阿部隆史執筆記事I
『世界の艦船』2016年1月増刊 第2次大戦のアメリカ軍艦
 『第2次大戦時の米ナンバー艦隊


1939年9月1日の第2次世界大戦勃発から1945年8月15日の大戦終結までの間、米海軍の艦隊編成は多くの変遷を辿った。
参戦前に米海軍が構想していたオレンジ計画は真珠湾奇襲によって脆くも瓦解し「如何に柔軟に現状に対処するか?」と言う視点で全ての編成を練り直さなくてはならなかったからである。かくして試行錯誤の内に米海軍は特異な「司令部交代制艦隊」を編み出したのだがこれは最終的な戦争勝利に大きく寄与した。
本稿は大戦に於ける米海軍艦隊編成の中でナンバー艦隊に焦点を当てて論述する。


「オレンジ計画」
1906年に着手されたオレンジ計画(対日戦争計画)に従い米海軍は逐次、編成を変えていったが最初に大きな変動要因となったのはワシトン条約の締結であった。
これにより当面の日米武力衝突が回避された為、米海軍は1922年12月6日に太平洋艦隊と大西洋艦隊を統合して合衆国艦隊を創設した。
この合衆国艦隊の特徴は有力な戦闘艦を主力とした戦闘艦隊と旧式艦と警戒艦艇を主力とした偵察艦隊に兵力を二分し戦闘艦隊を太平洋、偵察艦隊を大西洋に配備した点にある。
なお偵察艦隊は1930年に偵察部隊と改称し戦闘艦隊は翌年、戦闘部隊と改称された。
戦間期、米海軍は攻勢に軸を於いたオレンジ計画の研鑽を積みルートの開拓を模索したが米陸軍は終始、オレンジ計画に対し批判的であった。
その理由はオレンジ計画が国際政治状況の変化を考慮しておらず常に対日単独戦の想定しかなかったので柔軟性に欠けていたからである。
1930年代後半になるとナチスが台頭し欧州の国際政治状況が次々と変転していった。
これに対応する為、1939年1月に戦艦3隻と空母1隻を基幹とする大西洋戦隊が創設された。そして1939年9月に第2次世界大戦が勃発し戦局が悪化するにつれ大西洋方面への兵力増強は拡大し1941年2月には大西洋戦隊が大西洋艦隊へと昇格する。
初代大西洋艦隊司令長官は航空部隊出身のキング大将であった。

一方、対日戦の主軸となる太平洋では戦闘部隊司令官であったリチャードソン大将が1940年1月に合衆国艦隊司令長官へ昇進しスナイダー大将が戦闘部隊を引き継いだ。
リチャードソン大将はミラー著「オレンジ計画」によると「海軍史上、これほどオレンジプランを嫌った将校はいない」と批評される程の反オレンジ計画派である。
だがルーズベルト大統領は日本の南方進出を牽制する為に合衆国艦隊のハワイ進出を命じリチャードソン大将はこれに激しく反対した。
反対した理由は日本を刺激する危険性と脆弱な前進根拠地に艦隊主力を在泊させる危険性であったがはからずも彼の予測は真珠湾奇襲によって現実の物となった。
大統領は彼の意見を受け容れず1940年1月、リチャードソン大将とスナイダー大将は罷免されキンメル大将が合衆国艦隊司令長官に就任した。
同時に太平洋艦隊が新設されたがキンメル大将の兼任となり、戦闘部隊司令官(太平洋艦隊設立の為、中将ポストに降格)にはパイ中将が任命された。
なお戦間期の米海軍では太平洋艦隊と大西洋艦隊が創設されるまで大将ポストは作戦部長、合衆国艦隊司令長官、アジア艦隊司令長官、戦闘部隊司令官の4名だけであり最古参はアジア艦隊司令長官のハート大将であった。
アジア艦隊は兵力は微少ながら合衆国艦隊に隷属しない独立部隊で他国との外交交渉、紛争などに直面する可能性が高く平時に於いては非常に職責の重要度が高かった。

こうした状況の中で1940年6月、大きな衝撃が米海軍上層部を襲った。
ドイツ機甲部隊の電撃戦によるフランス降伏である。
この事件が大西洋艦隊設立の直接的な要因となったのだが前掲のミラー著「オレンジ計画」によると「英仏艦隊がナチスドイツの手に落ち南アメリカへ送り込まれると言うぞっとする様なシナリオ」が統合計画委員会で検討され大西洋方面への兵力拡充は更に増大した。
かくして1941年7月の段階では全空母の半数、全戦艦の4割、巡洋艦の半数弱が大西洋艦隊へ配属され太平洋はがら空きに近い状態となった。
それにも関わらず大統領は戦艦3隻の大西洋回航をキンメルに要請したがさすがこれは断られた。また米国の主要造船所と海軍工廠が東部にある為、新造戦艦は常に大西洋で慣熟訓練を行ったので開戦時に太平洋艦隊が保有していた戦艦数は全体の半数となっていた。
元来、オレンジ計画は米本国を出発する船団を合衆国艦隊が守り圧倒的な対日兵力優位を背景に島嶼地域を順次攻略して兵力を推し進める予定であった。
スケジュールは計画年度で変動するが一例を挙げると開戦から3月でマーシャル諸島、半年でカロリン諸島、1年で南西諸島、1年半で奄美、約2年で戦争終結を目指している。
これらの計画は開戦と同時に動員を開始、部隊が集結したら逐次、乗船して前線へ向かうのだが「当初から戦艦数が日本より少ない」と言う想定は全く考慮されていなかった。
真珠湾奇襲で太平洋艦隊の戦艦陣は壊滅的な打撃を受け米海軍の戦争計画は頓挫したとする説を散見するがオレンジ計画はフランスの降伏で既に瓦解していたのである。


「戦域部隊」
1941年末から翌年初頭にかけワシントンDCでアルカディア会談が開催され度重なる敗走で破綻した戦局を挽回すべく討議が行われた。
この会談で決定した事項に連合参謀本部CCS(Combined Chiefs of Staff)の設立がある。
米英の最高戦争指導機関となる連合参謀本部は既定の戦争計画を破棄して両国の利害を調整し次々と戦域司令部を設立していった。
1942年4月3日、まず最初に太平洋戦域部隊が創設された。
司令官は真珠湾奇襲の敗北で罷免されたキンメル大将に代わり米太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将の兼任であった。
合衆国艦隊司令長官にはキング大将が就任(大西洋艦隊司令長官はインガーソル大将が昇進)し1942年3月からキング大将は作戦部長も兼任した。
太平洋戦域部隊(司令部ハワイ)の担当地区は太平洋中部全域である。
ついで4月18日、南西太平洋戦域部隊(司令部濠州ブリスベン)が創設された。
担当地区は濠州及びニューギニア、蘭印、フィリピンで司令官は米陸軍のマッカーサー大将、海軍部隊指揮官はリアリー中将(9月11日にカーペンダー中将と交代)である。
更に二日後、上記の2戦域部隊の境界に位置する南太平洋戦域部隊が創設された。
担当地区はソロモン諸島南部、ニューヘブリディス諸島、ニューカレドニア、フィジー諸島、サモアで反攻の端緒となるガダルカナルを含んでいた。
司令官は米海軍のゴームレー中将(司令部ニューカレドニア)で海軍部隊指揮官を兼任しており太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将とは隷属関係にあった。
ただし彼は前線勤務での憔悴が著しく10月18日にはハルゼー中将と交代している。
5月17日に創設された北太平洋戦域部隊はアラスカと北海道を含む北太平洋を担当地区としており司令官は米海軍のシーボルト少将が任命された。
海軍部隊指揮官が戦域部隊司令官の兼任であった事と太平洋艦隊司令長官と隷属関係にあった事は南太平洋戦域部隊と同じである。
シーボルト少将も1943年1月4日にはキンケード少将と交代させられた。
南東太平洋部隊も存在したが大変、小規模なので割愛する。
戦域部隊の設立からナンバー艦隊の設立までのおよそ1年間、米海軍の水上艦艇部隊は臨時的な任務部隊(タスクフォースTask Force)や任務群(タスクグループtask groups)を編成し各戦域部隊の指揮下で作戦に従事させた。
この間に発生した主な海戦は珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第1次ソロモン海戦、第2次ソロモン海戦、サボ島沖海戦、第3次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などである。


「ナンバー艦隊の創設」
戦域部隊司令部は戦域内に所在する陸軍、海兵隊などの陸上部隊、基地航空隊などの航空部隊、艦船や港湾関係の海軍部隊、兵站部隊など多岐に渡る兵力を指揮せねばならない。
よって戦域司令部は大勢の幕僚を擁し強力な通信能力が必要とされる。
一方、洋上で作戦行動する任務部隊の数が少なければ陸上に所在する戦域部隊司令部の指揮下であっても作戦可能だが多数の部隊が同時に行動すれば大きな困難を生ずる。
複数の任務部隊を統括する上級司令部が存在しなければ作戦に齟齬をきたすからだ。
更に上級司令部は洋上にあって任務部隊と共に行動できねばばならない。
そうでなければ柔軟な対応は出来ないからである。
膨大な幕僚を抱える戦域司令部を洋上で行動させる訳にはいかず1943年3月15日、キング大将を中心とする米海軍首脳部はナンバー艦隊の編成に着手した。
基本的には各戦域部隊司令部に所属する戦域海軍部隊指揮官及び幕僚をナンバー艦隊司令部に再編するのだが注意せねばならないのは戦域部隊司令官と戦域海軍指揮官が兼任であった場合で南太平洋戦域部隊と太平洋戦域部隊がこれに相当する。
3月15日に南西太平洋戦域部隊から第7艦隊、南太平洋戦域司令部から第3艦隊が編成されたが第3艦隊はこの問題により当面、洋上に出られなかった。
問題が解決したのは1944年6月15日にニュートン中将が南太平洋戦域部隊司令官に就任しハルゼー大将が第3艦隊司令長官の専任となってからである。
太平洋戦域部隊では新司令部の創設でこの問題を解決した。
ただし司令長官に予定されたスプルーアンス提督の階級がまだ少将だった為、当面はナンバー艦隊とせず第50任務部隊として編成された。スプルーアンス少将は1943年5月30日に中将へ昇進し8月には太平洋部隊海軍指揮官に就任したが第5艦隊が正式に編成されたのは1944年4月26日になってからであった。
北太平洋戦域部隊ではしばらくの間、活発な海上作戦を行う予定がなかったのでナンバー艦隊の編成は見送られた。


「二人の御者」
当初のナンバー艦隊は戦域部隊の海軍部隊指揮官が指揮を継承しただけであったので大きな変化は見られず各戦域部隊の域内で同時に個別の作戦行動をとった。
例を挙げると南太平洋戦域部隊は1943年6月末から7月にかけて米空母サラトガSaratogaと英空母ビクトリアスVictoriousからなる第36.3任務群(ラムゼー少将)をニュージョージア上陸(カートホイール作戦)の航空支援に投入し直後の8月には北太平洋戦域部隊が旧式戦艦3隻を基幹とする兵力でキスカ上陸(コテージ作戦)を実施した。
更に8月末からは太平洋戦域部隊が新造のエセックスEssex級空母とインディペンデンスIndependence級軽空母によって編成された第14任務部隊(モンゴメリー少将)や第15任務部隊(パーナル少将)などの高速空母部隊(後に第50任務部隊として糾合)でマーカス島、ギルバート諸島、ウェーク島などを次々と空襲している。
これらの作戦に投入された任務部隊、任務群のナンバーは基本的に十の桁が艦隊ナンバーと同一であった。つまり第36.3任務群であれば多くの場合、第3艦隊(すなわち南太平洋戦域部隊)の所属と考えて差し支えない。
なお、同年11月11日には本来、太平洋戦域部隊に所属する空母エセックス、バンカーヒルBunker Hill、インディペンデンス基幹の第50.3任務群(モンゴメリー少将)が南太平洋戦域部隊へ臨時編入され空母サラトガ、軽空母プリンストンPrincetonを基幹とする第38任務部隊(シャーマン少将)と共にラバウルへ協同攻撃を行っている。臨時編入された部隊は常に二つの上級司令部の意を汲まざるをえない。
よってこうした事態の頻発は指揮統制上、大きな問題の問題となろう。
それがあってか1943年12月末、ニミッツ大将とキング大将が協議し新たな艦隊運用構想が立案(1985年出版ポッター著「キル・ジャップス!」419頁参照)された。
すなわち米海軍主力艦艇の大部分を集めた大洋艦隊(Big Blue Fleet )とする大艦隊を編成し第3及び第5艦隊司令部が交互に指揮を担当すると言うシステム(1975年出版ポッター著「提督ニミッツ」では1944年5月5日にクック少将がこのシステムを発案したとあるが同一著者で説が異なる場合は近年刊行書の方が信頼できる)である。
長期的な作戦が終了し空き番となった司令部は米本土で休暇をとった後、ハワイの太平洋艦隊司令部で次々回作戦の研究と計画作成に従事する。
「1台の馬車に2人の御者」と呼ばれるこの艦隊運用によって作戦と作戦の間に生ずる時間的ロスは大幅に節約できると考えられた。
ただし交互に指揮をするのは第3と第5艦隊だけであり第7艦隊は含まれていなかった。

第7艦隊は米陸軍のマッカーサー大将が指揮する南西太平洋戦域部隊に所属しており米海軍のニミッツ大将の指揮する太平洋艦隊の指揮下になかったからである。
だが第7艦隊が常に独自の艦船を保有し作戦行動をとっていた訳ではない。
後述するが第7艦隊の艦船は頻繁に第3もしくは第5艦隊へ所属変更していた。
司令部交代制の決定後、最初に実施された作戦は1944年1月末から2月上旬にかけて実施されたエニウェトク攻略(キャッチポール作戦)及びクェゼリン攻略(フリントロック作戦)である。これらの諸作戦はまだ第5艦隊となる前の第50任務部隊司令部の指揮で実施されスプルーアンス中将の将旗は重巡インディアナポリスIndianapolisに掲げられた。スプルーアンス中将は2月16日に大将へ昇進し続いて2月17日に実施されたトラック空襲(ヘイルストーン作戦)では将旗を戦艦ニュージャージーNew Jerseyへ移している。第58任務部隊(ミッチャー少将)によるトラック空襲で日本は多数の商船を撃沈され航空機も300機以上を失った。その後、将旗は再びインディアナポリスに戻り6月中旬に実施されたマリアナ攻略(フォリジャー作戦)では正式な第5艦隊司令部として作戦を指揮した。マリアナ攻略ではマリアナ沖海戦が生起し第5艦隊は赫々たる勝利をおさめたが大鳳、翔鶴、飛鷹の3空母を撃沈し日本海軍の艦上機部隊を壊滅したものの、空母撃沈の内2隻は潜水艦による物であり第5艦隊の作戦指導は強い批判を浴びた。
なお一部の書籍では第5艦隊から第3艦隊への司令部交代を「スプルーアンス大将に対する降格人事」とか「人気の高いハルゼー大将の起用で士気を高揚させる為」と記述されている物があるが前述の「キル・ジャップス!」が正しいならこれらは当たらない。
ちなみにマリアナ攻略では多数の米海軍艦船が投入されたが旧式戦艦はターナー中将指揮下の第51任務部隊(旗艦ロッキーマウントRocky Mount)に所属するテネシーTennessee、カリフォルニアCarifornia、コロラドColorado、メリーランドMaryland、ペンシルバニアPennsylvania、アイダホIdaho、ニューメキシコNew Mexicoの7隻であった。
他の米旧式戦艦の状況は欧州で同時に実施されていたノルマンディー上陸(オーバーロード作戦)に参加していたのがテキサスTexas、アーカンサスArkansas、ネバダNevadaの3隻、ウェストバージニアWest Virginiaは本国での近代化改装が終了しておらずミシシッピMississippiはオーバーホールで修理中、アリゾナArizonaとオクラホマOklahomaの2隻は真珠湾奇襲で全損しておりニューヨークNew Yorkは訓練に従事していた。
つまり第51任務部隊に編入されていた7隻は米海軍が前線で使用可能な旧式戦艦の全てであり余裕は全く無かったのである。1944年8月11日、グアムの日本陸軍第31軍司令部が壊滅しマリアナ攻略の幕は下りた。
幕が下りたら次の演目に備える為、役者は舞台を降りねばならない。
ニュージャージーに将旗を掲げたハルゼー大将は1944年8月24日にハワイを出港、26日にはインディアナポリスと合流し第5艦隊から第3艦隊へ指揮を継承した。
いよいよ次期作戦の幕開けである。なお次期作戦は南西太平洋戦域部隊の担当地域であるフィリピン攻略なので第3艦隊と第7艦隊の協同作戦となった。

第7艦隊司令長官のカーペンダー中将は前年11月26日にキンケード中将と交代し欠員になった北太平洋戦域部隊司令官にはフレッチャー中将が就任した。
ちなみに第7艦隊の主力となる旧式戦艦部隊は6隻である。
欧州で行動していた3隻と訓練中の1隻はまだパナマ運河を通過しておらず工事を終えたミシシッピとウェストバージニアが戦列に加わったもののニューメキシコがオーバーホールの為、本国へ帰還しアイダホとコロラドも修理中であった。
よって今回の6隻も投入可能な旧式戦艦の全てであり全艦が第7艦隊に配属された。
これを見ても第7艦隊の艦船が固有の編成では無かった事が御理解頂けよう。
なお第7艦隊の旗艦は戦艦ではなく上陸指揮艦ワサッチWasatchであった。
さて第3艦隊は沖縄及び台湾各地の日本陸海軍基地航空隊を覆滅する為、10月10日から15日にかけて高速空母を主力とする第38任務部隊(ミッチャー中将)に空襲作戦を実施させた。上陸に際し敵後方根拠地に事前空襲を実施するのは米海軍の常套手段でブーゲンブル上陸ではラバウル、エニウェトク上陸ではトラックに対して実施されている。
台湾に接近した第38任務部隊に対しT攻撃部隊を主力とする日本陸海軍基地航空隊は夜間攻撃を中心とした迎撃を実施、殆ど戦果を挙げられぬまま壊滅的損害を受けた。
それどころか戦果の誤報が相次ぎ大本営や現地部隊の統率に大きな障害が生じた。
またこの時点で日本側は第3艦隊と第5艦隊が「司令部だけが別で艦艇は同一の艦隊」であると認識できておらず二つの別な艦隊が存在すると考え混乱を大きくした。
誤報による誇大戦果発表で大本営は決戦を決意、同地への陸軍部隊輸送や海上部隊の兵力集中、航空部隊の進出が逐次、実施され戦局の焦点はレイテへ移った。
マッカーサー大将指揮下の南西太平洋戦域部隊は陸戦を担当するクリューガー中将指揮下の第6軍とこれの輸送及び上陸、護衛、火力支援、航空支援を担当する第7艦隊で編成されており第3艦隊は制海権の確保と日本海軍水上部隊との決戦を担当していた。
10月20日に開始された上陸に対処する為、ブルネイに在泊する第1遊撃部隊本隊(栗田中将:戦艦5隻、巡洋艦12隻基幹)と第1遊撃部隊支隊(西村中将:戦艦2隻、巡洋艦1隻基幹)、台湾に在泊する第2遊撃部隊(志摩中将:巡洋艦3隻基幹)、内地に在泊する機動部隊(小沢中将:空母4隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻基幹)など各地に散在していた日本海軍の各部隊は次々と抜錨してレイテへ向かった。
なお、日本海軍の作戦目的は上陸船団の撃滅であり米艦隊との決戦ではなかった。
よって機動部隊を囮として行動させて米艦隊を北方に誘引しその間隙を狙って他の部隊を船団泊地へ突入させる予定であった。
これらのうち第1遊撃部隊支隊は速力が遅いので本隊とは別ルートで進撃したがスリガオ海峡夜戦で第7艦隊の旧式戦艦と交戦し全滅した。
第2遊撃部隊も遅れて突入したが幸運に恵まれなんとか脱出に成功している。
第1遊撃部隊本隊はシブヤン海の空襲で戦艦武蔵を失ったものの機動部隊による第3艦隊の北方誘引が成功しサマール島沖まで到達した。
だがここで第7艦隊指揮下の護衛空母群と接敵しサマール沖海戦が生起してしまう。
この戦いで第1遊撃部隊本隊は護衛空母1隻と駆逐艦2隻及び護衛駆逐艦1隻を撃沈するが巡洋艦3隻を失い貴重な時間と燃料を浪費してしまった。

一方、上陸船団の危機に際し第3艦隊は戦艦と巡洋艦を集中配備した第34任務部隊を編成し南下させる予定であったが戦況の混乱を収束させる為に太平洋艦隊司令部が発した「第34任務部隊をいずこか?全世界は知らんと欲す。」の電文を受けて右往左往する事態を生じた。日本の機動部隊は第3艦隊の猛攻を受け空母4隻を喪失し危機的状況にあったが第3艦隊が反転して南下した為、虎口を逃れたのである。
同時に第1遊撃部隊本隊もレイテ湾突入を諦めて反転し米船団も危機を逃れた。
史実では日米双方の主力が反転したが双方とも反転しなかったらどうなっていたであろうか?恐らく米船団は壊滅的な打撃を蒙ったであろう。もし反転したのが日本のみであったら囮となった機動部隊は第3艦隊に捕捉され残存艦艇は壊滅したかも知れない。
反転したのが米国のみであったなら船団を攻撃した後の第1遊撃部隊本隊と第34任務部隊の間で戦艦同士の決戦が生起していた可能性がある。
レイテ沖海戦は微妙な判断のすれ違いにより不測の展開を繰り広げた戦いであった。
これがレイテ沖海戦のあらましであるが米軍は多数の日本海軍艦艇を撃沈して大勝利をおさめたものの第3艦隊と第7艦隊の協調が取れなかった所に大きな問題点がありハルゼー大将の指揮統率は「野牛の暴走」と批判され彼の評価を大きく下げた。
レイテ海戦後、第3艦隊はウルシーで約半月の補給と休養を与えられ12月13日から再びフィリピン各地を転戦したが12月18日にコブラ台風と遭遇し大損害を受けた。
これは後述のバイパー台風と併せ「ハルゼー台風」とも呼ばれている。
1945年1月25日、インディアナポリスに座乗するスプルーアンス大将とウルシーで合流し大洋艦隊は再び第5艦隊となった。
今度の作戦目標は硫黄島攻略(デタッチメント作戦)である。
米国は従来、インド及び中国を基地とするB29の戦略爆撃で日本を屈服させる予定であったがマッターホルン作戦と呼ばれるこの空襲計画はあまり効率的ではなかった。
よってマリアナ攻略後は同地にB29の進出させ対日戦略爆撃の拠点としたがB29の中継不時着場及び護衛戦闘機の基地として中間地点の島嶼攻略が望まれる様になった。
かくして2月11日、インディアナポリスに将旗を掲げた第3艦隊はサイパンを出港して北方へ針路を取り日本本土へ向かった。硫黄島攻略に先立ち2月16日から実施された高速空母主力の第58任務部隊(ミッチャー中将)による事前空襲(ジャンボリー作戦)の為である。この空襲で関東地方の日本陸海軍基地航空隊はマヒし2月19日に実施された硫黄島上陸に対して充分な対処ができなくなった。

第58任務部隊は返す刀で硫黄島に戻り上陸部隊の航空支援を実施している。
上陸部隊はレイテと異なり海兵隊で第5水陸両用軍団の3個師団が投入された。
だが硫黄島を守備する日本陸軍の抵抗は頑強で攻略は遅々として進まなかった。
組織的抵抗は3月17日まで続き日本軍の損害20900名に対し米軍の損害は28600名にも及んだ。だが日本本土空襲作戦で損傷を受けた2251機ものB29が硫黄島に不時着し20000名以上の搭乗員が墜落を免れた。
更に4月7日からは硫黄島から護衛戦闘機が出撃しB29の損害は激減した。
硫黄島が攻略できていたからこそ損傷不時着機は2251機で済んだのである。
もし硫黄島の攻略に失敗していたらB29の損失は遥かに甚大であったろう。
さて、硫黄島攻略が終了しても艦隊司令部の変更は行われず次の作戦が開始された。
これはかなり異例なケースだが硫黄島攻略がごく短期間の予定であったからである。
米軍は当初、たった5日で硫黄島を占領できると考えていたが占領する為には5倍の25日間を必要とした。次に実施された沖縄攻略(アイスバーグ作戦)では事前空襲として3月18日から呉及び九州各地に空襲が行われた。だが日本の基地航空隊は第58任務部隊に対して多数の特攻機で反撃し空母4隻が撃破された。
第10軍(バックナー中将)の上陸予定日は4月1日であったが特攻機による攻撃は激化し上陸前日に第3艦隊旗艦のインディアナポリスが損傷した。
将旗は戦艦ニューメキシコへ移されたものの5月12日には同艦も特攻機に撃破された。

沖縄戦に於ける航空攻撃での損害は沈没30隻、損傷368隻に及ぶ。
これによる第5艦隊司令部の疲弊を憂慮した太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は急遽、沖縄戦での司令部変更を決意(ブュエル著「提督スプルーアンス」参照)、5月27日に第3艦隊司令部へ指揮権を継承させた。戦艦ミズーリMissouriに将旗を翻したハルゼー大将は以降、大洋艦隊の指揮を取り6月5日のバイパー台風でまたもや大きな被害を受けた。
第3艦隊及び第38任務部隊(マッケイン中将)は6月13日にレイテ湾へ帰投した。
大洋艦隊の洋上作戦期間は92日間にも及んだ。6月21日、米国は沖縄の占領を宣言。
陸軍及び海兵隊の戦死者は7613名、海軍の戦死者は4900名であった。
なお沖縄の次に予定された作戦は第5艦隊担当の九州攻略(オリンピック作戦)で11月1日を予定していた。ただし米海軍首脳部は潜水艦と機雷による封鎖戦や原爆効果による終戦を期待しておりオリンピック作戦に熱心ではなかった。また作戦発動までのインターバルを利用し第3艦隊による大規模な日本本土空襲が実施された。7月1日、空母9隻、軽空母6隻、戦艦9隻、巡洋艦19隻、駆逐艦62隻からなる第38任務部隊(マッケイン中将)は第3艦隊司令部と共にレイテ湾を抜錨した。第38任務任務部隊は7月10日の関東空襲を皮切りに14〜15日の北海道空襲及び室蘭艦砲射撃、16〜18日には横須賀を含む関東を空襲(戦艦長門を撃破)し17日には英空母4隻を主力とする第37任務部隊と合流している。24〜28日の空襲は目標が西日本へ移り呉では戦艦伊勢、日向、榛名、空母天城、巡洋艦利根、青葉、大淀などが沈められ多数の艦艇が損傷を受けた。
30日には舞鶴を含む中部日本を攻撃し8月上旬は燃料補給と原爆攻撃から退避する為、日本沿岸から離れた。だが9日には再び東日本へ接近し関東空襲及び釜石への艦砲射撃、10日の東北空襲、13日及び15日の関東空襲と終戦まで日本沿岸を暴れ回った。
第38任務部隊が7月1日から終戦までの期間に発進させた航空機の作戦出撃数は延べ23556機、攻撃回数は10678回、米軍側発表数による戦果は航空機2423機、撃沈艦船86隻(231400t)、撃破艦船118隻(568740t)である。
米軍側の損害は航空機307機であった。
もはや日本海軍は第3艦隊に有効な反撃を行える戦力を保有しておらず終戦を迎えた。


「その他のナンバー艦隊」
レイテ海戦後、第7艦隊は1945年1月上旬にルソン島のリンガエン湾上陸を実施した。フィリピンの戦いは特攻機の猛襲で凄絶な様相を呈した。
フィリピンは多島海なので1回の上陸で雌雄が決せず小規模な上陸作戦が次から次に発生し第7艦隊は休む間もなく戦い続けた。1月29日にはバターン半島付け根のサンアントニオ上陸、2月15日にはバターン半島先端のマリベレス上陸、28日にはパラワン島に上陸している。この間、硫黄島及び沖縄上陸に備え旧式戦艦や護衛空母などの有力艦艇は逐次、抽出され第7艦隊の兵力は次第に縮小していった。
だが上陸は3月10日のミンダナオ島サンボアンガ上陸、3月18日のパネー島上陸、3月26日のセブ島上陸、3月29日のネグロス島上陸、4月2日のタウイタウイ上陸、5月1日のタラカン上陸、6月10日のブルネイ上陸、7月1日のバリクパパン上陸とフィリピン南部からボルネオにかけて終戦直前まで繰り返された。
フィリピン南部を担当した陸上部隊は第8軍(アイケルバーガー中将)であるが米陸軍は大西洋及び欧州の軍には奇数、太平洋の軍には偶数のナンバーを当てていた。
なお、大西洋艦隊の隷下では第4、第8、第10、第12艦隊が編成された。
米海軍は米陸軍とは逆に太平洋の艦隊には奇数、大西洋及び欧州の艦隊には偶数を当てた。
第4艦隊は1942年9月15日に創設された南大西洋部隊(イングラム中将)を1943年3月15日の改編で改称した艦隊で1945年4月15日に解散した。
イングラム中将は1944年11月15日、大将に昇進し大西洋艦隊司令長官に栄転し後任としてマンロー中将が就任した。
任務は南大西洋地域での船団護衛と哨戒であった。

第8艦隊は1943年3月15日に北西アフリカ海軍部隊を拡充し大西洋艦隊隷下の水上部隊として創設された艦隊である。北西アフリカ海軍部隊にはアルジェリア上陸(トーチ作戦)に際し新造戦艦マサチューセッツMassachusettsが編入され仏戦艦ジャンバールJean Bartと交戦した。
地中海作戦を担当する第8艦隊の司令長官はヒューイット中将でアルジェリア上陸、シチリア上陸(ハスキー作戦)、サレルノ上陸(アバランシュ作戦)、アンティオ上陸(シングル作戦)、南仏上陸(ドラグーン作戦)の功績により1945年4月3日、大将へ昇進し4月11日にはヨーロッパ派遣軍海軍部隊司令官に栄転している。
後任の第8艦隊司令長官はグラスフォード中将だが着任後、僅か5日間で第8艦隊は解散し第12艦隊に編合された。
1943年3月15日に創設された第10艦隊は実働部隊ではなく合衆国艦隊司令長官キング大将直轄の対潜作戦研究機関(司令長官はキング大将の兼任)であった。
対独戦が終結した1945年6月12日に解散している。
1943年3月15日創設(実質的な活動開始は10月1日からである)の第12艦隊は1942年4月30日創設のヨーロッパ派遣軍海軍部隊を母体としており司令長官はかつてキング大将に作戦部長の座を奪われたスターク大将であった。


「その後」
戦後、ハルゼーは元帥へ昇進し1945年10月7日に第3艦隊は解散した。
戦争が終われば1台の馬車に御者は一人で充分だったからである。
第5艦隊は1946年に第1艦隊(当初は第1任務艦隊)と改称され東太平洋の守りについたが1973年には第3艦隊と再改称され今に至る。
現在も米海軍に第5艦隊が存在するがこれは1995年に創設された中東海域を担任する特殊な部隊で固有の艦船を保有しない。
第8艦隊は1947年1月に第2任務艦隊と改称され更に1950年2月には第2艦隊と再改称されるが2011年9月をもって解散した。
戦後、各艦隊は改称、解散、再編成を繰り返し多くの変遷の末、現在は第3、第4、第5、第6、第7、第10艦隊が活動している。



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