GS新掲示板 発言集[31](No.3001〜)



[3100] 来年も宜しくお願い致します 投稿者:神家 投稿日:2012/12/30(Sun) 18:45
今回、追加された25粍機銃は大変役に立ちますね。
性能は普通ですが生産するのに馬を必要としないので重宝しています。
これまで防御専門で攻撃する相手のない南方諸島には馬を必要としない固定式高射砲しか配備していませんでしたがこれからは25粍機銃を配備できます。
92式10加も最初は威力の少ない重砲と考えていましたが超大型対戦車砲と考えれば対ソ戦で有効な活躍ができそうですね。
それでは皆様、よいお年を。

[3099] Re:[3098] その後の戦況 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2012/12/30(Sun) 17:33
> サレド米艦隊モ氷山空母ヲ除ク全艦ガ沈没シ氷山空母ハ速力半減ノ状態デ北方海面ニ遁走セル状況ナリ。

なんと北方に逃げたのですか?
僕の氷山空母は南方に逃げて溶けていきましたよ。
氷山空母は図体が大きく命中率の6倍修正がかかりますから緩降下爆撃しかできず普段は期待薄な陸軍の単発戦闘機でも晴れなら100%、曇りや強風でも95%の命中率が期待できます。
そこで満洲や中国や内地の1式戦2型や3式戦を九十九里に300機集め他の急降下爆撃機と集中攻撃を喰らわせ氷山空母の上部を半分近く破壊しました。
どんどん溶けてエニウェトク近くで半分未満となったところを見計らい発着不能の氷山空母に残った水上艦艇で追撃をかけたのですが惜しくも討ち損じてしまいました。
残念です。

[3098] その後の戦況 投稿者:いそしち 投稿日:2012/12/30(Sun) 15:00
氷山空母ニ対シタビカサナル攻撃ヲ実施セルモ撃沈ニハイタラズ。
連合艦隊水上部隊ハ壊滅セリ。
サレド米艦隊モ氷山空母ヲ除ク全艦ガ沈没シ氷山空母ハ速力半減ノ状態デ北方海面ニ遁走セル状況ナリ。
コレヨリ潜水艦部隊オヨビ北方に残置セル航空部隊ニテ決戦ヲ敢行スル所存ナリ。
モシ気温低下ニテ氷山空母ガ自動修復シ速度回復トナレバ潜水艦部隊ノ決戦参加ハ絶望トナリ勝機ハ望メズ。
我ヒタスラニ天運ヲ信ジ決戦ヲ遂行ス。

[3097] Re:[3093] [3092] [3091] まとめレス 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/28(Fri) 19:49
> つまり4単位師団では歩兵中隊数が減ったので相対的に砲兵の比重が増え火力重視となったのである。

え〜と、誤解の無い様に詳述しておこう。
管区隊に於ける歩兵中隊と4単位師団の歩兵中隊とは「まったく同一」ではない。
管区隊の歩兵中隊は本部+3個歩兵小隊+重火器小隊で編成されていた。
それに対し4単位師団の歩兵中隊は本部+4個歩兵小隊+重火器小隊となったのである。
ここで「え〜3個小隊が4個小隊になったのか。それじゃ随分、人員が増えただろうな」と思ってはいけない。
さにあらず。

管区隊時代は短かったので正確な人員数のデータが手元にないのだがモデルとなった大戦末期の米軍歩兵中隊の人員数(出典は陸戦史集「沖縄作戦」巻末)なら190名である。
それに対し4単位師団の歩兵中隊人員数は210名(出典はパンツァー誌29号)で20名しか増えていないのだ。
となると4単位師団の歩兵中隊は歩兵小隊が小型化したとしか考えられない。

「なに?重火器小隊が小型化したんじゃないか?」って?
ご冗談を。
管区隊の重火器小隊が装備する迫撃砲は60ミリ3門だったけど4単位師団の歩兵中隊は81ミリ4門装備なのだ。
もともと81ミリ迫撃砲は大隊に所属する重火器中隊が保有してたんだけど4単位になって大隊がなくなっちゃったから中隊の重火器小隊が増強されたのである。

また管区隊では各連隊に配属されていた重迫撃砲中隊(各107ミリ12門)は4単位になって1個連隊増えたから48門になった。
つまりこれまでは27個歩兵中隊が36門の107ミリ迫撃砲の支援を受けていたのに対し4単位師団では16個歩兵中隊が48門の支援を受ける事になったのである。
割算の出来ない方の為に判り易く説明すると1個中隊に与えられる107ミリ迫撃砲の支援が1.3門から3門に増大したのだ。
なんと2.3倍の増強である。
ねっ、陸自は大戦の戦訓から大いに学んで火力重視になった事が判ったでしょ。
でも補給に関しては・・・
随分、お寒い限りなのだ。

まあ、それはさて置いて4単位師団になっても歩兵中隊はたった20名しか増えていないので「管区隊だろうが4単位師団だろうが歩兵中隊の人員規模はほぼ同一」と考えて差し支えない。
編成や火力はだいぶ違うけどね。

[3096] 七井コム斎先生の弟子になりたい 投稿者:天井桟敷 投稿日:2012/12/28(Fri) 07:31
阿部先生 お久しぶりです。
今年は、ガンダム講談のおかげで、阿部先生やコム斎先生、少佐と数多くのGSゲーマーと知り合うことができました。
いつか、コム斎先生の古典講談を聞いてみたいですね。
来年もよろしく、お願いします。

[3095] 太平洋戦記3Ver1.6 更新ファイルのお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2012/12/27(Thu) 17:36
本日『太平洋戦記3』Ver1.6の更新ファイルをリリースいたしました。

先日リリースしたVer1.6の史実データおよびシナリオ説明の誤植を修正しております。
http://www.general-support.co.jp/update.html

[3094] Re:[3091] まとめレス 投稿者:OM 投稿日:2012/12/27(Thu) 16:37
ありがとうございます。日米師団の編成のイメージがつかめました。

米軍並みの師団を多数用意するのは難しそうですが、がんばって精鋭師団をいくつか揃えて
対米戦に備えたいと思います。
しかし砲はまだしも戦車の生産が...。(シャーシ工場をもう2つくらい欲しいところです)

[3093] Re:[3092] [3091] まとめレス 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/27(Thu) 07:54
> そういえば、大正時代海軍軍縮を飲んだ加藤友三郎さんの言葉に「金がなければ戦争はできない」旨の話がありましたが先立つものがないとどうにもなりませんから大変ですね?。

「これだけ必要だからよこせ」と言う発想から「これだけの予算でどう戦ったら一番合理的か?」と言う発想に切り替えねばならないのだ。
その為にはシミュレーションゲームをやるのが一番!
(なん事はない。ただの宣伝だったりする。)

> 質実剛健は重要とは思いますが、必要なものは増殖するような政策とのバランスも考えないと行きずまることもありますから、そこは政策のバランスなのでしょうか?

「兵農分離」については多くの歴史学者、経済学者が論ずるが江戸時代を概括する時は「兵商分離」(士商分離と言ってもいいけどね)の方が重要だと思うのだ。
なにしろ米を作る農民と米を消費する武士との間に「米を売り買いする商人」がいて米相場で農民と武士の収入が大変動するんだからね。
そして基本的に商人が武士になる事がなければ武士が商人になる事もない。
だから「藩の総力を挙げて経済活動に成功した場合」と「漫然と体制の変動なきまま経過した場合」で大きな差がでたのだ。
「藩の総力を挙げて経済活動に成功した場合」は一種の社会主義に近いと言えるかも知れない。

それはそうと「砲兵中隊4門」となった日本陸軍は太平洋戦争で負け消滅した。
そして戦後、陸自が創設されたのだが当初は米軍のまるまるコピーだったから砲兵中隊は6門(この頃の米軍式師団を陸自では管区隊と呼称した)であった。

しかし・・・
米軍式から脱却し独自の4単位師団に改編された1960年代中盤に砲兵中隊は再び4門となった。
だが陸自の砲兵(陸自では特科と言う)がそれで弱体化した訳ではない。
米軍式では1個師団の歩兵27個中隊に対し砲兵12個中隊(榴弾砲72門)で歩兵1中隊あたり榴弾砲2.6門だったが4単位師団では歩兵16個中隊(陸自では普通科と言う)に対し砲兵12中隊(榴弾砲48門)で歩兵1中隊あたり榴弾砲3門となった。
つまり4単位師団では歩兵中隊数が減ったので相対的に砲兵の比重が増え火力重視となったのである。

[3092] Re:[3091] まとめレス 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/27(Thu) 00:33
裏の声:もちろん予算がないからさ。あれば6門にしてるよ。

そういえば、大正時代海軍軍縮を飲んだ加藤友三郎さんの言葉に「金がなければ戦争はできない」旨の話がありましたが先立つものがないとどうにもなりませんから大変ですね?。

どこまでが必要かは見方によりますし・・・・

ないけどづにかがんばるといえば、戦国時代徳川家で、若い武将が、初陣で野外で食事する際、雑草のごった煮のような鍋を見て、つい「醤油ありませんか?」といったところ先輩武将から「なに贅沢言っている!、足軽はこんなものすら食えないんだぞ!」と叱られた旨のはなしがあるようです。
質実剛健は重要とは思いますが、必要なものは増殖するような政策とのバランスも考えないと行きずまることもありますから、そこは政策のバランスなのでしょうか?

[3091] まとめレス 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/26(Wed) 19:05
>これには何か理由があるのでしょうか?

あるよ。
まず物事には表と裏がある事を理解しなきゃいけない。
そして両方とも見て問題を把握する事が大事だ。

>予算とか、弾薬の用意や運搬の都合がつかないから、とかでしょうか。
>それとも何か運用思想とか制度上の理由があるのでしょうか?

裏の声:もちろん予算がないからさ。あれば6門にしてるよ。

表の声:「日本砲兵史」143頁によると4門中隊編制となった動機について「集合照準射撃法の採用」としており時期を大正4年としている。
それに「従来六門中隊で主として直接照準射撃であったが、フランス流の新射法即ち暴露陣地から遮蔽陣地の採用と直接照準から間接照準へとなり「中隊の射向を掌握するのは射撃成功の第一要件である」と示し従来の括弧照準法を廃し、集合照準法を採用した。」とも書いてるよ。

裏の声:そりゃまた結構な話だけど日本以外の国がみんな中隊6門編制のまま第2次大戦を戦ったのはなぜなの?
それに加登川幸太郎著「三八式歩兵銃」124頁に日本陸軍が月産80門のペースで38式野砲を量産しようと計画したが資材不足で破綻し最終的には資材の取り合いで陸海軍が対立した顛末が詳述されてるよ。
やっぱり1中隊4門になったのは砲不足じゃないの?

表の声:そうかも知れないけど「お金がないから6門が4門になりました」なんてみっともなくて理由にならないよ。
いずれにせよ日清戦争の時は1中隊6門で2個中隊で1大隊、3個大隊で1連隊だったのが日露戦争では1中隊6門のままで3個中隊で1大隊、2個大隊で1連隊になり大正4年には1中隊4門になったけど3個中隊で1大隊、3個大隊で1連隊になったので1個砲兵連隊の火砲数はずっと36門のままで変わらなかったんだ。

裏の声:ふうん、なんかいい加減な露天商の叩き売りに騙されてるみたいだね(笑)

表の声:運用上は弾薬を砲に随伴させたり指揮機能や観測機能を変えたりで色々とあるんだけどね。

>(ミッドウェー型の建造には2年近い歳月をを要した)

ご指摘ありがとう。
たびたびで申し訳ないね。

[3090] Re:[3089] [3088] 氷山空母 投稿者:よし 投稿日:2012/12/26(Wed) 17:09
> ごめん(恥)
> 僕のミスだ。
> 近日中に直しとくよ。
> 正しくは全長約600m、全幅約100mなのだ。
了解です。
あと表記関連ですが、氷山空母のシナリオ説明で

>(ミッドウェー型の建造には2年近い歳月をを要した)

となっています。
こちらは資料的データ的には何の問題もないですが、一応ミスと言う事で。

[3089] Re:[3088] 氷山空母 投稿者:阿部 投稿日:2012/12/25(Tue) 23:21
> あと、氷山空母の史実解説を見ますと全長169m、
> 全幅22.6mと護衛空母くらいの大きさになってますが、
> これは表記ミスでしょうか?

ごめん(恥)
僕のミスだ。
近日中に直しとくよ。
正しくは全長約600m、全幅約100mなのだ。

[3088] 氷山空母 投稿者:よし 投稿日:2012/12/25(Tue) 21:13
早速プレイさせていただきました。
編成はだいたい予想通りでしたが、まさかあんな場所に襲来するとは。
ほぼ丸裸にはできましたけどこちらの水上戦力も壊滅したところです。
明日からしばらくプレイできなくなりますが、
帰ってきたらあっち方面に行ったハバクックの相手を
残りカス程度の戦力でどうするか、がんばってみます。

あと、氷山空母の史実解説を見ますと全長169m、
全幅22.6mと護衛空母くらいの大きさになってますが、
これは表記ミスでしょうか?

[3087] トラトラトラ 投稿者:いそしち 投稿日:2012/12/25(Tue) 20:55
氷山空母ヲ発見セリ
タダイマヨリ攻撃ヲ開始セントス

[3086] Re:[3084] 装備が優良な師団の編成について 投稿者:OM 投稿日:2012/12/25(Tue) 18:55
>これでも実際より少なめなのだ。

これでも実際より少ないとは...恐ろしい。
ケンカをする相手は選ばないと駄目ですね。

>なお戦車は厳密に言うと師団の装備ではなく「師団に配属された独立戦車大隊の装備」と言う事になる。
>常に1個歩兵師団に1個以上の独立戦車大が配備されていたから固有編成と考えても構わないんだけどね。

日本の師団で同じ編成に出来たとしてもチハや一式中戦車では劣勢ですね。
ゲーム上でも戦車の生産には苦労していますので、エディタ機能でシャーシ工場を大拡張しても
米軍と同規模の編成を多数用意するのは骨が折れそうです。

>あとそれから米軍の大砲の数が多いのは榴弾砲などが1個中隊6門編成(日本は4門編成)だったからだ。
>まあ、日本以外はどこも6門編成なんだけどね。

これには何か理由があるのでしょうか?
予算とか、弾薬の用意や運搬の都合がつかないから、とかでしょうか。
それとも何か運用思想とか制度上の理由があるのでしょうか?

[3085] 太平洋戦記3アップデートのお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2012/12/25(Tue) 17:34
本日『太平洋戦記3』アップデートプログラムVer1.6をリリースいたしました。
http://www.general-support.co.jp/update.html

今回は追加シナリオ「氷山空母」を収録した他、総覧情報のCSV出力その他の新機能を搭載しております。
またご要望のありました「捕鯨母船」「25mm連装機銃」「92式10cm加農砲」「97式曲射歩兵砲」を追加いたしました。

[3084] Re:[3083] [3081] 装備が優良な師団の編成について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/25(Tue) 16:34
> しかし、米軍の歩兵師団ってそんなに大量の火砲・戦車を装備していたんですね。

これでも実際より少なめなのだ。
ゲームには登場しない107ミリ迫撃砲なども大戦後半は装備されていたらしい。
なお戦車は厳密に言うと師団の装備ではなく「師団に配属された独立戦車大隊の装備」と言う事になる。
常に1個歩兵師団に1個以上の独立戦車大が配備されていたから固有編成と考えても構わないんだけどね。
対空自走砲は「えっ、こんなにあるの?」と思うくらい多いが戦後に創設された陸自の師団(当時は管区隊と呼称した)でも師団に48両も配備されていたのだ。
勿論、陸自の師団は米軍師団をモデルとして編成されていたのである。
あとそれから米軍の大砲の数が多いのは榴弾砲などが1個中隊6門編成(日本は4門編成)だったからだ。
まあ、日本以外はどこも6門編成なんだけどね。

[3083] Re:[3081] 装備が優良な師団の編成について 投稿者:OM 投稿日:2012/12/25(Tue) 15:39
ご教示いただき、ありがとうございます。
大変参考になりました。

しかし、米軍の歩兵師団ってそんなに大量の火砲・戦車を装備していたんですね。
正直、もっと少ないかと勝手に思っていました...。(汗

[3082] Re:[3081] 装備が優良な師団の編成について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/25(Tue) 09:20
> 過去ログを見たところ、日本軍の1個師団だと歩兵は243個分隊に相当する
> とのことですが、例えば装備の優れたアメリカ軍と正面から殴り合えるような
> 優良装備の師団を編成しようとした場合、どの程度の歩兵、工兵、砲兵、戦車、
> 対空火器を用意するのが妥当でしょうか?

何を指して「妥当」と考えれば良いのか、いささか答えに困るが「まず米軍師団の編成を列挙」し「日本軍でそれに相当する兵器を同数編入」するのが妥当かな?
さて米軍歩兵師団だがゲーム上では歩兵243分隊、工兵27分隊、対空機関砲(自走)27、81ミリ迫撃砲54、105ミリ榴弾砲54、155ミリ榴弾砲18、対戦車砲54、戦車約54、トラック198としてデータ化している。
これを日本軍兵器で対応させるなら対空機関砲が中盤まで対空トラックで後半は対空戦車3型、81ミリ迫撃砲は大隊砲、105ミリ榴弾砲は91式10榴、155ミリ榴弾砲は96式15榴、対戦車砲はまあ年代により各種、戦車も年代により各種、それにトラックとなるんだろうね。
ちなみに日本陸軍は主要師団の砲兵連隊を10榴2大隊、野砲1大隊、15榴1大隊とすべく近代化(かなり米軍に近い編成だ)を進めた矢先に開戦となってしまったのだ。
まあ、その時点での仮想敵は米軍ではなくソ連だったのだけど。

[3081] 装備が優良な師団の編成について 投稿者:OM 投稿日:2012/12/25(Tue) 01:21
初めまして。
太平洋戦記3をプレイしています。

陸上部隊のことで質問があります。
過去ログを見たところ、日本軍の1個師団だと歩兵は243個分隊に相当する
とのことですが、例えば装備の優れたアメリカ軍と正面から殴り合えるような
優良装備の師団を編成しようとした場合、どの程度の歩兵、工兵、砲兵、戦車、
対空火器を用意するのが妥当でしょうか?

ゲーム上は正面の敵を上回る兵力を集めれば良いのでしょうが、気分的に
ちょっとディテールにこだわりたいと思いまして質問させて
いただきました。

[3080] Re:[3079] 要望 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/23(Sun) 10:33
> 要望なのですが、戦闘機掃討戦に向かって敵基地に進撃した航空部隊にも対空砲火のダメージが当たるのを無しにすることはできないものでしょうか。

本サイトでは掲示板での要望は禁止事項となっているので要望はメールもしくは電話、手紙などで御送付願いたい。
要望を禁止事項とした理由はかつて掲示板で要望に対し採用できない旨を答えたら「是非、やって頂きたい」「どうしてもやって頂きたい」「なんとかやって頂きたい」と再三再四繰り返され根負けしてプログラム化したらバグはでるわ、開発期間は遅延するわでトンデモナイ目にあったからなのだ。

> 地上銃撃もしない、敵基地にも近付かないただの制空戦のみのつもりなのに、高射砲の打撃を受けるのが納得できないのです。

太平洋戦記3では対空火器をエリア防空(対空戦1)を担当する高射砲と拠点防空(対空戦2)を担当する高射機関砲に区分している。
つまり高射砲は「制空戦を目的として来襲してきた航空機に対しても有効に対処しうる火器」とみなしてデータ化しているのである。
もし高射砲が制空戦闘機に対して無力なら徹底的に制空戦闘機で敵迎撃機を駆逐し、それから爆撃機を投入すれば済む訳で迎撃戦闘機は全く意味が無くなっちゃうでしょ。
この戦術が実行可能なら英本土航空戦でドイツが楽勝しちゃうのだ。

[3079] 要望 投稿者:伊吹 投稿日:2012/12/23(Sun) 00:26
いつも楽しくプレイさせていただいてます。

要望なのですが、戦闘機掃討戦に向かって敵基地に進撃した航空部隊にも対空砲火のダメージが当たるのを無しにすることはできないものでしょうか。
地上銃撃もしない、敵基地にも近付かないただの制空戦のみのつもりなのに、高射砲の打撃を受けるのが納得できないのです。
パッチ等で「制空戦のみ」とか「地上攻撃する/しない」で高射砲の打撃を受ける受けないを選択できれば、またプレイの幅が広がってより楽しく遊べると思うのです。
何かとお忙しいとは思いますが、要望としてお聞きいただけると幸いです。


PS: 氷山空母シナリオ、楽しみにしております。

http://VIPER


[3078] Re:[3077] [3076] [3073] [3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/20(Thu) 23:28
> 当然、桂太郎は大きな影響を及ぼしたが黒幕たる山縣の同意なしには何もできないから「山縣の意向」が重要なんじゃないかな。

そうでした!山縣有朋がいました!剛腕ぶりと嫌われ者ぶりが際立っていて忘れていました(笑)
しかし、考えてみれば、彼は嫌われ者で強欲(山城屋事件等の関係など)で藩閥権勢を伸ばすのに熱心で「いいひと」キャラとは真逆ですが、軍政面では堅実で、有能であれば幕府側でもある奥元帥や立見大将などを任用する柔軟性もあるので、「愛されないし、道徳的ではないけど、手腕はは手堅く無理しない安心?できるリーダー」かもしれないと個人的に思うことがあります。



> それがまた仏に戻ったのは上原勇作の影響なんだろうね。
> 彼もまた仏留学組だし。
> そして上原閥が倒れると同時に欧州じゃドイツの威勢が良くなりまたもやドイツに偏向するのだ。
> 更にドイツがスターリングラードで敗退すると「ソ連ってやっぱ強いんじゃない?」って考えが陸軍省で広まり「ソ連に頼んで和平仲介してもらおう」なんて方向にまで進むのである。
> 1945年8月9日のソ連対日参戦で日本に根強い不信感があるのは「単に中立を犯して攻め込まれた」ってだけじゃなく「仲介して貰おうと思って近衛元首相にまで特使として派遣しようとしてたのに裏切られた!」ってのが強いのだ。
> 1945年頃の陸軍省では「日本に天皇制を残した社会主義国家を作ろう!」って考えでクーデター(財閥の解体、挙国一致の総動員体制の確立、海軍を陸軍に吸収)までするつもりだったのだ。
> そのクーデター計画を手直しして実行したのが「宮城事件」である。

なるほどNHK教育テレビの番組ではありませんが、一つの事件の元にはその何年も前からの行きがかりがあるんですね・・・・

[3077] Re:[3076] [3073] [3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/19(Wed) 10:15
> そういえば、その転換点でリーダーシップをとった人ってどなたになるのでしょうかね・・・・

幕末期に幕府は仏、薩摩は英に指導を仰ぎ長州は大村流の独学(しいてあげればオランダ)で軍事力の育成につとめた。
でも大村は暗殺され薩摩のリーダーたちは西南戦争で随分とリタイヤし最終的には「負けたはずの幕府陸軍」にも頼らざるを得なかったのである。
まあ、薩長と元幕府陸軍の合議体制と言ってもいいかも知れない。
だから薩摩閥で固まった海軍と違い陸軍には奥、立見、小川など賊軍出身の大将がごろごろいるのだ。
薩摩だって西南戦争じゃ政府軍相手に戦ったんだから薩摩出身の将軍だって「賊軍の親戚」と言えなくも無いしね。
つまり西郷の下野以降、しばらくの間、陸軍に明確なリーダーはいない。
だから「幕府陸軍の仏式」が踏襲された。
英国流の薩摩には珍しく大山巌がジュネーブ留学(あそこはスイスだが仏語圏だ)した影響もあったかも知れないけどね。

> イメージ的には 幕末や明治初期:フランス式は大村益次郎や幕府軍生き残り系→明治後半:ドイツ式は桂太郎等はなんとなくわかりますがWWT後のフランス式への揺り戻し?にはだれかリーダーシップをとった人はいたのでしょうか????

当然、桂太郎は大きな影響を及ぼしたが黒幕たる山縣の同意なしには何もできないから「山縣の意向」が重要なんじゃないかな。

> (個人的にはWWTのフランス軍は「粘り強い」イメージはあっても、作戦等が巧妙のイメージがないもので・・・・)

それがまた仏に戻ったのは上原勇作の影響なんだろうね。
彼もまた仏留学組だし。
そして上原閥が倒れると同時に欧州じゃドイツの威勢が良くなりまたもやドイツに偏向するのだ。
更にドイツがスターリングラードで敗退すると「ソ連ってやっぱ強いんじゃない?」って考えが陸軍省で広まり「ソ連に頼んで和平仲介してもらおう」なんて方向にまで進むのである。
1945年8月9日のソ連対日参戦で日本に根強い不信感があるのは「単に中立を犯して攻め込まれた」ってだけじゃなく「仲介して貰おうと思って近衛元首相にまで特使として派遣しようとしてたのに裏切られた!」ってのが強いのだ。
1945年頃の陸軍省では「日本に天皇制を残した社会主義国家を作ろう!」って考えでクーデター(財閥の解体、挙国一致の総動員体制の確立、海軍を陸軍に吸収)までするつもりだったのだ。
そのクーデター計画を手直しして実行したのが「宮城事件」である。

[3076] Re:[3073] [3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/19(Wed) 00:09
> いずれにせよ「幕末期の欧州陸軍じゃフランスがピカイチ」だから仏から軍事顧問団を招聘し「普仏戦争でドイツがフランスに勝ったそうだ。ドイツの方が良いんじゃねえ?」でドイツからメッケルを呼んでドイツ贔屓に変わり第1次世界大戦で独は仏に負けると「やっぱ陸軍はフランスだ。」ってんでそれまでに独のクルップコピーだった野砲を仏のシュナイダーコピーに変えたのである。
> まあ、そんなわけで紆余曲折していったのだ。

そういえば、その転換点でリーダーシップをとった人ってどなたになるのでしょうかね・・・・
イメージ的には 幕末や明治初期:フランス式は大村益次郎や幕府軍生き残り系→明治後半:ドイツ式は桂太郎等はなんとなくわかりますがWWT後のフランス式への揺り戻し?にはだれかリーダーシップをとった人はいたのでしょうか????
(個人的にはWWTのフランス軍は「粘り強い」イメージはあっても、作戦等が巧妙のイメージがないもので・・・・)
確か太平洋戦争中の標語として「ガソリンの一滴は血の一滴」も、元はフランスの政治家クレマンソーがWWTで発言した内容が元ネタ?との説があるそうですから、フランスがWWT後に日本の戦略思想や装備に与えた影響は私が意識しているより大きいと思いますが・・・

[3075] Re:[3074] [3073] [3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/18(Tue) 16:20
> 皇族以外の海軍大将14人の中で1人だけ薩摩以外と言うのは凄い出世ですが相当、居辛かったんじゃないでしょうか?

明治は1868年1月25日の元年から1912年7月30日の明治45年まで続いたが彼が海軍大将に昇進したのは明治45年7月9日で「明治の海軍大将」と言っても「明治時代に海軍大将であった期間」は1ヶ月に満たなかった。
よって「明治時代の海軍大将はほぼ全員薩摩藩」と言って差し支えないのだ。

でも・・・
陸軍の長州閥が勢力を広げようと躍起になったのに対し海軍の薩摩閥は智将山本権兵衛提督の英断の下、薩摩閥を崩して有為の人材を登用する政策を推し進めたたから自浄され大正期以降は「薩摩藩出身でなければ大将になれない」なんて事は無くなっていった。
大正時代に海軍大将に任ぜられた25人のうち薩摩藩出身者は3人に過ぎない。
昭和時代だっておんなじだ。
ほら、山本五十六だって薩摩藩じゃないでしょ。

> その大将はどんな方ですか?

出羽重遠提督だ。
折角だから以前、約束した「日露戦争での軍人解説」のトップバッターとしよう。

1.出羽重遠
1856年1月17日生まれ。
会津藩士として白虎隊に所属し戊辰戦争に参加。
1878年海兵卒(5期)。
1885年4月27日、防護巡浪速回航委員を命ぜられ渡英。
1886年6月26日、浪速航海長として帰国。
1889年7月29日、防護巡高雄副長
1893年9月12日、砲艦赤城艦長
1894年12月17日、大佐に昇進、連合艦隊参謀長
1898年4月5日、装甲巡常盤回航委員長を命ぜられ渡英。
1899年7月16日、常盤艦長として帰国。
1900年5月20日、少将に昇進、常備艦隊司令官
1902年10月29日、軍令部次長
1903年12月28日、第1艦隊司令官
1904年6月6日、中将に昇進
1905年6月14日、第4艦隊司令長官
1905年12月20日、第2艦隊司令長官
1907年9月21日、男爵
1909年2月1日、佐世保鎮守府司令長官
1911年12月1日、第2艦隊司令長官
1912年7月9日、大将に昇進
1913年12月1日、軍事参議官
1925年12月17日、退役
1930年1月27日、死去

日露戦争の前半期は東郷提督指揮下の第1艦隊に所属する第3戦隊(新鋭防護巡4隻によって編成)を率いて活躍した。
ただし出羽提督は「第3戦隊司令官」ではなく「第1艦隊司令官」である。
当時の「第1艦隊司令官」とは第1戦隊及び第3戦隊からなる第1艦隊司令長官の指揮下にあって「固有の部隊指揮官ではなく状況にあわせた柔軟な編成の部隊指揮官」であった。
開戦劈頭の旅順戦ではマカロフ提督の誘引を成功させ機雷による戦艦ペトロパブロフスク撃沈の一助を成した。
その後、黄海海戦や日本海海戦でも勇戦し樺太攻略戦では第4艦隊を指揮している。
かつて朝敵とされた藩の出身者として栄達した例としては陸軍の立見尚文将軍と双璧と言えよう。
なお出羽提督は薩摩閥及び皇族以外で初の海軍大将であった。

[3074] Re:[3073] [3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2012/12/17(Mon) 19:11
> 明治時代、海軍大将に就任した提督は15人いたがそのうち皇族が1人で13人が薩摩藩出身者だった。

皇族以外の海軍大将14人の中で1人だけ薩摩以外と言うのは凄い出世ですが相当、居辛かったんじゃないでしょうか?
その大将はどんな方ですか?

> さて「長の陸軍」だけど明治時代の陸軍大将31人(皇族は4人)で長州藩出身者は11人に過ぎない。

海軍が14人中13人で薩摩占有率92%なのに陸軍が27人中11人で長州占有率40%なのはちょっと意外ですね。
もっと多いのかと思ってました。

[3073] Re:[3072] [3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/17(Mon) 15:35
> そういえば、出典は忘れましたが、長州の西洋兵術の基礎を作った大村益次郎は、「指揮官が外国語を勉強しなければ兵書による指揮ができないならば、指揮官が外国語に習熟するころには白髪の老人になってしまう」ということで、長州では彼の翻訳による簡便な号令を作った旨の話を聞いたことがあります。

「薩の海軍、長の陸軍」とよく言われる。
明治新政府の陸海軍高官を薩長が独占したたとえだ。
海軍については確かに薩の海軍と言えるだろう。
明治時代、海軍大将に就任した提督は15人いたがそのうち皇族が1人で13人が薩摩藩出身者だった。
薩摩藩は外国語翻訳に特に熱心ではなかった。
だから日本海軍では各種用語の英語が使われる風習が残りひいては海自にまでその伝統が脈々と受け継がれているのである。
井上成美の英語教育を「リベラルの鑑」と取る人達がいるけど旧海軍にとって英語は「標準語->英語->日本語の方言」の順で普遍であり「敵国語?フフン!」ってもんだったのである。
英語を重視したのは何もリベラルだったからではない。

さて「長の陸軍」だけど明治時代の陸軍大将31人(皇族は4人)で長州藩出身者は11人に過ぎない。
「皇族以外の陸軍大将」の半数にも達していないのである。
つまり「長の陸軍」ってより「ちょっとだけ長の匂いがする程度の陸軍」なのだ。
だから「大村流」も「長州勢が大したこと無かった事」と「大村が若死した事」からあまり広まらなかったんじゃなかろうか。

いずれにせよ「幕末期の欧州陸軍じゃフランスがピカイチ」だから仏から軍事顧問団を招聘し「普仏戦争でドイツがフランスに勝ったそうだ。ドイツの方が良いんじゃねえ?」でドイツからメッケルを呼んでドイツ贔屓に変わり第1次世界大戦で独は仏に負けると「やっぱ陸軍はフランスだ。」ってんでそれまでに独のクルップコピーだった野砲を仏のシュナイダーコピーに変えたのである。
まあ、そんなわけで紆余曲折していったのだ。

[3072] Re:[3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/17(Mon) 04:43
> もちろん当時の幕府陸軍は仏語で号令をかけた。
> う〜ん、トレビア〜ン♪

そういえば、出典は忘れましたが、長州の西洋兵術の基礎を作った大村益次郎は、「指揮官が外国語を勉強しなければ兵書による指揮ができないならば、指揮官が外国語に習熟するころには白髪の老人になってしまう」ということで、長州では彼の翻訳による簡便な号令を作った旨の話を聞いたことがあります。
ただ、翻訳した号令が徹底しているはずの昭和の陸軍にしても山本七平氏の戦時中体験談の著書では戦場で命令や報告がとっさに出る方言により上官や兵士に伝わらない等の事案などあったようですし、現代でもコンピュータ用語などのようにを無理に漢字にすると逆に意味がわからなくなる例もありますから、よほどうまい翻訳でない限り原書の用語を直接使った方が混乱が少ないという幕府の判断も間違いではないと思います。

しかし、幕末の陸軍用語は字を考えた方も大変とは思いますが、これを読んだり書いたりする方も大変ですね・・・・

[3071] Re:[3070] 列士満 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/16(Sun) 18:50
> 薩長の維新が不調に終わり幕府主体の文明開化になったとすれば
> 独英式じゃなくて仏式軍制の軍隊になっていたのかもですね(笑)

いや、メッケルが来るまでは新政府陸軍は仏式だったのだ。
メッケル以降も砲兵は仏式を踏襲してるしね。
知人の陸自の陸将(旧陸軍士官学校出身)は特科(昔で言えば砲兵だ)なんだけど「旧陸軍がドイツ偏向?フン!冗談じゃありません!砲兵は断固としてフランスの伝統を引き継いでおります。私の習った第1外国語も当然、フランス語でした。よその兵科の事はしりませんが。」と言っていた。
まあ、90式野砲もフランスのコピー、91式10榴もフランスのコピーなんだからね。
もっともこれは砲兵だけの話。
歩兵や機甲は独式だよ。

[3070] 列士満 投稿者:多門丸 投稿日:2012/12/16(Sun) 17:49
薩長の維新が不調に終わり幕府主体の文明開化になったとすれば
独英式じゃなくて仏式軍制の軍隊になっていたのかもですね(笑)

[3069] イヤミっていうフランスかぶれのキャラがいたよね 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/15(Sat) 19:11
「列獅綿多」と「抜隊龍」って何と読むかわかる?
なんと列獅綿多は「れじめんと」で抜隊龍は「ばたいろん」と読むのだ。
すなわち列獅綿多はRégiment(連隊の仏語)、抜隊龍はBataillon(大隊の仏語)の事である。
暴走族語でデタラメ書いてんじゃないよ。
幕末に陸軍総裁であった勝海舟が書いた「陸軍歴史28巻」に幕府陸軍の公式用語としてそう記してあるのだ。
もちろん当時の幕府陸軍は仏語で号令をかけた。
う〜ん、トレビア〜ン♪

[3068] 家臣団(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/12(Wed) 18:49
それでは軍事組織としての家臣団の機能を考察し本稿を締めるとしよう。

10万石大名の場合、軍役規定21550名のうち直接戦力となるのは大まかに見て馬上、若党、侍、小頭、足軽の合計1211名である。
これらのうち馬上はかつて大きな戦力であったが戦国時代中盤以降、徐々に鉄砲の比重が増え存在意義を失っていった。
ま、みんな教科書で習うし黒澤映画や大河ドラマ見て知ってるよね。
でも太平洋戦記3みたいに「騎兵役にたたねえ、そんなもん全部没!」なんて事にはなっておらずとりあえずは軍役規定に入っている。
本当に「騎兵役にたたねえ、そんなもん全部没!」となるのは機関銃が登場してからである。

馬上が用いる武器は槍で家臣団の「その他」には143人の槍持が含まれている。
更に「その他」には143人(他に予備として70人)の「具足持」がいるが彼らが運搬している具足は馬上が着用する為のものである。
鉄砲で撃たれたら役に立たないけどね。
また「その他」には143人の騎士口附がいる。
「騎士口附とは聞きなれない役職だ。何をする人だろう?」と思われたかな?
そこで馬上を取り巻く143人ずつのこれらの集団と「200石取の旗本」の軍役規定を比較してみよう。
200石取の旗本の軍役規定は侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬口取1人、小荷駄1人の計5人となっている。
当然、旗本自身は含まれない。
これを馬上と比較してみると「馬上=旗本自身」で「若党=侍」、「具足持=甲冑持」、「騎士口附=馬口取」、「槍持=槍持」であり馬上は200石取の旗本に相当する事が判る。

馬上の方に小荷駄がいないのは全体としての小荷駄50人に含まれるからである。
慶安軍役規定によると10万石の大名は各56騎の3備を保有(つまり168騎)を保有するとあるので上級家臣(2名を除く)と馬上を合わせ騎兵集団(これが3備)を構成する。
よって若党及び上級家臣の従者の一部、侍で騎兵集団の支援部隊を構成する。
これで「若党って何だろう?」と思っている方はご理解頂けただろう。
つまり彼らは「徒歩の侍」なのである。
嗚呼、種子島に南蛮船がやってこなければ・・・
彼らが主役だったのに・・・

さてそれじゃ、ほんとの主役である足軽について解説しよう。
鉄砲足軽500人には予備150人が含まれ小頭14人で統率する。
つまり小頭1人に鉄砲足軽25人+予備約10人で1部隊となる。
槍足軽195人には予備45人が含まれ小頭7人が統率する。
よって小頭1人に槍足軽21人+予備約6人で1部隊となる。
1部隊の兵力が若干少なくなり予備に至っては半分近くに減少している。
弓足軽は80人に予備20人が含まれ小頭4人が統率する。
小頭1人が率いる兵力は弓足軽15人に予備5人。
更に部隊規模が小さくなったわけだ。
これが旗指足軽になると60人で予備はおらず指揮官も小頭ではなく宰領になっている。

これがまあ、10万石大名家臣団の戦力のあらましだけど、「直接戦力に含まれない部分」にもちょっと目を向けてみよう。
直接戦力を「軍役規定21550名のうち馬上、若党、侍、小頭、足軽の合計1211名」としたが、まず最初に上級家臣や、その従者の一部が上記の様に「騎兵集団や徒歩の侍」として加わる。
それでは反対に家臣団の中から「これは絶対に戦力じゃないな。」と言うのを選びだして行くと・・・
まず茶弁当の2人、次に雨具持の2人、これらはまず戦闘員じゃない。
蓑箱の2人や甲冑持の6人(及び宰領3人)、挟箱持の4人、口附の8人、沓箱の4人(及び予備4人)もそうだ。
おっと、忘れちゃならないのが草履取の2人。
なにしろ出世の登竜門だからね。
ちなみに家臣に草履取が登場するのは250石取の旗本からだ。
坊主8人も戦力とは言い難いだろう。
ただし武蔵坊弁慶みたいな奴がいるとすれば別だ。
前にも書いた押足軽12人。
これはまったく戦力と考えて良いのやら悪いのやら全く判らない。
似たようなのが長刀(ナギナタ)の2人。
だってたった2人だよ?
どんな部隊を構成するのやら・・・
この長刀は1000石取旗本の1人から登場し10万石大名になっても2人のままである。
う〜ん、戦力なのかはたまた儀礼上の存在なのか?
こうしたよく判らない役職を多々抱えて2155名の家臣団が構成されているのである。

[3067] Re:[3066] 日露戦争 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/11(Tue) 22:49
> 是非、阿部デザイナーにもう少し多くの人物について解説していただけたらと思います。

そうだね、
それじゃ時間が出来たら少しずつ書くから待っててね。

[3066] 日露戦争 投稿者:いそしち 投稿日:2012/12/11(Tue) 08:10
日露戦争文庫版が発売されるとのことで久々に僕も日露戦争を再プレイしてみました。
いやー、太平洋戦記で数字ずくめになってからもう一度やってみると感慨深いものがありますね。
人物が次から次に登場してくるので実に感情移入しやすいです。
将軍達の戦死に涙しつつ奉天を陥落させたときの達成感はえもいわれません。
人物に関しての資料が乏しいので坂の上の雲を読みながらやってますが。
ゲームガイドでも人物の解説がなされていますがあまり大勢ではないのが残念なところ。
是非、阿部デザイナーにもう少し多くの人物について解説していただけたらと思います。

[3065] 江戸経済運営のバックボーン?  投稿者:c物品 投稿日:2012/12/09(Sun) 00:07
またまた拙筆でお邪魔いたします。

物価統制と倹約が売り?の享保の改革にもかかわらず、幕政は行き詰まりつつあった時代、新たな思想の萌芽があったようです。
(塚谷晃弘 注「日本思想体系:本多利明、海保青陵 岩波書店抜粋)

現実ヲ直視セヨ? 海保青陵(1755〜1817)
彼は、宮津藩家老の長男として生まれましたが、彼の発想のすごいのは、まず、「本当は金がなければ困る武士が金を卑しむのはおかしい」という発想の転換と利益を得ることの正当性を訴えたことと思います。
彼は世の中に存在するものすべてが流通することで経済的利益(利息)を発生させている
(概要「田ヲステテオケバ何モウマヌ也、金ヲネセテオケバ何モウマヌ也・・・・」)
であるから、商人が暴利をむさぼっているから物価が上がるという従来の考えを転換したことにあります。
(「コノ利息ハトラネバナラヌモノ也 山師ニテモ、何師ヌテモナシ。天地ノ理也」)
また、従来崇高であるとされた武士の主君への忠誠と知行の関係を庶民の賃金生活と同じだから殖産をすべきと訴えたかったようです。
(概要「卿太夫士ハ己レガ知力ヲ君ニウリテ、其ノ日雇賃金ニテ喰フテオル人也、雲助ガ一里カツギテ一里ダケノ賃金ヲトリテ、餅ヲ得酒ヲ得ル何モチガイナシ」)
殖産の大原則は領主と領民が一体となって「他国の金を吸い取る」ことで藩全体を豊かにしようとしたようです。
具体的には、かなり重商的政策で以下の構想があったようです。
1 藩特産品の症例と専売制度
2 必要に応じて他藩の物資でも買い集めて貿易する「中継貿易」

マルサス(1766〜1834)のライバル? 本多利明(1743〜1820)
彼は町人でありましたが、その見識から幕府の蝦夷地調査にも関与した人物でした。
彼はもしかしたら、幕政の行き詰まりを人口的観点から分析した初めての日本の経済在学者かもしれません。
かれは、当時の状況を、日本史上最も平和な時代であるが、人口増加に農地開発が追い付かないため飢饉などで餓死者が出たり、世の中の治安が悪くなるとかんがえたようです。
マルサスは貧民救済として産児制限により人口を減らして富の分配を増やそうとしたのですが、本多は別の考えのようでした。
彼は幕府直轄による交易船の運用組織を作り日本国内を包括した物流ネットワークを構築し、物資の偏在をなくすことで飢饉の餓死者を救う構想のようでした。
ただ、皮肉にも町人出身のかれは、商人は信用していなかったようですが…
(概要「運送・交易は国君の天職なれば、商人に任せるに非ず。もし誤りて商人に任ずるにおいては、奸計貪欲を恣にするゆえに、国内の諸色の値段平均することなく、莫大に相場となり農民なりがたい」)
また、国内の未開発地を開発して国内生産力を増強することも考えたようで、特に蝦夷地帆開拓を望視していて、オランダが北緯53度であっても発展しているのだから、松前周辺は北緯四十度より四十三、四度に所在(伊能忠敬以前ですので厳密な場所は特定できていなかったようですが…)するにで有望という考えのようでした
(実際は海流の違いでそれほどうまい話ではないのはご存じのとおりですが…)

ともわれ、従来からの建前の道徳主義から視点を変える萌芽なことは間違いないようです・・・
(これらの思想の孫くらいが幕末の有名人(某世界の海援隊の某社長?)につながりそうですが・・・・私の拙筆でそこまで話をもっていけるか行けるか皆目自信はありません・・・・・)

[3064] Re:[3063] [3062] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/08(Sat) 06:47
> > 彼の農政で大きく変わったのは、農民の徴税を検見法
>
> >結果として失脚してしまいました。
>
> 田沼意次が失脚した理由は「不満を解消できない、技術革新・制度革新を伴わない政策であったこと」じゃなく「他の有力者に嫌われたこと」じゃないかな?
> だって選挙で老中を選ぶわけじゃないし。

たしかにお話のとおり選挙があったわけでありませんので、彼を嫌う人たちに、失脚させる口実を与えたというのが正確なのかもしれません・・・・


> > 特に、このころイギリスでは紡績機等の発明など産業革命のもとが出始めた時期ですから、この時代がもしかしたら日本近代史のターニングポイントでは?と思う時があります。
>
> そうした視点で当時を描いたNHKドラマに「天下御免」があったよ。
> あれはとても面白かった。
> 最後に平賀源内が革命まっさかりのフランスに行っちゃうんだ。
>

そのドラマの存在は知りませんでした、私も見たいですね・・・・

ここで、享保の改革のころの商業について、武士の立場ではなく、商人の立場での見方に触れてみたいと思います。


このころの商人の思想的変化といえば、従来のもうけ以外の社会的責任の認識の萌芽があったと思います。

当時の代表的商人である三井高房(町人考見録「日本思想体系」岩波書店)は「道徳は無視してはいけないが、損しないよう適当に行動しろ」と言っていたようです。

有名どころとしては石田梅石(柴田実「石田梅石全集」石門心学会抜粋)があると思います。
彼は士農工商の時代に、「財貨を交易する」ことが社会的に不可欠な職能であり、武士が忠誠心で俸禄を得ているならば、商人が利潤を得るのも同じであり、武士と商人は対等であるという主張でした。ただし、商人の中でも、道徳が無いものもいるため、教育の必要性も認めていました、これがのちに「心学」とされるものです。

このころの商人が社会的地位からの見方の変化のほか、営利と道徳の融合を模索し始めていたと思います。

[3063] Re:[3062] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/12/03(Mon) 09:11
> 彼の農政で大きく変わったのは、農民の徴税を検見法(その年の作柄から課税を決定)から定免法(作柄に無関係に一定課税)に切り替えたことと考えます。イメージとしては定免法→定額課税、検見法→累進課税とも見えます、また幕府領の租税を従来の四公六民から五公五民にする等、課税を強化しました。

つまり貧乏人からも金持ちからも「平等」に徴税する事で「貧乏人に冷たく金持ちに優しい消費税の如き税制」なのだ。
おまけに5公5民で10%も増税するんだからヒドイ話だよね。

> しかし、課税強化の矛盾もありました、この時代は、商業を行う上で、組合はありましたが、幕府の政策を指示するためのもので加入は自由であり、商売に課税する概念はなかったようです。

「紀州の豊かな自然の中」でお育ちあそばされたから経済の事なんかなんにも判らないのだ。

> 問題2 過度の倹約と博打取締等の警戒による景気萎縮
> 目安箱投書欄の中で、過度の倹約のため職人等の仕事が減ったり、盗賊や博打取締の役人が過度の取締をするので市内の景気が萎縮するというものもあったようです。

紀州の(以下同文)

>つまり、軍学者ですら「部隊運用には訓練が必要である」という概念が消滅している面で、幕府の軍役が制度としては存続しても、所属する構成員の理念としては意義を見出していないため機能しない状態になっていたと考えられます。

享保の改革で5公5民が始まったのが1728年だから1638の年の島原の乱から数えて90年になる。
よって島原の乱の記憶がある人は殆どいないね。
つまり当時の人にとっちゃ「イクサは講談の中にある話」に過ぎないのだ。
今から90年前というと1922年か・・・
ワシントン条約の頃だね。
ま、言ってみれば当時として享保の改革は「ワシントン条約の時代の人がタイムスリップして現代に来て独裁者になった」みたいな事件なのだ。
それと鷹狩が好きなのは「紀州の豊かな自然の人」だからしょうがないのかもね・・・
畑を荒らされても補償はされないんだから泣くに泣けないが。

>結果として失脚してしまいました。

田沼意次が失脚した理由は「不満を解消できない、技術革新・制度革新を伴わない政策であったこと」じゃなく「他の有力者に嫌われたこと」じゃないかな?
だって選挙で老中を選ぶわけじゃないし。

> 特に、このころイギリスでは紡績機等の発明など産業革命のもとが出始めた時期ですから、この時代がもしかしたら日本近代史のターニングポイントでは?と思う時があります。

そうした視点で当時を描いたNHKドラマに「天下御免」があったよ。
あれはとても面白かった。
最後に平賀源内が革命まっさかりのフランスに行っちゃうんだ。

> 個人的には、前2回(一回目も長期的には?ですから)が失敗したのに、何で同じパターンを繰り返すのかな・・・・と突っ込みたくなります・・・・

僕もそう思うよ。
教科書にゃ「**の改革」なんて書いてあるけど「**の恐怖政治」と変えた方が良いような気がするよ。

[3062] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:c物品 投稿日:2012/12/02(Sun) 23:31
江戸時代の経済思想として、幕府や藩の影響を与えたであろう考えの概要の続きを拙いながら書いてみます。
駄文ですがお付き合いお願いします。

吉宗の政策と限界
吉宗と言えばTVドラマの人気者で、自ら粗衣粗食を行い、大岡越前等の人材登用(上知の制)や、目安箱設置、火消し制度の整備、法制度(特に刑法)の整備、小石川養生所の設置などの善政で有名ですが、当時の同世代の世論としては、かならずしも好意的な評価ではなかったようです。
かれの政策に批判があったものとしていくつかお挙げてみます。
問題1 租税不平等
彼の農政で大きく変わったのは、農民の徴税を検見法(その年の作柄から課税を決定)から定免法(作柄に無関係に一定課税)に切り替えたことと考えます。イメージとしては定免法→定額課税、検見法→累進課税とも見えます、また幕府領の租税を従来の四公六民から五公五民にする等、課税を強化しました。
しかし、課税強化の矛盾もありました、この時代は、商業を行う上で、組合はありましたが、幕府の政策を指示するためのもので加入は自由であり、商売に課税する概念はなかったようです。
このため、河村瑞賢が明暦大火の復興特需?を見込んだ材木の買い占めや、紀伊国屋文左衛門がみかん船や材木で儲けても、三井八郎衛門が「現金掛け値なし」の定価商法で一日数百両儲けても、課税する根拠も法制度も組織もない、商人から見て税制からは「極楽」時代であったとも言えます。
問題2 過度の倹約と博打取締等の警戒による景気萎縮
目安箱投書欄の中で、過度の倹約のため職人等の仕事が減ったり、盗賊や博打取締の役人が過度の取締をするので市内の景気が萎縮するというものもあったようです。
問題3 文武政策の拒否反応
吉宗の文武両道政策も拒絶反応は大きかったようです、鷹狩は家康以来、武士の野外における部隊行動の演習として、生類憐みの令で自粛する時代でも、水戸光圀は大名のたしなみ(有事の際の部隊運用の訓練)として続けていましたが、このころはほとんど実施されていなかったのを吉宗が復活させたところ、畑が荒らされてこまるとか、将軍は鷹狩が好きなようだが、ほかに好きなことを探すべき(この投書は謙信流の軍学者)等非難が多かったようです。つまり、軍学者ですら「部隊運用には訓練が必要である」という概念が消滅している面で、幕府の軍役が制度としては存続しても、所属する構成員の理念としては意義を見出していないため機能しない状態になっていたと考えられます。

反動?か反面教師?田沼政治
享保の改革を反面教師?にしたのが、田沼意次と思います。
彼は生産に限界がある農業でなく商業に注目したようです。
彼の政策としてあげられるものとしては、吉宗が取締の手段としていた商人の組合(座)を、商売の許可制として座内の商人の独占的利益を保護する見返りに運上金(強制)冥加金(自主的)を得ることで幕府財政を立て直えそうとしたり、吉宗が洋書の禁を法としては出してはいたが事実上規制していた運用を見直す等により、杉田玄白や平賀源内の活躍舞台を作ったり、工藤平助の「赤蝦夷風雪考」の意見から蝦夷地開拓やロシア貿易を起案する等積極的な政策をかんがえていましたが、結果として失脚してしまいました。
もちろんこれは「志の厚薄は音物(露骨にいうと賄賂?)の多少で知れる」という彼の個性の問題のほか、天明飢饉での対応不備、座優遇による農民や庶民の負担増(座による商人の利益増加は商業的改革や技術革新でなく利権にすぎないため、商人の利益増=物価上昇=農民や庶民困窮)などの不満を解消できない、技術革新・制度革新を伴わない政策であったことが問題だったと思います。
特に、このころイギリスでは紡績機等の発明など産業革命のもとが出始めた時期ですから、この時代がもしかしたら日本近代史のターニングポイントでは?と思う時があります。

反動の反動?寛政の改革
一説には、将軍候補であったが、白河藩に飛ばされた?松平定信が老中として行った一連の改革で、幕府体制の再建(一説には、名家の家系図等が整備されて一般化したのは、彼の理想である武士の権威誇示として政策化したとの話もあるようです)、旗本・御家人の救済などを課題にしたようですが、改革に対する厳しい姿勢(教科書の通りで不評のようです・・・)や旗本・御家人救済のための棄捐令など、その手法に不満が高まり、在職6年で失脚して改革も挫折したようです。

またも負けたか?天保の改革
水野忠邦が老中として、享保・寛政の両改革を理想とし、奢侈禁止、風俗取締り強化策などを打ち出したものですが、やっぱり失敗しました。
個人的には、前2回(一回目も長期的には?ですから)が失敗したのに、何で同じパターンを繰り返すのかな・・・・と突っ込みたくなります・・・・
天保の改革は、3つの改革の中で一番グダグダですが、幕末に与えた悪影響
?も大きいと思いますので、あとで取り上げたいと思います。

[3061] 『日露戦争文庫版』発売のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2012/11/30(Fri) 19:16
12月21日より『日露戦争文庫版』を店頭発売いたします。
この商品は『日露戦争文庫版DL』と同じ物です。
今後、弊社の文庫版シリーズは店頭販売用の『文庫版』とダウンロード販売用の『文庫版DL』の2本立てとなりますので御愛顧ください。

『日露戦争文庫版』商品概要
http://www.general-support.co.jp/pro/pro18.html

[3060] 家臣団(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/27(Tue) 22:00
5万石の大名の慶安軍役規定が士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名だと発言[3029]で書いた。
それでは10万石の大名はそれを2倍すれば良いのだろうか?
1万石の場合は1/5にすれば良いのだろうか?
実はそうではないのである。

5万石大名の軍役規定は1万石と10万石の中間に位置しているが1万石と10万石では質的に大きな差があるのだ。
今回はそこら辺を探ってみよう。
まず1万石だが馬上10、若党10、侍16、弓足軽13、鉄砲足軽25、槍足軽42、旗指足軽9、その他119の合計235名となる。
所帯が小さいので5万石と違い家老や上級家臣はおらず馬上の家臣が代行する。
次に10万石だが家老3(その従者が各15)、上級家臣24(その従者が各7)、馬上143、若党143、侍65、小頭25、弓足軽80、鉄砲足軽500、槍足軽195、旗指足軽60、その他820の合計2155名だ。

それでは双方を比較(10万石の方を1/10する)してみよう。
馬上及び上級家臣、家老は1万石の10に対し10万石では合計17で7割も多い。
鉄砲足軽などは1万石の25に対し10万石では50で2倍にも増えている。
すなわち1万石の大名10家と10万石の大名1家が対戦した場合、石高は同数でも火力で2倍もの差が生じる。
一方、近接兵器を所有する侍は1万石の16に対して10万石では6.5に過ぎないので半分にも満たず槍足軽も1万石の42に対し10万石は19.5でこれも半分に届かない。
1万石で鉄砲1丁に対し1.7本だった槍が10万石では0.4本にまで減少しているのである。
実に1/4だ。
いや、10万石の方が火力4倍になっていると考えてもよい。
恐らく大大名は火力戦闘を主体とした合戦や攻城戦及び篭城を前提に軍役が規定され小大名はゲリラ戦を主体とした治安維持任務を前提としているのであろう。

なお、軍役規定では「この人いったい何を任務とするんだろう?」といった役職が多く存在しており、僕はこれらを「その他」で包括している。
よって「その他」は中間や小者だけではなく士分や足軽も若干、含む。
例えば「押足軽」と言うのがあり千5百石の軍役規定で2人(つまり7百5十石で1人)、4千石で4人、1万石で6人、5万石で8人、10万石で12人(8千3百石で1人)である。
8千3百石と7百5十石では11倍もの開きがある。
それでは押足軽といったい何なのであろう?
どうもこれは現代で言う所の司令部勤務下士官に相当するものらしい。
また勝海舟の「吹塵録」では「忍び」は押足軽に含むとある。
よって押足軽は槍足軽や弓足軽、鉄砲足軽と異なり総兵力に比例して数が決定されず名称は足軽であっても実態は士分に近いと考えられる。

さて、中間や小者は武家奉公人と呼ばれる。
これらは大名が軍役規定に従って軍勢(大名行列も含む)を整える時、臨時に雇用されるが平時に於いてもそれなりに一定の数が雇われている。
多くの場合、平時に雇われている小者は下男(女性であったら下女となる)であり給金は「中間の場合、宝永年間で2両」とか「下男は3両で下女が1両」とか「明和4年で下女の1両2分(1.5両)」と言われている。
勿論、衣食住(私服は除く)は主人持ちだ。

なお、下男、下女は武家に限らず町人でも多く雇っていたので江戸の人口のうち結構、多数が「武家奉公人及び町屋での下男、下女」であったと考えられる。
給金の額としては「商人の手代の初任給」とあまり差はない。
だが「武家奉公人及び下男、下女」は商人と違い昇給しないのだ。
では何ゆえ「武家奉公人及び下男、下女」になるのであろうか?
「武家奉公人及び下男、下女」のメリットはどこに?

実の所、最初から人生の目的を「武家奉公人及び下男、下女」に置いているケースはあまり無いと思われる。
彼らは殆どの場合、独身だ。
だって住み込みだしね。
「最初は商人の手代だったけど・・・」とか「1度は結婚したんだけど亭主に離縁されちゃって・・」とか「若いうちは駕篭かきやってたんだけど歳取ると体がいうこときかなくてね・・・」とか「もう博打に手を出してスッテンテン、夜逃げしてきたんだよ・・・」とか事情は様々、色々ある。
基本的に「武家奉公人及び下男、下女」は給金が安い代わりに責任はなく仕事もヒマだ。
養わなきゃならない家族があるならともかく、そうでなけりゃ、それなりに安定してるからメリットは充分に存在する。
問題は「雇う側の事情」で金のある町人(金が無けりゃ雇わなければいいだけの話だ)ならともかく「金は無くとも体面上、雇わなければならない武士」だと大変な負担になる。
こうした場合は「ずっと家族同様の付き合いをしてきたんだから今月の給金はどうか待ってくれ(涙)」と情にすがって奉公して貰うしかない。

武家の家計が「火の車」なのは前述の通りだ。
にも関わらず武家奉公人を雇わなければならないのだから大変である。
(火の車なのに下女を雇う理由は「江戸時代は電気洗濯機も電気掃除機もなかったから」である。電話も無いから知人に手紙ひとつ届けるにも下男は不可欠なのだ。体面もあるけどね。)

[3059] ガンダム講談 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/27(Tue) 18:48
いよいよ最終局面のア・バオア・クーなので楽しみだ。

http://nanaicomsai.blogspot.jp/

[3058] Re:[3057] [3055] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/26(Mon) 10:08
> 第一は「物を直ちに取用」でこれは、物産を生産者から藩や幕府が取り立て、武士に直接支給することで、商人を仲介させず、貨幣支出を抑える。

現物支給か・・・
みんな揃いの人民服になりそうだ。
いや、「人民裃」か(笑)

> 第二に武士を城下町居住から、知行地に居住させることで、質素な生活にして、消費支出を削減させる。

下放か。
毛沢東の先輩だね。

> 第3に商業制度について統制を加えることで社会を安定させる。

貧乏(徂徠豆腐)したから商人を憎んでるんだね。

> 第4は大名や幕府の経費節減で、大名行列や勤番、供回の削減、衣類、飲食、器物、家屋、贈答、冠婚葬祭の礼の見直し

消費が冷え込むだろうなあ。
なんかクールビズや省エネルックを思い出すね。

> 教科書でもご存じのとおり、享保の改革は短期的には成功と言えても長期的効果は?ですから、「倹約と統制」には限度があったとおもいます。

なにしろ重税を基本とした政策だしね。
さぞかし面白くない世の中だったろうよ。

[3057] Re:[3055] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/25(Sun) 18:56
享保の改革で有名な8代吉宗のブレーンとして経済政策に影響を与えた荻生徂徠の経済思想についてかいつまんでみたいと思います(荻生徂徠全集:みすず書房の原文の我流解釈ですが・・・)

彼は武士がなぜ貧困になるか?という点について、武士が城下町にいて、生活に必要な資材やサービスを貨幣で購入しなければならない、しかし、都市で資材やサービスを受けるには商人を頼らなければならないため、商人は主導権を握るが、無秩序な商人の気ままのために武士は困窮すると考えたようです。

これに対する方策として、大きく4つの方策を考えたようです。

第一は「物を直ちに取用」でこれは、物産を生産者から藩や幕府が取り立て、武士に直接支給することで、商人を仲介させず、貨幣支出を抑える。

第二に武士を城下町居住から、知行地に居住させることで、質素な生活にして、消費支出を削減させる。

第3に商業制度について統制を加えることで社会を安定させる。

第4は大名や幕府の経費節減で、大名行列や勤番、供回の削減、衣類、飲食、器物、家屋、贈答、冠婚葬祭の礼の見直し

のようです、
特に質素倹約ついて、彼は「上より制度を改める」ことを主張しています。

かれの考えが従来の儒学者と大きく異なるのは、従来の儒者が「道徳=道による統治(徳治主義)」を考えていたのに彼は吉宗への献策でも「国の統治は碁盤の目を盛るがごとし(法治主義)」といまの視点ではバリバリの社会主義(配給制度と居住制限、商品の制限等)のようです。

教科書でもご存じのとおり、享保の改革は短期的には成功と言えても長期的効果は?ですから、「倹約と統制」には限度があったとおもいます。
(個人的には、個人欲求の統制が無理な点と、人員削減と軍役の法度、地方に武士を居住させることと、一国一城令の法度などの幕府のなかで政策と法令の不整合などから、荻生の提言にはもともと実現上の問題はあったと考えます)

[3056] Re:[3055] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/25(Sun) 07:48
言い換えると

>山鹿素行:戦争に勝つ兵学から、住民の生活を安定させ、社会秩序を維持することにより戦争を防ぐ抑止論(この場合、武士=行政、治安、教育の中枢)として武士の役割を再定位していたようです・・・・

つまり「治安維持を目的とした内なる軍隊」であり「他国との武力闘争を本来任務とした組織」ではない。
更に
> 残念ながら、この思想は経済発展の具体的方策にかける面はありますが・・・・
となるので「かなり社会主義化した思想」と言えるだろうね。

それに対し熊沢蕃山(カムイ伝にでてくる)は
一見、屯田兵に見えるけど目的は「藩財政の人件費負担を極小にして(当時の平均五公五民から一公九民を目指す)」だから「小さな政府と豊かな社会」を掲げた「本来の米国の路線に似た資本主義」と言えよう。

[3055] 江戸経済運営のバックボーン? 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/24(Sat) 23:19
江戸時代各藩の経済状況等については、書かれているとおりとと思いますが、ここで、「なぜそう考えられたか?」という面でお邪魔してみます・・・・

武士が「軍人」から「役人」なる思想的影響はいろいろあると思いますが、個人的には「忠臣蔵」の陣太鼓で有名?になった山鹿素行もきっかけではないかと思います、広瀬豊編「山鹿素行全集思想編」によれば(元が古文ですので我流で解釈します)概要として、「農工商はそれぞれの分を務めることが道である、武士は人倫乱すものを速やかに罰して倫理をしめすために文武につとめるもので、そのためには庶民への巡察と教育が重要」という意味の思想があったようです、
彼は兵学者として有名でしたが、戦争に勝つ兵学から、住民の生活を安定させ、社会秩序を維持することにより戦争を防ぐ抑止論(この場合、武士=行政、治安、教育の中枢)として武士の役割を再定位していたようです・・・・
残念ながら、この思想は経済発展の具体的方策にかける面はありますが・・・・

江戸時代に入っての大名の経済問題はどの藩でも問題だったようで、戦国時代の軍師のように、「経済に明るい」とされる学者等は各藩から引っ張りだこ状態だったようです。
その中の一人に岡山藩のブレーンも経験した熊沢蕃山の思想(「大学或問」)は「農家が耕し、武士は年貢でとるシステムでは米の量に限界ああり、武士が贅沢になり諸経費で多く年貢を課せば世の中が困窮する、困窮すれば道徳もなくなる、これを解決するためには武士は自分で耕作し、藩財政の人件費負担を極小にして(当時の平均五公五民から一公九民を目指す)富有淳厚の風習をつくり、人心を集める」という農兵論を展開していましたが、彼の一連の提案は藩中枢との軋轢となり、後年幕府に幽閉されました・・・・・

このころは、武士のあり方等の転換(平時の武士の存在意義等)が固まっていない時期でありますからいろいろ試行錯誤もあったと思います・・・・

お邪魔ついでに
時間ああれば、幕府系(荻生徂徠等)商人系(石田梅石等)
藩交易論系(海保青陵等)も取りあげて見たいと思います・・・
(あまり面白く書けないでもうしわけありませんが・・・・)

[3054] Re:[3053] 尼子残党 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/22(Thu) 20:28
> 亀井家は尼子遺臣系での唯一の大名かと思いますが
> どうしてそんなに豊かだったんでしょうか?

製紙業だよ。
それと徹底した経済振興策(資金の貸付など)だ。
更に元禄9年には百姓に対し米の代わりに製紙原料の楮での納税を許可し販売も藩が総力を挙げての専売機構とした。
でもこの藩も色々あって最終的にはどんどん借金が膨らんでいってしまうのだ。
天保10年(1839年)時に津和野藩が抱えていた借金の総額は・・・
なんと!37万2千両である!
ビックリした?
まあ、それなりの経済力があるから商人も貸してくれたんだろうね。
鼻血も出ない様な藩じゃ商人もたいして貸してくれないだろうよ。

それと浅野内匠頭の刃傷事件は「彼の性格」が災いしたと言われてるけど遺伝的な要素もあったらしいね。
なんと彼の叔父(内藤忠勝)は4代将軍の法要の席で他の大名を殺害(芝増上寺の刃傷事件)して切腹、改易されているのだ。
吉良には問題アリアリだけど浅野も問題アリアリなのかも知れない。

[3053] 尼子残党 投稿者:多聞丸 投稿日:2012/11/22(Thu) 15:03
亀井家は尼子遺臣系での唯一の大名かと思いますが
どうしてそんなに豊かだったんでしょうか?

[3052] Re:[3051] [3048] 家臣団(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/22(Thu) 12:27
> いずれの説にしても、茲親は3回も饗応役を務めたので、亀井家としては「大人の事情」をうまく使ったのかもしれません。

「物語藩史9巻」によると茲親は饗応役5回、馳走役9回、火防役10回を務めたそうだ。
また中野犬小屋の建築(なにしろ犬将軍の治世だからね)では4万2400両、禁裏造営では3万5840両も負担させられたらしい。
難儀な事である。
でもまあ、それだけ津和野藩は豊かでもあったのだ。
(一番のタカリは幕府かも知れない)

[3051] Re:[3048] 家臣団(その10) 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/21(Wed) 21:29
「米沢雑事記」を引用し赤穂浪士によって殺害されたときの状況を「面々が内心では上野介殿をうらんでいた最中の出来事だったからその知らせをきくや悲しむ心はなくむしろいい気味と口に出していいたい」と記している。
>

吉良は領国では評判よかったみたいですが、あちこちで恨み買っていたのですね?

殿中の刃傷(未遂)といえば浅野になりかけた殿様?として亀井 茲親(かめい これちか:津和野藩4万3000石藩主)もいたようです。
茲親は学問好きで綱吉の覚えめでたいインテリ?大名のようでしたが、大田南畝の『半日閑話』によれば、勅使の饗応役を命じられた際に、吉良からいじめを受け,殿中刃傷に及びそうになった茲親を、家老がなだめ吉良に賄賂を送って事なきを得たと話があるそうです。
また、類似の説として、いじめられて殿中で刃傷沙汰を決意した茲親に対して家老職の角澤大学が吉良家の家老や上野介に賄賂(数百両)をばらまいて吉良の機嫌をとって役目を務めたのち「彼(吉良)は金で態度を変えるくだらない人物だから、彼のために家をつぶすのは愚の骨頂」という意味の諫言を茲親にした話もあるようです。
いずれの説にしても、茲親は3回も饗応役を務めたので、亀井家としては「大人の事情」をうまく使ったのかもしれません。

勅使の饗応役を仕切る吉良の立場からみれば「賄賂」ではなく、もらって当然の「役得」もしくは「世話代」や「授業料」と思っていたと思われますが、役目の付帯費用?として払う大名は苦しい財政からねん出するわけですからおもしろいはずはなく、吉良が見え見えの悪役になる「忠臣蔵」が世間に受け入れやすい素地は吉良自身の勤務態度?にもあったのかとも思いました。

[3050] 家臣団(その11) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/21(Wed) 20:31
江戸時代の収入は基本的に終身固定制(尾張藩などごく一部の例外を除く)だったが商人(行商などの個人営業を除く)だけは異なっていた。
例えば100石取の武士が隠居して息子がそれを継いだとするでしょ、そしたら現代の様に相続税が取られる事はなく石高は減少しない。
よほど良い事か悪い事でもしない限り石高は増減しないのだ。

百姓だって同じだ。
6反の田んぼを受け継いだら収入は6反のままだ。
歳をとったからって田んぼが広くなったり収穫量が増えたりはしない。
(新田開発でもすれば別だが)
大工も同じで給金は年功じゃなく「腕の差」で決まるので技術が一定のラインに達したら親方や棟梁にならない限り収入は増えはしない。
「駕篭かき」だって「乗せた客の数」で収入が決まるのであって勤続年数は収入に関係ない。
(現代だって老人が運転しているタクシーに乗ったからってたくさん払ったりしないでしょ)

ところが・・・
江戸時代に於いて商人だけは年齢によって収入が変動したのだ。
まず丁稚(十代)、これはほぼ無収入だが衣食住は保障され教育をして貰える。
次が手代(二十代)、これは年3〜6両しか貰えないけど住み込みなので食住は保障される。
番頭(三十代以上)、店によって給金は異なるので一概に言えないが10両以上と考えて良いだろう。
店主(四十代以上)、収入は店の売り上げ次第なのでなんとも言えない、悪けりゃ倒産、良ければ千両以上だ。

こうして見ると番頭以下は同年齢の大工や行商人に比べ薄給と言えるだろう。
でもね、暖簾わけして貰えば店主になれるし大店の場合は勤続20余年以上で退職した場合には手代であっても50〜100両の退職金が貰えたらしいので「暖簾わけ」が許されなくても充分な事業資金になった。
色々の文献などで三井を参考とし江戸時代の商人を「300人から1人が浮かび上がれる過酷な競争社会」などと表現しているが、これは「三井の様な大店だけの特殊事情」に過ぎない。
果たして三井の如き大店が日本にどれだけ存在し日本中の商人の如何ほどが「大店」に勤務していただろうか?
多くの「店」は使用人も含めて10人以下の小規模経営である。
また家族だけの零細店(まあ現代の一般的商店と変わりない)も多かったろう。

だから決して日本中の商人が「丁稚->手代->番頭->店主」のコースに乗って競争を繰り広げていたわけではないのである。
小規模店の場合、跡継ぎ息子は同業者の店で手代として修行し親父(店主)が隠居したら帰ってくることもあるだろう。
零細の場合は最初っから家族で店を盛り立てていくだろう。
行商人が金を貯めて店をだす事もある。
様々なのだ。
でもまあ、大店の場合は江戸時代の中で現在の日本社会に最も似た給与形態だったとは言えよう。

[3049] 目から鱗 投稿者:多聞丸 投稿日:2012/11/21(Wed) 15:33
>赤穂浪士は「上杉藩にとってこそ真の義士」なのだ。
謙信公いらいの名門上杉家が敵役になる忠臣蔵は素直に楽しめないでいましたが
言われると確かに・・目から鱗の説ですね。
赤穂浪士にさらに追っ手をかけようとした藩主をいさめたという
家老色部にもそう言う感覚があったのかもですね。
色部氏は川中島の合戦で「血染めの感状」もらったという
上杉家の重臣ですからね。

[3048] 家臣団(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/20(Tue) 22:52
さて、それじゃ武士の暮らし振りと物価を覗いてみよう。
まず米だけ食ってるわけにゃいかんから石高を金に換えなきゃいけないね。
武士の最低がサンピン(3両1人扶持、3両1分とする接もある)だからこれだと3両+1.8石で約5両となる。
つまり20000文だ。
加賀藩の足軽で20俵取だと約7両で28000文。
100石取の馬廻で40両(160000文)。

それでは物価はと言うと4玉の串団子が4文、蕎麦が16文、鰻丼が100文、銭湯が10文、清酒1合が32文、下駄が50文。
サンピン侍が「拙者は鰻丼が好物でなあ」と1日3回食い続ければ2月ちょっとで金が無くなり後は餓死してしまう。
蕎麦なら1年中、食べても大丈夫だが「独身者で他に出費がなければの話」だ。
女房子供と家族3人なら5ヶ月目を迎える事なく破産するであろう。

やはり外食を中心とした生活は無理だ。
それでは町人の給金はどの位かと言うと・・・
栗原柳庵の漫録によると文政年間の野菜行商人(天秤棒を担ぐ「ボテ振り)の稼ぎは1日400文(400文で年間290日働けば29両)、大工は1日銀6匁(290日働くと銀1740匁で43両)としている。
平均的な大工の収入は100石取の旗本を凌ぐのだ。
(でも杉浦ひなこ女史の説によると「江戸っ子は怠け者で年のうち半分しか仕事せずゴロゴロしていた」そうだから実収入はそう多くないかもしれない)
これに加えて町民は収入に対し支出がずっと少ない。
武士は体面を保たねばならないから、ツギの当った着物で人前に出られず、諸事の支出も大変多いが町人にはそんな制約が無いからだ。

だから年間30両の収入がある武士と町人を比べた場合、暮らしむきは比較にならない程、町人の方が楽になる。
「武士は食わねど高楊枝」は真実なのである。
大工だって若い衆を何人も抱えた棟梁、親方となればもっと収益が大きいし野菜だって行商ではなく八百屋として店を構えたなら儲けはずっと増えるだろう。

そんな貧しい武士なのに、ああ、貧しい武士なのに・・・
吉良上野介は上杉家米沢藩(前述した通り日本でも貧しい藩の筆頭!)と縁戚(4代藩主綱憲が上野介の息子)なのでたかりまくり綱憲の衣食住による江戸での支出が毎年2000両、吉良家への支出が毎年1000両にも及んだ。
「物語藩史1巻」の376ページでは「米沢雑事記」を引用し赤穂浪士によって殺害されたときの状況を「面々が内心では上野介殿をうらんでいた最中の出来事だったからその知らせをきくや悲しむ心はなくむしろいい気味と口に出していいたい」と記している。

なにしろ米沢藩は「明暦元年の掟」で
1.諸侍、諸給人は平常、絹布を着してはならない。
2.朋輩との寄り合い、振る舞いを停止する事。
  親類縁者で祝儀、振る舞いする場合でも1汁1菜に止める事。
3.遊山、賭博の禁止。
てな事を法制化しなければならない程、困窮していたのである。
だから赤穂浪士は「上杉藩にとってこそ真の義士」なのだ。
「命を捨てて米沢藩の為に吉良を討つ」とは、ああ、なんて美しい話だろう。
もし討ち入りが失敗に終わっていたら米沢藩の借財は更に膨らみとんでもない事態に陥っていたかも知れない。
(もしガッカリした人がいたらゴメンね。夢を壊すつもりはなかったんだ・・・)

[3047] 家臣団(その9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/19(Mon) 19:37
やっと赤穂浪士の所へ話が舞い戻った。

さて、発言[3030]で書いた通り討入に参加した47名のうち家臣は36名だった。
そしてその内、35名が士分であり1名が足軽である。
ここで「ふ〜ん、家禄が少ないと忠義も薄いのだな。」などと思ってはいけない。
300余名の士分のうち500石以上の大石、岡林、奥野、藤井、安井、大野、大木など7人のうち討ち入りに参加したのは大石だけなのだから高禄だからと言って忠義が厚いと限らないのだ。

まあ、300余名のうち35名と言う事は11%なので7名のうち1人参加(14%)は「ごく当たり前」となる。
これら500石以上7人に400石代の外村、伊藤、玉虫、川村、進藤、多川の6人(この中に討入参加なし。)を加えた13人が発言[3029]で書いた家老+上級家臣13人に相当(1人足りないって?まあいいじゃない。きっと色々、事情があるのだ。杓子定規にゃいかないよ。)する。
13人中1人だと7.6%か・・・
ちょっと寂しい気もするな。
頑張れ、上級家臣!

そして400石未満を見てみると・・・
討入参加者36人中、いるわ、いるわ、350石の片岡源五を筆頭に100石以上の者が28人もいる。
このあたりが馬上56人や侍40人だ。
ただ不思議なのは役職が「馬廻」の者が100石取りの中に3人もいる事である。
何が不思議かって言うと馬は高価だから100石取クラスだと維持できないのだ。
馬廻と言うのは馬に乗っている武士で戦国時代屋江戸時代初期は馬上=馬廻だったんだけど江戸も元禄になり合戦なんて絵巻物や講談でしか御目にかかれなくなると役職と実態が遊離していったんだろうね。
だから100石から300石のグループは馬上+侍と考えるのが妥当だ。

次に100石未満の家臣を見ると・・・
なんと21〜99石までが皆無なのだ。
そして扶持取と給金取ならびに複合が登場してくる。
村松喜兵衛の20石5人扶持とか神崎与五郎の5両3人扶持とかね。
ここで扶持取について解説しておこう。
扶持取とは固定化された加給の一種で男は1日5合、女は1日3合として禄高に加算する仕組みである。
1日5合だから1年では365×5合=1825合=1.8石に相当する。
ただしこれは切米と同じで知行に換算すれば3倍の5.4合に相当する。
まあ、女の場合は3石なので平均し4石相当と考えればよい。
つまり前述の村松喜兵衛20石5人扶持は知行40石に匹敵する。

給金取は1両=1石と考えるとこれも切米と同じく3倍だから神崎与五郎の5両3人扶持は知行27石相当だ。
米の価格が変動相場だから一概には比較できないけどね。
この下級藩士が12名おり、うち1名の寺坂吉右衛門のみが3両2分2人扶持(知行になおして17石相当)の足軽だ。
加賀前田藩の足軽が切米20〜25俵(知行20〜25石に相当)だから無難な家禄と言えよう。

おっと堀部弥兵衛が20石取になってるけど、これは元300石取だったのが隠居料として与えられているので下級藩士や足軽ではない。

[3046] 家臣団(その8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/18(Sun) 20:25
それでは折角、東北地方に話が進んだので今回は東北の雄である伊達家仙台藩の解説をするとしよう。
なにしろ東北地方の藩が抱える問題は近世/近代の日本全体に重大な影響を及ぼしており現代でもまだ継続している。
その問題とは・・・
そう、米問題である。

米。
この主食でありアルコール原料であり基本通貨ですらあった偉大な農産物は日本全土(九州南部などの一部地域を除く)で消費され生産地も日本全土に広がっていたが東北地方は生産量が群を抜いて多かった反面、冷害などの自然災害で大きな打撃を受ける脆さも併せ持っていたのである。
厄介な事に米が持つ経済的価値がそれに拍車をかけた。

米の価格は変動相場であり全国に於ける毎年の生産量が平均的米価を決定した。
つまり毎年1万石の収穫があったとしてもそれが2万両に売れる年もあれば5千両にしかならない年もあったのである。
更に「全国的に不作で米価高騰」であったとしても自領の田が不作であるとは限らない。
だとすればボロ儲けのチャンスとなる。
まさに江戸時代の「米」はバクチであったのだ。

まず米の価格と通貨だけど基本的に金1両=銀60匁=銭4000文であり慶長11年(1606年)年の米価は銀20匁だった。
つまり1石=0.33両である。
でも米価は正保2年(1645)に銀30匁、万治元年(1658)に銀50匁5分と値上がりを続け以降は1石1両が基本となる。
でもね〜、基本とは言っても寛文11年(1671)には銀47匁、天和元年(1681)には銀77匁、貞亨元年(1684)には銀40匁、元禄9年(1696)には銀105匁と変動が著しいのだ。
凄まじいのは宝永4年(1707)で火山は噴火するわ諸国で大地震が起こるわで銀120匁にまで暴騰した。
かと思うと享保3年(1718)には豊作で銀33匁まで米価は下落しそのまま安定期に入る。

ここで「ああ、これでみんな幸せに暮らせる様になったんだなあ」と安心しちゃいけないよ。
米の石高で収入を得る武士にとって米価が下落すると言うことは金銭収入が下落すると言う事なのだ。
田舎ならともかく、江戸の町じゃ金がなけりゃフンドシ1本買えやしない。
まあ、当初は農民から「全て現物で徴収」していた年貢は序々に一部金納や半々金納などに代わっていったけどね。
いずれにせよ米価の下落は武士と農民にとって面白い事ではない。
参勤交代や様々な公費負担で大名は痩せ衰えて行ったが旗本などの武士全般が困窮化していった要因として米相場の下落が大きく影響している。
(つまり給金取の下級武士は困らなかったわけだ)
しかし不作で飢饉が起こり一揆が発生するのも大変だし・・・
まあ、何にせよ米相場は政局に大きな影響を及ぼす。

さて、ここで飢饉が起きた時の事を考えてみよう。
名君たる者、飢饉に備えて米を蓄えて置かなくちゃならない。
「金に換えて置こうよ。飢饉が発生したらその金で米を買って配ればいいよ。米価が高いうちに売って金にしといた方が得だよ。」と考えてはならない。
だって飢饉の時は米価が暴騰してるじゃないか。
だから金を持っていてもちょっとしか買えないかも知れないよ。
「それなら米をたくさん蓄えときゃいいや。売るにしたって高値になるまで蓄えといた方が得だよ」なんてのも考えものだ。
だって新米ならちゃんと売れるけど古くなった米なんか商品価値なくなっちゃうよ。
よって売って金にする米と飢饉に備えた救荒米は別に考えなくちゃならない。

こうした米問題を抱えた伊達家は表高62万石56石4斗4升4合ながら宝暦6年の内高は101万石、人口80万人(1750年頃:武士人口17万)の大藩であった。
なお伊達家仙台藩の実際の収穫量は130万石くらいと言われている。
200万石や250万石と言う説もあるんだけど収穫量は変動するしね。
どの数字が本当なんだかちょっとわからないのがホンネだ。
さて仙台藩の武士人口だが元禄8年には人口82万人に対して武士人口20万人で24%に増え享保2年には人口が87万人に達しピークを迎える。

ところが・・・
飢饉が発生した天明6年には人口60万人、武士人口13万人で20%にまで落ち込んでしまうのだ。
ちなみに明治2年の武士人口は33128戸で172239人である。
他藩と比べとてつもなく武士人口が多い事がお判りいただけよう。
この武士人口を支えたのが「仙台藩の田んぼ」なのだ。
(いよいよ次は赤穂浪士に戻るぞ)

[3045] 家臣団(その7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/17(Sat) 22:46
米沢藩上杉家は謙信の頃、越後にいたが豊臣政権下で会津120万石に移封され徳川幕府成立と共に米沢30万石へ減封、更に寛文4年(1664年)には15万石(内高28万石)に減封された可哀想な大名である。
そしてなんと、上杉家は120万石から15万石へと1/8にも小さくなったのに家臣のリストラ(「召し放ち」と言う)を積極的にしなかったのだ。
これを安易に美談と言うなかれ。
どういう手段をとったかと言うと家臣の家禄を平均的に削減したのは当然として他藩なら世襲でない足軽を世襲化して、そこに家禄の少なくなった家臣を組み込んだのである。
よって米沢藩の足軽(卒族)は他藩の士族とほぼ同様だといえよう。

さて、米沢藩の家臣団だが15万石減封前の正保4年(1647年)は6653戸だった。
これが減封後の寛文9年(1669年)になると5161戸になっている。
なんと表高が半減したのに家臣団は13%しか減ってないのだ。
更に時代が下った享保10年(1725年)でも4912戸だから米沢藩の動員力はほぼ5000人と考えてよい。
ちなみに15万石の軍役規定は士分843人、足軽1056人、その他1026人の合計2925人である。
こうして見ると軍役規定の2倍は越えておらず「なんだ長州藩と同程度じゃないか。」と思えてくる。

と、こ、ろ、が!
人口に対する武士人口の比率が全然違うのだ。
長州藩では明治2年(1869年)の人口565368人に対し武士人口48284人で8.5%だったが米沢藩は文久2年(1862年)の人口129003人に対し武士人口32036人で25%にもなる。
「なぜ?」と思うでしょ。
答えは「1戸あたりの人数」にある。
長州藩の明治2年13366戸(1戸あたり3.6人)に対し米沢藩は明治元年で6733戸(1戸あたり4.7人)なのだ。
つまり「1戸あたり人数」が大きく違うのだがここで上記の「足軽の世襲」が大きく絡んでくる。

長州藩は「1戸あたり3.6人」だけどこれを「世襲化された士族」と「世襲化されていない卒族」(つまり足軽)に細分化してみよう。
士族が3000戸で11589人(1戸あたり3.8人)、卒族が3991戸で10262人(2.6人)、陪臣が6157戸で25487人(4.1人)、郷士(医者などが主体で薩摩藩の郷士とは全く違うから注意)が218戸で910人(1戸あたり4.2人)となる。
世襲化されていない卒族は独身が多く、結婚しても子供のない場合が多いのだ。
米沢藩は家臣団を足軽まで世襲化(元は士分だった家臣を足軽化したと言った方が正しいが)した為、動員兵力に比べ武士人口が多いのが特徴と言えよう。

米沢藩の人口(武士人口:比率)は元禄5年(1692年)が133259人(31173人:23%)、安永5年(1776年)が121730人(24061人:20%)、寛政3年(1791年)が99119人(不明)、天保11年(1840年)が112968人(25608人:22%)、嘉永3年(1850年)が120638人(28115人:23%)だった。
薩摩藩の様に郷士とすれば労働力としても期待できるが多数の「小禄だかとりあえず武士」を少数の農民が支えるとなると困窮するのは目に見えている。
この状況下でなんとか財政を健全化したから鷹山は傑物なのだ。

さて・・・
参考までに親藩だった松平家会津藩(表高23万石、幕末の内高40万石)の家臣団について記しておこう。
享保17年(1732年)の人口196125人に対して武士人口は14239人で7%だった。
また世襲化を極端に嫌った例としてやはり親藩の徳川家尾張藩などの例がある。
ここでは「能力給」で藩主や成瀬家(犬山城主3万5千石)、や竹腰家(今尾城主3万石)、渡辺家(1万4千石)、志水家(1万石)、石河家(1万石)など重臣8家を除き禄高が大きく変動した。
重臣であっても慶長年間には1万石であった寺尾家は寛文年間には千石になり4千石の山下家は150石に減封されている。
その反面、星野織部の様に13両3人扶持から5千石にまで出世したケースもあり波乱万丈であった。
(ああ、また赤穂浪士から離れてしまった・・・)

[3044] 家臣団(その6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/16(Fri) 19:13
それじゃ今日は長州藩だ。
関ヶ原で西軍につき江戸時代を苦心惨憺で過ごした点では薩摩藩と同じだが家臣団の編成については真逆の方向へ進んだのが特徴と言えよう。
表高は37万石で薩摩藩の半分にも満たない。

ラッキー!
これなら軍役が少なくて済む。
元が120万石だったのが減封されたから余剰家臣の再編がキモだったがこれも帰農してくれる面々がいたので何とかなった。
それに・・・
37万石とは言え元々、内高は慶長年間で52万石もあり元和9年には66万石、1687年には82万石、宝暦13年には86万石と増え幕末には推定100万石となっていたらしい。
人口の方は元禄7年が335567人で武士人口は54295人(16%)、寛政4年は人口476505人で武士人口44349人(9%)、明治2年は人口565368人で武士人口48284人(8.5%)だった。
ねっ、どんどん人口に対する武士人口の比率が増えて行った薩摩藩と逆でしょ?

つまり長州藩は経済力を重視して藩政を進めていったのだ。
とは言え軍役規定ぎりぎりまで武士を減らした訳ではない。
36万石の軍役規定は士分2024人、足軽2535人、その他2463人の合計7022人だけど明治2年での武士人口48284人は13366戸(1戸あたり3.6人)で構成されており軍役規定の2倍近い動員が可能だった。
それでもまあ、薩摩藩よりはずっと少ない。
だから戊辰戦争にあたり長州藩は武士人口以外からも兵を募って奇兵隊などを編成し新政府になってからは大村益次郎が主導して国民皆兵による徴兵制の導入を図ったのだ。

一方、薩摩藩は武士人口だけで充分な動員が可能だったし「軍隊は武士人口の貴重な受け皿」としての見方が強かったので徴兵制の導入に対しては「冗談じゃない!」と受け止めたのである。
よって・・・
西南戦争は勃発した。

次は・・・
そうね〜、関ヶ原でとんでもない目にあった北国の雄である上杉家米沢藩に移ろうか?

(おっ、なんだか少し赤穂浪士に近づいてきた気がするぞ?)

[3043] 家臣団(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/15(Thu) 23:19
さて、薩摩藩。
ここは凄いよ。
まず表高は77万石だが内高は当初、35万石くらいに過ぎなかった。
いずれにせよ、屈指の貧乏藩である事は間違いない。
この収入で77万石の軍役を整えなくちゃならないんだからね。

77万石の軍役は士分4324人、足軽5421人、その他5267人の計15012人に及ぶ。
それでは薩摩藩にどれだけの武士人口がいたかと言うと宝永3年の場合、士分12万6000人、足軽含めると17万人で全人口45万に対し38%を占めた。
異常でしょ?
17万人なら1戸を6人と換算すると約3万人の兵力となり軍役規定の2倍にもなる。
なんでそんな事が可能なのだろうか?
貧乏なのに?

これにはカラクリがあるのだ。
収益が少ないのに藩士を増やしたい場合・・・
そう、1人当りの禄高を減らせばよい。
加賀藩前田家の場合、足軽は20〜25俵(20〜25石相当)だったけね。
薩摩藩の場合はと言うと・・・
薩摩藩士には無高と高持の2種類があるのだが無高とは家禄が無いのだ。
つまり俸禄が全く支給されないので農民と全く変わらないのである。
これに対し高持は家禄があるのだが・・・
城外士はとんでもなく少ない場合(城下士も多くはないが)が多い。
薩摩の伊作には藩士567人が存在したが無高が245人で高持であっても227人は1石以下であった。
つまり1石以下と無高を合計すると472人で全体の83%にも達する。
これらが薩摩の郷士であって半農半士(殆ど農民の気もする)なのである。

なお薩摩藩は色々と努力して幕末には内高が86万石にもなったらしい。
この推移は薩摩の人口でもうかがえる。
農民がいなくちゃ米は生産できないし、農民が多数存在すると言う事は米をそれだけ消費すると言う事なので人口の推移は=石高の推移なのだ。
薩摩藩の人口(琉球など島嶼部を除く)は寛永13年(1636)に30万人だったが延宝5年(1677)には38万人となり宝永3年は45万人、明和9年は63万人、明治4年には72万人に増加している。
つまり2.4倍だ。
内高は35万石から86万石に増加しており、これは2.45倍。
ねっ、妥当でしょ。

それでは経済力が上がったから藩士の暮らしが楽になったのだろうか?
いや、ならない。
藩士の数が更に増えたのだ。
明治初期の薩摩藩人口を72万人と前述したが、武士人口は34万人でなんと47%にも及んでいた。
まあ幕末から明治にかけての薩摩藩士族数を45042戸とする資料や43119戸とする資料もあるので実際(武士人口の定義に相違があるので)はもうちょっと少ないかも知れないが膨大な数である事は間違いない。
これが後述する長州藩との相違であり国民皆兵制の導入から征韓論、西南戦争へと続く大騒乱の発火点となるのである。

(なかなか赤穂浪士の話に戻らないなあ・・・)

[3042] 家臣団(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/14(Wed) 19:14
諸大名は表高の軍役規定に従って「一定数以上の家臣団」を編成しなければならないと先に記した。
でもそれ以上に多くの家臣を抱えてはならないと言う制限はないんだ。
では何ゆえ「それ以上に多くの家臣」を抱える必要があるのだろうか?

理由は大きく分けて3つある。
一つは減封された場合で「これまでの家臣を簡単にリストラできない場合」だ。
これには120万石から15万石に厳封された米沢藩上杉家などが相当する。
もうひとつは「一朝事あらば幕府を相手に干戈を交える想定の場合」だ。
これに相当するのは長州藩や薩摩藩。
そして最後は「農地の拡張などとてつもなく藩の財政が豊かになり多くの家臣を召抱えても困らない場合」だ。
ま、これに相当するのはあんまりないけど、とりあえず可能性として挙げておく。

さて、どこから始めようか?
まずは当たりさわりの無い所から始めるとするか。
では最初に外様の優等生、加賀藩前田家だ。
ここは表高102万石で内高は120万石とも134万石とも言われている。
物語藩史6巻によると1721年には人口約70万人で武士人口は67302人だったらしい。
つまり人口の約10%だ。

もっとも武士人口と一口に言っても老人や子供、女子も含むので軍事組織の要員として期待出来るのは戸主だけに過ぎない。
ちなみに明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸であった。
まあ1戸につき約4人なので妥当と言えよう。
前に慶安の軍役規定で5万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名と記述したが102万石の場合、士分5733人、足軽7181人、その他6977人を要する。
よって士分は23%の超過、卒分は33%の不足となるが「その他」の大半を占める小荷駄隊や鎧持ち、槍持ちなどは臨時雇いの農民で充分間に合う。
従ってこの数字は非常に健全なのだ。
なお加賀藩に於ける足軽の家禄は切米で20ないし25俵(20から25石取相当)で相当に待遇は良く士分に近い存在だったらしい。
他藩と違って1本差だけどね。

次はと・・・
一番ひでえ所を書くとするか・・・
勿論、薩摩藩だ。
おっと、時間がなくなっちまった。
それではまた今度。

[3041] Re:[3040] [3039] [3037] [3036] 武士のお給料? 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/13(Tue) 23:46
> 役付きならまだしも、無役の旗本は太平二百五十年の内に軍事組織や税務署どころか「調理師兼接待業」に変化していったらしい。

無役の旗本、御家人の内職から江戸名物(傘、朝顔、金魚等)が一般化したような話はきいたことがありましたが・・・・・

そんなこともあったのですね?
勉強になりました!

[3040] Re:[3039] [3037] [3036] 武士のお給料? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/13(Tue) 07:15
> ところが、勘定方の同僚や上司からは、「武芸などして、公務(事務?)にさしさわったらどうする!」と非難?もしくは忠告?をうけていたようですから、幕府役人のなかでも、刀は差していても「本来業務」は「役人」であって、「軍人」ではないという感覚ああったかもしれません。

「海舟座談」(岩波書店発行の勝海舟のインタビュー本)によると「小身旗本は器用で何でも出来た物だ。大身旗本が茶屋などで遊興したら処罰されるから酒の相手に小身旗本を呼ぶのだ。すると小身旗本は料理をする、三味線をひく、踊りもする、役者の声色もやる、遂には娘も連れてくるという様にする。着物でもお古を頂戴するとそれを今度は着てくる。すると来年も着物をやらなければならず嫁にも娘にもまた仕送るようになる。小身旗本はこういう得意先が3家もあればどんな小禄でもちゃんと立派に暮らしが立った物だ。」(読みにくいので一部は意訳)とある。
役付きならまだしも、無役の旗本は太平二百五十年の内に軍事組織や税務署どころか「調理師兼接待業」に変化していったらしい。

[3039] Re:[3037] [3036] 武士のお給料? 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/12(Mon) 22:51
> 寛政期に於ける旗本の所領合計は約320万石でそのうち262万石が地方知行、60万石が蔵米知行(切米とも言う)だった。
> つまり動員力の80%以上が地方知行なのだ。
> ただし地方知行であっても小規模な場合は逐次、代官による徴税に変わっていった。
> とは言え1000石取以上の大身旗本の所領合計が約195万石なので過半数が地方知行である。

この件につて、こちらの勉強不足でした・・・・
ご指導ありがとうございます。

> 武士団には軍事組織の一面と税務署の一面があるが「本来任務」がどちいにあるかが重要だ。
> いつの間にか変わっちゃったんだろうね。
> 特に関が原勝ち組の親藩と譜代は。
> 島原の乱からペリー来寇まで200年以上の歳月がながれているんだから、いきなり「狼がきたぞ!」と言われたっても迅速に対応はできないよ。

たしかに、幕臣の中で「本来任務」の観念あ変わったと思います。
幕末の対ロシア外交や財政等で活躍した川路聖謨は大分の下級武士から幕臣に養子に出され、17歳で勘定方(今の税務署+家庭裁判所?)に採用される俊英でしたが、武芸のほうも力を入れ、木刀の素振りや槍の練習など熱心だったようです。
ところが、勘定方の同僚や上司からは、「武芸などして、公務(事務?)にさしさわったらどうする!」と非難?もしくは忠告?をうけていたようですから、幕府役人のなかでも、刀は差していても「本来業務」は「役人」であって、「軍人」ではないという感覚ああったかもしれません。

[3038] 無題 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/11(Sun) 09:09
なお狭義には地方知行のみを「知行取」と言う。
文字数が長いと面倒なので本掲示板で「知行」と言う場合には地方知行をさす事とする。

[3037] Re:[3036] 武士のお給料? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/11(Sun) 08:51
> 江戸時代における家臣団のお給料?(石高)の支払いには大きく分けて、地方知行(じがたちぎょう)と蔵米知行(くらまえちぎょう)があったようです

寛政期に於ける旗本の所領合計は約320万石でそのうち262万石が地方知行、60万石が蔵米知行(切米とも言う)だった。
つまり動員力の80%以上が地方知行なのだ。
ただし地方知行であっても小規模な場合は逐次、代官による徴税に変わっていった。
とは言え1000石取以上の大身旗本の所領合計が約195万石なので過半数が地方知行である。

>幕府の旗本+御家人は約2万ですが幕府の建前上、看板は「旗本八万騎」であります、これは個々の武士が複数の人員を動員できる地方知行システムの前提が変わったため、幕府の軍事的建前が機能人員的に機能しなくなったと考えます。

過半数が地方知行なんだから違うのでは?

> また、武士=軍事専門家としての水準低下もあります。

こっちの方が大きいね。
武士団には軍事組織の一面と税務署の一面があるが「本来任務」がどちいにあるかが重要だ。
いつの間にか変わっちゃったんだろうね。
特に関が原勝ち組の親藩と譜代は。
島原の乱からペリー来寇まで200年以上の歳月がながれているんだから、いきなり「狼がきたぞ!」と言われたっても迅速に対応はできないよ。

>薩摩等のほうが「あやしい」と思っていたかも知れません。

薩摩などの外様大藩については今、まとめている所だ。
後日、アップするね。

[3036] 武士のお給料? 投稿者:c物品 投稿日:2012/11/10(Sat) 21:05
阿部さんの話に割り込んで、すいません・・・・

私は子供のころ慰問に思っていたことは、「なぜ、幕末に新鮮組等が、活躍できたか?」と同時に「なぜ、幕末の幕府の危機に旗本8万騎は機能しなかったのか?」でしたが、これについて給与から見た、私見を述べたいと思います。


江戸時代における家臣団のお給料?(石高)の支払いには大きく分けて、地方知行(じがたちぎょう)と蔵米知行(くらまえちぎょう)があったようです(各知行の位置づけ等についてはいくつかの学説があるそうで、わたくしも細部はわかりませんが・・・・)

地方知行は、おおざっぱにいえば、石高を土地+住民込で支配し、その土地から収穫される収入から一定率で課税したのが武士の収入になるシステムで、平時における行政権の行使や有事の際には、土地の資源(資材、土地、資産、住民等)を軍事力に転換できるメリットがある反面、平時から行政、徴税機関を常設するとともに、場合によっては、勧農や防災、災害時の住民保護(避難所、炊き出し等)の組織や領内ネットワークを構築する必要があります。
このため、これが適用できるのは、大名もしくは大きな旗本など限られた武士さ対象となります。
今の企業に例えればイメージ的には、経営陣が自社株式を持っている状態に近いと考えます。株式が多ければ経営に対する発言権も大きくなる半面、経営がうまくいかなくなれば、ダイレクトに自分の財産減になるリスクもあります。(自社株は大名領地と異なり、売却可能でありますが・・・・・)

蔵米知行は幕府や藩が自らの徴税機関から集めた収入を、対象となる武士に指定された石高で支給するシステムです。幕府の旗本・御家人の場合、天領から代官が集めた米を現物(米)もしくは幕府が米を現金化して、石高相当の現金で支給する形になります。
この形になれば、個々の武士の徴税や行政等の仕事をしない(その方面の専門家である代官等が代行)ので、自分たちの専門業務に労力を集中できる反面、有事に石高相当の動員に支障があります、たとえば一番下のレベルでも草履取りくらいは必要になるにもかかわらず、口入業市場?(今の派遣業界?)くらいしか人員確保のめどがない等、の問題があります。幕府の旗本+御家人は約2万ですが幕府の建前上、看板は「旗本八万騎」であります、これは個々の武士が複数の人員を動員できる地方知行システムの前提が変わったため、幕府の軍事的建前が機能人員的に機能しなくなったと考えます。
また、武士=軍事専門家としての水準低下もあります。「元禄畳奉行の日記」「武士の家計簿」等の本の記録にみられるように、江戸中期以降の下級武士は少ない職域(職務につけば手当が出る、というか手当がないと生活困難)を多数の武士が奪い合っていた状態でしたので、職にありつくために武芸や軍事研究よりも算術や習字等に熱心になり、あぶれた武士もよほど克己心がないと、生活苦のための内職に追われてしまい軍事研究どころでない、という状態になり、有事の際にたとえ人員を動員できても、指揮すべき武士が、軍事的指揮官として不適切な状態であり、幕府の旗本は江戸後期には戦闘集団の体をなしていない可能性もあったと思います。

これに関しては、薩摩藩等の例外を除けば諸大名も似たり寄ったりで、ロシアの蝦夷地出没に備え、江戸後期の蝦夷地防備を担当したのは南部藩と津軽藩でしたが、津軽藩は寒冷と野菜不足のため病人続出(このとき、薬として飲ませたコーヒーが、下級武士や庶民レベルでは初めてではないかという説があります)とか、南部のようにレザノフ事件で、ぼろ負け(間宮林蔵のはなしだと、南部藩の武士は兜のかぶり方もその場でレクチャーされるレベル)していましたからとても部隊として体をなしておりませんでしたが、当時の幕府や大名から見れば「それでいい」ので、薩摩等のほうが「あやしい」と思っていたかも知れません。

[3035] 家臣団(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/03(Sat) 23:00
まず最初に「石高」だがこれは米の量を表す。
1石は10斗、1斗は10升、1升は10合で1升の米は1.5kgだ。
つまり1石は150kgであり「平均して1人が1年に消費する米の量」とされている。

まあ明治元年の日本の総石高が3043万石(米以外も含む)で人口が約3000万人だから大体の目安とはなろう。
ただしこれだと1石=1000合だから365で割ると1日当たり2.7合になる。
当時の感覚では「成人男子が1日5合、成人女子は3合を基準」としていたので平均4合からするとだいぶ少ない。
児童人口や老人も多いのでそれも合算すれば2.7合なのかも知れないし「貧乏人は麦(あと粟や稗)を食え」って事なのかも知れない。
昔はそう思われてきた。
だけど最近ではちょっと違ってきた。
額面上の総石高が約3000万石でも「実際に生産された米」はもっと多く、1人当たりの平均消費は2.7合よりずっと多いと考えられることが主流となってきたのだ。

なお100石取の武士が100×150kgで米15tを貰えると言うとそうも行かない。
武士の家禄には知行取と蔵米取と給金取と扶持取がある。
これらのうち蔵米取と給金取と扶持取は天引きなしで貰えるが知行の石高は「農民の取り分も含めた石高」なので実際に貰えるのは40%なのだ。

1石(150kg)の40%は1俵(60kg)である。
残りの90kgが農民の取り分だ。
つまり100石取の武士1名が存在すると言う事は100石の収益が上がる田畑があり、武士とその家族、家臣以外に「田畑を耕作する農民」が存在している。
それでは「農民1人は1年にどれだけの米を生産」できるか?
これはまあ色々な資料があり、土地の豊貧、その年の気候などで大きく変化するので一概には言えないのだが、3000万人の人口のうち「武士と僧侶で7%、商人や職人が13%、農民が80%」と言う数字などをよく見かける。
でもまあ、半農の郷士もいるし農民兼職人や農民兼商人も一杯いるから実際のところはよく判ってないのだ。
駕篭かきや馬方など運輸業者もたくさんいるしね。

それはさておき、タテマエでは日本に3000万人の人が住み3000万石の米が生産され人口の80%が農民なら農民1人当たり1.25石の米を生産する事になる。
100石の領地なら80人だ。
だけど前述したように実際はそうではない。
「日本の総石高3043万石」と言うのは額面上の数量(表高)であり実際の生産量(内高)はずっと多かった。
江戸開府当初、表高と内高は等しかったが新田開発や農業技術の改良によって生産量がどんどん増大したからだ。

でも米の生産量が増えたからって加賀100万石が134万石になったりはしない。
とりあえず100万石のままだ。
基本的に武士の数は軍役規定によって決定されるし軍役規定の基礎となる石高がコロコロ変わっちゃまずいからね。
よって表高は変わらないのである。
更に「実際に収穫される米の量」が内高と等しいとは限らなかった。
理由はふたつある。
年貢は「内高に税率を掛けた量」で取られるのだから農民としては年貢を取られたくないので内高より「実際に収穫される米の量」の方が多いのが好ましいのだ。

更に「実際に収穫される米の量」は気候によっても大きく変動する。
基本的に農民の手には内高で規定されたより多い米が残る。
飢饉さえ来なければね。
だが飢饉になり藩主が無慈悲や無思慮であったならとんでもない事になるのだ。

おっと、赤穂浪士たちの家禄へ話が入る前に夜が更けてしまった。
続きはまた・・・

[3034] ついに 投稿者:よし 投稿日:2012/11/03(Sat) 18:44
氷山空母登場ですか!
通常の艦艇とデータのつくりが違うのか、
それともデータのつくりは同じでバカみたいな規模をもっているのか、
対氷山空母の切り札は存在するのか、
状況次第でキャンペーンシナリオにも登場するのか。
それらが明らかになり、さらにほぼ四半世紀ぶりに
氷山空母と戦える冬を楽しみに待ちたいと思います。

[3033] 氷山空母 投稿者:ともも 投稿日:2012/11/03(Sat) 08:04
氷山空母が登場ではなくて、シナリオというのがすごく気になりますね。
いったいどんなシナリオになるんだろう。

[3032] 無題 投稿者:多聞丸 投稿日:2012/11/02(Fri) 14:38
取り潰し直後の赤穂藩士は篭城とか仇討ちの主戦論が沢山いたのに
時間がたつと脱落者がどんどん増えて「神文返し」でさらに絞り込んでますね。
本当にやる気のある人を選抜していくのが実に巧妙ですね。
私は戦国以来の上杉贔屓なので討ち入り事件は大絶賛派には組しないのですけど、それでも凄いですね。

そういえば上杉家は領地が激減しても藩士のリストラをほとんど行わずに召抱え続け破産寸前までになってますよね。

「氷山空母」シナリオ楽しみです。どんなシナリオか気になります!

[3031] お知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2012/11/02(Fri) 14:10
現在、ウインタープレゼント企画として『太平洋戦記3』特別シナリオ「氷山空母」を制作しております。

どうぞご期待下さい。

[3030] 家臣団(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/11/01(Thu) 19:36
時は元禄14年12月14日、突如として響き渡る山鹿流陣太鼓も高らかに、四十七士は一糸乱れず吉良邸に押し寄せた〜。
御存知、忠臣蔵の山場である。
さて・・・

皆さんも御存知と思うが改易された時、赤穂藩の藩士は47人じゃなかったんだよね。
なんと士分だけで300余名いた。
つまり討ち入りに参加したのはごく一部に過ぎなかったのだ。
おまけに47人のうち11人は部屋住(家臣の家族であり直接の臣下ではない)などの無禄者なので家臣での参加は36名となる。
嗚呼、忠義の薄さ紙の如し・・・
ここで赤穂浅野藩5万3千石の家臣団を上から拾って見よう。
まず筆頭に浅野大学の3千石がいるけど、これは世子(跡継ぎ)なので家臣といえないからパス。
実質的な筆頭は言わずと知れた城代家老大石内蔵助の1500石。
ついで1000石の岡林と奥野、800石の藤井、650石の安井と大野、500石の大木などが続く。
でもこれら上級家臣の中で討ち入りに参加したのは大石内蔵助だけなのだ。
給料で忠義は買えない事の好例と言えるだろうね。
次に四十七士の禄高を見るとしよう。
おっと、電話が鳴った。
話はまたこの次。

[3029] 家臣団(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/31(Wed) 20:22
もし君が5万石の大名だったとしよう。
家臣団をどう編成する?
君が剛勇無双の勇士なら「家臣などいらん!この斬馬刀さえあれば充分じゃ、敵が幾万あろうとも全てなで斬りにしてくれるわ、ガッハッハ!」と言って「5万石の収益を全て金に換えて酒と女を連れてこい!」とカブくのも良いだろう。

だけど謙虚に「僕の取り分は100石でいいよ。4万9900石取りで優秀な人物を雇うから、その人に全部まかせるよ。」ってのもアリかも知れない。
戦国時代で君の主君がそれを認めてくれればね。

でも・・・
徳川幕府の時代ではそんなのはどっちも×だ。
なにしろ軍役規定と言うのがあって大名は石高に応じた兵力を幕府からの命令に応じて動員しなくてはならないのだ。

まあ、軍役規定は徳川幕府成立前からあったんだけど制度としては緩やかなもんだったし各戦国大名や時代に応じて百石につき4人とか5人とか随分と差があった。
これが徳川幕府になると百石につき約2人と人数は少なくなるんだけど規定は凄まじく細かくなったのである。
もしも4万9900石で有能な人士を雇ったら「ああそう、藩政を司るつもりはないのね。だったらその有能な人士を大名に取り立てるからいいや。」って改易されるだろうし家臣なしって事にしたら「そんな変な仕置き(政治の事)する奴に領国は任せられん。」と言うことでやはり改易されてしまうだろう。
だったら「百石につき2人なら5万石だと千人か。だったら給料の安い足軽千人雇えばいいや。浮いた人件費が自分でウハウハ使っちゃおう♪って考えてもそうは問屋が卸さない。

え〜と慶安での5万石の兵力は・・・
家老1(その従者12)、上級家臣13(その従者が各7)、馬上56、若党56、侍40、小頭12、弓足軽45、鉄砲足軽200、槍足軽107、旗指足軽30、その他342の合計1005名となる。
ではこれら家臣団を永年雇用と臨時雇いに分けて見よう。
まずその他だけど、これに属する大半は中間、小者などの臨時雇いだ。
これらは必要に応じて雇用されるので家臣とは言いがたく召抱えるといったケースではなく二本差しでもない。
次に「その他と足軽以外」だけどこれは一般に士分と言われる。
慶安の軍役規定だと281人だ。
当然、刀は2本差しているし馬に乗ってる者もいる。
最後に足軽は2本差ながら士分ではなくグレーな所だ。
まあ、藩によってはこれに「郷士」なんてのが混じり、この郷士の扱いが「藩によってマチマチ」なので紛糾を極めるのだが本稿ではあえて割愛する。

さて・・・
5万石の藩の人員構成と言えば忠臣蔵で有名な赤穂藩が約5万なので次回はこれに沿って話しを進める事にしよう。

[3028] 戦国映画 投稿者:koki 投稿日:2012/10/31(Wed) 00:00
歴史時代で盛り上がってますが、自分は来月から公開される「のぼうの城」昨年公開予定だった映画。震災の影響で1年遅れで公開されます。今から楽しみにしています。

[3027] Re:[3026] まとめレス 投稿者:c物品 投稿日:2012/10/30(Tue) 23:36
> それに・・・
> 江戸幕府に於いては「禄が多ければ必ずしも豊か」とは限らない。
> 大藩だと出費も多いからね。

たしかに江戸時代は大藩=富裕でないケースが多いと思います・・・・

加賀前田家のように、藩財政が豊かだと幕府に睨まれるため、着物や陶器関係に力を入れて「うちは、華美に流れた軟弱者ですから、幕府に謀反は起こしません」モードで運営するところや、伊達藩のように、外様大名としての格式No2の地位(No1は前田家)を島津家と争うため、幕府の土木等の「お手伝い」を無理に引き受けたり・・・・などの例は多いようです。
特に江戸時代、大名間では戦争こそありませんでしたが、ライバルの大名同志で、相手より高い朝廷の官職を得たい(朝廷に官職を推薦するのは幕府ですから、幕府の「お手伝い」への積極参加等で忠誠心を見せる等)とか、大名行列(石高や格式で引き連れる人数や馬、武器の数などが決められているようで、最大の動員例は前田家は約4500人、最少は1万石の大名で36人程度)で使う駕籠(かご)の格式を上げたいとか、行列で引き連れる槍などの数を増やしたい等、現代人から見れば「見栄」に過ぎないことに献金や「お手伝い」等莫大な経費が掛かったようです。
(例外的なのは南部家で、本来20万石の藩ですが、50万石相当の馬を引き連れる権利があったようです、これは飢饉が多い貧乏藩に対する救済策のようで、南部駒で有名な本国を出発するときは50万石分の馬を行列に連れてきて、江戸で30万石分の馬を売却し、残りで帰ることが認められていたようです。)
また、大きな大名ほど貧乏していたのは、江戸屋敷に武士団を多数抱えるため経費がかさむ点もあるようです。何しろ、本国にいるのであれば、行政職員として仕えても、江戸にいる限り故郷の仕送りを消費するだけですから(まあ、江戸で情報収集することで幕府の「お手伝い」情報を入手して、これをいかに避けるか?という任務もありますが・・・)
これは、当時でも無駄と感じた人がいて、倹約で有名な8代将軍吉宗に意見した人もいたようでしたが、吉宗は「大きいほど、人がいるもの」と対応が難しいと回答したようです、リストラしきれない理由としては、有事に備え兵力を蓄える面と、「某大名がわが屋敷にあいさつに来たとき家来が100人いた、うちも同じ家格だから・・・・」という面があるのを吉宗自身が知っていたから、とう話もあるようです。
倹約といえば、大きい藩でありませんが、鯖江藩の殿様は藩財政改革のため質素倹約のため、食事はと豆腐とおからだけ5年間食べて、栄養失調で死んだ例もあるようですから・・・
まさに「殿様もつらいよ!」ですね?

[3026] まとめレス 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/30(Tue) 08:51
>家臣に高給を出さなかったといえば、上杉謙信も高給を出していないような気がします、川中島の合戦の功労も「血染めの感状」で有名ですが、誰かが高禄になったようなエピソードはなかったような気がします、謙信のカリスマだからなんとかなったでしょうが、並みの大名なら、家臣団の不満爆発でえらいことになったのかもしれません。

だって「敵を滅ぼして大規模な領土拡張に成功した訳」じゃなく「川中島の戦いは講談に語られるほどの激戦であっても所詮は引き分けに過ぎない」のだから家臣に恩賞を与える事なんかできないじゃない。
家臣だって「無い袖を振れ」とは言わないよ。
愛想をつかして「お暇を頂きます」って出てっちゃうケースはあるかも知れないけどさ。
でもまあ、雪国の人は「給料の多寡で仕える相手を決めること」はあんまりしないと思うよ。

>徳川幕府は、士農工商の身分制度といい、権力と経済力を分離する方針だったのでしょうか。

士農工商の身分制度で経済力を武士から町人に移し親藩、譜代、外様の大名制度で権力を譜代に集中させたんだね。
そして譜代の家禄を小さく抑えた所に三者鼎立の妙味があるんだ。
親藩:将軍と血脈があるので謀反を起こす可能性が少ない。
譜代:幕政に参画できるが禄は少なく独力で謀反は起こせない。
外様:高禄の場合もあるが幕政に参画できず権力はない。

>でも小藩の大老が大藩に意見してよく従ったものですね。

だって大老や老中に逆らったら「長良川の治水工事」や「勅使饗応役」など命ぜられたり「国替え」(引越し貧乏は嫌なものだ)させられたりしちゃうよ。
そりゃ1対1でイクサしたら大禄の外様の方が強いかも知れないけど幕府全部を相手にするとなったらとても敵いやしない。
でも大老や老中だって好き放題できる訳じゃないよ。
恨みを買った大老が江戸城内で切り殺されちゃった例もあるんだ。
それに・・・
江戸幕府に於いては「禄が多ければ必ずしも豊か」とは限らない。
大藩だと出費も多いからね。

[3025] Re:[3021] [3020] [3019] [3018] [3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:c物品 投稿日:2012/10/29(Mon) 23:40
> 徳川政権は豊臣政権からいろんなものを学んだんじゃいかと思うよ。
お話のとおり、秀吉と家康の考えは違うと思いますし、家康は秀吉を反面教師にしていたかもしれません。
意外な話では秀吉は天下取りのライバルとして家康を必ずしも高く評価していなかったようです。
秀吉は雑談で「私の後に天下を取るのは誰だ?」と家臣に質問したとき「家康」と答えた家臣に「あんなケチでは天下はとれない!」と断言していたようです。
 秀吉自身は尾張衆(福島等)や近江衆(石田等)に高給を与えたほか、諸大名の重臣を
高禄でスカウト?するのも得意技?のようでした(でも、成功したのは徳川家の石井数政くらいで、毛利の吉川元春や伊達の片倉小十郎は失敗していますから、成功率はイマイチと思いますが…・)
また、当時の出来物大名といわれた蒲生氏郷も徳川家臣団の薄給から家康を評価しなかったようです、氏郷自身は家臣に対して大盤振る舞いしすぎて、氏郷自体の生活費等がなくなり、家臣が貢いだ例もありますから、「高禄で家臣の士気を保つ」というのは、戦国時代はありがちだったのかもれません。
反面、家康といえばケチで有名のようで、のちの話ですが、トイレのあとの手をふくちり紙が風に飛ばされているのをアタフタ追いかけている姿を笑った諸大名に対して「わしはこうやって天下を取った!」と啖呵を切ったひとですから・・・・・・
 家臣に高給を出さなかったといえば、上杉謙信も高給を出していないような気がします、川中島の合戦の功労も「血染めの感状」で有名ですが、誰かが高禄になったようなエピソードはなかったような気がします、謙信のカリスマだからなんとかなったでしょうが、並みの大名なら、家臣団の不満爆発でえらいことになったのかもしれません。
 また、秀吉と家康の価値観の違いを示すエピソードとして、関白になった秀吉が大名を集め自分の骨董品ションを見せびらかし(家康が高価な骨董品を持っていないことは知られていましたが・・)
「それでは家康殿のコレクションは?」と話をふったとき、
「私は三河の田舎者で、殿下(秀吉)のような宝物はなにひとつもっていませんが、ただ、私のためにいつでも命を懸けて働く家臣が500人ほどいます、それが私の宝です」の意味の言葉で切り返した話があるようです。
 
当然、秀吉の影響を受けている三成も秀吉系に考えが近いようです。
このことが、いい人系?大谷吉継(真田幸村の義理の父(幸村の妻が吉継の娘))との対話エピソードにあるようです。
エピソード1 
三成が「三成に過ぎたるものは島左近と佐和山の城」と言われるほど立派な城の普請を吉継に自慢したところ、吉継から「大将は味方を集める徳の方が大事で、城普請など大したことはない」とバッサリやられたようです。
(個人的意見ですが、関ヶ原の敗因は、本来幕僚である三成が、不相応に大きな城や武将としても動こうとした中途半端さ?な点(三成本人は忠義心で徳川と戦うつもりでも、周りからは野心を疑われる・・・・明智光秀も居城は多層の天守閣をもつ立派なものあった例は当時の大名の記憶にあると思いますし・・・)が疑念を持たれたのでは?とも考えます、)
エピソード2
吉継は三成の家臣への給料のやり方について「お前のやり方は、金さえ出せば人は動くというようなやり方だ、人的配慮もしないと人心が離れるぞ!」とお小言をいったようです。

 こうみると、豊臣家が長持ちしなかったのは「お金ですべて買える!」のキャッチフレーズで有名?だった某IT社長の栄光と末路にも共通する今日的な問題のような気がします。

[3024] 聖教分離 投稿者:K-2 投稿日:2012/10/29(Mon) 21:33
逆に、徳川時代の老中職なんかは高禄の大名ではなれなかったようですね。
親父がよく言っていますが、金と権力と宗教、全部独占すると革命が起きる、と。
徳川幕府は、士農工商の身分制度といい、権力と経済力を分離する方針だったのでしょうか。

[3023] Re:[3021] [3020] [3019] [3018] [3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/29(Mon) 18:46
> 片桐が微禄なのではなく「石田以下を全て片桐レベルにしておく」のが正解だったんじゃないかと僕は思うよ。

江戸幕府の大老と比べると石田の20万石はそう高禄には見えないかも知れない。
でも大老ってのは常設されていた役職ではなく言わば名誉職だった。
よって実権を握っていたのは老中首座なんだけど権勢を誇った田沼意次で5万7千石、天保の改革で辣腕を振るった水野忠邦でも7万石程度に過ぎない。

これに比べ豊臣政権の奉行達は20万石の石田だけでなく浅野の22万石、増田の22万石、奉行に準じた行政官と言える小西の20万石、大谷の15万石(10万石は代官領だけどね)など高禄なのだ。
つまり「奉行」と言いながら実質的には戦国大名としての側面が強く江戸時代に於ける行政官とはだいぶ異なった存在と言えるだろうね。

[3022] 石川数正は引き抜かれましたね。 投稿者:多門丸 投稿日:2012/10/29(Mon) 18:12
譜代が少ない豊家は禄を多めにして求心力を維持しなければならなかったのに対し
三河武士主体の徳川家は薄給でも耐えたのかな?なんて思っておりましたが
大封でなくても幕閣になれると言ううまみもあったんですね。
でも小藩の大老が大藩に意見してよく従ったものですね。
上司より年上の部下とか、監督より実績や格上のベテラン選手とか扱いにくいみたいなものでしょうか;

[3021] Re:[3020] [3019] [3018] [3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/28(Sun) 19:24
> 逆に徳川が薄給なのかもしれません、何せ家康の懐刀である本多正信の処遇が豊臣系の窓際族?の片桐と同じ石高ですから・・・・・

徳川の場合、権能と領国支配を完全に分権化していたからね。
なにしろ徳川幕府では最高権力となった大老に就任した酒井、井伊、土井、堀田の4家のうち30万石の井伊を例外として除けば他は10万〜16万石にすぎないからね。
老中に至っては2万5千石からなれるし、それ以下であっても「老中格」に就任して幕閣に参与できるのだ。
これが徳川政権が長命を保った要因と言えるだろうね。

だから・・・
片桐が微禄なのではなく「石田以下を全て片桐レベルにしておく」のが正解だったんじゃないかと僕は思うよ。
まあ、陸自的に捉えれば「幹部にはラインとスタッフがありラインには兵力、スタッフには指揮機能を掌握する」といった感じかな?
1佐でも連隊長の1佐もいれば幕僚の1佐もいるでしょ?

石田が20万石近い所領をもつってのは「1佐なんだから司令部勤務の1佐でも直轄で1個大隊くらいの兵力を有している」ってイメージになる。
純然たる封建社会国家から中央集権国家(外様については封建社会のまんま)に移行する過渡期だからしょうがないけどさ。
徳川政権は豊臣政権からいろんなものを学んだんじゃいかと思うよ。

[3020] Re:[3019] [3018] [3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:c物品 投稿日:2012/10/27(Sat) 07:00
> まあ、双方の人材を巧みに活用して中央集権化していった所に豊臣政権の妙味と弱点があると言えるけどね。

お話のとおり、豊臣家には管理上難しい面があったと思います。
個人的独断と偏見で当時の豊臣や徳川等の大名の重臣を今の会社組織にイメージ化しますと
タイプA:営業系(福島正則、本多忠勝などのイメージ)
タイプB:経理、秘書系(石田三成、本多正信などのイメージ)
タイプC:企画系(直江兼続、吉川広家などのイメージ)
タイプD:棚ぼた?系(関ヶ原後の片桐且元などのイメージ) 
と考えています。
個人的に秀吉が革新的と思うのはその人事評価?です(大ざっぱな例ですが・・)
豊臣200万石 福島や加藤クラス:24万石、石田三成:19万石 片桐1.5万石
徳川260万石 四天王クラス:10万石 本多正信:1.5万石
毛利120万石 吉川広家12万石、安国寺6万石
上杉120万石 直江30万石

一般的に豊臣系は高給ですが、諸大名では評価が低いタイプBも高給なのが特徴で、タイプBも重視したことで、ほかの大名にはできなかった「位押し戦術」や「水攻め」に必要な人員、物資、資材の調達や運用ができたと思います。
(直江兼続が家内の石高から見ても極端に高給なのは、上杉家内でA,B,Cがフルにこなせるレアなキャラ(古いセンスのたとえで申し訳ありませんが「歌って踊れてコントもできるアイドル?的」)だからと思います。)
逆に徳川が薄給なのかもしれません、何せ家康の懐刀である本多正信の処遇が豊臣系の窓際族?の片桐と同じ石高ですから・・・・・
とは言っても、福島正則と石田三成はお互いの石高が不満(お互い相手がもらいすぎと非難)だったようですし、七本槍内部でももめていた(7人の石高の差)ようです、大名の家臣団の給料関係で一番もめているのが豊臣ですから、社員の立場ではもらえたほうが嬉しいはずの高給が、家内のもめごとの要因になるのであれば、給与とは難しいようです・・
まあ、たいていの大名家では、タイプAとタイプBは仲が悪いようですが、イケイケ系?の家風の豊臣家では秀吉の個人的カリスマ+一部宿老(秀長等)でかろうじておさえていたのが、かれらの死で抑えがなくなったのが豊臣政権の空中分解的衰退(その象徴が関ヶ原)と考えています。

個人的イメージでは、一番難しいのが片桐且元と考えます、片桐は石田三成と同期採用?で主業務もタイプB(会計系)が多いですが、タイプA的な七本槍の一員でもあったわけですから、もしかしたら片桐の自己評価は「俺は直江兼続のような「歌って踊れてコントもできるアイドル?」なのに、福島正則(尾張系:ねね殿)や石田三成(近江系:淀君)のような派閥のひいき(本人は近江出身ですが、淀君とは折り合いイマイチのようです) がないから窓際系?になっている、俺にもひいきがあれば同期の石田や福島のような大活躍できるのに・・・・」かもしれません。
タイプDの片桐の評価が難しいのは、彼には加藤や福島のような大軍を指揮した実績も、石田のような大政策を補佐した実績がありませんが、逆にやっていないため、「できなかった実績」もないことです。
 関ヶ原後石田三成等の5奉行がなくなり、豊臣家の重臣の立場がころがりこんだ?片桐ですが、家康のポチ?状態で歴史上の評判は悪いようです。
 たしかに家康は片桐を「豊臣家では評価が低いようだが、あなたがすごいことは私も認めている」とか「正信も片桐を見習え」とか、もちあげることで豊臣家内に徳川に有利になるようなことをしたのかもしれません。
 この場合、家康はたしかに老獪でしょうが、考えようによっては、そもそも、評価の低い片桐になぜ、高い職務を命じたか?職責を大きくしても処遇をよくしなかったのはなぜか?など不適切な面が考えられる人物を重臣にした豊臣家の人事にも問題があったのではないか?と考えます。

[3019] Re:[3018] [3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/19(Fri) 12:11
> これは、個人的独断なイメージですが、ほかの大名(徳川等)は国力の主体農本主義にしてあり、また、農民一揆等の教訓から、住民保護を考慮しなさすぎると自分たちの家が傾くという経験をしているため、それなりの配慮が必要と考える(程度は大名ごと別としても)が、大名としての統治期間が短く、やや重商主義的な豊臣家には、国力の元は貿易や商業活動であり、住民を配慮する組織的DNAが弱かったのでは?と思っています。

僕も同感だ。
7本槍は軍事指揮官兼地方自治体首長(つまり封建領主)だけど5奉行は中央諸官庁の官僚だからね。
思考の基本構造が全く違うと思う。
まあ、双方の人材を巧みに活用して中央集権化していった所に豊臣政権の妙味と弱点があると言えるけどね。

[3018] Re:[3017] [3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:c物品 投稿日:2012/10/19(Fri) 00:15
> いずれにせよ地域住民の惨禍を考慮しない非道な作戦だよ。

たしかに、豊臣家のこの作戦には、住民保護の観念はないようです

構成員の由来からみれば疑問なことに、豊臣家のトップは必ずしも住民保護とか民政については、ほかの大名より必ずしも重きを置いていないようです。

元資料は忘れましたが石田三成が大阪城の天守閣から
「大阪の街は発展している!、これは豊臣家の繁栄とご威光のたまものである」旨の発言をして悦に入っていたとき
島左近が「権力のあるところに人が集まるのは利益があるためで、威光とは関係ない!、市街から離れれば飢えた人々があふれている!」旨の苦言を三成にしたようです。

これは、個人的独断なイメージですが、ほかの大名(徳川等)は国力の主体農本主義にしてあり、また、農民一揆等の教訓から、住民保護を考慮しなさすぎると自分たちの家が傾くという経験をしているため、それなりの配慮が必要と考える(程度は大名ごと別としても)が、大名としての統治期間が短く、やや重商主義的な豊臣家には、国力の元は貿易や商業活動であり、住民を配慮する組織的DNAが弱かったのでは?と思っています。

[3017] Re:[3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/16(Tue) 15:18
軍事的なダム攻撃の例としては第2次世界大戦で英空軍が行ったダムバスターによる爆撃、朝鮮戦争で米海軍が行ったスカイレーダーによる水豊ダムへの雷撃が有名だね。
おっとグレネード作戦の時はドイツ軍がダムを決壊させてオランダを水浸しにしたっけ。

いずれにせよ地域住民の惨禍を考慮しない非道な作戦だよ。
一旦、水浸しになった河川は堆積物が詰まり沼の様になってしまうんだ。
10月13日から15日にかけて宮城、福島の沿岸部を見てきたけど中小河川は沼化して酷い有様だったよ。
ナビでは通行可能な道が橋が崩落している為に実質は通行不可だったりして結構、道に迷った。

[3016] 大阪冬の陣のソーラレイ(不発)? 投稿者:c物品 投稿日:2012/10/13(Sat) 23:13
 ガンダム話から外れるかもしれませんが、大阪冬の陣には
面白い話があるようです、(「三川記」より)
 慶長19年10月の大阪冬の陣の時、淀川に秀吉が建設していた出口周辺(現在の枚方市周辺?)の堤防(俗称:文禄堤)を大阪方が決壊させようとしたところを、徳川方が発見、撃退したそうです。
 戦闘自体は小規模ですが、もし、これが成功していれば、淀川の水が氾濫し、河内平野は水没しますから、大阪城や
真田丸にこもる大阪方将兵はなんとかなるにしても、平地に布陣している徳川方は大打撃を受ける可能性がありました。
 
 イメージ的には
淀川氾濫→徳川方包囲部隊混乱→大阪方が大阪城から出撃→徳川方残存部隊との決戦
などのイメージがわきます

 これってまるで、成功すればソロモンの「ソーラ・システム」やア・バオア・クーの「ソーラレイ」になるような、どんでん返し狙いの奇策と思ってしまいました。
  
 結果として不発になりましたが、これについては、太閤由来の施設を破壊してまで、どんでん返しを思いついた大阪方の「思い切り」もたいしたもの(大阪城からこのあたりまでは、約20kmはありますから、大阪方は「徳川方は、まさか、太閤由来の堤防を破壊してまで氾濫を起こすようなことはしないと思っているだろう」と考えたかもしれませんが・・・)とおもいますが、当時の感覚では主戦場からはるかに離れていた場所まで気を配って「そんなことをもあろうかと、堤防も警戒していたんだよ!」的な徳川方が上手なのかと思います。
(いかにも慎重居士?の家康ならば思いつきそうですが)

[3015] Re:[3014] 超能力者 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/12(Fri) 12:47
田辺一鶴のビデオを用意したよ。
都合の良い日を10月16日以降に電話かメールで連絡して頂戴。

超能力者の話なんかしてると・・・
フラナガン機関(もしくは超心理学研究委員会)にとっつかまるぜ!

[3014] 超能力者 投稿者:天井桟敷 投稿日:2012/10/11(Thu) 21:16
コム斎先生のブログで、興味深い写真が見られます。


http://minamihankyu.otaden.jp/

[3013] Re:[3012] 私は帰ってきた! 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/09(Tue) 16:21
> こちらでソロモン、ガトーと言えば餓島、ガダルカナルのほうですね(笑)

米潜水艦でもある(笑)

[3012] 私は帰ってきた! 投稿者:多門丸 投稿日:2012/10/08(Mon) 18:18
こちらでソロモン、ガトーと言えば餓島、ガダルカナルのほうですね(笑)

[3011] Re:[3008] ガンダム講談 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/07(Sun) 23:25
いってきたよ。
『ビグザムご出馬』はソロモン戦の終幕をドズル周辺の視点から捉えた力作で、なんとアムロが殆ど登場しない。
もちろん、ガンダムもだ。
この一席を拝聴すると「機動戦士ガンダム」ではなく「重機動兵器ビグザム」がタイトルで主役はドズル、今回で最終回ではないか?と思ってしまうくらいである。
ジオンファンにはオススメの演目だ。

さて次の『ソロモンの悪夢の由来』だけど見所は圧巻のシュラバ読みである。
僕はデラーズ紛争知らないので「ガトーって誰?」って客なんだけどこの一席を拝聴して「空想上のガトー」が脳内に形成されてしまった。
講談とはホントに面白いモノである。
続いて宴会ではエンドルフィンでまくりで ハイテンション、いや〜楽しかった。

>懇親会の際、おっしゃっていた、阿部先生所有の田辺一鶴出演 日本の話芸をぜひ、拝見したいです。

都合の良い時、遊びにきなよ。

>ちなみに、ボラの刺身は初めて食べました。

なかなか、旨いよね。
岸辺で釣れたボラは場合によると臭う場合があるけど店にでるのは大抵、沖で船で漁をしてるので刺身でもいけるよ。
岸辺で自分で釣った時はアライにするか揚げてニンニク風味中華あんかけにしてたなあ、僕は。

[3010] ボラの刺身 投稿者:天井桟敷 投稿日:2012/10/07(Sun) 15:19
阿部先生 お疲れ様です。
10月6日 懇親会から参加致しました。懇親会後、高円寺へ移動し、コム斎先生とサムゲタンを食べました。
懇親会の際、おっしゃっていた、阿部先生所有の田辺一鶴出演 日本の話芸をぜひ、拝見したいです。
ちなみに、ボラの刺身は初めて食べました。
小学生の作文みたいでスミマセン。

[3009] Re:[3008] ガンダム講談 投稿者:蛮泥愚裏腐吐 投稿日:2012/10/07(Sun) 00:06
> それにしても安彦氏の作品にはいつも変わらず「こわもて大男」(でも性格は好い)が登場するね。

思わず「巨神ゴーグ」の「船長」が思い浮かびました。

[3008] ガンダム講談 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/10/02(Tue) 10:35
10月6日にまたまた見に行くことになったよ。
今回もちょっとトークを受け持つ事になった。
さて、いよいよドズル閣下のお出ましだ。
それにしても安彦氏の作品にはいつも変わらず「こわもて大男」(でも性格は好い)が登場するね。

七井コム斎師匠のブログ
http://minamihankyu.otaden.jp/

[3007] Re:[3006] 後世の歴史家 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/09/24(Mon) 08:44
> 阿部先生は、銀英伝のファンですか?

ファンってほどコアじゃないけど一応、本伝は通読(出版されたばっかの時)したよ。
なかなか面白かった。
アニメはまったく見ていない。
(番宣でチラッと絵は見た事あるけどね)
最初、読んだ時は「なんで自由惑星同盟が世襲なの?」って思ったけど「社会主義を標榜しながら世襲制の共和国」が実在している現実を考えると妙にリアリティがあったりするんだよなあ。
今となっては・・・

[3006] 後世の歴史家 投稿者:天井桟敷 投稿日:2012/09/23(Sun) 21:02
阿部先生は、銀英伝のファンですか?

[3005] Re:[3002] [3001] [3000] [2999] [2998] ガ島補給戦19 投稿者:いそしち 投稿日:2012/09/22(Sat) 09:30
> 貫徹力で見るとね、射距離457mでは37ミリ機関砲の25ミリ装甲貫徹に対し40ミリ機関砲では48ミリ装甲貫徹だそうだよ。

倍ですね...
納得しました。

[3004] Re:[3003] 魚雷艇 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/09/21(Fri) 17:22
> 高速出せるエンジンをドイツのSボートに求めたけど技術的に無理だったんですよね?

最初に建造した1号型はイタリアのMASボートを基礎に設計されていた。
日本の小型魚雷艇(乙型)はこれを源流としている。
一方、Sボートに影響を受けて建造された大型魚雷艇(甲型)は試作の10号と11号型7隻が建造されたが・・・
馬鹿でかいくせに低性能なのは前述の通りである。
大出力エンジンが開発できないのなら「作れる範囲で信頼性の高い小出力エンジン」を量産しドンガラをそれに合わせた方が良いのだ。
上層部の「技術オンチ」が国力を削いだ好例として後世史家は語るであろう。
(なんか銀英伝風な物言いだな、これは)

[3003] 魚雷艇 投稿者:多門 投稿日:2012/09/21(Fri) 16:56
高速出せるエンジンをドイツのSボートに求めたけど技術的に無理だったんですよね?
ケネディ艇長を沈めただけでもよしとします・・

[3002] Re:[3001] [3000] [2999] [2998] ガ島補給戦19 投稿者:阿部隆史 投稿日:2012/09/21(Fri) 12:21
> さして変わらないような気がするのですが?

いやいや、物凄い性能差があるのだ。
なにしろ37ミリ(ブローニングM4)の方は航空機用だから軽量小型でしょ?
それに対し40ミリ(ボフォース)の方は対空用だから重厚長大なのだ。
どのくらい違うか説明しよう。
火砲の破壊力は弾頭重量と初速で決定される。
そして初速は「弾頭重量が軽く」「砲身長が長く」「装薬が多い」と速くなる。
まず弾頭重量の比較だが37ミリは608gで40ミリは880g。
口径は3ミリ差でも弾頭重量は約5割増しなのだ。
そして初速だが・・・
37ミリが610m/sなのに40ミリは854m/sもある。

「えっ?なんで?弾頭重量は37ミリ機関砲の方が軽いんでしょ?」って質問がきそうだ。
もっともな質問なんだけど答えは簡単、「40ミリ機関砲の方が装薬がベラボーに多い」のだ。
なんと薬莢の長さが37ミリ機関砲の145ミリに対し311ミリもある。
それに砲身長も40ミリの方がずっと長い。
(正確な数値が手元になくてゴメン!あとで書いとく)

それではどの位の破壊力差になるのだろうか?
貫徹力で見るとね、射距離457mでは37ミリ機関砲の25ミリ装甲貫徹に対し40ミリ機関砲では48ミリ装甲貫徹だそうだよ。
凄い差でしょ。
当然、40ミリの方が最大射程も長い。

[3001] Re:[3000] [2999] [2998] ガ島補給戦19 投稿者:いそしち 投稿日:2012/09/21(Fri) 07:09
懇切な解説をありがとうございます。

> それが戦闘が激化するにつれ艇首に37ミリ対戦車砲1門もしくは37ミリ機関砲(P39戦闘機に装備されていた火器の再利用)が装備され後期建造艇では20ミリ機関砲の代わりに40ミリ機関砲が装備される事になった。

37ミリと40ミリを両方装備するのは何か意味があるのでしょうか?
さして変わらないような気がするのですが?

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