最初に誤算をしたのは日本陸軍だった。
戦史叢書4巻「1号作戦1」24頁の1号作戦計画大綱案には作戦の目的の筆頭に「西南支那ニオケル敵空軍基地ヲ覆滅シ本土空襲等ノ敵企図ヲ封殺ス」とある。
また同書23頁ではその敵空軍基地を桂林及び柳州としている。
大陸打通作戦として名高い1号作戦の主目的は日本本土空襲の阻止にあったのだ。
一般に日本の軍部は本土防空に不熱心でありそれが日本本土の焦土化を招いたと考えられているが、陸軍は本土防空を深く憂慮していたと言えよう。
ただしちょっと考えが足りなかった。


1号作戦:
さて、1号作戦だが当初から本土防空を目的として立案された訳ではない。
まず1943年末に虎号兵棋が実施されたが、この時点では「海軍は頼りにならんから遅かれ早かれ太平洋方面は破綻するだろう。そうなったら頼みの綱は本土と大陸だ。今の内に大陸打通して後方の兵站線を安定化させよう」といった主旨であった。
それが紆余曲折して敵空軍基地攻略に変わったのである。

だがなぜ桂林、柳州の攻略で本土空襲の阻止が可能だと考えたのであろうか?
同書30頁によれば大本営陸軍部の服部作戦課長は「当時は桂林、柳州を覆滅すればそれで事足りると考えた。」との事である。
その根拠となるのは日本側のB29に対する性能判断で、戦史叢書19巻「本土防空作戦」197頁によると1943年末頃は爆弾搭載量3tで航続距離6000q、作戦行動半径は2500qと推測されていた。
太平洋戦記3の線スケールで測ると判り易いが桂林−八幡間は2450qである。
つまりこの性能判断が正しいとすれば、1944年4月17日に実施され11月10日に桂林及び柳州を攻略した大陸打通作戦で日本本土は空襲を免れるはずであった。
まさに日本陸軍は大陸打通作戦によって「攻撃的防空」を為さんとしたのである。

しかし結果はどうであったか?
1944年6月16日に九州の八幡製鉄所が空襲を受け、大本営の企図は脆くも瓦解した。
B29は桂林ではなくインドのカルカッタから発進し、成都で中継給油して八幡製鉄所に飛来したのである。
太平洋戦記3だと成都−八幡製鉄所は2954qになる。
なお戦史叢書19巻日本陸軍はこの空襲で撃墜された機体を調査し、B29の性能判断を爆弾3t搭載で航続8150qと改訂した。
前は6000qと推測していたのだからおよそ33%の性能向上であり、作戦行動半径に直すと3325qになる。
実際の性能は爆弾4t搭載で航続5600qである。
ただし機銃などを撤去し機銃手を搭乗させなければもっと航続力は伸び搭載力も増える。
日本陸軍はB29の航続力を過小評価して無駄な大陸打通作戦を実施し、ひいては本土防空の破綻を招いた。
当初からB29の性能を正当に評価していれば大陸打通作戦など実施しなかったし、防空態勢もより充実させていたであろう。
成都まで攻略?
それができれば大陸作戦そのものが勝利で終わっている。


マッターホルン作戦:
かくして51万の日本軍が100万の中国軍相手に1500qを突破した史上空前の大陸打通作戦(数値の出典は戦史叢書4巻)は壮大な無駄に終わった。
そして次に誤算をしたのは米国であった。
太平洋を望むワシントン州シアトルに本社を構えるボーイング社は米軍きっての重爆メーカーとして名高く、B29の初飛行は1942年9月21日、シアトル近郊のレントン工場に併設されたボーイング飛行場で行われた。
太平洋を目前にした飛行なのだ。
目指す主目標は日本本土である。
空に舞い上がった巨鳥は西の彼方を睨み据えたに違いない。

開発に成功したら量産に移り、部隊を編成して実戦投入するのが道理であろう。
ここで「どこに投入するか?」と言う問題が発生する。
この問いに対する米国の回答はマッターホルン計画であった。
インドのカルカッタ周辺を基地とするこの計画は1943年11月に策定された。
果たしてカルカッタを出撃したB29はそのまま対日戦略爆撃を実施できるのか?
勿論、できない。
幾らなんでも航続力が不足する。
機体の整備や弾薬の搭載、訓練などはカルカッタで行い、対日戦略爆撃の本番だけ中国の成都で燃料の中継補給するのがマッターホルン計画の骨子なのである。
よってカルカッタと成都にはB29の発着可能な飛行場が必要であった。
渡辺洋二著「日本本土防空戦」によると、カルカッタの方は米軍の工兵6000名と現地労務者27000名が投入され5箇所の飛行場が設営(資料によっては4箇所)された。

問題なのは成都の方で、4箇所(資料によって5箇所)の飛行場を設営するのは中国だけでやらねばならないから人力に頼る他はなく、その労働力は戦史叢書19巻で20万余、「日本本土防空戦」だと20万以上で最終的には33万、前田哲男著「戦略爆撃の思想」では32万で予備に23万、食糧運搬として別に20万としている。
更にB29の大編隊を出撃させるのに見合った燃料、弾薬などの準備を忘れてはいけない。
カルカッタの方は簡単だ。
タンカーや貨物船で運べば良いだけだからね。
でも成都に燃料を備蓄するのはそう簡単ではない。
ビルマルートを遮断され孤立した中国首都の成都へ燃料を送る手段は空輸だけだ。
戦史叢書19巻395頁で成都でB29が中継補給する物資を1機23tとしている。
つまり100機では2300tになる。
それではどの様にしてこれを輸送するかと言うと、戦史叢書4巻66頁では空輸の為、1944年10月までにC87輸送機2000機を使用する予定と記述されている。
C87とはどの様な輸送機なのだろうか?
なぜ通常のC47輸送機などを使用しないのだろうか?

C47輸送機
C87輸送機の元となったB24

インドから中国への空輸は一般にハンプ(こぶ)輸送と呼ばれる。
これは中途にヒマラヤ山脈が「こぶ」の様にそびえ立ち空路の難所だからである。
通常の輸送機でも行けない事はないが、上昇限度ぎりぎりの飛行を余儀なくされる。
かくして排気タービン装備のB24重爆の派生型であるC87輸送機が投入される事になったのだが、C87はたった287機で生産中止となった欠陥機であった。
そこで輸送力の不足を補う為、B29を使用してのピストン輸送が実施された。
それではB29のカルカッタ進出を詳述しておこう。
マッターホルン計画は国家的事業だからB29はボーイング社のレントン工場やウィチタ工場は言うに及ばずベル社のマリエッタ工場、ノースアメリカン社のカンサスシティ工場、マーチン社のオマハ工場など全米各地で総力を挙げて量産された。
そして量産されたB29は東へ向かって続々と飛び立って行った。
「えっ、西じゃないの?」
「さっき日本は西の方角だっていったよ?」と言うなかれ。
確かに西へ行った方が日本に近いけど、日本の占領地域を抜けては行けないのである。
「急がばまわれ」と言うヤツだ。
米大陸を横断しカナダのニューファンドランドに集結したB29は、まずモロッコのマラケシュに降りて給油し次はエジプトのカイロ、更にはパキスタンのカラチを経由しカルカッタまで飛行したのである。
さすが地球は丸いね。

平塚柾緒著「米軍が記録した日本空襲」28頁によるとB29のカルカッタ進出は4月2日で、戦史叢書19巻304頁によると5月上旬までに141機がカルカッタに集結した。
「長旅ご苦労さん」と言いたい所だが4月13日にマラケシュで1機墜落、4月15日にはカイロで1機、カラチで5機墜落しその他にも2機が辿り着けなかった。
「日本本土防空戦」104頁では米国を離陸した150機のB29で、5月8日に目的地へ到達したのは130機と記述している。
そして到着したB29はすぐさまピストン輸送にかり出された。
「米軍が記録した日本空襲」やサンケイ出版「B29」にはB29が燃料7t空輸可能とあり、「戦略爆撃の思想」490頁には成都への燃料輸送にはB29が8回のヒマラヤ越え1930qの飛行が必要とある。
1機当たり23tと前述したが、空輸量が7tなら往復4回ピストンしなければならない。
「戦略爆撃の思想」にある8回のヒマラヤ越えはこれを指すのだろう。

結論として100機のB29が日本本土爆撃する為には400機のB29がピストン輸送に従事せねばならず、マッターホルン計画は誤算の上に成立した砂上の楼閣であった。
B29を進出させようにも地球をグルグル回る大遠征なのだからカルカッタの機数を増やすのは容易ではない。
500機のB29があるのなら500機で日本本土空襲をした方が良いに決まっている。
そもそも5月上旬までに到着したB29は141機だけなので500機など夢の話だ。
それなら80%のB29でピストン輸送し、20%のB29で出撃するか?
だが少数での出撃は壊滅の危険が伴う。
よってまとまった数での出撃が前提となるのだが、燃料の集積は微々たる量なのだから出撃ペースがぐっと落ちてしまう。
かくして50機以上の編隊によるカルカッタからの日本本土空襲は6月16日の八幡空襲63機、8月20日の八幡空襲80機、10月25日の大村空襲56機、11月21日の大村空襲109機で1〜2ヶ月に1回のペースで大変低調であった。
それに引き替えサイパン陥落後、同地に進出したB29による50機以上の大規模空襲は11月24日の東京空襲80機、11月27日の浜松空襲62機、12月3日の東京空襲76機、12月13日の名古屋空襲80機、12月18日の名古屋空襲63機、12月22日の名古屋空襲、12月27日の東京空襲72機と非常にハイペースで、短ければ2〜3日、長くても10日以内には日本本土空襲を実施した。
結局の所、インドを基地としたマッターホルン計画は壮大な無駄に終わったのである。

なおインドのB29が日本本土空襲に活発でなかった理由は他にもあった。
日本本土を空襲しようと思うから大変なのだ。
カルカッタから直に攻撃できる目標なら困る事はない。
よって6月16日の八幡空襲の前に98機でバンコクを空襲した。
また成都経由で攻撃するにしても日本本土より防備の手薄な目標として鞍山の製鉄所が狙われ、7月29日に96機、9月8日に115機、9月26日に117機で空襲された。
同様の理由で台湾もまた、10月14日に130機で空襲された。
更に成都の備蓄燃料を消費しない目標としてパレンバンの精油所が狙われた。
中継給油地にはセイロンが利用され8月10日に56機が空襲している。
他に日本本土以外の目標としてラングーン、漢口なども空襲された。
特に94機による12月18日の漢口空襲は市街地に対する無差別空襲で大きな民間人の被害が生じた。
戦争は恐ろしい。
米軍の戦略爆撃機は同盟国の民間人すら容赦しないのである。


第20空軍:
ここでひとつB29の編成について解説(文末の付録参照)しておきたい。
通常、米陸軍航空隊は戦域別にエアフォース(Air Force:AFと略)を編成し航空機はその中のユニット(unit)に所属する。
日本語でエアフォースは「第8空軍」(英本土で対独戦略爆撃に従事した)や「第14空軍」(中国戦線で対日戦に従事した)などと訳される場合が多いが資料によって異なる。
戦史叢書に於いてすら巻によって空軍としている場合や航空軍としている場合、単にAFと記述されている場合など様々で統一が取れていない。

なお、他の航空機と異なりB29だけは戦域に限らず、全機が第20空軍の所属とされた。
よってワシントンに司令部を置く第20空軍は戦域をもたず、インド方面とマリアナ方面のB29を合わせて指揮していたのだが終戦直前、マリアナへ進出した。
また終戦直前には英国から第8空軍が沖縄に転出し同地へもB29の配備が開始された。
ユニットの訳語は部隊だが爆撃機の場合、固有名称編成での最小規模はボマーメントスコードロン (Bombardment Squadron:BSと略)となる。
BSの訳は爆撃飛行隊もしくは爆撃中隊が多く指揮官の階級は多くの場合、中佐である。
戦史叢書19巻307頁によるとB29の搭乗員11名のうち将校は5名であり、機長の階級は少尉から少佐までのケース(少尉、中尉の機長は例外的)が考えられる。
よって多くの将校を指揮する必要性から指揮官の階級が高いので、私としては中隊と呼称するより飛行隊の方がよいのではないかと思う。
数個BS(B29の場合は初期が4で後に3)で編成されたのがボマーメントグループ(Bombardment Group:BGと略)で爆撃部隊、爆撃群、爆撃連隊(サンケイ「B29」)爆撃大隊(世界の傑作機)などと訳される。
指揮官の階級は殆どが大佐なので、爆撃部隊とするのがよいのではないかと思う。
数個BG(B29の場合は4個)で編成されたのがボマーメントウィング(Bombardment Wing:BWと略)で爆撃航空団(「丸グラフィック」)、飛行団(サンケイ「B29」)、爆撃連隊(「世界の傑作機」)などと訳される。
指揮官の階級は殆どが准将なので、爆撃航空団とするのがよいのではないかと思う。
B29を装備する爆撃航空団は最終的に6個編成された。
第20空軍の司令部はワシントンに所在するので直接、各爆撃航空団を指揮できない。
よって現地の各爆撃航空団を指揮する為に編成されたのがボマーコマンド(Bomber Command:BCと略)で爆撃機集団、爆撃隊(「航空情報」や郷田「航空戦略」)、航空団(「丸グラフィック」)、爆撃兵団(サンケイ「B29」)などと訳される。
指揮官の階級は准将もしくは少将なので爆撃機集団とするのがよいのではないかと思う。

当初、第20空軍はインドに第20、マリアナに第21、台湾及び比島方面に第22、アリューシャンなどの北方に第23爆撃機集団を展開する予定だった。
これらのうち最初に進出可能となったのはインド方面だったので、まず最初に第20爆撃機集団が編成されて同地に進出、指揮下に第58爆撃航空団が編入された。
かくして実施されたのがマッターホルン計画である。
この時点で第20空軍(アーノルド大将)の作戦部隊は第20爆撃機集団(ウルフ准将)だけで、その指揮下部隊は第58爆撃航空団(サンダース准将)だけであった。
次に進出可能となったのはマリアナで同地には第21爆撃機集団が進出した。
本来なら続々と生産されるB29で続々と爆撃航空団を編成し、第20と第21爆撃機集団の双方を増強して日本本土戦略爆撃を行う予定であった。
しかしインド方面は前述した様に補給に大きな問題を抱えていた。
かくして第20空軍はマッターホルン計画を中止し、続々と編成されたB29の爆撃航空団を全てマリアナの第21爆撃機集団に編入したのである。
ただし例外として終戦直前、沖縄の第8空軍に第316爆撃航空団が編入されている。

さて、爆撃飛行隊や爆撃航空団の機数だが、まず最初に幾つかの資料を漁ってみよう。
戦史叢書19巻305頁では第58爆撃航空団に所属する爆撃飛行隊を7機編成、爆撃部隊を28機編成、爆撃航空団の総数を112機としている。
これには予備機が含まれていない事に注意して頂きたい。
なお同書の452頁ではマリアナに進出した各航空団の1944年11月頃の各爆撃飛行隊を9〜11機編成と記述している。
サンケイ「B29」の67頁では第58航空団に所属する各爆撃部隊を28機編成としているが巻末では基本的なB29部隊の編成として爆撃飛行隊10機、4個爆撃飛行隊の35機+予備機10の合計45機で爆撃部隊、4個爆撃機部隊+予備機12機の合計192機で爆撃機集団と記述している。
これはちょっと計算がおかしい。
10×4+10は50であって45では無いからだ。
爆撃部隊の45機と爆撃飛行隊の10機が正しく、予備機の10機が誤記の様に思われる。
なぜなら45機と予備10機が正しいなら実働は35機で4個飛行隊で割り切れない。
更に実働35機に対して予備10機だと、あまりに予備の数が多すぎる。
また他の資料でも4個爆撃部隊による爆撃航空団192機編成が散見されるので、爆撃部隊が45機なのは間違い無い様に思われる。
爆撃部隊は10機編成の4個爆撃飛行隊+予備機5機の45機編成なのではなかろうか。
戦史叢書4巻「大陸打通作戦1」66頁ではクォドラント会談で爆撃部隊を28機編成に決定したと記述している。
木俣滋郎著「陸軍航空隊全史」326頁では8機編成の4個爆撃飛行隊8機編成で爆撃部隊(32機)としている。
郷田充著「航空戦力・上」193頁では爆撃飛行隊を9〜12機編成、爆撃航空団の編成数を180機、後に192機としている。
冨永謙吾著「定本・太平洋戦争」に於ける第58爆撃航空団の編成定数は120機だ。

わかった?
つまり最初に編成された第58爆撃航空団は7機編成の爆撃飛行隊だったらしいが編成が逐次、拡大されどうやら最終的には12機になっていったようである。
それと同時に爆撃航空団に所属する爆撃部隊数も4個から3個に減少した。


マリアナ奪取!:
話を元に戻そう。
カルカッタ及び成都からの日本本土空襲は1944年6月16日に始まり、翌年1月6日の大村空襲で幕を閉じた。
1944年11月24日にはマリアナからの日本本土空襲が始まり、非効率なマッターホルン計画はその存在意義を失ってしまったからである。
かくしてカルカッタ及び成都のB29を擁する第58爆撃航空団は逐次、マリアナに進出し1945年5月からは第21爆撃集団に所属して日本本土空襲に参加する事になった。
だがそんなにマッターホルン計画が非効率でマリアナからの作戦が効率的なら何故、米軍は最初からマリアナ攻略を前提にして日本本土空襲を実施しなかったのだろうか?
マッターホルン作戦の開始から、マリアナを出撃地とする日本本土空襲の開始まで僅か5ヶ月しか経ってない。
その理由を戦史叢書19巻304頁では連合軍首脳部が1944年内に太平洋方面で「日本本土爆撃が可能な島嶼を占領し得るとは思われなかった」と記述している。
それに占領したとしてもすぐにB29の基地として使用できる訳ではない。
米軍がサイパンを占領したのは8月10日だが、第21爆撃集団が日本本土爆撃を開始したのは11月24日で3ヶ月もの日時がかかった。
よって1945年初頭にマリアナを占領できても日本本土空襲ができるのは1945年4月以降になると予測された。
それに比べマッターホルン作戦は本来、1944年5月1日には作戦開始する予定(結局遅延した)だったので1年近くも差が開くと考えられたのである。

それならば何故、マリアナを予想以上に早く攻略できたのであろうか?
その理由は戦没した伊1号潜から暗号書を入手できたり、ニューギニアの第9艦隊司令部壊滅や海軍乙事件で「あ号作戦」の計画書が入手できたり、T事件で日本海軍の基地航空隊と船団が脆くも壊滅したり、日本軍がガダルカナル戦で「大部隊は送れども食糧は送らず」といった自滅的作戦指導をして「盆と正月がクリスマスベルを鳴らしながらやって来た様な幸運」が次々と発生したからである。
その極めつけがマリアナ沖海戦で暗号が筒抜けだったり作戦計画がバレバレだった事を勘案しても、主力2空母に次々と潜水艦の魚雷が命中し大鳳に至ってはガス爆発で脆くも沈むとは、お釈迦様でも予想し得なかったであろう。
更に爆戦と言う中途半端な機種を配備したりアウトレンジ戦法と言う企画倒れの愚策を弄して自滅したのだから、米軍は笑いが止まらなかったと思われる。

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