阿部隆史 執筆記事I『世界の艦船』2016年1月増刊 第2次大戦のアメリカ軍艦 |
1939年9月1日の第2次世界大戦勃発から1945年8月15日の大戦終結までの間、米海軍の艦隊編成は多くの変遷を辿った。
参戦前に米海軍が構想していたオレンジ計画は真珠湾奇襲によって脆くも瓦解し、「如何に柔軟に現状に対処するか?」と言う視点で全ての編成を練り直さなくてはならなかったからである。
かくして試行錯誤の内に米海軍は特異な「司令部交代制艦隊」を編み出したのだが、これは最終的な戦争勝利に大きく寄与した。
本稿は大戦に於ける米海軍艦隊編成の中でナンバー艦隊に焦点を当てて論述する。
「オレンジ計画」
1906年に着手されたオレンジ計画(対日戦争計画)に従い米海軍は逐次、編成を変えていったが最初に大きな変動要因となったのはワシトン条約の締結であった。
これにより当面の日米武力衝突が回避された為、米海軍は1922年12月6日に太平洋艦隊と大西洋艦隊を統合して合衆国艦隊を創設した。
この合衆国艦隊の特徴は有力な戦闘艦を主力とした戦闘艦隊と旧式艦と警戒艦艇を主力とした偵察艦隊に兵力を二分し戦闘艦隊を太平洋、偵察艦隊を大西洋に配備した点にある。
なお偵察艦隊は1930年に偵察部隊と改称し戦闘艦隊は翌年、戦闘部隊と改称された。
戦間期、米海軍は攻勢に軸を於いたオレンジ計画の研鑽を積み、ルートの開拓を模索したが米陸軍は終始、オレンジ計画に対し批判的であった。
その理由はオレンジ計画が国際政治状況の変化を考慮しておらず、常に対日単独戦の想定しかなかったので柔軟性に欠けていたからである。
1930年代後半になるとナチスが台頭し、欧州の国際政治状況が次々と変転していった。
これに対応する為、1939年1月に戦艦3隻と空母1隻を基幹とする大西洋戦隊が創設された。
そして1939年9月に第2次世界大戦が勃発し、戦局が悪化するにつれ大西洋方面への兵力増強は拡大し1941年2月には大西洋戦隊が大西洋艦隊へと昇格する。
初代大西洋艦隊司令長官は航空部隊出身のキング大将であった。
一方、対日戦の主軸となる太平洋では戦闘部隊司令官であったリチャードソン大将が1940年1月に合衆国艦隊司令長官へ昇進し、スナイダー大将が戦闘部隊を引き継いだ。
リチャードソン大将はミラー著「オレンジ計画」によると「海軍史上、これほどオレンジプランを嫌った将校はいない」と批評される程の反オレンジ計画派である。
だがルーズベルト大統領は日本の南方進出を牽制する為に合衆国艦隊のハワイ進出を命じ、リチャードソン大将はこれに激しく反対した。
反対した理由は日本を刺激する危険性と脆弱な前進根拠地に艦隊主力を在泊させる危険性であったが、図らずも彼の予測は真珠湾奇襲によって現実の物となった。
大統領は彼の意見を受け容れず1940年1月、リチャードソン大将とスナイダー大将は罷免されキンメル大将が合衆国艦隊司令長官に就任した。
同時に太平洋艦隊が新設されたがキンメル大将の兼任となり、戦闘部隊司令官(太平洋艦隊設立の為、中将ポストに降格)にはパイ中将が任命された。
なお戦間期の米海軍では太平洋艦隊と大西洋艦隊が創設されるまで大将ポストは作戦部長、合衆国艦隊司令長官、アジア艦隊司令長官、戦闘部隊司令官の4名だけであり、最古参はアジア艦隊司令長官のハート大将であった。
アジア艦隊は兵力は微少ながら合衆国艦隊に隷属しない独立部隊で他国との外交交渉、紛争などに直面する可能性が高く、平時に於いては非常に職責の重要度が高かった。
こうした状況の中で1940年6月、大きな衝撃が米海軍上層部を襲った。
ドイツ機甲部隊の電撃戦によるフランス降伏である。
この事件が大西洋艦隊設立の直接的な要因となったのだが、前掲のミラー著「オレンジ計画」によると「英仏艦隊がナチスドイツの手に落ち、南アメリカへ送り込まれると言うぞっとする様なシナリオ」が統合計画委員会で検討され、大西洋方面への兵力拡充は更に増大した。
かくして1941年7月の段階では全空母の半数、全戦艦の4割、巡洋艦の半数弱が大西洋艦隊へ配属され、太平洋はがら空きに近い状態となった。
それにも関わらず大統領は戦艦3隻の大西洋回航をキンメルに要請したが、さすがこれは断られた。
また米国の主要造船所と海軍工廠が東部にある為、新造戦艦は常に大西洋で慣熟訓練を行ったので、開戦時に太平洋艦隊が保有していた戦艦数は全体の半数となっていた。
元来、オレンジ計画は米本国を出発する船団を合衆国艦隊が守り、圧倒的な対日兵力優位を背景に島嶼地域を順次攻略して兵力を推し進める予定であった。
スケジュールは計画年度で変動するが、一例を挙げると開戦から3月でマーシャル諸島、半年でカロリン諸島、1年で南西諸島、1年半で奄美、約2年で戦争終結を目指している。
これらの計画は開戦と同時に動員を開始、部隊が集結したら逐次、乗船して前線へ向かうのだが、「当初から戦艦数が日本より少ない」と言う想定は全く考慮されていなかった。
真珠湾奇襲で太平洋艦隊の戦艦陣は壊滅的な打撃を受け米海軍の戦争計画は頓挫したとする説を散見するが、オレンジ計画はフランスの降伏で既に瓦解していたのである。
「戦域部隊」
1941年末から翌年初頭にかけワシントンDCでアルカディア会談が開催され、度重なる敗走で破綻した戦局を挽回すべく討議が行われた。
この会談で決定した事項に連合参謀本部CCS(Combined
Chiefs of Staff)の設立がある。
米英の最高戦争指導機関となる連合参謀本部は既定の戦争計画を破棄して、両国の利害を調整し次々と戦域司令部を設立していった。
1942年4月3日、まず最初に太平洋戦域部隊が創設された。
司令官は真珠湾奇襲の敗北で罷免されたキンメル大将に代わり、米太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将の兼任であった。
合衆国艦隊司令長官にはキング大将が就任(大西洋艦隊司令長官はインガーソル大将が昇進)し、1942年3月からキング大将は作戦部長も兼任した。
太平洋戦域部隊(司令部ハワイ)の担当地区は太平洋中部全域である。
ついで4月18日、南西太平洋戦域部隊(司令部濠州ブリスベン)が創設された。
担当地区は濠州及びニューギニア、蘭印、フィリピンで、司令官は米陸軍のマッカーサー大将、海軍部隊指揮官はリアリー中将(9月11日にカーペンダー中将と交代)である。
更に二日後、上記の2戦域部隊の境界に位置する南太平洋戦域部隊が創設された。
担当地区はソロモン諸島南部、ニューヘブリディス諸島、ニューカレドニア、フィジー諸島、サモアで反攻の端緒となるガダルカナルを含んでいた。
司令官は米海軍のゴームレー中将(司令部ニューカレドニア)で海軍部隊指揮官を兼任しており、太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将とは隷属関係にあった。
ただし彼は前線勤務での憔悴が著しく、10月18日にはハルゼー中将と交代している。
5月17日に創設された北太平洋戦域部隊はアラスカと北海道を含む北太平洋を担当地区としており、司令官は米海軍のシーボルト少将が任命された。
海軍部隊指揮官が戦域部隊司令官の兼任であった事と、太平洋艦隊司令長官と隷属関係にあった事は南太平洋戦域部隊と同じである。
シーボルト少将も1943年1月4日にはキンケード少将と交代させられた。
南東太平洋部隊も存在したが大変、小規模なので割愛する。
戦域部隊の設立からナンバー艦隊の設立までのおよそ1年間、米海軍の水上艦艇部隊は臨時的な任務部隊(タスクフォースTask
Force)や任務群(タスクグループtask groups)を編成し、各戦域部隊の指揮下で作戦に従事させた。
この間に発生した主な海戦は珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第1次ソロモン海戦、第2次ソロモン海戦、サボ島沖海戦、第3次ソロモン海戦、ルンガ沖夜戦などである。
「ナンバー艦隊の創設」
戦域部隊司令部は戦域内に所在する陸軍、海兵隊などの陸上部隊、基地航空隊などの航空部隊、艦船や港湾関係の海軍部隊、兵站部隊など多岐に渡る兵力を指揮せねばならない。
よって戦域司令部は大勢の幕僚を擁し強力な通信能力が必要とされる。
一方、洋上で作戦行動する任務部隊の数が少なければ陸上に所在する戦域部隊司令部の指揮下であっても作戦可能だが、多数の部隊が同時に行動すれば大きな困難を生ずる。
複数の任務部隊を統括する上級司令部が存在しなければ作戦に齟齬をきたすからだ。
更に上級司令部は洋上にあって、任務部隊と共に行動できねばならない。
そうでなければ柔軟な対応は出来ないからである。
膨大な幕僚を抱える戦域司令部を洋上で行動させる訳にはいかず1943年3月15日、キング大将を中心とする米海軍首脳部はナンバー艦隊の編成に着手した。
基本的には各戦域部隊司令部に所属する戦域海軍部隊指揮官及び幕僚をナンバー艦隊司令部に再編するのだが、注意せねばならないのは戦域部隊司令官と戦域海軍指揮官が兼任であった場合で、南太平洋戦域部隊と太平洋戦域部隊がこれに相当する。
3月15日に南西太平洋戦域部隊から第7艦隊、南太平洋戦域司令部から第3艦隊が編成されたが第3艦隊はこの問題により当面、洋上に出られなかった。
問題が解決したのは1944年6月15日にニュートン中将が南太平洋戦域部隊司令官に就任し、ハルゼー大将が第3艦隊司令長官の専任となってからである。
太平洋戦域部隊では新司令部の創設でこの問題を解決した。
ただし司令長官に予定されたスプルーアンス提督の階級がまだ少将だった為、当面はナンバー艦隊とせず第50任務部隊として編成された。
スプルーアンス少将は1943年5月30日に中将へ昇進し8月には太平洋部隊海軍指揮官に就任したが第5艦隊が正式に編成されたのは1944年4月26日になってからであった。
北太平洋戦域部隊ではしばらくの間、活発な海上作戦を行う予定が無かったのでナンバー艦隊の編成は見送られた。
「二人の御者」
当初のナンバー艦隊は戦域部隊の海軍部隊指揮官が指揮を継承しただけであったので大きな変化は見られず、各戦域部隊の域内で同時に個別の作戦行動をとった。
例を挙げると南太平洋戦域部隊は1943年6月末から7月にかけて米空母サラトガSaratogaと英空母ビクトリアスVictoriousからなる第36.3任務群(ラムゼー少将)をニュージョージア上陸(カートホイール作戦)の航空支援に投入し、直後の8月には北太平洋戦域部隊が旧式戦艦3隻を基幹とする兵力でキスカ上陸(コテージ作戦)を実施した。
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更に8月末からは太平洋戦域部隊が新造のエセックスEssex級空母とインディペンデンスIndependence級軽空母によって編成された第14任務部隊(モンゴメリー少将)や第15任務部隊(パーナル少将)などの高速空母部隊(後に第50任務部隊として糾合)でマーカス島、ギルバート諸島、ウェーク島などを次々と空襲している。
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これらの作戦に投入された任務部隊、任務群のナンバーは基本的に十の桁が艦隊ナンバーと同一であった。
つまり第36.3任務群であれば多くの場合、第3艦隊(すなわち南太平洋戦域部隊)の所属と考えて差し支えない。
なお、同年11月11日には本来、太平洋戦域部隊に所属する空母エセックス、バンカーヒルBunker
Hill、インディペンデンス基幹の第50.3任務群(モンゴメリー少将)が南太平洋戦域部隊へ臨時編入され、空母サラトガ、軽空母プリンストンPrincetonを基幹とする第38任務部隊(シャーマン少将)と共にラバウルへ協同攻撃を行っている。
臨時編入された部隊は常に二つの上級司令部の意を汲まざるをえない。
よってこうした事態の頻発は指揮統制上、大きな問題の問題となろう。
それがあってか1943年12月末、ニミッツ大将とキング大将が協議し、新たな艦隊運用構想が立案(1985年出版ポッター著「キル・ジャップス!」419頁参照)された。
すなわち米海軍主力艦艇の大部分を集めた大洋艦隊(Big
Blue Fleet )とする大艦隊を編成し、第3及び第5艦隊司令部が交互に指揮を担当すると言うシステム(1975年出版ポッター著「提督ニミッツ」では1944年5月5日にクック少将がこのシステムを発案したとあるが同一著者で説が異なる場合は近年刊行書の方が信頼できる)である。
長期的な作戦が終了し、空き番となった司令部は米本土で休暇をとった後、ハワイの太平洋艦隊司令部で次々回作戦の研究と計画作成に従事する。
「1台の馬車に2人の御者」と呼ばれるこの艦隊運用によって、作戦と作戦の間に生ずる時間的ロスは大幅に節約できると考えられた。
ただし交互に指揮をするのは第3と第5艦隊だけであり、第7艦隊は含まれていなかった。
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