GS新掲示板 発言集[10](No.901〜1000)


[1000] 暑中見舞 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2009/07/26(Sun) 09:56
暑くなりましたね。
夏本番ですね。
皆様はいかがお過ごしですか。

ところで阿部デザイナーに質問があります。
爆撃機の銃座のお話の腰をおって申し訳ないのですがツインムスタングが成功作であるならばなぜ以後の戦闘機は皆、ツインにならないのでしょうか?
そもそもなぜツインにしたのかも判らないのですが。

[999] 下部銃座 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/23(Thu) 21:30
後下方は爆撃機の死角だが迎撃機にとっても接近しずらいと前に書いた。
そして斜銃の登場により後下方からの攻撃が可能になったとも書いた。
かくして大戦後半になると後下方で下部銃座と斜銃が凄絶な死闘を繰り広げる。

ところで下部銃座だが上部銃座と同じでこれも銃塔式、前方向、後方向に区分される。
ちょっと違うのは「操縦席や垂直尾翼やら射界の障害となる物体が殆ど存在しない事」と「人間を逆さにすると頭に血が上って気絶してしまう事」である。
ただし射界障害が存在しないのは結構な話でも着陸時、機体下部に膨らみがあると事故の元になる。
よって機体下部に銃塔式銃座を装備する時は隠顕式とする場合が多い。

「頭に血が上る」のはもっと切実な問題だ。
どうしたって頭を上にして銃塔を操作しなければならない。
どうやって?
まず窮屈な姿勢で射手を銃塔に押し込める。
もはやこれは拷問に近い。
B17やB24、96式陸攻の銃塔がこれだ。
次にリモコン式で銃塔を操作するのがB25やブレニム。
これだと射手は辛くないが操作が難しく敵機に当たらない。
そこで銃塔式を諦めもうちょっと楽な姿勢を考えるとゴンドラ式もしくはクビレ胴体式になる。
ゴンドラ式はJu88やHe111などの独爆撃機やB17の初期型で採用されクビレ胴体式は99式双軽やハンプデンで採用された。

でもねえ...
寝そべるって事は射手の体全体が的になるって事で射手としちゃ実に面白くない。
高射砲の破片だってバンバンとんでくるだろうし。
それに銃塔式と違って射界がかなり狭い。
まあ無理して下部銃座を装備するより尾部銃座の射界を広くして対応した方が実際的と言えるんだろうな。
やっぱり。

ひとつ変則的な下部銃座としてB17Gが装備したアゴ銃座がある。
でもこれは機首銃座の一種とも言えるので次の機会に話すとしよう。
(続く)

[998] 上部銃座 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/20(Mon) 21:31
これまで随分と尾部銃座について書いてきた。
確かに尾部銃座は防御の要である。
垂直1枚部翼で尾部銃座がなかったら後方から攻撃され「はい、それまでよ」となるからだ。

だが尾部銃座が装備されていたらどうであろう?
それでも後方から攻撃するだろうか?
状況にもよるだろうが後上方から攻撃する事が多くなるだろう。
降下攻撃なら速度が増すからね。
つまり尾部銃座は「なければ困る火器」だが存在した場合は「1番忙しい火器」ではない。

それでは「尾部銃座が存在した場合に一番忙しい火器」の上部銃座を語ろう。
大抵の場合、尾部銃座が無くても上部銃座はあるよね。
機首銃座(固定銃は除く)がなくても上方銃座はある。
下部銃座、側面銃座は言うに及ばずだ。
いや、あった...
キ74は尾部銃座(リモコン式)しかない。
「大抵の場合は」って書いて置いてよかった。
人はこうしてオトナになってゆくのである。

さて上部銃座だがこれは銃座が「前方もしくは後方のどちらに向いているか?」もしくは「銃塔式か?」で細分化される。
当然の事だが旋回式でグルグル回る銃塔式が一番、有力だ。
射界が広いからね。
前方向は機首銃座と似たような物である。
装備した例もドイツ機くらいであまり多くない。
後方向は垂直尾翼の形状で射界が変わるが爆撃機にとって一番、当たり前の防御火器となる。
特に尾部銃座や銃塔式上部銃座を装備できない小型爆撃機にとっては。

シュツルモビクや99艦爆、97艦攻、SDBにソードフィッシュ。
およそ世界中の小型爆撃機がこぞって後方向に上部銃座を装備した。
上部銃座は「基本中の基本」の銃座なのである。
航空機の構造上、装備し易い位置だしね。
しなかったのはモスキートと単座機くらいだ。
いや、装備しなかったからこそモスキートは名機足り得たと言えよう。
まあ、迎撃機の追随を許さぬ程の優速があってこその話だが。
(続く)

[997] Re:[995] ありゃりゃ 投稿者:ニンジャ 投稿日:2009/07/18(Sat) 01:40
テレ朝もそう捨てたものでもなかった。
という訳ですね。
ホットひと安心です。

[996] こりゃりゃ 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/16(Thu) 11:03
平和島の映画館でみてきたよ。
最新式の映画館でスクリーンが見やすかった。
史実的には「?」な事が散見されたけどドキュメンタリーじゃないんだから野暮な事はいいっこなし。
カレーライスを食べるシーンが旨そうで北川景子と言うお姉さんがとってもキレイだった。
カレーライスとキレイなお姉さんが好きな人にはオススメだ。

[995] ありゃりゃ 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/15(Wed) 16:49
「真夏のオリオン」の助監督からチケットと礼状が送られてきたよ...
なんか失念してたみたい。
早速、見にゆかねば。
感想はまた後日。

[994] 諸国尾部銃座事情 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/13(Mon) 20:43
大戦中に登場した爆撃機でもっとも防御火力が強かったのは何だろう。
多分、B29だろうな。
旋回機銃を12.7mm12門と20mm1門装備してるからね。
後方に対する火力ではB24も凄い。
尾部銃座と下部銃座に加えH型尾翼だから上部銃座も撃てるので12.7mm6門になる。
門数だけならハリファックスの8門が多いけど7.7mmじゃ問題外。

さて、大戦中の各国重爆が装備した尾部銃座だけどいつ頃から装備されだしたか追ってみよう。
まず最初はと...
ソ連のTB3かな。
当初は装備してなかったがエンジンをM34に換装したTB3M34Rから装備されだした。
鉄のカーテンの向こう側なので正確な日付は判らないが1930年代中盤だろう。

カーテンのこっち側で早かったのは英国。
1935年のサンダーランド飛行艇を皮切りにウェリントン、ホイットレーなどの重爆が続々と開発されていった。
これら英大型機は最初っから尾部に7.7mmを4門を装備している。
ハリファックスの時点では問題外となる7.7mmも戦前は充分な火力だった。
単に登場が早かっただけでなく英国は「尾部火力重視の国」なのである。

米国は...
意外に遅く1939年7月初飛行のB23から。
この機体にしても寝そべって撃つ方式だったから実用的とは言い難かった。
日本陸軍で最初に尾部銃座を装備したのは1939年7月に完成した97式重爆1型乙だけどこれはリモコン式で実用性が低い。
射界も僅か上10度、下20度、右15度、左15度しかない。

なおリモコン式全ての実用性が低い訳ではない。
B29の上部及び下部銃座はリモコン式だが恐ろしく実用的だった。
要は「科学技術の劣った国のリモコン式はダメ」と言うだけに過ぎない。
結局、日本陸軍の本格的尾部銃座は1941年3月制式化の100式重爆まで遅れる事になる。

日本海軍はと言うと...
なんと既に1931年に完成した91式飛行艇で尾部銃座を装備していたのだ!
でも生産機数1機じゃあ...
制式化されたと言っても実験機に過ぎないか。
やはり1938年1月に制式化された97式大艇がトップバッターだろう。
でもこれまたあまり多くは生産されていない。
そして1941年4月、尾部銃座を装備した本格爆撃機として1式陸攻が制式化されるに至った。

ねっ、尾部銃座ってのは1930年代後半から登場し1940年頃になってやっと一般化した結構、新しい兵器なのだ。
現代から見ると「装備してて当然」と感じるが当時としては画期的であり「無理をして取り付けた兵器」なのである。
特に改修で装備されたB17や97式重爆では。
(続く)

[993] 紆余曲折 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/11(Sat) 20:10
前回、全ての銃座の中で尾部銃座はもっとも有用な銃座だが装備しにくい銃座であると解説した。
尾部銃座付航空機ってのは「空を飛ぶ為の機械」としては甚だ奇形なのだ。
だから「尾部銃座なしで尾部銃座と同じ効果」を得られるようにH型尾翼やらクビレ胴体、ゴンドラ式銃座などが登場するに至った。

さて今日は様々な理由により銃座が二転三転した爆撃機の話をしよう。
題材は「B25」である。
ドーリットル空襲の立て役者として名高いB25は空冷のR2600エンジンを装備する米陸軍の双発爆撃機でレイアウトは前から機首、前部、爆弾倉、後部、尾部ブロックによって構成されている。
当初、B25は機首ブロックに銃座(爆撃手が操作)、前部ブロックに操縦席(2名)、後部ブロックに側面銃座、尾部ブロックに尾部銃座が配置されていた。
装備火器は全て単装7.62mmで側部銃座と尾部銃座は無線士と航法士が操作した。

だがこの配置はB25とB25A型だけでB型からは大きく変化する。
当時としては画期的だった尾部銃座だが寝そべらなければ撃てず実用性が甚だ低かったのだ。
幸いB25はH型尾翼だ。
前述した如く、かつては機体上部と下部に銃座を設ければ尾部銃座がなくても後方射界をカバーできるとの考えが蔓延していた。
そこでC型では尾部銃座を廃止し後部ブロックへ上部銃座と下部銃座を設置した。
火器は双方とも12.7mm2門である。
狭い爆撃機の胴体だ。
当然、側面銃座は撤去された。
まあ無用の長物の側面銃座だからね。
無くなったって困りはしない。

その後、機首銃座が12.7mmに強化されたり前方に12.7mm固定銃が1門追加されたりしたがあまり大した変更では無いので省略する。
機首部に抜本的な変更が加えられたのがG型で76.2mm砲1門と12.7mm固定銃2門が装備された。
続いて機体全部に渡る火力強化がなされたのがH型である。
まず機首が76.2mm砲1門と12.7mm4門となり機首側面にも12.7mm4門が装備された。
これらは全て攻撃用の火器だ。

防御用の火器としては尾部に12.7mm2門の銃座が復活した。
今度の尾部銃座はちゃんと座って撃てる。
結局、上部銃座と下部銃座では本格的尾部銃座の代用とならなかったのである。
尾部銃座の登場によって不要になった下部銃座は姿を消した。
更に上部銃座も後部から前部に移設された。
上部と下部の銃座が無くなった後部はがら空きとなったかって?
とんでもない。
なぜか無用の長物、側面銃座が復活したのだ。
そして次に機首ブロックの武装を撤去し12.7mm1門と爆撃手に代わったJ型が登場し最終主力生産型となる。

ねっ?
B25の武装変遷は大変でしょ?
まあこれは極端なケースかも知れないが爆撃機の防御火器レイアウトではどの国も皆、試行錯誤を繰り返したのである。
(続く)

[992] リモコン式 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/10(Fri) 17:56
ここで尾部銃座の利害得失を考えて見よう。
前回まで尾部銃座の必要性について随分書いてきた。
迎撃機の追随を許さぬ高速爆撃機ならともかく、そうでなければ是非、装備したいのが尾部銃座だ。

でもねえ...
そう簡単に装備できないのだ、これが。
だって人間が乗って火器を操作するんだよ?
それなりに大きなスペースを必要とする。
まして尾部は航空機でもっともタイトな場所だ。
「空を飛ぶ」のが飛行機の目的なんだからコントロールの要となる垂直及び水平尾翼に囲まれた尾部に機銃座を設けるなんざ航空機設計者として「できればやりたくない事」の筆頭となろう。

それでも尾部銃座を設置するとなれば...
これはある一定以上の大型機に限られる。
仮に97式艦攻に尾部銃座を装備すると考えて見て欲しい。
ちょっと空想しただけでとんでもない有様になっちゃうでしょ?
だから尾部銃座の登場は「尾部銃座を装備可能な大型機」の登場によって幕が開くのだ。

まあ、コンパクトな尾部銃座ってのも考えられなくもない。
97式重爆が装備したリモコン銃座がそれだ。
なにしろ人が乗らないんだから機銃の装備スペースだけで済む。
だけど...
それでうまくいくなら世界中の爆撃機がリモコン式尾部銃座を装備しただろう。
結局、実用性が低く日本陸軍は本格式尾部銃座を装備した100式重爆や4式重爆を開発する事になる。
(続く)

[991] H型尾翼 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/09(Thu) 20:06
随分、尾部銃座で話をひっぱったが「爆撃機を守るには何がなんでも尾部銃座」って訳ではない。
まず第一に「迎撃機に追いつかれない速力」と「いざとなったら任務放棄できる戦術的柔軟性」があれば捕捉されないんだから銃座なんかひとつも要らない。

この路線で究極を求めたのが英国のモスキートだ。
実際、モスキートの損害率は驚くほど低い。
僅か0.63なのだからランカスター(2.13)やハリファックス(2.28)、ウェリントン(2.80)と比べて段違いだし脆弱で有名なスターリング(3.81)やブレニム(3.62)と比べると1/6なのである。

でもねえ...
「戦闘機が追いつけぬ高速爆撃機」と喧伝された末、ボコボコにされてリタイアしたSB2、ブレニム、Do17、96式陸攻だって最初のうちは本当に損害率が低かったのだ。
いかな名機でも敵が対応策を講じたらいずれ神通力が失われる。
もし戦争が1年長引いたらモスキートだってMe262にボコボコにされていたろう。
Me262の登場が1年早かったとしても同じ事だ。
モスキートは大変、運が良かったのだ。

さて、話を戻そう。
尾部銃座ではないが「尾部銃座に近い物」がある。
上部銃座だ。
ただし通常の1枚垂直尾翼だと上部銃座は真後ろに撃てない。
自分で自分を撃っちゃうからね。
そこでH型尾翼の登場となる。
これなら完璧ではなくとも若干はカバーできる。
こうして開発されたのがDo17や96式陸攻、ハンプデンで皆、胴体が至って細い。

更にこれらの機体は揃って後下方射界を重視している。
96式陸攻は引込式垂下銃座、Do17はゴンドラ式、ハンプデンは胴体後部をクビレさせて後下方銃座の射界を広くした。
胴体後部をクビレさせ射界を広げる工夫は日本陸軍の99式双軽にも見られるがゴンドラ式の発展と言えなくもない。
まあ「後方の上半分は上部銃座、下半分は下部銃座の射界を広げるから尾部銃座が無くても大丈夫」って発想だったんだろうが実際、そう上手くは行かなかった。

それにしても...
当時の爆撃機乗りが後下方の死角を嫌うのは相当な物だった様で尾部銃座や下部銃座を全く装備しない銀河やモスキート、ハボックが活躍する第2次世界大戦後半とは全くおもむきを異にする。
やっぱり「本当に危険なのはどこか?」はやってみなくちゃ判らなかったんだろうね。
天山やアベンジャーが後下方銃座を備えたのも杞憂の現れだから随分、後まで尾を引いていたと言えよう。
いずれにせよ「大型の低速爆撃機には尾部銃座が不可欠」との機運が高まり各国はこぞって新型爆撃機の開発に乗り出した。
(続く)

[990] 尾部銃座 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/08(Wed) 19:04
リンゴが木から落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見した。
以来、テポドンが落ちるわツングースカ隕石が落ちるわコロニーが落ちるわ株価が落ちるわで巷では大騒ぎである。
さて、前述した通りヘリコプター以外の航空機は常に高速で運動している。
これは運動し続けていないと落ちてしまうからでその要因が万有引力にある事は語るまでもない。

とまあ枕はこの辺にしとくとして航空機が最も高速を出せるのは降下時である。
自分の重量を速度に変換できるからね。
「じゃあ速度が低下するのは?」と尋ねれば上昇時と誰でも答える。
その通りだ。
今日は一見、当たり前の事を書き連ねてきたがこれが尾部銃座と大きな関わりを持つ。

仮に爆撃機と迎撃機の水平速力が同速で爆撃機の方が「迎撃機が現れたら任務なんて放り出し基地に向かってまっしぐらに逃げちまおう」と考えていたとする。
さあ、同高度で会敵した。
迎撃機がいくら追いかけても捕捉できないだろう。
だが迎撃機がより高い位置に占位し降下攻撃をかけてきたら?
水平飛行では同速でも実際の速力は迎撃機の方が速いのだから捕捉される可能性がでてくる。

零戦52甲型の水平最高速力は559q/hだけど降下最高速力は740q/にもなるのだ。
よって多くの場合、迎撃機は自機と同速以上の目標に対しては後上方から攻撃する。
できればの話だけど。
先に高々度に占位してなきゃ後上方から攻撃できず、それには事前情報と高々度性能が物を言う。
まあ「戦闘機より速い爆撃機」ってのはそう多くないし「迎撃機とであったら任務放棄して即、遁走」なんて爆撃機も数少ないので「何が何でも後上方」ってもんでもない。

だけど後下方となるとこれは大変だ。
なにしろ上昇しながら接近しなくちゃならないんだから。
「後下方は視界が効かない死角だから恐ろしい」と爆撃機乗りは思うが迎撃機乗りとしても「よっぽど水平飛行で速力差がなけりゃ後下方で追いつくなんて無理」なのである。
後上方攻撃だと559q/hの零戦52型が740q/hに速くなるって事は後上方攻撃だとそれなりに遅くなるって事なのだ。
航空機によって上昇力は随分と差があり最大水平速力と上昇力は比例してないので740q/hの迎撃機が後上方攻撃だと常に559q/h程度に速力低下する訳じゃないけどね。

まあいずれにしても迎撃機がよほど優速でなけりゃ後下方攻撃は難しい。
だけど...
大して速力差がないのに後下方から攻撃する手段がひとつあるのだな。
斜銃である。
今日は斜銃の話じゃないのでこれは置いとくとして、基本的に迎撃機は高速爆撃機に対しては後上方、低速爆撃機に対しては後方から攻撃する。
どんな時も後上方から攻撃した方がいいんじゃないかって?
いやいや、ここで尾部銃座の存在意義が出てくる。
(続く)

[989] Re:[988] 空の要塞について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/07/06(Mon) 19:09
> 側面銃座が有効でないのは良く判るのですがその他の銃座でもっとも有効なのはどこでしょうか?

なるほど。
それではまず銃座を機首、機体上部、機体下部、尾部、主翼の5カ所に区分して比較しよう。
「主翼に銃座なんてあるの?」って声が聞こえて来そうだが92式重爆(日)やPe8(ソ)、P108(伊)、Bv222(独)ではちゃんと装備されているのだ。
えっ、B35(米)も主翼に銃座があるって?
そりゃあるだろう、機体すべてが主翼なんだから。

> 僕としては最後に装備された機首下部が有効でなく射界の広い上部と下部の銃塔が有効だと思うのですがいかがでしょうか?

確かに射界が広ければ有効性は高いと言える。
だけど「どの角度からも平等に敵機が来襲する」と言う物でもない。
例え射界は狭くとも重要な銃座はある。
それが尾部だ。
ヘリコプター以外の航空機は常に高速で運動しており双方が高速運動しながら射撃するので短時間に多くの射弾を浴びせねばならない。
大抵の場合、迎撃機は機首に火器を装簿し接近しながら撃つ。
となれば爆撃機が前方から射弾を受けるのはすれ違う時だけであり爆撃機の機首銃座が役立つのも「すれちがう時だけ」となる。
まあB17G型みたいに横まで射界がある銃塔ならそれなりに役立つ事もあるが。
さてそれでは仮に火器の有効射程が200m、発射速度毎分600発と仮定しよう。
双方が5360km/hですれ違うと相対速度は720km/hで1秒に200m距離が縮まる。
と言う事は1秒しか撃てないんだから火器を2門装備していたとしても射弾数はたった20発にしかならない。
爆撃機の機首銃座にしても条件は同じで「すれちがいざまの空戦」は双方が短時間、火器を発射するだけで実害は至って少ないのである。
それに比べ追尾戦は...
その気になれば残弾が無くなるまで追いかけて撃ち続けるのだから恐ろしい。
よって爆撃機乗りは尾部銃座が欲しくなるのである。
(続く)

[988] 空の要塞について 投稿者:プラモ派 投稿日:2009/07/05(Sun) 18:24
側面銃座が有効でないのは良く判るのですがその他の銃座でもっとも有効なのはどこでしょうか?
B17の場合、機体上部、下部、尾部、機首など全てに火器が装備されG型では機首下部にまで装備されてます。
僕としては最後に装備された機首下部が有効でなく射界の広い上部と下部の銃塔が有効だと思うのですがいかがでしょうか?

[987] Re:[986] [984] [982] [981] バルバロッサ 投稿者:神家 投稿日:2009/06/29(Mon) 19:34
> お節介かも知れませんがオデッサだけは陥した方がよいのでは無いでしょうか?

なるほど、その通りですね。
気づかなかったとは迂闊でした。
でも既に兵力を抽出してガタガタですから今から南方大作戦はちょっと無理みたいです。
陣地のおかげでなんとか保ってるだけなので。

> ご健闘をお祈ります。

ありがとうございます。
今、モスクワの一歩手前で激戦中です。

[986] Re:[984] [982] [981] バルバロッサ 投稿者:いそしち 投稿日:2009/06/28(Sun) 08:58
> 南方はさっぱりで全然、進んでいません。
> 兵力をぎりぎりまで引き抜いちゃったので。

お節介かも知れませんがオデッサだけは陥した方がよいのでは無いでしょうか?
戦線を縮小でき兵力が抽出できますから。
ご健闘をお祈ります。

[985] 発言削除のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2009/06/27(Sat) 19:49
投稿者からの依頼により、発言[985]を削除いたしました。

[984] Re:[982] [981] バルバロッサ 投稿者:神家 投稿日:2009/06/25(Thu) 20:06
> 雌雄が決したら教えてね。

まだ決着はついておりませんが途中経過報告を。
北方はリガで停止。
これは既定の方針です。
中央はウェルキエルーキとスモレンスクの双方からモスクワを狙ってます。
どちらか一方に絞った方が良いか思案中です。
南方はさっぱりで全然、進んでいません。
兵力をぎりぎりまで引き抜いちゃったので。

[983] 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/06/25(Thu) 10:52
巷で「真夏のオリオン」なる映画が上映されているらしい。
随分と前になるがその映画の助監督なる人物から「潜水艦と軍用タンカーについて教えて欲しい」と依頼された。
助監督と言っても第3助監督だそうだからあまり偉くはないいらしい。
そこで電話で説明したり資料をコピーして送ったり一度はこっちに来たのでビデオをダビングしてやったりした。
まあ、それなりに手間もかかったけど「袖すり合うも縁だから」とお相手して差し上げたのである。
せっかく戦争映画を撮るなら良い戦争映画になって欲しいからね。
それっきり連絡がこないから「企画がつぶれたのかな」と思っていたらどうやら公開したらしい。
普通なら試写会のチケットぐらい送ってくるしチケットが足りなければ礼状を寄こすのが常識だろう。
出来が良いのか悪いのか気になるし自分が協力してあげた分が反映されているかも気になる。
でもねえ。
礼を知らぬ人物が作った映画なぞ拝見しても仕方ない。
よって今後とも作品の内容を知る事はない。
ちと残念である。

[982] Re:[981] バルバロッサ 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/06/22(Mon) 21:51
> 乞うご期待!

もうすぐ23日になるけど...
どう、うまくいってる?
雌雄が決したら教えてね。

[981] バルバロッサ 投稿者:神家 投稿日:2009/06/20(Sat) 21:52
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
そろそろバルバロッサ記念日がやってまいります。
私としては本日よりGD2のシナリオを開始し見事、赤軍を打ち敗りたいと思います。
乞うご期待!

[980] Re:[979] [978] 爆撃機の側面銃座 投稿者:心。 投稿日:2009/06/19(Fri) 01:42
返信ありがとうございます。
確かに少ない弾数で必中を期すのであれば進行方向が同じ背後からの攻撃が一番でしょうね。
そう考えると英軍の方が先見の明があったと言えるかも知れませんね。搭乗員も米重爆より少なくて澄みますし。

日本機のブリスター銃座は、あれはあれで模型映えするから好きなんですが(^^;)

[979] Re:[978] 爆撃機の側面銃座 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/06/15(Mon) 20:24
> 『メンフィス・ベル』等の戦争映画でよく出てくる側面銃座ですが、実際そんなに役に立つものだったのでしょうか。


お察しの通り「役に立たない」からB29あたりで消えていったんだろうね。
第2次大戦中、側面銃座を重視したのは日米、しなかったのは英独ソだ。
おっと、機体側面に機銃を装備した機体としては独のMe410があるがこれはゲテモノなので例外とする。
さて、側面銃座の意味合いだけどまず迎撃機が側面から来た時の対処ならびにブリスター式の場合は上方、下方、後方に若干の射界を有する事が挙げられる。
反面、胴体が太く成らざるを得ず機体重量が大幅に増す。
ブリスター式の場合は空気抵抗も増すから弊害はなお大きい。
おまけに左右へ撃つとなると乗員2名を要するから...
いやはや百害あって一利無しとは側面銃座の事だ。
考えてもみてよ。
機体上部に連装銃塔を付けとけば1人の乗員で左右どちらへでも2門撃てる。
ところが側面銃座は殆ど単装。
だから2人乗りながら各1門だ。
左右同時に来た時?
そんな殆どあり得ない状況に対処する為、側面銃座を設置したとするなら設計者なり発注者なりをすげ替えた方が国益となろう。
だいたい側面から迎撃機が接近する事自体、あまり起こり得ない状況なのだ。
なにしろ爆撃機と迎撃機の双方が時速300キロ以上で常に運動し続けているんだよ。
それが射的100〜200mでうまく接近するのは不可能だと言える。
どうしても行き過ぎるか、出遅れるか、高度が合わないか、軸線の同調が取れないかで射撃機会を逃してしまう。
機銃を撃ち続けながら爆撃機に接近すれば良いと思われる方はもう一度「装弾数の話」を読み返して欲しい。
戦闘機の装弾数はそれほど多くはないのだ。
よって爆撃機の側面銃座は無用の長物なのである。

[978] 爆撃機の側面銃座 投稿者:心。 投稿日:2009/06/15(Mon) 01:05
装弾数の記事、ようやく読み終わりました。
何度も前に戻って読み直してたんでずいぶんかかりましたが(^^;)
今まで機銃や機関砲の装弾数は気にしてたんですが、発射速度と射撃時間の関係は考えた事が無かったので、興味深く読ませていただきました。

それで爆撃機の防御火器についても興味を持ち、本やネットでボチボチ調べております。
それで気になったのですが、米爆撃機の側面銃座ってB17やB24には付いていましたが、後発のB29やB32には付いていません。
それに英軍の重爆でも側面銃座を持つものは皆無だったように思います。
『メンフィス・ベル』等の戦争映画でよく出てくる側面銃座ですが、実際そんなに役に立つものだったのでしょうか。

[977] 発言削除のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2009/06/10(Wed) 19:22
投稿者からの依頼により、発言[975]を削除いたしました。

[976] Re:[975] 阿部隆史様は社長か会長です 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2009/06/09(Tue) 20:18
この掲示板を読まれる方は皆さん御存知ですからわざわざ書かれる必要は無いと思いますが?
僭越ではありますが。

[974] Re:[971] [969] 質問です 投稿者:いそしち 投稿日:2009/06/07(Sun) 15:13
> まずビッカース12.7mmだけどこれは水冷だってのが航空機用としては問題視されたんじゃないかな?

まさか水冷とは思いませんでした。

> 次にホチキス13mmだけどこれは何より重いってのがネックだ。
> なにしろ37kgもある。
> 中口径のくせに大口径並に重いんじゃ無理だろうなあ。

それじゃ採用されるわけ無いですね。
勉強になりました。

[973] Re:[972] 発言修正のお知らせ 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/06/06(Sat) 11:42
> 先日、大日本絵画から「戦時輸送船ビジュアルガイド(著/岩重多四朗)」が発刊されたのですが、すでに阿部師はご存知でしょうか?「○○○○○」「太平洋戦記」といった兵站に着目されたゲームがあったからこそ成立した模型企画と思うと感慨深いものがあると思いますので、ぜひご一読ください。

情報提供ありがとう。
機会があり次第、読ませていただくよ。

> 追記:「シートン動物紀・狼王ロボ」の貸し出し許可をいただけるでしょうか?標的は「ホワイト・ファング」。

う〜ん、意味不明...
僕は昔、ホワイトファングってゲームサークルに所属していたけどその事かな?

[972] 発言修正のお知らせ 投稿者:GSスタッフ(営業担当) 投稿日:2009/06/06(Sat) 09:55
下記の発言にて他社ゲームのタイトルが記載されておりましたので、その部分を伏せ字といたしました。
また投稿者のHP以外への直リンクは禁止となっておりますので、リンク部分を削除いたしました。
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[972] こんばんわ 投稿者:言蛇 投稿日:2009/06/06(Sat) 02:55

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「妹が名は 千代に流れむ 姫島の
   小松がうれに 苔むすまでに (万葉集228)」
****************************************************

こんにちわ言蛇と申します、以後よろしく願います。

先日、大日本絵画から「戦時輸送船ビジュアルガイド(著/岩重多四朗)」が発刊されたのですが、すでに阿部師はご存知でしょうか?「○○○○○」「太平洋戦記」といった兵站に着目されたゲームがあったからこそ成立した模型企画と思うと感慨深いものがあると思いますので、ぜひご一読ください。

****************************************************
先日「ストライクウィッチーズ」というTV番組にでてくるネウロイという勢力へ個人的に宣戦布告をしてきましたのでここへ報告にあがりました。戦争根絶に向けたアドバイスをいただければ幸いです

追記:「シートン動物紀・狼王ロボ」の貸し出し許可をいただけるでしょうか?標的は「ホワイト・ファング」。


http://www7a.biglobe.ne.jp/~kotohebi/index.htm

[971] Re:[969] 質問です 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/06/05(Fri) 17:09
> 英国にはビッカース12.7ミリ、日本海軍にはホチキス13ミリ
> があるので中口径に流れても良さそうな物ですが?

「なぜ、採用したのか?」は割と簡単に答えられるけど逆はなかなか難しいね...
だから歯切れの悪い答えで申し訳ないんだが私見をひとつ開陳しよう。
まずビッカース12.7mmだけどこれは水冷だってのが航空機用としては問題視されたんじゃないかな?
元々、英海軍以外で広く出回ってる火器じゃないしね。
次にホチキス13mmだけどこれは何より重いってのがネックだ。
なにしろ37kgもある。
中口径のくせに大口径並に重いんじゃ無理だろうなあ。
まあ他にも色々と理由はあるんだろうが今日はこの辺で。

[970] 通信対戦の相手募集 投稿者:ハルダー将軍 投稿日:2009/06/03(Wed) 14:47
ミッドウェイ海戦と言えば6月5日に行われた戦いなので、6月5日金曜日夜八時頃、シナリオはミッドウェイ海戦2、こちらは日本海軍で通信対戦を希望します(当方中級者)ハルダー将軍より。

[969] 質問です 投稿者:いそしち 投稿日:2009/06/01(Mon) 22:48
航空機の搭載火器についてちょっと質問させてください。
阿部デザイナーの解説でエリコン20ミリが画期的な機関砲だと
分かりましたが日本や英国が中口径を無視していきなり20ミリに
したのかが分からないのです。
英国にはビッカース12.7ミリ、日本海軍にはホチキス13ミリ
があるので中口径に流れても良さそうな物ですが?

[968] 通信対戦の相手募集 投稿者:ハルダー将軍 投稿日:2009/05/30(Sat) 08:41
五月三十日(土曜日)夜八時頃、空母戦記2のシナリオはミッドウェイ海戦2で、プレイサイドはこちらが日本軍、当方中級者です。(通信対戦希望)

[967] 通信対戦相手募集 投稿者:ハルダー将軍 投稿日:2009/05/28(Thu) 17:53
5月30日(土曜日)午後八時頃、ゲームは空母戦記2、シナリオはミッドウェイ海戦2で通信対戦を希望します。ハルダー将軍より 

[966] 三笠 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/05/28(Thu) 11:49
昨日は5月27日なので横須賀の記念艦三笠にでむき祝賀会に参加した。
その席上で東郷のネームプレートを付けた海自幹部がいたので「元帥の御身内ですか?」と尋ねたら曾孫の方だった。
名刺を渡したら「ああ、グロスドイッチュラントを作った方ですね。昔はシミュレーションゲーム好きでした。」との事。
いささかビックリした。

[965] 1/100ミニジェット! 投稿者:魔界半蔵 投稿日:2009/05/12(Tue) 03:12
装弾数の話、興味深く拝見しました。
「シュトルモヴィクの23ミリ砲ってそんなに怖いもんなのか?」との疑問が解けました。

しかしセイバーとミグ15の2機セットとは懐かしいですね。
250円で2機入りだったのを覚えてます。
IL28やバッカニアあたりのマイナー機も出てたんですが、当時は見向きもしなかったのが悔やまれます(笑)

[964] Re:[963] 装弾数の話(その17) 投稿者:いそしち 投稿日:2009/05/10(Sun) 15:25
まずは「装弾数の話」の完結おめでとうございます。
かなりの大作になりましたね。
発動機に続いて航空機用火器ですから次は電子機器ですか?

>昔、タミヤの1/100シリーズで2機セットのキットを買って組み上げた後、ためつすがめつ眺めたものだ。

タミヤの1/100シリーズ2機セットではMe163とMe262のセットを買った覚えがあります。
いやあ、懐かしいですね。

[963] 装弾数の話(その17) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/05/08(Fri) 21:11
MiG15とF86って凄く似てるよね?
昔、タミヤの1/100シリーズで2機セットのキットを買って組み上げた後、ためつすがめつ眺めたものだ。
懐かしい....

さて、そのMiG15だが新型の火器を備えて朝鮮戦争に参加したと前回、記述した。
新型ってのは毎分550発だったNS23を800発に向上させたNR23で同機はこれを2門装備していた。
ただし装弾数は各80発で射撃時間は僅か6秒に過ぎない。
あまり欲張らず「1機の迎撃戦闘機が1機の重爆をしとめれば充分」と考えればそれで足りるのだろう。
なにしろJS3重戦車の主砲弾搭載数だって28発だからね。
ロシア人は思いの外、欲張りじゃないのかも知れない。
それとも江戸っ子みたいに「宵越しの弾薬はいらねえ!」って話かな?

まあ、それはさておき、MiG15はNR23の他にもうひとつ新型火器を装備した。
NR23が副砲ならば主砲に相当する超大口径N37の登場である。
口径37mmのこの火器の弾頭重量は735gもあった。
なおNS23が対戦車用だったVYaのケース長を短くして開発された様にN37も対戦車用のNS37(重量170kg:900m/s)のケース長(195mm)を155mmに短縮化して開発されたらしい。
この為に初速が690m/sに低下して貫徹力が落ちたが発射速度は毎分300発から400発に向上し重量も103kgへ減少した。
装弾数は40発で射撃時間もこれまた僅か6秒だった。
だが発射時間は短いもののN37と2門のNR23が発揮する火力はShVAK7.7門分にも匹敵し1秒間投射弾量は10.2kgに達した。

一方、MiG15の対抗馬たるF86が装備したのは米戦闘機の主要火器ブローニング製12.7mm6門(装弾数各300発)であった。
ただし従来のAN/M2を改良したAN/M3なので発射速度がこれまでの毎分750発から1200発に向上していた。
1秒間投射弾量は5.76kgである。
なお開発元のノースアメリカン社は大戦中にP51を量産し戦後はこれをジェット化したFJ1フュリーを開発した。
そのFJ1フュリーの主翼と尾翼を新設計したのがF86である。
これらノースアメリカン製戦闘機が皆、12.7mm6門を装備していた理由は任務が戦闘機を相手に戦う制空戦闘機だったからに他ならない。

ただし...
P51がB17やB24の護衛戦闘機として長大な航続距離を誇ったのに対しF86は航続距離が短く戦術的任務しかこなせなかった。
まあB29だのB36だの極端に航続距離の長い戦略爆撃機が登場して来ちゃ護衛戦闘機を随伴させるのは不可能に近くなるからね。
硫黄島みたいに丁度良い所へ飛行場が確保出来れば別だが。
となると戦略爆撃の様相は重爆対迎撃戦闘機の空戦が基本となり「迎撃戦闘機は護衛戦闘機との空戦を考慮しなくて良い」と言う事になる。
だとすれば制空戦闘機のF86と迎撃戦闘機のMiG15の空戦は生起しない。

そうなる筈だったのだ。
ソ連本土防空戦に於いては。
だけど朝鮮戦争は「ソ連本土防空戦」ではなかった。
いわゆる「代理戦争」なのだ。
よって戦術爆撃が主体であり戦闘機同士がしのぎを削って制空権を奪い合う。
これはすなわちF86の領分だ。
かくしてMiG15は不本意な空戦に臨み惜敗を遂げたのである。

ここで双方の火器を比べて見よう。
1秒間投射弾量ではMiG15が圧倒的に有利だ。
ただしMiG15が1秒間に33.3発しか発射できないのにF86は120発も発射できる。
おまけにMiG15が6秒しか撃てないのにF86は15秒も撃てる。
つまりMiG15のタマは当たれば怖いが滅多に当たらず、撃ったらすぐ弾切れしてしまう。
こうなるとF86に軍配が上がるのは自明の理だ。
仕方あるまい。
なにしろF86はMiG15や戦術爆撃機を追っ払う為に開発された戦闘機なのだから。

とは言え朝鮮戦争で戦略爆撃機が投入された例が皆無だった訳ではない。
そしてその時にMiG15は大きな働きを示した。
えっ、MiG15が米戦略爆撃機を全滅させたかって?
いや、そこまでは...
なにしろ空には米戦闘機がぶんぶん飛び回っているからね。
B29にかなりの打撃を与えたものの米戦闘機に阻まれ撃墜まで至らなかったケースが多いらしい。
だけどもし米戦闘機がいない状況でB29がMiG15に襲われたらとんでもない損害を受けた事だろう。
逆にF86がB29を襲ったらどうであろうか?
多分、大した損害は与えられまい。
幾らジェットで高機動力でも所詮12.7mmは12.7mmなんだから。
もし12.7mmでB29が簡単に墜せるなら日本陸軍は日本本土防空戦で苦労しなかっただろう。

えっ、米軍機のF86が米軍機のB29を迎撃する想定なんか無意味だって?
ご冗談を。
大戦後にソ連軍が量産した戦略爆撃機Tu4がB29のデッドコピーだって事を忘れて貰っちゃ困る。
確かにTu4は高々度性能([889]参照)がB29に比べて劣るけど核兵器を搭載できるしソ連としちゃ立派な戦略爆撃機なのだ。
これが大挙して来襲したら米国とて焦土と化すだろう。
いやはや米国はとんでもないバケモノをソ連にプレゼントしちまった訳だ。
幸い米ソ双方が核装備のB29とTu4を繰り出しF86とMiG15がこれを迎撃する事態には至らなかったが....

もっとも1950年の時点で米戦略爆撃機主力をB29と考えるのはちょっと無理があるかも知れない。
なぜなら既にB36の配備が始まっていたのだから。
MiG15がB36を迎撃したらどちらに軍配が上がるのだろうか?
B36は防御火力(20mm16門)と防弾板で身を固めたタイプの米軍重爆としては系列の最後に位置する存在だ。
果たしてインディアンの大群の如く襲い来るMiG15を防ぎ止められるか否か大変興味がある。

それはそうと一部の航空機評論家が朝鮮戦争のキルレシオから「F86は傑作、MiG15は駄作」と評価しているが僕は一概にそうとばかり言えないと思う。
なにせ開発目的が全く違う。
テニスプレイヤーがテニスが上手いのは当たり前だ。
MiG15が戦闘機相手の空戦で負けるのは相撲取りにテニスをさせ「負けるのは運動神経が悪いからだ」と言う様な物である。
やはり相撲取りは土俵の上で評価して貰わないといけない。

それでは戦後のソ連戦闘機は対戦略爆撃機用の迎撃戦闘機一点張りだったのだろうか?
そんな事はない。
MiG15とほぼ同時期に開発されたYak15は23mm砲2門、La15は23mm砲3門装備で制空戦闘機としての色彩が強かった。
でも米の戦略爆撃機がいつなんどきモスクワ上空に現れるか知れないんだよ?
どうしたって対戦略爆撃機用のMiG15の方が必要に決まっている。
まあ「全面核戦争なんて起きないんだよ。だったらしょちゅう発生する代理戦争に備えて戦術支援用の制空戦闘機を量産した方がお得」って考え方もあるが。
本気で全面核戦争を考えたソ連とそうでなかった米国。
MiG15とF86は見た目がソックリだが装備火器の系統がまったく逆なのはこうした事情が背景にある。

ところで装弾数の話だが...
対戦略爆撃機用にどんどん口径が大きくなり逆に装弾数はどんどん少なくなっていった。
つまり射撃時間が短くなり一撃離脱戦術しか出来なくなっていったのである。
そして行き着いた先は...
空対空ミサイルの登場だ。
でも航空機用火器が廃れた訳ではない。
現在でも軍用機はバルカン砲などの火器を装備しているし装備している以上、「装弾数はその程度が適正か?」と言う問題が常に存在する。
ちなみにF15は20mmM61A1バルカン砲を装備しているが装弾数は940発だ。
果たしてそれが適正なのか否か?
きっと何処かで誰かが装弾数について語り合っている事だろう。
(了)

[962] 御礼 投稿者:心。 投稿日:2009/04/29(Wed) 02:22
>阿部隆史様
ドイツ戦車らしからぬ名前だと思ってたのですが、なるほど試作車両だったんですか。
解説ありがとうございます、勉強になりました。

クーゲルブリッツは前にプラモを作った事がありますが、あの30mm砲を4門も積むのは確かに無理がありますね。

[961] 装弾数の話(その16) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/27(Mon) 18:50
第2次大戦中に生産された大部分のソ連製戦闘機は航空機用大口径として20mmのShVAKを装備した。
よってShVAKはソ連戦闘機の主要大口径火器と考えてさしつかえない。
ただしソ連にはもうひとつの重要な航空機用大口径火器があった。
そしてこの火器は戦闘機には殆ど装備されなかった。
果たしてこの火器はなんであろうか?
爆撃機の旋回機銃か?
そんな事は無い。
ソ連爆撃機が装備した大口径火器は大抵、ShVAKだった。
勿体ぶってないで種を明かそう。
この火器の正体はIL−2シュツルモビクが装備したVYaなのだ。

ほぼ1機種(それも初期型はShVAK装備)にしか装備されなかったのにVYaはなんと64655門も生産されている。
そりゃそうだ。
なにせIL−2の生産数は世界航空機史上最多(Bf109を最多とする資料もある)の36183機だからね。
しかも2門ずつだから数も多くなる訳だ。

ところでソ連軍がShVAKとは別にVYaを量産した理由はなんであろうか?
装備機が襲撃機なんだから賢明なる本掲示板読者諸兄はすぐわかるよね。
そう、貫徹力と破壊力の向上なのだ。
VYaの口径は23mmでShVAKより3mmしか大きくなってないがケース長は99mmに対して152mmと1.5倍も大きくなっている。
よって初速が905m/sとShVAKの750m/sよりだいぶ速くなった。
加えてたった3mmしか口径が違わないのに弾頭重量が200g(ShVAKは97g)もあり枢軸側AFVに対して恐るべき破壊力を発揮した。
ねっ、数字で比較すると凄いでしょ。

ShVAKとVYaの関係は前回書いたMK103とMK108の関係に非常によく似ていて興味深い。
となればMK103の欠点がそのままVYaに反映されるのは火を見るより明らかである。
ズバリ、重量が過大で発射速度も遅いのだ。
ShVAKは42kgだったがVYaは66kgもあり発射速度は毎分800発から毎分600発に低下している。
まあ用途が用途なんだから仕方ないけどね。

さて、話を元に戻そう。
今回のテーマは「米英戦略爆撃機に対してソ連軍迎撃戦闘機が如何にして火力強化を図ったか?」なのである。
「それじゃ、なんで対戦車用のVYaの解説?」と思われるかも知れない。
これにはちゃんとつながりがあるのだ。
それまでドイツの戦術支援機や戦闘機ばかり相手にしていたソ連軍はとんと戦略爆撃機に対する迎撃戦に縁がなかった。
しかし日独が表舞台から消え、ふと気がついてみるといつの間にか英米の戦略爆撃機と相対せねばならなくなった。
おまけに相手は核兵器なんてとんでもない物を持っている。
よってマジで一撃で落とさなくてはならない。
となるとドイツ相手では充分だった20mmShVAKはあまりにも破壊力が物足りない。
そこで対戦車戦で威力を発揮した23mmを次世代大口径に選んだのだ。
だが前述した欠点があるからVYaをそのまま使う訳にはいかない。
戦略爆撃機を迎撃する上で必要なのは貫徹力でなく破壊力だけだ。

かくしてケース長を115mmに短くして初速を690m/sに落とし重量を僅か37kgに抑えたNS23が新型大口径火器として開発された。
これを装備したのがLa9で機首に同軸4門(装弾数各75発)を装備している。
NS23は発射速度が毎分550発だから射撃時間は僅か8秒に過ぎない。
ただし弾頭重量はShVAKの2倍なのだから発射速度の低下を考慮しても4門のNS23で実質的にShVAK6門以上の火力が発揮できる。
さあ、次にソ連は何を考えると思う?
勿論、23mmの発射速度向上と超大口径の開発だ。
これを装備したのが朝鮮戦争の花形MiG15なのである。
(続く)

[960] まとめレス 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/26(Sun) 19:11
プラモ派氏宛
>ちょっと反省しました。

読み返して見たら僕の文章が少々、堅苦しくなっていた。
こちらこそ失礼。

ワルター少尉氏宛
>同じBf109でも20ミリを装備したG1の方が15秒も撃ててバランスが良いと思います。

まあ30mmに移行せざるを得ない程、事態が窮迫していたと言う事なんだろうね。
確かに20mmを多数撃ち込めば30mmと同等の射撃効果が期待できるけどそれだけ撃ち込む前に取り逃がしてしまう事もあり得るので。


心。氏宛
>さて文中に出てきたツェルシュテーラーというのは、どういったものなのでしょうか。
文脈からすると対空戦車のようですが、恥ずかしながら聞いた事が無いもので・・・・

第2次大戦中、ドイツ軍は各種W号系対空戦車を開発した。
37mm1門装備のオストビントや20mm4門装備のビルベルビントなどだ。
ツェルシュテーラーはこのビルベルビントの拡大型で30mmを4門装備している。
ただし1945年に1量が試作されただけで量産はされなかった。
なにしろ20mm4門だって窮屈なW号シャーシに30mm4門だ。
どうしたって無理だろう。
結局の所、W号系の30mm対空戦車は2門装備のクーゲルブリッツが本命となっている。
ちなみにツェルシュテーラーとは英語のデストロヤーの事で日本語では破壊者を意味する。
よってドイツ海軍では駆逐艦、ドイツ空軍ではBf110の事なのでご注意いただきたい。

[959] Re:[957] 装弾数の話(その15) 投稿者:心。 投稿日:2009/04/26(Sun) 00:45
こんばんは。
装弾数の話、いつも興味深く拝見しております。

さて文中に出てきたツェルシュテーラーというのは、どういったものなのでしょうか。
文脈からすると対空戦車のようですが、恥ずかしながら聞いた事が無いもので・・・・

[958] Re:[957] 装弾数の話(その15) 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2009/04/25(Sat) 16:20
> 装備した航空機はBf109G6(1門:65発:6.5秒)、Ta152(1門:90発:9秒)、Ta154(2門:110発:11秒)、Me262(4門:80もしくは100発:8秒もしくは10秒)など多岐に及ぶがどれもこれも至って少ない。

幾らBf109G6の30ミリが大火力でも6.5秒しか撃てないのでは兵器として困りますね。
同じBf109でも20ミリを装備したG1の方が15秒も撃ててバランスが良いと思います。
30ミリの効率が3倍なら20ミリの19.5秒に相当しますが戦闘機との空戦で勝ち残らなければ結局、爆撃機を攻撃できないのですから。

[957] 装弾数の話(その15) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/24(Fri) 17:12
今日はドイツ。
地球の裏側の太平洋戦域では日本陸海軍が今一歩の所で超大口径を物にできずB29相手にほぞを噛んだがドイツ本土防空戦じゃ超大口径を装備した猛禽達が連合軍4発重爆を昼夜分かたずギッタギタに叩きのめした。
結局は負けちまったが...
あれ?
ビュルガー(モズ:Fw190)やウーフー(フクロウ:He219)は猛禽だけどシュワルベ(ツバメ:Me262)は猛禽じゃないな。
まあいいか。

正直言ってドイツ本土に来襲するB17やB24、ランカスターやハリファックスを叩き落とすには20mmのMG151でも充分に思われるのだがそこは凝り性なドイツ職人魂、超大口径の航空機用火器としてふたつの逸品を産み出した。
MK103とMK108である。
この両者は口径がどちらも30mmだったが弾薬は別であり火器としての性格が驚くほど異なっていた。

ちなみにこれらの火器名に付けられたMKのスペルは型式を表すMARKの略ではない。
機関砲を表すモーターキャノンの略なのだ。
ドイツでは30mmクラスから機関砲、それ未満を機関銃としてるので他国では機関砲扱いの20mmでもMG(マシンガン)に類別されている。
日本海軍では30mmだって機銃、日本陸軍では12.7mmでも機関砲だから「銃と砲の違いは何?」なんて考えない方が宜しかろう。
それでは両者の解説に移る。

まずMK103だがこれはW号戦車のシャーシ(クーゲルブリッツやツェルシュテーラー)や艦船(U21型)に装備して航空機を撃つわ航空機に装備するわの万能機関砲であった。
ここで少し考えて欲しい。
「航空機を撃つ火器」と「航空機が撃つ火器」は根本的に用途が違うのだ。
MK103はかなりの高初速(940m/s)だったがこれはケース長(184mm)が大きく砲身も長かったからである。
そして何故、高初速が求められたかと言えば長射程(5700m)と命中率の高さが求められたからに他ならない。
まあ対空兵器は基本的に高初速だからね。
ただしケース長が大きければ反動がそれだけ大きくなるので反動を吸収する閉鎖器は重厚長大になる。
高初速を得るために砲身を長くすれば重量は更に増える。
かくしてMK103の重量は141kgにも達した。
まあ戦車や艦船にとっちゃ屁でもない程度だが航空機にとっては由々しき問題だ。
閉鎖器が重いから発射速度も毎分400発と遅い。
これまた空戦で使用するには芳しくない。

それでは何故、「航空機を撃つ火器」のMK103が航空機に装備されたのか?
その理由は上空からAFVを撃つ為である。
対空火器は高初速なので射程が長いだけでなく貫徹力も高い。
だから88mm砲などの様に対戦車火器としても重用された例が多い。
MK103装備したのはHs129やFw190系(翼下追加装備)、一部のBf109K(同軸)などである。

さて、対戦車用として優秀なMK103の長所はとりも直さず対空用としては短所の羅列となる。
ここで登場するのがMK103と正反対のスタンスで開発されたMK108だ。
すなわちケース長が半分以下の90mmしかなく短砲身だから初速は505m/sと滅法低いが発射速度は毎分600発と高く重量がたった60kgしかない。
なにしろ航空機の防弾板は厚くても20mm未満だから貫通を目的とするならMG151/20やHS404、日本海軍の2号銃などの20mmクラス大口径火器で充分なのだ。
ゴルゴ13の如く見事に急所に当てられればね。
でもそんなのは無理。

以前この掲示板で書いたけどA・ガーランド中将曰く「経験からすれば1機の空の要塞を撃墜するのに20ミリ機関砲の弾丸を約20発から25発命中させる事が必要だった。(「始まりと終わり」172頁で)だそうな。
小型機を撃つ時は搭乗員や発動機に当たる可能性が高いから火器の貫徹力と防弾板の厚さで勝敗が決するけど大型機に対しては「どれだけの弾量を撃ち込んだか?」が決め手になるんだね。
これはすなわち[929]で書いた様に航空機を撃墜するには幾つかの方法があって4.の「主要構造材の破壊」になる訳だ。
このやり方が通用するのは炸裂弾を撃てる大口径以上が大部分になるんだけど20mm20〜25発は30mmのMK108で何発に相当するんだろうか?
一説によるとどうも約4発らしい。
となると効率は20mmの5〜6倍である。
発射速度がMG151/20の75%かつ初速が低いから命中率が若干低下したと考えても3倍くらいにはなるだろう。
う〜ん、いいねえ。
絶大な火力向上だ。

でもね...
超大口径のMK108にも大きな欠点があったのだ。
そう。
幾らケース長が短くなったと言っても超大口径なんだから装弾数がやたら少ないのである。
装備した航空機はBf109G6(1門:65発:6.5秒)、Ta152(1門:90発:9秒)、Ta154(2門:110発:11秒)、Me262(4門:80もしくは100発:8秒もしくは10秒)など多岐に及ぶがどれもこれも至って少ない。
敵が4発重爆だけなら1撃離脱で帰ってくればいいのだから心配ないが護衛戦闘機をかいくぐって迎撃するのであれば...
ちょっと使いにくい火器だよね。
よって護衛戦闘機との空戦が避けられないBf109G6はMK108を同軸に1門装備した他、対護衛戦闘機用には2門のMG131を使った。
これに比べ護衛戦闘機に回り込まれる恐れの殆ど無い高速のMe262は副武装無しで機首にMK108を4門も装備している。
なんとも恐るべき火力だ。
Me262を装備したJV44航空団は大戦末期に4発重爆をドシドシ撃墜した。
その理由としてエース搭乗員の技量とジェットによる高速性がまず挙げられるがMK108の大火力も忘れてはならないだろう。
なおMK108はプレス構造で作られた無骨な機関部と極端に短い砲身から「砕石器」と渾名されていた。
(続く)

[956] 装弾数の話(その14) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/22(Wed) 17:05
戦略爆撃についての話が長くなったので随分と間が空いてしまった。
それでは「装弾数の話」を続けるとしよう。

日本陸軍戦闘機の超大口径火器は30mmクラスと37mmクラス、57mmクラスの3段階(40mmのロケット砲や75mmの高射砲はちょっと除外)に分けられる。
これら3段階のうち最初に実用化されたのは37mmクラスのホ203だった。
昔々のその昔、第一次大戦を横目で見ながら日本陸軍は「これからは塹壕戦の時代らしい。」と思い「塹壕戦なんだからトレンガンが必要だろう。」と考えた。
トレンチガンとは敵塹壕の中枢をなすトーチカの銃眼や機関銃座を狙撃する小口径歩兵砲だ。
かくして1922年に制式化されたのが11年式平射歩兵砲(37mm28口径)である。

これを発達させたのがホ203(実包重量838g)で2式複戦に装備され対B29戦に於いてかなりの活躍をした。
資料により重量が60、80、90kg、装弾数が16、25発、初速が410、570m/s、発射速度が毎分100、120、140発と諸説ありどれが正しいのかどれも正しくないのか皆目分からないが陸海軍を通じ日本で実用化され実績を挙げた唯一の航空機用超大口径火器なのは間違いない。
ホ203は旧式火砲の流用ながらそれなりに優秀であった。
そしてホ203を基礎に拡大したのが57mmのホ401である。
この火器の性能も重量150、160kg、初速495、565m/s、発射速度毎分30、50、80発など諸説あってハッキリしない。
装弾数は16発、弾頭重量は1550g、実包重量は2100gらしい。

それにしてもこの火器で何を撃とうと言うのか...
幾らB29が重防御でも当たりさえすれば37mmのホ203で充分だ。
問題は破壊力ではなく命中率なのである。
それなのにホ401の発射速度はホ203に比べ輪をかけて遅いから命中率はかえって低下してしまう。
だからどうしたって対航空機用ではなく対地上目標にしか使えない。
(これでB29を撃墜した例もあるにはあるのだが)
本土防空戦で大忙しの御時世にこんな火器が必要なのだろうか?
だが不思議な事にホ401もまた量産化されキ102乙に装備された。
そりゃそうだ。
キ102乙は対地攻撃用の襲撃機だもの。
問題は「1機でも防空戦闘機が必要な時に襲撃機を量産した事」にある。
よってホ401は量産されたもののホ203の様な実績は挙げていない。

さて、それでは実績を挙げなかった次の超大口径に筆を進めるとしよう。
まず最初は30mmのホ155。
「装弾数の話(9)」で書いた4式戦丙に装備した超大口径火器がこれだ。
このホ155、もとをただせば20mmのホ5の拡大型なのだ。
つまり米製12.7mmブローニングのコピーがホ103で、その拡大型20mmがホ5、更にそれを拡大したのが30mmホ155となる。
ホ155の実包重量は520gで4式戦丙型、キ83(装弾数100発)、キ87、キ94(装弾数100発)、キ102丙、火龍などに各2門の装備が予定されていた。
重量は50kgと超大口径としては極端に軽く発射速度は毎分600発だった。
つまりカタログデータとしては最高傑作と言えよう。

でもねえ...
本家本元の米国ですら「ブローニング系のショートリコイルは大口径には不向き」と判断してたし日本陸軍も「20mmのホ5でも少々無理があった」と反省してる位だ。
その30mm版なんだからどうしたって故障しないはずがない。
多分、アラが出なかったのは実戦に間に合わなかったからなんじゃないかな?
けれど日本陸軍はよくよくブローニング系が好きだったと見える。
こう書けばわかるでしょ?
もっと凄いのが出てきそうだって事が...
そう。
日本陸軍は作ったのだ。
ホ155を37mmに拡大した究極のブローニング系ホ204を。

この火器の性能は重量が130、180kg説、初速が600、710m/s説、発射速度が毎分200、400発説とあってちょっと実体が掴めない。
装備されたのは100司偵の改造戦闘機(斜銃)やキ102甲、キ108などの高々度戦で2式複戦の後継と言える機体達だった。
ホ204は前述した対地用の57mmホ401に比べれば対航空機用のまっとうな火器なんだから実戦投入できなかったのがちょっと惜しまれる。
まあ故障しなければの話だけど。
ちなみに装弾数はキ102甲やキ108が35発だったらしい。
100式司偵の斜銃は航空機総集などで装弾数200発と記述されているがこれは何かの間違いだろう。
ホ204の実包重量は985g(弾頭475g)だから200発も積んだらえらい事になる。
全く不可能とは言えないがちょっと納得し難い数字だ。

さて37mmのホ204や57mmのホ401は陸軍航空機用火器の横綱的存在だがここが進化の到達点だったんだろうか?
いやいや、まだ上がいた。
本当の頂点は対地用に開発された57mmホ402なのだ。
えっ?
57mmの対地用ならさっき出てきたホ401で充分だろうって?
うん、僕もそう思う。
でも日本陸軍は開発したのだ。
更に強力な超大口径火器「ホ402」を...
ホ402の実包重量は3250g(弾頭重量2700g)、初速は750m/s、発射速度は毎分80発、重量は500kgに及ぶ。
そしてこれを装備する為に開発されたのがキ93襲撃機だ。
こんなデカブツを装備するんだから重爆なみの巨体になったが装弾数は20発と意外に少ない。
反面、副武装として主翼に2門装備された20mmホ5(主翼に2門装備)の装弾数は各600発とメチャメチャ多い。
出典は航空機総集だけどこれも100式司偵の斜銃と同じで「何かの間違い」なのかも知れない。
(続く)

[955] おひさしぶりです。 投稿者:プラモ派 投稿日:2009/04/21(Tue) 20:50
正直に言うと僕は戦争が好きなんです。
実際に今、戦争が起きて欲しいわけじゃありません。
殺されるのは僕だって嫌ですから。
でも艦船や航空機のプラモを作るのは好きだし戦争映画も好きです。
皆さんだってそうでしょう?
でも戦争映画だって全部が全部、好きではありません。
特に「蛍の墓」は苦手です。
数ある戦争映画の中でも好きなのは軍隊同士の戦いを描いた作品ばかりですね。
北アフリカ物とか。
やはり戦略爆撃からは自然と目をそらしていたのかも知れません。
ちょっと反省しました。

[954] 戦略爆撃(これで終わり) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/18(Sat) 21:00
>「精密爆撃」だとなぜニュアンスがちがうのかよく判らない
>のですが「精密爆撃」と「じゅうたん爆撃」ではいかがでしょうか?


確かに「じゅうたん爆撃」と言う単語はよく目にするし対語としては「精密爆撃」になるだろうね。
だけどここで問題となるのは本文に於ける戦略爆撃の区分が「民間人の大量殺傷を目的としているか?」にあるんだ。
ちなみに「じゅうたん爆撃」とは目標を照準せずに面として水平爆撃する事で戦略爆撃と戦術爆撃の双方で使用される。
精密爆撃はその逆だ。

ここでちょっと考えて頂きたい。
対象となる地域に民間人が全く存在しない場合、じゅうたん爆撃と言えど全く非人道的ではない。
逆に都市の住宅地を正確な照準で精密爆撃したら充分に非人道的となる。
つまり「じゅうたん爆撃と精密爆撃の区分」は投下法の区分であり「民間人の大量殺傷を目的とした非人道性」を論じるには観点が異なるのだ。
僕が「ニュアンスが異なる」としたのはここにある。
よって正確には単なる「精密爆撃」ではなく「都市に対する非人道的でない精密戦略爆撃」となる。
でもこれじゃ長すぎるから本文中では「精密爆撃」で済ます事にしよう。

なおひとくちに精密爆撃と言ってもそれには高精度の照準器が必要だ。
しかし大戦中、その名に値するだけ高精度の照準器を量産配備できたのは米国(ノルデン照準器)だけだった。
日本もノルデン照準器のデッドコピーを開発したが終戦までに実用化できていない。
でもまあ精密とまではいかないが「やや精密程度」なら英独ソ日でも可能である。
これも精密爆撃と「やや精密爆撃」で区分するのは厄介だから双方合わせて精密爆撃としよう。

ところで精密爆撃はどの程度、精密なのだろうか?
B29は充分な効果を挙げるまで何度も日本の航空機工場を爆撃した。
すなわちそれは何度も失敗した末に成功したと言う事だ。
となると精密爆撃はあまり「精密」ではないらしい。
その原因は風に由来する。

精密爆撃をするにはデータとして自機高度、速度、投下爆弾の弾道特性が必要だ。
これらのデータが正しく無風なら爆弾はそれなりの命中率で目標へ当たるだろう。
だが風がふいていれば爆弾はあらぬ所に落下する。
よって風向と風力もデータとして把握する必要がある。
ところが爆撃高度から地表まで常に一定の風向で同じ風力の風が吹いている訳ではない。
まして高度が高くなればなる程、風による影響は大きくなり着弾点はずれる。
高度を下げれば命中率が高くなるが対空火器による損害が激増してしまう。
更に米軍の場合、排気タービンによる高々度の優位性が失われるから迎撃戦闘機による損害も増える。
だから精密爆撃は常に高々度爆撃が前提となる。
それでも米軍は精密爆撃に固執した。
1945年3月10日に東京を夜間爆撃するまでは...

英独が夜間爆撃を選択した理由は前述の通りだ。
また強いて理由を追加するなら英独戦略爆撃機の防弾装備が弱い事、防御火力が小さい事、速力が遅い事などが挙げられる。
日本の重慶爆撃は昼夜双方で行われたが基本的に昼間が中心だった。
1939年は25%、1940年は83%、1940年は81%が昼である。
なお日本軍が昼間爆撃した理由は「民間人の大量殺傷」を避ける為ではない。
外交摩擦を避けるのが目的であった。
当時、中華民国の首都であった重慶には多数の在外公館が林立していた。
しかも日中両国は正式には「戦争状態」になっていない。

それではなぜ1939年には夜間爆撃が多かったのだろうか?
その理由は1939年の段階ではまだ零戦が配備されておらず爆撃機が単独で戦略爆撃しなければならなかったからだ。
硫黄島の陥落とP51の同地進出が1945年4月7日からのB29による昼夜兼行爆撃へ繋がった事を思い返して頂きたい。
それと同じ事が1940年の重慶上空で繰り広げられた。

戦略爆撃は戦略爆撃機だけで行われる軍事行動ではない。
戦略爆撃機と護衛戦闘機、迎撃戦闘機のパワーバランス、戦略爆撃に対するドクトリンなどで大きく変容するのである。
戦略爆撃は民間人を巻き込む悲惨な軍事行動だから感傷的な視点だけで語られる事が多い。
逆に軍事に関心ある方は戦略爆撃から目を逸らす傾向がある。
だが戦争の帰趨に多大な影響を与え国民全てを当事者にしてしまう重大な問題だ。
是非ともこの問題については多くの方に熟考して頂きたい。
(完)

[953] Re:[952] 戦略爆撃(もうすぐ終わり) 投稿者:ワルター少尉 投稿日:2009/04/16(Thu) 21:51
> すこしニュアンスが異なっているかも知れないがとりあえずここは「精密爆撃」と言う単語で話を進めるとしよう。

「精密爆撃」だとなぜニュアンスがちがうのかよく判らない
のですが「精密爆撃」と「じゅうたん爆撃」ではいかがでしょうか?

[952] 戦略爆撃(もうすぐ終わり) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/15(Wed) 19:44
第二次世界大戦勃発時、核兵器開発がもっとも進捗していたのはドイツだった。
しかし多数のユダヤ系科学者が亡命した事とヒトラーが核兵器にさして関心を示さなかった事により次第に遅れが目立ち始める。
またソ連も意外と早く1940年末にはサイクロトロンの建設に着手した。
これに対し米国は立ち上がりがかなり遅く真珠湾奇襲の前日にようやく科学研究開発庁(ブッシュ長官)が設立されたのである。
「定本・太平洋戦争」でもソ連の核兵器研究の開発開始は米より1年早かったと記述されている。

だが先行する独ソは1941年6月のバルバロッサ作戦発動で核兵器開発に著しい停滞をきたしてしまう。
数年先の超兵器より目先の戦車増産、航空機増産が焦眉の急となったのだ。
「米軍が記録した日本空襲」ではクルチャトフがソ連の核開発責任者であったが1942年に開発中断されポツダム会談後に再開と記述している。
ドイツもまた大きな遅れをきたした。
かくして米に好機が到来する。

1942年8月にはマンハッタン計画が発動、同年末から翌年初頭にかけプルトニウム生産用のハンフォード工場とウラン生産用のクリントン工場が建設され1943年4月には組み立て用のロスアラモス研究所も完成する。
更に英国の科学者が米国陣に合流、「理論上の兵器」は次第に「実用兵器」の色彩を帯びてくる。
ここで米英はコマンド部隊をノルウェーに送ってドイツの重水工場を爆破したり重水運搬船を沈めたりして妨害を繰り返す。
加えて当時、もっとも有力なウラン鉱山はコンゴにあったがこれを利用できるのは制海権を握っている米英だけであった。
米が先行する独ソを追い越し核兵器を実用化できた背景はこうした事情による。

さて、核兵器は究極の戦略兵器だ。
たった1機の重爆で4000機分の破壊をもたらす。
ただし破壊力が大きいので軍需産業や軍事施設と一般市民を判別できない。
よって「核攻撃=民間人の大量殺傷」となる。
第二次世界大戦中、戦略爆撃により多くの民間人が死亡したので「戦略爆撃=民間人の大量殺傷」と思われがちだが戦略爆撃は必ずしも民間人の大量殺傷を目的としていない。
基本的には軍需産業や交通機関などへの攻撃が目的だ。
ここで「軍需産業や交通機関などへの攻撃で民間人は死傷しないの?」とか「軍需産業の工員や交通機関の乗客は民間人じゃないの?」と言われると「全ての戦略爆撃は非人道的」となってしまい戦略爆撃の本質を見極められなくなってしまう。

戦争で人命が失われるのは悲しい事だ。
だが一口に人命と言っても軍人と民間人では道義的に少し異なる。
更に一口に民間人と言っても軍需工場の工員や輸送船の船員と婦女子ではこれも異なる。
よって軍需工場に対する戦略爆撃と住宅地に対する戦略爆撃は随分、意味合いが異なると僕は思う。
そこで戦略爆撃を区分したいのだが「非人道的」と言う単語を使用すると少し表現が怪しくなってくる。
「非人道的戦略爆撃」の方は言葉通りの意味が伝わるが対語の「人道的戦略爆撃」となると「どういう意味?」になってしまうからだ。
人道的支援と言う言葉はあっても人道的戦略爆撃はありそうにない。

僕としては戦略爆撃を犯罪的と非犯罪的に区分するのが良さそうに思うが犯罪的と断ずるからには法に抵触している必要がある。
ところが第二次世界大戦を代表する三大戦略爆撃(対独、対日、対英)の全てで「民間人の大量殺傷目的の爆撃」が行われたにも関わらず裁判されてはいない。
戦勝国、敗戦国に関わらず...
三大戦略爆撃に比べると小規模だが日本も中国に対して戦略爆撃をしている。
この場合も日本の罪が問われる事はなかった。
さすがに米英とて日独諸都市を廃墟にしておきながら自分の罪だけ棚に上げるのは憚られたのであろう。
いずれにしても「民間人の大量殺傷目的の爆撃」が法に触れない以上、犯罪と言う単語は使用できない。

「民間人の大量殺傷目的の爆撃」もしくはそれに準拠する爆撃を「無差別爆撃」とする場合がある。
この単語は比較的、使い易い。
だが対語はどうなるだろう?
差別爆撃?
これまた聞いた事がない言葉だ。
軍事目標を選別し民間人への被害を出来るだけ抑えた戦略爆撃をなんと呼べば良いのだろう?
すこしニュアンスが異なっているかも知れないがとりあえずここは「精密爆撃」と言う単語で話を進めるとしよう。
(続く)

[951] 戦略爆撃(更に続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/12(Sun) 20:04
今回のテーマはすこし心がおもい。
B29とならび対日戦略爆撃だけで使用された兵器、「核」である。
だが第二次世界大戦の戦略爆撃を概括するうえで核兵器の存在を避ける訳にはいかない。
たとえそれが第二次世界大戦の最終頁に記載された項目であったとしても...

広島と長崎で使用された核兵器は巨大な破壊力で両市に壊滅的打撃を与えた。
今でこそ核兵器の破壊力が通常兵器に比べて段違いに大きいのは周知の事実だ。
だが1945年8月の時点ではトリニティ実験(アラモゴールドでの核実験)に関わった一部の人間だけがそれを知っていた。
その「一部の人間」にしても1945年7月16日のトリニティ実験前までは核兵器の破壊力を本当には判らなかったのである。
「破壊力の予測」で近似値を的中させたラービ博士を除いては...

我々は歴史から学べるから「どの様な原材料をどれだけ用意しどれだけの期間をかければどれだけの破壊力をもつ核兵器が作れるか?」を知れるが核兵器開発当事者達(政治家、科学者、軍人など)はそれを知らないまま大戦勃発を迎えた。
核兵器は綿密なスケジュールに従って順当に開発されたプロジェクトではない。
まだ海の物とも山の物とも判らない理論を元に始められた大バクチなのである。
それでは開発担当者達が知らなかった重要な点を列挙しよう。

1.核兵器は航空機へ搭載できる程小型化できる。
2.核兵器は大破壊力である。
3.核兵器は1945年8月までに実用化できる。

意外に思われるかも知れないが当初、核兵器は航空機に搭載可能な程、小型化できると思われていなかった。
よって艦船に搭載し自爆攻撃が企図(勿論、乗員は事前に脱出するかリモートコントロール操船と思われるが)されていたのである。
「定本・太平洋戦争」によると航空機による核兵器の使用が決定されたのは1943年9月らしい。
次に破壊力だが英のモード委員会は1941年7月の時点で「破壊力1.8ktのウラン爆弾は製造可能」と報告していた。
更に核兵器開発の総責任者であった米陸軍のグローブズ少将は1944年12月末、マーシャル参謀総長に「核兵器の完成予定は1945年8月、破壊力は0.5kt」と報告している。
そして...
実際にアラモゴールドで爆発したMK3ファットマンの破壊力は20kt(22ktと記述する資料も多い)でグローブス少将の予測より40倍も強大であった。
マンハッタン計画には20億ドルの予算(アイオワ型戦艦の建造費用が約1億ドル)が費やされたが、果たして核兵器に20億ドルに見合うだけの価値があるかどうか当初は誰にも判らなかった。
開発総責任者の予測が0.5ktと言う事はそれで20億ドルに見合うと考えられていたのだろう。
それがいざ出来上がって見ると破壊力が40倍なのだから20億ドルの投資に対し40倍の配当があったのと同じである。

ここで最初に考えられていた核兵器の使用法を頭の中で思い描いて頂きたい。
0.5ktの破壊力を持った核兵器を搭載した船を敵中に進撃させ自爆させる。
これは船を使用する以上、太平洋方面を前提としており恐らく目標はトラックなどの艦隊根拠地かサイパンなど日本陸軍が守る航空根拠地なのであろう。
自爆船が航空機に沈められては元も子もないから接近するのは夜間だ。
1回目はうまくいくかも知れない。
核を搭載した自爆船がやってくるとは思わないだろうから。
けれど2回目以降はどうであろうか?
怪しげな船の接近は断固として阻止されるに違いない。
核爆発に巻き込まれてはならないから自爆船周辺に護衛を配置する事もできない。
1回目にしても爆発力が0.5ktに過ぎないのだから大した戦果を挙げられるかどうか....
最初考えられていた核兵器はこの様に大変使いにくい兵器だったのである。
だが数々の難関を越え核は大破壊力かつ航空機搭載可能な兵器として誕生した。

さて、次にもっとも大きな問題「いつ頃完成するか?」を考えてみよう。
どんな兵器でも完成しなければ絵に描いた餅に過ぎない。
それでは連合軍は核兵器の完成をいつ頃と予測していたのだろうか?
なんと驚くべき事に米は「独の方が先行しており間に合わないかも知れない」と思いながら超特急で開発を進めていたのである。
だが米の心配は杞憂に過ぎず独の核兵器開発はさして進捗していなかった。
1942末、米が核分裂の連鎖反応に成功した時には独が1年先行してると大統領へ報告されているが1943年8月には独に追いついたと報告されている。

なお当時米国が開発した核兵器にはウランを原料とするMK1(リトルボーイ)とプルトニウムを原料とするMK3(ファットマン)の2種類があった。
両者のうちMK1は試作型、MK3が量産型である。
MK3の量産は120発で終了したがほぼ同型のMK4が550発、それを改良したMK6が1100発と以降10年に渡って生産が続けられた。
もしも「1945年夏には間違いなく核兵器が使用可能」と判っていれば...
きっと連合軍は16万名もの戦死者を出した対独戦略爆撃を手控えたであろう。
特攻で大きな犠牲を払った沖縄攻略戦も止めたかも知れない。
だが全てが終わった後で核兵器は登場してきた。
まるで次の世界大戦の予告であるかの様に。
(続く)

[950] 戦略爆撃(またまた続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/02(Thu) 19:58
対独戦略爆撃と対日戦略爆撃の相違をもう少し追ってみよう。
民間人の大量殺傷を目的とした「都市に対する夜間爆撃」が多発したのはどちらも同じだが「昼間工場爆撃での結果」は大きく異なった。
対独戦略爆撃では大量の爆弾を投下したにも関わらずドイツの生産力を低下させられなかったが対日戦略爆撃では投下量に比べ著しい成果が挙げられた。

日本の航空機生産量は1944年9月の2572機をピークとして以後、12月には2110機、1月には1836機、2月には1391機と減少に転じている。
たがこの減少要因は対日戦略爆撃による結果ではない。
日本の航空産業に痛打を浴びせた4月7日の武蔵工場空襲(中島の発動機生産量激減)、6月22日の各務原空襲(川崎航空機工場壊滅)、7月24日の愛知県の中島飛行機半田工場空襲などはまだ生起していないのだから。
年末から2月にかけての激減は前年末に愛知県を襲った東南海地震と工場疎開による影響が大部分なのである。
よって航空機生産量はジワジワと盛り返し5月には1592機にまで戻った。

それでは対日戦略爆撃で日本航空機産業は衰退しなかったのだろうか?
そんな事はない。
前述の各空襲によって6月は1340機、7月は1131機とジリジリ低下している。
「定本・太平洋戦争」によれば米軍は日本の航空機工場へ爆弾14252t(対日戦略爆撃の8.4%)を投下し建物面積の60%を焼失させた。
また石油関係施設にも10600tの爆弾が投下され精油所の50%と貯油槽の60%が破壊されるに至った。
一説によれば大戦末期の生産力低下は商船不足による物資欠乏が要因とされ「対日戦略爆撃は大きな影響を及ぼさなかった。」とする識者もいる。

確かに米潜水艦の跳梁によって日本の海上交通線は寸断された。
しかし例え船舶数が充分にあり物資が還送されたとしても末期には戦略爆撃で生産力が激減していたのである。
日本を経済的に締めあげるなら通商破壊戦で資源を枯渇させるか戦略爆撃で生産力を壊滅させるかどちらかひとつをすれば良い。
どちらかひとつでも日本は充分、滅ぶのだから。
だが米軍は両方とも実行した。
「資源がなければ生産力があっても生産できない。だから資源不足の方が先。」とも考えられる。
よって「日本経済にとどめを刺したのは戦略爆撃では無くて米潜水艦。」とも言えよう。
しかし致命傷がひとつだけとは限らない。
物資不足は日本を敗戦に導く致命傷であったが生産力の激減もまた致命傷であり「戦略爆撃は大きな影響を及ぼさなかった」とは言えないのである。
ただし...
「戦略爆撃が無くても日本は負けていた。」は成立する。
(続く)

[949] 戦略爆撃(また続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/04/01(Wed) 15:52
独が対戦略爆撃で夜間爆撃を始めた時、「民間人の大量殺傷を意に介さない総力戦」の新たな頁が開かれたと前回書いたが連合軍の戦略爆撃でハンブルクに大規模火災旋風が発生するに至り、その二頁目が開かれた。
1943年7月24日から8月2日までの間、ハンブルクには9000tの爆弾が投下されたが他の都市に比べ特に多い量ではない。
「独軍用機の全貌」によれば戦争全期間に渡り最も多く爆撃されたのはベルリンで投弾量2000t以上の爆撃29回にも及ぶ。
2位のブラウンシュバイクが21回、3位のルドウィスハーヘンとマンハイムが各々19回でハンブルクは8位の16回に過ぎなかった。

だが人的被害はハンブルクが最も多く群を抜いている。
当然、英空軍は躍起になってハンブルクの再現を図ったが大規模火災旋風が滅多に発生しなかったのは前述の通りである。
また英軍による夜間爆撃と並行して工場を狙った米軍の昼間爆撃も繰り広げられたが如何に戦略爆撃を繰り返そうとドイツの生産力はいっこうに低下せずかえって増大するばかりであった。
結局の所、「戦略爆撃によるドイツ征服」は不可能だと連合軍首脳は悟り地上軍によるドイツ侵攻なくして勝利はあり得ないと気づく。
ドイツが戦略爆撃に対して強靱なのは工場疎開の成功と復旧工事の巧みさによる物で戦局の大転換となる1944年夏まで生産力の拡大は続いた。

日本の生産力拡大も1944年夏まで続くがこれは状況を全く異にする。
なぜなら日本は1944年夏まで戦略爆撃を受けていなかったのだから。
それではここで対独戦略爆撃と対日戦略爆撃の相違について考察してみよう。

まず対日戦略爆撃と対独戦略爆撃でもっとも異なるのは「攻撃側の損害」である。
対独戦略爆撃では約16万名(大戦中の日本陸海軍搭乗員損失が34485名:出典は「定本・太平洋戦争」)の連合軍搭乗員が戦死したが対日戦略爆撃での米軍戦死者は4千名にも達しなかった。
何故であろうか?
これはひとえにB29の存在による。

B29は欧州戦線へは投入されず対日戦略爆撃だけで使用されたがよく考えるとこれはとても奇妙な話だ。
航続距離の長いB29を優先的に太平洋方面へ使用したのは適材適所の概念から大変良く理解できる。
だがB29の特色は航続距離の長大さだけではない。
大搭載力や高速力、強大な防御火力も大きな利点だ。
欧州戦線で連合軍搭乗員の損害が膨大であったのにB29を全て太平洋方面へ回したのは相当、厳しい判断と考えざるをえない。
大戦末期、米軍はMe262の迎撃で甚大な損害を受けたがもし重爆がB29であったなら、それほどの損害にはならなかったかも知れないのである。

ただし全B29を太平洋へ投入したお陰で対日戦略爆撃では微々たる損害しか受けずに済んだ。
また硫黄島の陥落もまた搭乗員生還率向上に寄与したと言えよう。
同島に不時着したB29は2251機にのぼり2万名以上の搭乗員が助かったとされている。
不時着によってB29搭乗員が助かっただけではない。
護衛戦闘機の随伴によってこれまで出撃機数の5%前後だったB29の損害は1%代にまで低下した。
5%前後でも対独戦略爆撃に比べれば「希に見る楽な戦い」だったが1%代となると「向かう所敵なし」の状態である。
ちなみに米軍は対独戦略爆撃のシュバインフルト空襲で約20%、プロエシティ空襲では30%もの損害を受けている。
通常なら少しでも優秀な兵器を苦境に立たされた方面へ送るものだが、欧州の米軍重爆搭乗員達はどんな目で太平洋方面のB29を見ていたのだろうか?        (続く)

[948] 戦略爆撃(続き) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/30(Mon) 20:04
まず最初に「独による対英爆撃」を取り上げよう。
当初は「アシカ作戦」の制空権確保を目的とした戦術爆撃が主体であった。
だがロンドン誤爆から次第に都市爆撃へ主軸が移り「鷲の日作戦」の中止(すなわちバトル・オブ・ブリテンの敗北)から夜間都市爆撃に方針が変更された。
夜間に都市を爆撃すると言う事は...
すなわち無差別爆撃である。

昼間爆撃でも無差別爆撃は行えるが都市に対する夜間爆撃となるともはや無差別爆撃しか行えない。
独が対戦略爆撃で夜間爆撃を始めた時、「民間人の大量殺傷を意に介さない総力戦」の新たな頁が開かれたと言えよう。
そうまでして開始された対英戦略爆撃は「ブリッツ」と呼ばれていたが何を目的としていたのであろうか?

英国の生産力を低下させるのが目的なら産業施設を破壊しなければならず、ただ民間人を大量殺傷し続けても効果がない。
だが昼間爆撃だと単座戦闘機の迎撃によって甚大な被害がでてしまう。
そこで独は夜間爆撃に切り換え損害の低下を図った。
つまり民間人の大量殺傷が目的なのではなく損害の低下が目的だったのだ。
「英国を屈服させる事」が目的でないにも関わらず対英戦略爆撃を続けた真意はどこにあるのだろうか?

その目的は「バルバロッサ作戦」から注意をそらさせる事にあった。
損害の低減化もバルバロッサ作戦を前に貴重な搭乗員と航空機を失いたくない事からきている。
よって1941年6月22日のバルバロッサ発動を前に対英戦略爆撃は終了しドイツ空軍の主力は東部戦線へと移動していった。
それから...
攻守所を換え話が英の対独戦略爆撃に移る。

さんざん夜間戦略爆撃を受けた英国が報復を選択するのは自然の成り行きであろう。
加えて英国には「夜間爆撃を選ばねばならない大きな理由」があった。
英重爆は高々度飛行能力が極端に悪いのである。
となれば夜間爆撃に頼るしかない。
しかも「仕返しをするだけの充分な理由」があった。
だが独が夜間爆撃で英国の生産力を低下させられなかった様に英国も独の生産力を低下させる事はできない。
そこでここに高々度飛行能力に優れた排気タービンと高々度爆撃に適応したノルデン照準器を装備する米軍が登場する。

かくして昼夜を分かたずドイツ本土は戦略爆撃に晒されたのであるが何故、独はブリッツを復活させなかったのであろうか?
いや、バルバロッサ開始後に独が全く対英爆撃をしなくなった訳ではない。
連合軍による対独戦略爆撃がされ始めると「ごくたまに少数の独爆撃機が対英報復爆撃に出撃する事」があった。
だがその規模は次第に小さくなり回数もどんどん少なくなっていった。

元々、ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンで大量の重爆を失っていたが来るべきバルバロッサ作戦に備え戦闘機やスツーカの再建、増産が優先され重爆は後回しにされた。
ところがそうして残った重爆(He111)はスターリングラード攻防戦で輸送機として使われ大損耗するに至った。
更にHe111に代わる新型重爆として生産されたHe177は欠陥機でまともに使用できない。
何より英を戦略爆撃するより1機でも多くの迎撃機を配備して「英米の戦略爆撃を減殺する事」の方が焦眉の急であった。
なまじ英の民間人を殺傷しても英の生産力を低下させられないが「米の重爆を1機撃墜する事」ができれば独の工場に落ちる爆弾がそれだけ減り「英の重爆を1機撃墜する事」ができればそれだけ独の民間人が助かるのである。
独迎撃機の双肩にはドイツの運命そのものがかかっていたと言えよう。

ちなみに対独戦略爆撃で戦死した連合軍搭乗員は米79625名、英79281名の合計約16万名(出典は「航空戦力」)にものぼる。
また「独軍用機の全貌」によれば戦略爆撃と戦術爆撃を合わせた目標比率は英が都市49,軍事施設17、交通機関17、燃料工場10.6、航空機工場4.3、特殊工場2.2で米が交通機関40、軍事施設22.5、航空機工場17、燃料工場11、特殊工場5.5、都市4であった。
双方の戦術爆撃機と戦闘爆撃機は鉄道などの交通機関や軍事施設を爆撃するであろうが戦略爆撃機に関しては英が都市、米が工場に比重を大きくしているのが判る数値である。            (続く)

[947] 戦略爆撃 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/29(Sun) 21:53
第2次世界大戦に際し大規模な戦略爆撃が実行されたのは米軍による対日戦略爆撃、米英軍による対独戦略爆撃、独軍による対英戦略爆撃である。
よって今日は対日戦略爆撃と対独戦略爆撃、対英戦略爆撃を比較して見よう。
連合軍は多大な兵力を投入して対独戦略爆撃を遂行したが投下爆弾量は対独戦略爆撃が136万t(英94万t+米106万tの合計200万tとする説もある)、対日戦略爆撃が16万5千t(サンケイ「B29」だと17万t)であった。
これらに比べ独が行った対英戦略爆撃の投下爆弾量は7万4千tでずっと規模が小さい。

被害はどうであろうか?
戦略爆撃で死亡したドイツ民間人総数は「攻撃高度4000」巻末資料によると57万名、米戦略爆撃調査団では30万5千名だ。
とりあえず今回は57万名として比較してみる。
日本の被害は30〜55万名だが核攻撃の分を引くと17〜22万名になる。
更に「大規模火災旋風と言う特殊事例だった3月10日の約10万名」を除くと対日戦略爆撃の被害は約7万5千名から約10万名である。
よって今回は10万名として比較する。

なお前述した様に火災旋風には通常の火災旋風と大規模火災旋風の2種類があり太平洋方面では3月10日の1回だけに大規模火災旋風が発生している。
その為、3月10日の被害は通常の50倍以上に達した。
こうした極端な事例の数値を含めると戦略爆撃の本質が見えなくなってしまうのでとりあえずは別にして集計せねばならない。
さて、日本の被害者数を投下爆弾量で割ると0.6(以降は被害者数/爆弾投下量を被害率と呼称する)になる。

それでは対独戦略爆撃で「大規模火災旋風」が発生した例はないのであろうか?
ある。
ドレスデン(死者3.5万名:投下爆弾6700t)やゴモラ作戦で目標とされたハンブルグ(死者5万名:投下爆弾9000t)などだ。
対独戦略爆撃での被害率は平均で0.42になるが両都市の場合、ドレスデンは5.2、ハンブルクは5.5で平均の10倍以上に達する。
両都市で大規模火災旋風が発生した事は各資料にも詳述されているので少し紹介したい。
「ライフ第二次世界大戦史・ヨーロッパ航空戦」によるとハンブルクでは大規模火災旋風で気温が980度になり風速240km/hの旋風が吹き荒れたらしい。
ただしどうやって気温を判断したのか判らないがサンケイ「ドイツ空軍」だと気温は1000度以上、ウィキペディアだと800度となっている。
恐らく何かの推測値なのだろうが風速はどの資料も240km/hで同じだ。
いずれにせよもっとも低い800度でも人間が生存するのは不可能である。
ちなみに風速240km/hと言うのは第4艦隊事件で日本海軍が遭遇した大型台風の2倍であり「ライフ」によると自動車が巻き上げられたらしい。

何故、木造家屋の少ない欧州都市でこれほどの火災が発生したのだろうか?
その鍵は各資料で詳述されるアスファルトの燃焼にある。
通常、アスファルトを可燃物だとは認識しない。
もしアスファルトを可燃物だと思ったら怖くてタバコのポイ捨てなどできはしないだろう。
だがアスファルトは石油化合物であり燃えるのだ。
とてつもない高温を加え続ければ...
そして燃えだしたアスファルトが熱源となりどんどん燃焼は倍加されていく。
東京は木造家屋が多かったので少量の焼夷弾で大規模火災旋風を発生させたが欧州都市に比べアスファルトは少なかった。
それに比べ舗装化の進んだ欧州都市は一旦、大規模火災旋風が発生するととんでもない災厄となった。
ウィキペディアではドレスデンで発生した火災旋風の温度を1500度としている。

残念ながらドイツ全都市の被害状況を知悉していないので大規模火災旋風が発生した事例全てを掌握してはいないのだが1回の空襲で死亡者1万名以上の被害がでたケースは大規模火災旋風が発生した可能性があると考えられるだろう。
1945年2月3日のベルリン空襲(死者2.5万名:出典は「ライフ」)、1943年10月22日のカッセル空襲(死者1.2万名:出典はガーランド著「始まりと終わり」)、1945年2月23日のポルツハイム空襲(死者17600名:出典はヨーネン著「ドイツ夜間防空戦」)などだ。
これらを合計すると約14万名なのでドイツの被害率は(57−14)÷136=0.32となる。
日本の0.6に比べると大変、低い。
これは日本の都市が木造家屋である事とドイツでは待避所の整備や工場疎開など戦略爆撃への対応が相当、進んでいる事などに起因する物であろう。
なにしろドイツの1都市に対する爆弾投下量はとてつもなく多い。
東京に投下された爆弾は累計1万1千tだがベルリンへ投下された爆弾は「独軍用機の全貌」では10万t、ウィキペディアでは45万tとなっている。
よってもはや瓦礫の山と化した地域にも投下したので被害率が低下したとも考えられるのである。

続いて英国の被害だが郷田充著「航空戦力」で5万名、カーユス・ベッカー著「攻撃高度4000」で6万5千名、「第2次世界大戦事典」では空襲による英の民間人死者4万名などが見られる。
これらの数値のいずれかをこのまま適用して良いのだろうか?
それは英民間人の死者総数を「定本・太平洋戦争」で60595名、今井登志喜著「英国社会史」著では約6万名としており同書他、「第2次世界大戦事典」やサンケイ「Uボート」など多数の資料で英船員の死者を3万以上としているからである。
総数6万名で船員死者が3万名なら空襲による死者は3万名以下にならねばならない。
加えてV兵器による死者が約9000名ある。
これも引くと通常の戦略爆撃による英国民間人の死亡は約2万名になってしまう。
なおウィキペディアでは空襲による英国民間人の死亡を4万3千名としておりこれからV兵器の死者を引くと3万2千名で被害率は0.43になる。
日本の0.6やドイツの0.32に比べると4万名前後がもっとも信頼できそうに思える。
ちなみに英国で大規模火災旋風の発生事例はない。
次回は攻撃した側について考えたいと思う。                        (続く)

[946] Re:[945] 紙一重 投稿者:ハルトマン 投稿日:2009/03/25(Wed) 17:05

> 問題は「なぜ東京で火災旋風が発生したか?」ではなく「なぜ東京だけに火災旋風が発生したか?」なんだ。
 そうなると理由がつかなくなる。 ちなみに横浜では大規模火災旋風は発生していないと思う。

勿論、当時この研究結果を米軍が知っている訳ありませんが、東京下町が火災旋風の発生し易い地理的条件で、あったことをご理解頂ければと思っての発言なのでご勘弁を・・・。

 横浜駅が、神奈川停車場と言った時代なので・・・関東大震災でしょうか?爆撃ではないかも知れません・・・。確か気象庁関係の資料で横浜の火災旋風の発生地図を見ました。当時の公表禁止のハンコが押してあった様な・・・。横浜駅周辺から港まで、帷子川と新田間川のによる砂礫層の地形です。


> 3月10日から同規模の爆撃が連チャンで12日の名古屋、13日の大阪、17日の神戸と繰り返されたが被害は602〜3150名だった。
> 如何に日本政府が東京の惨禍から何かを学ぼうとそれをたった数日でまとめあげ各地に伝達し対応させる事はできないんじゃないかな。
東京と各地の被害差は戦訓とは無関係になる。

 公式戦訓の通達は現実無理だと、私も思います。
 ただ今、興味があって、日中戦争(シナ事変)の銃後の生活や、政治・行政について調べているのですが、人々の噂・流言の伝わる早さは想像以上に早いと思います。

 本日、父の友人に聞いたのですが、学童疎開先(福島県郡山)から縁故疎開先(埼玉県熊谷市)に移ったそうです。その時、ご本人のご両親が焼け出され学童疎開先迎えに来たのが、二日後の3月12日だと言うのです。
 私の父もそのその後、新潟県長岡市へと縁故疎開します。20年5月には父方の母の縁故で秋田県秋田市へと移動しています。また、日中戦争従軍の母方の大叔父は、大叔母の安否確認に山梨から5月24日の空襲の翌日に出向いています(結果、大叔母死亡を確認)。この大混乱の民族移動(切符が無くても列車に乗り込んでいたらしい。)は並みでないと思います。

 満員の客車の中で駅の待合室・旅館・疎開先等・・・、噂や流言、体験談・知恵などは人々から、かなりの量伝えられたはずです。

 歴史では大した事ではないでしょうし。証拠も無く、表面には現れません、検証も不可能ですが・・・。3月10日直後の地方空襲はその影響を受けていないにしても、無視してはいけない視点かと思います。
 日本の戦国時代、クレシーの戦いの長弓の勝利が、長篠の三段打ちのヒントとなったとか(三段打ちも・クレシーの戦いも諸説ありますが)歴史は捕まえどころの無い生き物。一つの仮説ですのでご勘弁を・・・。

[945] 紙一重 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/25(Wed) 09:07
>  東京の下町は隅田川(旧大川)・荒川などによりこの条件を満たしました。過去火災旋風の認められた、広島・横浜・ドレスデン・等はこの条件に合うのではないでしょうか?

日本の太平洋沿岸都市は殆ど条件に合ってしまうよ。
冬季は常に風が吹いてるしね。
問題は「なぜ東京で火災旋風が発生したか?」ではなく「なぜ東京だけに火災旋風が発生したか?」なんだ。
そうなると理由がつかなくなる。
ちなみに横浜では大規模火災旋風は発生していないと思う。
してたら...
祖父母が死んでいたろうな。
母は学童疎開中で生き残ったろうから僕が存在しなくなる事はないが...

>関東大震災当時被服廠近くの安田庭園に居た曾祖母は、公園の池になだれ込む人々の中で下敷きになり水際で気を失い生き残りました。

良かったねえ、生き残れて。
関東震災じゃうちでは父方祖父の妹が倒壊家屋(横須賀市)に挟まれて赤ん坊もろとも圧死した。
祖父はその頃、農商務省にいたんだが東京から横須賀へ帰るのにえらく難儀したそうだ。
ああいった時は生きるも死ぬも紙一重だね。

>3月10日の東京の被害の異常さと、その後の被害の小ささが分かる様な・・・。

う〜ん?
残念ながら僕にはそう思えないな。
3月10日から同規模の爆撃が連チャンで12日の名古屋、13日の大阪、17日の神戸と繰り返されたが被害は602〜3150名だった。
如何に日本政府が東京の惨禍から何かを学ぼうとそれをたった数日でまとめあげ各地に伝達し対応させる事はできないんじゃないかな。
だとすれば東京と各地の被害差は戦訓とは無関係になる。

>  3月10日隅田川に飛び込んだ人や、待乳山聖天公園の池の中に子供達を避難させた大人達は・・・ただ熱いからでしょうか?・・・それとも・・・過去の経験?。

先頭を進む者が「河にいけば助かるぞ!」って叫んだらみんなそっちにいくだろうな。
それが誰なのかは...

「山で道に迷ったら急いで下山しようとして下ってはいけない。谷に迷い込み出られなくなる。稜線まで上って視界を確保してから行動せよ。」はうちの母の言葉だ。
うちの母は上等兵じゃなく主婦に過ぎないが。

[944] 砂礫層・風速15m 投稿者:ハルトマン 投稿日:2009/03/24(Tue) 22:49
 3月10日の火災旋風についてですが・・・。連続発言をお許し下さい。

 不思議な話に少しだけ理屈を・・・。

 最近の研究では火災旋風は、ハンブルグ・東京などの様に河川により砂礫が運ばれており、砂礫が累積した地層で起こり易いことが原因と考えられて居ます。つまり砂礫層の水分が地上の火災等で温められ蒸発解離ガス(酸素ガスと水素ガス)が発生して起こるのが原因と考えられてています。地震等では地下のマグマの隆起で、砂礫層が温められる等などです。

 もう一つの要素は風と複数の火災点、15m以上の風が一定方向から吹き、複雑な地形(高低や蛇行する河川上の風)や都市のビル風により、炎が巻き始め小さい火災点が合流することです。避難の際は火災の中の可燃物(建物)にか囲まれた小さめの空地などでは、上昇気流が発生するので危険です(旧被服廠の例など)。高台(砂礫層ではない)の広い公園(広域避難場所にしていされている)などに逃げることです。

 東京の下町は隅田川(旧大川)・荒川などによりこの条件を満たしました。過去火災旋風の認められた、広島・横浜・ドレスデン・等はこの条件に合うのではないでしょうか?

 神戸の震災時に火災旋風が発生しなかったのは、早朝のため風が弱かったからと言われます。

 東京空襲は米軍爆撃戦術の転換(大規模・低空の密集爆撃)の最初であり、東京市民(当時)、否、日本人全体に爆撃の学習の無いままの状態で、行なわれたのです。戦時の人の噂の伝達の早さや、前回の関東大震災の経験者が生きていた事を考えると(2度の経験がある訳ですから)、3月10日の東京の被害の異常さと、その後の被害の小ささが分かる様な・・・。

 火災旋風で生き残るには、@水の中に逃げ潜り時々呼吸に顔だけ出す。A人々の下になり直接火災旋風の熱風を受けない。どちらも溺死・圧死の可能性大。関東大震災当時被服廠近くの安田庭園に居た曾祖母は、公園の池になだれ込む人々の中で下敷きになり水際で気を失い生き残りました。

 3月10日隅田川に飛び込んだ人や、待乳山聖天公園の池の中に子供達を避難させた大人達は・・・ただ熱いからでしょうか?・・・それとも・・・過去の経験?。

 「大火事の時は、まず高い所で火の手と風の方向を見極め燃え残ったところへ逃げろ。燃えたところはもう燃えない。」「砲弾は同じところに落ちない、落ちた穴に逃げろ。鉄砲弾はピュン〜は遠く、ブッスブッスは狙われてるその場に直ぐ伏せろ。」本所小学校で関東大震災を、そして日中戦争を生き延びた元陸軍上等兵の祖父の言葉です・・・。
[943] 3月10日 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/24(Tue) 18:41
実際の所、不思議な話なんだ。
3月10日の爆撃は...
対日戦略爆撃での被害者数は調査機関によって30〜55万までのばらつきがあるけどこれは核兵器による被害差が多くを占めているのであって、通常爆撃では17万弱〜22万強の範囲内に収まっている。
加えて3月10日の被害も最小で8万3千、最大で10万以上とされているから極端な差はない。
つまり「核兵器を除いた対日戦略爆撃による死者」の過半数が3月10日の東京大空襲で生じたのはほぼ間違いないと言える。

ここで着目したいのは「3月10日の爆撃は特殊だったのか?」と言う事だ。
確かに3月10日以前に比べれば夜間、低高度、焼夷弾使用の点で特殊と言える。
だが3月10以降の爆撃に比べればなんら特殊な点は見られない。
東京の地理的特性だろうか?
そんな事はない。
木造家屋だろうが交雑した河川だろうが日本の港湾都市ではどこでも当たり前の要素である。
第一、東京自体が何度も空襲を受けたにも関わらず3月10日程、大きな被害を受けた例は見あたらない。

300機以上で東京を爆撃したのは3月10日の334機(投下爆弾1782t)が死者約10万(1t当たり56名)、4月13日の352機(2140t)が2459名(1.1名)、5月24日が562機(3687t)で762名(0.2名)、5月25日の502機(3302t)が3651名(1.1名)だ。
通常戦略爆撃による県別被害で見ると1位が東京の約10万名、2位が愛知の11324名、3位が兵庫の11246名、4位が大阪の11089名、5位が神奈川の6637名、6位が静岡の6473名、7位が福岡の4623名だ。
ただし5位の神奈川は約1万名とする資料も見られる。

これを見ると1位の東京が極端に被害が大きく大都市圏が約1万名、大都市ではないが航空産業周密地域の静岡がこれに続き、その他は5千名以下であるのが一目瞭然である。
ちなみにこれらの被害は「1都市に対する1回の空襲」で発生した訳ではない。
県内には幾つも都市があるし複数回の空襲を受けた都市もザラだ。
例えば大阪府の被害だが3月13日の3115名、6月1日の3150名、6月7日の1594名に周辺小都市を合算した数値だし兵庫県も3月17日の2598名、5月11日の1093名、6月6日の3184名に周辺小都市の分などを合算した数値である。
3月10日の空襲に匹敵、もしくは上回る規模の空襲は20回以上、行われたが被害者が5千名を越えたケースは見られない。

一概には言えないが300〜400機の空襲で3千名前後の被害が生じた場合が多い。
東京の場合、4月13日や5月25日がこれに相当する。
もしも3月10日に極端な大被害が生じていなかったどうであろう?
東京の被害累計は恐らく約1万名(3月10日を約2000名とし4月15日の中規模爆撃を加算)となり「その他の大都市」と肩を並べるはずだ。
つまり3月10日の惨禍は爆撃した米軍にとっても予想外の結果であり「計算して出来る爆撃」ではないと思う。

その計算しきれなかった要素とはなんであろうか?
勿論、大規模な火災旋風である。
何も僕はルメイが根っからの善人で「そんなつもりじゃなかったんだ。偶然の産物なんだ。」と考えているとは思わないし「米の戦略爆撃は人道的なんだよ。悪いのは火災旋風なんだよ。」と言うつもりもない。
計算して大規模火災旋風を発生させられるならルメイは何度でもやったろう。
だが有り難い事に3月10日と同じ事は最後まで再現できなかった。
だから僕は大規模火災旋風を伴う爆撃は計算して出来ないと考える。

かつて東京を襲った大規模な火災旋風は3度。
いわずと知れた関東大震災(死者数10〜14万名)と明暦の大火(死者数3〜10万名)だ。
明暦の大火を見ても判る様に約300機のB29を飛ばさなくとも「たった振り袖1枚の火元」が大規模火災旋風に発達する例もある。
逆に600機のB29を出撃させたって出来ない物は出来ない。
冒頭で「不思議」と書いたのは、数ある戦略爆撃作戦で東京だけが大規模火災旋風を発生させた事と過去に2度も大規模火災旋風を生じさせた事で、これには何か因縁めいた物を感ずる。

[942] 東京大空襲参考編 投稿者:ハルトマン 投稿日:2009/03/24(Tue) 04:21
 今は亡き町会の長老達の話。
 
 3月10日の零時前、NHKラジオがブー・ブー・ブーと3回なり「東部軍管区情報・マリアナ方面より飛来する敵の目標数個、帝都に向かって進撃しつつあり。空襲警報発令・空襲警報発令。皆様の健闘をお祈り致します。」と放送した時には、焼夷弾が、隅田川の花火(余談ですがこの記憶が鮮明な為に、隅田川の花火は戦後30年以上中止でした。)のように降ってきた。

 防空壕や鉄筋の建物(学校・劇場等)に逃げ込む人、まだ遠くの火災に安心する人。町会隣組の消防団や青年団は自分の町は自分で守るの防火訓練通り消火を始める。疎開したくても、地方に身寄りが無い江戸っ子。鉄道旅客切符も許可制・運転本数は貨物優先の為激減・東海道線も不要路線廃止?の影響で単線だから・・・。

 子供達は集団疎開でひと安心と思ったら、小さい子供は勿論、卒業を控えた小学校6年生は帰郷している者もいる。

 3月10日の夜はそんな感じで始まりました・・・・。

 爆撃するB29は、火炎に照らし出されて低空に見える(この日は異例の高度2000mの爆撃)蔵前の今でも残るビルの地下室に逃げた人々は一酸化中毒で全員死亡。旧被服廠跡でも25年前(関東大震災)と同じ、火災旋風(ハンブルグ旋風)で多くの人が亡くなり。言問橋だと思いますがでは、廻りの火炎が酸素を求めてファイヤーフラッシュ?でしたか?。一瞬にして火炎に包まれたそうで・・・・。こげ残りの材木置場の陰では、人々が熱さを一瞬でも逃れようとしたのか・・・・。川や水場の廻りは、熱さを逃れ様とした人々の変わり果てた姿・・・。

 当時の下町は、今の様な区画整理ではなく、路地が多くて袋小路があり、所どころ庚申様や稲荷様が祭られて・・迷路のようだったそうです。総武線のガード下付近は家屋撤去で、類焼防止帯と防空壕が設けられていましたが・・・。

 関東大震災も経験してたのに・・・・戦後の白髭橋上流の万里の長城の様な公団住宅はその反省です。

 「どうにかなるさこの不況、関東大震災と3月10日に比べれば」と近所の「焼けた電柱」の陰から今は亡き長老達の声が聞こえてきそうな今日この頃です。
[941] Re:[940] [938] 東京大空襲 投稿者:ハルトマン 投稿日:2009/03/23(Mon) 17:40
> > 3月10日に民間人の被害が激増したのは何が理由でしょうか?
>
>一つの理由として、夜間における河川や海の識別のし易さの問題があります。ドイツの爆撃でも、海沿いのハンブルグが一番先に爆撃されました。

 東京の地図見てみて下さい。城東地区は隅田川・荒川・江戸川が東京湾に注いでおり、隅田川と荒川は北の向島付近で、狭くなり、運河でも繋がっています。
 これを、夜間上空から見れば、当時の人口密集地の深川・本所・向島は、川にしっかり包囲されて、しっかり航空機から識別出来ます。
 3月10日は東京では春一番が南の東京湾から吹く頃、江戸の大火の事例を研究した米軍が見落とす訳ありません。

 まず、爆弾を南の晴海(此処には陸軍の高射砲陣地がありました)越中島・門前仲町辺りに落とす。次は北の向島、白髭橋の辺りに落とし、両側すなわち西東は、隅田川と荒川沿いに落とせば、春一番の南風で東京の城東地区は綺麗にバーベキュウになります。勿論、火に囲まれた中の人は、その後の中心部に落とす焼夷弾によらずとも、逃げ場は有りません。

 戦争は、いかに合理的に破壊と殺人をするものである。その答えが東京大空襲なのです。

 「戦争に負けていれば俺も戦犯」カーチス・ルメイ、高高度の工場(三鷹の中島飛行機)を爆撃していた。前任者がそれは出来ないとしていた事を実行した男。
 木造(土と紙と木で出来た)の民家のために、また、本土防衛の力すらない航空部隊の日本の軍部のために、ドイツでは戦略爆撃は効果無しでしたが、日本では戦略爆撃で息の根を止められたのです。
[940] Re:[938] ちょっと質問など 投稿者:K-2 投稿日:2009/03/22(Sun) 23:54
> 3月10日に民間人の被害が激増したのは何が理由でしょうか?

それ以前は、学童疎開は進んでいたけど大人は空襲があっても逃げちゃイカン、
って事になってたみたいですが、この大空襲以降、そんなことお構いなしに
みんな東京から逃げ出したからだ、と聞いたことがあります。
良くも悪くも死ぬほどクソ真面目だったと。
逆を返せば3月10日以前は米軍もそこまで本気で民間人を殺す作戦を行って無かったという事ですか。
「鬼畜ルメイ」の渾名は伊達じゃないと言うことで。

[939] Re:[938] ちょっと質問など 投稿者:KOKI2600 投稿日:2009/03/22(Sun) 21:27
焼夷弾で挟み撃ちにされたのが原因ではないかと思います。

B29の大編隊でやられては。

[938] ちょっと質問など 投稿者:いそしち 投稿日:2009/03/22(Sun) 19:52
装弾数の話の腰を折ってはいけないと思ってカキコを控えていたのですが
前回のB29でどうしても質問したくなりました。
3月10日に民間人の被害が激増したのは何が理由でしょうか?
日本の場合は東京だけに木造家屋が密集していたと思えませんし
天候による物とも思えません。
何が理由なのでしょうか?

[937] 装弾数の話(その13) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/21(Sat) 20:56
戦略爆撃には3種類のやり方がある。
昼間爆撃と夜間爆撃、それに核爆撃だ。
そして昼間爆撃には単座戦闘機、夜間爆撃には複座以上の夜間戦闘機が対処する。
核爆撃には...
残念ながら対処するすべはない。
来襲する全敵爆撃機を撃墜/撃退するのは大変、困難で1機でもとり逃したら壊滅的被害を蒙るからだ。
全爆撃機に核爆弾を搭載できるか否かは問題だが...

こんな事を今頃書き出したのは「単座戦闘機の装弾数」がメインテーマな為、これまで全く触れてこなかった「複座以上の夜間戦闘機」をちょっとばかり解説せねばならなくなったからである。
欧州戦域の連合軍は英の夜間爆撃、米の昼間爆撃で絶え間なくドイツに重圧を加えた。
ところが対日戦では1944年夏まで日本本土に全く戦略爆撃できず、以降も「米のみの対日戦略爆撃」だったので様相を異にした。

米による対日戦略爆撃を決定するキーパーソンは以下の4点である。
1.B29(もしくはB32)の完成
2.マリアナの攻略
3.ルメイの登場
4.硫黄島の攻略

まず1.だが爆弾4tを搭載して航続距離5600kmのB29(もしくはB32)が完成しなければ対日戦略爆撃は思いもよらない。
硫黄島の早期攻略が可能ならば別だが。
次の2.だがインド発中国経由の爆撃では九州しか爆撃できない。
日本の主要工業地帯を戦略爆撃するにはマリアナ奪取が肝要なのである。

かくして開始された対日戦略爆撃は九州に対する6月16日の爆撃でその幕を開けた。
九州が目標となった理由はまだマリアナの飛行場が使えなかったからだが興味深いのは米軍がこの時、夜間爆撃をした事である。
目標の所在が明確でない夜間爆撃は基本的に無差別爆撃であり民間人殺傷もしくは士気阻喪を目的とする場合が多い。

なお夜間爆撃の利点は損害の軽減化にある。
夜間であれば対空火器の命中率が低いし迎撃も夜間戦闘機に限られるからだ。
元来、B29は排気タービンとノルデン照準器を駆使した昼間精密爆撃をする目的で開発された航空機である。
それにも関わらず夜間爆撃した理由は「慣れない初めての対日戦略爆撃」で大きな犠牲を払いたくなかった為と思われる。

よって以降、米軍は昼間爆撃に切り換えた。
ただし全面的にではない。
1944年11月末までに米軍は11回の対日本土戦略爆撃を行なったがその内6回が昼間、5回が夜間であった。
機数で見るなら全出撃機数586機中、416機が昼間、170機が夜間である。
数字を見てお判りの様に昼間爆撃は編隊規模が大きく夜間爆撃は小さい。
なにゆえ米軍は大規模編隊の昼間爆撃と小規模編隊の夜間爆撃を並行させたのであろうか?

これは日本側の迎撃体制を攪乱する為である。
欧州と違い「夜間爆撃専門の英軍」が存在しない以上、米軍だけでやるしかない。
なおこの時期に米軍が行った夜間爆撃は「迎撃体制の攪乱」と士気阻喪を目的としており「民間人殺傷を目的」としていない。
だから昼夜双方であり夜間の方は小規模なのだ。

さて米軍の昼夜爆撃は12月に入ると「昼間爆撃一本槍」に代わる。
ただし高々度からの昼間精密爆撃はサッパリ成果が挙がらない。
何度繰り返しても成果が挙がらず損害ばかり大きくなる。
そのまま昼間精密爆撃は3月まで繰り返されそこに3.のルメイ将軍が登場する。
彼が実行したのは大規模編隊による夜間爆撃だった。
勿論、目的は「民間人の大量殺傷」である。

まず手始めに1945年3月10日、東京の下町一帯が灰燼に帰し約10万名の民間人が死亡した。
戦争全期間の「本土空襲による日本民間人の死亡者総数」は約50万名だがその内の約33万名が核攻撃による物であり一般空襲の死者は約17万名となる。
そしてその中の半分以上が3月10日の被害なのだ。
ちなみに対日戦略爆撃のB29出撃数はのべ34790機で3月10日の出撃機数334機は約1%に過ぎない。
3月10日の空襲が「色々な意味で普通でない事」が御理解頂けよう。

この日を境に米軍は12日の名古屋、14日の大阪、17日の神戸と夜間爆撃を繰り返す。
米軍の「夜間爆撃一本槍」は「九州の飛行場に対する昼間戦術爆撃」や「港湾都市に対する機雷敷設」を間に挟みながら4月上旬まで続けられた。

そして4月7日、また新たなる局面が発生した。
P51がB29と戦爆連合編隊で中島飛行機武蔵工場を昼間爆撃したのである。
これは4.の影響に他ならない。
護衛戦闘機の登場によって米軍は重要工場に対する精密昼間爆撃も行える様になった。
かくして米軍は以後、終戦まで昼夜を問わず爆撃し続けたのである。

ここで状況を整理して見よう。
第1の局面は6月16日から11月末までの昼夜爆撃だ。
この期間の戦いはB29対日本夜戦とB29対日本単座戦闘機の2種類である。
第2局面は3月9日までの昼間爆撃でB29対日本単座戦闘機だけとなる。
第3局面は3月10日から4月6日までの夜間爆撃でB29対日本夜戦だけだ。
第4局面は4月7日から終戦まででB29対日本単座戦闘機、米護衛戦闘機対日本単座戦闘機、B29対日本夜戦である。
ここに至り日本単座戦闘機は重爆に対処できる火力と米護衛戦闘機に対応できる運動性の双方を持ち合わさねばならなくなってしまった。
さて、それでは次回、日本陸軍の火器について考察してみよう。               (続く)

[936] 装弾数の話(その12) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/19(Thu) 19:05
さて、エリコン四天王(日本海軍、英、独、仏)が中口径の導入によって火力強化を図ったのに対し中口径御三家(日本陸軍、ソ連、伊)と米は如何なる方策を講じたであろうか?
まず米は「中口径に統一しました。」そして「どんどん装備数と装弾数を増やしました。」でもって「P47に辿り着きました」で終わり。
伊も1943年9月に降伏したのでもう述べる事はない。

となると以降は本土防空で「なりふり構わぬ火力増強」に血道を上げた日本陸海軍及びドイツに話の焦点が移る。
更に燃えさかるベルリンと東京を横目で見ながら「こいつぁいけねえ、この戦争が終わったら次はイデオロギー対決のバトルロイヤル第3ラウンドだ。ウカウカしてるとモスクワも灰にされるぞ。」と戦略爆撃機の国産化並びに本土防空態勢の確立にいそしんだソ連を忘れてはならない。

英国?
あそこはまあ、中口径万々歳の米国と双璧をなす大口径万々歳でスピットファイアのE翼を申し訳程度に作った以外、中口径には手を染めなかった。
よって更なる高性能の20mmを求めその終点に達したのがイスパノ5型20mmだった。
もう一度、説明しとくけど最初にスイスのエリコン社が作ったのがケース長20*110の弾薬を使用するFFS。
それをライセンス化し改良したのが仏のHS404。
更にそれを英が生産したのがイスパノ1型と2型でホワールウィンドやスピットファイア、ハリケーン、タイフーンなどおよそ殆どの英戦闘機に装備された。
また当初は60発弾倉式だったが途中からベルト式に改良され装弾数もスピットファイアC翼で120発、タイフーン140発、モスキートで150発となった。
このイスパノ2型と言う火器、20mmクラスとしちゃ世界最強のハイパワーだったが大きすぎてかさ張り、発射速度もちと遅めと言う欠点を持っていた。

ハイパワーなはずだ。
火器ってのは薬莢に入った装薬の力で弾頭を銃身から発射する事で初速を得る。
つまり薬莢(ケース長)が大きくて銃身は長ければパワーはそれだけ大きい。
ちなみにパワーが大きければ大抵は初速も大きいが必ずしも正比例はしない。
なぜなら弾頭が軽ければパワーが小さくても初速が大きくなるからだ。
「装弾数の話(1)」で各20mmのケース長を書いたけどダントツでしょ?
加えてイスパノ2型を装備したスピットファイアやタイフーンの写真を眺めて頂きたい。
「これでもか!」ってくらい銃身が長く突きだしているでしょ?
賢明なる読者はもうお判りと思うが英国が考えた火器の改良は銃身を短くして火器をコンパクトにする事だったのだ。
ハイパワーを求めた日本が1号銃から2号銃へと発展させたのと逆である...

さて、銃身を短くし機関部を改良した5型は初速が880−>840m/sへダウンしたものの銃本体重量が50−>42kgに減り発射速度は毎分650−>750発に向上した。
これを装備したのがテンペストである。
ねっ、銃身が短くなって主翼に収まっているでしょ。
装弾数もテンペストでは150発(一説によると200発)に増えている。
ただしイスパノ5型は登場が遅すぎた為、戦局にはさほど寄与しなかった。

さて本題に移ろう。
テーマは国家の死命を制する本土防空戦だ。
本土防空戦となるとなんとしても敵重爆を1撃で仕留めねばならない。
その為には大口径だ。
更には超大口径だ。
大口径と超大口径の混載だ。
もうエースなんかどうだっていいから1回の射撃で一撃必殺だ。
「次の機会」なんて悠長な事を言ってられなくなるから1門当たりの装弾数を減らしてでも大口径や超大口径の門数を増やすのが肝要だ。
そう、大口径や超大口径は対重爆用火器なのである。

とは言えベルト式で装弾数が多くなり長銃身化で初速も速くなった大口径は戦闘機に対しても有効だから両用と言えなくもない。
おまけに装甲板の厚さが4式戦で12mm、Fw190A3で14mm、Me262なぞは16mmになっていたから中口径じゃ「撃墜はできても搭乗員は殺傷できない有様」なので見方によっては「中口径はもはや陳腐化?」なのだ。
まあ、全戦闘機が強力な防弾板を備えていた訳じゃないから「中口径=対小型機用」、「大口径=両用」、「超大口径=対重爆用」って具合だろう。

かくして日独は超大口径(21mm以上の航空機用火器)の開発に取り組んだ。
しかし日本海軍の方は2式30mm(弾倉式42発)と5式30mm(ベルト式)を完成させたものの2式がごく少数の雷電や零戦、彩雲夜戦型に装備されたものの5式の方は戦力化されない内に終戦を迎えてしまった。
ただし5式も全く量産されなかった訳ではない。
いや、それどころか2000門以上も生産されたのである。
未だ完成しない天雷や烈風改、震電、閃電、電光などに装備する為に...
ちなみに5式30mmの重量は70kg、発射速度は毎分350発(450発説、500発説、530発説など諸説あり)で実包重量は660gだった。

考えてみてよ。
震電はこれ4門に各60発だ。
火器+弾薬重量は合計438.4kgにもなる。
それで撃てるのはたった10.2秒(530発説なら6.79秒!)に過ぎない。
まさに究極の1撃離脱戦闘機だね。
でも結局の所、超大口径は倉庫で眠ったままで...

やむなく日本海軍は大口径を多数装備する事で米重爆に対処したのである。
その代表が20mmを4門装備した紫電や紫電改、雷電だ。
なんとなく20mm4門の紫電は「重武装の局戦だから艦戦の零戦52型丙より大火力」なイメージがあるが火器と弾薬の重量を合計した数値でみると紫電(2号銃4門の11型乙)が260kg、零戦52型丙が284.36kgで紫電の方が軽い。
言葉と言うのは難しい物で大火力と言うのは単に「重量の多くを火力に割いている」のではなく「火器が対重爆用の大口径火器で占められている事」を指すのかも知れない。
だとすれば中口径しか装備していない米軍機などは小火力の極みとなる。
まあ、小火力であっても1式陸攻などはいともたやすく撃墜できるので何ら問題にならないのだが。
ちなみにF6F5の火器+弾薬合計重量(中口径6門と弾薬各60発)は456kg、発射時間32秒であった。             (続く)

[935] 装弾数の話(その11) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/16(Mon) 18:51
随分と話が長くなってしまった。
各国の紹介が終わったので全般状況の方へ話を戻そう。
エリコン四天王(日本海軍、英、独、仏)はいち早く大口径への先鞭を付けたが「60発の制約」の為、小口径にも頼らざるを得なくなった。
一方、中口径御三家(日本陸軍、ソ連、伊)は初の大口径がベルト式だったので「60発の制約」を味あわずにすんだ。

かくして「小口径のみ」で幕を開けた航空機用火器はエリコン四天王と中口径御三家+米国に分かれて進化したが航空機の防御が強くなると共に小口径の存在意義はどんどん低下していった。
単座戦闘機に「要らない兵器」を装備する余裕はない。
よってエリコン四天王がベルト式大口径へ移行した後に訪れた変革は「小口径の代替」であった。
これには3つの道がある。

小口径がなくなると言う事は火器が中口径と大口径だけになるのだから1「中口径のみ」と2「中口径と大口径の混載」及び3「大口径のみ」である。
そして1もしくは2を選択するには中口径がなくてはならない。
けれどエリコン四天王は第2次世界大戦勃発当初、中口径をもってなかった。
となると新たに中口径を開発するか3を取るしかない

早期にリタイアした仏はともかくとして独はMG131を開発した。
前述した通りMG131の特徴はコンパクトな所にある。
Bf109にしてもFw190にしても機首に小口径(7.92mmのMG17)を2門装備していたのだがMG131はちょっとコブが突きだしただけでそのまま2門収まってしまったのだ。
後述する「日本海軍の場合」に比べこれは画期的な事である。

だいたいMG131(13mm)の弾頭重量は34gでMG17の11.5gよりMG151/15の57gに近い。
でも銃本体の重量は僅か18kg(資料によっては16.6kg)でMG151/15の42kgよりMG17の12.6kgにずっと近いのだ。
まあMG151/15は大重量の典型だから比較するのはちょっと芳しくないかも知れないが他国の中口径を探してもMG131並に軽いのは見あたらない。

これを装備したのはBf109が43年初頭のG1北アフリカ仕様機(装弾数300発:20秒)からであり、Fw190は44年初頭のA7(装弾数475発:31.6秒:400発説もあり)からであった。
当然、両機はMG131の他に大口径も装備していた。
装備数はBf10G1が同軸にMG151/20(装弾数200発:15秒)1門、Fw190A7がMG151/20を主翼同調2門(装弾数250発:20.8秒)+外翼2門(装弾数125発:9.3秒)である。
MG131の登場はFw190には対して大きな意味を持たなかったがBf109にとっては大きな火力強化となった事がお判り頂けよう。

まあこうしてドイツは割とスムースに中口径への交換を成し遂げた訳だが日本海軍はどうであったか?
えっ、日本海軍は陸軍からホ103を分けて貰えばいいって?
ノンノン、日本海軍も陸軍と同じでそんな事しやしない。
で、どうしたと思う?
なんと米軍の12.7mmをデッドコピーした3式13mm機銃を開発したのだ。
ただし口径は日本海軍の艦載機銃に合わせ13.2mmに変更している。
陸軍と海軍が揃って米軍の中口径をデッドコピーし揃って同じ苦労をするのだからなんと言って良いのやら...

この3式13mm(発射速度毎分800発:同調時700発)を装備した最初の戦闘機は零戦52型乙(20mm2号銃2門、3式13mm1門)で1944年4月に完成した。
装備位置は当然の如く7.7mmが装備されていた機首上面である。
ただし「火器の装備方法(その2)」で書いた様に銃尾が大きく張り出したから右側の1門しか装備できなかった。
なお多くの資料で52型乙の武装が20mm2門+13mm1門+7.7mm1門と記載されている。
本当に大中小3種類の火器を全て装備したんだろうか?
だとしたら3種類の弾道が飛び交って照準しにくかったろうなあ...

さて苦労して開発された13mmだが零戦の機首に装備したら操縦しづらくてクレームバリバリだし1門じゃ火力も物足りない。
そこで52型丙ではこれを2門、主翼にも装備した。
装弾数は20mm2号銃2門が各125発(15秒)、胴体の13mm同調が230発(19.7秒)、主翼の13mmが240発(18秒)である。
主翼装備なら小口径の代替じゃないんだし何も中口径でなくっても...
それとも開発中だった烈風のふくみか?
重量で言えば3式13mmは27.5kgで20mm1号銃(23kg)と20mm2号銃(33.5kg)の中間だよ?
そんなにまでして中口径が欲しかったのか?
となりの芝生は青く見えるもんなあ...

零戦の他に3式13mmを装備した量産機は約200機の紫電改31型(量産されなかったと記述している資料もあり)だけである。
果たして日本海軍は3式13mmをどの様に位置づけていたのだろう。
試作機として烈風があるが同機は「日本海軍が目指していた理想の対戦闘機用単座戦闘機」であった。
よってその装弾数に片鱗が窺えるかも知れない。
さてと、20mm2号銃が200発(24秒)で3式13mmが性能要求時で400発(30秒)、実際が300発(22.5秒)か。
25〜30秒あれば充分と考えていたって事かな?
他をちょっと見とこう。
20mm2号銃をズラリと4門揃えた局戦の雷電21が内側銃210発(25.2秒)+外側銃190発(19.5秒)、紫電改が内側銃200発(25秒)+外側銃250発(30秒)となってる。
まあここら辺が日本海軍の見解なのだろう。

それにしても3式13mmがもっとコンパクトだったらいいのになあ...
って言ってるそばから日本海軍はMG131のライセンス版(2式13mm旋回機銃)を量産してるじゃないの!
なんだかなあ...
こうなるとちっともワカラン!

エリコン四天王、最後に控えし英国は...
一旦、2「中口径と大口径の混載」を諦めハリケーンやスピットファイア、タイフーン、テンペスト、ファイアフライでお馴染みの20mm4門による3「大口径のみ」となるかに思われたのだが...
やはり英国とて仲間はずれになるのは嫌だったらしい。
スピットファイア用に大口径と中口径各2門を装備するE翼を開発した。
これまでにA翼、B翼、C翼と説明してきたが「なにゆえとんでE翼?」と思われるかも知れない。
実はD翼は「偵察機用の非武装、翼内燃料タンク装備」なのである。

さて英国も中口径を備える事になったのだが、どういった手段を使ったのか?
日本陸軍は米国の12.7mmをデッドコピーした。
日本海軍も米国の12.7mmをデッドコピーした。
英国もか?
ノンノン、英国はそんな事しやしない。
ちゃんと米国から分けて貰ったのだ。
察する所、米英は日本陸海軍より仲が良かったと見える。
きっと「オトナ」なんだろう。
ところでこのE翼だがたいして装備されなかった。
英国紳士は米国製12.7mmがお気に召さなかったのかも知れない。
それではC翼の20mm4門か?
まあそれもそれなりに量産されたが意外と目に付くのが20mm2門のみの機体なのだ。
もはや1941年以降は英本土が他国重爆に脅かされている訳じゃなし大口径を多数装備するより機体を軽量化した方が得策だった。
英単座戦闘機は昼間長距離進攻しないしね。    (続く)                

[934] 装弾数の話(その10) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/15(Sun) 11:00
さて最後にソ連。
今までいろんな国の火器事情を紹介してきた。
もう一度おさらいすると当初、英は小口径だけ、独と日本海軍は小口径と大口径、米、伊、日本陸軍は小口径と中口径を装備していた。
ところがなんとソ連は大中小全ての口径を揃えて戦争を始めたのである。

これは「当たり前の事」に見えて「特殊な事」なのだ。
なにかと言うとサナダさんは「こんな事もあろうかと思って...」と言って次から次に新兵器を出してくれるがドラエモンじゃあるまいし実際にはそんなに都合良くいかない。
発動機についても片っ端からライセンス化しまくり上手くいったら量産化するといったやり方だったから「思いこんだら命がけ」のこちとらでは図りかねる部分があるのだろう。
まあ、おおらかと言うか大陸気質と言うか...

さて、小口径はいいとしてソ連が開発した中口径はベレジン12.7mmである。
この機関銃、重量は25kgと一般的だが初速860m/s、発射速度毎分1000発とやたら高性能だった。
ちょっとイタリアの12.7mmと比べてみてよ。
雲泥の差でしょ?
ドイツのMG131よりも高性能だがこれはまあ、ドイツのはコンパクトなんだから仕方がない。
コストパフォーマンスとしては同等だろう。

大口径のShvakに中口径のベレジン。
どこに出しても恥ずかしくない航空機関砲を2種類も持ってたんだから後は「どこにどうやって装備するか?」だけだ。
だけどここでソ連は大変な苦難に遭遇する。
詳しくは「火器の装備方法(その1)」で書いたからそっちを読んで貰うとして気になる装弾数を見るとしよう。

まずYak1、3、7、9系列だが大口径が120発(9秒)、中口径が200発(12秒)でいたって少ない。
次にLa5が大口径2門で200発(同調なので発射速度毎分700として17秒)、La7は大口径3門に増えたがその分、装弾数が各100発に減らされたので8.5秒。
こうして見るとLa5はエース向きでLa7はそうでないのが面白い。

なお小中大と3種類の火器を取り揃えたソ連の単座戦闘機は小口径多銃のI−15やI−16の初期型、小口径と中口径を混載したMig1やMig3、小口径と大口径を混載したYak1やYak7、中口径と大口径を混載したYak3やYak9、大口径のみのLa5やLa7などと武装パターンが多岐に渡っている。
また木製主翼の為、装備位置が胴体に限られるので火器数が少ないのが特徴だ。

それとソ連戦闘機で忘れてはなないのがレンドリースのP39とP63。
ソ連で50機以上のスコアを挙げたエース7名の合計撃墜数は389機だがこのうち155機以上はP39もしくはP63による戦果である。
ちなみにトップエースのコジェドブ(62機)や5位のエフスチグネーエフ(53機)の乗機はLa5だった。         (続く)

[933] 装弾数の話(その9) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/12(Thu) 17:44
次は日本陸軍。
そもそも火器が中口径や大口径になったのは小口径じゃ敵機が墜ちなくなったせいだ。
日本陸軍が「やべえ、こつら防弾板付けてるよ」と感じ自らも防弾板とそれを撃ち抜ける火器の開発に躍起になりだした契機がノモンハン事変。

もっともその前から火力の強化に無関心だった訳ではない。
前述した様に大口径を装備したキ12を開発してるしね。
だけどノモンハン事変を境に対象が大口径から中口径にシフトしたのだ。
爆撃機を主目標とするエリコンの同軸大口径より敵戦闘機の防弾板を撃ち抜ける中口径の方が役に立つと思ったのだろう。
なにしろ中口径なら装弾数は多いし発射速度は早いし「それで間に合う」ならわざわざ大口径にする必要はない。

かくして日本陸軍が開発したのが米の12.7mmAN/M2をデッドコピーしたホ103である。
米の場合、一見は間に合った様に思えたから中口径一本槍で押し通したがB17やB24に遭遇した日本陸軍は「とても間に合わない」と思った。
そこで急遽、大口径にも乗り出した。

どうしたかって?
前述した通り潜水艦でドイツのMG151/20を運んだのだ。
おまけにこれを装備した3式戦の発動機までDB601のライセンス版と来るからイタリアとおんなじである。
だけどここからが違う。
そう何度も潜水艦で輸入できないからね。
どうしても大口径を国産化する必要がある。
海軍の20mmを分けて貰えばいいって?

ノンノン、日本陸軍はそんな事しやしない。
日本陸軍の中口径(ホ103:口径12.7mm発射速度毎分800発)は米のデッドコピーだがなんと日本陸軍はホ103を拡大して20mmにしたのだ。
これを機体のどこにどう装備したかは「火器の装備方法(その2)」で書いたからここでは省略する。

なお最初の頃、2式単戦や3式戦が中口径と小口径を混載していたのは「まだホ103の信頼性が低かった事」と「ホ103の生産量が充分でなかった事」が要因だ。
だからこうした問題が片づくやいなやすぐホ103の4門装備に移っている。
日本陸軍式中口径多銃主義の萌芽だ。
もし米重爆が出現しなかったら日本陸軍戦闘機は当分、ホ103を主力火器として使用し続けただろう。
所詮、潜水艦によるMG151/20の輸入も3式戦に対するホ5の装備も急場しのぎの方策に過ぎず開戦前には4式戦を「救国の大東亜決戦機」とする予定などなかった。
全て「米重爆が新登場したせい」なのである。

嗚呼、もし米重爆が登場しなかったら...
日本陸軍と米軍の戦闘機は双方とも中口径多銃主義で双方とも「中口径には堪えられない程度の防弾板装備」だから結構、良い勝負だ。
気になる装弾数は1式戦や2式単戦、3式戦が250発(18.7秒)で中口径としては少な目だがP40Eの281発やF4F4の240発と比べればトントンである。
太平洋を挟んで交戦する相手が同じ様な火器と防御体系で装弾数も似通っているのは大変面白い。

それにしても米重爆の奴め。
折角、日本陸軍が始めた中口径多銃主義が台無しだ。
もし日本で中口径じゃ手に負えない位の重爆が量産(そんなの不可能だが)されていたら米軍も中口径多銃主義を放棄して大口径へ移行したんだろうか?
米は当初から中口径多銃主義と並行してP39に超大口径を装備してるしP38へもたった1門ながら20mmを装備している。
大口径への移行はさして困難ではなかったはずだ。
そう言えばP51やF4Uでも20mm装備のサブタイプがあったっけ。

まあ、それはともかくとして話を日本陸軍に戻そう。
米重爆に対処する為に開発されたホ5だが元が米のブローニングなもんだから発射速度が毎分750発と早くベルト式なので装弾数も適宜に増やせた。
最初に装備した3式戦丁型は120発、次の4式戦では150発、5式戦では更に200発となっている。
ちなみに中口径の方も4式戦では350発に増えた。

なお5式戦では中口径が250発になったがこれはワザワザ減らしたのではない。
そもそも5式戦は3式戦2型の発動機換装型なのだ。
だから主翼は3式戦2型のままであり主翼装備中口径の装弾数も250発のままなのである。
こうして日本陸軍は中口径多銃主義から「米重爆対処の大口径と中口径混載主義」に進み4式戦乙型から大口径4門の大口径多銃主義となっていった。
えっ、その後?
4式戦丙やキ87、キ94は30mm2門と20mm2門の超大口径と大口径の混載だけどこうなると火力のインフレここに極まれりって様相になる。
装弾数はキ87の場合、30mmが各100発、20mmは200発だった。           (続く)

[932] 装弾数の話(その8) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/11(Wed) 17:23
え〜と、エリコン全盛から始まって英国の多銃主義とその変転、各国が装弾数を増やしていく過程を書いたんだっけかな?
なんか忘れている国はないかな?

おー、そうだフランスだ!
でも本家イスパノスイザの仏はエリコン系20mmを同軸に装備したり主翼に装備したりで奮闘したものの装弾数60発の時点で降伏しちゃったからそれっきりだしなあ。
そう言えば日本は同軸20mm付イスパノスイザ発動機には随分と御執心だったっけ。
96式艦戦に装備(3号)したりドボアチンD510を輸入したり中島にキ12を試作させたり...

ま、いいや。
ところでこれから日本陸軍やイタリア、ソ連へ話を進めるのだがその前に以降、12.7mmクラスの火器を中口径と区分する事にする。
そうしないと話がややこしくなるからね。
なぜかと言うとこの3国(日本陸軍を1国に数えるのは語弊があるが)ではやたらと中口径火器の影響が強いからなのだ。

えっ、米国の方がもっと強いって?
そいつはそうだ。
でも米国はほとんど中口径一本槍だから門数と装弾数を数えるだけで済む。
それに比べ中口径御三家はエリコン四天王(仏、英、独、日本海軍)の様に混載しており米国と同じ訳にはいかない。

まずイタリアだが意外や意外、中口径火器に関しては先進国でいち早く国産のブレダ12.7mmSAFATを量産化して複葉のCR32あたりから装備した。
ところがこの機関銃、他国の中口径に比べ重いわ初速が遅いわ発射速度も遅いわでろくなもんじゃ無かった。
どの位、劣ってるかって?
それじゃドイツのMG131と比べてみよう。
前の数字がSAFAT、後の数字がMG131である。
重量29/18kg
初速765/790m/s
発射速度毎分700/900発
まあMG131の方が5年も後に出来た兵器だから比べちゃ酷かも知れないが。

なんにせよ、小口径よりは遙かに威力のある中口径を装備したんだからイタリアが大口径へ移行するのは大幅に遅れ、降伏するちょっと前に独のMG151/20を装備するにとどまっている。
なおイタリアは発動機もダメダメだったから大戦中盤から独のDB発動機に依存し始めDB601A、DB605と次々と輸入したりライセンス化したりした。

いいねよね。
ドイツと地続きってのは。
日本なんか遠路はるばる潜水艦を派遣してやっとこさMG151/50を800門と弾薬40万発(おいおい、1門あたりたった500発?)だよ?
それに比べ独伊間は貨物列車でピューだ。
うらやましい限りである。
G55やMC205、Re2005など末期イタリア戦闘機(通称5シリーズ)が高性能なのは有名だが、発動機がドイツ製で火器がドイツ製ときたら高性能にならない方がおかしい。
だからこれ以上、イタリア機について語る事はない。

ちなみに気になる装弾数だが大戦初期に12.7mmSAFAT2門を装備した各戦闘機はCR42が各400発、MC200が310〜370発、R2000が300発だったらしい。
末期のMG151/20を装備した5シリーズの装弾数は概ね20mmが各200〜250発、12.7mmが各350〜400発くらいである。           (続く)

[931] 装弾数の話(その7) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/09(Mon) 19:54
ふう...
それじゃ話を続けよう。
前回は大口径火器の射撃時間がスピットファイアB翼で6秒、Bf109E4で7秒だったのがスピットファアC翼で12秒、Bf109F4で15秒になり「大口径火器の時代」が到来した所までだったね。
これらの装弾数増大化は「弾倉式だったエリコン系の制約」をベルト式にする事で達成された。

ところが...
地球の裏っかわの日本では大きな弾倉を開発し装弾数を増やしたのである。
大きな弾倉を作るよりベルト式の方が良い事は日本だって判っている。
当然、ベルト式も開発した。
だが焦眉の急には間に合わない。

そこで暫定措置として100発入大型弾倉が開発されたのだ。
100発入大型弾倉は零戦32型から装備されている。
それではここで弾倉式とベルト式の差を比較して見よう。

まず零戦99式1号20mm機銃だが火器本体の重量は23kg、弾薬は1発の実包重量が192gだ。
それでは23kg+60×192g=34.52kgが火器本体+弾薬の重量かと言うとそうでもない。
弾倉の重量が別にかかるのである。
たかが弾倉と思ってはいけない。
なんと60発弾倉は8kgもあるのだ。
ちなみに100発弾倉はもっと重く17.8kgもあるらしい。
これが2門だから合計35.6kg!
それに比べベルト式は弾薬重量+リンク重量だがリンクは100発につき約1kgなので合計2kgにしかならない。
ベルト式の方がお得であるとすぐに御理解頂けよう。

重量的に得なだけではない。
スペースさえあればドシドシ装弾数を増やせるし飛行時のGにも強い。
だが幾らベルト式が良くても戦場では「すぐに使える新兵器」が望まれている。
装弾数の話(その2)で新型弾倉の開発を「それなりの技術革新がなければ困難」と書いたが困難を乗り越えてでもそれを実現化した田中悦太郎技術大尉の苦労は大変な物であったらしい。

なおこうした給弾機構の改良に加え日本海軍は初速の増大を目的としエリコン製FFLをライセンス化した20mm2号銃の実用化にも乗り出す。
ケース長(実包重量210g)が大きくなって装薬が増え銃身長も長くなったから2号銃の初速は1号銃の600m/sから750m/sに増大した。
ただし銃本体の重量は38kgに増え発射速度も毎分500発に低下している。
通常、日本海軍の99式20ミリ機銃は銃身長タイプ(1号銃と2号銃)と給弾機構タイプ(60発弾倉が1型、100発弾倉が3型、ベルト式が4型)の組み合わせで表記される。
つまり1号銃1型とか2号銃4型とかいった具合だ。

さて、2号銃だがこれは1943年春頃から装備(零戦22甲型)されだしたらしい。
勿論、2号銃3型である。
これが2号銃4型となるのは44年3月に量産が始まった零戦52甲型になってからだ。
この時、日本海軍の機銃はやっと弾倉式の制約から逃れ欧米に追いついた。
えっ、2号4型の装弾数?
さぞ増えたろうって?
う〜ん、残念ながら零戦系では125発だったらしい...
でもね、これはスペース的な問題だったから烈風の200発や紫電改の250発などベルト式はおおいに戦力として貢献したんだ。
随分、遅すぎたけど...
もしもっと早ければ古峰氏の調査で存在が明らかになった零戦41型なんかも量産化され「幻の41型」とはなっていなかったかも知れないね。            (続く)

[930] 装弾数の話(その6) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/08(Sun) 17:18
さてと...
前回で述べたが操縦席に防弾板を装備したので小口径火器は次第に陳腐化していった。
となると大口径火器に頼らざるを得なくなる。
だがエリコン系20mmの装弾数は弾倉式なので60発に過ぎない。
よって各国とも大口径火器の装弾数増大化に血道を上げる事になった。

ただし米ソは別である。
米は12.7mmと7.62mmの混載であり12.7mmは弾倉式でなかったから12.7mmに統一するだけで事は済んだ。
ソ連は20mmと7.62mmの混載であったがなんと20mmは20mmでもエリコン系でない独自開発の20mmだったので装弾数は問題とならなかった。
ShVAKと呼ばれるこの20mmは弾倉式でなくベルト式だったのである。

そうなのだ。
賢明なる読者は既にお判りだと思うが「弾倉式なので装弾数が制限される」のなら弾倉式をやめベルト式にすれば良い。
ベルト式だと幾らでも延長できサイズ、重量の許す限り多くの実包を搭載できる。
ベルト式に於ける装弾数の限界は機構上の問題ではなくキャパシティもしくは機能要求上の問題に過ぎない。

かくして英はHS404をベルト式に改良したC翼(装弾数120発)を開発した。
これで12秒は撃てる。
更にC翼では7.7mm8門のCa、7.7mm4門と20mm2門のCb、20mm4門のCcの3種が選択できる様になった。
選べるたってどれにするかはもう考えなくても判るよね。
潤沢に20mm砲が供給されれば。
そう。
様々な事情があったから「C翼ができました。さあ、これからは大口径の時代です。小口径なんかうっちゃときましょう。」って訳にはいかなかったのだ。
でも段々に20mm4門のCc翼装備が増えていく。

一方、ドイツは弾倉式のエリコン系とは別にベルト式のモーゼル系(マウザー)MG151を開発した。
MG151は当初、15mmのMG151/15が量産されたがすぐ20mmのMG151/20に換えられた。
ドイツはかねてより同軸火器に関心を寄せていたがBf109のF型になって遂に実用化に踏み切る。

まずエリコン系のMGFF20mm砲(装弾数60発)をDB601Nの同軸に装備したF1が開発されついで火器をMG151/15に強化したF2が続いた。
更にF3で発動機がDB601Eに強化されF4で火器がMG151/20(装弾数200発)となりF型は完成の域に達する。
MG151/20の発射速度は毎分800発なので15秒撃てる。
ただしF型の登場は独エース達に賛否両論をもって迎えられた。

なにしろE型では2門だった20mmがF型では1門だけだ。
とは言えE型は翼内だったので命中率が低かったがF型では同軸なので命中率がずっと高い。
E型のMGFF砲は発射速度が毎分520発だったから2門で1040発なのに比べF型のMG151は毎分800発なので門数は2倍でも射弾量は1.3倍程度である。
加えてFF砲は初速600m/s前後でションベンダマになりやすかったがMG151は初速800m/sでなりにくい。

とまあこういった理由で単純比較はできないのだがメルダース達がもろてを挙げてF型を褒めそやしたのに対しガーランド達はF型にぶうぶう文句を言った。
なおこの頃になるとBf109とは別に空冷のFw190が戦場に現れる。
こいつは凄い。
「20mm2門で各60発しか撃てないのと1門で200発撃てるのとどっちが良い?」と比べ合ってる場合じゃない。
41年秋に現れたFw190A2はなんと20mmを4門も装備しているのだ。
内翼に発射速度毎分720発の同調式MG151/20を装弾数各250発(発車時間20.8秒)を2門、外翼にMGFF砲2門(Fw190のMGFF砲装弾数は資料によって45発、55発、90発など諸説あり)である。
つまりBf109ならE型1機+F型2機の3機分だ。
Fw190の登場はドイツの機関銃屋に大きな福音となった事だろう。         (続く)

[929] 装弾数の話(その5) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/07(Sat) 19:28
前回、多銃主義の英国が混載主義に変転した所まで書いた。
重要なのは各国の単座戦闘機(日本海軍を除く)が防弾板を装備し始め小口径火器が陳腐化した事にある。
ただし一夜にして両軍の全戦闘機が防弾板を備えたのではないから陳腐化の波は上げ潮の如く徐々に広がっていった。

元来、対爆撃機用だった大口径火器は迎撃戦で使うのが主なので装弾数が60発でもなんとかなったが、対戦闘機戦でも使うとなれば圧倒的に足りない。
零戦21型やBf109E4で7秒、スピットファイアB翼は6秒しか撃てないのだから。
ここで航空機の防御についてすこしまとめておこう。
火器を撃って敵機を撃墜するにはまず命中させる事が肝要であるが「どこに当てどの様な損害を与えるか」によって効果が異なる。
重要な順に列挙して見よう。
1.操縦士
2.燃料タンク
3.発動機
4.主要構造材

まず操縦士だが戦死させれば目的は全て達成される。
負傷だと落下傘降下で脱出してしまうがしばらくは戦列復帰できないので充分な効果が得られるし味方上空だと捕虜にできる可能性もある。
最低限、敵機を1機減らす事にはなる。
ただしそれだけ重要なアイテムだから大抵は防弾板で保護されているし標的面積も小さい。

次に重要なのは燃料タンクだがこれは発火させる事に意義がある。
ただ貫通させてもさして大きな効果は得られない。
そこで撃たれる側としては防弾板で囲っていたずらに重量を増加させるより貫通孔を即座に塞ぐ防漏タンクにする方が効果的となる。
また防漏タンクは「発火するのを防ぐ手段」だが「延焼を食い止める手段」として「自動消火装置」で対処する事もできる。

操縦士と燃料タンクは航空機にとって大きな弱点だがそれに比べ3番の発動機は少々、被弾した所でそう簡単には止まらない「鉄の塊」なので「止まれば墜ちる航空機の生命線」ではあっても弱点と言い難い。
見方によっては巨大な防弾板と考えられなくもない。
水冷式発動機のラジエーターなどは別だが。

更に主要構造材となると...
機体外版に命中してもただ貫通するだけなら風通しが良くなるだけだし桁や肋材を破壊して飛行不能にするには相当の命中弾を与えて鋸で引き裂く様にしないと駄目だ。
そうした手段で航空機を撃墜するのは不可能では無いが相手によっては気の遠くなる迂遠な方法である。
ただしあり得ない訳ではない。
例え米軍重爆相手であってもたくさんの弾を一生懸命、同じ所に撃ち続けていれば何時かはきっと撃墜(零観でB24を撃墜した例がある)できるだろう。
またそれほど極端な例ではないが小口径多銃主義の英戦闘機はBf109Eの主翼を切り裂いたそうだ。
ちなみに構造材の破壊効果では小口径多銃主義以上に炸裂弾を撃てる大口径火器が威力を発揮する。

これらの弱点以外に外版が布張りだった場合は焼夷弾を撃ち込まれると一気に炎上し燃料タンクを撃たれたのと同じ状態になるから要注意である。
なお、意外に思われるかも知れないが木製機は以外と発火しづらいらしい。       (続く)

[928] 装弾数の話(その4) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/05(Thu) 19:02
さてそれでは英軍に話を戻そう。
第2次世界大戦時、英軍は戦略爆撃を夜間としたので単座戦闘機の任務は海峡を挟んでのつばぜり合いに終始した。
つまり哨戒と迎撃が主(後に戦闘爆撃がこれに加わる)なのであまり装弾数を必要としない。
英軍単座戦闘機の航続力が短く火器の装弾数が少ない要因はここにある。

また英軍戦略爆撃機の高々度飛行能力は極端に悪く米は言うに及ばず日独の足下にすら及ばなかった。
つまり英軍は夜間爆撃を選んだのではなく夜間爆撃しか選べなかったのだ。
航空作戦の主軸が夜間爆撃である以上、単座戦闘機は戦場の花形たりえない。
まともに夜間飛行するのが困難なのだから。

よって英軍では他国ではあまり見られない複座夜戦のエースが多々輩出した。
ブラハム中佐(スコア29機)やバーブリッジ中佐(スコア21機)、カニンガム大佐(スコア20機)などだ。
彼らは夜戦相手に戦ってスコアを挙げたのだから爆撃機相手でスコアを伸ばしたドイツ夜戦エースや日本夜戦エースよりもっと高く評価されても良いのではないかと僕は思う。

さてそれでは英軍単座戦闘機の搭乗員はどこでスコアを挙げたのだろうか?
勿論、大半は迎撃で挙げた訳だ。
まず最初の大きな山場は言わずと知れたバトル・オブ・ブリテン。
1940年末までの短期間にロック大尉は23機(最終25機)、ハローズ少佐は21機(最終21.3機)、マッケラー少佐は20機(11月に戦死)、レイシー少佐は19機のスコアを挙げた。
だが多大なる損害に疲弊したドイツ空軍が戦術を夜間爆撃に変更したので単座戦闘機は徐々に活躍の場が無くなってしまう。

次に大きな山場となったのがマルタ。
基本的に地中海戦域では連合、枢軸双方とも昼間戦術爆撃を多用したので単座戦闘機は大いに活躍したが、わけてもマルタは英軍にとり迎撃戦のメッカとなった。
マルセイユ大尉(スコア158機)は北アフリカで151機を落としたがそのうち147機が単座戦闘機であり、更にその中の大部分を英軍機が占めていたのである。
つまり英軍としてもマルセイユ大尉やらミュンヒベルク少佐やらその部下やらを撃墜するチャンスは多いにあった訳で実際、多くのドイツ機が英単座戦闘機によって撃墜された。

部隊規模での戦果を比較すると英軍はドイツに対し劣ってなどいない。
ただしドイツ軍エースに比べ英軍エースのスコアが低調であった事は否めない。
なぜだろうか?
確かに米国から貸して貰ったP40はちょっといただけない戦闘機だった。
だがスピットファイアとBf109の取り組みはバトル・オブ・ブリテンで好カードだったしどの戦いでも決してひけなど取ってはいなかった。
にも関わらずドイツにのみスーパーエースが現れ英軍では現れなかったのか?

その理由は「英軍機の装弾数が少なすぎたから」である。
先に迎撃ではあまり装弾数を必要としないと書いた。
ただし...
スーパーエースを産み出すには装弾数が必要なのだ。
戦争に勝つのに貢献する兵器とスーパーエースを産み出す土壌となる兵器は必ずしも同一ではない。
スピットファアは不世出の傑作機だが「エース向けの戦闘機」ではないのである。

ただしエースでない搭乗員が最初のスコアを挙げるには絶好の機体だ。
多くの搭乗員が1機のスコアも記録しないまま非業の死を遂げる事を考えればスピットファイアが名機であると理解できる。
スーパーエースにはなれずとも運動性が良く1回の射弾量が多いのだから。

もっとも小口径多銃主義によるスピットファイアの射弾量はBf109E3,E4の防弾板によって優位性を失い英軍もまた「装弾数60発の20mm2門と小口径の混載」の仲間に加わっていったが。         (続く)

[927] 川崎重工のチーム名はハヤテ? 投稿者:legerity 投稿日:2009/03/04(Wed) 09:56
はじめまして、モータ・スポーツ好きのlegerityと申します。

昨今MotoGP(バイクのグランプリ)よりの撤退を発表していたカワサキですが、1台体制で継続となった模様です。が、チーム名はハヤテ....。ヒエンじゃなくって?
カワサキは4st化によってGPへ復帰したものの優勝がなく、日本のバイク業界もスクータ全盛(カワサキは作ってない)ですから厳しい状況ですね。
同じく今年WRC(ラリー)からの撤退となったスバルならハヤテでも良いと思うのですが....。

兵器もそうですが、モータ・スポーツもコスト・パフォーマンスが重要ですよね。

では、今後とも宜しくお願いします。

[926] 装弾数の話(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/03/03(Tue) 13:25
零戦21型やBf109E4がエリコン系20mm2門に加え7.7〜7.92mmを2門ずつ装備したのは弾倉式だったからに他ならない。
ちなみに零戦21型の97式7.7mmは装弾数700発で発射速度毎分900発だから46秒、Bf109E4のMG17(7.92mm)は装弾数1000発(Bf109E3以前とF以降は500発らしい)で発射速度毎分1200発だから50秒も撃てた。
更にエリコン系20mmには発射速度と初速が遅く機敏な対戦闘機空戦に不向きだと言う欠点もあった。

面白いのはスピットファイアで同機の7.7mmブローニング銃の装弾数は僅か350発(300とする資料もある。またスピットファイア1型は300、2型以降は350とする資料もある)に過ぎなかった。
発射速度は1200(1000とする資料や1140とする資料もあり)なのでなんと17.5秒しか撃てないのだ。
ただし日独の小口径火器が各2門なのに英は2倍の4門を装備している。

なぜ英は小火器を2倍も装備し装弾数がこんなに少ないのだろうか?
これは英国が大戦当初に多銃主義を押し通した名残なのである。
各国が混載主義(日、独、仏、ソは20mmと7.5〜7.92mm、米は12.7mmと7.62mm)を歩み始めた頃、英国だけは多銃主義をとりスピットファイアやハリケーン、フルマーなどブローニング製7.7mm8門装備の単発戦闘機を続々と量産した。

多銃主義は「へたな鉄砲も数撃ちゃ当たる方式」なので練度の低い搭乗員でも目標に命中させられるが制限内の重量で火器を多くする以上、小口径(大戦後半に登場した雷電やFw190、紫電改など20mmの多銃主義については後述する)とならざるを得ない。
また全火器を同時に発射し弾幕を張るのが目的だから全火器の装弾数は基本的に同数(同数でないP51や装弾数の多いP47、F6Fなどもいるがここでは例外事項とする。)であり1門の装弾数は少なくなる。

これらの欠点があるものの英国の小口径多銃主義は「防弾版を装備しない相手」なら悪い方法ではない。
だが7.5〜7.92mmクラスの小口径弾だと7mm前後の防弾板で簡単に無力化されてしまう。
かくして装甲板を備えたBf109E3やE4が主力となりだした1940年後半、英国は大きな方向転換を迫られスピットファイアは7.7mm8門のうち4門を20mm2門(各60発)に代えたB翼を装備する事になった。
よってスピットファイアの7.7mmは装弾数が少なく門数が多いのである。

言うなれば装弾数の少ない英国戦闘機はエース向きではない。
幾ら有能なエースであっても弾がなければスコアを伸ばせないからだ。
空戦は総当たりのリーグ戦ではなく生死を賭けた勝ち抜き戦なので負けた方は墜ちるか戦闘空域外へ離脱する。
勝った側は次の相手を捜す。
燃料が無尽蔵ならどちらかが零になるまで空戦が続くかも知れないが無尽蔵では無いのでいずれ時間が来たら来襲側が引き揚げ空戦は終わる。

そもそも戦闘機と戦闘機が空戦をする目的だけで出会う事はあまりない。
大抵、来襲する側が爆撃機を連れてやって来て爆撃が終わればサッサと引き揚げる。
当然、戦闘機も爆撃機と一緒に引き揚げる。
だから「最後の1機が墜ちるまで空戦が続く」なんて事は滅多に起きない。

とは言え最初の敵を倒して生き残れば次の敵、そこでまた生き残れば更に次の敵、と何回かは続くだろう。
それが果たして何回なのかは重要なポイントだ。
もし回数が少ないなら装弾数を減らしてでも火器を増やすだろうし多いならその逆だ。

更に進攻側と迎撃側でも話が変わってくる。
迎撃側は弾薬が零になれば着陸して補給できるが進攻側はそうはいかない。
帰り道で空戦する事もあり得るのだから着陸するまで常に残弾を必要とする。
米軍の戦略爆撃は昼間高々度だったから護衛戦闘機は多くの装弾数を必要とした。
ドイツの迎撃戦闘機が何処で何波、襲来するか知れた物ではない。
弾が無くなったからと言って爆撃機をおっぽりだしサッサと途中から引き返す事はできないし丸腰で単機帰投するのも危険極まりない。

米軍で使用された12.7mmAN/M2機銃の発射速度は毎分750発だがP40Eはこれを6門装備し装弾数は各281発(合計1686発)であった。
つまり射撃時間はたった22.4秒にしかならない。
これはP40Eが戦略爆撃機と共に行動する長距離護衛戦闘機ではなく航続距離の短い迎撃戦闘機だったからに他ならない。
長距離護衛戦闘機であるP51Bは火器が4門に減少したが装弾数は内側350発、外側280発(合計1260発)に増えている。

長距離護衛戦闘機の任務は敵迎撃機を「追っ払う事」であって「確実に敵を撃墜する事」ではない。
よって火力が減ってでも射撃回数を増やさねばならない。
また内側と外側で装弾数が異なるのは「せめて丸腰にならない様にとの窮余の策」なのであろう。
ついでP51Dになると火器が6門になり装弾数は内側400、中と外側が各270発(合計1880発)になる。
400発あれば32秒も撃てる。

更にP47Dでは火器が8門に増え全て425発(合計3400発)になった。
ここまでくると「火力も射撃回数も充分」であり「どちらを優先するか」と言う迷いは些かも感じられない。
これらP51BやP51D、P47DがB17を護衛してドイツ本土を昼間戦略爆撃したのである。
米軍の長距離護衛戦闘機は迎撃機を「追っ払う事」に関しては充分な能力を持っていたと言えよう。

ただし12.7mmに固執した事については少々疑問を感じる。
大戦末期まで殆ど無装甲だった日本海軍戦闘機相手ならいざ知らずドイツ戦闘機は次々と防御力を高めていき搭乗員背後の防弾板はどんどん厚くなっていった。
一例を示すとFw190A3は14mm、Me262は16mmである。
こうなるともはや12.7mmでは貫通できない。

たとえ米護衛戦闘機によって機体が破壊されても搭乗員さえ無事な落下傘降下(ドイツにとって本土防空戦での迎撃は常に味方上空である)して戦線復帰し再度出撃する事も可能だ。
この場合、ドイツ軍は戦闘機を1機失うだけであるが米護衛戦闘機が被弾した場合は戦闘機1機と搭乗員1名(戦死か捕虜)を失う。
ドイツのバルクホルン中佐(2位スコア301機)は9回、ラル少佐(3位スコア275機)は8回、ルドルファー少佐(7位スコア222機)などは16回も撃墜されている。
つまりかなりの確率で敗者復活戦のチャンスが与えられるのだ。
これだけ撃墜されても戦死せず次々と新戦闘機に乗り換え再出撃するのだからスコアは伸びるはずだ。

それに比べ米軍の欧州戦線トップのガブレスキー中佐(米4位スコア28機)は1944年7月にドイツに不時着してあえなく捕虜となった。
他にもスコア17.75機のゼムケ大佐など捕虜収容所で終戦を迎えた米軍エースは数多い。
またドイツでスコア200機以上の撃墜者15名中、戦死者が僅か5名に過ぎないのもドイツ戦闘機の防弾が優れていた事を如実に物語っている。

ドイツに於いてスーパーエースが頻出した理由は単なる機体性能差や搭乗員の技術差だけではない。
「どこで戦うか?」が重要なポイントとなる。
味方上空で戦う防空戦は敵地上空で戦う進攻作戦よりエースとなりうるチャンスが大きいのである。
充分に防弾された機体とちゃんと開く落下傘があればの話だが。  (続く)

[925] Re:[924] [922] 回答頂きありがとうございます 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/27(Fri) 15:41
> どうせ米軍はそんなにケチケチする軍隊じゃないし。

太平洋戦記2の米軍思考だって最初からケチケチしてる訳じゃないよ。
魚雷がたくさんあれば相手が海防艦だろうが輸送船だろうが盛大にぶっ放す。
でもガトー型は1隻あたり2回しか撃てないからね。
以後はチミチミと使うしかないんだ。
だって補給されるまで丸腰になっちゃうもん。

> でも魚雷は戦艦の主砲弾よりも高いって聞いたことが有るんですが、ホントですか?

もちろんそうだろう。
阿川氏の著作によると大戦中の日本軍魚雷は1本5万円らしいし某サイトによると日本の40p砲弾は4千円らしい。

> 朝鮮戦争の本で、戦艦が艦砲射撃をする時に米兵が「そ〜ら、キャデラック飛んでけ〜」
> と言っているのを聞いて、何故か?と質問したら、「これ一発でキャデラックが買える」
> とのこと。イヤハヤ、戦艦の主砲弾は高いんだなぁ、と。

キャデラックが幾らかは知らないけど97式中戦車は165400円(1943年:火器は別)、99式小銃は100円(1945年)、零戦は約10万円(装備品こみ)だった。
ちなみに平均的初任給は100円だったらしい。

[924] Re:[922] 回答頂きありがとうございます 投稿者:K-2 投稿日:2009/02/26(Thu) 21:09
>こっちは全力で爆雷投下してるのに敵はなぜ100本撃てる(ガトー型の場合)のに30本程度しか撃たないんだろう?と疑問に思ってました。

あ、そうですね。その点、よく理解してませんでした。
確かに残りを護衛艦に放つなり、より確実を期するために輸送船に飽和攻撃しかけてもいいのにね。
どうせ米軍はそんなにケチケチする軍隊じゃないし。
でも魚雷は戦艦の主砲弾よりも高いって聞いたことが有るんですが、ホントですか?
朝鮮戦争の本で、戦艦が艦砲射撃をする時に米兵が「そ〜ら、キャデラック飛んでけ〜」
と言っているのを聞いて、何故か?と質問したら、「これ一発でキャデラックが買える」
とのこと。イヤハヤ、戦艦の主砲弾は高いんだなぁ、と。

[923] 装弾数の話(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/26(Thu) 19:56
それではここで単発戦闘機の火器の変遷をおさらいしておこう。
昔昔のその昔、戦闘機の機体外版が布製で主翼が何枚もありコックピットは解放式、脚も出っぱなしだった頃、世界中の単発戦闘機は2門の小口径火器を装備して空を飛び回っていた。
だが単葉だの密閉式コックピットだの引込脚だのが次々と取り入れられ始めた1930年代中盤、火器もまた新時代へ突入する事になった。
航空機用大口径火器(エリコン製20mmとそのライセンス版ならびにソ連のShVAK20mm、米国の12.7mmなど)の登場である。

当初、これら大口径火器は対爆撃機用として開発が進められた。
なぜならその頃はまだ単発戦闘機に防弾が施されておらず「戦闘機相手なら小口径で充分」と考えられていたからである。
爆撃機にしても防弾らしい防弾は施されていなかったのだが1930年代中盤はソ連のTB3や日本の92式重爆、米のB17などの4発重爆が出現するわ、日本の96式中攻、ソ連のSB2、英のブレニムなどの高速爆撃機が出現するわで世界中に「戦闘機無用論」に近い思想が吹き荒れていた。
これらの機体は大して防御力が強い訳ではなかったがすばしっこくて攻撃するチャンスがなかったり図体がでかくて一撃では致命傷にならなかったりしたので戦闘機に大口径火器を装備する事が求められた。

ただしこれまで装備されてきた小口径火器に代わって大口径火器が装備された訳ではない。
重量制限の厳しい単発戦闘機に2種の火器を混載するのは不合理の極みであったにも関わらず多くの国は混載の道を選んだのである。
大が小を兼ねないのは兵器のセオリーだが混載が主流となったのには大きな理由があった。

新たに登場した大口径火器の信頼性が低かったのも要因だが何よりもエリコン系は弾倉式と言う重大な制約を抱えていた。
大戦初期、零戦21型やBf109E4、スピットファイアB翼など多くの戦闘機が20mm砲2門を装備して大空を駆けめぐったがこれらの装弾数は各60発だった。
どれも皆、エリコン系火器で弾倉式だったからである。
巷間で「初期の20mmは弾数が少なく不評だった」と書かれているが日本海軍に限らず全世界(弾倉式を採用せず最初からベルト式にしたソ連を除く)で不評であった。

零戦21型が装備した99式1号20mmの発射速度は毎分520発だから約7秒しか射撃できない。
「これでは足りないぞ。」と誰でも思うだろう。
そして「ならば大きな弾倉を開発すれば良いではないか。」と誰もが考えつく。
だがひとくちに新型弾倉を開発すると言ってもそう簡単には問屋がおろさない。
弾倉式自動火器で次弾をチャンバーへ装填するにはバネの力を使用するがこのバネは強すぎても弱すぎてもいけない。
無闇やたらと強力なバネを組み込むと弾倉が弾詰まりを起こし弱すぎると装填できなくなってしまう。
よって弾倉式だとおのずと装弾数に限界ができる。
最初から装弾数を少な目に設定している弾倉なら容易に拡大/改良できるが極限を狙って設計された弾倉の改良となるとそれなりの技術革新がなければ困難だし仮に改良に成功しても故障し易くなりがちなのである。    (続く)

[922] 回答頂きありがとうございます 投稿者:帝国兵器BAKA 投稿日:2009/02/25(Wed) 21:01
>>潜水艦戦の発射フェイズを1回の潜水艦戦中で2回にする必要がある。
等分かり易い説明をありがとうございます。太平洋戦争が好きなので次回作に大いに期待してます。

>>K-2さん
確かに護衛艦の数がとても多いように思いますが、
忠実の雑多な輸送船(2000tとかの小輸送船)
や、様々な護衛艦(駆潜艇、水雷艇、特設船)を、プレイヤーの負担にならないように1万t輸送船、海防艦に置き換えて、多数あった輸送船(3000t程度)×2、駆潜艇と掃海艇など×3とかの船団を1つに合わせると太平洋戦記のような船団になるのかも?と思います。潜水艦隊のほうも2,3隻単位でなく10隻編成で攻撃してきますしね。3日に1ターンと言う事を考えるとこのような形が精一杯だと思います。ただ、こっちは全力で爆雷投下してるのに敵はなぜ100本撃てる(ガトー型の場合)のに30本程度しか撃たないんだろう?と疑問に思ってました。システム上の問題ということで疑問が晴れたので満足です。

[921] 装弾数の話(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/25(Wed) 19:33
昔、サイドワインダーMAXと言うPS2用空戦ゲームをデザイン(発売元アスミック)した事がある。
そのゲームは子供向けなので機関砲の装弾数を無限としたが実際の空戦でそんな事はありえない。
ショベンダマやらミサイル類の搭載制限、任務の多角化やら組織内のキャラクター確立などはうまくゲーム化(猪爪君ありがとう)できたんだけどね。

さて、空戦で勝つには自機に敵弾は当たらず自弾は敵機に当たるのが肝要だがそれには自機の火器の命中率と発射速度と装弾数と貫徹力が大きな要素となる。
これらのうち命中率は火器本来の性能もさる事ながら火器の装備位置で大きく変化する。
主翼に装備すると運動性が低下するだけではなく命中率も大きく低下してしまう。
その理由は全火器をやや内側に向け前方の固定距離でクロスさせている為である。

次に発射速度だが高速で機動しながら一瞬の間隙を縫って射撃する空戦では短時間で目標に弾丸を浴びせかける必要があり基本的に発射速度は高い方が好ましい。
だが「発射速度毎分1200発で装弾数20発、1秒しか撃てません」じゃ話にならない。
高発射速度にはそれなりの装弾数が必要だし「無茶苦茶な高発射速度」だとかえって弊害となる。
もっともそんな高発射速度の機関砲を量産するのは大戦中には無理(ドイツでは試作レベルまでは達していた)だったが...

また「火器の装備方法(その2)」で書いた様に発射速度が遅いとプロペラと同調できないと言う問題も生ずる。
ちなみに同調式火器は「発射速度が早くなければ同調できない」が「同調する事によって若干、発射速度が低下する」と言う欠点も持っている。

これらの問題をクリアし敵機に上手く自弾を命中させても防弾板に弾き返されちゃなんにもならないから火器にはそれなりの貫徹力が必要となる。
どの程度の貫徹力が必要かと言うと相手によって変わるのでなんとも言えない。
一例を示すとバトル・オブ・ブリテン時の英国7.7mmはDo17相手に充分有効だったし日本本土防空戦には20mmでもB29相手に力不足だった。

さて、ここからが問題。
発射速度はどの位あれば良いのだろうか?
さっき「発射速度は高い方が良い」と書いたが低くても火器の数が多ければ同じ効果が得られる。
よって「発射速度は高い方が良い」が「1分間に最低何発以上」と限ったモノでもない。

第2次世界大戦中、量産された各国の20mm砲の発射速度/毎分は日本陸軍のホ5が750、海軍の99式1号が520、99式2号が500、独のMG151/20が800(同調時720)、英米のHS404が600、ソ連のShVAKが800で発射速度はだいたい500以上800以下となる。
なおこれら各国20mm砲のうち99式1号、99式2号、HS404はスイスのエリコン社製品のライセンス版であった。
ただし弾薬は共通ではない。

元々、エリコン社の20mm機関砲は大威力(ケース長110mm)のFFS、中威力(ケース長101mm)のFFL、小威力(ケース長72mm)のFFの3種があり99式1号はFF、99式2号はFFL、HS404はFFSを原型としていた。
またドイツのMGFFもFFを原型としているが少しだけ弾薬のケース長(80mm)が大きかった。

それでは戦闘機の火器はどの位、装弾数があれば良いのだろうか?
目方が軽くて嵩張らないなら多ければ多い方が良い。
だが20mm弾は日本の99式2号銃の場合で1発210gもある。
紫電改の場合、これを900発積むから合計189kg。
弾薬箱の図体だってそれなりに大きい。
やっぱり弾薬の積みすぎは考え物だ。
戦闘機は機動力あっての兵器なのだから機体重量は軽ければ軽い方が良く「弾薬の必要最小限はどれくらいか?」が重要になる。
積みすぎで重くなり敵に後ろを取られ「弾薬を山ほど積んだままあえなく散華」ではこれまた話にならない。

1回の射撃で何発撃てば良いのだろうか?
1回の出撃で何回、射撃する必要があるんだろうか?    (続く)

[920] Re:[918] 今更ながら… 投稿者:K-2 投稿日:2009/02/25(Wed) 00:07
> 忠実の戦闘では護衛艦もかなり潜水艦に屠られており
> 一時期護衛艦を優先して狙う方針を採った時もあると聞きました。
史実では、輸送船の数に比べて護衛艦の数が少なかったのが原因なのでは?と思います。
数隻しか護衛艦が居ないのであれば、先に全部沈めてから丸腰の輸送船を狙うのもアリかと。
太平洋戦記みたいに20隻びっちり護衛に付いていると、沈められる前に第一目標を!
と考えてしまうのは仕方ないかと。先制攻撃しても到底護衛艦は殲滅できませんから。
史実だと、護衛の駆逐艦・海防艦は、せいぜい多くても4〜5隻ってとこみたいですし。

[919] Re:[918] 今更ながら… 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/22(Sun) 14:38
> 時代は空母戦記ですが、
> 太平洋戦記で気になった事があるので質問させて下さい。

空母戦記2は4年も前に発売した作品なので「時代は空母戦記」と言われるとちとおもはゆいのだが...

> 忠実の戦闘では護衛艦もかなり潜水艦に屠られており
> 一時期護衛艦を優先して狙う方針を採った時もあると聞きました。

米潜水艦は発射管10門のうち4門を艦尾に備えこれの反撃により日本海軍護衛艦艇は甚大な損害を蒙った。
これを再現するには潜水艦の発射管を前部と後部に分け潜水艦戦の発射フェイズを1回の潜水艦戦中で2回にする必要がある。
弊社のゲームでこのシステムが導入されたのは空母戦記2以降なので残念ながら太平洋戦記2にはまだ導入されていないんだ。
だから太平洋戦記2では護衛艦艇の損害があまりでないのである。
また「優先的に護衛艦艇を狙う」と言うのも思考の選択肢として加味するともっとゲームが面白くなるかも知れない。
次回作では是非、考慮しようと思う。

[918] 今更ながら… 投稿者:帝国兵器BAKA 投稿日:2009/02/21(Sat) 14:50
時代は空母戦記ですが、
太平洋戦記で気になった事があるので質問させて下さい。
要望ではございませんので掲示板にて書き込みます。
海防艦20隻、輸送船3隻の艦隊が潜水艦に奇襲されたとします。
連合軍の潜水艦隊(10隻編成)はこの時輸送船3隻に対し
大体魚雷2,30本を放ち、海防艦には攻撃してきません。
忠実の戦闘では護衛艦もかなり潜水艦に屠られており
一時期護衛艦を優先して狙う方針を採った時もあると聞きました。
このような忠実を踏まえると敵の潜水隊は全弾発射とは
ならずとも全発射管数の3分の2位は輸送船団に対して
ぶっ放してもおかしくは無いと思うのです。
忠実に比べ護衛艦を一度整備すると殆ど減らないので
気になった次第です。若輩者の小生にも理解できるよう
回答してもらえると幸いです。また、この板にいらっしゃる
ベテラン方の意見も聞けると尚幸いです。

[917] 火器の装備方法(その3) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/19(Thu) 17:23
米国製単発戦闘機の火器装備方法は「なんでもあり!」につきる。
合理主義っちゅうか、なんちゅうか...

まずは同軸。
米国には同軸用に開発された発動機なんてない。
それでも付ける。
発動機をわざわざコックピット後方に移してまで疑似同軸をつける。
普通なら試作で終わっちまいそうな機体をP39として量産しあまつさえP63なんて後継機まで開発する。
そんなにまでして欲しがった同軸付単発戦闘機(疑似だけどね)をゴッソリとスターリンにくれちまうんだから流石に豪気なモノだ。

次は胴体。
アリソンはV型だから胴体の機首上面に火器を装備すると空気抵抗が大きくなる。
それでもP40はつける。
ソ連のMiG系は他に装備する所がなかったからやむなく胴体に火器を装備したが米軍の場合は他に装備する所があっても胴体に装備したりする。
極めつけはP51Aでなんと機首下面にまで火器を装備する。

最後に主翼。
アメリカは金持ちで資源大国だ。
ソ連みたいに「主翼が木製だから×」ってんじゃないから当然、沢山の火器を装備する。
最初は装備してなくとも追加でどんどん付ける。
もう「大戦中に生産された米軍単発戦闘機で主翼に火器を装備してなかったのはいないんじゃいか?」ってくらいたくさんつける。
果ては戦闘機にあきたらずSB2Cみたいな艦爆、TBFみたいな艦攻、A26みたいな爆撃機の主翼にまでつける。
B29の主翼につけなかったのは最後に残った良識の表れなのかも知れない。

と、冗談はさておき米国の火器装備方法は試行錯誤の「なんでもあり!」から始まり主翼重視へと変転していった。
よって「最初から主翼だけ」の英国とは根本的発想が違うのだが「行き着いた所は同じ」となる。

さて、主翼に火器を装備する場合は「脚との共存」が大きな問題点となる。
一番主翼に火器を装備し易いのは固定脚だがこれはまあ論外として単発戦闘機の引き込み脚には以下のタイプがある。
1.胴体収容
2.主翼後方
3.機首+主翼
4.主翼外開き
5.主翼内開き

どれも一長一短だが1はF2AやF4Fなど初期の米海軍戦闘機で採用された形式で主翼の大部分が火器スペースに使用できる。
欠点は地上滑走時の安定性が極端に悪い事と胴体が太くなり飛行性能が低下する事。

2は脚を90度回転させてから主翼後方へ引き込む方式でF6FやF4Uなど大戦後半の米軍戦闘機及びP40で採用された。
この形式は横方向に主翼を省スペース化でき1についで主翼火器装備に向いている。
欠点は構造が複雑な事。

3はP39で使用された形式で地上滑走時の振動が少なく視界も優れている。
まあ普通は双発以上の大型機で採用される形式だが単発戦闘機にこんなヤッカイな脚を装備し挙げ句の果てに「自動車式の横ドア」をつけるんだから米国人が乗り心地にこだわる方向性がわかって面白い。
欠点は「単発戦闘機で採用するには正直言って不適当」な事。

4はもっとも一般的な形式で日本の陸海軍戦闘機の大部分、ソ連軍戦闘機、Fw190、ハリケーン、P47、P51などで使用された。
この形式は主翼中央に設置された脚が外に向かって開くので地上滑走時の安定性が良い。
まあ一番優れた形式だから一番多く、採用されているのだろう。
それなりに欠点もあるが。

5は4と逆に胴体ギリギリに設置された脚が内に向かって開く。
よって地上安定性が悪いのだが重量のかさむ脚のギアが胴体内に収容できるので飛行時の運動性が良くなる利点をもつ。
この形式を採用したのはBf109とスピットファイアくらいだが両機を合わせて50000機以上生産されてるので必ずしもマイナーとは言えない。
こうして眺めると火器の主翼装備に適した1,2を米国が独占してるんだね。
やはり米国の主翼重点化はなるべくしてなったのだろうか...

なんにしても大戦中の米軍単発戦闘機を見てわかるのは「戦争中、さぞ機関銃屋は儲かったろうな」って事だ。

[916] 火器の装備方法(その2) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/16(Mon) 20:38
さて今回は日本の単発戦闘機を見るとしよう。
英が水冷王国であったのとは逆に日本は空冷帝国であった。
ちなみに独ソは空冷と水冷が半々、米は陸軍が水冷重視、海軍が空冷重視だったが日本の単発戦闘機で水冷発動機を装備したのは3式戦だけだった。
よって日本軍の単発戦闘機は「空冷発動機にマッチした火器装備方法の模索」であり真っ先に同軸が除去(試作機レベルでは存在したが)される。
であれば要点は「胴体と主翼のどっちが重点?」になるしかないのだが陸軍と海軍で見解が大きく異なっていた様だ。

       胴体      主翼
1式戦2   12.7*2
2式戦乙   12.7*2  12.7*2
3式戦乙   12.7*2  12.7*2
3式戦丙   12.7*2  20*2
3式戦丁   20*2    12.7*2
4式戦甲   12.7*2  20*2
4式戦乙   20*2    20*2
5式戦    20*2    12.7*2

零戦21   7.7*2   20*2
零戦52丙  13*1    20*2、13*2
零戦64           20*2、13*2
烈風             20*2、13*2
雷電21           20*4
紫電改21          20*4

一瞥して御理解頂けると思うが陸軍が胴体重点なのに比べ海軍は主翼重点である。
これはすなわち「同調装置の信頼性がどこまであるか?」と言う事なのではなかろうか。
坂井三郎著「零戦の真実」P88によると同調装置は回転数2000〜2500で発射可能であり範囲外だとプロペラを撃ってしまうと書いてある。
ただし丸の軍用機メカ5「零戦」P101には99式同調発射装置になってからは「プロペラの貫通事故は皆無」と書かれている。
どっちがホントなのかはちと判らない。

う〜ん、同調装置だけなのかなあ...
なんか他にも理由がある様な気がするぞ。
そう言えば「胴体の方が命中率が良いから胴体に装備しろ」って陸軍が命じたって誰か書いてたっけ。
でもそれだけかなあ。
ようし、それじゃ零戦のコックピットをちょっと覗いてみよう。
なるほど...

零戦は52型丙になってから胴体銃が13mm1門となったがこれは「機首に13mmを2門装備するのは物理的に不可能」だからであった。
7.7mm(全長103.3cm)の頃は操縦席の前でお行儀良く並んでいたが3式13mm(全長153cm)は図体がデカイので銃尾がパイロットの肩に触れる程大きく突きだした。
2門並べて左右の肩が押さえつけられたら操縦どころの騒ぎじゃないので1門に減らされたのである。
いや、1門にしたってパイロットは上体を斜めにして操縦しなきゃならなかったんだから「機敏な動作が身上の戦闘機」としては最悪だ。
ここら辺も海軍が胴体火器から離れていった一因と言えよう。

なお「13mmでそんなにデカイなら胴体に12.7mmを2門装備した陸軍の1式戦や20mmを装備した3式戦丁型はさぞ大変だったろうな」と思われる方がいらっしゃるかも知れない。
御安心を。
陸軍の航空機用火器は12.7mm(ホ103:全長126.7cm)は勿論、20mm(ホ5:145cm)ですら海軍の13mmより短いのである。

また海軍が胴体装備を敬遠したもうひとつの理由として20mmの発射速度が遅かった事が挙げられる。
プロペラと同調させるにはある程度、発射速度が早くなくてはならないのだ。
同調させられない火器は胴体に装備できない。
陸軍のホ5は毎分750発と発射速度が早かったので胴体装備できたが海軍の99式20mmは毎分500発に過ぎなかった。

同調できない20mmと図体のデカイ13mmに威力不足の7.7mm。
これじゃ主翼重視になるわな...
結局の所、同じ発動機を使用しているにも関わらず日本陸海軍で胴体と主翼に重点が分かれたのは「同じ国でありながら別々の火器を装備していた事」が大きな要因であったと考えざるを得ない。

[915] 火器の装備方法(その1) 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/14(Sat) 18:57
「ドイツの発動機」で倒立V型として「空気抵抗が小さいまま機首武装可能」と書き「E型の発展型がレイアウトとしては良かったじゃないかって思ってる」とも書いた。
そしたら「同軸火器と主翼火器のどちらが有利?」との質問メールがきた。

火器の装備方法と発動機の間には密接な関わりがある。
単にどちらが有利かだけではなく「なぜ主翼へ装備されたのか?」を説明するとかなりのボリュームになってしまう。
またどうせ書くなら大勢に見せた方が良いので掲示板に書く事にした。
それでは、はじまりはじまり〜

まず単発戦闘機の火器装備位置だが震電や閃電など推進式の機体やフルマーやデファイアントなどの複座機を除くと以下の3点に絞られる。
1.胴体(同軸を除く)
2.主翼
3.同軸
まあ、これら3カ所のどこにするかでそれなりに利害得失があるのだがとりあえず制約から眺めて見よう。

1の胴体は水冷V型の場合、空気抵抗が大きくなるので芳しくない。
とは言えソ連のMiG系やらYak系やら米のP40初期型やら結構、装備してる例もあるのでまったく駄目と言う訳ではない。
ちなみに胴体装備には精度の良い同調装置が不可欠となる。
特に大口径火器には。

2の主翼は1式戦など装備スペースの無い多桁構造の機体及び木製主翼など脆弱な機体は×である。
また脚の折り畳み方次第では相当の制約があるし翼内燃料タンクや各種ボンベ(特にドイツ)との共存からも制約が生ずる。

3は「発動機後背部に火器装備スペースがある水冷発動機以外」は全て×。
と言うより「同軸火器を装備する為に開発された発動機以外は全て×」と言った方が早い。
そして同軸火器を装備する為に開発された発動機は独のDB600系とユモ213系、仏のイスパノスイザとその発達型に当たるソ連のクリモフ系だけなんだから話は簡単だ。

おっと忘れてた。
特例として機体後部に発動機を装備し機首に火器を装備する変則的な疑似同軸火器があったっけ。
米P39やP63、日本のキ88などがこのタイプでプロペラと同軸ではあるもののモーターカノンとは見なされないんだからややこしい。
あくまでも「一般的な同軸火器」とはプロペラ、発動機、火器の順で並んでいる形式を指すのである。

それでは各国がどの様に火器を装備していったかを概括するとしよう。
わかりやすい所で最初は英国。
1934年9月に初飛行したグラジエーターはパッとしない複葉機だったが火器装備に関しては画期的な戦闘機だった。
それまでの英国戦闘機はご多分に漏れず他国と同様、発動機の上へ2門の7.7mm機銃を胴体装備していたのだがなんとグラジエーターは胴体銃に加え主翼にも機銃を装備していたのである。

前年に初飛行を果たしたソ連のI−15、I−16も翼内銃装備を始めていた矢先だからどっちが世界初だか知らないがいずれにしても常識を覆す画期的な事だった。
なにしろ第1次世界大戦からこっち「戦闘機は複葉機で主翼は木桁に布張」だったから「重くて反動の強い火器」を主翼に装備するなど論外だったのだ。
そしてグラジエーターは英軍最後の胴体火器装備のレシプロ単発戦闘機となり以降の英レシプロ単発戦闘機は全て主翼へ火器を装備する様になった。
英の単発戦闘機が胴体火器を復活させるのはジェット化されてからである。
ここらへんの英国人の割り切り方はシャープかつ大胆でジョンブル魂の片鱗を見せつけられた気分になる。
ドレッドノート然り空母のアングルドデッキ然り...

胴体火器装備を考えなかったからV型であっても倒立に匹敵する空気抵抗の小ささを実現できたのであり同軸火器装備を考えなかったからこそ排気タービンに匹敵するインタークーラー付2段過給器を装備できたのだ。
「救国の名機スピットファイア」や「最良のレシプロ戦闘機P51」が傑作機たりえたのはロールスロイス・マーリン発動機と主翼装備火器の組み合わせがあったからに他ならない。
戦闘機の飛行性能(速力、航続力、旋回力など)と戦闘性能(火力、搭載力、防御力など)は両立する必要があるがマーリンと主翼装備火器は第2次世界大戦に於けるひとつの模範解答と考えられよう。

さて、もうひとつの主翼装備先進国であったソ連はどうであろうか?
これがなんとI−15、I−16以後、主翼装備を止めてしまった。
その理由は大戦中に生産された各種ソ連戦闘機の主翼がアルミ節約の為、木製化された為である。
よって主翼下へポッドで追加する場合を除き火器は胴体もしくは同軸へ装備せざるを得なくなったのだが...
同軸火器を装備できるクリモフ発動機を装備したYak系は良いとしてLa系とMiG系は全火器を胴体へ装備する事になった。
胴体に火器を装備するのなら倒立水冷V型が良いのだが悲しい事にLa系は空冷、MiG系は水冷V型で胴体装備には不向きであった。

でも背に腹は代えられない。
MiG1/3では機首上面にズラリと3門の機銃(12.7mm1門、7.62mm2門)を並べたが空気抵抗を減少させる為に発動機の後方へ火器装備位置を寄せたので妙に鼻の長い変な機体になってしまった。
La系は機首に20mmをLa5が2門、La7が3門、La9に至っては23mmを4門も装備した。
機首に大口径火器をこれだけ大量装備した単発レシプロ戦闘機(推進式を除く)は類例を見ない。
20mmや23mmなら1発当たってもプロペラは吹っ飛ぶだろうから射撃する時はさぞ怖かったであろう。
なんまんだぶ...

Yak系は同軸に20mm1門を装備していたがさすがにそれだけでは足らず機首に7.62mmもしくは12.7mmを1〜2門装備した。
充分な火力ではないが全体のバランスも取れており木製戦闘機としては傑作と言えよう。
さて...
幾ら資材が欠乏したとは言え主翼を木製化した事はソ連戦闘機にとって良い事だったのであろうか?
ドイツ空軍が東部戦線でスーパーエースを多数、輩出した事から見てソ連航空機が米英航空機より劣っているのは明白である。
空の戦いでは必ずしも数は質に優らないと思うのだが...

次はドイツ。
第2次世界大戦中、ドイツで量産されたレシプロ単発戦闘機と言えばBf109系とFw190系しかない。
簡単なのである。
サブタイプがタップリある事を除けば....

まずドイツレシプロ単発戦闘機の特徴だが「どの戦闘機にも胴体火器が装備されている事」が挙げられる。
これは「英戦闘機は主翼にしか火器がない事」や「ソ連戦闘機の主翼(ポッドを除く)には火器がない事」と同じで非常に判りやすい特徴(例外としてTa152があるのだが少数しか生産されていないし無視しちゃう事にしよう)である。
なんとなくドイツ戦闘機と言えば「メッサーが代表選手で特徴は同軸火器」と思いがちだがあにはからんや「胴体火器こそがドイツ戦闘機の特徴」と御理解頂きたい。
まあ考えて見れば空気抵抗が小さいまま胴体に火器を装備できるのが倒立水冷V型の利点なのだからBf109が胴体火器を装備するのは当然と言えよう。

当初、7.92mm2門だったBf109の胴体火器はGシリーズで13mmとなりKシリーズでは15mmにまで強化された。
また日本で生産されたライセンス版DB601A(ハ40)を装備する3式戦丁型は胴体に20mm2門を装備しており倒立水冷V型の利点を如実に表している。
更にドイツ戦闘機はBf109のごく初期に生産された機体や一部の試作機、少数生産機を除き「胴体以外のどこかにも火器を装備する」と言う特徴も併せ持つ。
ここで登場するのがさっき書いた「メッサー」の同軸火器だ。
もうひとつ述べておくとドイツは同軸火器先進国ではない。
同軸火器先進国と言えるのはイスパノスイザを開発した仏でありドイツの同軸火器は「苦難の道のり」なのである。

当初から同軸火器の夢を描きながら開発されてきたメッサーとDBが夢を実現するのはF1型(1941年から生産)で試作機の初飛行(1935年5月)から実に6年の歳月が経っていた。
ドイツの敗戦(1945年)まであと僅か4年。
Bf109は同軸火器の無い時期の方が長かったのである。
そして「ドイツの発動機」でも触れた様に「同軸火器へのこだわり」がDB601系の発達を大きく阻害しマーリンに水を開けられてしまう要因となった。

[914] 意外と少ない発動機の種類 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/11(Wed) 11:56
[883]で日本の主要発動機を16(失礼、15と書いたが天風が抜けていた)としたが、ここから旧式化していた寿と光、量産中止となった護、量産化が間に合わなかったハ43とハ44、練習機装備が主だった天風を除き「元が同じハ40と熱田」を統合すると「日本が大戦中、実戦機用に1000基以上量産した発動機」は瑞星、金星、火星、ハ42、ハ5系、栄、誉、ハ40の8種となる。
はてさてこの8と言う数を多いと見るか少ないと見るか...

まず各発動機を用途で分類するとしよう。
小馬力汎用空冷が瑞星。
小馬力戦闘機用空冷が栄と金星。
大馬力戦闘機用空冷が誉。
小馬力爆撃機用空冷がハ5系と火星
大馬力爆撃機用空冷がハ42。
外国製の水冷がハ40。

同一用途で栄と金星、ハ5系と火星が競合しているのみならず爆撃機の銀河に誉を装備してるので誉とハ42も競合してくる。
これに水冷のハ40から空冷の金星へ換装したケース加えると日本の発動機は競合ばかり目立つ。
競い合う事により洗練されるのは良いが疲弊してしまってはなんにもならない。

他国の例を見てみよう。
独は[911]で書いた様に9種だが戦時中にあまり生産されなかったブラモ323やユモ210を除くとDBが4種、BMWが2種、ユモが1種で計7。
英は一面、多岐に渡る様に見えるがレイピアやペリグリンなど少数生産の物を除き同一シリンダーで同一気筒数の物を同系列統合化するとペガサス系、、マーキュリー系、ハーキュリーズ系、トーラス系、マーリン、グリフォン、セイバーの計7になる。
ソ連はミクリンとツマンスキーが各1種でクリモフとシュベツォフが各2種の計6。

米の場合、主要発動機はP&Wが2種でライトが3種、アリソンとパッカードの合計7だ。
用途で米国を見るとP&Wが小馬力戦闘機用空冷のR1830と大馬力戦闘機用空冷のR2800。
ライトが小馬力爆撃機用空冷のR1820、大馬力爆撃機用空冷のR2600及びB29用のR3350。
陸軍戦闘機用の国産水冷がアリソンで外国製水冷がパッカード。

R1830は戦闘機用だが爆撃機のB24にも装備されたし爆撃機用のR1820もF2Aなどの戦闘機に装備されたから、大戦初頭はいくばくの競合が見られたが大戦中期以降、大馬力発動機が主役になると綺麗に戦闘機用と爆撃機用に分化(B26やA26などの例外も若干あるが)している。
米国にはカーチス、ノースアメリカン、ロッキード、ボーイング、ベル、リパブリック、グラマン、ブルースター、リパブリック、コンソリデーテッド、マーチン、チャンスボートなど名だたる航空機メーカーが10以上もひしめいていたが発動機メーカーは僅かカーチス・ライト、P&W、アリソンの3社(マーリンの下請け生産をしたパッカードも含めれば4社だが開発能力はない)だけであった。

そして3社のうちカーチス・ライトだけが発動機メーカー兼航空機メーカー(P&Wもかつてはボーイングと合併していたが1934年に解体された)であり他は独立企業としてニュートラルな立場にいた。
ここが全発動機メーカーが航空機メーカーと一体化している日本との大きな相違である。

なお米国の場合、発動機メーカー兼航空機メーカーであるカーチス・ライトにしても自社製のライト発動機を身びいきしておらずP36にP&WのR1830、P40にはアリソンやパッカードの水冷発動機を装備している。
ただしライト発動機が基本的に大直径の爆撃機用だからと言う事もある。
よってカーチス.ライトもSBCやSB2Cなどの爆撃機には自社製発動機を装備している。
面白いのはカーチス・ライト社が爆撃機用発動機を生産しているからと言って爆撃機専門航空機メーカーになったりしない所だ。

他国での発動機メーカーと航空機メーカーの関係はどんなもんだろう?
独の発動機メーカー3社で航空機開発部門があるのはユンカースのみ。
でもユンカースの大看板であるタンテ(Ju52)はBMWの空冷発動機を装備しているのだ。

英でも発動機メーカー3社で航空機開発部門を擁しているのはブリストルのみ。
流石にブリストル製航空機の大部分はブリストル製発動機を装備しているが事情によってはボーファイター2型の様に他社製発動機を装備している。
どちらかと言うと英国の場合、発動機の供給量不足で変更を余儀なくされるケースが多かった。

ソ連の場合、発動機メーカー(設計局であって企業ではないからメーカーと言う概念からはずれるが)で航空機メーカー(これまた同じ)を兼ねている組織は存在しない。
ミクリン製発動機を装備したのはツポレフ、ミコヤン、イリューシン設計局、クリモフ製発動機を装備したのはツポレフ、ペトリャコフ、ラボーチキン、ヤコブレフ設計局、シュベツォフ製発動機を装備したのはポリカルポフ、スホーイ、ラボーチキン、ツポレフ設計局、ツマンスキー製発動機を装備したのはイリューシン、スホーイ設計局で大きな偏たりや癒着は見られない。
そりゃそうだ。
そんな事したらシベリアへ木を数えに行かされるだろう。

これら他国に比べ日本では発動機及び航空機の全用途で中島と三菱が張り合い競作合戦を繰り広げた。
これにより開発担当者の疲労を招いた弊害は大きい。
更に川崎が水冷にこだわり続け金星への換装が遅れた事が追い打ちとなって日本の発動機生産計画に破綻をきたしたと言えよう。

[913] Re:[912] 史実の砲戦について 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/08(Sun) 09:46
> 第3次ソロモン海戦における霧島の砲撃戦はどのように為されたのでしょうか?

霧島の最後については吉田俊雄元中佐や黛治夫元大佐などが色々な著作で書かれているので是非、御一読を。
客観的な視点なら戦史叢書83巻の383〜397頁、米軍からの視点ならミュージカント著「戦艦ワシントン」に詳しい。
僕の私見としては「当初の情報により米兵力を巡洋艦2、駆逐艦4と過少評価した事」と「その為、徹甲弾を用意せず3式弾のまま海戦が勃発した事」が日本の敗因であり計測やら修正やら交互射撃は一切省略の「テンヤワンヤの大騒ぎ」だったんだろうと推測する。
まあ、僕だけじゃなく大抵の史家、作家がそう書いてるけど。

[912] 史実の砲戦について 投稿者:ニンジャ 投稿日:2009/02/07(Sat) 20:09
ご無沙汰しております。
紛失していたパスワードを再発行して頂き、久しぶりに書き込ませて頂いております。
その間、たまに拝見させておりましたが非常に勉強になることばかりでした。
阿倍社長をはじめ、皆様の情報提供に感謝致します。

既にブームは過ぎましたが、仮想戦記によくある戦艦同士の砲撃戦では、的速・距離・風向・気温・湿度等を計測し初弾を打ち、その後交互射撃で修正し一斉撃ち方に入るような記述が見られます。
実際の砲戦の流れはどうだったのでしょうか?
第3次ソロモン海戦における霧島の砲撃戦はどのように為されたのでしょうか?

阿倍社長他の詳しい方のご見解を頂ければ幸いです。

最後に余談を・・・
久しぶりに鏡に写る自分の姿を見ると『どこのおっさん?』
という印象を受けます。
激ソロで白熱した戦いを演じた戦友達は今頃どうしているのでしょう?
ちょっとだけ気になりました。

[911] ドイツの発動機 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/02/05(Thu) 19:32
それではまず各発動機を装備した航空機の紹介から。

ブラモ323   Do17、Ju352、Fw200
BMW132   Ju52
BMW801   Fw190A、Ju88S、Do217、Me264
ユモ210    Bf109C
ユモ211    Ju87、Ju88A、He111P
ユモ213    Ju88G7、Fw190D
DB600    Bf110B、He111B
DB601    Bf109E、Bf110E、He111P
DB603    Me410、He219
DB605    Bf109G、Bf110G
DB610    He177

上記以外にも戦前量産された発動機として水冷V型12気筒のBMW6(160*190:46.9L)などがある。
BMW6はDo17の初期型(577機生産)に装備されており日本やソ連などでライセンス化ならびに改良型の開発がなされた。

さてBMW社であるが同社は第1次世界大戦時から連綿と続いた伝統ある水冷V型発動機メーカーであった。
だが第2次世界大戦時、独の水冷発動機はDB(ダイムラー・ベンツ)及びユモ(ユンカース)の倒立V型に席巻されBMW社はもっぱら空冷星型発動機を生産していた。
その基本となるのがBMW132だがこの発動機は米P&W製R1690ホーネット(空冷星型9気筒:ワスプ一族の遠縁の叔父さんにあたる)をライセンス化し改良した物で主としてJu52輸送機に装備された。
Ju52は5000機近く生産され各機が3基のBMW132を装備していたのだからその総数は結構な数字になる。

ドイツの実戦機用発動機メーカーはこれらBMW、DB、ユモ3社に集約される。
「んっ?ブラモは?」とか「ブラモって何?」って声が聞こえそうだ。
ブラモ323は元来、ジーメンス系のブラモ社が英ブリストル製ジュピターをライセンス化して改良した発動機でBMW132の対抗馬であった。
ただしブラモ社は1939年、BMWへ吸収合併されてしまい以降はBMW社がBMW323として生産した。

対抗馬なのだから性能は同じ様な物である。
ならばふたつ生産する必要はあまりない。
よってBMW323は発達せず生産数も少量にとどまった。
これに対しBMW132は複列化されBMW801(14気筒)となった。
ただしシリンダーサイズが変更されストロークが短くなっている。
ここが重要な点で大型機用発動機に限定されていたBMW132に比べ空気抵抗の少ないBMW801はFw190A戦闘機にも装備されたのである。
ちなみに発動機の直径はBMW801が1290mm、BMW323が1388mm、BMW132が1380mmであった。

さて、次は水冷。
独の水冷と言えば爆撃機用のユモと戦闘機用のDBが双璧だが両方とも水冷倒立V型12気筒で用途的に厳格な区分はされていなかった。
いや、それどころか「結果的に多くのDBが戦闘機、多くのユモが爆撃機に装備されただけ」であり意図的な区分(DBを優先的にメッサーへ配分したが)はされなかったと言えよう。
よってドイツ唯一の量産型戦略爆撃機のHe177はDB発動機を装備しているし大戦末期に量産されたFw190Dシリーズもユモ発動機を装備している。

さて独はDBとユモと言う「似たモノ同士の対抗馬」を抱え大戦に突入した訳だがここでドイツ製発動機に見られる幾つかの画期的技術革新を紹介しよう。
まず最初は倒立V型の採用が挙げられる。
V型水冷発動機はコックピット前面左右にシリンダー頂部があるので機首に機銃を装備する場合は空気抵抗が大きくなってしまう。
そこでドイツでは空気抵抗が小さいまま機首武装が可能な倒立配置が採用された。

ついで採用された2番目の技術革新としてボッシュ式燃料噴射装置が登場する。
これによりドイツ機には急動作状態であっても常に適正な混合気が供給される様になった。
一方、キャブレターで混合気を供給した英軍機はバトル・オブ・ブリテンで思わぬ苦杯を嘗める事になる。

3番目はトルクコンバーターの原型となるフルカン接手。
通常の過給器は特定高度で最高能力を発揮するのだがフルカン接手の採用により全高度で適正な能力を発揮できる様になった。
とは言えフルカン接手は排気タービンやインタークーラー付2段過給器に及ぶ物ではない。
どの過給器が高性能か一概には言えないのだがおおまかな処では一番優秀なのが排気タービン(米のP38やP47など)、ちょっと落ちて2番目が2段式過給器(英のスピットファイアや米のP51)、随分落ちて3番目がフルカン接手(独のBf109G)、更にもっと下って4番目が1段2速式過給器(日本の零戦52型や1式戦2型)、ずっと遅れて1段1速式過給器、最低なのが過給器なしとなる。
ただし1速式であっても高々度専用に設定された過給器は限定的ながらハイパワーだし2段であってもインタークーラーが無いと実質的には1段式と大差ない。

4番目の技術革新は一般的にニトロ噴射と呼ばれるGM1。
他国では発動機の冷却に水メタノール噴射が多用(ドイツにも水メタノール噴射のMW50があった)されたがドイツではこれに加え亜酸化窒素を噴射するGM1が開発された。
(丸の軍用機メカ10によるとGM1は300kg、MW50は140kgである。)

えっ?
亜酸化窒素なんて聞いた事無いって?
あれだよ、ホラッ、アレ!
歯医者に行くとやって貰えるキモチイイヤツ!
笑気ガスってヤツだ。
あんな「吸ったらヘロヘロ」になるモノをボンベで搭載するんだからドイツって国は・・・
もっともアルコールだって「呑んだらヘロヘロ」になるんだから同じか。
えっ?
アルコールでもメタノールは毒だから呑んじゃ駄目だって?
その通り。
でもね...
米軍の場合は水エタノール噴射装置(アルコール分40%だそうな)で「呑んでも大丈夫なアルコール」だったし日本軍も当初はメタノールじゃなくエタノールを使用していたらしい。
丸軍用機メカ12で中島飛行機発動機開発陣の水谷総太郎氏は「最初はエタノールで実験が行われた。エタノールと言えば戦時中、アルコール類に飢えていた飲み助達の垂涎の的だった。格納庫内も飛行機のタンクからエタノールが一夜のうちに消えてゆくのである。ところが前述のようにアンチノック材はエタノールに切りかえられた。」と記述しており「メタノールは猛毒だ。飲むな。と警告を貼り付けたが、何人かは納得ずくで失明していった。」と結んでいる。
失明された方が軍の整備兵なのか中島の社員なのか判らないがいたましい限りだ。
随分、話がそれた。
いずれにしても発動機の冷却装置には危険と誘惑が満載なのだ。
そう言えば水冷発動機の冷却剤(この場合はまさに水冷式では無く液冷式と書くべきだな)に使うジエチレングリコールも確か昔、ワインの混ぜモノで使用され大問題となったっけ。
いかん!
また脱線しそうだ。
どうも酒が絡むと話が止まらなくなる。

さてドイツ製発動機の技術革新として幾つかを紹介したがこれらは全て最初から導入された訳ではない。
トップバッターであるDB600(33.9L)とユモ210(19.7L)は双方とも燃料噴射装置を備えておらず過給器も1段1速式だった。
だがユモ210はDa型から2速化しG型からは燃料噴射装置が追加されるなど次第に改良されていった。
よって再軍備から間もない頃のドイツ空軍機ではユモ210が多く装備されたのだが僅か排気量20L未満ではろくに出力が出なかった。
そこでシリンダーサイズを大きくしたユモ211(35L)が開発されDBも燃料噴射装置やフルカン接手を備えたDB601を開発するに至った。
独の倒立V型が実用的な軍用機発動機となるのはDB601及びユモ211になってからなのである。

ちなみにダイムラー社は第1次世界大戦中にメルセデス発動機を量産した老舗だが1926年にベンツと合併しDBとなった。
ユンカースはドイツ航空機界の重鎮ユンカース博士が設立したメーカーで航空機と発動機双方を扱うドイツ航空界きっての名門であった。
ただしユンカース博士は1935年に死去しているので第2次世界大戦時のユンカース社にはあまり影響を及ぼしていない。

それでは「DB601系のその後」についてチャッチャと説明しておこう。
DB発動機の悲願は同軸火器の装備だったがBf109Eに装備されたDB601Aではどうにも上手くいかずDB109F1に装備されたDB601Nでやっとこさ20mmFF砲(エリコン製)が装備可能となった。
でもFF砲は口径こそ20mmなものの初速は遅いわ装弾数は少ないわでちょっと頼りないんだよね。
そこでF2からは15mmMG151砲(モーゼル製、航空機ファンの人にはマウザーと言った方がウケが良いか?)に改良されF4からは発動機はDB601E、火器は20mmMG151砲となった。
ここがDB601の最終到達点。

だが戦争はまだ終わらないしBf109の生産は続く。
かくして登場したのがDB601をちょっとだけボアアップしたDB605だ。
これにもサブタイプが色々あり同軸火器も色々あるが余りにもイロイロ有りすぎるので以後は省略。
ちなみにDB605をふたつくっつけたのがDB610で前述の如くHe177へ装備された。
こうしてDB600から続いた流れとは別に現れたのがDB603で双発機に使用された図体のでかい大排気量発動機であった。

さて続いてユモ。
イロイロ有って省略とあいなるユモ211に続き登場したのが同一シリンダーを同数装備した後継のユモ213。
これの特徴は環状ラジエーターを装備してFw190Dに装備された事だろう。
これでオシマイ。

結果として同一シリンダーを同一数備え同一排気量なら同一発動機と捉えるとなんとドイツの発動機はBMW132、323、801、ユモ210、211系、DB600系、603、605、610の9種に収まってしまうのだ。
しかもこれらのうちDB610はHe177専用だから除外、BMW132はJu52専用だから除外、ユモ210は戦前の試作機ばかりだから除外と考えると僅か6種に絞られる。
ここら辺が国家総力戦へ本格的に取り組んだゲルマン魂の発露なんだろうなあ。

最後にひとつ。
ドイツは同軸火器にこだわって水冷発動機を開発したが長期展望ではこれが裏目にでた。
同軸火器を装備できるのが水冷発動機の利点だがその為には発動機後方にスペースが無くてはならない。
そこでドイツ製発動機は発動機側面に過給器を設置したのだが...
英のマーリンが2段過給器を装備し大戦末期、高々度で排気タービンに負けない活躍をしたのにドイツが遅れを取ったのは「スペース的に2段過給器を装備できなかったから」なのである。
さっさと同軸火器に見切りをつけ2段過給器付DB605で米軍の高々度爆撃を護衛戦闘機ごと殲滅できれば戦局も大きく変わった事だろう。
もっとも同軸火器が無いとなるとBf109は「大空のサムライ」ならぬ「脇差しのみのサムライ」になってしまう。
マーリンのスピットファイアやP51は翼にズラッと機銃を装備しているから問題ないだろうがBf109の小さな翼に機銃を付けるのは結構、思い切りが必要だ。
えっ、E型では翼に20mmを付けてたじゃないかって?
うん、僕もE型の発展型がレイアウトとしては良かったじゃないかって思ってるんだ。
素人の浅知恵かも知れないけど。
それじゃまた。

BMW132   空9   155*162  27.7L
BMW323   空9   154*160  26.8L
BMW801   空14  156*156  41.8L
ユモ210    水12  124*136  19.7L
ユモ211    水12  150*165  35.0L
ユモ213    上記同一
DB600    水12  150*160  33.9L
DB601    上記同一
DB603    水12  162*180  44.5L
DB605    水12  154*160  35.7L
DB610    水24  154*160  71.4L

[910] 訂正 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/01/29(Thu) 17:31
発言[843]で

>変わらなかった点は「偵察が行われなかった事」であり....

と書いたが月刊丸755号196頁によると台湾からレイテへの銀河による偵察が4回繰り返されている。
よって訂正させていただく。
ちなみにレイテ偵察は3回が天候不順で失敗したものの8月8日の4回目でようやく田邊中尉機が米空母機動部隊の不在を確認したらしい。
723空の設立によって日本海軍は極端な彩雲不足に陥り情報収集力の低下と戦略判断の齟齬をきたしたが貴重な攻撃兵力である銀河を使用して急場をしのいだんだね。
銀河で偵察して彩雲で攻撃するってのは本末転倒の極みだが...

[909] お仏蘭西 投稿者:アルフレッド 投稿日:2009/01/27(Tue) 22:31
ナポレオンのロシア遠征の時の仏蘭西軍捕虜をロシア貴族が家庭教師として雇い入れ貴族子弟の公用語がフランス語化したという話を聞いたことがあります。(彼らはロシア語は話せなかったそうです。)
ミラージュもVまではよく売れましたがF1がF16との販売競争に完敗していますね、あれは仏蘭西空軍高官がミラージュはF16より大幅に性能が劣ると発言したことによるそうです。
ラファールもシンガポールと韓国に売り損ねていますね。これはラファールは兵装のアメリカ型転換がかなり難しいことが原因のようです。また、イギリスメーカーがタイフーンとラファールのキルレシオは 1:3.5 と発言したことも痛かったそうですね。しかしながらラファールのフォルムはさすがに芸術の国フランスらしくとても美しいと思います。個人的にはF22より好きですが。
逆にシュペールエタンダールのように性能以上の評価を受けた期待もありますね。フォークランドではエグゾセは12発しかアルゼンチンは持っておらず50発あればアルゼンチンは負けてはいなかったと言われるくらいですから。

[908] 無題 投稿者:天井桟敷 投稿日:2009/01/24(Sat) 14:08
話題は変わるのですが、4GAMERにGD2の評論が載っています。興味のある方は、ご一読してみてはいかがでしょうか。

[907] 今も昔も 投稿者:いそしち 投稿日:2009/01/19(Mon) 21:33
阿部デザイナーやK−2様にレスいただき年頭から恐悦至極です。
なんとなくフランスは美食や芸術、文化の国ってイメージでしたからピンと来ませんでした。
お恥ずかしい限りです。
そう言えば現代でも台湾と中国の双方に対空ミサイルを売ってたりしてますよね、フランスは。
日本海軍も最初に国産化した軍艦の三景艦はフランス設計だし。
そう言えばBf109はケストレルで試作機が飛びDB版、ユモ版とあり「空軍大戦略」では
イスパノ版、最終型ではマーリン版ですから装備しなかったのはアリソンとBMWだけなのでは?

[906] フランスは今も昔も兵器輸出大国だし 投稿者:K-2 投稿日:2009/01/19(Mon) 20:56
>フランス重視なのはなぜでしょうか?
フランスが兵器輸出大国ってのもあるんじゃないでしょうか?
フランスはイギリスやアメリカに比べ、比較的新しい兵器を
よほど敵対的な国でなければバンバン輸出してる気がします。
高性能液冷エンジンの中ではイスパノが一番入手しやすかった
というのは大きいのではないでしょうか。

[905] Re:[904] 見ました。 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/01/17(Sat) 18:52
> ところで内戦期を過ぎたソ連が様々なエンジンを開発したのはとても興味深いのですがフランス重視
> なのはなぜでしょうか?

これにはふたつほど理由があると思う。
まず一つ目はロシア(すなわちソ連)がフランス語文化圏だと言う事だ。
ロシアの知識階級は実にフランス語が堪能(堪能どころかロシア語よりフランス語の方がうまい人達もかなりいたらしい)だったそうだ。
二つ目は「第2次世界大戦ではアッと言う間に降伏」しちゃったから「フランス軍の兵器はダメダメな印象」があるが戦間期には「第1次世界大戦に勝利した工業先進国」の印象の方が強かったのだ。
世界中の国がルノー戦車を輸入したし日本陸軍だって主力野砲をクルップからシュナイダーに代えたくらいだしね。
発動機にしても日本海軍ではイスパノスイザXを同軸20mm砲ごと輸入し96式艦戦に装備してテストしてる。
「マジノ線があれば大丈夫」って考え方に囚われてなけりゃああもアッサリ負ける事は無かったんじゃないかな?

> 英のジュピターを改良しなかったのも不思議です。

多分、米のR1820と天秤にかけて二者択一を取ったんじゃないかな?
ジュピターをライセンス化したM22をI−15やI−16の試作機や初期生産機に装備してすぐM25(R1820のライセンス品)に代えた所を見るとね。

[904] 見ました。 投稿者:いそしち 投稿日:2009/01/15(Thu) 21:37
ドクトル・ジバゴとは懐かしいですね。
特にパルチザン騎兵の突撃が圧巻です。
D・リーン監督の作品中では「アラビアのロレンス」についで好きな作品です。
ところで内戦期を過ぎたソ連が様々なエンジンを開発したのはとても興味深いのですがフランス重視
なのはなぜでしょうか?
英のジュピターを改良しなかったのも不思議です。

[903] ソ連の発動機 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/01/15(Thu) 16:35
さて掲示板を御覧の皆々様、ドクトル・ジバゴって映画見た事ある?
ロシア革命勃発直前から内戦の終わり頃までを描いたD・リーンの超大作だ。
まあ発動機に限った事ではないが1920年代のソ連は内戦によって科学技術の水準が地に落ち、全ての分野で外国から技術習得せねばにっちもさっちも行かない状態に陥っていた。
内戦の凄まじさは映画の方を見て頂くとして発動機の話にとりかかろう。

まず最初にソ連がライセンス化したのは英の空冷発動機ジュピターでM22と命名された。
ついで4つの設計局が4種の外国製をライセンス化しそれらを改良しながらソ連航空機用発動機の歴史が幕を上げた。
それではソ連製発動機を量産化されなかった物も含めて概括しよう。

ミクリン設計局が手がけたのは独のBMW6(水冷V型12気筒:160*190:Do17爆撃機に装備)でM17として制式化された。
これを改良したのがM34、AM35、AM38、AM39(過給器が2速化)、AM42である。

クリモフ設計局は仏のイスパノスイザ12Y(水冷V型12気筒:150*170:D52O戦闘機やMS406戦闘機に装備)でM100として制式化された。
改良型のM103を経て、次のM105ではボアが148mmに変更され過給器も2速となった。
ボアを変更したのは同軸機銃を装備する為でありYaK系戦闘機が本発動機を使用し続ける重要な要素となった。
その後、VK107も開発されたが戦力化は戦後まで遅れた。

シュベツォフ設計局は米のR1820をM25としてライセンス化(若干サイズを変更)し改良型として過給器を2速したASh62を産み出した。
更にこれを14気筒化したのがM82(155*155の新シリンダー)、18気筒化したのがASh73(155.5*170の新シリンダー)である。

ツマンスキー設計局は仏のグノーム・ローンK14(空冷星型14気筒:146*165:ファルマンF222重爆に装備)をM85としてライセンス化しM86、M87、M88(2速過給器付)と発展させた。
大戦中のソ連発動機はこの4つの流れによって構成されている。

ちなみに各発動機の名称は当初、全てM+ナンバーだったが大戦中に命名基準が変わり設計局の名称が冠される様になった。
ナンバーは30番台がミクリン系、60番台が空冷星型9気筒、70番台が空冷星型18気筒、100番台がクリモフ系の様だが80番台が空冷星型14気筒とツマンスキーで折半されておりいまいち判然としない。
それでは各発動機を装備した主なソ連軍航空機を列挙しよう。

ミクリン:
M17   TB3
M35   MIG1、3
AM38  IL2
AM42  IL10

クリモフ:
M100  SB2初期型
M103  SB2後期型
M105  Pe2、LaGG3、YaK1、3、9

シュベツォフ:
M25   I−15初期型、I−16初期型
ASh62 I−15後期型、I−16後期型
M82   Su2後期型、Tu2、La5、7
ASh73 Tu4

ツマンスキー:
M87   IL4初期型、Su2初期型
M88   IL4後期型

次は各発動機のシリンダーサイズと排気量。
M17   水12  160*190  46.9L
M35   水12  同上
AM38  水12  同上
AM42  水12  同上

M100  水12  150*170  36L
M103  水12  同上
M105  水12  148*170  35L

M25   空9   155*174  30L
M82   空14  155*155  40.9L
ASh73 空18  155*170  58.1L

M87   空14  146*165  38.7L
M88   空14  同上

水冷のミクリンが終始、シリンダーサイズを変えていないのと空冷のシュベツォフがひっきりなしにストローク長を変えているのが印象的だ。
やはり空冷はストローク長次第で空気抵抗が大いに変わるからね。
そこで空冷発動機の直径を列挙するとM82が1260mm、M87系が1296mm、ASh73が1370mm、M25が1400mm。
ねっ、ストロークの短いM82はグッとサイズが小さくなるでしょ。
かくしてM82装備のLa5やLa7は傑作戦闘機の評価を得るに至ったのだ。

[902] セイバー 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/01/13(Tue) 17:35
英国製水冷発動機の大部分がマーリン及びその拡大型たるグリフォンで占められている事は前述した。
だがマーリンとグリフォンが「すべて」であった訳ではない。
他にも水冷発動機があった。
足を引っ張る存在に過ぎなかったが...

ネイピアは元来、1808年に設立された印刷機メーカーである。
その後、まあ色々あったらしくて20世紀初め頃には自動車メーカーになっていた。
自動車の次は海だ。
船舶発動機の分野でもネイピアは大いに販路を広げる。
ついで第1次大戦が勃発するとネイピアは航空機用発動機の開発に乗り出した。
ここでもネイピアはそれなりに成果を挙げる。

ネイピア製発動機の特色は独自性で他社に比べ非常にシリンダー数が多かった。
シーフォックスに搭載されたネイピア製のレイピアなど16気筒である。
えっ?
じゃあ、さぞかし排気量が大きく大馬力だろうって?
とんでもない。
排気量はたった8.5L、出力も僅か395馬力である。
その理由は...

極端にシリンダーが小さいのだ。
89*89しかない。
レイピアはこれをH型に配置した空冷発動機なのである。
ここで発動機のシリンダー配列と冷却方式をおさらいしよう。

まず冷却方式だがこれには空冷と水冷(近年は液冷と呼ぶ場合が多く冷却剤によって水冷と液冷を区別する場合もある)がある。
そしてシリンダー配列には直列、星型、V型、X型、H型などがある。
また星型と言っても単列や複列、更には3列、4列がありV型にも正V型と倒立V型、H型にも正Hと横H(日本語ではエと表示した方が判りやすい)がある。
ゴチャゴチャしてきた?
まあ簡単に言うならば「如何にしてシリンダーで発生したエネルギーをクランクに伝えるか?」と言う事と「如何にしてシリンダーを冷やすか?」なのだ。

当たり前の話だが全シリンダーは均等に冷却されねばならない。
これを空気で冷やすとなると基本的には星型とならざるをえない。
なぜならプロペラ軸線に対しズラリとシリンダーが並ぶと1本目は冷やせても2本目以降は順次、冷却効率が悪くなるからだ。
星型にしても複列はちょっとばかり工夫が必要でありそれ以上となると大いに難しい問題が発生する。

V型は大部分が12気筒であり上に開いた形で左右6本ずつのシリンダーが配置される。
英のマーリンやグリフォン、米のアリソンに独のBMW6及びこれをライセンス化し発達させた日本のハ9系やソ連のミクリンM17系、フランスのイスパノスイザ12Y及びこれをライセンス化したソ連のクリモフM100系などがV型で皆、水冷だ。
倒立V型はV型の亜流と言うべき発動機でシリンダーが下に開いている。
独のDB600系(言わずと知れたハ40系とアツタそれにイタリアのRA1000なども含む)とユモ211系などが倒立V型でこれまた皆、水冷12気筒。
バランスのとれた発動機を設計するとなると水冷V型12気筒(倒立も含む)か空冷星型に行き着くのがセオリーらしい。

所が世の辞書には「アマノジャク」と呼ばれる単語が存在する。
ここで登場するのがH型発動機だ。
さてH型だがこれは前面から見ると直立した上向き2本、下向き2本の計4本がプロペラ軸線上に連なったシリンダー配列で前回紹介したX型に似て無くもない。
レイピアの場合は16気筒だから4列だ。

面白いのはレイピアが星型で無いのに空冷である事だ。
レイピアの設計陣としては「ちっちゃいシリンダーを多数配列すれば面倒な冷却装置を省ける」と考えたらしい。
確かにレイピアのシリンダーは小さい。
当時、英海軍航空機として最も多く生産されたソードフィッシュが装備したペガサスのシリンダー(146*190)に比べると容量が1/6に過ぎなかった。

よって最前列はよく冷えたであろう。
だが後列はどうであろうか?
結局の所、レイピアではオーバーヒートが頻発したらしくフェアリー社の水偵シーフォックス(総生産機数64機!)くらいでしか搭載されていない。
太平洋戦記2のシーフォックスの画像を良くご覧頂きたい。
機首の上側と下側の2カ所に排気ダクトが描かれているでしょ?
これがH型発動機であるゆえんだ。

ネイピアはレイピアの他にもちょいとばかりシリンダーを大きくし24気筒化した空冷24気筒H型発動機ダガーを開発したがこれまた評判が宜しくない。
それでもH型にこだわり続ける所がジョンブル的で興味深いよね。
次にネイピアが送り出したセイバーでは無理な空冷を諦めて水冷化し反対にシリンダーを127*121に大きくした。
更に配列がHはHでもシリンダーを横に並べた横Hとなっている。

最初にセイバーを装備したのはホーカー社のタイフーンだがここで故障が大頻発した。
セイバーそのものが問題児だったうえタイフーン自体が呆れかえる程の欠陥品。
充分な時間をかけ試作機の段階で問題を排除できれば良かったのだが見切り発車で量産指示を出した為、実戦部隊で事故が続出、とんでもない事態が巻き起こったのである。
初期生産期142機中、135機で事故が発生し量産開始後9ヶ月間は戦闘による損耗より事故による損耗の方が多かった。

おまけにセイバーは1段2速過給器だったので水冷のマーリンに比べ高々度で性能ががた落ちになった。
作ったネイピア社はどうなったかって?
なんと1942年、イングリッシュ・エレクトリックに吸収合併され134年の歴史を閉じてしまった。
まあ当然の帰結であろう。

なおセイバーは問題児ではあったが調子が悪く無ければ絶大な能力を発揮した。
スピットファイア14型が装備したグリフォン65型の排気量はセイバーと同じ36.7Lで出力は2035馬力であった。
それに比べテンペスト5型(タイフーンの後継機)が装備したセイバー2Bの出力は2420馬力に達したのである。

ちなみにシーフォックスではオシャレな横二列だった排気ダクトはタイフーンでは一般的な横一列となった。
横H配列なら機首上面に二列、下面に二列となりそうだがそんな変則的な形状にはならず上列と下列が結合されて横に向かい機首横一列となったからである。
最後にひとつ申し添えて置くと水冷24気筒X型発動機バルチャーでコケたロールスロイスは戦後、水冷24気筒横H型発動機イーグルを開発し見事、実用化させた。
だが既に時代はジェット化に向かっておりごく少数が生産されたに過ぎなかった。

[901] マーリン 投稿者:阿部隆史 投稿日:2009/01/11(Sun) 20:45
空冷ブリストルのジュピターに相当するのが水冷ロールスロイスのケストレルだ。
ケストレルはシリンダーサイズ127*140、排気量21Lの12気筒水冷V型発動機で1927年から生産され始めた。
出力は当初、450馬力だったが次第に改良が加えられ745馬力にまで向上している。
ちなみに「紅の豚」(アニメではなく原作マンガの方の話。)で性能向上後のサボイアS21戦闘飛行艇が装備したのもケストレルである。

さてケストレルに過給器を装備したのがペリグリンなのだがロールスロイス社はここで大きな賭にでた。
ペリグリンは所詮、ケストレルの改良型に過ぎず大した性能向上は期待できない。
次の大きなステップアップが排気量増大でありそれにはより大きなシリンダーを開発するか気筒数を増やすしか方法が無いのは明白であった。
かくしてロールスロイス社はX型24気筒発動機の開発に着手するに至った。

X型とは倒立V型12気筒発動機の上に通常のV型12気筒発動機を結合させ合計24本のシリンダーで1枚のプロペラを駆動する発動機の事である。
2基のペリグリンを結合するのだから排気量は42Lにも及ぶ。
大排気量に比例するが如く大きな期待を寄せられたこの発動機はバルチャーと命名され大戦勃発直前の1939年8月に審査を終えたのだが...

残念ながら生産性が悪く故障も頻発しついぞモノにならなかった。
よってバルチャー装備を予定された航空機は次々と他の発動機への変更を余儀なくされたのである。
だがロールスロイスはバルチャーだけに全てを委ねていた訳ではなかった。

前述した様に多気筒化が無理ならば大きなシリンダーを開発すれば良い。
ロールスロイス社はバルチャーの開発と並行し137*152の新シリンダーを使用した12気筒水冷V型発動機「マーリン」(排気量27L)の開発も進めていたのである。
バルチャーは一挙に排気量の2倍化を狙う画期的発動機であったがその分、重量及びサイズも大きく当時の航空機にとって使い勝手の良い発動機では無かった。
もし問題点が解決したとしても実用的発動機となりえたか疑問に感ずる。

それに比べマーリンはまことに手頃な発動機で信頼性も高かった。
[900]でマーリン装備で挙げた航空機を見て頂きたい。
英国が誇る傑作機(中には傑作と呼べないのも散見されるが)がズラリと並んでいるから。
それだけではない。
他の発動機を装備した機種として記述した中にもウェリントン2型、ボーファイター2型、ハリファックス各型など多岐に渡る。
ライセンス型も入れればP40やP51、果ては戦後にスペインで生産されたBf109にもマーリンが装備された。
これ程、マーリンが長く広く使用され続けたのはロールスロイス社によるたゆまぬ技術革新と改良があったからに他ならない。

スピットファイア1型や2型、ハリケーン1型が装備した初期型のマーリンは1段1速過給器だったがハリケーン2型のマーリン20では1段2速となり、スピットファア9型に装備されたマーリン61では画期的な2段2速過給器となった。
2段2速とは2基の過給器を装備し1段目で圧縮した空気をインタークーラーで冷却し2段目の過給器で再圧縮する装置である。
これによりマーリンは排気タービンに匹敵する程の高々度性能を発揮できた。
更に一段ながら特定高度では圧倒的な出力を発揮できるタイプも多数ありマーリンのバリエーションはとてつもなく広かった。

だがマーリンとていつかは廃れる。
これを見越してロールスロイスが開発したのがグリフォンである。
グリフォンには新しく152*168シリンダーが採用され排気量は36.7Lに増大している。
グリフォンを装備したスピットファイア14型は大戦末期、大いに活躍したが同機は「史上最良のレシプロ戦闘機」と呼ばれずその名はマーリン装備(正式にはパッカード)のP51に冠された。
この事をもってしてもマーリンが不世出の名発動機であると伺い知れよう。

ありゃ?
セイバーを書く時間が無くなっちゃった。
と言う事で次回はセイバー。

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