1.序章

ガダルカナルの戦いは1942年8月7日に実施された米海兵隊の上陸によって生起し翌年2月7日に実施された日本軍の第3次撤収作戦で幕を閉じた。
この戦いでは日本軍の補給が途絶し多数の餓死者が発生したのでガ島は「餓島」とも呼ばれた。
太平洋戦争では多数の戦場で餓死者が発生したが「大規模な餓死者が発生した最初の事例」としてガダルカナルの戦いは世に広く知られている。
本論はガダルカナルの戦いの中で補給に焦点を当てて論考する事を目的とする。

まず最初に以下の数値を御覧頂きたい。

10月 17911名 79t 5t なし なし 87t 合計171t
11月 23019名 77t 58t 65t なし 96t 合計296t
12月 20804名 なし 59t 78t 2t なし 合計140t
1月 17000名 なし 79t 69t なし なし 合計148t

これは第17軍経理部長だった住谷少将の「ガ島作戦の教訓」(1943年3月)という資料による数値(出典は軍事史学182号20頁)である。
人員は平均給養者数、最初のtは輸送船によって運ばれた精米、次は駆逐艦によって運ばれた精米、その次は潜水艦によって運ばれた精米、更にその次は航空機によって投下された精米、最後は個人携行によって運ばれた精米である。
輸送手段別による合計と精米以外の糧食は輸送船が精米合計156t+乾パン1t+圧搾口糧なし+缶詰9tで総計166t。
駆逐艦が精米合計201t+乾パン5t+圧搾口糧4t+缶詰2tで総計212t。
潜水艦が精米213t+乾パン8t+圧搾口糧43t+缶詰24tで総計288t。
個人携行は精米183t+缶詰16tで総計199t。
精米合計は755tである。
またこの資料には糧食の到達率を計画時100%として実施86%、揚陸12%と記載されている。

軍事史学182号に於ける論文「旧日本軍の兵食」は上記資料をもとに論述しているのだが、いささか疑問点がある。
この論文では755tを「ラバウルからガ島向けに送り出された主食の精米」としており「2万人分の日額定量(860g)から積算した4か月分の必要量約2000tの4割弱」なので「決して充分ではないが飢餓を招くほどの少量とは言えまい。」と述べている。
果たしてそうだろうか?

860g×20000名×120日=2064tなので755÷2064=36.5%となる。
860g(6合)の36.5%は314g(2.2合)である。
1日2.2合あれば確かに飢えはしないだろう。
しかしガ島では120日間、コンスタントに1日2.2合の精米が供給された訳ではない。
作戦当初はそれなりの量が供給され次第に減少されていったのだ。

12月に輸送された精米は140tで平均給養者数は20804名。
よって1名当たり月6.7kg、1日では224g(1.5合)になる。
また摂取カロリーが少なく消費カロリーも少ない現代人から見れば2.2合の米は多く見えるが機械力が乏しく多くの作業を人力に頼らざるを得なかった日本軍兵士にとっては「6合食べても太るどころか現状維持」に過ぎなかった事も忘れてはならない。
「旧日本軍の兵食」では※1の数値を「ラバウルから送り出された量」としているが、そうであれば実施86%がこれに該当し12月の場合は実施100%が162t、揚陸12%は19tになる。
だとするなら1日は224g(1.5合)ではなく30g(0.2合)だ。
これでは「餓死者が発生する」どころか「1ヶ月以内に全員餓死」となろう。

それに「旧日本軍の兵食」でも「陸軍省の局長会報メモ」を引用し「第17軍の給養状況について最も酷かった12月は1日平均1人1.1合」としている。
1.1合は1.5合よりは少ないが0.2合よりは遥かに多い数値だ。
よって私は※1の数値を「ラバウルから送り出された量」ではなく「揚陸された量」だと推定する。

判り易い例で説明しよう。
「ガ島作戦の教訓」では12月に駆逐艦で運ばれた精米を59tとしている。
12月に駆逐艦で輸送された精米は第2次ドラム缶輸送が1500本(310本揚陸:ただし戦史叢書28巻405頁では210本)、第3次は失敗、第4次は1200本輸送し220本揚陸した。
つまり輸送実施2700本以上、揚陸530本である。
そして半藤一利著「ルンガ沖魚雷戦」35頁によるとドラム缶の積載量は約100kgである。
となれば戦史叢書による数値は輸送実施270t、揚陸53tでありガ島作戦の教訓」の58tは揚陸量としか考えられない。
ちなみに11月30日の第1次ドラム缶輸送はルンガ沖夜戦が発生した為、海戦では大勝利をおさめたが輸送自体は失敗に終わった。

ここで注意したいのは輸送手段による差異だ。
ガ島への輸送手段としては駆逐艦によるドラム缶輸送がとみに有名である。
しかしドラム缶輸送は臨時手段であり成功しさえすれば輸送船が量的には多そうに見える。

だが「ガ島作戦の教訓」では輸送船の166tに対して駆逐艦は212t、潜水艦は288tで潜水艦の方が多い。
更に状況が逼迫した12月以降に着目し11月以前の輸送量を除くと駆逐艦の149tに対し潜水艦は223tで1.5倍にも達する。
ガ島への糧食輸送の主役はドラム缶を積んだ駆逐艦ではなく潜水艦だったのだろうか?

「ガ島作戦の教訓」は貴重な資料だが他の数値ともつきあわせて検証せねばなるまい。
対象となるのは戦史叢書28「南太平洋陸軍作戦2」、40「南太平洋陸軍作戦3」、77「連合艦隊3」、83「南東方面海軍作戦2」などである。
なお、これら各巻は陸軍もしくは海軍の視点で論述されていたり戦略的視点もしくは戦術的視点で論述されているので数値などにも多少の差異がみられる。
その他、「歴史群像」各巻や「世界の艦船」各巻も参考資料としている。


2.ネズミ輸送

叢書83巻にはドラム缶を使用した駆逐艦によるネズミ輸送として以下の数値が記載されている。

11月30日 第1次、ドラム缶1360、輸送任務に失敗し全部不着。
12月3日 第2次、ドラム缶1500、310着。
12月7日 第3次、輸送任務に失敗し全部不着。
12月11日 第4次、ドラム缶1200、220着。
1月2日 第5次、ドラム缶540+ゴム袋250、全着し定量5日分。
兵員17000名とすれば73tである。
このうちドラム缶が54tなのでゴムは19tとなる。
ゴム袋250で19tなら1袋は7.6kgくらいと思われる。
1月10日 第6次、ドラム缶600、250着。
1月14日 第7次、ドラム缶150+ゴム200袋、全着。

上記のドラム缶輸送を集計すると705tが輸送され167tが到着し到達率23%となる。
167tは「ガ島作戦の教訓」の149tにかなり近い数値と言えよう。
潜水艦の方はどうであろうか?
まず12月26日以降の合計で糧食250t(糧食以外は37t)と記載されており12月1〜25日は61t(糧食以外も含む)なので311tになる。
つまり「ガ島作戦の教訓」の1.5倍どころか2倍近い数値となっている。
ガ島将兵の命脈を保っていたのは駆逐艦のドラム缶輸送ではなく潜水艦による糧食輸送であった。

なお、駆逐艦によるネズミ輸送数(ドラム缶)は1次で1360、2次で1500、4次で1200、5次で540、6次で600、7次で150となっているから1次から3次までは投入駆逐艦数が多く5次以降は激減した様に見える。
だが投入駆逐艦数は1次が8隻、2次が10隻、3次が11隻、4次も11隻、5次が10隻、6次が9隻、7次も9隻でそんなに変わらない。
それなのに輸送数が激減した理由は投入駆逐艦数の中に占める警戒任務駆逐艦の数が1次と2次の2隻から3次は3隻、4次から6次は5隻と逐次増大(7次は4隻)し相対的に輸送任務の駆逐艦が減少したからであった。
更に1次では輸送任務駆逐艦1隻につき200〜240だったドラム缶搭載数が次第に減少し6次では150(7次では矢野大隊の輸送が主任務だったので30)となった事も要因のひとつである。
ルンガ沖夜戦の如き事態が想定されるのであればどうしても警戒駆逐艦を増やさざるを得ない。
よって駆逐艦によるドラム缶輸送は投入駆逐艦数に対するドラム缶輸送量が減少し補給作戦としては対費用効果が低くなっていった。


3.モグラ輸送

さて、次に潜水艦による輸送を説明しよう。
一般に駆逐艦による輸送はネズミ輸送、大発による輸送はアリ輸送と呼ばれるが潜水艦による輸送はモグラ輸送と呼称される。
以下にガ島補給作戦で実施されたモグラ輸送を列記する。

11月
24日
24日
25日
26日
27日
28日
29日
30日
失敗 
失敗 
11t 
32t 
30t 
20t 
失敗 
20t 
伊17乙 
伊19乙 
伊17乙 
伊9甲 
伊31乙 
伊3巡 
伊2巡 
伊4巡 


半量





PT 航空機
PT 航空機






計113t

12月
 3日
 5日
 6日
 8日
 9日
26日
27日
30日
31日
失敗 
20t 
21t 
20t 
失敗 
15t 
15t 
25t 
25t 
伊3巡 
伊2巡 
伊6巡 
伊4巡 
伊3巡
 沈
伊21乙 
伊31乙 
伊19乙 
伊20丙 









PT



PT




計141t

1月
 1日
 3日
 4日
 5日
 6日
 7日
 8日
 9日
11日
12日
13日
18日
20日
22日
25日
25日
26日
27日
28日
28日
29日
30日
15t 
20t 
15t 
15t 
21t 
18t 
12t 
12t 
25t 
失敗 
失敗 
失敗 
失敗 
18t 
18t 
12t 
18t 
15t 
10t 
後述 
失敗 
失敗 
伊168海 
伊36乙 
伊19乙 
伊18丙 
伊9甲 
伊20丙 
伊36乙 
伊19乙 
伊18丙 
伊9甲 
伊16丙 
伊9甲 
伊176海 
伊20丙 
伊16丙 
伊9甲 
伊18丙 
伊2巡 
伊17乙 
伊26乙 
伊1巡
 沈
9甲
ゴ 6割








PT



運貨筒
運貨筒
ド 2/3 
運貨筒


運貨筒?


PT


PT





PT
航空機
故障
PT


PT

PT 一部未着
航空機 一部未着

護衛艦
PT
計229t

日時、揚陸物資量、艦名及び艦型、輸送方法、敵兵力の順で記載している。
揚陸物資量は糧食と弾薬の合計である。
艦型には甲型、乙型、丙型、巡潜型、海大型がある。
集計すると巡潜型10回、海大型2回、甲型6回、乙型12(13回)、丙型 8回の合計38(39)回となる。
輸送方法には通常の大発移載(特に記載せず)、ドラム缶(ドと記載)、ゴム袋(ゴと記載)、特型運貨筒(運貨筒と記載)がある。
敵兵力のPTは魚雷艇、護衛艦は豪コルベットである。

なお叢書83では11月29日を「おおむね完了」(数値未記載)としているが叢書28では「大発故障、揚陸不成功」としている。
また叢書28では12月8日の揚陸量が未記載である。
更に叢書98では1月28日の伊26の記述があるが叢書83ではない。
伊26は乙型なので甲標的や特型運貨筒を搭載できない。
乙型の中でも伊27や伊28は備砲を撤去して甲標的を搭載したが伊26にその様な改装がなされたとする資料はまだ見た事がない。
よって本稿では叢書98を誤記と判断した。

上記の輸送作戦で揚陸された物資の合計は439tである。
だがその全てが糧食ではない。
叢書82の522ページによると12月26日以降に揚陸された糧食は250tとなっている。
弾薬などを含めると309tなので弾薬(医薬品含む)は59tとなる。
12月1〜25日は61tなので12月以降は311t。
61tのうちには若干、弾薬なども含まれるがとりあえず無視する。
311tは住谷資料の223tに比べだいぶ多い。
何故であろうか?
駆逐艦のドラム缶輸送では大きな差異は無かったのに?

ここでひとつ着目すべき数値がある。
叢書83では12月25日に伊9がドラム缶80を輸送したが揚陸は2/3(53になる)で12tとある。
ドラム缶53なら5.3tであるが12tとなっている。
よってドラム缶1を0.2tと計算しているのかもしれない。
だとすればドラム缶輸送の数量は半分で計算し直さなければならない。
ドラム缶輸送は89tなので44tを引くと1月分は185tとなる。
250+12月上旬分61tで311tとしているが44tを引くと267tであり住谷資料の223tと大差無くなる。

さて、ドラム缶の搭載量が何故、2倍の0.2tになったのであろうか?
多分、当初はドラム缶1個につき0.1tが決定しておらず幾つかの試案があったのであろう。
例えば叢書28の400ページにはドラム缶の搭載量を0.15t、駆逐艦1隻につき400個搭載による輸送計画が記載されている。
これだと駆逐艦1隻につき60tで実施された200個20tの3倍になる。
「策するは易し行うは難し。」である。

なお、駆逐艦によるネズミ輸送と潜水艦によるモグラ輸送との大きな差異はネズミ輸送が1度に多数の駆逐艦を投入し数日おきに実施されるのに対しモグラ輸送は基本的に単艦で連日、実施される点にある。 


4.アリ輸送

実は11月24日以前にも潜水艦をガ島への補給作戦に投入した例がある。
ただし純然たる「潜水艦を使用した輸送作戦」と言い難いので除外した。
それは「物資を搭載した大発を潜水艦が曳航する作戦」でまことに不可思議な運用であった。
当然、潜水艦は浮上航行する。
だとすれば潜水艦の優位性はまったくない。
あるとすれば接敵時に大発を切りはずし急速潜航で退避できるくらいである。
その場合、あとに取り残された大発は米水上艦なり米航空機なり「潜水艦が勝てないと判断した相手」によって袋叩きにされるであろう。
この不思議な輸送作戦を語るにはガ島に於けるアリ輸送の端緒から話を始めねばならない。

米第1海兵師団の上陸によってガ島攻防戦の幕が上がった時、日本が最初に投入した一木支隊は高速の駆逐艦で第1梯団を派遣した。
ネズミ輸送の始まりである。
この時、第2梯団は低速の輸送船によって運ばれたが第1梯団は全滅し川口支隊の増援が決定された。
更に米軍が航空機を急速に展開したので制空権は完全に奪われ低速の輸送船ではガ島に近寄れなくなってしまった。

やむなく日本軍はネズミ輸送を繰り返しガ島の兵力を増やした。
だが川口支隊長はこれが面白くなかった。
彼はわざわざ海軍の駆逐艦を使わずとも最初から大発に乗って遠路はるばる航海し直にガ島に乗り着ければ良いと考えた。
その根拠はボルネオ攻略戦に際し川口支隊は大発による機動で結構、うまくいったからである。

だが残念ながら今度は上手くいかなかった。
9月1日、川口支隊の1/3(歩兵第124連隊本部+第2大隊+連隊砲中隊、速射砲中隊、機関銃中隊、工兵部隊など約1000名)は高速艇2、大発28、小発31の計61隻(叢書14の407頁による、叢書83の56頁では舟艇48)に分乗し大海原の外海に船出したが敵機には襲われ、大自然の猛威には晒され、行方不明が続出し散々な目に会い大損害を出した。
なにしろ当初の予定通り歩兵第124連隊長と共に9月5日、ガ島に到着したのは150名に過ぎずあとはてんでバラバラにガ島周辺のサボ島やらセントジョージ島やらに漂着し駆逐艦を派遣して捜索せねばならなくなったからである。

やはり基本的に天井すらない大発で外海にでるのは無理であった事、速力が8ノットではガ島に近づく前に敵機の空襲を受けてしまう事が問題であった。
本来ならこの時点でアリ輸送を諦めるべきであったのだ。
(もっと賢ければやる前から諦めていただろう。)
だが日本軍は不屈の精神でアリ輸送を繰り返した。

もっとも次では少しだけやり方を変えた。
まず5日間もかけ延々と航海を続けるのはやめ4箇所の中間基地を設けリレー式に変更した。
次に大発の大集団による航海をやめ初日は4隻、以降は6隻ずつで連日、出撃する事にした。
そしてここが大事なのだが中間基地までは駆逐艦、ガ島突入時には潜水艦で大発を数珠つなぎで曳航する事にしたのである。
確かに大発が自力で進むよりは遥かに速く行方不明も生じにくい。

第2師団の重火器を輸送する為に立案されたこの第2次アリ輸送、叢書83の166頁によると駆逐艦3隻と潜水艦3隻が必要とされ伊1、2、3の編入が予定された。
ただし9月25日の兵力部署では潜水艦は伊2、3の2隻、駆逐艦も天霧、綾波の2隻となってる。
また当初は駆逐艦1隻で大発を4隻曳航するはずだったがうまく行かなかったので9月27日からは2隻曳航に変更された。
だが、中間基地の設営からしてうまくいかず進出した大発は敵機の空襲を受け、更に「大自然の猛威」に晒されやっと10月9日に伊2、3がガ島へ出撃したがサボ島沖夜戦が発生し中止となった。
急遽、伊2と伊3には潜水艦部隊への復帰が命ぜられ大発は単独でガ島に向かう事になり10月19日に2隻がガ島へ到着したのである。
最終的に10月29日、アリ輸送の中止が決定され多大な時間と器材、物資を消耗した中間基地の設営は「骨折り損のくたびれもうけ」となった。


5.船団輸送

ここで船団輸送について説明しておこう。
ネズミでもモグラでもアリでもない「船団」輸送である。
なお船団輸送は至極、当たり前の輸送なので何も生物の名前はついていない。
さて、ガ島に対する船団輸送は合計3次に渡って行われた。
第1次は一木支隊の第2梯団を乗せた3隻で8月25日の空襲で金龍丸を失って退避し作戦は中止(兵員は駆逐艦でガ島に運ばれた)された。

次の船団は第2師団の歩兵第16連隊や第38師団の歩兵第230連隊、重砲部隊、高射砲部隊、独立戦車第1中隊、物資などを搭載した6隻である。
これら6隻は全て優秀船であった事から一般に「高速船団輸送」と呼ばれる。
ちなみに叢書28の80頁によるとこの6隻は各船に弾薬、糧食800立方mを搭載していた。
さて800立方mとは具体的にどれ位の重量になるのであろうか?
資料によって重量だったり梱包の数だったり容積だったりするのは少々困る。

さて、叢書77の351頁ではガ島所在兵力と兵站所要1ヶ月を3万名6000立方m(つまり1日分は200立方m)とし配分を糧食135、弾薬65立方mと記述(2:1の割合だ)している。
3万名の糧食は1日25.8tである。
よって糧食1t=5.2立方m、1立方m=0.19tとなる。
であれば6隻の輸送船に搭載された糧食は約608tと推定される。

この輸送作戦を成功させる為、日本海軍は10月13日に金剛、榛名を投入してヘンダーソン飛行場を猛砲撃、その甲斐あって翌日6隻の輸送船は見事、ガ島に到達し叢書叢書83p221によると全部隊及び兵器と弾薬、糧食の8割を揚陸した。
だが、その後がいけなかった。
夜が明けると空襲が始まり3隻の輸送船がたちどころに沈没した。
そしてせっかく揚陸した物資にヘンダーソン飛行場に残っていた敵機が空襲を加えた。
被害については叢書28の87頁による集積量は弾薬の1〜2割、糧食の半分(15日の電文)とある。

つまりこの時点で損害を受けたのは弾薬で糧食は300t位あった事になる。
ところが話はまだここで終わらない。
叢書83によると16日には空母ホーネットの艦載機による空襲が加えられ17日には米駆逐艦による艦砲射撃も受けた。
最終的に叢書83では爆撃と艦砲射撃によって「大部分を焼き払われた」とある。
よって住谷資料では10月の輸送船揚陸を79tとしている。

最後の船団は11隻で11月13日夕刻、ショートランドを出港した。
この輸送作戦を成就する為に日本海軍は総力を挙げて支援、かくして生起したのが第3次ソロモン海戦である。
輸送船が乗せていたのは第38師団の歩兵第229連隊、工兵第38連隊、輜重兵第38連隊、山砲弾7000発、高射砲弾1万5000発、10榴弾4000発、15榴弾3000発、10加弾1500発などである。
11月上旬におけるガ島の弾薬備蓄(叢書28の226頁)が山砲弾2000発、高射砲弾750発だった事を考えると船団の価値が伺い知れる。
糧食の搭載量については諸説あって叢書28の234頁では3万名の20日分としている。
これは510tに相当(別資料では30日分774t)する。
また叢書28の282頁では33500俵(2010t)である。

だが、米軍の空襲で船団は次々と被弾、沈没し4隻しかガ島に到達しなかった。
その4隻については到達後、鋭意揚陸に努めたが翌日の空襲などでそれも次々に被弾、輸送船集積物資とも炎上するに至った。
叢書83の397頁によると最終的に残された糧食は米1500俵(90t)、282ページだと2000俵(120t)で別の資料によると糧食3.5日分(69t)である。
ちなみに住谷資料では11月の輸送船揚陸を77tとしている。                 


6.空輸

次に航空機による糧食輸送に話を進めよう。
軍事史学182号の論文「旧日本軍の兵食」では「それにしても48機を飛ばして計2トン余とは多少の集計漏れがあったにせよ、あまりにも積載力が低い。」と酷評している。
同書によると12月には陸攻が48機(延べ数)出撃し投下量は米2453kgである。
陸攻撃48機なら48tくらい運べそうだが僅かその1/20に過ぎない。
確かに1機当たり52kg(1俵弱)ではかなり少ないが本当なのだろうか?
各叢書ではこのあたりをどう記述しているのだろうか?

まず叢書83の450頁だがここには「陸攻延べ48機(7〜9機が6回)が12月20日から27日までドマ、アルリゴ間海岸に夜間投下を行った」と記述している。
機数は「旧日本軍の兵食」とそう変わりはない。
ただし叢書28の414頁では「12月20日以降26日まで中攻9機で実施」とあり「1回の輸送量は約2.5トンで20、21、26日が投下に成功、23、24、25日は天候不良の為、中止」とある。
叢書77の462頁も概略、同じだ。
なんと投下量は3倍ではないか。
おまけに出撃機数は半分だ。
と言う事は出撃機数は27機もしくは24機であり投下量は7.5tとなる。
ならば1機当たりの搭載量は277〜312kgで魚雷を積んだ時の1tに比べれば少ないが1俵弱なんて微々たる量ではない。
「学会誌に発表された論文」だからと言って盲信してはいけないのである。
論拠となる数値その物が間違っていたら全ての摂理は根底から覆されかねない。
ちなみに住谷資料による2tは「航空機によって投下された精米7.5tのうち入手に成功した分」なのだろう。
なにしろ木に引っかかったりし相当量が失われたそうなので。
ちなみに高松宮日記4巻395頁によると空中補給は以外に早く8月15日に陸攻3が既にガ島へ糧食/弾薬1tを投下している。
更に8月23日と24日には第6空襲部隊が一木支隊第1梯団に対し空中補給を行う予定であったが悪天候により中止となった。
日本海軍は決して空輸を軽視してはいなかったのだが大規模な空輸を頻繁に実施する事はなかった。
おそらく初期の空輸で悪天候による中止が多発した事が原因と思われる。


7.諸支隊の投入

ここでひとつガ島攻防戦の流れを概括する。
まず最初に日本海軍の第11及び13設営隊がガダルカナルにやって来て飛行場を設営し始めた。
上陸したのは1942年7月6日、工事を始めたのは16日だ。
そして8月5日には長さ800m、幅60mの滑走路が無事に完成する。

ところが2日後の8月7日、米第1海兵師団が上陸してきて滑走路(米はヘンダーソン飛行場と命名)は奪われてしまった。
米軍は滑走路が完成するまで虎視眈々と待っていたのだ。
すかざず日本軍はラバウルの第8艦隊でガダルカナルの泊地を夜襲、第1次ソロモン海戦で米の巡洋艦部隊を完膚なきまでに叩きのめす。
航空隊も連日のガダルカナル空襲を繰り広げる。
内地からもおっとり刀で空母機動部隊がソロモン海に駆けつける。

更にはミッドウェー海戦で大敗した為、グァムで訓練(待機)を余儀なくされた陸軍の一木支隊(当初はミッドウェー上陸部隊だった)がガダルカナル奪回に投入される事になった。
だが鈍足の輸送船で航海していてはガ島に到着するのが遅れる。
駆逐艦でガ島に運べば良いのだが2108名(叢書28の571頁による兵員数、叢書14の292頁では約2000名、叢書77の155頁では約2400名としている)の一木支隊全てを運ぶには駆逐艦が足りない。
そこで先遣隊となる第1梯団916名(約900名とする資料も多い)を駆逐艦で輸送し残部(第2梯団)は輸送船で運ばれる事になった。
ちなみに第1梯団の糧食は7日分(叢書14の297頁)であり、この時点での第2梯団到着予定は8月22日(叢書77の157ページ)であった。
第1梯団のガ島上陸は18日なので糧食残余3日分で補給を受ける予定だったのである。
しかし8月21日の攻撃で一木支隊第1梯団は脆くも敗退、第2梯団はガ島に接近できずに後退し第2梯団の第1陣ガ島上陸は8月29日まで遅れた。
つまり敗退した一木支隊第1梯団の残余(約130名)の糧食が枯渇してから5日後の事(実際には背嚢を遺棄しているので糧食の枯渇はもっと早い)になる。
餓島の始まりであった。

そもそも一木支隊第2梯団の到着が遅れた原因は8月20日に米機動部隊が発見され、空母決戦の危機が高まったからである。
そして24日、日米空母機動部隊は第2次ソロモン海戦で干戈を交えた。
結果は双方、手傷を負った空母部隊を後方に下げ引き分けとなった。
そこで一木支隊第2梯団を乗せた船団(3隻)は再びガ島へ進路を向けたのだが既述の様に25日にヘンダーソン基地から発進したSBDによる空襲を受け金龍丸が沈没、作戦は中止された。
更に一木支隊第2梯団だけでガ島を奪回するのは到底無理なのでパラオにあった約5000名(叢書83の4頁)の川口支隊もガ島へ投入される事になった。
川口支隊の兵力を叢書28の571頁では3545名としており叢書14の386頁では「定員を1000名も越す大編成」と記述している。
一木支隊の兵力でも言える事だが戦史叢書も執筆者によって記述がまちまちなので1巻だけ読んで「戦史叢書にはこう書いてある」と金科玉条の如く盲信ぜず各巻を読み、戦史叢書以外の書籍も読み、なおかつ「全資料が間違いの可能性」も否定せずに熟考せねば実相は見えてこない。

さて、船団輸送を封ぜられた一木及び川口支隊を輸送する為に始められたのがネズミ輸送である。
当初、立案されたネズミ輸送は第1次が8月28日で実施部隊は第20及び第24駆逐隊が主力、第2次が29日で第11駆逐隊、第3次ならびに第5次は第1次とほぼ同一、第4次は第2次とほぼ同一で9月1日までに約4700名を輸送する予定であった。
だが大いなる期待をもって敢行された第1次ネズミ輸送は第20駆逐隊が空襲を受け駆逐艦1隻が沈没し2隻が損傷、中止のやむ無きに至った。
ここで第17軍司令部にガ島撤退論議が巻き起こるのである。
ちなみに撤退を主張したのは第17軍司令官の百武中将と参謀長の二見少将、反対したのは参謀達であった。

だが取り合えず第1次で引き返した第24駆逐隊と第11駆逐隊による第2次ネズミ輸送が29日に実施され約750名(叢書83の28頁、叢書77の205ページでは1390名及び速射砲4門、糧食9100日分としている)が上陸に成功した。
これによってガ島撤退論は鳴りをひそめ以降、9月7日までの間に約4500名(叢書77の206頁)がネズミ輸送によってガ島へ輸送された。
叢書14の405頁では9月7日までの輸送人員を「ガ島作戦開始以来」からの合計で9月7日まで陸軍約5400名、海軍約200名としているが、これは一木支隊第1梯団の900名を含んだ数値であろう。
また同書では輸送された兵器、物資を高射砲2門、野砲4門、連隊砲6門、速射砲14門、糧秣2週間分としている。
9月7日で糧秣2週間分という事は9月21日までに勝負を決せねばならない。
一方、川口支隊のうち約1000名は大発のアリ輸送でガ島に向かったが首尾よく到着したのは150名だけで850名が落伍してしまった。
この収容に駆逐艦が派遣されたが叢雲が240名救出したとかサボ島及びセントジョージ島に450名漂着したとか各戦史叢書に断片的な記述はあるが全体像は杳として知れない。

さて、こうして集結した川口支隊は飛行場奪還を目指す総攻撃の準備を進めた。
決行日は当初11日の予定だったが8日に米軍がタイボ岬に上陸しスケジュールは大幅に狂った。
なお叢書14の474頁によると「タイボ岬付近出発時、将兵各人が1、2日分の糧秣を携行していたに過ぎず元来9月13、14日以降は「糧は敵による」と胸算していた」とある。
川口支隊は密林を踏破して米軍陣地に接近せねばならない為、極力装備を軽くして進撃したのであるがこれが大きく裏目にでた。
13日の夜襲に失敗した川口少将は総攻撃の中止を決定、「糧は敵による」どころか糧食の無いまま悲惨な退却戦を繰り広げる事になった。
504頁では川口少将の回想録からの引用として「糧食は概ね9月13、4日に食い尽くし一粒の米もなく全員絶食の状態で5、6日行軍した。」と記述している。
また481頁では敗北に終わった要因を17軍司令部の見解として「タイボに上陸した敵の為、一部の糧秣等を押さえられ且つ攻撃準備のため充分な時間の余裕がなかった事」とある。
この総攻撃に参加した日本軍は6217名で損害は1213名(米軍の損害は143名)であった。

川口少将は「糧は敵による」と胸算する楽観派であったが全ての日本軍指揮官がそうであった訳ではない。
当然、第17軍参謀長二見少将の様に「充分な兵力なくして勝機はあり得ない」と考える慎重派もいた。
よって二見少将は予備兵力である青葉支隊のうち第2大隊を9月4日のネズミ輸送でガ島に送って総攻撃に参加させると共に第3大隊を待機させた。
叢書14の437頁によると二見少将は川口少将に「現兵力ニテ充分ナリヤ?」とする質問と増援を送る用意がある旨の電信を送ったが9月6日、川口少将は「現兵力ニテ任務完遂ノ確信アリ」と返電した。
それでも第3大隊は総攻撃には間に合わなくとも11日にガ島へ送られた。
そして15日早朝、川口少将から総攻撃中止の敗報が届いた。
かくして急遽、15日夜には青葉支隊第1大隊までもがガ島に上陸した。

ここで青葉支隊について説明しておかなくてはなるまい。
日本陸軍の支隊には一木支隊、川口支隊、南海支隊、青葉支隊などがあるがその名称は前者ふたつが指揮官名に由来しており後者ふたつは地域名に由来している。
青葉支隊とは第2師団(師団司令部が仙台の青葉城)に所属する部隊で編成された支隊なのである。
第2師団は開戦時、内地にあったが第1段作戦では第16軍に属し蘭印攻略に従事した。
その後、FS作戦に際してポートモレスビー攻略担当部隊が必要となった為、第2師団の所属部隊で青葉支隊が編成された。

支隊長は第2歩兵団長那須弓雄少将、兵力は歩兵第4連隊を基幹に捜索第2連隊の軽装甲車1個中隊、野砲兵第2連隊第1大隊、工兵第2連隊第1中隊及び兵站部隊である。
既に5月中旬から青葉支隊は南東方面を統括する第17軍に属してフィリピン南部で待機していたのだがミッドウェーの敗北によるFS作戦の延期(中止)、陸路によるポートモレスビー攻略の開始及び南海支隊の投入、ガダルカナルへの米軍上陸と事態は目まぐるしく変転し青葉支隊は幾度も運用方針が変更された。
更に南東方面の事態急迫に伴い大本営陸軍部は8月29日、歩兵第16連隊、歩兵第29連隊など第2師団全部隊の第17軍編入を決定(作戦緊急措置案)した。
ただしこの時点では第2師団をガ島へ送る意図はなくニューギニアへ投入する予定であった。
だが9月15日に届いた川口少将の敗報が第2師団の運命を大きく変えた。

さて、15日の敗報は大本営をも大きく揺さぶった。
17日、杉山参謀総長は拝謁し「第17軍方面の今後の作戦指導の方策並びに大本営として採るべき処置」を上奏(叢書14の525頁)した。
この中に「青葉支隊の残部、第2師団主力及び戦車中隊、重砲中隊並びに大本営より先般、増加せる自動砲10、重擲弾筒30、火炎放射器10、その他の各種の兵器、資材を増加し陸海軍兵力の戦力を統合発揮し一挙に飛行場を奪回するの腹案を有しその攻撃時期は10月になると存す」とある。
これによって次の総攻撃の大略が決定した。
なにしろ奏上してしまったんだから取り下げる訳にはいかない。
なおこの奏上にはラビ作戦及びポートモレスビー作戦の為に第38師団を第17軍へ編入する事も含まれていた。

それにしても第2師団はともかく対戦車ライフル(自動砲の事)10丁や重擲弾筒30(通常、擲弾筒は1個擲弾筒分隊が3門で編成され1個歩兵小隊に1個擲弾筒分隊が配属されるので10個歩兵小隊すなわち1個歩兵大隊の分しかない)や火炎放射器10台でなんとかなると思っていたのだろうか?
ちなみに叢書14巻の419頁では作戦緊急措置案の一環として送った兵器としてタテ器100及びタ弾700、防電具50、破壊筒25、火炎放射器10、自動砲20、重擲弾筒100、小迫撃砲30、97式曲射歩兵砲10、軽迫撃砲10、高射機関銃10、山砲用徹甲弾2000、火炎瓶1500、軽防楯300と記述している。
これには「1942年7月に発射試験を実施したタテ器を量産して現地まで送るのは時間的に無理なのでは?」とか「楯とは何か?」とか「火炎瓶の有効性」とか疑問点が多い。
とりあえず火炎放射器数は変化がないが半月の間に自動砲が半分、重擲弾筒は1/3になっている。


8.重砲の投入

山中峯太郎著「弓張嶺月下の夜襲」を読んだ事がおありだろうか?
未読の方は是非、御一読を。
血沸き肉踊る名作だ。
日露戦争時の遼陽会戦で日本の第2師団が夜襲で弓張嶺を奪取する話である。
以後、夜襲なら第2師団、第2師団なら夜襲と言う図式が定着した。
「弓張嶺月下の夜襲」は1931年3月が初出の小説だからその時点で10歳から15歳だった少年達は1942年のガダルカナル戦時に21歳から26歳。
ガダルカナルへ送られた2師団兵士の大部分は読んでいた事だろう。

だが第2師団がガ島へ投入された目的は夜襲ではなかった。
前述した様に川口支隊による総攻撃失敗によって派遣が決定されたのは第2師団や「怪しげな新兵器」ばかりではなく「重砲」も含まれていたのである。
そしてそれは既存のネズミ輸送以外の新たなる輸送手段を必要とした。

第2師団の増援は兵力規模が大きくなっただけで基本的には川口支隊に比べ大きな変化はない。
駆逐艦の隻数を増加すればなんとか対応できる。
だがいくら駆逐艦があっても重砲は1門も運べない。
重砲や牽引車を大発へ移載するには強力なクレーンが必要なのである。
この為、水上機母艦の日進や千歳が投入された。

ガ島へ投入された重砲部隊は最終的に96式15榴装備の野戦重砲兵第4連隊第1大隊(3個中隊)と連隊本部、4年式15榴装備の野戦重砲兵第21大隊第2中隊、92式10加装備の野戦重砲兵第7連隊第2中隊の合計5個中隊に及ぶ。
1個中隊4門なので総計20門の重砲をガ島へ送りその火力で米軍陣地を破砕、しかるのちに正攻法で飛行場を奪還するのが大本営及び第17軍の計画であった。
ちなみに20門のうち主力は射程11900mの96式15榴12門である。
4年式15榴4門は射程が8800mと短く大きな戦力とはならなかった。
また射程18200mの10加には特別任務が与えられていた。

さて、これらの重砲がガ島へ進出した日時については叢書各巻や亀井宏著「ガダルカナル戦記」で差異がある。
前述の様に重砲を輸送するには水上機母艦もしくは輸送船が必要だ。
水上機母艦がガ島輸送に従事したのは10月3日、8日、11日の3回で輸送船は15日の1回なのだが叢書77巻では3日に4門、11日に4門としており8日の輸送物品は高射砲6門、10榴2門としている。
ところがガダルカナル戦記では重砲第一陣の上陸が11日で野戦重砲兵4連隊本部と96式15榴4門(野重21大の4門も同日)、15日の輸送船団で96式15榴8門と10加4門が上陸となっている。
こうした差異はあれど基本的に15日までに重砲20門が送られた。

当たり前の話だが重砲が威力を発揮するには弾薬の事前集積が不可欠となる。
ガダルカナル戦記によれば野戦重砲兵第4連隊本部がラバウルに到着した際、第17軍司令部から弾薬は充分に集積しているので大いに射撃する様に申し渡されたのだが野戦重砲兵第4連隊本部が調査した所、全て4年式15榴用であり11日のガ島上陸時、96式15榴用の弾薬は僅か90発しかなかったらしい。
とりあえずそれで米軍陣地を射撃したのだがすぐさま反撃を受けて早くも13日に96式15榴1門が敵の砲撃で破壊された。
本来なら残った19門が撃ちまくり、米軍陣地を破砕するはずだった。
だが前述の如く手違いで主力となる96式15榴の弾薬が集積されておらず、更に船団輸送の失敗(詳細は後述)で大量の弾薬を喪失してしまった。

叢書28巻の125頁では総攻撃前の10月19日に於ける第17軍砲兵部隊(住吉支隊)の保有火砲数と弾薬備蓄を以下としている。
野砲7門(1370+624発)、山砲3門(150発)、10瑠4門(不明)、4年式15瑠4門(420発)、96式15瑠11門(709発)、10加3門(742発)。
すなわち野砲は1門につき284発、10加は247発撃てるが主力の96式15榴は僅か64発でとても撃ちまくるどころの話ではない。
更に叢書28巻の124頁によると10月20日に10加1門が被弾し使用不能となっている。

なお、前述した10加の特別任務は飛行場への直接射撃であった。
だが地図を広げ定規を当てて見れば判ると思うが揚陸地のタサファロングからヘンダーソン飛行場までは20km少々の距離がある。
そこでどうしたか?
「日本砲兵史」の1001頁には「射程を延伸する為、装薬を規定より5割増で射撃し最大射程の18.2kmを遥かに超えて実に23kmの射撃をしたが砲架の折損、駐退復座器の故障にあい4門の部品を集めて1門として射撃するという苦心」をしたと記述されている。

さて、上述の如く「撃ちまくるどころの話」ではなくなったので重砲による米軍陣地の破砕は中止となった。
よって正攻法で第2師団が飛行場を奪還する作戦もやむなく変更され前回と同じく密林を機動して夜襲による飛行場奪回(10月25日)となった。
その結果は敗北(詳細は後述)である。
ちなみに叢書28巻の226頁では総攻撃終了後の11月上旬に於けるガ島火砲数及び弾薬備蓄量を以下としている。
野砲8門(78発)、山砲8門(2000発)、10榴4門(不明)、96式15榴11門(45発)、4年式15榴1門(2003発)、10加2門(162発)、高射砲12門(750発)。
必要な弾薬が足らず不要な弾薬が有り余っている事が見てとれる。
4年式15榴の弾薬が減少するどころか逆に増えているのは10月19日以降の増援で送られてきた分であろう。
叢書83の344頁ではでは11月2日のネズミ輸送で15榴の弾薬560発輸送(ただし347頁で未揚陸32発)とあるがこれなどはおそらく全て4年式15榴の弾薬であったと思われる。

たった1門しかなく射程も短い4年式15榴の為に貴重な輸送力を無駄にして不要な弾薬を輸送したのは人災としか言いようがない。
なにしろ11月2日のネズミ輸送は波浪の為、全物資を揚陸できず850梱もの糧食(約28t)が未揚陸のまま帰途につかざるを得なかった。
不要な4年式15榴弾薬の代わりにこの糧食を揚陸していればと思うのは私だけではあるまい。    


9.第2師団の投入

青葉支隊に所属する歩兵3個大隊は9月16日夜までにガ島に上陸した。
ただしこの時点ではまだ青葉支隊の司令部は上陸していない。
ここで「支隊」についてもう少し詳しく解説しておこう。

前に「支隊の名称」について解説したが今度は支隊の規模と指揮系統に触れる。
まず規模だがアリューシャン作戦に投入された北海支隊は第7師団隷下の独立歩兵301大隊を基幹に編成されており支隊長と大隊長を穂積少佐が兼任している。
次に一木支隊だが歩兵第28連隊を基幹に編成されており、この場合もまた支隊長と連隊長は一木大佐が兼任していた。
こうした兼任の場合はさして問題がない。

ところが南海支隊(歩兵第144連隊基幹、後に歩兵第41連隊が増加)や青葉支隊(歩兵第4連隊基幹)や川口支隊(歩兵第124連隊基幹)の場合、基幹となる歩兵連隊長とは別に支隊長として少将が任命されていた。
よって基幹となる歩兵連隊の兵力は歩兵連隊長の指揮下にあり、その他の砲兵や工兵などが支隊長の直率兵力となる。

だが南海支隊や青葉支隊と違い川口支隊には砲兵などが配属されておらず支隊長の直率兵力は僅か工兵1個小隊と独立無線2小隊、第24防疫給水部などに過ぎなかった。
つまり川口支隊では支隊長の権限が極端に小さかったのである。
更に川口支隊長が陸士26期だったのに対し歩兵第124連隊長の岡大佐が24期だった事も甚だしく異例(他の支隊でこの様な例は見られない)であった。
この様な問題を抱えた川口支隊が独立部隊としてガ島戦に投入されたのは日本にとり極めて不幸であったと言わざるを得ない。

さて、総攻撃に失敗した川口支隊を回復させる為、日本海軍は次々と駆逐艦を派遣し物資を送った。
9月16日には3隻、17日には2隻が物資を揚陸し18日には4隻が兵員170名と野砲4門及び物資を揚陸させた。
ついで20日にも4隻が物資を揚陸した。
だが21日に出撃した4隻は空襲を受けて2/3しか物資が揚陸できなかった。
更に24日に出撃した4隻が空襲によって2隻損傷し退避せざるをえなくなった。
そして10月1日、久々に4隻が出撃し青葉支隊司令部(80名及び物資)がガ島)へ上陸した。
だが同日、日本陸軍はとんでもない人事をしでかしたのである。

1942年9月28日、1人の参謀がラバウルの第17軍司令部から日本へ帰国した。
井本熊男中佐である。
彼は翌日、大本営へ出勤しガ島の現状について報告したのだが同日夕刻、突如として第17軍参謀長二見少将の罷免が決定された。
勿論、井本中佐の報告がその原因であり井本中佐自身もその著書「作戦日誌で綴る大東亜戦争」で「筆者の報告の日にこの人事措置が行われた事は筆者の報告がある程度原因している事は明らかである」と記述しており「二見将軍に相済まぬ事であったと感じている」と結んでいる。
もとより井本中佐に悪意はなく同書中で「尊敬する先輩を陥れようとするが如き考えは微塵もなかった」と書いている。
かくして10月1日付けで二見少将は罷免のうえ退役させられた。
一説によれば井本中佐の報告は二見少将を断罪する為の材料として利用されただけであり二見少将に対する陸軍中央の対応はガ島撤退論議の時点で既に決定していたとされる。
第17軍は智将二見を失い泥沼に更に1歩、大きく脚を踏み出した。

ここで、ガ島に対するネズミ輸送に話を戻そう。
10月1日に青葉支隊司令部がガ島へ上陸したのに続き2日には駆逐艦5隻が兵員250名と糧食をガ島に送り届けた。
叢書28巻の56頁によると第2師団到着前のガ島兵力を川口少将は約9000名(ただし戦病死約2000名を含み健在者は約5000名)と報告している。
そして3日には日進による初の輸送(他に駆逐艦9隻)が行われ第2師団司令部、野砲5門、牽引車7両、糧食31t、弾薬、兵員890名が上陸した。

以降もネズミ輸送は4日に駆逐艦5隻、5日は6隻、6日は6隻、7日は5隻と繰り返され8日には2度目の日進による輸送(駆逐艦5隻を含む)で重砲などが戦列に加わった。
9日は軽巡1隻と駆逐艦9隻、10日は駆逐艦3隻、11日は日進、千歳と駆逐艦6隻、14日は軽巡3隻と駆逐艦4隻、17日は軽巡3隻と駆逐艦15隻がネズミ輸送に投入され陸軍兵員9091名、海軍兵員560名、陸軍高射砲3門、海軍高射砲4門、15榴8門、10榴2門、野砲7門、山砲5門、速射砲18門、連隊砲14門、大隊砲13門、迫撃砲19門、牽引車11、糧食160t及び弾薬がガ島に揚陸(叢書83巻の226頁参照)された。
第17軍司令部のガ島進出は9日である。

ネズミ輸送は17日をもって終了とされたが陸軍からの緊急弾薬輸送要請により19日にも駆逐艦3隻で実施された。
だがこれは空襲によって中止を余儀なくされている。
なおネズミ輸送が中止されたのは近々、第2師団による総攻撃が開始される為であり総攻撃が成功し飛行場が奪回できればネズミ輸送と言う緊急手段に頼る必要がなくなるという目算があったからである。

なお当時、着実なネズミ輸送と平行し更に二つの輸送作戦が実施された。
10月15日に実施された高速船団による輸送作戦(搭載した重砲は15榴8門、10加4門)とアリ輸送である。
だが双方とも失敗したので日本陸軍は重砲による米軍陣地の破砕と第2師団による正攻法を中止し密林機動と夜襲に戦術を切り替えた。

さて、第17軍参謀長の二見少将は罷免されたが参謀長を空席のままにして置く訳にはいかない。
後任として陸大教官の宮崎周一少将が任命された。
ただし陸軍の全高級将校がラバウル不在となっては連絡上、大きな支障となる。
よって宮崎少将は暫くの間、ラバウルに留まり10月29日になってからガ島へ上陸した。
以降、宮崎少将は筆舌に尽くせぬ困苦の中で作戦を指導する。

後の話となるが御前会議でガ島撤収が決定し井本参謀が命令書を携えてガ島へ派遣された時、宮崎少将は撤収を拒否して玉砕戦の遂行を主張している。
駆逐艦による撤収は途上で撃沈される恐れがあり「前線から動けない傷病兵をどうするか?」という問題もあるので玉砕戦の主張も一概には責められないのだが結局、第17軍司令官百武中将の決定により撤退が実行され宮崎少将も内地へ帰還する。

その後、宮崎少将(1944年10月、中将に昇進)は陸大勤務や第6方面軍参謀長を歴任し1944年12月14日、参謀本部第1部長に就任した。
参謀本部第1部長は日本陸軍の作戦全てを取り仕切る要職中の要職である。
本来なら参謀総長や参謀次長の意思が戦略決定に大きな影響を与えるのだが日本陸軍の場合、下僚である第1部長や作戦課長に大きな権限が委ねられていた。
宮崎中将は終戦まで第1部長の職にあったが、その間に生起した硫黄島戦、沖縄戦にガ島戦で培われた経験が反映された事(84師団の沖縄派遣中止問題や本土決戦至上主義など)は否めない。
終戦時、日本陸軍には17の方面軍司令部と44の軍司令部があり数多の参謀長及び参謀長経験者が存在した。
それなのに第1部長に任命されたのが宮崎中将であった事は誠に残念と言わざるを得ない。

それはさておき、話をガ島戦の推移に戻そう。
ラバウルに滞在していた時点での第17軍司令部は9月30日の作戦会議で主攻正面を海岸と決定した。
しかし10月9日にガ島へ進出した第17軍司令部は参謀を前線に派遣して調査した結果、早くも11日には密林機動に方針変更する。
つまり第17軍司令部はそれまで全く現状を認識していなかったのである。

ただしこの時はまだ重砲による支援火力に望みを託していなかった訳ではない。
そして13日、戦艦金剛、榛名がガ島砲撃しヘンダーソン飛行場が火の海となる。
ただし炎上したのは日本軍が設営した旧来の滑走路だけであり米軍が設営した新滑走路は手付かずのままであった。
14日には高速船団がガ島に到着したが新滑走路から飛び立った米軍機に襲われて大損害を蒙り重砲による火力支援は完全に雲散霧消した。
また同日、第17軍司令部は総攻撃を22日と決定、第2師団も機動準備命令を発令(携行糧食12日分)する。

なお、第2師団は密林機動する右翼の川口支隊と左翼の那須支隊、海岸での牽制と後方からの支援射撃を担当する住吉支隊に区分されており、この3部隊のうち右翼を担当する川口少将は唯一、米軍の猛火力と密林機動の困難さを体験していた。
第2師団の総攻撃でも同じ事(すなわち密林機動と夜襲)をやるのだから失敗は目に見えている。
違うのは川口支隊の総攻撃では東方からヘンダーソン飛行場へ接近したのに対し第2師団の総攻撃では西方から接近した事であり日本軍兵力は第2師団の増加があったと言っても元からガ島に展開していた一木支隊や川口支隊の兵は傷病者や栄養失調者が多く実的戦力はさほど増加していない。
一方、ガ島所在の米軍兵力(戦史叢書83巻の255頁による数値)は川口支隊の総攻撃直前の9月12日には1万1000名であったものが10月23日には2万3000名にまで膨れ上がっていた。
つまり川口支隊総攻撃の時は板塀に石を投げつけるが如き状況だったのが今回はコンクリート塀に卵を投げつけるが如き状況に変容していたのである。

そして16日、第2師団の諸部隊は密林機動を開始したが密林で行く手が阻まれ行軍は難渋した。
亀井宏著「ガダルカナル戦記」513頁によると大本営派遣参謀の辻中佐は10月14日の時点で「密林障碍の度は予想以上に軽易なり」と参謀本部第1部長田中新一少将へ報告電を送っているが実態はまるで逆だったのである。
なにしろ戦史叢書28巻の114頁によると第2師団が通過した丸山道は幅50〜60cmしかなく一列縦隊の一方通行でしか行軍できなかったらしい。

この状況で伝令を送らねばならないときはどうなるか?
先頭が道に迷い後戻りせねばならない場合はどうなるか?
全体が一時停止して対処せねばならなくなるのである。
よって一刻も早く地形の開けた集結地に到着する事が望まれた。
だが10月20日、第2師団司令部は地図を読み違え予定していた集結地を誤認してしまったのである。
本来なら飛行場南方6kmの地点で集結して散開し総攻撃に移る予定であった。
しかし実際に集結した地点から飛行場まではまだ10数kmも遠かった。
これでは22日の総攻撃などできる訳が無い。
よって21日、第17軍司令部は総攻撃を23日に延期した。
だが行軍は一向に進展せず23日になってから総攻撃は24日に再延期となる。

ここで川口支隊長から総攻撃の更なる延期が要請された。
川口支隊長は航空写真を検討した結果、攻撃正面に米軍が強固な陣地を構築した兆候が見られ迂回する必要があると判断したのである。
これに対し第2師団司令部は川口支隊長を罷免(辻中佐が罷免を進言したとされる)し指揮系統の大混乱と士気の低下を招いた。
当然、この時点では密林の中を難行苦行の行軍をしている最中であり接敵はしていない。
ところが戦史叢書28巻の141頁によると23日夕刻前に辻中佐は第17軍司令部に対し「敵は飛行場の側でテニスを行いつつあり」と報告した。
米軍が飛行場の側にテニスコートを作ったかどうか定かではないが「見てきた様な嘘を言い」とはまさにこの事だ。
23日の時点で飛行場の側のテニスコートが見える所まで進出しているのなら勝ったも同然と言えよう。
結果はどうであったか?
24日の総攻撃は脆くも頓挫し26日に第2師団は攻撃中止命令を発令する。
当時、参謀本部作戦課長だった服部卓四郎大佐をその著書「大東亜戦争全史」でこの敗因を「雨」としているが果たしていかがなものであろうか?
私としては雨が降ろうが降るまいが、いずれにせよこの作戦は失敗に終わっていたと思う。
服部大佐は直弟子である辻中佐の愚行を糊塗する為に雨のせいにしたのではなかろうか?
総攻撃が中止となった翌日は壊滅した歩兵第29連隊の軍旗捜索に費やされ29日には宮崎参謀長ガ島上陸、30日には第2師団司令部が集結地まで後退した。
この総攻撃を支援する為、海軍も全力で出撃し南太平洋海戦が生起している。

それでは糧食の補給状況はどうであったろうか?
16日の作戦発動日に12日分の糧食を携行していたのだから理論的には28日まで問題は無さそうに思われる。
しかし理論通りに事は運ばない物で戦史叢書28巻の180頁によると左翼の歩兵第29連隊などは25日から既に絶食状態となっていたらしい。
それもそのはずだ。
戦史叢書28巻の139頁では「23日早朝から師団の各部隊は展開線で諸準備を整え背嚢その他を残置して軽装となり各部隊独力で密林中に道路を啓開しつつ攻撃準備位置に向かい分進した。」とある。
糧食の入った背嚢を残置(当座食べる数食分は携行したであろうが)してしまったのだから絶食(ただし右翼隊は残置しなかった様である。)となる他はない。
こうした状況で11月1日、第2師団は本格的に後退を開始した。


10.第38師団の投入

そして米軍は後退する第2師団を追撃し激戦が繰り広げられた。
第17軍は第38師団を逐次、増援に繰り出す事によってこれに対処している。
11月2日には天龍及び駆逐艦16隻が歩兵第228連隊本部以下510名、山砲2門、糧食、弾薬、燃料などの物資を運び5日にも天龍及び駆逐艦15隻が第38歩兵団本部以下2400名と物資を揚陸した。
続いて7日、駆逐艦11隻が330名と糧食54t、8日には駆逐艦8隻が約560名と糧食40tを運んでいる。
また10日には駆逐艦5隻が第38師団司令部以下約600名と糧食8tを上陸させた。
こうして次々とガ島の人口は増えていった。

それでは「参謀本部及び第17軍が以降のガ島戦をどうするつもりであったのか?」についてちょっと触れてみよう。
そもそも、米軍が8月7日に上陸したからガ島戦が始まったのであって第17軍はガ島で作戦するつもりなど当初は毛頭なかった。
第17軍はポートモレスビー攻略を企図しておりニューギニアへ全力を傾注するつもりだったのである。

最初にガ島へ投入された一木支隊は本来、第17軍の兵力ではない。
第17軍の担当戦域にガ島が含まれているので急遽、編入されたのだ。
川口支隊にしても当初はポートモレスビー攻略兵力(戦史叢書14巻の185頁)だったが8月10日の時点でガ島へ投入する事に変更(戦史叢書77巻の154頁)されたのである。
第2師団も第17軍へ編入された当初の目的はポートモレスビー攻略(戦史叢書14巻の415頁)であったし第38師団も同様(戦史叢書28巻の43頁)であった。

こうしてニューギニアへ投入するはずだった部隊が次々とガ島へ吸引され10月9日には第17軍司令部自体がガ島へ進出するに及びニューギニア方面には指揮系統の空白が生じてしまった。
これに対処する為、大本営は11月16日に第18軍(安達二十三中将)を編成、更に第17軍と第18軍の双方を統括する第8方面軍(今村均中将)も編成された。
今村中将は第16軍司令官として蘭印攻略を果たした名将であるがくしくも第2及び第38師団は第16軍の主力兵団であった。
すなわち第8方面軍とは元の第17軍に第16軍が加わった様な組織となったのである。
なお第2師団と第38師団にはジャワ攻略戦時も戦陣争いと論功行賞で大きな軋轢があった事を申し添えておく。

そして更にまた新部隊が南東方面へ派遣される事になった。
次々とニューギニア投入予定部隊がガ島へ送り込まれる以上、新たなる部隊がニューギニア投入を目的として派遣されるのは当然のなりゆきと言えよう。
こうして派遣されたのが第51師団である。
だが10月26日に第2師団の総攻撃が失敗に終わりまたもや変更を余儀なくされた。
戦史叢書28巻225頁によると第17軍の作戦構想は中部ソロモンの飛行場を強化して制空権を奪回し、しかる後に第51師団を輸送し、先着の第38師団と合わせて12月末頃に総攻撃を行う予定であった。
当然、先着の第38師団が「無事に到着していれば」が前提である。
以前、10月15日に高速船団がガ島へ投入された時は半数の船が沈み兵員、兵器の大部分は揚陸に成功したものの糧食、弾薬、燃料の大部分は失われた。

第38師団に所属する兵員の大部分はネズミ輸送でガ島に到着している。
だが重器材や車両装備の工兵部隊や輜重兵部隊は輸送船を使用せざるを得ない。
よって2度目の船団輸送が企図され今回は11隻の輸送船が充当された。
だが結果はまたしてもガ島の飢餓人口を増やしただけであった。

そして第2次船団が壊滅した事は新設間もない第8方面軍司令部に知らされなかった。
なぜであろうか?
1942年11月14日、今村中将はバタビアからシンガポールを経て立川飛行場に降り立った。
第8方面軍司令官に就任する為、内地へ帰還したのである。
翌日、今村中将は参謀本部に出頭し16日には東條首相と宮中に参内して拝謁、ついで18日には杉山参謀総長から第8方面軍の統帥に関する要望を聞いたと戦史叢書28巻の249頁に書いてある。
だがなんと同書にはそのあと「しかし総長も第1部長も新設軍の士気を顧慮してか、4日前の11月14日に第38師団主力が壊滅的被害を受けた事実については触れなかった。」と続いているのだ。

角田房子著「責任ラバウルの将軍今村均」232頁によると今村中将が船団壊滅を知らされたのは20日になってからで、それも正式な筋ではなく「大本営勤務の一知人から内密にささやかれて」とある。
そして同日、今村中将は南方へ向けて飛び立った。
後年、今村中将は「もうこの戦争は駄目だと言う印象をいつもたれましたか?」という質問に対し「昭和17年末、ラバウルへ向かうとき」と答えたそうだ。
仙台出身の今村中将は原隊が第2師団の歩兵第4連隊であり同師団には親戚、知人などが大変多い。
ガ島では甥も戦死している。
現地の状況を知った時、さぞや慄然としたであろう。

さて、第3次ソロモン海戦で多くの損害を受けながらも、やっとの思いで到達した船団は搭載した器材ごと炎上してしまった。
かくして第38師団と第51師団を合わせて12月末に飛行場を奪回する構想は脆くもついえさった。
それでは次にどうするか?
まず、考えられたのはもう一度船団を派遣し1月上旬に第2及び38師団の戦力を回復させる事である。
ついで2月上旬には50隻からなる大船団で第6及び51師団を上陸させる方向で第8方面軍司令部は計画を策定した。
だがどの様な結末になるか確証が持てない。
そこで第8方面軍司令部は12月中旬、上記の輸送作戦の兵棋演習を行った。
輸送船を15隻づつ3派に分けた場合、ガ島に至るまでに全て沈没、仮に50隻の輸送船のうち半数が到着しても翌朝までに全て炎上という結果がでた。
こんな勝算ではとても実施に踏み切れない。


11.特型運貨筒

一方、既にガ島に展開している第17軍は深刻な飢餓に直面していた。
こうなると「如何にして飛行場を奪取するか?」どころではない。
よって中央や第8方面軍で様々なガ島奪回案が検討されると共に「とりあえず現地部隊の飢餓を解決する目的」で11月下旬からネズミ輸送、モグラ輸送、航空機による糧食輸送などが次々と実施されが成果は微々たる物であった。

そうした中で最も多く糧食を輸送したのがモグラ輸送である。
このモグラ輸送、11月24日に始まった初回から暫くの間は艦内に糧食を搭載した潜水艦が浮上し海岸からやってきた大発に移載する方式をとっていた。
しかしこれだと浮上中の時間が長く敵魚雷艇に襲われる危険性が高い。
まずは初回の24日からして敵魚雷艇と航空機の双方が出現して中止、2回目の25日は舵の故障で半分の11tだけ揚陸に成功した。
3回、4回、5回は無事に揚陸(20〜32t)できたが6回目は大発の故障で失敗、7回目は成功するも8回目には再び敵魚雷艇が出現し失敗に終わる。
失敗で終わっているうちはまだ良い。
9回、10回、11回と成功が続いた後、12回目では敵魚雷艇2隻の攻撃を受けて伊3の艦尾に魚雷が命中し初の戦没艦をだした。
かくして新輸送方式に変換する共に月暗を待ちモグラ輸送は一旦、中止となった。

12月26日に再開された新方式では艦外に糧食の入ったゴム袋を固縛しておき揚陸時間の短縮を図ったが、ゴム袋は漏水が多いので後にドラム缶へ変更された。
ゴム袋やドラム缶の揚陸量は12〜25tである。
次に更なる時間短縮化の為、潜水したままでドラム缶を浮上させる事になった。
しかしこうして苦心したにも関わらず敵魚雷艇の襲来で揚陸は思うの任せず潜航中のドラム缶浮上は失敗も多かった。
そもそも敵魚雷艇が出現すると大発が自由に航行できないのである。
1月12日から20日までは惨憺たる物で4回連続で失敗している。
そしてこの状況を打破する新兵器として特型運貨筒が投入された。
特型運貨筒とは「輸送型の甲標的」というか「水中大発」というか、超小型輸送潜水艦(完全には潜没できない)なのである。

「海軍造船技術概要」の1132頁によると特型運貨筒は26隻建造され少数生産のA型,生産されなかったB型,量産されたC型の3タイプに区分されている。
諸元も表記されてるがどうもこれはC型らしい。
37mm対戦車砲搭載可能 搭載力25t
全長23m 直径1.8m 重量40t 航続6.5ktで2km
ただし熱走すれば航続5倍 乗員1名 深度100m

ガ島へ投入されたのは恐らくA型だ。
C型は1942年12月に設計完了し43年2〜3月までに建造なのでガ島戦には間に合わない。
福井静夫著「日本潜水艦物語」130頁では50〜70隻建造され搭載量は8〜10tとなっている。
史実に於ける揚陸量から見てこの数値は「?」とせざるを得ない。
戦史叢書83巻521頁だと速力3ノット航続4km、搭載量20tだ。
亀井宏著「ガダルカナル戦記」933頁にも詳細な解説がある。
この特型運貨筒はガ島戦に3隻投入され全て揚陸に成功(各18t)した。
まさに画期的な成果だ。
だが、特型運貨筒を搭載できるのは甲標的が搭載可能な丙型潜だけなのである。
つまりたった4隻(乙型の伊27を入れれば5隻)しかないのだ。
これではどうにもならない。

上甲板がクリアでない他の潜水艦でも使用可能な運貨筒はない物か?
かくして曳航式の大型運貨筒が考案された。
これならどの潜水艦でも引っ張ってゆける。
それに搭載量がなんと375tもある。
特型運貨筒の20倍だ。
これで大量に糧食を送ればガ島の補給問題は一挙解決だ。
だが、そうはならなかった。
大型運貨筒はガ島戦に間に合わなかったのだ。

ところで大型運貨筒の登場以降、日本軍は全く飢えなくなったのだろうか?
残念ながらそうはならなかった。
まず沿岸地域でなければ大型運貨筒は全く意味をなさない。
よってビルマ戦線や内陸に押し込められてからのフィリピンでは出番がない。
沿岸地域にしても現地陸軍部隊が如何にして接岸させるかと言う問題があった。
なにしろ大型運貨筒は無人かつ無動力なのである。
貨物が375tに自重が105t、バラストが50tで合計525t(排水量544t)だから海岸で人力や牽引車による動力で地引網宜しく接岸させるのには重すぎる。
なんとか接岸させても貨物を揚陸させるのに難渋する。

堀元美著「造船士官の回想」99頁では運貨筒のテストに際し「これを375tも2つの昇降口から積み込むにはまったく人力による他はなくその為に運貨筒を大浦崎の部隊宿営の近所まで持って行き兵員の手によって積み込みを行ったがこれは非能率な厄介な仕事だった。」と記述している。
物資を積み込むのが大変なのだから降ろすのも同様だ。。
モタモタしてると夜が明けて敵機が来襲し折角の運貨筒が灰燼に帰してしまう。
つまり大型運貨筒というのは敵前揚陸を前提とした兵器とは言い難いのである。


12.米軍魚雷艇

米魚雷艇は恐ろしい敵であった。
ガ島へ米魚雷艇が進出したのは10月12日、初陣は10月13日である。
この日、日本海軍は金剛、榛名でヘンダーソン飛行場に夜間砲撃を加えた。
当時、米海軍魚雷艇兵力は僅か4隻(PT38、46、48、60)に過ぎなかったが25日に増援(PT37、39、45、61)が到着し8隻となった。
以降も頻々と増援が繰り出され戦力は逐次、増大されていく。

10月29日に第17軍参謀長の宮崎少将と海軍の大前参謀を派遣する為、駆逐艦2隻がガ島へ向かったが米魚雷艇は果敢にこれを襲撃、宮崎少将と大前参謀は無事に到着したものの、物資は僅か7tしか揚陸できなかった。
襲撃は11月5日も繰り返されたがこれは小競り合いに終わっている。
ついで11月8日、PT37、39、61がネズミ輸送の日本駆逐艦を襲撃、望月に1本命中させたが幸い不発であった。
10日のネズミ輸送も米魚雷艇の襲撃を受けたが目だった被害は生じていない。

だが12月7日の第3次ドラム缶輸送ではPT36、37、43、44、48、59、109に襲撃されやむなく日本側は輸送を断念した。
ついで12月11日の第4次ドラム缶輸送では輸送の完全阻止はできなかったもののPT37、40の雷撃で旗艦照月が撃沈されている。
米軍もPT44を失ったが戦死者は9名、どう考えても日本の大敗であった。
1月2日の第5次ドラム缶輸送でも米魚雷艇11隻が襲撃して来たが水偵との連携が効を奏し撃退に成功した。
だが1月10日の第6次ドラム缶輸送では来襲した魚雷艇10隻(PT36、39、40、43、45、46、48、59、112、115)のうちPT43、112を撃沈したが初風が大破している。
米魚雷艇は14日の第7次ドラム缶輸送にも襲撃を加えた。
ただし、この時は双方とも目立った損害は出ていない。

こうして見ると火砲を多数装備した駆逐艦相手だと魚雷艇も大した活躍はできず運の良い時だけ大戦果を挙げている様に見える。
しかしドラム缶輸送では日本駆逐艦が去った後、多数のドラム缶が浮いているのだ。
無抵抗のドラム缶だ、何も恐れる事はない。
装甲の無いドラム缶なので12.7ミリ機銃で充分である。
丹念にひとつひとつ撃ち抜く必要は無い、ロープで数珠繋ぎになっている。
幾つかのドラム缶を撃ち抜けば浸水しそれがオモリとなって沈んでいく。
日本海軍が大量のドラム缶を輸送しながら現地陸軍部隊の手に渡らなかった理由は米魚雷艇の跳梁による所が大きい。
米魚雷艇は日本駆逐艦にとって大敵ではなかったがドラム缶にとって大敵だったのである。

さて、モグラ輸送に対してはどうであろうか?
まず潜水艦は駆逐艦ほど砲火力が大きくない。
次に潜水艦の主兵装たる魚雷は浅喫水の魚雷艇には使えない。
更に潜水艦は速力は低く魚雷艇に大きく劣る。
これだけ書けば充分だろう。
浮上中の潜水艦は魚雷艇に対して甚だしく劣勢なのだ。
11月24日にガ島に対する初のモグラ輸送が敢行されたが早くもこの時、米魚雷艇の出現によって輸送任務は阻止されてしまう。
12月3日にも米魚雷の出現で輸送中止となるが9日には伊3がPT59に撃沈されモグラ輸送そのものが一旦中止となる。
モグラ輸送は12月26日に再開され翌年1月30日まで継続されたが、その間に米魚雷艇によって輸送が阻害(中止もしくは揚陸量減少)されたケースが6回にも及んだ。
かくして米魚雷艇はガ島所在の日本陸軍が飢餓状態となる大きな要因となった。

ただし米魚雷艇とて常時、沿岸に張り付いてはいられない。
米魚雷艇基地はツラギに在り日本の艦船がガ島に近づく頃合を見計らって出撃する。
ツラギ、タサファロンガ間は46km(戦史叢書77巻p159の地図)である。
つまり40ノット(72km/h)のPTボートだと全速で40分近くかかる。
よっていち早く揚陸して素早く退散すれば会敵の機会は大きく減る。
ドラム缶の場合は終始、浮いているので逃げられないが。


13.揚陸

それではここで「如何にすれば揚陸時間を短縮できるか?」と言う視点から揚陸作戦の根本を概括しよう。

1.まず目的地まで外洋を越えて行かねばならない。
2.ついで接岸し積荷を揚陸せねばならない。
3.更に揚陸した貨物を集積所まで輸送せねばならない。

さて接岸だが埠頭/桟橋があれば至って簡単に事は済む。
埠頭/桟橋から道路が伸びトラックが待ち受けて入れば揚陸も簡単だし集積所まで移動するのも楽だろう。
でも砂浜に上陸するとなればそう簡単には済まない。
ここで上陸用舟艇(大発など)の出番となる。
つまり外洋を泊地まで航行して来た輸送船が、搭載する貨物をクレーンで上陸用舟艇に移載(作業1)し、次に上陸用舟艇は砂浜まで移動して接岸、更に上陸用舟艇から積荷を揚陸してトラックに積載(作業2)し集積所へ向かう。
この作業1と2で相当な時間がかかる。
作業1で時間を浪費すると敵艦が来襲し貨物は輸送船と共に沈められてしまうだろう。
作業2が遅れると夜が明けて敵機が来襲し積荷が燃やされてしまうだろう。
すなわち制空権のない日本にとって揚陸とは時間との勝負なのだ。

1.輸送船から上陸用舟艇への移載
2.上陸用舟艇の接岸
3.上陸用舟艇から車両への移載
4.車両による集積所への移送

どうすれば時間が短縮化できるだろうか?
まず最初に、あらかじめ舟艇へ貨物を積載しておき「目的地到着と共に迅速に舟艇を発進させ往復しての揚陸は行わない」とする方法が考えられる。
この方法をとったのが日本海軍の哨戒艇(旧式駆逐艦改装)や1等輸送艦(新造小型艦)、陸軍特殊船(新造大型艦)で米軍でもこれらに相当するマンリー型APD(旧式駆逐艦改装)やC・ローレンス型APD(新造小型艦)、LSD(新造大型艦)などが存在する。
もちろん、対費用効果的には通常の輸送船で貨物を運び舟艇が往復して揚陸するのが「時間的に余裕があり敵の妨害を受ける危険性が無い状況」ならば一番良い。
米国で量産された7200総tのリバティ船の載貨重量は10920t、戦前日本で建造された6200総tのAD型貨物船は載貨重量9240tである。
ただし載貨重量には286tの自船用燃料なども含むのでAD型貨物船の最大搭載量は8954t(本当はここから更に乗員の重量、乗員用糧食、消耗物品などが必要となるが省略する)となる。
この搭載物を陸に運ぶのだが舟艇の搭載能力は日本の大発の場合で13tに過ぎず1隻の大発でAD型貨物船の全搭載物を揚陸するとしたら延べ689往復もしなくてはならない。
仮に大発が10隻だったとしても69往復である。

それでは1隻の大発は1日に何往復できるのだろう?
大発の速力は8ノットだが船団泊地と海岸との距離は水深や地形によって大きく変わるので一概に一航程の距離や時間は決められない。
搭載や揚陸に掛かる時間も物資や兵器によって大きく変わる。
例えば歩兵1個小隊なら「乗船!」と命令すれば即座に乗り込むし「下船!」と号令をかければ即座に上陸するだろう。

だが33キロの食料梱包360個だとしたらどうであろうか?
乗船と叫ぼうが下船と叫ぼうが動きはせず1個、1個を人力で運ばなければならないのである。
だとしたら運搬員の人数が重要だ。
馬を揚搭する事を考えてみよう。
揚陸する時は歩兵と同じで簡単(ただし号令は「下船!」ではなく「ハイ、ドウドウ」となるが)だが載せる時は?
1頭ずつモッコを付けたクレーンで大発に載せるのだから大変である。
火砲や車両も難しい。
一挙動で済むから時間はさしてかからないが海面が荒れて大発が揺れると搭載自体が不可能となる。

ではどうやって揚陸の効率化を図るか?
まず考えられるのは大発の数を増やす事だ。
だが制空権を握り昼夜を問わず揚陸できるならともかく夜陰に乗じて短時間に揚陸せねばならないのなら何隻もの大発に搭載するのは不可能である。
次にあらかじめ大発に物資、兵器、兵員を搭載しておき泊地で急速に大発を発進させる方法が考えられる。
これが日本海軍の哨戒艇で後に一等輸送艦に発達した。
米海軍のAPDも上陸用舟艇を搭載して任務に当たるが日本海軍の同種艦ほど徹底した舟艇の急速発進はできない。
米海軍で本格的なこの系統の艦が登場するのはLSDからである。

3番目に登場したのが「大発を使わずに揚陸できないか?」と言う事で輸送船を直接、接岸させる為に二等輸送艦やSS艇、LSTなどが開発された。
だがこのタイプは艦首に門扉を設置せねばならないので低速で航洋性も悪かった。
輸送するのが貨物などであった場合、大発や二等輸送艦、LSTなどが接岸してから多くの時間がかかるのも問題だった。
よって揚陸時の時間短縮を図る為、大発や二等輸送艦、LSTに物資搭載済のトラックを搭載する事が考えられた。

これは多数のトラックを搭載する二等輸送艦やLSTならそれなりに有効な方法だが1両しかトラックを搭載できない大発では極端な輸送量の減少となる。
基準排水量1500tの一等輸送艦の搭載力は260tだが大発を4隻しか搭載出来ないので実際の揚陸量は13×4の52tに低下する。
更に大発へ1式6輪自動貨車乙を搭載すると積載量は3tに過ぎないから実際の揚陸量は僅か3×4の12tに低下してしまう。

2E型貨物船(海トラ)の基準排水量は僅か431t(870総t)に過ぎないが載貨重量は1567tで燃料19tを除いた最大搭載量は1548tに及ぶ。
つまり基準排水量で1/3に過ぎない海トラ1隻で「3tの貨物を積んだトラックを載せた大発を4隻搭載した一等輸送艦129隻」に相当する輸送力がある。
制空権が我にあり敵魚雷艇の脅威がないなら海トラで運ぶのが効率的だろう。
だがそう上手くはゆかない。
最大速力9ノットの海トラが生き残れるほど最前線の海は安全でないのである。
沈められてしまえば1tも陸軍部隊に届かない。。
だが1500tの一等輸送艦が12tしか運べないのでは非効率この上ない。

そこで今度は大発などの舟艇に代わり水陸両用車が開発された。
マトリョーシカの様な入れ子式と異なり水陸両用なら搭載数を増やせる。
一例を挙げると一等輸送艦に大発+戦車で搭載したなら4両しか揚陸できないが水陸両用の特2式内火艇だと倍近い7両が搭載できる。
一等輸送艦に物資揚陸専用の特4式内火艇2型(全長9m、搭載量6t)を搭載したスペックデータは手元にないが上面図を見る限り5両は搭載可能に見える。
そうなれば揚陸量は6×5の30tに増える。

米国も同じ事を考え水陸両用車の開発を推し進めた。
ひとつ違うのは水陸両用車と言っても装軌式のLVT系列(積載量は2型で2.6tだったが3型以降は4tに増加)と装輪式のDUKW系列(積載量は2.5t)の2種類を開発した事である。
装軌式は装輪式に比べ高価で運用コストも高かったが搭載量が多くリーフに対し走破性能が大きく優っていた。
更に米国はこれらの水陸両用車を迅速に発進させる為、LSDも建造しタラワ攻略戦(ガルバニック作戦)から戦列に加えた。
如何に水陸両用車が有効であっても貨物船で前線まで運び一旦クレーンで海上に降ろしてから兵員や貨物を移載するのでは水陸両用車の持つ迅速性が著しく失われてしまう。
LSTに水陸両用車を搭載し洋上から発進させるのなら迅速に運用できるが接岸可能なLSTに水陸両用車を搭載するのはリーフが存在する上陸作戦以外ではあまり効果的ではない。
そこで舟艇に貨物を搭載したまま発進できるLSDが着目された。

ちなみに基準排水量4790tのLSDは貨物積載量1500tだったが舟艇は戦車もしくはトラック1両を搭載するLCM18隻に過ぎなかった。
トラックの積載量は2.5tだから積載合計は僅か45tである。
これが水陸両用車ならばLVTの場合で92両(積載合計368t)、DUKWの場合は108両(積載合計270t)に増える。
ただし米国の場合、水陸両用車の迅速性はあまり意味をなさなかった。
なぜなら常に制空権を保持していた為、夜陰に乗じて急速に揚陸する必要性がなかったからである。

なお日本は躍起になって揚陸の迅速化を模索したが水陸両用車の実用化と量産に関しては後塵を拝し終戦まで実用化(少数は量産された)できなかった。
一等輸送艦や二等輸送艦にしても実戦投入は1944年まで遅れた。
大発を発進させる哨戒艇は戦前から存在したが大発数は1〜2隻に過ぎず大きな戦力とはならなかった。
直接接岸式の揚陸艦は陸軍のSS艇から始まる。
だが1番艦の竣工こそ1942年4月と早かったが2番艦の竣工は1943年7月まで遅れた。
よって基本的に日本は通常の大発輸送や駆逐艦を利用したネズミ輸送、潜水艦を利用したモグラ輸送、大発を遠距離航海させるアリ輸送に頼らざるを得なかったのである。


14.松田大佐

組織や団体には統率者が必要であり統率者に欠員が生じれば後任人事が発令される。
だがまれに「如何に何でもこんな時に?」と思わざるを得ない人事が行われる。
ガ島戦末期にそうした人事が発生した。
1943年1月21日、松田教寛大佐(陸士28期)は潜水艦輸送でガ島に着任した。
補職は歩兵第28連隊長(着任は1月22日)である。
何故、松田大佐はガ島へ派遣されたのであろうか?

歩兵第28連隊は一木支隊として最初にガ島へ派遣された陸軍部隊だ。
兵力は戦史叢書83巻と77巻では約2400名、14巻では約2000名、28巻では2108名としており独立速射砲第8中隊を含め2507名とする資料もある。
一木支隊は一木清直大佐と大隊長の蔵本信夫少佐が指揮する約900名の第1梯団と連隊本部付の水野鋭士少佐が指揮する残部で編成された第2梯団に別れて上陸し第1梯団は8月21日に壊滅した。
従来、歩兵第28連隊は指揮下に歩兵1個大隊しか保有しない縮小編制であった。
以降、第2梯団は熊大隊の名称で水野少佐の指揮により作戦に従事する。
だがその水野少佐も10月13日に戦死し後任として北尾淳二郎少佐(陸士45期)を迎える。
北尾少佐の補職は歩兵第28連隊長代理としている資料もあるが戦史叢書28巻などでは北尾大隊と記述している箇所もあるので大隊長なのかも知れない。
なにしろ戦史叢書28巻によると11月20日時の北尾大隊(つまり歩兵第28連隊であり一木支隊であり熊大隊の残余)は約400名(ただし戦闘に従事しうる者65名)に過ぎず兵力的には大隊にすら遠く及ばなかったのだから。
それなのに食糧不足であえぐ前線へ大佐の連隊長を新たに送るのは常軌を逸している。

さて、これまでガ島戦の経緯を連綿と記して来たが1942年の大晦日、御前会議が開催されガ島からの撤収が決まった。
遂に大本営は「ガ島を攻略するのは不可能に近い」と悟ったのである。
だが島嶼からの撤収なので海軍艦艇の支援を受ける必要があり加えて疲弊した第17軍の兵力だけで撤収するのはほぼ不可能に近かった。
そこで後退戦を担当する部隊として750名の矢野大隊が編成され1月14日にガ島へ輸送された。

ただし矢野大隊は疲弊してはいなかったが幾つかの問題点を内包していた。
編成は歩兵3個中隊(各150名)と機関銃1個中隊(重機6門)、山砲1個中隊(山砲3門)で糧食の保有量は10日分であった。
問題となるのは人的構成で指揮官の矢野桂二少佐(陸士45期)はベテランであったが3個歩兵中隊の小隊長計9名全てが見習士官であり山砲中隊以外の兵は全員戦闘未経験の補充兵(下士官を除く)だったのである。
当然、階級は全て二等兵で年齢は30歳前後に達していた。
本来なら彼等は第38師団に所属する各部隊の欠員を補充する為、分散して配属されるはずであった。
だが戦局が逼迫し前線部隊へ配属ができないまま補充兵はラバウルに滞留した。
この兵力を集成し、やはり前線へ送れないまま残留していた山砲兵第38連隊第8中隊を編入し矢野大隊としたのである。
まさに急場しのぎの部隊で通常なら戦力発揮を期待できるレベルではなかった。

さて、矢野大隊が米軍を阻止し、その間隙を縫って第17軍が撤収するのだが残った矢野大隊はどうなるのであろうか?
どうも第17軍司令部は当初、矢野大隊を撤収させるつもりは無かったらしい。
戦史叢書28巻461頁によると矢野大隊の軍装検査に立ち会った井本参謀は「これを一人残らず殺すのだと思って見たときは感極まるの外はなかった」と回想している。
戦史叢書83巻に記載されている南東方面艦隊の予測だと投入する駆逐艦22隻の1/4が沈没、1/4が損傷、撤収兵力は5000名程度となっている。
絶望的な数字だ。
また戦史叢書28巻536頁だと第17軍司令部は「第1次の撤収は成功するかも知れないが第2次、3次の撤収作戦は相当に困難」としている。
だとすれば矢野大隊は帰還できない。

矢野大隊を見殺しにするのはかなり非道に見えよう。
だが日本軍としては当初から完全撤収など夢想だにしていなかった。
戦史叢書66巻28頁によると1943年1月4日にラバウルで開催された陸軍の会議(綾部部長列席)で在陣兵力2万で5〜6千が撤収可能と目算している。
更に41頁では1月18日に大本営6課長が行った現地視察報告で在陣兵力1万5千で5千を撤収と目算している。
つまり第1次は奇襲的要素があり成功の可能性があるが2次は米軍も迎撃体制を整えているので困難であり3次となればほぼ絶望と言う事なのだ。
そうした絶望的撤収作戦に虎の子の駆逐艦を出撃させるのは忍びない。
よって海軍は第3次撤収に関し駆逐艦を出し渋った。
やむなく第17軍は舟艇機動による第3次撤収を模索する。

かくして矢野大隊を主力として編成された後衛部隊が米軍を阻止している合間に第38師団を基幹とする第1次撤収が2月1日、第17軍司令部及び第2師団を基幹とする第2次撤収が2月4日に実施された。
後に残るのは約2000名の後衛部隊と歩行不能な為に残置された多数の傷病兵のみである。
そして後衛部隊の指揮官に任命されたのが松田大佐であった。
何故、松田大佐が任命されたのか?
他に大佐はいなかったのか?
そんな事はない。
失われた軍旗を捜索し1月26日に戦死した歩兵第124連隊の岡明之助大佐を別にしても歩兵大佐は鈴木章夫歩兵第4連隊長、堺吉嗣歩兵第16連隊長、小原重孝歩兵第29連隊長、東海林俊成歩兵第230連隊長、陶村政一歩兵第228連隊長、田中良三郎歩兵第229連隊長などがいる。
第38師団の阿部芳光参謀、第2師団の玉置温和参謀、第17軍司令部の小沼治夫参謀も大佐だ。
他にも工兵連隊長や砲兵連隊長、輜重兵連隊長など大勢の大佐がガ島にいる。
それなのに一番最後にガ島へ着任し地形や状況を知悉していない松田大佐が後衛部隊の指揮官に任命されたのは不思議と言わざるを得ない。

その松田大佐に与えられた兵力は歩兵第28連隊、歩兵第124連隊、野戦重砲兵第4連隊第2中隊、野戦高射砲兵第45大隊、船舶工兵第3連隊などである。
名前だけみると大兵力に見える。
だが実態は合計約1300名程度に過ぎない。
興味深いのは重砲の96式15榴2門(資料によっては1門)と弾薬25発を保有している事だ。
戦史叢書28巻546頁には「1回の発射弾は約5発とし最後の5発は7日払暁」と射撃命令が記載されている。
また高射砲1門と弾薬39発、高射機関砲1門と弾薬3箱にも最後の射撃は7日未明または払暁と指示されている。
これらの砲撃は撤収の意図を米軍から秘匿するのが目的であった。

松田大佐が歩兵第28連隊に着任する前、どの部隊にいたのか、連隊長を離任した1944年1月7日以降、どこに転属したのか、残念ながら私には判らない。
なお、松田大佐はガダルカナルが初陣で戦場経験が皆無だったそうだ。
これも当時の日本陸軍に於ける歩兵大佐としては数少ないケースであろう。
その松田大佐はガ島撤収作戦の後衛部隊を指揮し見事に任務を完遂した。
だが昇進する事も無く功績は讃えられなかった。
何故であろう?
ガダルカナル戦が負け戦であったからか?
だから歴史の闇に葬り去られたのか?
どうやら、そうとも言えない。

ここでもう一人、松田大佐(陸士28期)と同期の人物に話を進めよう。
開戦時に陸大の教官であった宮崎周一少将は1942年10月6日に第17軍参謀長(任命は10月1日)となり10月29日、ガ島へ渡った。
その後、宮崎少将は苦心惨憺してガ島の第17軍司令部にとどまった。
そして宮崎少将は大本営から撤収命令を携えてガ島へ来た井本参謀に対し玉砕戦を主張したのである。
最終的に第17軍司令官百武中将の決裁で撤収が実施されたが実に危ない所であった。
そして宮崎少将は撤収後の1944年10月、中将に昇進し12月14日には参謀本部第1部長に就任している。
参謀本部第1部長と言えば要職中の要職で日本陸軍の中枢だ。
最終的な決裁は参謀総長や次長に委ねられるが実質的な作戦計画は第1部長と作戦課長によってほぼ立案される。
その宮崎中将の作戦計画の下で日本陸軍はルソン防衛戦、硫黄島防衛戦、沖縄防衛戦を遂行した。
圧倒的に劣勢であり誰が第1部長であったとしても負けたであろう。
だが、極端に人命を軽視し「本土決戦は絶対にやる!」との前提で立案された諸計画にはガダルカナルで彼が取った作戦統帥が大きく反映されているのではなかろうか。
ガダルカナルで負けた参謀長がここまでの要職に栄転し松田大佐が評価されないのは不思議でならない。

ところで井本参謀だが亀井宏著「ガダルカナル戦記」1004頁によると彼がガ島へ来た時、随行員含め6名で各人60kgの荷物を運んだ。
そしてこの荷物に第17軍司令部へのミヤゲとしてウィスキー12本があった。
ガラス瓶に入ったウィスキーの重量は約1.2kgなので約15kgだ。
どうせなら米を運ぶべきだと僕は思う
司令部職員が呑む末期の酒を運ばされた随行員は餓死しつつある戦友を見てどう思ったろう。
井本参謀はちょっと頭がおかしいか、想像力が欠如しているのではなかろうか?
それともそんな参謀達が補給計画を立案したからガ島戦は苦境に陥ったのだろうか?
ガダルカナル戦の経過を見ると日本陸軍の参謀諸氏にこうした傾向が散見される。

さて、陸士28期には忘れてはならない人物があと二人いる。
一人目は宮崎少将が第17軍参謀長となるきっかけを作った人物で前任の第17軍参謀長だった二見秋三郎少将である。
二見少将は日本陸軍きっての智将としてガ島戦に於ける精緻な状況分析をしたが陸軍上層部に受け入れられず不遇な境遇に追いやられた。
そして二人目は松田大佐の前任連隊長である一木清直大佐だ。
精神主義で名高い一木大佐は盧溝橋事件勃発時、当事者の歩兵大隊長で勇名(悪名とも言える)を馳せた。
その後、日本陸軍としては最初にガ島へやって来て「泥沼のガ島戦」の端緒を作った人物である。
この様に陸士28期の4人はガ島戦で大きな役割を果たした。
ただしこの4人だけが「ガ島戦に参加した陸士28期の将校」ではない。
10月26日に戦死した歩兵第29連隊長古宮正次郎大佐の様に他にも陸士28期の将校はいる。
だが前述の4人はガ島戦の帰趨に大きな影響を与えたのである。


15.矢野大隊

松田大佐が実戦経験皆無なのは前述した通りである。
だが久留米第1予備士官学校の中隊長から大隊長要員としてラバウルに来た矢野桂二少佐は実戦経験が豊富であった。
矢野少佐は台湾歩兵第1連隊の中隊長として日華事変の武漢三鎮攻略作戦や海南島攻略作戦、南寧作戦などを転戦している。
歴戦の将校がベテランの兵士を引き連れた精鋭部隊は強いと誰もが考える。
だが果たして「いつでも強い」のだろうか?
確かに矢野少佐は歴戦の将校だが矢野大隊の兵士は実弾射撃訓練の経験が無い高齢の補充兵である。
だがガ島撤収作戦では巧みに戦い、見事に任務を果たした。
それに比べ一木支隊の基幹である歩兵第28連隊はどうであったろうか?
歩兵第28連隊はノモンハン事件に従軍した歴戦部隊である。
ノモンハンに於ける損害は参加兵力1770名、戦死568名、負傷675名に及ぶ。
負傷者のうち何名が退役したのは判らないが部隊全体として実戦経験が豊富なのは確かだ。
その一木支隊第1梯団916名は最初の交戦で約780名を失い壊滅した。
どうやら歴戦の精鋭部隊が「いつでも強い」とは言えないようである。

さて、1月14日にガ島へ到着した矢野大隊は16日午後の第17軍作戦命令により大隊主力は内陸部に布陣する第38師団、大江中尉が指揮する第1中隊(3個小隊を配属し増強)は海岸沿いに布陣する第2師団へ配属された。
これを受けて翌日、第38師団長は矢野大隊主力を歩兵第229連隊への増援に派遣する。
当時、ガ島の日本軍は第2師団を沿岸部、第38師団を内陸部に配置して米第25師団、アメリカル師団、第2海兵師団からなる優勢な米第14軍団(パッチ少将)と対峙していた。
この時点で既に緒戦時の強敵であった第1海兵師団はガ島を離れている。
だがガ島在陣の米軍兵力は1月7日の時点で5万名を越えていた。
それに対し日本軍の兵力は前年11月20日の時点ですら総兵力20671名(戦闘可能な兵員13325名)と劣勢(出典戦史叢書28巻付録)であり1月中旬の戦闘可能な兵力は1万名を割り込んでいたのである。
つまり2個師団対3個師団の戦いではなく兵力比1対5の戦いになろうとしていた。
重火器の数量差や弾薬の備蓄量などを考慮すれば実質的な戦力差は10倍以上と思われる。
なにしろ前年11月20日の時点で第17軍が保有していた100ミリ以上の火砲は15榴12門、10榴4門の合計16門に過ぎなかったが米軍の1個師団は野砲兵4個大隊編成で基本的な定数では105ミリ榴弾砲36門、155ミリ榴弾砲12門を保有している。
よって米第14軍団の火力は直轄砲兵部隊を除いても200門以上であった。
小火器の不足も深刻で矢野大隊だけは2月4日に人員570名(擲弾筒や軽機、重機、山砲の要員及び弾薬手も含む)で小銃344丁を保有していたものの歩兵第28連隊などは兵員300名に対し小銃は僅か56丁しか保有していなかった。
そして日米の戦力差は時間の経過と共に逐次、増大していった。

こうした状況下、米軍は1月中旬を期してアウステン山を攻略し漸次、西進して日本軍主力を包囲殲滅する事を目論んでいた。
アウステン山を守備するのは歩兵第124連隊(元の川口支隊)や歩兵第228連隊などである。
アウステン山の守備隊は大隊単位で次々と包囲されて壊滅し日本軍は後退のやむなきに至った。
ここに矢野大隊が到着したのである。
さて、日本軍の撤収計画だが第1次で第38師団、第2次で第2師団及び第17軍司令部と軍直轄部隊、第3次で矢野大隊や歩兵第28連隊(元の一木支隊)、歩兵第124連隊(元の川口支隊)などで編成された後衛部隊となっていた。
ガ島へ投入された部隊は一木支隊、川口支隊、第2師団、第38師団、矢野大隊の順序で上陸している。
つまり妙な事に撤収作戦では矢野大隊を除き順序が全く逆なのだ。
撤収は後になるに従って困難となり「第3次はほぼ絶望」と見られていた事は前述した。
よってこの撤収順序は大きな意味をもつ。

ここで第17軍の布陣に目を転じよう。
前述の如く沿岸部は第2師団、内陸部は第38師団が担当している。
そして撤収する乗船地域はカミンボとエスペランスである。
常識的に考えるなら前線では両師団及び各独立部隊が並列に展開して戦線を形成し米軍と対峙しているので各部隊から少しずつ撤収させればよい。
もしくはまず沿岸部の第2師団を第1次で撤収させ、同時に内陸部の第38師団を沿岸部に移動させてから第2次で撤収させる方法もある。
だが第17軍が決定したのは第1次で第38師団、第2次で第2師団という撤収順序であった。
いずれにせよ全部隊が乗船地域へ向かってただ後退すれば良いのではない。
当然、米軍の追撃を防ぐ部隊が必要となる。
よって後方へ下がりながら戦線を縮小し乗船地域へ向かう撤収部隊と戦線を維持する防御部隊で前線は錯綜した。

矢野大隊主力が前線の百武台に到着し陣地を構築したのは1月17日であった。
同日、第1中隊も前線の宮崎台に到着している。
そして翌日より1日1食に食事制限される。
当初、保有した食糧が10日分、これまでに4日分食べているので残り6日分を3倍の18日分とする為であった。
1月18日から18日後は2月5日である。
果たして矢野大隊が第3次撤収でガ島を後にしたのは2月7日であった。
もっとも撤収が本格化してからは備蓄してあった食糧の交付が多くなっていったので後衛部隊は極端な飢餓に陥らずに済んだのであるが。
さて、守備についた矢野大隊に対し米軍は迫撃砲の猛射を加えた。
この時点ではまだ第17軍による撤収機動命令は発令されていない。
よって指揮下の全部隊は前線ならびに後方で守備配置についている。
そして1月20日午前10時、第17軍は撤収機動命令を発令した。

内陸部にあった第38師団は沿岸部の乗船地域に向かい後退を開始、22日にはコカンボナを通過する。
ついで22日夜には第2師団にもコカンボナへの転進命令が下る。
第38師団の隷下にあった矢野大隊主力はコカンボナで第2師団の隷下に移り23日払暁より同地で陣地を構築した。
またここで第1中隊が矢野大隊主力と合流している。
更に23日早朝には後方から矢野大隊の山砲中隊が到着した。
土肥山砲中隊長は矢野大隊唯一の大尉であり次席指揮官である。
早速、5〜6発米軍へ砲撃を加えたところ数百発の反撃を受け砲撃を中止する。
この砲撃では米軍に損害を与えられなかったが後日の作戦に大きな影響を及ぼす。

24日夜、軍司令部から矢野大隊へママラへの転進が命ぜられる。
すぐに同地へ向かい陣地を構築する。
この様に夜間移動し陣地構築が繰り返されるが1日1食の給養状況で壕を掘るのは大きな負担となる。
ましてや将校はシャベルなどを携行しておらず鉄帽で掘らねばならない。
夜が明けるなり米軍は前日まで在陣したコカンボナへ猛砲撃を実施する。
23日に山砲を5〜6発撃った為、米軍は日本軍の前線に砲兵が進出している事を察知し安易に接近できなくなったのである。
充分な砲撃をした後の1400、米軍の偵察隊はコカンボナを占領してママラに接近、矢野大隊はこれを小火器火力で伏撃した。
米軍偵察隊の撤収後、米軍はママラへの砲撃を実施するが既に日没近くになっており大きな被害はでない。
ただし翌日は米軍からの猛烈な砲撃が矢野大隊を襲った。
そして昼にはやはり米軍偵察隊が出現し小火器の交戦となる。
今回も米軍偵察隊の撃退には成功したが明日、本格的な攻撃を受ければほぼ玉砕は必至の状況を迎える。
よって26日夜、矢野少佐は独断でコブ山までの後退し同地に陣地を構築した。
矢野大隊が守備したこれらの陣地は後方の司令部と伝令以外の通信手段を持たず独断で行動するしかないのである。

だがコブ山は地質が砂利で壕を掘りにくく防御に適した地形ではなかった。
27日は米軍がママラを砲撃、ついで偵察部隊が接近しいつも通りに経過した。
通常だと次の28日には米軍が猛砲撃を実施するはずである。
だが妙な事に小規模な偵察部隊が出現しただけであった。
ここで矢野少佐は米軍が密林を迂回して包囲して来る事を警戒し「もっと陣地構築に適した地点までの後退」を考え大隊副官を派遣する。
戦史叢書28巻530頁によるとこの時米軍は約400名の迂回兵力を進出させていたらしい。
そして同日夜、矢野大隊はボネギ川東方400mの地点まで後退し陣地を構築した。
29日、米軍はコブ山に猛砲撃を加え偵察部隊が同地を占領している。

やはり前日の後退は正解だったのだ。
だが翌30日、後方の司令部から大橋中佐が作戦指導に派遣されてきた。
29日夜の後退が第2歩兵団長の逆鱗に触れたのである。
第2師団の戦友会誌によるとこの第2歩兵団長は健常者なのに移動に際し担架の上に胡座をかいて運ばせる問題人物だったらしい。
その人物が戦況の推移を無視して死守に近い行動を命じてきたのである。
31日、米軍の砲撃及び偵察部隊の接近がいつも通りに実施された。
だがこの日はたった1両だけだが遂に米軍の戦車が出現した。
何故、1両だけなのか?
それは翌日、戦車による本格的な攻撃を実施する為、地形をテストするのが目的と思われる。
更にこの日の砲撃で山砲が損害を受け残りは1門となってしまった。
この状況で戦車を含んだ敵の猛攻を受ければ壊滅は免れない。

よって矢野少佐はドブ川への後退を決意し大橋中佐も同意した。
矢野大隊が同夜、ドブ川に到着した時、既に歩兵第124連隊の千々和隊(約60名)や第2師団の今井隊(約30名)、森田隊(50名)などが守備しており後方への有線通信も設置されていた。
ここで矢野少佐は後衛部隊に編入された事を知り松田大佐からドブ川陣地で5日間の死守を要請される。
そして大橋中佐は師団司令部へと去っていった。
第2次の撤収に参加する為である。
明けて2月1日、この日は二つの大事件が起こった。
ひとつめは同日夜に実施された第1次撤収である。
第1次撤収は当初、1月31日の予定であった。
しかし有力な米艦隊の接近によりレンネル島沖海戦が発生(米重巡シカゴ撃沈)し1日延期されたのである。
これによって第38師団が撤収した。
以降、日本軍の作戦は第2師団が乗船地域まで移動し後衛部隊が戦線を守る第2段階に移行する。

さて、ふたつめを解説する前に位置関係をおさらいしよう。
ガダルカナル島北岸の中部に米軍のヘンダーソン飛行場が所在するルンガがある。
その西方12kmの地点にあるのが1月24日まで矢野大隊がいたコカンボナだ。
そこから北西に7km離れたドブ川で現在、矢野大隊が守備している。
更に北西へ18km離れた所にあるのがエスペランスでそこから西へ6km離れたカミンボと共に撤収作戦の乗船地域である。
そのカミンボから南西に7km離れた所にあるのがマルボボだ。
2月1日、日本軍の不意をつき1個大隊(アメリカル師団の第132歩兵連隊第2大隊)がマルボボに上陸したのである。
日本軍がこれ以上、後退できない様に包囲する作戦であった。
かくしてガ島の日本軍は袋の鼠となった。


16.撤収作戦

ここで目を矢野大隊から撤収作戦全般に転じよう。
第1次及び第2次撤収はカミンボ及びエスペランスから駆逐艦による夜間撤収が前提であった。
よって成否の可能性はともかく予定通りに実施され成功した。
だが第3次撤収については陸海軍の思惑で差があり紆余曲折している。
まず成否だが「第17軍及び第2、38師団の撤収を援護する為に後衛部隊が編成されたが後衛部隊の撤収は誰が援護するのか?」と言う問題がある。
次に海軍では第1、2次はうまくいっても第3次は難しいから駆逐艦を出したくないと言う思惑もあった。
陸軍としても楽観視はしておらず第3次撤収は大いに困難と判断していた。
よって「後衛部隊が全滅する公算は大」としていたのは同じである。
ただし陸軍は「出来うる限りの手段を尽くしたい」と考えていた。
そこで陸軍は第1次の際、大本営から派遣されてきた井本参謀を第38師団と共に率先して撤収させた。
すぐに航空機でラバウルに送り海軍と第3次撤収を協議する為である。
井本参謀の回想録には2月2日のこの協議で海軍側は駆逐艦による撤収の中止を提案してきたと記述されている。

戦史叢書83巻は海軍側の見解によるガ島戦を軸としている。
その555頁では「松田大佐の指揮する矢野大隊外4部隊(約2000名)はルッセル諸島に舟艇機動する予定であった」と記述している。
駆逐艦を出して貰えないのなら後衛部隊は舟艇により独力で撤収するしかない。
よって同日夜、井本参謀(戦後、陸将)と杉田参謀(戦後、陸幕長)は海軍側を訪問し駆逐艦による第3次撤収を要請した。
戦史叢書28巻539頁によると翌日の2月3日、陸軍の第8方面軍参謀長がガダルカナルの現地部隊に対し第3次は駆逐艦2隻による撤収と連絡している。
だが2月4日、海軍は再び駆逐艦の派遣中止を提案し論議が蒸し返された。
論議の末、結局は派遣する事になったが陸軍側に相当の不信感が残った。

更に2月7日の撤収当日、海軍側は戦闘機の上空直衛が困難な為、駆逐艦の派遣中止を申し入れてきた。
これも折衝により解決したが第3次撤収部隊の作戦会議に於いて第8艦隊参謀長が「敵艦隊が出現した場合は撤収を中止して迎撃に向かう」と決定した。
米艦隊はしょっちゅう、ガ島周辺を遊弋しているのだから、これは事実上の撤収作戦中止に等しい。
そこで陸軍側は撤収の優先を要請し最終的には海軍側も同意するに至った。
ちなみに戦史叢書第28巻556頁によると第8艦隊参謀長は「第1次、第2次の撤収に於いてガ島の殆ど全部を撤収したのは大成功であり第3次はなし得たら実施するようになっている」とも述べたらしい。
こうした次第で陸軍側は第3次撤収で駆逐艦を出して貰えるのか不安であった。

舟艇でガ島に渡るのが困難なのは川口支隊の歩兵第124連隊がガ島に向かったアリ輸送で失敗した事により明白であった。
その時から状況は遥かに悪化している。
洋上の舟艇が夜間は敵の魚雷艇と駆逐艦、昼間は航空機によって壊滅するのは必至である。
それでも海軍が駆逐艦を出してくれないのなら藁にもすがる思いで舟艇による撤収を実施せねばならない。
陸軍側はこれを予測し第1次撤収の際、船舶工兵第3連隊長の松山中佐を駆逐艦でガ島に送り込んだ。
ただし松山中佐は現状での舟艇による撤収について「自信はありません」と後に松田大佐に告げている。
その理由のひとつとして大発の操作員が速成教育の臨時要員だった事が挙げられる。

ほぼ不可能な舟艇による撤収だが、いざと言う場合に備え検討が始まった。
まず大事なのは作戦計画と後衛部隊の人員数と必要な舟艇数である。
大発でブーゲンビルまで航海するのは絶望的なのでラッセル諸島に前進基地を設営しそこからは駆逐艦で輸送する事が決定された。
戦史叢書28巻545頁によると2月3日に第17軍が後衛部隊に指示した舟艇撤収計画は人員約1300名、必要舟艇は大発15を目途としていた。
これを受け松田大佐は松山中佐と検討し2月5日夜、第8方面軍参謀長に返電を送った。

その大まかな内容は以下である。
1.第2次の未乗船者や予定外の人員が増え撤収人員数が約2000名に増加する見込みである事。
2.現在の保有数は大発7、小発8、折畳艇20である事。
3.敵の銃爆撃が激しく7日までに大発は1〜2、小発は2〜3まで減少しそうである事。
4.大発以外の舟艇は外洋航行が殆ど不可能である事。
5.駆逐艦を最低3隻、できれば4隻送ってほしい事。
6.舟艇不足なので駆逐艦1隻につき大発1、小発2を用意してほしい事。
などである。

それでは大発の人員搭載量はどれくらいなのであろうか?
各資料で70〜80名となっているが70名としているのは陸戦史集「サイパン島作戦」と「マレー作戦」、戦史叢書1巻、大内健二著「輸送船入門」、世界の艦船506号、遠藤昭著「陸軍船舶戦争」などである。
80名としているのは亀井宏著「ガダルカナル戦記」、戦史叢書14巻、加登川幸太郎著「三八式歩兵銃」だ。
ついでに小発の搭載能力も記しておくと20名としているのが「世界の艦船」506号、30名としているのが戦史叢書1巻、戦史叢書14巻、「ガダルカナル戦記」で35名が「サイパン島作戦」と「マレー作戦」、40名が「輸送船入門」と「陸軍船舶戦争」となる。
この様に資料によってかなりの相違がある。
これは大発や小発に様々なサブタイプがある事と「どの様な状態の兵員を基準とするか?」で変化する為と考えられる。
1300名を大発15隻で運ぶとなると1隻当たり86名となる。
80名を若干オーバーしているが装備を失い痩せ細った将兵だから15隻で足りると第17軍司令部は判断したのかも知れない。
だが残存大発が1〜2隻では2000名のうち86〜192名だけしか撤収できず、この返電は「舟艇による撤収は不可能」と言ってるのと同じである。

ところで2月5日時点で後衛部隊本部は舟艇の現状保有数や人員数を正確には把握していなかったらしい。
それはこの後、かなり変動していくからだ。
そもそも、ガ島にどれだけの舟艇が送り込まれどれだけ損耗したのだろうか?
その数があまりにも多く実数は杳として判らない。
後方から多数の舟艇が輸送船、哨戒艇、敷設艦、水上機母艦に載ってやってきた。
駆逐艦に曳航されて来た大発もたくさんある。
自力でガ島に来た舟艇も若干はあった。
更に第1次、2次撤収に輸送任務で参加した駆逐艦も大発を各1隻曳航して来た。
後には改装によって後甲板へ大発を搭載出来る駆逐艦も現れたがこの時点では曳航するしか方法が無かった。
だが小発なら駆逐艦でも甲板に搭載できた。
撤収作戦で駆逐艦がどれだけの小発を搭載してきたか明確な総数は判らないが文脈からすれば輸送任務の駆逐艦1隻につき小発は約2隻と推定される。
加えて「陸軍船舶戦争」245頁には輸送任務の駆逐艦が折畳艇10隻を搭載したと記述している。
撤収任務の帰途は可能な限り全力で退避するので大発を曳航するとは考えられず揚収に時間のかかる小発、折畳艇も全てガ島へ残置したであろう。

だとすれば後衛部隊の舟艇保有数はかなりの数になるはずだ。
だが前述の様に2月5日の時点で大発7、小発8、折畳艇20に過ぎず7日までに大発1〜2、小発2〜3まで減少しそうであると報告している。
更に後衛部隊では保有舟艇だけだと約500名しか輸送できないから駆逐艦2隻(前述の3〜4隻と矛盾する)に大発2、小発4を載せてきて欲しいと言っており、これで400名の輸送を当て込んでいる。
大発の搭載能力を80名、小発を40名とすれば合計320名なので400名だと前述の如くオーバーする。
後衛部隊保有の舟艇数は恐らく大発2、小発3及び折畳艇と考えられる。

明けて6日の1535、第17軍参謀長から7日の第3次撤収は時間節約の為、後衛部隊は全舟艇に乗艇し駆逐艦到着時まで沖で待機せよとの命令が届く。
この時点で掌握していた舟艇数では、とても全員を輸送できない。
松田大佐は舟艇を往復させて輸送する為、駆逐艦を1時間、入泊させて欲しいと要求する。
そして1600、松田大佐は撤収命令を隷下各部隊に下達するがこの時点で人員は1577名に増えており舟艇数は大発6、小発6になっている。
よって後衛部隊を二分し最初に907名、2回目で670名を輸送する事にした。
ちなみに矢野大隊は1回目で300名、2回目で100名撤収する予定であった。
ただし駆逐艦が2回目まで待ってくれない場合、2回目のグループはラッセル諸島まで自力で航海せねばならなくなり、その覚悟をしていた。
だから矢野大隊の様に隷下諸部隊は全て1回目と2回目に二分されたのである。

だがその後、鬼塚部隊(迫撃砲第3大隊)や森玉部隊(速射砲第6大隊)など第2次撤収に遅れた部隊が続々と到着し人員数はどんどん増えていった。
ただしどういう訳か舟艇数も大発15隻、小発11隻に増えた。
恐らく掌握していなかった舟艇が続々と見つかったのだろう。
当初から多数の大発が存在していた事を後衛部隊が隠していたとも考えられる。
なにしろ松田大佐は米軍の砲撃が相当激しくなっても海軍が撤収作戦を中止しないように「平穏ニシテ変化ナシ」とか「戦場静穏ナリ」とか後方司令部に報告(戦史叢書に記載されている松田大佐の述懐)しているくらいなのである。
真相は判らない。
さて、これだけの舟艇数があれば大発80名、小発40名のカタログデータで考えても1640名、若干の積載オーバーや折畳艇を加味すれば約2000名での一挙、撤収が可能となる。
よって松田大佐は急遽、一挙撤収に方針を変更した。

なお、後衛部隊の指揮官は松田大佐が任命されたが山本築郎少佐の回想録によると当初は前述の第2歩兵団長が予定されていたらしい。
第2師団の参謀であった松本博中佐の回想録でも同様である。
だが第2師団側が任命を拒否した為、1月23日になってから急遽、松田大佐が選ばれた。
ちなみに山本少佐は後衛部隊の参謀として第3次で撤収している。
山本少佐は戦後、陸自に入って陸将補まで昇進し第1通信団長になった。

ここで話を2月2日まで戻そう。
この日、矢野少佐はドブ川陣地にいたが敵の動勢は緩慢であった。
通常は猛砲撃の後、米軍偵察部隊が接近し日本軍の後退が確認されると占領に移る。
そして占領後、米軍偵察部隊は日本軍に接敵するまで前進するのが通例であった。
だが米軍はドブ川陣地の前面から動こうとせず小規模な斥候を出すだけで砲撃も激しくは無かった。
米軍は2月1日にアメリカル師団第132歩兵連隊第2大隊を日本軍後背のマルボボへ上陸させているので、この部隊が堅固な陣地を構築するまで大規模な戦闘を生起させたくはなかったのである。
もし、この時点で全面攻勢を発起すれば矢野大隊は後退するであろう。
そして日本軍全体が後退すると第132歩兵連隊第2大隊に重圧が加えられる。
たった1個大隊で日本軍の退路を絶つには相当の堅陣に籠もらねばならない。
そうでなければ折角、大攻勢を実施しても日本軍の後退を許し殲滅の機会を逃してしまう。

2月3日も米軍の動勢は緩慢であったが同日0630、矢野少佐はセギロウ(アルリゴとする資料もある)の後衛部隊本部に来る様に松田大佐から命じられた。
矢野少佐は朝食後に出発し後衛部隊本部で松田大佐から5日まで現在の陣地を固守した後、健常者70名(矢野少佐の記憶では80名)を残置して後方に転進せよとの命令を受けた。
これに対し矢野少佐は全兵力で転進するか現陣地での死守を主張している。
だが松田大佐はこの主張を受け入れず矢野少佐はやむなく陣地に戻った。
なおこの時、松田大佐は矢野少佐に昼食を振る舞ったのだがそれは「すき焼き」だったらしい。
生肉の入手は不可能なので恐らく缶詰肉と乾燥野菜で調理したと推定されるが多分、最後の宴と考えたのであろう。
守備陣地に帰隊した後、矢野少佐も大隊の将兵に現在、保有している糧食を心おきなく食べる様に指示している。
ところで矢野少佐は内心、転進命令に従わず全兵力で死守するつもりであった。
しかし1時間後、松田大佐は命令を変更し矢野少佐に健常者は全て転進する様に命令変更したのである。
かくして矢野大隊の健常者は全て撤収できる事になった。

そして2月4日夜、矢野大隊は後退を開始した。
だが、それでは誰が戦線を守るのであろうか?
歩兵第124連隊の宮野政治中尉が指揮する傷病兵のみが残置されたのである。
その数は約100名とも128名(松田大佐の日誌)とも数百名とも伝えられる。
矢野大隊をはじめとする後衛部隊の諸部隊は敢闘しケ号作戦を見事に成功させた。
その功績は高く評価されねばならない。
だが後衛部隊の撤収を守った傷病兵達はガ島の土となり帰れなかった。
よって我々は彼等の功績と無念を決して忘れてはならない。
さて、松田大佐であるが矢野大隊が本部を通過した後の2月5日、セギロウを0400に出発しカミンボへ1500に到着した。
つまり20kmの移動に11時間を要している。
ガダルカナル戦記によると第17軍が策定した「松田部隊指導要領」では後衛部隊本部の位置を2月3日タサファロング、4日セギロウ、5日中間点、6日カミンボと予定していた。
つまり後衛部隊本部は本来2日間の行程を1日で移動し予定より1日早くカミンボに到着したのである。

この様に作戦計画は現場の判断で常に変更されるので記述されている事をそのまま信じてはならない。
戦史叢書28巻456頁の「総後衛部隊撤退計画」では指揮下に戦車中隊(2両)が明記されている。
だが独立第1戦車中隊の部隊史だと同部隊は第2次撤収でガ島を去っている。
更に部隊史によると戦車保有数は1両である。
戦史叢書28巻付録に於ける11月20日時の兵力でも1両となっているので総後衛部隊撤退計画に於ける戦車2両は誤記と思われる。


17.最終局面

1942年8月7日に実施された米海兵隊第1師団の上陸によって始まったガダルカナルの戦いは1943年2月7日でちょうど半年を迎えた。
ガダルカナルの戦いは損害の甚大さで日露戦争の旅順攻囲戦と比肩されるが旅順攻囲戦も約半年で勝敗が決している。
だが要塞の陥落により勝利で終わった旅順戦に比べガダルカナルは凄惨な敗北で幕を閉じた。
2月7日、そのガダルカナルで日本軍による最後の作戦が実施された。
第3次撤収である。

この最終局面に当たりマルボボ正面を守備していたのは約130名の独立速射砲第9中隊と臨時に集成された約50名の彦坂部隊であった。
セギロウ正面を守っていたのは前述の宮野部隊でやや後方のアルリゴには約50名からなる歩兵第230連隊第3大隊が控えていた。
宮野部隊を除くこれらの部隊には撤収時刻ぎりぎりまで守備する事が求められた。
もしも撤収時刻が予定より早まればこれらの部隊は残されたままとなる。
よって後衛部隊の各級指揮官は非常に際どい判断をせねばならなくなった。
さて、前述の様に多数の舟艇が確保できたので第3次は全員乗艇のうえで沖に待機し駆逐艦の到着を待つ事になった。
駆逐艦の到着予定時刻は2100である。
第3次撤収の経過については各資料でかなりの相違があり撤収した人員数にしても戦史叢書77巻では1796名、83巻とウィキでは2249名、28巻では1972名(ただし570頁では1796名)と異なっている。

当初の予定だと第3次の撤収兵力は1577名の予定であった。
その内訳は歩兵第28連隊(元の一木支隊)が130名、歩兵第124連隊(元の川口支隊)が300名、矢野大隊が400名、その他が747名である。
だがこれらの予定兵力より多くの将兵が加わり最終的には約2000名(最大では2249名)にまで増加した。
2249−1577=672名である。
戦史叢書28巻571頁には各部隊の撤収人員数が記載されているのでチェックしてみよう。
まず歩兵第28連隊だが撤収人員数は264名となっている。
これは前述の130名の2倍以上だ。
次に歩兵第124連隊だが撤収人員数は618名となっており前述の300名のこれまた2倍以上である。
矢野大隊の撤収人員については300名とも400名ともされるが2月4日以降は大規模な交戦をしていない事と予定時点でも400名である事、2月3日の時点で570名である事から500名前後と推測される。
上陸以来、矢野大隊は兵力の1/3を失っているがガ島に投入された他の部隊に比べると損害は至って少ない。
何よりも矢野大隊が敢闘し多くの功績をなした事は特筆に値する。

それでは各資料に於ける時間経過の相違を記述しよう。
戦史叢書28巻では乗艇開始時刻が1930で2015に乗艇終了、2100に駆逐艦の艦影を視認して舟艇が発進し2203に乗艦を終え2220に駆逐艦が帰投としている。
これに対し83巻だでは駆逐艦の到着を2120、作業終了を2302としており77巻では駆逐艦の到着が2130である。
ガダルカナル戦記では到着が2120、作業終了が2300となっている。
この様に資料によって若干の差異が見られるのだが、いずれにせよこれで乗り遅れたらもはや帰国はかなわない。
そこで大部分の舟艇が沖に出ても吉田中尉が指揮する小発2隻だけは浜辺で待機しぎりぎりまで落伍者の到着を待った。
2050、最後の2名(歩兵第16連隊の中尉と伍長)が乗艇し2130に小発はガ島を後にした。
こうしてガ島に於ける日本軍の作戦行動は幕を閉じたのである。

戦史叢書28巻ではガ島に投入された陸軍部隊の総数を31358名としている。
ウィキによる日本軍の総兵力は36204名だ。
この差が海軍部隊の投入兵力と考えられるが実数があまり明確でない。
それは海軍のガ島在陣兵力が流動的だからだと考えられる。
海軍のガ島在陣兵力は「米軍のガ島上陸以前から存在した設営隊、航空部隊、陸戦隊」に「その後に加わった部隊」及び「漂着した艦船、航空機の乗員数」から「撤収以前に帰還した人員数」を除いた数となる。
この「漂着した人員数」がかなり多くそれらは撤収以前、優先的に帰還した。
よって海軍のガ島在陣兵力は流動的であり不明確なのである。
こうした事情からガ島への投入兵力、損害及び撤収兵力の集計は陸軍のみで集計される場合が多い。

なお、1942年11月20日時点での海軍兵力は戦史叢書28巻の付録によると1593名(おそらく漂着者は含まれない)であった。
最終的に撤収した海軍の将兵数は戦史叢書28巻571頁などでは848名、戦史叢書83巻568頁では994名と記載されている。
陸軍部隊で撤収前に帰還した兵力は戦史叢書77巻によると740名である。
撤収した陸軍兵力は第1次から第3次を合わせ戦史叢書28巻では9817名、77巻では9800名、83巻の合計では11846名であった。
よってガ島で失われた陸軍将兵数は31358−740−撤収数=18772〜20818名と考えられる。
28巻や77巻では戦死5〜6000、戦病死1万5000としている。
ただし28巻571頁の表(宮崎参謀長の回想)では戦死12507、戦傷死1931、戦病死4203、行方不明2497、合計21138名である。

さて、撤収作戦中、前線を支えていた患者達はその後、どうなったであろうか?
戦史叢書28巻545頁によると撤収に際し「患者は絶対に処置する事」と「残留者は機密書類を残さないようにして敵が来たら自決する事」が軍司令官の意図として伝達されたとしている。
この処置とは衛生的処置ではない。
また511頁では第38師団の後退機動命令として「独歩し得ざる者を敵手に委せざる為、武士道的見地より非常処置を講ずべし」となっている。
更に546頁では「各人に昇汞錠(毒薬)2錠を分配す」と記載されている。
83巻554頁には「第17軍司令部が最も苦心したのは企図の秘匿、各部隊長の部下掌握及び単独歩行不可能者の処分であった。」と記載されている。

なお、井本参謀の回想では1月19日の時点で約12000名の人員がガ島に展開していたが撤収したのは約9800名であり約2200名の差がある。
この約2200名が処置された傷病兵かも知れない。
ただし戦史叢書83巻では撤収人員を11846名としている。
この数値が正しいのなら「処置」は殆ど無かった事になる。
高松宮日記6巻によると大本営ではガ島からの撤退兵力予想を1万5千、引キアゲタルモノ約1万2千としており3000名が処置されたとも考えられる。
だが、撤収前の人員が約1万5千、撤収人員が約9800なら消えた人員は5千200名に膨れる。
米軍に撤退を察知されず戦線を守りきったのだから、それなりの兵力(歩行不可能な傷病兵)が前線に存在したと推測されるがその数は杳として知れない。

それらの兵はどうなったのであろうか?
命令が遂行され自決したのであろうか?
米軍の捕虜となったのであろうか?
秦郁彦著「日本人捕虜」の上巻ではガ島での捕虜を約900名としている。
だがこれは陸上部隊以外も含んだ人数である。
ガ島で捕虜となった将兵は一部の例外を除きニュージーランドのフェザーストン収容所に送られた。
下巻ではフェザーストン収容所に於ける捕虜の人数が詳細に記述されている。
1942年12月18日の時点で総員684名(軍属483名)と入院者32名であったが1943年2月25日、同収容所で大規模な暴動が発生した。
その時の捕虜は総計868名だったが軍属約500名、艦艇乗員175名、航空機搭乗員28名、所属不明28名で陸軍の将兵は僅か137名であった。

なぜこの様に陸軍の捕虜が少ないのか?
捕虜になる事を潔しとせず戦陣訓に従い自決したからなのか?
確かにそうした事もあったろう。
だが「日本人捕虜」下巻434頁に記載されている様に当時の米軍地上部隊は投降した日本兵を捕虜とせずその場で殺してしまったらしい。
そこで捕虜による情報を欲していた米軍情報部は前線部隊に「捕虜を確保した者にはアイスクリームと3日間の休暇を与える」と通達し捕虜の獲得を奨励した。
だが捕虜となる日本兵は少なく米軍は1月から宣伝ビラによる投降勧告を開始、同月末までに84名が投降している。
最後の捕虜は3月25日(伝聞としては1年半後や終戦から2年後もある)だが日本軍の撤収作戦後に捕虜となった例は少数である。
陸軍の捕虜総数137名から撤収前の捕虜数84名を引くと53名にしか過ぎず、やはり多くの傷病兵は自決したと考えられる。

さて、ガ島戦で日本が敗北した主因はどこにあろうか?
作戦指導上の問題や齟齬、兵力の格差などは多くの文献で詳述されている。
制海権や制空権の奪取に失敗し補給が途絶したのは一大痛恨事であったろう。
補給の途絶が如何な影響を及ぼしたかは本稿で述べた。
だが私は他にも2点、大きな問題があったと考えている。

ひとつは輸送/移動力の枯渇である。
第2師団は輓馬編成の3単位常設師団なので通常であれば兵員数約14000名、輸送には馬匹数約6000頭もしくは自動車約660両を必要とする。
1個師団が作戦するには多大な輸送力が必要となる。
だが第2師団が保有する馬匹及び自動車はガ島に上陸していない。
人員と兵器だけがガ島へ輸送され第2師団や第38師団の馬匹はラバウルの牧場に放牧されたのである。
土井全二郎著「軍馬の戦争」によるとその数は約3000頭とされる。
よって第2師団の輸送は人力に頼るしかなかった。
糧食が充分にあれば人力搬送も限定的には可能だ。
しかしその糧食が枯渇しているので人力搬送もままならなくなってしまった。

仮に馬匹をガ島へ送ったとしてもその糧秣が確保できない。
馬は草食動物だが飼い葉以外に穀物を1日に馬体重の0.6%を必要とする。
野砲牽引用の輓馬で体重は1t、駄馬でも500kg位はあるから1頭につき3〜6kgの穀物が毎日消費される。
人間すら餓死するガ島で馬匹を維持するのが不可能なのが御理解頂けよう。
馬を食べるなどは本末転倒である。
その様な事をするくらいなら馬の代わりに糧食を輸送すれば良いのだから。
大発の搭載力は馬匹10頭だが物資なら12tを積める。

次に車両だが揚陸方法が確立されていれば相当の効率が期待できる。
叢書28巻571頁にガ島で損耗した陸軍の装備として自動貨車130両が記載されている。
ただしこれは海没も含んだ数値である。
同書の付録による1942年11月20日時点の戦力表によると車両類は牽引車21両、トラック3両しか記載されていない。
この数値には記載漏れがあると考えられる
だがガ島の日本軍でトラックが極度に不足していたのは間違いない。
それに比べ米軍は豊富に自動車を装備していたうえ当初、ガ島に在陣していた日本の海軍部隊から可動トラック35両を鹵獲している。
ちなみに日本陸軍の保有車両で牽引車が多いのは、さすがに重砲を人力で搬送するのは不可能なので日進などで輸送したからである。

ふたつめの問題は通信の不備である。
米軍がガ島に上陸し海軍部隊が敗走してからは後方のラバウルと連絡が途絶した。
そこで現地の情報を察知する為、8月12日に航空偵察が実施された。
だが偵察機に同乗した海軍の松永参謀が極度に楽観的な報告を行い、これにより日本軍上級司令部の誤判断を招いた。
更に同日、ガ島沿岸を航行する呂33がガ島に設置された複数の見張り所と無線通連絡に成功した。
これらの見張り所とラバウルが無線による直接通信をするのは非常に難しかった。
そして8月18日、6隻の駆逐艦によって一木支隊がタイボ岬に上陸しルンガの米軍飛行場に向けて進撃を開始した。
戦争叢書14巻299頁には一木支隊と後方司令部の通信は海軍の無線に依存すると協定が結ばれていたと記述されている。
この為、駆逐艦陽炎、嵐、萩風が現地に残された。
だが8月19日に萩風はB17の爆撃で損傷し嵐に曳航され戦列を去った。
更に陽炎も燃料不足の為、ショートランドへ帰還したので通信の中継が出来なくなってしまった。

そして21日未明より繰り広げられた激戦で一木支隊は壊滅したのである。
生き残った榊原中尉が海軍の見張り所に送信を依頼した通信は奇跡的にラバウルへ届いた。
ところがラバウルではこの電文を誤報と考え詳細情報を得ようとしたが通信状況が悪くいっこうに状況を掌握できなかった。
25日になって前述の電文の発信元が判明し一木支隊の壊滅が確認された。

以降、ガ島戦では終始、通信による齟齬が発生し上級司令部の判断を迷わせた。
人数が多く糧食が不足しているとか、現有火砲と輸送されてくる弾薬が一致しないとか、戦況が悪化しているのに後方ではそれを認識できていないとか、様々な障害が通信の不備によって生じた。
海軍の松永参謀や陸軍の辻参謀の様な「出鱈目な報告」がそれに輪を掛けた。
「ミイラ取りがミイラになる」ようにガ島に来なければ現状を認識できず、現状を認識した時には後方司令部へ現状を報告する方法を失うのである。
戦史叢書28巻281頁で10月9日にガ島へ進出した第17軍司令官は川口支隊が餓死に瀕している状況を知り人員の輸送をやめ糧食及び弾薬のみの急送をラバウルへ依頼したがこの状況報告は無線ではなく参謀が帰還する時に携行した。

高温多湿で電池が消耗したのも無線が使用できなくなった大きな理由とされる。
これらの要因によってガ島戦は泥沼の様相を呈したのである。
ちなみにガ島戦を統帥した百武第17軍司令官は陸軍通信学校長や通信兵監督を歴任した陸軍きっての通信のオーソリティであった。
それにも関わらずこうした事態を招致したのはどこに原因があったのだろうか?
元来、日本陸軍は無線より有線による通信を重視していた。
その理由として有線であれば秘匿性が高い事、基本的に予想戦場が対ソ連、対中国の大陸であった為に有線で問題が無かった事、科学技術で遅れた日本陸軍にとって無線が「高嶺の花」であった事などが挙げられる。

太平洋戦争では玉砕した戦例が多い。
それに比べガ島戦は見事な撤退作戦で幕を閉じたので「玉砕しなかっただけ幸運だった」とする見解を散見する。
だがガ島では自軍の傷病兵に自決を要求したのである。
「自力での歩行不能な傷病兵」と如何なる状態を指すのか?
一歩も歩けない状態なら明白だが乗船泊地まで歩行できるのか、できないのか。
それはやってみなければ判らない事であろう。
そうした状況で部下を「歩行可能な者」と「歩行不能な者」に区分せねばならない指揮官の苦悩はいかばかりか。
かくしてガ島戦では玉砕とは異なった悲劇が生じたのである。

なぜこうした事態になったのか?
それはひとえに戦陣訓の存在が大きいと考えられよう。
徹底作戦は成功裡に終わったが帰れる者と残される者で大きな明暗を分けた。
よってガ島からの帰還者は口を閉ざす場合が多い。   (了)