ないんだろうね。
反対に陸上での悪天候には敏感なのかも知れない。
ドロシーみたいに巻き上げられちゃかなわないからだろう。 

[4080] B52 投稿者:内藤空力 投稿日:2017/09/23(Sat) 19:38
 B52と言えば、以前はグアムのB52が台風を避けてカテナやヨコタに避難して来ました。グアムの格納庫はどうなっていたのでしょう。燃料と爆弾を満載すると飛べないから、燃料少な目で離陸して、空中補給するような話でしたね。地上ではだらりと下がった翼端を補助輪で支えていましたね。 

[4079] Re:[4078] [4077] EMP爆弾(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/21(Thu) 22:27
> 申し訳ありませんが出典を御教示頂けると助かります。

心得た。
まず航空情報の「世界航空機年鑑1965年度」ではM4の航続を6982km、Tu95の航続を13890km(戦闘半径6482km)としている。
Tu16の航続は6852km(戦闘半径2963km)だ。
これが1971年度版ではM4の航続は11112km(爆装9tで5556km)に変わる。
航空ジャーナルの「世界の軍用機1977」ではTu16Gの航続は爆装3tで6389km(戦闘半径2778km)、Tu95Eは爆装11tで12686km(戦闘半径5556km)だ。
これが1982年度版ではM4Bの航続が11482km(戦闘半径は爆装5.5tで4000km)、Tu16G は爆装9tで4815km、爆装3tで6389km、戦闘半径2889km、Tu95Eは爆装11tで125473kmとなっている。

万有ガイドだとM4Aの航続を10000km、Tu16Aは5670km、Tu95は12550kmとしている。
光栄の「航空機名鑑ジェット時代編上」による記述ではM4が爆装5tで8100km、5tで12000km(なぜか二重表記)、Tu16がASM装備で4800km、Tu95は10300kmとなっている。
ウィキ日本語版によるM4の航続は5600km(フェリー時8100km)、Tu16は7200km、Tu95MSは15000kmだ。
ウィキ英語版もこれと同じ。
ウィキ露語だとM4は同じなんだけどTu16には戦闘半径3150kmが加わっておりTu95は各型に分けて詳細に表記(とりあえず戦闘半径6340km)されている。
これが一番かも知れない。
ポルマー著「ソ連海軍事典」ではTu16Gの戦闘半径が3200km、Tu95Aは爆装11tで5425km、爆装4.5tで7240km、Tu95Fの戦闘半径は5000kmと書いている。
まあ、手元の資料だとこんな所だ。
なにしろ古い航空機だからね。
古い本にしか書いてないんだよ。
役に立った? 

[4078] Re:[4077] EMP爆弾(その4) 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2017/09/21(Thu) 21:02
> まずTu16は双発ジェット機で高速かつ自重37tと軽く経済的であったが戦闘半径は2778〜3200km(資料で異なる)しかなかった。
> それらに比べTu95は巡航性能重視の4発プロペラ機(ターボプロップ)で速力は遅いものの行動半径は5000〜6483km(資料で異なる)に及んだ。

申し訳ありませんが出典を御教示頂けると助かります。

[4077] EMP爆弾(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/20(Wed) 19:33
1952年4月にはTu16(バジャー)、同年12月にはTu95(ベア)、翌年1月にはM4(バイソン)と次々に戦略爆撃機の初飛行が続いた。
米国も負けじとばかり1952年4月にはB52を初飛行させる。
さて、ソ連が立て続けに3機種もの戦略爆撃機を開発したのには訳がある。
実はこの3機種はかなり能力的な差があった。
バランスのとれたのが1機種でもあれば他の二つは必要ないがこの3機種は全て単機能優先でバランスがとても悪かった。

まずTu16は双発ジェット機で高速かつ自重37tと軽く経済的であったが戦闘半径は2778〜3200km(資料で異なる)しかなかった。
一方、M4は4発ジェット機でやはり高速だったが自重80tと不経済な大型機であったにも関わらず戦闘半径は4000kmであまり大きくなかった。
それらに比べTu95は巡航性能重視の4発プロペラ機(ターボプロップ)で速力は遅いものの行動半径は5000〜6483km(資料で異なる)に及んだ。
なお1952年4月には米国も8発ジェット機のB52を初飛行させているが同機は全てのバランスが整った傑作戦略爆撃機であった。

えっ、ソ連の戦略爆撃機の航続ではニューヨークまで届かないって?
実は1949年に空中給油による世界一周が達成され空中給油が一般化したのだ。
ソ連領ムルマンスクの上空で空中給油するとニューヨークまでの距離は6459kmに過ぎず1700kmも短くなるのである。
こうなると米国諸都市も安全と言えず対策を講じねばならなくなった。
いや、米国とて馬鹿ではない。
いずれソ連の戦略爆撃機が脅威となる事を想定して地対空ミサイルの開発に着手し1951年11月には既にMIM3の初飛行を成功させている。
だがMIM3(ナイキ・アジャックス、重量1.1t)は炸薬142kgの通常弾頭ミサイルに過ぎず当たらなければどうと言う事はなかった。
核戦争で都市を守ると言う事は来襲機全てを撃滅せねばならないのだ。
その為にはどうしても核弾頭の地対空ミサイルが必要となる。
かくして開発されたのが1952年9月に初飛行したCIM10である。

CIM10(ボマーク、射程320km、破壊力10Kt)の形状はミサイルと言うより戦闘機に近く当初は「最初の無人戦闘機」と喧伝された。
重量は7tもありMIM3より遥かに大きい。
北米大陸の米国諸都市を守る為に開発されたのだから当然、合衆国の北部国境沿いにCIM10の発射基地がズラリと並ぶ。
国境沿いばかりではない。
カナダもまた1962年からCIM10(ただし通常弾頭)を導入し配備する。
通常弾頭なんて役に立たないから折を見て核弾頭に換える予定だったんだろう。
MIM3は米国以外に8カ国、拡大型のMIM14(ナイキ・ハーキュリーズ)は10カ国に輸出されたがボマークが輸出されたのはカナダだけである。
こうした点からボマークの特殊性が窺える。

なお、米国では1953年12月からMIM3の配備も開始された。
なぜ、MIM3に核弾頭を搭載しなかったかって?
そりゃ当時の核弾頭はまだ大きくて積めなかったからさ。    (続く) 

[4076] EMP爆弾(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/19(Tue) 19:28
さて、地球儀を見るとしよう。
メルカトール式の世界地図じゃ駄目だ。
見たいのは北極海なんだから。
北極点を中心にした世界地図があるって?
ならそれでもいいよ。

ソ連と米国は北極海を挟んで向き合っている。
双方とも北極海沿岸に大都市はない。
ユーラシアのツンドラ地帯やアラスカ及びカナダの森林が拡がるばかりだ。
こうした点で条件は互角と言える。
戦略爆撃機の数と性能で米国が圧倒的に有利である事を除けば。

今度は両国の端を見るとしよう。
ソ連は東端に日本、西端にヨーロッパ、南端にトルコがあり大きな脅威を受ける。
だが東西両端に太平洋と大西洋を配する米国は一切、脅威を受けない。
つまり北極海はソ連にとって唯一の戦略決戦正面なのだ。

ただし西側全体が東側に対して優位だった訳ではない。
ソ連の核は米本土には届かなくとも英仏には充分、届くのだ。
米ソ共倒れは不可能でもソ連がヨーロッパと心中する事はできる。
ソ連が英仏を核攻撃した場合、米国は必ずソ連に報復してくれるだろうか?
それを考えると外交及び経済で英仏は米ソ双方へ常に配慮せねばならない。
ソ連が英仏を核攻撃した場合、確実にソ連へ報復できる独自の核戦力を保有してこそソ連の脅威に対抗できるし米国の圧力からも解放されるのだ。
かくして1951年5月、英国は核兵器搭載可能なジェット戦略爆撃機バリアントを初飛行(当面は米国製核兵器を搭載)させ1952年10月には初の核実験を実施、フランスもまた1960年2月に核実験を行っている。

こうした次第で米ソのバランスオブパワーは「米ソ単体なら米が圧倒的に有利」だが「世界規模でみるならヨーロッパが人質なので均衡」だったのである。
そして決戦正面の北極海を眺めると・・・
まずはソ連が核兵器を戦力化した1951年10月から始めるとしよう。

ソ連の戦略爆撃機は第37空軍に配備されその基地はサラトフとウクラインカだ。
それでは両基地から米国諸都市への距離を測ってみよう。
ウクラインカからシアトルが7121km、ミネアポリスまでが8577kmだ。
サラトフからニューヨークは8224km、ボストンは7936km、ポートランドは7777kmなのでTu4だとてんでハナシにならない。
片道攻撃だって無理だ。
一方、米国は1946年8月にB36、翌年12月はB47が初飛行しソ連のどこでも核攻撃できる態勢が整っている。
勝負は決まった様な物だった。
しかし・・・           (続く) 

[4075] Re:[4074] 避雷針とPAC3 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/19(Tue) 08:59
> 中国にいると「なぜ日本は米国に追従するのか」と問われます。

多分、中国人は日本を買いかぶり過ぎてるんだろうね。
そうでなけりゃ世界史の授業を受けた事がないんだ。
戦争で負けたんだから属国になるのは当たり前で日本は「奴隷か子分の分かれ道」を選択させられた。
そして日本は「良い子分」になる事を選んだだけである。
「不倶戴天の恐るべき日本」がどっかの子分になっちゃうなんて「日本に攻め込まれた国」としては理解不能なんだろうなあ。

[4074] 避雷針とPAC3 投稿者:内藤空力 投稿日:2017/09/19(Tue) 06:53
中国駐在の内藤です。
PAC3配備やレーダー基地設置をしようとすると「攻撃目標になるからイヤだ」という人がいますが、昔々、「避雷針があるから雷が落ちる。避雷針は不要」と言った人を思い出します。
避雷針が無くても雷は落ちる、という前提が消えていますね。落ちるなら、「安全なところに落とす」という意味では「避雷針」ではなくて「誘雷針」だという説もありますが。
中国にいると「なぜ日本は米国に追従するのか」と問われます。
わたしの答えは、
「兵器を売ってくれる国と軍事同盟を結ぶのは当然」
「ふたたび米国と戦争したら、今度は国がつぶされるから、味方に回る。相手国市民への犠牲を何とも思わない国と敵対するのは危険すぎる」
例として、ベトナム戦争やイラク戦争などを揚げると納得しますね。 

[4073] 修正 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/15(Fri) 19:43
誤)A3の戦闘航続は1700km、速度は982km/hであった。 

正)A3の戦闘航続は半径1700km、速度は982km/hであった。 

[4072] 意見は十人十色 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/15(Fri) 19:36
色々な意見が飛び交っている。
ミサイルと同時に。
こういう時は専門家の意見に耳を傾けるのがよいのだが・・・
元海将の伊藤氏(元呉総監で潜水艦乗り)は「EMP爆弾恐るるに足らず」とのたまい香田氏(元自衛艦隊司令官で水上艦艇乗り)は「EMP爆弾は脅威なり」と喝破する。
いやはや、果たしてどちらが正しいのか?
これじゃみんなも困るわな・・・

まあ、僕としては香田氏の方が正鵠を得ているように思うけどね。
理由は香田氏がずっと世界の艦船で執筆されいてその見聞に尊敬している事と伊藤氏の論点が「?」だからである。 

[4071] EMP爆弾(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/15(Fri) 19:29
ソ連で弾道弾が開発されていたいた頃、米国では何を開発していたのだろうか?
戦略爆撃機の開発がソ連より先行していた事は前述した。
それに甘んじていたのだろうか?
そんな事はない。
なんと当時、米国は巡航ミサイルの開発を優先していたのである。
巡航ミサイルは弾道弾に比べ遥かに生産コストが安いと言う利点があった。
戦略爆撃機で優位にあった米国は性能よりコストを重視した。

こうして米空軍は破壊力20Kt、有効射程400kmのB61A(マタドール)を1949年1月に初飛行させ1953年から実戦配備した。
なおB61Aの有効射程は1957年から1000kmに伸びている。
海軍も破壊力40Kt、射程925kmのRGM6(レギュラス)を1951年5月に初飛行させ水上艦には1952年、潜水艦には1953年から配備した。
ただし海軍にとって本命の核戦力は巡航ミサイルではなかった。
当時の米海軍が圧倒的に優位を誇った核戦力、それは空母だったのである。

だが第二次世界大戦終結直後、核兵器を搭載できるのは戦略爆撃機のB29(それと劣化コピーのTu4)だけであり空母には搭載できなかった。
そこでP2対潜哨戒機に離陸用補助ロケットを装備した着艦装置の無い特殊攻撃機(12機生産)が開発され1948年に初飛行した。
なお搭載された核兵器は当時、量産化されていたMK4(長崎で使用されたファットマンの改良型)ではなくMK1(広島で使用されたリトルボーイ)で小破壊かつ重量大の欠点があるもののサイズが小さいと言う利点があった。
初の本格的艦載核攻撃機となるのはA2A(サベージ)で1948年7月に初飛行し1949年から部隊配備が実施されている。
ただし機体が巨大なので運用に難があり初着艦は1950年まで遅れた。
更にA2Aは双発プロペラに単発ジェットを加えた複合3発機だったので過渡的な戦力に留まり1952年10月に初飛行した双発ジェットのA3(スカイウォーリアー)へ早々にバトン(1956年配備開始)を渡した。
A3の戦闘航続は1700km、速度は982km/hであった。       (続く) 

[4069] Re:[4068] 質問 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/13(Wed) 09:50
しからば。
でもちょっと長くなるよ。
第二次世界大戦で使用された核兵器は戦略爆撃機によって投下された。
言わずと知れたB29で航続力は「世界の傑作機48号」によると爆装4tで5600km、丸写真集「アメリカの爆撃機」だと最大9650kmであった。
カ−ル・バーガー著「B29」だと9350km、ウィキ日本語だと爆装7.2tで6600km、ウィキ英語だと爆装時5230km、フェリー時9000kmと記述されている。
渡辺洋二著「日本本土防空戦」では爆装4.5tで5200km以上、同氏の「日本海軍夜間迎撃戦」だと爆装7.2tで6120km、フェリー時8850kmとなっている。
戦史叢書4巻では爆装4tで5600km、なしで7040km、戦史叢書87巻だと航続力は5320〜7360kmだ。

そして核兵器の重量は広島で使用されたリトルボーイが約5t、長崎で使用されたファットマンが約4.5tなので核装備時のB29は5200〜5600km程度と推定され攻撃半径は約2100kmと考えられる。
ここで冷戦時のソ連主要都市と西側航空基地の位置関係をチェックしよう。
ケルン〜モスクワは2082Km、オスロ〜レニングラードは1084km、アンカラ〜ハリコフは1130km、三沢〜ウラジオストックは812km、三沢〜ハバロフスクは953kmで全てB29の作戦行動半径内だ。
ソ連から見て実にヤバイ状況である。

かくしてソ連にとって核兵器を開発して米国と同列に立つ事と米戦略爆撃機の侵入阻止が焦眉の急となり米国から遅れる事、僅か4年の1949年8月29日に初の核実験に成功した。
当然、大戦中に鹵獲したB29はTu4(ブル)としてコピーされ1951年10にはRSD−3マリア(40Kt)の投下に成功している。
つまりここでソ連は1945年8月の米軍と同列に立ったと言えよう。

でもね・・・
米軍は6年間、遊んでた訳じゃない。
1946年8月にはB29の後継機となるB36が初飛行し翌年12月には初のジェット戦略爆撃機であるB47が初飛行に成功したのである。
B47の爆弾搭載量は9tでB36の1/3に満たなかったが速力はB36に比べ300km/h近く速く戦闘機相手の生残性に優れていた。
核兵器を使用する場合、1発の破壊力が極端に大きいので何発も搭載する必要はなく「投下前に撃墜されず確実に攻撃できる事」が重要なのである。
こうした点でB47の対抗馬となるべきソ連のジェット爆撃機はTu16(バジャー)なのだが初飛行はB47より5年遅く1952年4月であった。
つまりソ連は必死で頑張ったのだが6年遅れが5年に縮まっただけに過ぎない。
おまけにソ連主要都市の大部分が米戦略爆撃機の攻撃範囲に存在したのに対し米、英、仏の主要都市はソ連戦略爆撃機の攻撃範囲外だったのである。

だが核兵器を投下する手段は戦略爆撃機に限らない。
第二次世界戦中に開発された兵器の中で重要な鍵となる兵器が3つあった。
ドイツが開発した初の巡航ミサイルV1と初の弾道弾V2及び日本が建造した航空機搭載潜水艦伊400である。
戦略爆撃機で米軍の後塵を拝する以上、これらの兵器で挽回を図らねばならない。
かくしてソ連ではロケットの開発が急速に推し進められ1948年9月にはV2のコピーであるR1が発射試験に成功、翌年9月には射程を600kmに伸ばしたR2、1957年には核弾頭装備可能なR11(スカッドA)として完成した。
R11の破壊力は50Ktで射程は130kmに過ぎないが潜水艦へも装備され1955年にはズールー型潜水艦からの発射に成功している。

確かに米英の主要大都市はソ連戦略爆撃機の攻撃範囲外だが多くは海岸線から100km以内の沿岸地域に存在しており海からの攻撃には脆弱であった。
ロンドン、エジンバラ、グラスゴー、ワシントン、ニューヨーク、ボストン、LA、サンフランシスコ、シアトルなどどれも海から近い。
英米ではないがアムステルダム、ハンブルク、ブリュッセル、アントワープ、ローマ、ベニス、ジェノバなどの欧州諸都市も同じだ。
潜水艦なら潜航したまま映画「1941」の如くこれらの都市へ容易に接近できる。
更に1957年8月には核弾頭搭載可能な初のICBMであるR7(射程8800km)の発射に成功している。
これで内陸諸都市も核攻撃から安全ではなくなった。

えっ、EMPが出てこないって?
ハナシはまだまだこれからさ。     (続く) 

[4068] 質問 投稿者:ケンツ軍曹 投稿日:2017/09/09(Sat) 18:41
IL−28についてとても勉強になりました。
ありがとう御座います。
旧式兵器だからと言って侮ってはいけませんね。
ところで最近、新聞紙上で登場するEMP爆弾について解説して頂けませんでしょうか?
お忙しいでしょうがもし宜しければ是非、御願いします。 

[4067] IL−28(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/07(Thu) 18:54
「米軍基地があるから攻撃にされるのだ、米軍に出ていってもらえばいい。」とする意見の人がいる。
もっともなハナシだ。
だが日本に米軍がいなくなればそれで事は済むのだろうか?
核攻撃のカードを振りかざし「食糧を寄こせ」だの「経済援助をしろ」だの要求が繰り返されるのは目に見えている。
「命を守るのが一番だから要求は全て呑むべし」とするのなら安全は保証されよう。
しかし・・・
日本は北鮮の属国どころか領土となり我々は北鮮の方々より程度の低い生活に甘んじなければならなくなるだろう。
僕としてはそんな生活、ちょっと許容しがたい。

次に「米軍に出ていって貰って中立の道を歩もう。」と言う意見もある。
自存自衛。
とても素晴らしい響きだ。
だが中立を貫くにはそれに相応しい軍備がいる。
どこと戦ってもそう簡単に負けないくらいのね。
もちろん核兵器も保有せねばならぬし莫大な金額になるよ。
当然、予算が膨れ税金は高くなり暮らし向きは窮乏化する。
僕とすればそんなの嫌だなあ。

「それでは非武装中立はどうだろう?」と言う人もいる。
でもねえ・・・
金が掛からずどこも敵に回さず結構な事だが隣国の指導者が全て善人揃いならいざしらず「心がけの宜しくない変な髪型の肥満児」が一人でもいたらとんでもない事になるよ。
「犬好きの陰険な柔道家」だって何時、豹変するか知れたもんじゃない。
「クマのプーさんによく似てると評判のあの人」もね。
確かに非武装中立は理想的だが全日本国民が「親も子も無く失う財産もなく理想の為には生命も投げ出す勇者揃い」でない限りやらない方が良いと思う。
非武装中立は理想的だが極端にリスキーなのだ。
僕には親も子も財産もないが臆病者なので非武装中立には反対する。

となると・・・
どうやら日米安全保障条約を遵守し現状維持を図るのが賢明の様だ。
決して理想的ではなく少しばかり経費が掛かり若干のリスクがあろうともね。
非武装中立とやらはどっかのマッドサイエンティストが「人間が心優しくなる怪しげな装置」を発明し世の中から人種差別や階級闘争、宗教的対立及び貧困が無くなり国家間対立が「夢のまた夢」になってからにしてほしい物である。
そうなったら僕も是非、非武装中立に賛同しよう。

ただし・・・
道は今、提示した4本だけじゃない。
常に他に道はないかと模索し皆で良い未来を探す姿勢こそが大事なんだと思う。     (了) 

[4066] IL−28(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/06(Wed) 17:33
それでは日本側はどの様な手順を踏んで領空侵犯機に対応するのであろうか?
未確認飛行物体が接近した場合、早期警戒機や航空警戒管制団のレーダーサイトでこれを捕捉し防空指令所に通報、危険と判断されたなら迎撃機を準備している航空基地にスクランブルが発令される。
離陸した迎撃機は目標に接近して確認後、複数回に渡って退去を通告、従わない場合は20ミリ機関砲による警告射撃を実施する。
日本には年がら年中、中露の偵察機が接近しスクランブルが発生しているが過去に警告射撃が行われたのは1987年12月の1回だけに過ぎない。

その時は警告に従い侵入機は退去したが「しなかった場合」はどうであろう?
実は空自のスクランブル機は1980年8月まで一切、AAM(空対空ミサイル)を装備しておらず20ミリ機関砲しか兵装がなかったのである。
つまり1976年9月のベレンコ中尉による「MiG25亡命事件」の時、1310にレーダーサイトが発見し1320に千歳基地のF−4がスクランブル発進したが捕捉できず1350にベレンコ機は函館空港へ強行着陸した。
だがもしF−4が捕捉できていてもたいした事はできなかったのである。
どうやら当時の日本政府は戦闘機を「空の警備員程度」としか考えておらず「退去通告や警告射撃を無視する侵入機」を排除する手段としてはSAM(地対空ミサイル)に期待していたとしか考えられない。
パネー号事件や様々な紛争の当事者だった政治家達はパイロットの判断で発射可能なAAMで偶発的な紛争が発生する事を心から恐れていたんだろう。
(この時はレーダーサイトが追跡をロストしちゃったけどね)
そして1980年8月以降、サイドワインダーなどの近距離赤外線誘導AAMが装備される様になり状況によってはスパローなどの中距離レーダー誘導AAMも装備される様になっていった。
喜ばしい事である。

だけど・・・
僕としてはスクランブルに際し「状況によって」ではなく常に最新鋭AAMを装備し侵入機がIL−28であった場合は退去の通告や警告射撃を省略してでも領空侵犯が確定した時点で即刻、対処した方が良いと思う。
その為に法整備が必要なら急いでやって頂きたい。
日本で3回目の核爆発が起こってからでは遅いのだから。
なお、複数回の退去通告や警告射撃で侵入機の行動を阻止するのは基本的に必要であり北鮮のIL−28でない限りAAMは使用すべきでないと思う。
ちょっと気の大きくなった小国の独裁者が核兵器と爆撃機を持ってるから危険なのであって「それなりに批判する勢力を国内に抱えた大国の指導者」なら「死なばもろとも!」とか「言う事を聞いてくれないならアンタを殺してワタシも死ぬ!」なんて言いそうもないからだ。
第3次世界大戦を起こさず日米安保条約下にある日本や在日米軍基地を核攻撃するなんて事を中露の指導者が考えるとは思えない。
正常な指揮系統ではなく現場の判断や怪しい謀略が絡めばこの限りではないが。

ところで「米軍基地を守る為なら何故、米軍が迎撃機を出撃させないんだ?」と思われる方もおられよう。
確かに米軍がスクランブルできるのなら最高の装備で最善の対処が可能だろう。
だがあくまでも日本の領空で発生した侵犯であり「米国の判断で戦争状態が生起する」のは好ましくない。
それに日本の領空は日本政府国土交通省が管理する民間航空機航路と防衛省が管理する空域で構成されておりこれに米軍が勝手にスクランブルで干渉すると空域管制がグチャグチャになってしまう。
よって有事ならいざ知らず平時に於いては米軍がスクランブルする事は無い。
つまり戦略的奇襲に脆弱な統帥構造とならざるを得ないのだ。
米軍は世界最強の軍隊だがここに在日米軍の弱点がある。
なんとかして欲しいものだ。

なお、侵入機を排除するもうひとつの手段としてSAMがあるのでちょっと解説しておこう。
空自のSAM部隊には長射程のパトリオット(昔はナイキ)を装備する6個の高射群(所属部隊は4個高射隊)と短射程の短SAM及びP−SAMを装備し各基地の防空を担当する8隊の基地防空隊がある。
さて、全高射群で24隊の高射隊が存在するのだがどこにいるのだろうか?

北から探すと札幌を守る為に千歳と長沼に各2隊、道南を守る為に八雲に2隊が展開しており三沢基地を守る為、青森の車力にも2隊がいる。
これらの地域になぜ全体の1/3もの多数がいるかと言うと東西冷戦下、北海道にソ連が侵攻して来た場合に備えていたからで北海道防空の要である千歳基地と後方から支援爆撃を実施する米軍の三沢基地が重要だからである。
でもソ連がロシア共和国となってしまい北海道侵攻なんてちょっとありえそうもなくなった現在、この陣容はちょっとおかしくないだろうか?
車力以南、高射隊は首都圏まで存在しない。
首都(米軍の横田基地を含む)と在日米海軍横須賀基地を守るのは入間、横須賀、霞ヶ浦、習志野の4箇所に展開する第1高射群である。
そこからまた空白地域が始まり第4高射群が岐阜、三重、滋賀の3県を守ってる。
そこからまた空白地域がずっと続き福岡県に第2高射群の4隊、沖縄に第5高射群の4隊がいる。

はい、これでオシマイ。
厚いところは実に厚く薄い所は実に薄い。
これが日本のSAM防空の実態なのだ。
まあ、ナイキの頃に比べれば自走式のパトリオットは移動、展開が楽に出来るからずっとマシではあるけどね。

と、言う訳で三沢基地にIL−28が襲来した場合、スクランブルに失敗しても車力のパトリオットでなんとか対処できるだろうし最悪、接近を許しても最後の切り札として短SAM(無理臭いが)を使う事もできる。
さすがにVADS機関砲やP−SAMじゃ核攻撃を阻止出来ないだろうけど。
沖縄も防備が厚いからそんなに不安はない。
心配なのは岩国基地だ。
今度、米海軍の空母艦載機が厚木基地から岩国基地に移駐し前からいた海兵隊航空団と合わせ極東最大の米軍航空基地になるんだよ。
それなのに一番近い長射程SAMは120q以上も離れた築城基地の第7高射隊だってんだから・・・
そもそも岩国基地は海自の管轄だから基地防空隊だっていないし。
寒心に堪えないってのはまさにこの事である。 

[4065] 真実の大和 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2017/09/05(Tue) 23:27
今日もこれからやります。
こちらの編成は大和型I案3隻に島風型8隻、敵は大規模の自動編成で主力艦1927〜1939年、補助艦1927年以降の設定とします。
さすがに主力艦のレーダー射撃は怖いので。
敵の国籍は米、英、ソ、仏です。
何が出てくるか楽しみです。 

[4064] IL−28(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/09/03(Sun) 19:06
北朝鮮弾道弾の大気圏再突入能力や核弾頭小型化について世論は騒いでいる。
そしてこれらの技術が未完ならまだ枕を高くして寝られると考えている方も多い。
果たしてそうであろうか?

確かに北鮮は核弾頭を保有しているが核弾頭を投射する手段は弾道弾に限らない。
弾道弾(ミサイル)が無くても日本の2都市は核攻撃で灰燼と化したのである。
それでは東側核兵器の開発史を概括してみよう。

一番最初に開発されたのはRSD−1で1949年8月29日に核実験された。
米国が長崎に投下したファットマンのほぼコピーで破壊力は20キロトン(資料によっては22キロトン)、重量は約4.5tである。
ついで1951年9月24日にソ連の独自開発となるRSD−2が核実験された。
破壊力は38キロトン、重量は3.1tである。
更に翌月18日には破壊力40キロトン(資料によっては42キロトン)、重量3.1tのRSD−3マリアがTu−4(B−29のコピー)から投下された。

この時点でソ連は1945年8月時の米国に匹敵する核攻撃能力を達成した。
そして1953年8月23日、ソ連は初の小型戦術核RSD−4タチアナをIL−28から投下し本格的な戦術核の実験に成功したのである。
RSD−4の重量は僅か1.2tだったが破壊力は28キロトンであった。

このIL−28を北鮮は80機保有していると多くの資料に記述されている。
剣呑な事だ。
ただし核爆弾搭載用のA型ではなく通常の爆撃機だとも書かれている。
それでは通常の爆撃機とA型ではどこが違うのだろうか?
通常型からA型へ改造するのは難しいのだろうか?
残念ながらA型についての情報は少なく差異も詳細は判らない。

それではまずIL−28(ビーグル)について若干、説明しよう。
同機は英国製ロールスロイス・ニーンをコピーしたクリモフRD−45を装備する双発爆撃機で1948年7月8日に初飛行した。
後にIL28は中国(H−5)やチェコスロバキア(B−228)でもライセンス化され各国合計6635機が生産された。
爆弾搭載量は機内の爆弾倉に1tだが燃料を減らし機外の爆弾架も使用すれば最大3tまで装備できる。
ちなみにRSD−4は全長1m、重量1.2tなのでA型では爆弾倉が拡大されたのではないかと推測する。

各資料に目を通すと航空情報「世界航空機年鑑1965」では自重11795s、全備重量17325s、燃料11900L(増糟付)、航続2500q(増糟付)。
航空ジャーナル「世界の軍用機1982」だと自重12900s、全備重量18400s 最大重量21000s、燃料11900L、巡航780q/h、航続2037q、戦闘行動半径555〜833qとある。
ウィキ日本語版では自重12890s、最大重量21200s、最大重量21200s、巡航770q/h、航続2400q。
ウィキ英語版では自重12890s、全備重量18400s、最大重量21200s、巡航770q/h、航続2180q。
ウィキ露語版では自重12890s、全備重量18400s、最大重量23200s、巡航700q/h、航続2370qでフェリー時は2460q。
ウィキ中国語版では自重11890s、最大重量21200s、航続2180q。

この様に各資料で若干の相違が見られる。
まず燃料だが11900Lの数値しかなく燃料のケロシンは比重が約0.8なので重量的には9520sと推測できる。
自重は約11800sと12900sの2種で1t近い差がある。
最大重量は21000から23200で2t以上の差だ。
搭載力で一番小さいのは「世界の軍用機1982」の8100s。
大きいのはウィキ露語版の10310s。
「世界の軍用機1982」の数値を信ずるならば燃料を最大搭載したら離陸できない事になるので矛盾が生じる。
ウィキ露語版の数値で燃料を最大限搭載したら余剰は790s。
乗員や機銃弾の重量を考慮したら燃料最大時は爆弾を装備出来ないと思われる。

それではA型の航続はどの程度なのだろうか?
1.2tのRSD−4を装備するならそれだけ燃料が減少し燃料搭載量は13%少ない8320sになるであろう。
これはすなわち13%の航続距離減少を意味する。
燃料だけを搭載した状態(フェリー)の航続は2460qだからA型の航続はおよそ2140qと考えられる。

次に北鮮がA型へ改造した場合、在日米軍の航空基地にとってどの程度の脅威となるか地理的に検証しよう。
幾ら核兵器を搭載可能であっても目標に到達できなければ脅威となりえない。
北鮮の飛行場(空港)と在日米軍航空基地の直線距離は清津から三沢までが980q、通川から岩国までが657q(ただし実際は迂回せねばならず720qとなる)、苔灘から嘉手納までが1329qであある。
なお通常の航空攻撃では対費用効果の面から使い捨ての片道攻撃は考え難いが開戦初頭の奇襲核攻撃では帰還を考慮しない作戦を実施する事は充分に考えられる。
日本は島国であり洋上の潜水艦でパイロットのみを救出すれば良いからである。
IL−28の巡航速力は700〜780q/h、最も近い岩国は約1時間、三沢でも1時間半で目標に到達する。
もしも北鮮がA型に改造していたならば充分な脅威と考えられよう。 

[4063] 布(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/30(Wed) 19:32
人類創世から連綿と続く布の歴史を詳述しては幾ら時間があっても足りない。
よってササッと省略して説明するが日本以外の諸地域では羊毛の伝播が早く、しかも広範囲に使用されたが日本だけは極端に遅く明治維新後まで遅れた。
これは日本の特殊性を表す重要な因子である。

インド原産の木綿は10世紀に中国へ渡り朝鮮へは1364年に伝播した。
日本へ伝播した時期には諸説あり戦国時代後期から徐々に国産化が進んだが農業技術的に問題点が多く江戸幕府成立期の大部分は朝鮮からの輸入品が占めた。
ただし布として木綿は防寒性、生産性に優れ国産化が軌道に乗り低廉化した江戸幕府中期以降は日本国内で着用される被服の主原料となった。
ちなみにワタ科植物の木綿(もめん)とは別に楮(コウゾ)の樹皮で織られた布も木綿(ゆう)と表記されるので気をつけねばならない。
国産化に移行してから木綿(もめん)は布だけでなく真綿に代わる充填物として防寒衣料や寝具に広く使われる事になる。

木綿栽培に必要な条件とは1.多水、2.多肥、3.多労、4.高温である。
すなわち水利の良い地形で多量の肥料を投入し、摘み取り時などには人口密集地帯から多くの労働者を雇い入れ、気温の高い土地でなければ上手くいかない。
これらの要件を満たした一大生産地が畿内(関西)であった。
式部善人著「綿と木綿の歴史」133頁によると畿内での綿花の収益は稲作の2.2倍に及び綿花を木綿に加工して売れば更に2.1倍(計4.6倍)になった。
日本各地で綿花栽培は実施されたが上記4条件を全て満たす事は難しく畿内ほど高い生産効率を得る事はできなかった。
なお2の多肥であるが松前藩のアイヌ交易によって入手された鰊が北前船で運ばれ北陸諸港から畿内に搬入された。
以降、木綿の国産化によってアイヌ交易は発展したが逆に朝鮮からの木綿輸入は減少の一途を辿り対馬交易の方は衰退したのである。

技術革新によって輸入が衰退したのは木綿だけに限らない。
日本評論社「講座・日本技術の社会史3 紡績」67頁によると中世後期の生糸貿易は利益が元手の4〜5倍にも及んだ。
更に104頁では17世紀中盤に日本で消費された生糸は輸入20万斤、国産9万斤と記述されている。
つまり2/3以上が輸入生糸だったのである。
だが1715年の国産生糸は20万斤、享保(1730年頃)は約30万斤、文政(1818〜1830年)では225万斤まで増加した。
当然、輸入は減少し皆無に等しくなる。
それどころか開国と共に生糸及び絹製品は輸出に転じ欧州の製糸技術導入と大規模工場の設立によって1909年には世界最大の生糸生産国となったのである。
当然、中国を相手とした交易は全て衰退していった。
開国の意図は必ずしも生糸輸出に限らないが大きな影響を与えたとは言えよう。 

[4062] Re:[4061] 三沢基地 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/29(Tue) 13:50
誤解の無いように申し添えて置くが今回のミサイル発射を「三沢に対する圧力」と断定している訳ではない。
数ある推論のうちのひとつに過ぎないのである。
襟裳沖を目標に発射した理由は他にも色々ある。

1.ミサイルの性能に自信がない。
  だからどこで落ちるかわからない。
  日本の領土に落ちたら面倒だ。
  だったら津軽海峡に沿って撃つのが一番、日本の領土に落ちる可能性が低い。

2.グアム方面に発射したらPAC3の迎撃を受ける恐れがある。
  そもそも○○正直に「××を攻めますよ」と言うヤツはいない。
  ××を攻めたかったら△△を攻めるフリをするもんである。
  PAC3は数が限られてるんだし。
  北鮮だってせっかく撃つんだからPAC3やSM3に迎撃されたくないのは当然である。
  現在、大湊にイージス艦は存在しない。 

[4061] 三沢基地 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/29(Tue) 10:39
本日未明、北朝鮮のミサイルがピョンヤンから発射され2700km飛行し襟裳岬当方1180kmの地点に着弾した。
それでは太平洋戦記3のマップでピョンヤンを中心に2700kmの円スケールを描いてみよう。
そしてその円周上で襟裳岬東方にマーカーを置く。
ピョンヤンからマーカーまで直線を引くと・・・
なんとその真下に青森がある。
青森と聞いて「うん、東北の田舎だよなあ。」などと言ってはいけない。
青森には米軍の三沢基地があるのだ。
今回のミサイルは「もし有事となったら三沢は1941年のホイラーやヒッカム、クラークフィールドの様になるよ」との北鮮側のメッセージかも知れない。
北鮮側が戦略的奇襲を実施した場合の話だが。 

[4060] 布(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/27(Sun) 19:39
幕府が鎖国体制い踏み切った理由は簡単だ。
禁教令を断行する為である。
だが「完全なる鎖国」を実施すると輸入に頼らざるを得ない物資が枯渇する。
その物資の筆頭が絹製品の原料たる生糸であった。

ここで「どうして生糸は国産化できないのか?」と言う問題と「絹は必要欠くべからざる物資か?」と言う問題が発生する。
まず国産化についてだが従来から日本でも生糸は国産化されていた。
だがその品質が低くとても中国産生糸に及ばなかったのである。

品質が低いとは蛹が成虫に変態して繭から出てしまい「繭に穴が生じた状態」になった物や生糸として充分な光沢や長さを得られない繭などを指す。
穴が空いた繭からは短い糸しか取れず生糸としては使用出来ない。
こうした繭はほぐされ「真綿」(まわた)となる。
真綿は寝具や防寒衣料の充填物として古来より利用されてきた。
だが真綿から太い糸を製糸してこれを原料とする衣類が江戸幕府成立直後から紬として各地で生産されはじめた。
紬は古代から存在しており常陸紬として細々と生産されていたのだが1602年に伊奈忠次(13000石の小室藩主だが結城地方を含む北関東100万石の代官でもある)の行政指導によって結城紬として広く知られる様になったのである
これによりクズ繭の価値は大きく変わっていった。

次に絹の必要性だが「欲しいと考える人間がどれだけいるか?」が重要だ。
もし少ないのなら「完全なる鎖国」を断行すれば良い。
だが多いのなら幕府に対する不満が鬱積し政権の不安定化に繋がる。
やはりそれなりに存在した訳で必要量の生糸を確保する為に対馬、長崎、琉球の貿易が例外的に許されたのである。

それでは鎖国が始まった時点での布(繊維製品)全体の動勢に触れずばなるまい。
聖書によれば史上初の衣類はイチジクの葉だとされている。
でも、それはかなり嘘臭いと思う。
いつから人類が衣服を纏ったか判然としないが恐らくギャートルズや原始人の様に獣皮を防寒及び防護目的で使用したと考えられる。
その後、布(布の定義は時代で異なる)が登場し衣服として普及していった。

まず布には動物性の原料として羊毛(毛織物)と繭(絹織物)がある。
他にも羊毛の類似品として各種動物の毛を利用した物が多数、存在する。
次に植物性の原料として木綿(もめん)、麻、葛などがある。
なお、麻は狭義には大麻のみを指すが広義では亜麻(リネンもしくはリンネル)、苧麻(カラムシ)、黄麻(ジュート)なども含む。
これらのうち黄麻(ジュート)は麻袋(南京袋やドンゴロスとしても知られる)の原料として使われ苧麻(カラムシ)は日本、亜麻は欧州で広く流通した。
現代ではこれに化繊が加わるが本稿では割愛する。 

[4059] Re:[4058] [4057] 激闘!ソロモン海戦史DX文庫版 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/08/27(Sun) 11:00
こんにちは。やっぱりソロモンキャンペーン面白いですね!
わたしはソロモン南部で短期決戦で終わらせましたが
ソロモン中部もまた、面白い地形ですよね。いろいろと考えさせられます。

>新着の長門、山城、扶桑からなる第2戦隊で決戦し米戦艦に完膚無きまでの痛撃を喰らわせました。
やはり戦艦が揃ってくると、頼もしいですね。火力が、装甲が、今までと格段に違いますからね。
うちの榛名は、独航艦として米戦艦2隻を引きつけてくれて撃沈されました。
その間、ガラ空きになったヘンダーソン飛行場に、3式弾の雨が降ったのは言うまでもありません。

いそしち様、キャンペーン勝利を目指して、頑張ってください。
戦艦も集まったようなので、ここはコーベット流で勝負を決めてください! 

[4058] Re:[4057] 激闘!ソロモン海戦史DX文庫版 投稿者:いそしち 投稿日:2017/08/27(Sun) 07:52
奇遇ですね、僕も金曜日の晩から激ソロDXのソロモンキャンペーンを始めたところなんですよ。
僕の場合、一晩に2ステージと決めてるんでまだ第4ステージが終わっただけなんですが。
当然、第1ステージは圧勝し第2も戦果を拡大、第3はアドバイス通りに米新戦艦をやりすごして中部ソロモンへ戦略的後退をしました。
そして第4ステージ、新着の長門、山城、扶桑からなる第2戦隊で決戦し米戦艦に完膚無きまでの痛撃を喰らわせました。
損害もまあ、大きかったですが。
はてさて、これからどうなります事か。
今晩の戦いが楽しみです。 

[4057] 激闘!ソロモン海戦史DX文庫版 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/08/26(Sat) 16:36
先日、とうとう「激闘!ソロモン海戦史DX文庫版」を買ったので
久しぶりにソロモンキャンペーンに挑戦し、休日に17時間ぶっ通しでプレイしました。
結果、第6ステージでキャンペーン勝利しました。
こちらの損害は、戦艦榛名と、駆逐艦15隻ぐらいでした。
戦果は、戦艦3、巡洋艦多数、駆逐艦多数でした。
いやあ、相変わらず傑作でした。いつまでも飽きるということがありません。
攻撃では陽炎型駆逐艦、ネズミ輸送では白露型駆逐艦が、活躍してくれました。
あと、戦艦金剛、比叡、霧島の3隻による、飛行場への艦砲射撃が、ものすごい破壊力でした。
制空権、レーダーなど、何かと不利な状況でしたが、戦術を尽くしての勝利。最高の気分でした。
駆逐艦も至近距離になると、戦艦相手にけっこう暴れてくれます。九三式酸素魚雷は偉大だ! 

[4056] Re:[4055] [4053] [4052] [4051] [4050] [4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/19(Sat) 11:22
またまた願いが届いた!
7位になった♪
神様、ありがとうございます。 

[4055] Re:[4053] [4052] [4051] [4050] [4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/18(Fri) 16:29
と、思ったら8位に戻った。
とりあえず有り難い。
明日も上がるといいな。 

[4054] HP誤植修正のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/08/17(Thu) 19:34
『真実の大和』商品説明ページでHDD容量が100GBとなっていましたが、100MBの誤りです。
このため表記を「100MB」に修正いたしました。 

[4053] Re:[4052] [4051] [4050] [4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/17(Thu) 13:49
おや?
逆に9位になっちゃった。
ま、しょうがないか。
8月15日も過ぎたしね。 

[4052] Re:[4051] [4050] [4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/16(Wed) 19:31
うぬっ、今日は8位か・・・
まさにノコギリの刃みたいだな。
だとすれば明日は上がるか? 

[4051] Re:[4050] [4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/14(Mon) 12:17
願いがかなって5位になった!
神様、ありがとうございます。 

[4050] Re:[4047] [4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/13(Sun) 16:47
6位に戻った。
まさに一進一退だな。
できれば明日は5位に入りたいものだ。 

[4049] ウルトラマンは再放送で細切れでしか見てない 投稿者:K−2 投稿日:2017/08/12(Sat) 23:16
>ウルトラセブン
歌に「倒せ〜火を吐く大怪獣〜」と有る割に、怪獣は2回しか登場してないとか。
ワイドショットはスペシウム光線と比べるのも悪いくらい強力なのに、
大概アイスラッガーで倒しちゃうので殆ど使わないとか。
色々技持ってるのに、セブンが強すぎて全然使ってないとか。
あとやたら相性の悪いのとばかり戦わされるカプセル怪獣とか。
でもストーリーは一番シリアスで怖いのが多くて、心に刺さるのがありました。
未だにレンタル屋で、最新のウルトラマンシリーズに劣らない貸出率だとか。
恐ろしい作品です。

> ちなみにウルトラセブンはウルトラ警備隊7番目の隊員(実際は6人)を意味するらしい。
ウルトラ兄弟の中だとゾフィーの次で次男だったような気が。そっちは関係ないのか。

[4048] ウルトラセブン 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/08/12(Sat) 18:20
> ちなみにウルトラセブンはウルトラ警備隊7番目の隊員(実際は6人)を意味するらしい。

ウルトラセブンは、日本特撮史上最高傑作ですね!

やっぱり、ウルトラホーク1号が格好いいです。3機に分離するから!
マグマライザー、ハイドランジャーが登場する回も希少性が高くてうれしかったです。

あとキリヤマ隊長が使っていた、穿孔テープをベロベロと吐き出す、謎のコンピュータ!
だからプログラマーという職業には、やけくそに憧れましたね〜!
たしか、ウルトラ警備隊のアマギ隊員もプログラマーという設定でした。 

[4047] Re:[4046] [4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/12(Sat) 16:28
今日は7位。
ラッキーセブンだ。
ちなみにウルトラセブンはウルトラ警備隊7番目の隊員(実際は6人)を意味するらしい。 

[4046] Re:[4042] [4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/10(Thu) 17:37
オオッ!
6位に戻った♪
感謝! 

[4045] 第一次ソロモン海戦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/08(Tue) 10:21
1942年8月8日の晩、8隻から成る日本海軍の第8艦隊はルンガ泊地を夜襲し海戦史に残る大勝利を挙げた。
末広がりの八に恵まれた実にめでたい話である。
是非とも今晩は「激闘!ソロモン海戦史」をプレイしその武勲を讃えよう。 

[4045] 第一次ソロモン海戦 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/08(Tue) 10:21
1942年8月8日の晩、8隻から成る日本海軍の第8艦隊はルンガ泊地を夜襲し海戦史に残る大勝利を挙げた。
末広がりの八に恵まれた実にめでたい話である。
是非とも今晩は「激闘!ソロモン海戦史」をプレイしその武勲を讃えよう。 

[4044] 琉球貿易 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/03(Thu) 19:38
最後に4の「琉球王国との貿易」を解説しよう。
1609年3月末、薩摩藩は琉球王国を急襲し瞬く間に服属させた。
ただしこれは領土的野心から実施された軍事行動ではなかった。
琉球王国は併合されず名目だけにせよ以降も存在し続けたのである。
その理由は琉球王国が中国(明、後に清)の朝貢国だったので間接的に対中国の貿易が可能だったからであり1610年には初の交易船が中国へ派遣された。

だが中国側は対琉球貿易を歯牙に掛けず10年に1回の貿易しか許可しなかった。
これでは薩摩側の思惑は大きく外れる。
よって薩摩藩は琉球王国へ圧力をかけ1612年、1617年と相次いで交易船を派遣させて中国側へ再考を求め1622年からは5年に1回へ修正された。
だがそれでも薩摩側には不充分で2〜3年毎に交易船を派遣して譲歩を求めたので1633年からは2年に1回となり1678年に接貢船制度が確定してからは毎年派遣できる様になったのである。

ただし1回の貿易でどれだけの商取引が実施されたかは判然としない。
「物語藩史8巻」238頁には1回の交易で銀1000貫(約1万6千両)が用意され輸入物品は生糸、絹製品、薬種、書物、調度品、輸出物品は調度品、鰹節、硫黄(吉成直樹著「琉球の成立」によると薩摩に服属する以前、純然たる朝貢国であった琉球王国に中国が求めた物は火薬原料たる硫黄であったらしい)もしくは銀による支払であったと記述されている。
これが「新編物語藩史12巻」395頁では1636年の場合、準備された銀は薩摩藩10万両、琉球王国2万両の総額12万両だったとされ、かなり多い。

更に「ジュニア版琉球・沖縄史」では輸入物品は生糸、薬種、反物が主で輸出物品は俵物、昆布であり1820年代以降は輸出物品の70〜90%(積載容量なのか金額なのかは不明)が昆布で占められ日本総生産の10%と記載されている。
また同書では1720年代の琉球王府の貿易収支(銀)を生糸購入で108貫、生糸販売で156貫、よって利益48貫、経費は237貫なので81貫(約1300両)の赤字と記載しているがこれはちょっとおかしい。
経費から利益を除くと赤字は189貫(約3100両)となるからである。

よって「ジュニア版琉球・沖縄史」が原典としている安良城盛昭著「新・沖縄史論」を紐解くと同書では経費が89貫となっている。
だとすれば赤字は89−48で41貫(約680両)だ。
いずれにせよ、前述の1万6000両や12万両と比べ遥かに少額だ。
これはどうした事であろうか?

ひとつには琉球王府の貿易収支だけの数値だからで薩摩藩全体での貿易収支ではない事に注意する必要がある。
加えて江戸時代初期、生糸は輸入に於いて大きな比重を占めていたが次第に国産化が進み最終的に日本は絹製品の輸出国に転じたので18世紀には生糸の輸入が減少していた事も考慮せねばならない。
更に生糸以外の輸入品目での利益が記載されていない事も重要だし輸出でも大きな利益が得られるはずだのにその記載がないのもおかしい。
琉球王府が生糸以外の輸入及び輸出一切を禁止されていたのかも知れないが。

かつては琉球貿易が巨万の富を生み出したとする伊波普猷の学説が主流であり多くの書籍に前述の1万6000両や12万両などの数値が記載されていた。
これに異を唱えたのが1975年に発表された崎原貢の学説である。
安良城盛昭氏の学説は崎原貢説に同調した物であり琉球貿易の利益が少ない事と琉球王府が全負担を負っていたことに焦点が当てられた左派の論理だが如何せん前述の様に全体像が不明確で一概には首肯できない。
やはり琉球貿易で巨額の利潤が存在した時期もあったと考えるべきであろう。

琉球貿易は江戸幕府初期には膨大な利益が発生したが絹製品が国産化された中期になると利潤が減少(その分、海産物の輸出で補填されたかも知れないが)し蘭学医療の進捗から漢方医の薬剤原料需要が低下した後期になると更に利益が減っていったと推察される。
よって薩摩藩では幕末に様々な洋式工業技術の導入を図り藩営工場を設立した。
既に時代の趨勢は中国から西洋へと大きく移り変わっていたのである。

かくして1844年には仏が琉球へ来航して開港を要求、1847年には幕府が英仏に開港を許可したのだが1853年にはペリーが来航して日本本土で開港せねばならなくなり琉球の開港はあまり意味をなさなくなってしまった。
なお、幕府が朝鮮、長崎、琉球の貿易を制限した背景には一連の奢侈禁止令があるが薩摩藩、対馬藩、大商人に対する経済統制も目的のひとつと考えられよう。 

[4043] Re:[4036] [4035] いつもお世話になっております 投稿者:ケンツ軍曹 投稿日:2017/08/03(Thu) 19:12
> 「とくべつばん」も面白いよ。

脇から失礼します。
長らくご無沙汰しておりました。
しばらくぶりに「とくべつばん」をやってみました。
面白いですね。
女の子達が「きゃあきゃあ」騒いでます。
僕のイチオシはイレーネです。 

[4042] Re:[4040] [4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/03(Thu) 18:04
ムムッ!
喜んだのもつかの間、8位に後退したか・・・ 

[4041] 真実の大和 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2017/08/01(Tue) 23:21
さっそくオート編成の敵を相手にプレイしました。
こちらの編成はI案の大和と武蔵に陽炎型8隻です。
敵の編成規模は大、年代は主力艦1940年以降、補助艦1927年以降、マップはグァム近海、敵国は英、米、仏、開始時刻は0600です。
グァムを時計回りに進撃し最初に接敵したアラバマとノースカロライナをあっさりと片付けたのは良かったんですが天候が悪化して濃霧となり次に現れた?から電探射撃を喰らい脆くも炎上、あとは四方八方から集中砲火を受けました。
結果は大和と陽炎型5隻が沈没、残りはマップ外へ脱出しました。
いくら大口径砲を装備していても電探がなくては濃霧で勝てませんね。 

[4040] Re:[4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/08/01(Tue) 11:54
しばらく7位を維持していたが今日は6位になったようだ。
ありがたい事である。
多謝! 

[4039] Re:[4038] [4037] [4036] [4035] いつもお世話になっております 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/07/30(Sun) 11:59
> だとすればオススメは速射はヘタだが命中率の高いエルナだ。

はい。おっしゃるように命中率の高い戦車長が好みです。
停止状態で最終命中率は、80%ぐらいは欲しいところです。
エルナ嬢には、わたしの一番好きな戦車、ノイバウファーツォイク多砲塔戦車に搭乗していただきたいですね。
それでスコアは、5ぐらい稼いでくれればありがたいです。東部戦線従軍記、制覇できるように精進します。

蛇足ですが、本日「鋼鉄の騎士U 文庫版」と「激闘!八八艦隊海戦史DX 文庫版」を注文しました。
これで「とくべつばん」と「真実の大和」が遊べます。楽しみです。サブノートパソコンにインストールしてプレイします。
サブノートパソコンは、なんだかデスクトップパソコンに比べて、格段に集中できる気がするんですが、わたしだけでしょうか? 

[4038] Re:[4037] [4036] [4035] いつもお世話になっております 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/30(Sun) 10:15
> 何だか気になるルイーゼ様が直撃を食らわないように、毎日、戦術眼を鍛えておきます!

「東部戦線従軍記」でルイーゼの相当するのはカールだけどあのゴツイ顔を見ても心は癒されないね・・・
まあ、士気は高揚するが。
ちなみにカールは戦前からの職業軍人だけどルイーゼの職業は主婦である。
カールは撃つ時に「屑鉄にしてやる!」などと高圧的だがルイーゼは「屑鉄になりなさい!」とちょっとだけおしとやかである。

> ちなみに、鋼鉄の騎士Uでのわたしの得意とする戦術は「待ち伏せ」と「後退」でございます。

だとすればオススメは速射はヘタだが命中率の高いエルナだ。
この娘じゃ嫌? 

[4037] Re:[4036] [4035] いつもお世話になっております 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/07/29(Sat) 16:13
> 「とくべつばん」も面白いよ。

ご返信ありがとうございます。
正直に白状しますと、わたしが所有しているのは「鋼鉄の騎士U 廉価版」です(泣)
でも「とくべつばん」は、是非プレイしてみたいと思っております!
Windows10にも対応ですし、他の作品とともに揃えておきたいところです。
何だか気になるルイーゼ様が直撃を食らわないように、毎日、戦術眼を鍛えておきます!
ちなみに、鋼鉄の騎士Uでのわたしの得意とする戦術は「待ち伏せ」と「後退」でございます。 

[4036] Re:[4035] いつもお世話になっております 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/29(Sat) 07:13
> といいつつも最近は「鋼鉄の騎士U」に熱中しております。
> 10日間連続で、ショートシナリオを、1日1本プレイしているところです。

「とくべつばん」も面白いよ。

[4035] いつもお世話になっております 投稿者:旧式野郎 投稿日:2017/07/27(Thu) 17:13
「真実の大和」販売開始、おめでとうございます。
久しぶりに「激闘!八八艦隊海戦史DX」をプレイ開始しようと思います。
また、あの激烈な砲撃戦を体験しようと思います。楽しみです。

といいつつも最近は「鋼鉄の騎士U」に熱中しております。
10日間連続で、ショートシナリオを、1日1本プレイしているところです。
やはり毎日プレイしていると、だんだん腕が上がってまいります。
ハリコフ戦は、あれだけ充実した編成でも苦戦します。ソ連の冬は脅威ですね。

所有ゲームは数有れど、限られた時間で、どのゲームをプレイするか?という時
ジェネラル・サポート様のゲームを選ぶことが、断然多いです。
どのゲームも長く楽しめます。これからもよろしくお願いします。 

[4034] ダウンロード販売開始のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/07/20(Thu) 19:15
本日、激闘!八八艦隊海戦史DX文庫版パワーアップキット『真実の大和』の販売を開始いたしました。
http://www.general-support.co.jp/link2.html

他のダウンロード販売サイトも随時、販売を開始いたします。 

[4033] ランキング 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/19(Wed) 10:45
やった。
価格コムのPCゲームソフトランキングで太平洋戦記3が7位に入った。
毎年、8月が近づくと伸びるね。 

[4032] Re:[4030] [4029] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/07/15(Sat) 19:09
> そんな中でピカリと光るのは「飢餓陣営」だ。
> もし宜しかったら是非、御一読を。

読みました。
面白いですね。
宮沢作品は不幸な結末の話が結構、多いのですがハッピーエンドだったので楽しめました。
これほどの傑作を今で知らなかったとは汗顔の至りです。 

[4031] 対馬貿易 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/12(Wed) 10:52
次は3の「対馬及び釜山に於ける朝鮮王国との貿易」である。
ここで重要なのは李氏朝鮮王国がオランダや中国の様な通商国ではなく外交を含んだ通信国であり琉球の様な複数国に服属する「?」な立場ではない事だ。
更に文禄・慶長の役で日本は中国(当初は明、後に清)及び朝鮮とは敵対関係にあり、まずは外交関係の修復から始める必要があった。
この任に当たったのは対馬の宗氏であり1607年に国交回復、貿易は1611年に開始されたが日本と朝鮮で相互認識の乖離が大きく道は険しかった。

中でも問題となったのは徳川将軍家の立場である。
中国に皇帝が存在し冊封体制の朝貢国(平たく言えば属国だ)として服属する李氏朝鮮王国では「名目上の存在に過ぎない天皇家と実質的な統治者としての徳川将軍家の関係」は理解不能であった。
よって宗氏では江戸幕府から朝鮮王国に送付した文書と朝鮮王国から江戸幕府に送付した文書を改竄して双方を納得させた。
甚だしいのは徳川秀忠の立場を「日本国主」と書かれていた文書の「主」の部分の「、」を修正(主−>王)して「日本国王」にしてしまった事である。
その後、紆余曲折あって徳川将軍家の朝鮮に於ける公職名は「大君」となり幕末期に於ける西洋諸列強でも徳川将軍家は「タイクーン」と呼ばれた。

さて、朝鮮貿易だが「物語藩史8巻」163頁によると品目が固定され儀式的な進上貿易と進上貿易を補完する目的で実施され価格を朝鮮が決定する公貿易、商人同士が任意に行う私貿易の3種があり日本から輸出品目は銀、銅、錫、水牛角、胡椒、紅、輸入品目は木綿、生糸、漢方薬、獣皮だったらしい。
公、私貿易の利潤は当初23〜24万両にものぼったそうだ。
ただし1686年に幕府が銀の流出阻止の為、輸出入総額を18000両に制限(後に30000両に復活)し1775年に私貿易は廃止されたとある。

う〜ん、もっと詳しい資料はないかな?
おお、あったぞ。
「新編物語藩史12巻」55頁によると進上貿易の輸出品目は胡椒、紅、銅盤、輸入は漢方薬、獣皮、筆、墨、公貿易の輸出は銅、錫、水牛角、輸入は木綿及び食糧、私貿易の主な輸出は銀、主な輸入は生糸、漢方薬だそうだ。
ちなみに17世紀初頭、日本の銀採掘量は全世界の1/3にも達したらしい。
だが採掘量は徐々に低下し事態を憂いた幕府は1686年に上記の制限を課したが制限は守られず以降も輸出入は平均10万両、多い時には20万両にも上り利潤は輸出入合わせて10万両、多ければ20万両を越えたとも記述されている。
よって17世紀末の対馬貿易は長崎交易より遥かに生糸の輸入量が多い。
木綿(当時木綿は輸入に依存しており国産の低価格繊維製品は麻やカラムシで占められていた)と漢方薬(主として朝鮮人参、当時の日本の医者は漢方医が大部分だっただからね)の輸入量が多いのも朝鮮貿易の特徴であった。

他にも資料は・・・
あった、「新編物語藩史11巻」24頁によると1694年の朝鮮貿易の利益は34万両で1685年の対蘭貿易高は5万両とある。
う〜ん、対蘭貿易は密貿易を含まない数値だな。
こりゃダイレクトには比較できないぞ。
でも朝鮮貿易の利潤が大きいのは確実な様だ。

だが莫大な利潤を挙げ対馬藩を支えた朝鮮貿易もやがて凋落の時を迎えた。
良質な生糸及び木綿の国産化が進み輸入に頼る必要が無くなったのである。
かくして対馬藩はどんどん貧乏になっていった。
鎖国を支えた4つの交易ルートのうち朝鮮貿易が一番、浮き沈みが激しい。 

[4030] Re:[4029] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/08(Sat) 22:05
> 阿部さんは宮沢賢治作品の中でどれがお好きですか?

実は宮沢賢治について不屈の努力家である事、多彩な才能がある事などは認めるが彼の思想や価値観には共鳴出来ないし作品にしても好みの物は非常に少ない。
そんな中でピカリと光るのは「飢餓陣営」だ。
もし宜しかったら是非、御一読を。 

[4029] Re:[4025] 宮沢賢治について 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/07/08(Sat) 21:56
> は商業出版され世に知られる前に数々の名作を著述した。

阿部さんは宮沢賢治作品の中でどれがお好きですか? 

[4028] Re:[4027] [4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/08(Sat) 21:43
> 上野に国立科学博物館という施設があります。

懐かしいな。
初めて行ったのは50年以上前で父に連れていってもらったよ。
野外のクジラと館内の恐竜の骨格標本が印象的だったよ。
ミイラと干首もね。


> 常設展示されているものではただ一つ、地球館3階に展示されているボルネオオラウータンの剥製がその時代からの展示物で関東大震災時は別の博物館に貸し出していたため焼失を免れたと言う逸話があります。

覚えてないなあ・・・
同じ日に上野動物園にも行ったんだが「糞を投げるゴリラ」がいてその方が印象的だったからねえ。

> つまり、常設展示されているものの中で宮沢賢治が「見た可能性」のある唯一のものがそれと言う事になります。
> 一見するとなんて事のない、そして時代的に見て仕方がないとは言え出来のよろしくない剥製ですがそうして見ると不思議とドラマを感じるようになるのが面白いところかと。

同じ景色と言えばJR横須賀駅。
階段の無い不思議な駅だ。
不思議な事に建て替えてないから昔とちっとも変わらないね。
そこから見える景色はある人間にとっては故郷へ向かう天国への入口、ある人にとっては娑婆と別れる地獄への入口。 

[4027] Re:[4025] 宮沢賢治について 投稿者:よし 投稿日:2017/07/08(Sat) 00:37
上野に国立科学博物館という施設があります。
その前身は明治に遡り関東大震災で東京国立博物館の前身の博物館と共に建物と資料や展示物などほぼ全てを失い、その後再建された博物館です。
宮沢賢治も上京時に科博に立ち寄ったのが明らかになっていますが、彼が立ち寄った後に関東大震災が起きましたので彼が見た可能性がある展示物はほとんど残っていない状況です。
常設展示されているものではただ一つ、地球館3階に展示されているボルネオオラウータンの剥製がその時代からの展示物で関東大震災時は別の博物館に貸し出していたため焼失を免れたと言う逸話があります。
つまり、常設展示されているものの中で宮沢賢治が「見た可能性」のある唯一のものがそれと言う事になります。
一見するとなんて事のない、そして時代的に見て仕方がないとは言え出来のよろしくない剥製ですがそうして見ると不思議とドラマを感じるようになるのが面白いところかと。

そして、数年前に鉱物好きだった宮沢賢治の企画展である「石の世界と宮沢賢治」が開催され企画展の主役となりました。
博物館と言うのは時代を超えて人をつなげる教育施設と言うのを実感できます。

そして先日、科博のニュース展示でシドッチ神父の遺骨から複顔像が展示されていました。
下でも書かれている鎖国政策の中布教のため日本にやってきて捕まるも新井白石の助力で死罪を免れ切支丹屋敷に軟禁された人物ですが、この二人の知識人の出会いとそれを記した西洋紀聞が後の開国への流れの中でいかに重要なファクターとなったかを人類学の先生に解説していただけました。

建国記の開始となる明治元年の到来に間接的に関わったシドッチ神父。
建国記の時代を生き抜いた宮沢賢治。
それらを感じることができる国立科学博物館。
本当に素晴らしい施設です。

最後に科博の地球館二階に零戦が展示されていますが、その近くにひっそりと竪削盤と言う工作機械が展示されています。
1863年、幕府がオランダに注文して納品され、その後1998年まで現役で働き続けた工作機械です。
建国記の開始から終了までより長い時間働き続けた彼は今博物館の一角で第二の人生を歩んでいます。 

[4026] 蝦夷地に於けるアイヌ交易 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/07(Fri) 19:35
それでは話をオランダから鎖国へ戻そう。
え〜と、どこからだったかな?
2の「蝦夷地に於けるアイヌ交易」が今回のテーマだ。
アイヌ交易を実施したのは松前藩である。
通商相手はアイヌだ。

だがアイヌは松前藩の領民なのか、そうでないのか?
蝦夷地は松前藩の領地なのか、そうでないのか?
アイヌは鎖国政策の対象なのか、そうでないのか?
これらは甚だ不明確であり江戸初期から幕末まで大きく変化する。

江戸幕府成立期の北海道(蝦夷)は和人(日本人)が居住する和人地とアイヌが居住する蝦夷地に区分されており和人地は松前藩が支配していた。
通常、江戸期の藩は米を経済基盤としており生産石高で藩の財力が示される。
だが北海道は寒冷地なので当時の農業技術だと稲作が不可能であった。
そこで松前藩はアイヌと交易して俵物(干鮑、鱶ヒレ、干海鼠)及び海産物(干魚、昆布、鯣)、獣皮、羽根などを入手しそれを売却する事で財源とした。
勿論、和人地に於いては和人漁師による漁労活動も実施されている。

なお、これら交易品の売却価値は時代の変遷と共に大きく変化していった。
対清交易が隆盛を極めた時期であれば生糸の対価となる俵物の比重が大きくなり琉球交易が盛んであれば昆布の需要が大きくなる。
アイヌ交易は清から生糸を輸入する為に必要不可欠だったのである。
干魚は江戸を中心とした東国消費地へは塩鮭、京大阪を中心とした西国消費地へは干鱈、双方へは身欠鰊が供給されたが時代の変遷と共に次第に増えていった。
鰊については日本全体の農産地の生産力拡大と共に肥料としての需要も増えた。
これら水産物の対価としてアイヌに支払われたのは米などの食糧、酒、繊維製品、武器、調度品で収支の差が松前藩の利益となった。

つまり普通の藩が「百姓からの年貢」で経済が成り立っていたのに対し松前藩は商業中心に経済が成り立つ特異な存在であった。
そして商業を支える交易拠点が蝦夷地に設けられた商場(あきないば)である。
商場は北海道のみならずクナシリ、エトロフ、樺太にも設けられ松前藩の上級家臣(場所持と言う)が運営する独立採算性経済機関であった。
普通の藩で家臣は**石取で俸禄が示され収入は基本的に変わらない。
だが松前藩の家臣は自己の才覚次第で収入が大きく変化するのである。
「新編物語藩史1」45頁によると1669年時の家臣は場所持が34人、中級及び下級家臣の切米取が40〜50人の総計80余名であった。
ただし幾ら商人的な武士であったとしても武士だけで商場を経営するのは無理で実質的な経営には多くの近江商人が介在した。
なお松前藩の家格だが5代将軍期には交代寄合席(無高)の旗本で1719年に1万石待遇の大名に昇格した。
その後、紆余曲折を経て1855年には35000石+18000両+1万350石(預かり地)の約6万石に増加している。

さて、それでは蝦夷地を支配していたのは誰であったろうか?
アイヌはコタンと呼ばれる小村を基本的な生活単位としコタン群を統括する族長はいるんだか、いないんだかよく判らない状態であった。
よって和人の商場が町に相当する大集落であり経済の中心地となった。
和人は支配者ではないのだからアイヌは松前藩の領民ではない。
だが交易のレートは商場を管理する側が一方的に設定したので経済的に隷属せざるを得ず搾取され軋轢が生じた。
かくして1669年の「シャクシャインの乱」や1789年の「クナシリ・メナシの乱」などの蜂起が発生、アイヌ側は常に敗北し統制は逐次、強化された。
つまり最初は割と自由だったのが次第に隷属の度合いが増していったのである。

それでは人口で和人とアイヌの関係を比較してみよう。
「新編物語藩史1」57頁によると和人人口は1749年が21107人、1756年が22632人、1777年が26633人である。
またウィキによる和人人口は1804年が32664人、1839年が41886人、1854年が63834人、1873年が105058人となっている。
つまり124年間で5倍に増えた訳だ。
アイヌ人口は1804年頃に26350人だったのが1822年には24339人、1854年には18428人、1873年には16272人と減少した。
64年間で約6割に減ったのである。
ただし蝦夷地は松前藩の直接支配する地域では無いのでアイヌ人口の詳細については判然としておらず数値の精度についても確かとは言えない。
アイヌ人口の最も古い数値として残されている1804年時は「クナシリ・メナシの乱」の直後でありこの蜂起が松前藩及び幕府に与えた衝撃が窺える。

次に松前藩の家臣について述べよう。
前述の様に1669年時は80余名だった家臣は商場の拡大で増加していった。
だがアイヌの蜂起やロシアの南下で蝦夷の重要性がクローズアップされ1807年に幕府は蝦夷を直轄化し松前藩は内地に転封(9000石)となった。
その後、1821年に再び蝦夷に転封されるがこの時点での家臣は「新編物語藩史1」によると上級及び中級家臣の士分78名、下級家臣の足軽33名の計111名とされている。
また1807年の転封時、180名の家臣が蝦夷に残留したと記載されているので1807年の転封前、家臣総数は約300名であったと推察される。
慶安の軍役規定では1万石の家臣数235名なので1807年時の松前藩は家格とあまり乖離してはいないと言えるだろう。

松前藩が1万石なのは収益でも家臣数でも領土面積でもなく暫定的に決定された石高に過ぎず以降、徐々に実態にそぐわなくなってくる。
家臣数は1825年時に556人に増え1850年には5091人に達した。
つまり181年間で63倍(1万石であった1807年時を基準とすれば43年間で17倍)にも増加している。
この様な藩は類例を見ない。

和人や松前藩家臣が増大した理由はそれだけ蝦夷の開拓が成功し需要が増大し外的脅威も拡大したからである。
なお大規模な家臣団を支えるにはそれだけの経済基盤がなくてはならない。
よって松前藩は前述の様に約6万石となったのだが慶安軍役規定の家臣数ではそれでも約1200名に過ぎない。
しかも約6万石となった背景には蝦夷地の大半を江戸幕府直轄とする代わりに内地の領地及び援助金を与えると言う政策で実質的な歳入は大きく減少した。
よって1866年の収支は歳入見込み11万2242両、歳出12万2567両で約1万両の赤字財政となってしまったのである。

アイヌ交易でもうひとつ特異なのが山丹交易である。
1858年のアイグン条約でロシアへ割譲されるまで朝鮮半島の北東に位置する沿海州は外満州(もしくは山丹国)と呼ばれ清国領土であった。
ここに居住するのが山丹人である。
日本は鎖国しているので松前藩と言えど勝手に清国と交易できなかったがアイヌは独自に山丹人との交易ルートを持っていた。
こうしてアイヌが仲介役となって清国の絹製品(山丹服もしくは蝦夷錦)や宝飾品が日本に輸入されたのだがあまり大きな経済的活動にはならなかった。 

[4025] 宮沢賢治について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/07(Fri) 14:14
宮沢賢治は商業出版され世に知られる前に数々の名作を著述した。
凄い事である。
そして商業出版された自著が多くの人に読まれ感銘を与える事を知らずに世を去った。
哀しい事である。
今、自分が成さんとする事をどれだけ人に伝えられるのか、それは判らない。
でもいつだって「彼はもっと孤独で何の保証もないまま頑張ってきたんだ」と思うと前に進めそうな気がする。 

[4024] オランダについて(続きの続きの続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/07/02(Sun) 10:00
あまりにも戦争だらけでウンザリ(そうでもないか?うちの読者だもんね)したかも知れないがオランダを巡るこれまでの戦争を要約しておこう。
1期 両ハプスブルグ家 VS 欧州
2期 ブルボン家    VS 欧州
3期 仏及び諸国家   VS 英及び諸国家

まず1期だがハプスブルグ家は神聖ローマ帝国とスペイン王(後にポルトガル王も兼任)でミラノ公、ナポリ王、シチリア王としてのイタリア領土、更にはブルゴーニュ公国、ネーデルラントをも支配する欧州最大の君主であった。
当然、同盟国などあまり必要としない。
周辺諸大国(英、仏、スウェーデンなど)は一致団結してハプスブルグ家と戦う。
ハプスブルグ家が支配する領域内の反対派もすぐに反旗をかざす。
これが1期の特徴で1568年から1678年までおよそ110年間続いた。
その間に繰り広げられた戦争は80年戦争、1次から3次英蘭戦争、仏蘭戦争などで30年戦争がハイライトであった。
オランダの視点から見ると30年戦争と仏蘭戦争は逆に見えるが全体的視点で見るとハプスブルグ対周辺諸大国の対立構造は変わらない。

これに対し2期は王権の中央集権化に成功し経済的にも進捗著しいブルボン家の仏に主役の座が移ったのが特徴でかつては異彩を放ったハプスブルグ家は神聖ローマ帝国及びスペイン王(もはやポルトガル王を兼任していない)として周辺諸大国の一員に身を落とした。
第2期は1679年のナイメーヘンの和約直後から始まり1740年に勃発したオーストリー継承戦争までの約60年間続いた。
この間に繰り広げられた戦争は9年戦争、スペイン継承戦争などである。
4カ国同盟戦争と言うのもあるがは単なる「フェリペ5世のおいた」に過ぎない。
強大な仏を相手にほぼ全欧州が戦ったが仏が欧州でトップの座に立てた要因はルイ14世(在位1643〜1715年の72年間)、ルイ15世(在位1715〜1774年の59年間)と2代続けて長期政権が成立した事にあった。
つまり国情が安定化し王位継承に由来する内紛が減ったのである。

そして2期の間に海外植民地獲得で隆盛著しい英国の比重が大きくなり3期は仏及び諸国家陣営と英国及び諸国家陣営の対立構造となった。
仏は「強大な王権による中央集権化」によって2期に於ける欧州トップとなったが英国が3期のトップになれた要因は「議会主導の民主主義による国益拡大」であり王権は逆に弱体化し「君臨すれども統治せず」の道を歩んだ。
更に新興大国としてプロイセン王国が加わり地理的にプロイセンと隣接するロシア帝国も欧州の情勢に大きな影響を与えた。
第3期は1815年のウィーン体制確立までの約75年間続く。
この間に戦われた戦争はオーストリー継承戦争、7年戦争、アメリカ独立戦争(及び第4次英蘭戦争)、フランス革命戦争及びナポレオン戦争である。 

[4023] オランダについて(続きの続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/28(Wed) 19:34
ただし1618年にフィリップス・ウィレムが死去するとマウリッツがオラニエ公を継承し総督とオラニエ公を同一人物が兼ねる様になった。
ちなみにオラニエ公家はドイツの名門ナッソー家の傍系であり同じくナッソー家傍系のディレンブルク伯家の人物がヘルダーラント州やフローニンゲン州、フリースラント州などで総督に任命されている。
他にもメールス伯家やらレンネンベルフ伯家やらディーツ伯家やら色々いる。
ディーツ家もオラニエ家の親戚筋で最初は伯だったが後に侯になった。
まあ、ともあれ英国王ウィリアム3世死去後、ディーツ家のヨハン・ウィレム・フリーゾがオラニエ公を継承したが当初はどの州も総督に任命しなかった。
1707年にフリースラント州、1708年にはフローニンゲン州で総督に任命されたが経済の中心地であるホラント州及び他の4州では長きに渡り総督が任命されなかったのでこの時期は無総督時代とも称されている。

では誰がオランダを統治していたのであろうか?
答えは議会(スターテン・ヘネラール)である。
つまり当時、オランダの議会は単なる立法府ではなく行政府でもあったのだ。
オランダは英国との疑似同君連合が解消されても同盟関係は維持し1614年まで続いたスペイン継承戦争(1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約で講和)でも共に戦った。
いや、低地地方が主戦場のひとつだったのだから戦うのは当然とも言えよう。
さてスペイン継承戦争の勝敗だがブルボン家がスペイン王となったのだからフランスの勝利と言えるがかつてスペイン領土全てが手に入った訳ではない。
低地地方の南部10州とイタリアのナポリ、ミラノなどが神聖ローマ帝国に割譲され英国には海外植民地(特にジブラルタル!)が割譲された。

ところで前述のオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾだが1711年に死去した時、公位を継承する公子はまだ公妃の腹の中にあり6週間後に誕生した。
誕生後、ウィレム4世としてオラニエ公を継承するが総督として任命したのはフリースラント州とフローニンゲン州だけであった。
まだ赤ん坊なんだし当たり前と言えば当たり前だ。
だが1729年にはヘルダーラント州が続き1747年には全7州の総督に任命され以降、オラニエ公家による世襲化が宣言される。
かくしてオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は君主国となった。

でもね・・・
1751年にウィレム4世が死去した時、公子はまだ3歳でオラニエ公位はウィレム5世として継承したものの総督には任命できなかった。
つまりまたしても一時的にだが「無総督」になったのである。
ウィレム5世が全州総督になったのは成人(18歳)した1766年であった。

英国との同盟はどうなったかって?
1740年に勃発したオーストリー継承戦争では英国と共に戦った。
だが1756年(見方によっては1754年)から始まった7年戦争では英国が参戦しているにも関わらずオランダは中立にとどまった。
英国との関係はかなり冷えてしまったのである。
更に1775年に勃発したアメリカ独立戦争では反英側に立ち第4次英蘭戦争(1780年〜1784年)を繰り広げた。

思えば1568年に勃発した80年戦争から1714年に講和したスペイン継承戦争までの146年間でオランダが戦争していなかったのは40年間だけである。
まさに戦争につぐ戦争で激動の時代であった。
そしてこの時期のオランダに天才的戦争指導者が誕生しないはずがない。
数多の名将、名提督を輩出したがオランダの少年少女が両手を挙げて感激する二人を選ぶとするならば前述した陸のマウリッツと海のデ・ロイテルとなろう。
オラニエ公マウリッツは歩兵、騎兵、砲兵のコンビネーションを具現化した三兵戦術を考案して近代軍事革命の祖となりデ・ロイテルは四日海戦やソール湾海戦、テセル島海戦の覇者として海戦史にその名を残した。 

[4022] オランダについて(続きの続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/27(Tue) 19:29
さて、英国の不穏な情勢の方だが1688年6月にオランダへ密使が送られた。
その後、準備が着々と整えられたが英国側の思惑から外れる部分がひとつあった。
英国側は元王女が帰国し女王メアリー2世として王位継承させるつもりだったのだが婿殿のオランダ総督ウィレム3世が妻をオランダに残したまま11月15日に2万の兵を率いて先発して英国へ上陸してしまったのである。
この上陸に対しジェームズ2世は討伐部隊を派遣したが離反が相次ぎ12月21日には国王自身がロンドンから脱出し逮捕されてしまった。
これが後に名誉革命(無血革命とも称される)と称される事件の顛末で婿殿は共同統治者の英国王ウィリアム3世として翌年2月に即位(前王は仏に亡命)した。
ちなみにメアリー2世は子が無いまま1694年に没しており以降はウィリアム3世が単独のオランダ総督兼英国王となった。
つまり「オランダ総督に嫁した王女が里帰りして女王になった」と言うより「妻の実家の内紛につけこんでオランダ総督が英国王位を簒奪した。」に近い。
こうしてオランダと英国は同君連合になった。

当然、英国はアウグスブルグ同盟に加盟し反フランスの立場で9年戦争へ参戦、マールバラ伯チャーチル(あのウィニー・チャーチルの御先祖様だ)率いる陸軍部隊を大陸へ派遣する。
9年戦争はネーデルラントからライン地方は言うに及ばずスペイン、イタリア、アイルランド各地で繰り広げられたが名前の通り9年で終わり1697年のレイスウェイク条約で講和が成立した。
勝敗は決定的な決着はつかず「仏側がやや不利な講和条件」と言った所。
つまり講和と言うより一時停戦に近い。

よって3年間の平和の後、1701年にはスペイン継承戦争が勃発する。
スペインの王位継承権に端を発したこの戦争は相も変わらず仏対ハプスブルグが中心軸であったがスペインの半分が仏側についていた。
勿論、英蘭は揃って反仏側である。
参戦した翌年、ウィリアム3世はモグラの掘った穴で乗馬が転んで頓死。
義妹のアンが女王として即位し再びマールバラ公(伯爵から出世!)率いる陸軍部隊を大陸へ送り出した。
同君連合はどうしたかって?
アン女王はオランダ総督ではなかったので同君連合ではなくなった。

ここでひとつ「総督って何?」を語らねばなるまい。
元来、ネーデルラント総督は宗主国の神聖ローマ帝国もしくはスペインがネーデルラント諸州(16世紀は17州)統治の為に任命する役職であった。
よってサボイア公妃マルグリットやハンガリー王妃マリア、パルマ公妃マルゲリータなど皇帝の親族女性が任命される例が多かった。
だが80年戦争が勃発すると各州の議会は独自の総督を選出し始める。
そして各州の議会を支配しているのはレヘントと呼ばれる豪商である。
独立を要求した北部7州は独自に総督を任命したので当然、複数の総督が存在し1人の総督が複数の州総督を兼任する場合も多かった。
更にレヘント達の合意が得られず総督が任命されない場合もある。
つまり総督の地位と権限は非常に不安定であり君主とは言い難い面があった。

ウィリアム3世の即位をもって英蘭が同君連合となったと前述したが正確には同君連合ではなかったし、江戸幕府がオランダと通商を開始した1609年時にオランダ側はオランダ総督をオランダ国王と訳したがあからさまな嘘であった。
1572年にホラント及びゼーラント州初の総督に任命されたオラニエ公ウィレム1世は1577年にはユトレヒト州、1580年にはフローニンゲン州及びフリースラント州総督を兼任したが1584年に死去した。
オラニエ公を継承したのはウィレム1世の長男フィリップス・ウィレムである。
だがフィリップス・ウィレムは旧教徒なので議会は総督に任命しなかった。
ホラント州とゼーラント州が総督に任命したのはウィレム1世の次男マウリッツであり1590年にはユトレヒト州、ヘルダーラント州、オーファーアイセル州、1620年にはフローニンゲン州の総督も兼任した。
この様にオラニエ公と総督は別であり世襲化していなかったのである。 

[4021] オランダについて(続きの続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/26(Mon) 19:20
こうしてオランダは日本との貿易権を独占し1948年には独立も承認された。
だがその僅か3年後、新たな戦争が勃発した。
オランダの平和は二年間しか続かなかったのである。
今度の相手はかつての宗主国スペインではなくかつての同盟国英国であり戦争目的も宗教や独立から経済的覇権へと大きく変容していた。
この第1次英蘭戦争は海洋国同士なので海戦が主体で1654年に講和した。
更に10年間の平和を経た1665年に第2次英蘭戦争が再発し1667年に講和したものの4年間の平和の後、1672年3月に第3次英蘭戦争が勃発する。
この戦争は第1次及び第2次英蘭戦争とは大きく様相を異にしていた。
開戦の翌月、フランスが宣戦布告し仏蘭戦争が同時に始まってしまったのである。

海で英、陸で仏と戦う以上、オランダもいずれかと組まなければ対抗できない。
そこで仇敵のスペイン及び神聖ローマ帝国及びドイツ諸侯と同盟を結び英仏と対抗したのだが1675年からはスウェーデンが英仏側で参戦し戦局が拡大した。
こうなると30年戦争をオランダだけ入れ替えて再戦したに等しい。
もはや宗教も経済も超越した国家間の利害が絡み合い欧州全体が混乱の極に達したがもつれた糸も状況次第でやがてほどけてゆく。

まず端緒となった第3次英蘭戦争がオランダの名提督デ・ロイテルの活躍によって英国不利の状況で戦局が進展し英国内の反仏派が台頭した。
やむなく英国は1774年にオランダと講和、1677年には英国王女とオランダ総督の婚姻政策で親オランダへと舵を切り替えてゆく。
この方針変更は後にとんでもない事態を招く。
1678年まで続いた戦いで各国は疲弊し同年8月から翌年12月までナイメーヘンで開催された講和会議でとりあえず仏蘭戦争は終わる。

とりあえず9年間の平和。
そして次の戦争はとんでもない所からやってきた。
英国では国王ジェームズ2世が旧教に改宗した為、議会との対立が激化していた。
かくして議会側は王位継承者にオランダ総督と結婚していた王女を選んだ。

一方、仏蘭戦争で勝利を得られなかった仏は虎視眈々と再戦の機会を窺っていた。
機会は1688年9月にやってきた。
プファルツ選定侯の継承問題で仏が軍事介入し9年戦争が勃発したのである。
これに対しアウグスブルグ同盟加盟国(神聖ローマ帝国及びドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデン)は次々と参戦、戦火は全欧州に拡大した。
よって9年戦争は大同盟戦争、プファルツ継承戦争、ウィリアム王戦争、アウグスブルグ同盟戦争などの呼称でも知られる。 

[4020] オランダについて(続きの続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/21(Wed) 19:21
話を元にもどそう。
80年戦争での12年停戦が始まった年に在日オランダ商館が開設された。
そして1619年、ジャカルタにバタビア城を建設し蘭印支配の拠点となった。

1622年、停戦が終了しオランダはポルトガル領(スペインと同君連合)のマカオを13隻からなる艦隊(兵力は800名の上陸部隊を含む1300名)で攻撃したが150名のポルトガル軍が勇戦し攻略に失敗する。
1624年にはゼーランディア城を建設し台湾を植民地化して交易圏を拡大するが1928年のタイオワン事件で日本との国交が1632年まで途絶してしまう。
そして1936年、第4次鎖国令で貿易に関係ないポルトガル人とその家族がマカオへ追放され在日ポルトガル人は出島での居住のみに制限される。

これで出島以外の日本にカトリック宣教師はいなくなるはずだったが実はまだ潜伏しており1937年9月には長崎で新たな密入国宣教師4名が処刑されている。
こうした状況下の1637年12月、島原の乱が勃発した。
果たして誰が画策したのであろうか?

リーダーの天草四郎は著名だが背後にスペインがいたのだろうか?
それは判らない。
バチカンが動いたのだろうか?
それも判らない。
鎖国令を実現させ対日貿易の利潤独占を図ったオランダの陰謀説は?
やはりそれも判らない。
単なる宗教一揆が暴発しただけなのかも知れないがそれとても判らない。
籠城した中に宣教師は含まれていたのだろうか?
その証拠はないが居なかったとも言い切れぬし前後の事件を考えると幕府側が「宣教師がいても当然」と考えても不思議はない。

合理的に考えれば勝算の無い宗教一揆を蜂起させても宗教弾圧が激化するだけでメリットはなくバチカンからの指示で発生したと考えるのは無理がある。
ただしバチカンからの指示はなくとも現地の判断があった可能性は否めない。
重要なのはオランダの役割で大砲5門を幕府軍へ提供し海上のオランダ船から一揆側への艦砲射撃も実施している。
島原の乱は1638年4月に終わり1624年のスペイン船来航禁止に続き1639年の第5次鎖国令でポルトガル船の来航も禁止された。

困ったのはポルトガル植民地のマカオである。
中国産の生糸を日本へ輸出する事でマカオの経済は成り立っており対日輸出の途絶は経済破綻を意味する。
よって貿易再開を江戸幕府に陳情する目的で74名の使節団が派遣された。
この時、マカオは大きな誤算をしていたのである。
中国では法令が軽視されワイロが幅をきかす。
それに対し日本は法令が重視されワイロは軽蔑の対象となる。
島原の乱で南蛮貿易の制限が厳しくなる事を予測したマカオ市がとった対策(1639年1月12日のマカオ市議事録)は銀43貫470匁で幕府要人向けの豪華な進物を準備する事であった。
この進物は効を奏さずポルトガル船は1939年10月17日に第5次鎖国令を受領してマカオへ帰港したのである。

更に回航禁止令が出ているのに長崎へ回航すると言う事は日本側からすれば陳情ではなく明らかな法令無視でありもはや敵対行為としか映らなかった。
1640年8月、盛装して幕府からの回答を待った使節団のうち江戸幕府は61名を処刑、使節船は進物として準備された銀14000テールを載せたまま沈め残りの13名はこの事実を海外へ伝聞させるに小型船でマカオへ送還させた。

さて、当時の日本を取り巻く環境だが中国にポルトガル領マカオ、台湾にオランダ領ゼーランディア、フィリピンにスペイン領マニラがあった。
これらのうちマニラは対日布教の本拠地であったがマカオは生糸輸出の拠点なので経済的指向が強くゼーランディアは対日貿易に参入する機会を窺っていた。
豊臣政権によって1597年に処刑された26聖人のうちスペイン人は4名、ポルトガル人は1名であり1633年から1637年にかけて処刑された長崎16聖人ではスペイン人4名に対しポルトガル人は皆無であった。

なお、前述した様に1581年からスペインとポルトガルは同君連合であったが何時までも仲良くしては居られず次第にポルトガルへの政治的弾圧が強まった。
同君連合でもマカオとマニラでは日本に求める物が異なると同床異夢になる。
マカオとしてはマニラから続々と宣教師が派遣され幕府の南蛮貿易が規制強化されるのは有り難くない事だったのである。

そして1640年12月、ポルトガルで新王ジョアン4世が擁立されスペインからの独立が果たされた。
かくして同君連合は解消されたが、もはや対日貿易の道は閉ざされてしまった。
そして1641年にオランダ商館が平戸から出島へ移転し唯一の対日欧州貿易国となるがこの時点でオランダはまだ正式に国家として承認されていなかった。 
それにも関わらず通商が実施されたのは日本と国交の無い中国との生糸貿易を仲介する為であり中国船を台湾に回航させ、そこから長崎へオランダが輸出した。
江戸幕府としては正式に国家として承認されていようがいまいが、中国との間で順調に生糸貿易が継続できれば構わなかったのである。 

[4019] オランダについて(続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/18(Sun) 19:42
それではこの時期の日本周辺に於けるオランダ(ネーデルラント)の動きを欧州情勢と照らし合わせて見よう。
ちなみにネーデルラントとは本来、低地地方全域を表す呼称であった。
これに対しオランダは低地地方内のホラント州のみを表す呼称である。
現在、低地地方は北部諸州によるオランダ、南部諸州によるベルギー、リュクサンブルール州の一部からなるルクセンブルグの3国で形成されている。
これら3国のうちオランダの正式国名はネーデルラントなのだが北部ネーデルラントだったらともかく低地地方全域を示すネーデルラントだと低地地方全域をさすのか北部諸州国家をさすのか曖昧になってしまう。
よって現在では「低地地方全域を指す場合はベネルクス」と呼称する場合が多い。
だが日本では一般的にネーデルラントと言う呼称を使わず江戸時代からずっと使われてきた「オランダ」と言う国名が使用されている。

さてオランダやベルギーだが「フランスとドイツの2大国に挟まれた小さな国」と言うイメージが定着していないだろうか?
現在の地図を見るとその通りだ。
だが1200年前の地図を見るとそうでもない。
当時の欧州にはアーヘンを首都とするフランク帝国と言う大きな国がありその中心部の沿海地域が低地地方なのである。
大規模交易は船が主体なので海及び大河川に面した港湾都市は大いに栄える。
よって経済を支える都市に人が集中し人口密度は農村部や山岳地域を凌駕する。

現代日本の場合、大阪府及び隣接する京都市、神戸市の合計面積は日本全土の0.8%に過ぎないが人口は日本総人口(1億2686万人)に対し1183万人で9.3%にもなる。
東京都23区部と神奈川県を合計した場合でも面積0.8%に対し人口は1859万人で14.6%だ。
日本では「大阪府は奈良県より小さい弱小自治体だなあ」とか「東京は千葉県や群馬県よりちっちゃいよ」とかあまり言わない。
現在のベネルクス、フランス、ドイツを合計した面積のなかでベネルクスが占めるのは7.4%、だが人口では16%を占める。
なりは小さいがベネルクスは欧州の心臓部なのである。

普通、大陸国では国の中央に首都があり国境に近づくにつれ辺境となって人口密度が低くなっていくが独仏国境に関しては別だ。
北の低地地方からライン河に沿ったラインラント、ロレーヌ、アルザス、ブルゴーニュなど国境に近づくにつれ都市が林立する。
これはかつてフランク帝国の中心部がそのまま国境になったからに他ならない。
フランク帝国は843年のベルダン条約で後にフランスとなる西フランク王国、後にドイツとなる東フランク王国、その中間に位置しバルト海に臨む低地地方から地中海に臨むイタリア半島までを版図とする中フランク王国に三分割された。

なぜ、中央の細長い部分が中フランクの領土となったかって?
そりゃ、中央部に首都アーヘンを含む重要都市が並んでいたからだ。
ちなみにこの中フランク王国、僕が高校生の頃は「ロタールの王国」(ロタール王国ではない)として習ったが何時の間にか名前が変わってしまったらしい。
なお中フランク王国のロタール1世はフランク帝国皇帝でもあったから元々のフランク帝国から西フランク王国と東フランク王国が独立したと言えなくもない。
さて、この中フランク王国、今度は870年のメルセン条約でイタリア以外の領土を東西フランク王国に併合されてしまう。
かくして東西フランク王国国境にズラリと続く重要都市群は以降、千年以上の長きに渡って仏独の火種となるのである。 

[4018] オランダについて 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/16(Fri) 19:40
宗教的反乱から始まりウェストファリア条約でのスペインによるオランダ独立承認で幕を閉じた80年戦争の戦争目的は時代の変遷と共に大きく変化した。
当初、陸軍兵力でスペインに抗し得ぬネーデルラント側はフランスの新教徒(ユグノー)の支援を受け海乞食による海上での通商破壊戦を実施した。
この時点ではまだ独立など無想すらせず「ネーデルラントの君主はスペイン王」だとネーデルラント側は認識していた。

状況に変化が生じたのは1581年でネーデルラント側はスペイン王の統治権を否定し新たにフランス王アンリ3世の王弟アンジュー公を君主として推戴する事を宣言したがアンジュー公は1584年に早世してしまう。
やむなくネーデルラント側は翌年、フランス王へ服属を申し出るが拒否される。
更にその5ヶ月後、今度は英国に服属を申し出るがこれも拒否された。
つまり独立の意志はこの時点では皆無に等しく以降、次第に醸成されていく。

果たしてオランダと言う国はいつ始まったのか?
ネーデルラント側がスペイン王の統治を否定したのなら1581年だ。
だがスペイン王が独立を承認したのが必要条件なら1648年となる。
英仏がネーデルラントとグリニッチ条約を締結した1596年を実質的な独立紀元とする識者もいる。

この様に1581年はオランダ(ネーデルラント)にとって重要な年だったがハプスブルグ家が統治するスペインにとっても重要な年となった。
長年のライバルであったポルトガル王家が嗣子断絶した為、スペイン王フェリペ2世がポルトガルの首都リスボンを占領しポルトガル王として即位したのである。
かくして以降、1640年までスペインとポルトガルは同君連合となった。
これはすなわち新教徒の英仏船はスペインとポルトガルの双方を敵に回さねばならない事を意味する。

当時、スペインの海外領土は北米、メキシコ、南米西岸、フィリピンに拡がりポルトガルの海外領土は南米東岸、アフリカ沿岸、インド沿岸、マレー半島、マカオにまで及んだ。
だが悪い事ばかりではない。
1585年には英国がネーデルラントの戦いに介入し1604年まで続く英西戦争が勃発し1588年には圧倒的有利な兵力を誇ったスペインの無敵艦隊(アルマダ)が英海軍に敗れ情勢が一変した。

さて、かくの如き欧州の変動は東洋にどの様な影響を与えたであろうか?
1624年に江戸幕府はスペイン船の来航を禁止し1639年の第5次鎖国令でポルトガル人を出島から追放したがその間は「同じ君主が統治する国家の船で来航可能な場合と不可能な場合の双方が存在する事態」となる。
どうやって区分したのであろうか?
船籍?船長の人種?乗員の言語?
当時の日本が同君連合についてどの様に認識していたかは興味深い問題である。

それではフランスはどうであったか?
旧教国としてネーデルラントへ侵攻してきたであろうか?
それとも不倶戴天の仇敵であるハプスブルグ家を倒す為、英国を支援したか?
答えはそのどちらでもない。
1562年から1598年まで国内が旧教徒と新教徒(ユグノー)に分かれ熾烈なユグノー戦争を繰り広げていたのである。

こうしたさなか、1609年にネーデルラントで前述の停戦協定が締結された。
そして12年間に渡る停戦協定の期間中に欧州全土を揺るがす戦乱が勃発した。
1618年から1648年まで続いた30年戦争である。
当初、神聖ローマ帝国内(すなわちドイツ)の宗教戦争であったこの戦いは東西ハプスブルグ家対ヨーロッパ諸国の戦いに変容し最終的には旧教国のフランスが反ハプスブルグ家の側で参戦したりデンマークの様に双方(1625〜1629年は反ハプスブルグ側、1643〜1645年は逆側)で戦う国も現れた。
そして1948年のウェストファリア条約で講和が成立しネーデルラントはハプスブルグ家も含めた欧州諸国から独立を承認されるに至った。
30年戦争の終結は80年戦争の終結でもあったのである。

[4017] Re:[4016] [4015] [4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/13(Tue) 18:04
ただし1万5千両と定められた上限が必ずしも守られた訳ではない。
密貿易が頻発し摘発側である長崎奉行や長崎代官が不正に手を染める事例も発生した。
定高貿易法が制定される9年前に密輸の罪で長崎代官を免職(遠島)となった末次茂朝が没収された個人資産は総額60万両にのぼったと言われる。

さて、今日はオランダについて話をしよう。
日本とオランダの関係は1600年のオランダ船リーフデ号漂着から始まる。
同船の乗員であったヤン・ヨーステンと英国人のウィリアム・アダムス(三浦按針)は徳川家の旗本に取りたてられ厚遇された。
かくして1609年、平戸のオランダ商館が開設され本格的な日蘭貿易が開始される。
当時、オランダのアジア貿易拠点は蘭印のジャカルタを中心としていたが1624年に台湾を植民地化してゼーランディア城を建設し交易圏を拡大していった。
オランダのこの動きに対し1928年びタイオワン事件が発生、同年より1632年まで国交が途絶する。
その後、幕府は1639年の第5次鎖国令でポルトガル人を出島から追放、1641年にオランダ商館を平戸から出島へ移転させ鎖国体制を成立させた。 

以降、出島に於ける日蘭貿易が幕末まで続くが「そもそもオランダとは何か?」をここで考えねばならない。
独仏国境の中間部にある海沿いの低地地方にある小国だと言うのは現代の日本人なら誰でも知っている。
だが太古の昔からその位置にオランダと言う国があった訳ではない。
1477年までネーデルラント(低地地方の意)はブルゴーニュ公の支配地域だったがオーストリーのハプスブルグ家をトップとする神聖ローマ帝国へ婚姻政策で編入された。
ついで1556年、ハプスブルグ家はスペイン王国と神聖ローマ帝国に二分されネーデルラントはスペイン王国の支配下に移る。
もとよりカトリックのハプスブルグ家とプロテスタント(カルバン派)のネーデルラント人が折り合える訳はない。
異端審問などの宗教弾圧が繰り返された後の1568年、遂に反乱が始まった。
1609年から1621年までの12年間に渡る停戦期間を挟み1648年まで続いたこの戦いは後に80年戦争と呼ばれる。
つまりリーフデ号の漂着からオランダ商館の出島移転までは80年戦争下のオランダが相手だったのである。 

[4016] Re:[4015] [4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/12(Mon) 18:55
まず長崎貿易だが一般的な認識だとオランダが主役に見える。所がさにあらず、本当の主役は中国船であった。
1685年に制定された定高貿易法では中国船の年間取引総額上限を銀6千貫目(10万両相当)、オランダ船は銀3千貫目(5万両相当)としている。
はてさて、何を輸入し何を輸出したのか。
中国船の場合、輸入品の大部分は生糸で絹製品と漢方薬原料がこれに続いた。
輸出品は金、銀、銅及び俵物(干ナマコ、フカヒレ、干アワビ)を中心とした海産物(コンブ、スルメなど)、硫黄などである。
オランダ船の場合、初期の輸入品は生糸及び工芸品、書籍などであったが次第に砂糖(生糸が減少)が増えていった。
輸出品は金、銀、銅、工芸品、美術品などである。 

[4015] Re:[4014] [4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/11(Sun) 19:50
最後に2の外交だが江戸幕府では制式な外交関係の存在する国を通信国、商業関係だけにとどまる国を通商国と区分していた。
通信国は朝鮮王国及び琉球王国、通商国は明(後に清)及びオランダである。
また他国との通商を一般的に貿易、国家でない場合は交易と呼ばれる。
そして鎖国体制下、国外との通商には以下の4タイプが存在した。

1.長崎の出島に於けるオランダ船及び中国船との貿易
2.蝦夷地に於けるアイヌ交易
3.対馬及び釜山に於ける朝鮮王国との貿易
4.琉球王国との貿易 

[4014] Re:[4013] [4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/08(Thu) 23:41
さて、3の経済だが自国の産業保護の観点からは関税操作による保護貿易などが現在は行われる。
だが、当時の日本はそんな状況ではない。
日本国内で自給不可能な物資、物品をなんとかして通商で入手せねばならない。
よって鎖国と言いながらも経済での交流は幕府のコントロール下で継続せねばならなかった。
江戸時代初期の日本が欲していた輸入品は生糸、木綿、絹織物、硝石、漢方薬原料、書籍及び情報などである。
後に絹大国となる日本はこの時点ではまだ絹後進国であった。
逆に日本が輸出できる物は俵物海産物、硫黄、金、銀などでアイヌとの交易では米、酒、調味料なども充当された。 

[4013] Re:[4012] [4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/08(Thu) 14:07
「キリスト教を排除する目的でポルトガル、スペインを排除したのにオランダを排除しなかったのはなぜか?」と言う質問をメールで頂いたのでちょっと補足説明を。
オランダとて植民地化政策の一環として海外布教を利用したし危険である事は変わらない。
だがオランダは新教国(プロテスタント)なのでポルトガル、スペインなどの旧教国(カトリック)とは対立関係にあった。
ここが重要である。
戦国から安土桃山、江戸時代初期の日本で布教活動をおこなったのは旧教のイエズス会(フランシスコ会やドミニコ会も加わった)で信者は全て旧教徒であった。
神の代理人たるローマ法王をトップとする旧教は各会派で対立が見られるものの法王庁(バチカン)の指示によって様々な世俗活動で大きな影響を及ぼした。
逆を言えばこれらの信者に対し新教国の聖職者が何を言おう何も影響がなかったのである。
もし最初に来たのが新教国で日本の信者が新教徒であったならば話はだいぶ違ったであろう。
つまりポルトガル、スペインを排除しオランダと通商関係を樹立すると言う事は「バチカンから日本信者に送る指令」を遮断するのが目的であった。
それと延暦寺や根来寺などの僧兵集団と干戈を交え、長く一向一揆に苦しめられた日本の諸侯及び各政権が宗教を背景とした武力闘争を非常に警戒していた事を忘れてはならない。 

[4012] Re:[4011] [4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/07(Wed) 17:27
次に4の宗教だがトランプ政権が「イスラム教徒は入国禁止!」と声高に叫ぶのと同じ様に日本じゃキリシタンが禁止となった。
その理由は島原の乱をあっちこっちで起こされちゃ大変だからである。
16世紀末の日本の軍事力は大したものだった。
文禄・慶長の役では約20万名の兵を海外派兵する程で日本国内の火縄銃総数は約50万丁に達したとも言われる。

当時、これだけの渡洋作戦を実施できる国は他にない。
そもそも16世紀末の日本の推定人口は約2200万人で大変多かった。
ちなみにスペイン+ポルトガルは約1050万人、英国約625万人、フランス約1050万人である。
更に日本は戦国時代から安土桃山に続く戦乱で人口に対する
兵数が極端の多く一説には日本の火縄銃保有数は全世界の火縄銃の2/3とも言われている。

金子常規著「兵器と戦術の日本史」によると全兵力に対する火縄銃兵の比率は1560年代の上杉家で6%だったのが長篠の合戦の織田家で10%、文禄の役の立花家で14%、加藤家で21%、関ヶ原の合戦では各家で35〜40%、大阪の陣の東軍では約50%に達した。
ちなみに残りの50%が騎兵、弓兵、槍兵、伝令、旗持などに充当されるのである。
つまり軍勢は火縄銃だらけだった訳だ。
だから正面決戦で防御に徹するのならどこと戦っても臆する必要はない。
(進攻するのなら船舶数や兵站能力で上限が定められてしまうから「負けなし!」とはならないが)

けどね・・・
信仰と言うプロパガンダで一揆を起こされちゃ国が真っ二つに別れて内戦になる。
一揆ったって農民ばかりがキリシタンじゃない。
大名だって洗礼を受けてるんだよ。
(島原の乱じゃ加担しなかったけどね)
精強無比な日本の武士団が二つに分かれて25万丁ずつの火縄銃をもってぶつかりあってごらん。
その後、日本を占領するのはお茶の子さいさいだ。
だから幕府が恐れたのはスペインやポルトガルの軍船や兵隊じゃなく宣教師だったのである。 
いかな軍事大国と言えど内部から崩壊すれば脆い事、このうえなし。
冷戦期の米国は国内の反戦運動によってベトナム撤兵を余儀なくされソ連もまた内部から崩れた。

さて、それでは現在の米国の如く膨れに膨れ上がった日本の鉄砲はどうなったであろうか?
元和偃武(げんなえんぶ)の号令の下、大阪の陣をピークとして減少に転じどんどん減らされていったのである。
戦がないから減ったのか、戦を無くす為に減らされたのか、それはまあ、諸説あるが慶安の軍役規定では10万石大名の兵力は21550人で鉄砲500丁となっている。
つまり23%だ。
随分、減ったものである。
ただし徳川家直参(旗本及び御家人)は95046人で4103丁、僅か4.3%に過ぎなかった。
随分、お寂しいものである。

この数値は前述の上杉家より低く「さっすが長篠で鉄砲に敗れた武田流軍学の流れを汲む見事な陣立!」と言わざるを得ない。
当然、兵器の技術革新は進まず火縄銃はずっと火縄銃のままであり続けた。
元和偃武なんだから訓練だってろくにしやしない。
そしてこのまま約250年間の長き平和の後、日本は帝国主義欧米列強と対峙し開国を迫られた。
かくして幕末、明治の先達は大いに苦労したのである。 

[4011] Re:[4010] [4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/03(Sat) 19:54
20世紀初頭、仏独と組んだ露は日本に対し三国干渉を実施した。
そこで日本は英国と同盟し米国からは外債公募と言う形で資金援助を受けて露に対抗し、からくも勝利を得た。
つまりシーパワー諸国がランドパワー諸国を打ち負かしたのである。
だが戦後の満鉄経営で日本は米国の介入を排除して権益の独占化を目論み日米間に亀裂が走った。
もし、日米揃って満鉄を経営していれば利潤は減ったろうが初期投資が少なくて済み「米国を敵に回さずに中国大陸へ進出できた」のである。
だが狭量な外務大臣が一人いたせいで日本は米国を敵に回す事になり後年、とんでもない苦杯を舐める事になった。

さて、鎖国だが「教科書から鎖国と言う単語を無くそう」とか「そもそも鎖国などなかった」と言うトンデモな方には御不興だろうが鎖国とは以下の4点の要素に対する制限であった。
1.人的交流
2.外交
3.経済
4.宗教

まず1だが「誰も出ていくな、誰も入ってくるな、情報を途絶しろ」ってんで実に判りやすい。
現在の中国がネット管理でやってるのはこれに相当する。

[4010] Re:[4009] [4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/03(Sat) 14:10
> やはりトランプ政権のパリ協定離脱の件ですか?

うん。
それと国境に壁を造ったりTPPをご破算にしたりして鎖国路線まっしぐらだ。
英国だって負けちゃいない。
EUから脱退し「栄光ある孤立」を再現しつつある。

僕は鎖国方向に進む事もひとつの政策で「必ずしも間違っちゃいない」と思う。
「寄らば大樹の影」で進めば「誰もが幸せで万々歳」って訳には行かないからね。
でも鎖国方向に進むのを手放しで楽観出来る程、マヌケにもなれない。
やはりここは日、英、米の海洋国家が結束するのが肝要だろう。
まあ、それを「有り難くない。」と思う国もあるだろうけど。 

[4009] Re:[4008] 鎖国政策 投稿者:いそしち 投稿日:2017/06/03(Sat) 09:08
> 今、世界の現状は「鎖国とは何か?」の模索で満ち溢れている。

やはりトランプ政権のパリ協定離脱の件ですか?
まるで松岡全権が颯爽と席を立って国際連盟を脱退した事を彷彿とさせ暗澹とした気持ちになります。 

[4008] 鎖国政策 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/06/02(Fri) 10:08
明治維新とはすなわち開国である。
そして開国を知るには鎖国を見ねばならない。
何の為の鎖国だったのか。
どういう利害得失があったのか?
実状はどうであったのか?
今、世界の現状は「鎖国とは何か?」の模索で満ち溢れている。 

[4007] 更新のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/05/26(Fri) 12:03
本日、激闘!八八艦隊海戦史DX文庫版パワーアップキット『真実の大和』の商品概要および登場艦型一覧を掲載いたしました。
第二次世界大戦時における各国の主力艦、巡洋艦、駆逐艦が多数、新艦型として加わっています。
是非、ご覧下さい。
http://www.general-support.co.jp/88fleet/f88ex.html 

[4006] 割引販売のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2017/05/23(Tue) 19:10
日本海海戦戦勝祝賀キャンペーンとして5月27日(土)より弊社商品の直接通販の20%割引販売を開始いたします。
なお弊社通販フォームからのお申し込みに限りますのでご注意下さい。 

[4005] Re:[4004] [4003] 特例 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/16(Tue) 23:02
> 大改装後のレナウン型は加わりますか?

もちろん、出すよ。
大改装されなかったレパルスの第二次世界大戦時も用意する。
ちなみに竣工時のレナウン型は舷側152ミリ、バーベット178ミリだったが両艦とも舷側を229ミリに強化したのでバーベットが最大の弱点になっちまった。
上面もレナウンは127ミリに強化(レパルスも146ミリに強化したとする資料もあるがゲーム上では76ミリのままとしている)されている。
天蓋装甲は108ミリとする資料などもがあるが「世界の艦船518号」によると114ミリなので僕としてはこれを根拠とし装甲5としてデータ化した。 

[4004] Re:[4003] 特例 投稿者:プラモ派 投稿日:2017/05/13(Sat) 22:20
C・D・カブール型や金剛型、伊勢型など多数の艦型が増えるとの事で楽しみです。

> 同様の理由として大落角弾対処の上面装甲強化がほぼ全ての旧式戦艦で実施されたのに対し舷側装甲強化はペナペナで名高い英のレナウン型くらいでしか実施されなかった。

大改装後のレナウン型は加わりますか? 

[4003] 特例 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/12(Fri) 08:12
ちなみにC・D・カブール型は大改装でバーベット装甲が強化されたがこれは特例である。
戦間期に多くの諸列強旧式戦艦が大改装され上面装甲(ほぼ全てで実施された)や主砲塔装甲(長門型や金剛型など)が強化されたがバーベット装甲を強化した例は少ない。
それはバーベット装甲が船体構造の深部に渡っているからでありイタリア旧式戦艦の様に抜本的な大改装でなければ着手不可能だからである。
加えてバーベット装甲が中射程以下の射距離からの命中弾に対処する舷側装甲と同じ意味合いを持つ防御策であり遠射程からの命中弾(すなわち大落角弾)への対処ではない事も理由と言えよう。
同様の理由として大落角弾対処の上面装甲強化がほぼ全ての旧式戦艦で実施されたのに対し舷側装甲強化はペナペナで名高い英のレナウン型くらいでしか実施されなかった。 

[4002] C・D・カブール型 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/11(Thu) 23:00
この様にバーベット装甲で弾薬庫をデータ化しているのだが資料によってバーベット装甲が異なるケースが多くちょっと苦労する。
例えば大改装後のC・D・カブール型だ。
ソロモンDX文庫版の場合は舷側装甲と同じなので10(250ミリ)でデータ化するだけだから問題はない。
でも八八艦隊海戦史DXでデータ化しているC・D・カブール型は竣工時だけなので「真実の大和」では新たに大改装後のバーベット装甲を調べる必要がある。

ちなみに八八艦隊海戦史DXで竣工時の弾薬庫をデータ化した基礎資料はジェーン海軍年鑑の「FIGHTING SHIPS OF WORLD 1」だ。
これにはバーベット装甲9.5インチ(241ミリ)と記載されている。
よって八八艦隊海戦史DXでは装甲10としてデータ化された。
だがこの資料はWW1なのだから当然、大改装後の数値は記載されていない。

それでは他の資料に当たるとしよう。
まず世界の艦船697号「近代戦艦史」を紐解くと・・・
竣工時が280ミリ、大改装後240ミリとある。
えっ、減っちゃうの?
とても信じ難い話だ。
竣工時にしても厚すぎるしね。
次に世界の艦船485号「イタリア戦艦史」見ると・・・
なんとビックリ!
竣工時を130ミリ(大改装後は未記載)としている。
如何に何でもそんなに薄いとは考えられない。
ちなみに同書で略同型のC・デュイリオ型は230ミリとしている。

次に世界の艦船570号「第二次大戦のイタリア戦艦」だが竣工時が130ミリで大改装後、ターレットの50ミリ追加(つまり180ミリ)と記している。
後述するがどうもこの「ターレット」は誤記らしい。
コンウェイでは竣工時127ミリ、大改装後280ミリ。
ウィキ日本語版だと竣工時280ミリで大改装後330ミリととてつもなく厚い。

ねっ、ムチャクチャでしょ?
そこで最後にウィキ英語版を開けてみよう。
ここには竣工時130〜230ミリ、大改装で要部に50ミリ追加(つまり最大厚280ミリ)と書いてある。
どうやらこれが一番、正しいらしい。

つまり竣工時で130ミリとした資料は最少値をとった事、大改装後で180ミリとした資料はそれに50ミリを足してしまった事。
竣工時に280ミリとした資料は大改装後の数値を間違えて使用したらしい事、330ミリとした資料はそれに加え更に50ミリ足してしまった事と類推される。

なぜこんなヤッカイな事になるかと言うとバーベットの装甲厚が必ずしも均一では無いからなのだ。
舷側装甲だって上部と下部では厚さが異なるでしょ。
バーベット装甲厚も変化するし場合によっては砲塔毎に違ってたりする。
いずれにせよ、C・D・カブール型ひとつをデータ化するにしても結構、手間暇がかかってしまう。
よって開発が遅れてしまっているが平に御容赦願いたい。

なお、コンウェイやジェーンの数値が他と若干異なるのは英国人が無理矢理、インチヤード単位に変換してしまった為と思われる。 

[4001] 弾薬庫 投稿者:阿部隆史 投稿日:2017/05/09(Tue) 09:26
激闘シリーズに於ける弾薬庫のデータ化についてソロモンと八八艦隊では大きな違いがある事にお気づきだろうか?
例を挙げるとソロモンでR型戦艦の弾薬庫は13だが八八艦隊では10になっている。
これは弾薬庫の装甲をソロモンでは舷側装甲から算出しているのに対し八八艦隊ではバーベット装甲から算出している為なのだ。

まず主力艦の主砲及び弾薬庫の装甲について若干、説明しよう。
主砲は旋回砲塔に装備されその下には弾薬庫がある。
これは、まあ当たり前の話だ。
さて砲塔だが装甲は前面、側面、背面、天蓋に細分化される。
基本的に戦闘中は敵に主砲を向けているので被弾するのは前面もしくは天蓋だ。
よって側面、背面は前面に比べてかなり薄い。
天蓋は命中した時、大落角弾となるので貫徹力が低いからあまり厚くはしない。
更に天蓋は面積が広いので厚くすると砲塔が重くなりすぎると言う事もある。

弾薬庫は実際には砲弾を格納する弾庫と装薬を格納する火薬庫に区分される。
弾薬庫誘爆と聞くと即座に轟沈と考える人がいるが弾庫で誘爆が発生した場合と火薬庫で誘爆が発生した場合では結果が大きく異なる。
例えば大和型の46p砲の場合、1式弾の炸薬は約34キロ、装薬は砲弾1発につき約330キロである。
つまり約10倍の差がある訳だ。
加えて炸薬は堅い砲弾の中にあるのだから信管が装着されていない限り簡単に炸裂したりはしない。
だが火薬庫の場合、装薬は薄い缶の中に入っているだけだから大爆発となる。
激闘シリーズでは轟沈が発生した場合、火薬庫での誘爆を想定しているおり通常の弾薬庫誘爆はバ−ベット内での誘爆を想定している。

さてバーベットだが弾薬庫と砲塔の中間部に位置し人間で言えば首の部分に相当する。
砲塔はグルグルと旋回するのでバーベットは丸く円筒状になっている。
主砲は仰角を上げると砲耳より後方の部分は下に下がるのでバーベットは深い。
側面図で見ると砲塔と船体構造の間のごく僅かの部分しか見えないが船体内の深い部分までバーベットで構成されているのである。
バーベットに敵弾が命中するとすぐに炸裂するか、遅延信管で落下するか、反対側も貫通して突き抜けるか、のいずれかの状態になる。
そしてバーベット内に次回やそのまた次の砲撃に備えてて砲弾や装薬がズラっと並べてある。

第三次ソロモン海戦で日本が苦杯を舐めたのもヘンダーソン飛行場への対地砲撃にそなえバーベット内に3式弾、零式弾を並べていたから弾庫の1式徹甲弾を発射するまでに時間がかかってしまった為だ。
敵艦を射撃するんだから3式弾などより1式徹甲弾の方が遥かに有力なのに霧島の場合、1次夜戦で発射した主砲弾57発のうち1式徹甲弾は27発に過ぎなかった。
2次夜戦でも117発中、1式徹甲弾は27発だけである。
つまり1次夜戦では30発(主砲8門なので1門当たり約4発)、2次夜戦では90発(1門あたり約11発)の砲弾がバーベットに並んでいたと考えられる。
もっとも装薬については安全管理の観点から砲弾と同数分、バーベットに並んでいる訳ではない。
詳しくは砲術専門家のサイトで質問するのが良いだろう。 

前のページに戻る