ふたつの誤算


最初に誤算をしたのは日本陸軍だった。
戦史叢書4巻「1号作戦1」24頁の1号作戦計画大綱案には作戦の目的の筆頭に「西南支那ニオケル敵空軍基地ヲ覆滅シ本土空襲等ノ敵企図ヲ封殺ス」とある。
また同書23頁ではその敵空軍基地を桂林及び柳州としている。
大陸打通作戦として名高い1号作戦の主目的は日本本土空襲の阻止にあったのだ。
一般に日本の軍部は本土防空に不熱心でありそれが日本本土の焦土化を招いたと考えられているが陸軍は本土防空を深く憂慮していたと言えよう。
ただしちょっと考えが足りなかった。


1号作戦:
さて、1号作戦だが当初から本土防空を目的として立案された訳ではない。
まず1943年末に虎号兵棋が実施されたがこの時点では「海軍は頼りにならんから遅かれ早かれ太平洋方面は破綻するだろう。そうなったら頼みの綱は本土と大陸だ。今の内に大陸打通した後方の兵站線を安定化させよう」といった主旨であった。
それが紆余曲折して敵空軍基地攻略に変わったのである。
だがなぜ桂林、柳州の攻略で本土空襲の阻止が可能だと考えたのであろうか?
同書30頁によれば大本営陸軍部の服部作戦課長は「当時は桂林、柳州を覆滅すればそれで事足りると考えた。」との事である。
その根拠となるのは日本側のB29に対する性能判断で戦史叢書19巻「本土防空作戦」197頁によると1943年末頃は爆弾搭載量3tで航続距離6000q、作戦行動半径は2500qと推測されていた。
太平洋戦記3の線スケールで測ると判り易いが桂林−八幡間は2450qである。
つまりこの性能判断が正しいとすれば1944年4月17日に実施され11月10日の桂林及び柳州攻略で日本本土は空襲を免れるはずであった。
まさに日本陸軍は大陸打通作戦によって「攻撃的防空」を為さんとしたのである。
しかし結果はどうであったか?
1944年6月16日に九州の八幡製鉄所が空襲を受け大本営の企図は脆くも瓦解した。
B29は桂林ではなくインドのカルカッタから発進し成都で中継給油して八幡製鉄所に飛来したのである。
太平洋戦記3だと成都−八幡製鉄所は2954qになる。
なお戦史叢書19巻日本陸軍はこの空襲で撃墜された機体を調査しB29の性能判断を爆弾3t搭載で航続8150qと改訂した。
前は6000qと推測していたのだからおよそ33%の性能向上であり作戦行動半径に直すと3325qになる。
実際の性能は爆弾4t搭載で航続5600qである。
ただし機銃などを撤去し機銃手を搭乗させなければもっと航続力は伸び搭載力も増える。
日本陸軍はB29の航続力を過小評価して無駄な大陸打通作戦を実施しひいては本土防空の破綻を招いた。
当初からB29の性能を正当に評価していれば大陸打通作戦など実施しなかったし防空態勢もより充実させていたであろう。
成都まで攻略?
それができれば大陸作戦そのものが勝利で終わっている。


マッターホルン作戦:
かくして51万の日本軍が100万の中国軍相手に1500qを突破した史上空前の大陸打通作戦(数値の出典は戦史叢書4巻)は壮大な無駄に終わった。
そして次に誤算をしたのは米国であった。
太平洋を望むワシントン州シアトルに本社を構えるボーイング社は米軍きっての重爆メーカーとして名高くB29の初飛行は1942年9月21日、シアトル近郊のレントン工場に併設されたボーイング飛行場で行われた。
太平洋を目前にした飛行なのだ。
目指す主目標は日本本土である。
空に舞い上がった巨鳥は西の彼方を睨み据えたに違いない。

開発に成功したら量産に移り部隊を編成して実戦投入するのが道理であろう。
ここで「どこに投入するか?」と言う問題が発生する。
この問いに対する米国の回答はマッターホルン計画であった。
インドのカルカッタ周辺を基地とするこの計画は1943年11月に策定された。
果たしてカルカッタを出撃したB29はそのまま対日戦略爆撃を実施できるのか?
勿論、できない。
幾らなんでも航続力が不足する。
機体の整備や弾薬の搭載、訓練などはカルカッタで行い対日戦略爆撃の本番だけ中国の成都で燃料の中継補給するのがマッターホルン計画の骨子なのである。
よってカルカッタと成都にはB29の発着可能な飛行場が必要であった。
渡辺洋二著「日本本土防空戦」によるとカルカッタの方は米軍の工兵6000名と現地労務者27000名が投入され5箇所の飛行場が設営(資料によっては4箇所)された。
問題なのは成都の方で4箇所(資料によって5箇所)の飛行場を設営するのは中国だけでやらねばならないから人力に頼る他はなくその労働力は戦史叢書19巻で20万余、「日本本土防空戦」だと20万以上で最終的には33万、前田哲男著「戦略爆撃の思想」では32万で予備に23万、食糧運搬として別に20万としている。
更にB29の大編隊を出撃させるのに見合った燃料、弾薬などの準備を忘れてはいけない。
カルカッタの方は簡単だ。
タンカーや貨物船で運べば良いだけだからね。
でも成都に燃料を備蓄するのはそう簡単ではない。
ビルマルートを遮断され孤立した中国首都の成都へ燃料を送る手段は空輸だけだ。
戦史叢書19巻395頁で成都でB29が中継補給する物資を1機23tとしている。
つまり100機では2300tになる。
それではどの様にしてこれを輸送するかと言うと戦史叢書4巻66頁では空輸の為、1944年10月までにC87輸送機2000機を使用する予定と記述されている。
C87とはどの様な輸送機なのだろうか?
なぜ通常のC47輸送機などを使用しないのだろうか?

インドから中国への空輸は一般にハンプ(こぶ)輸送と呼ばれる。
これは中途にヒマラヤ山脈が「こぶ」の様にそびえ立ち空路の難所だからである。
通常の輸送機でも行けない事はないが上昇限度ぎりぎりの飛行を余儀なくされる。
かくして排気タービン装備のB24重爆の派生型であるC87輸送機が投入される事になったのだがC87はたった287機で生産中止となった欠陥機であった。
そこで輸送力の不足を補う為、B29を使用してのピストン輸送が実施された。
それではB29のカルカッタ進出を詳述しておこう。
マッターホルン計画は国家的事業だからB29はボーイング社のレントン工場やウィチタ工場は言うに及ばずベル社のマリエッタ工場、ノースアメリカン社のカンサスシティ工場、マーチン社のオマハ工場など全米各地で総力を挙げて量産された。
そして量産されたB29は東へ向かって続々と飛び立って行った。
「えっ、西じゃないの?」
「さっき日本は西の方角だっていったよ?」と言うなかれ。
確かに西へ行った方が日本に近いけど日本の占領地域を抜けては行けないのである。
「急がばまわれ」と言うヤツだ。
米大陸を横断しカナダのニューファンドランドに集結したB29はまずモロッコのマラケシュに降りて給油し次はエジプトのカイロ、更にはパキスタンのカラチを経由しカルカッタまで飛行したのである。
さすが地球は丸いね。
平塚柾緒著「米軍が記録した日本空襲」28頁によるとB29のカルカッタ進出は4月2日で戦史叢書19巻304頁によると5月上旬までに141機がカルカッタに集結した。
「長旅ご苦労さん」と言いたい所だが4月13日にマラケシュで1機墜落、4月15日にはカイロで1機、カラチで5機墜落しその他にも2機が辿り着けなかった。
「日本本土防空戦」104頁では米国を離陸した150機のB29で5月8日に目的地へ到達したのは130機と記述している。
そして到着したB29はすぐさまピストン輸送にかり出された。
「米軍が記録した日本空襲」やサンケイ出版「B29」にはB29が燃料7t空輸可能とあり「戦略爆撃の思想」490頁には成都への燃料輸送にはB29が8回のヒマラヤ越え1930qの飛行が必要とある。
1機当たり23tと前述したが空輸量が7tなら往復4回ピストンしなければならない。
「戦略爆撃の思想」にある8回のヒマラヤ越えはこれを指すのだろう。

結論として100機のB29が日本本土爆撃する為には400機のB29がピストン輸送に従事せねばならずマッターホルン計画は誤算の上に成立した砂上の楼閣であった。
B29を進出させようにも地球をグルグル回る大遠征なのだからカルカッタの機数を増やすのは容易ではない。
500機のB29があるのなら500機で日本本土空襲をした方が良いに決まっている。
そもそも5月上旬までに到着したB29は141機だけなので500機など夢の話だ。
それなら80%のB29でピストン輸送し20%のB29で出撃するか?
だが少数での出撃は壊滅の危険が伴う。
よってまとまった数での出撃が前提となるのだが燃料の集積は微々たる量なのだから出撃ペースがぐっと落ちてしまう。
かくして50機以上の編隊によるカルカッタからの日本本土空襲は6月16日の八幡空襲63機、8月20日の八幡空襲80機、10月25日の大村空襲56機、11月21日の大村空襲109機で1〜2ヶ月に1回のペースで大変低調であった。
それに引き替えサイパン陥落後、同地に進出したB29による50機以上の大規模空襲は11月24日の東京空襲80機、11月27日の浜松空襲62機、12月3日の東京空襲76機、12月13日の名古屋空襲80機、12月18日の名古屋空襲63機、12月22日の名古屋空襲、12月27日の東京空襲72機と非常にハイペースで短ければ2〜3日、長くても10日以内には日本本土空襲を実施した。
結局の所、インドを基地としたマッターホルン計画は壮大な無駄に終わったのである。

なおインドのB29が日本本土空襲に活発でなかった理由は他にもあった。
日本本土を空襲しようと思うから大変なのだ。
カルカッタから直に攻撃できる目標なら困る事はない。
よって6月16日の八幡空襲の前に98機でバンコクを空襲した。
また成都経由で攻撃するにしても日本本土より防備の手薄な目標として鞍山の製鉄所が狙われ7月29日に96機、9月8日に115機、9月26日に117機で空襲された。
同様の理由で台湾もまた10月14日に130機で空襲された。
更に成都の備蓄燃料を消費しない目標としてパレンバンの精油所が狙われた。
中継給油地にはセイロンが利用され8月10日に56機が空襲している。
他に日本本土以外の目標としてラングーン、漢口なども空襲された。
特に94機による12月18日の漢口空襲は市街地に対する無差別空襲で大きな民間人の被害が生じた。
戦争は恐ろしい。
米軍の戦略爆撃機は同盟国の民間人すら容赦しないのである。


第20空軍:
ここでひとつB29の編成について解説(文末の付録参照)しておきたい。
通常、米陸軍航空隊は戦域別にエアフォース(Air Force:AFと略)を編成し航空機はその中のユニット(unit)に所属する。
日本語でエアフォースは「第8空軍」(英本土で対独戦略爆撃に従事した)や「第14空軍」(中国戦線で対日戦に従事した)などと訳される場合が多いが資料によって異なる。
戦史叢書に於いてすら巻によって空軍としている場合や航空軍としている場合、単にAFと記述されている場合など様々で統一が取れていない。
なお、他の航空機と異なりB29だけは戦域に限らず全機が第20空軍の所属とされた。
よってワシントンに司令部を置く第20空軍は戦域をもたずインド方面とマリアナ方面のB29を合わせて指揮していたのだが終戦直前、マリアナへ進出した。
また終戦直前には英国から第8空軍が沖縄に転出し同地へもB29の配備が開始された。
ユニットの訳語は部隊だが爆撃機の場合、固有名称編成での最小規模はボマーメントスコードロン (Bombardment Squadron:BSと略)となる。
BSの訳は爆撃飛行隊もしくは爆撃中隊が多く指揮官の階級は多くの場合、中佐である。
戦史叢書19巻307頁によるとB29の搭乗員11名のうち将校は5名であり機長の階級は少尉から少佐までのケース(少尉、中尉の機長は例外的)が考えられる。
よって多くの将校を指揮する必要性から指揮官の階級が高いので私としては中隊と呼称するより飛行隊の方がよいのではないかと思う。
数個BS(B29の場合は初期が4で後に3)で編成されたのがボマーメントグループ(Bombardment Group:BGと略)で爆撃部隊、爆撃群、爆撃連隊(サンケイ「B29」)爆撃大隊(世界の傑作機)などと訳される。
指揮官の階級は殆どが大佐なので爆撃部隊とするのがよいのではないかと思う。
数個BG(B29の場合は4個)で編成されたのがボマーメントウィング(Bombardment Wing:BWと略)で爆撃航空団(「丸グラフィック」)、飛行団(サンケイ「B29」)、爆撃連隊(「世界の傑作機」)などと訳される。
指揮官の階級は殆どが准将なので爆撃航空団とするのがよいのではないかと思う。
B29を装備する爆撃航空団は最終的に6個編成された。
第20空軍の司令部はワシントンに所在するので直接、各爆撃航空団を指揮できない。
よって現地の各爆撃航空団を指揮する為に編成されたのがボマーコマンド(Bomber Command:BCと略)で爆撃機集団、爆撃隊(「航空情報」や郷田「航空戦略」)、航空団(「丸グラフィック」)、爆撃兵団(サンケイ「B29」)などと訳される。
指揮官の階級は准将もしくは少将なので爆撃機集団とするのがよいのではないかと思う。
当初、第20空軍はインドに第20、マリアナに第21、台湾及び比島方面に第22、アリューシャンなどの北方に第23爆撃機集団を展開する予定だった。
これらのうち最初に進出可能となったのはインド方面だったのでまず最初に第20爆撃機集団が編成されて同地に進出、指揮下に第58爆撃航空団が編入された。
かくして実施されたのがマッターホルン計画である。
この時点で第20空軍(アーノルド大将)の作戦部隊は第20爆撃機集団(ウルフ准将)だけでその指揮下部隊は第58爆撃航空団(サンダース准将)だけであった。
次に進出可能となったのはマリアナで同地には第21爆撃機集団が進出した。
本来なら続々と生産されるB29で続々と爆撃航空団を編成し第20と第21爆撃機集団の双方を増強して日本本土戦略爆撃を行う予定であった。
しかしインド方面は前述した様に補給に大きな問題を抱えていた。
かくして第20空軍はマッターホルン計画を中止し続々と編成されたB29の爆撃航空団を全てマリアナの第21爆撃機集団に編入したのである。
ただし例外として終戦直前、沖縄の第8空軍に第316爆撃航空団が編入されている。
さて、爆撃飛行隊や爆撃航空団の機数だがまず最初に幾つかの資料を漁ってみよう。
戦史叢書19巻305頁では第58爆撃航空団に所属する爆撃飛行隊を7機編成、爆撃部隊を28機編成、爆撃航空団の総数を112機としている。
これには予備機が含まれていない事に注意して頂きたい。
なお同書の452頁ではマリアナに進出した各航空団の1944年11月頃の各爆撃飛行隊を9〜11機編成と記述している。
サンケイ「B29」の67頁では第58航空団に所属する各爆撃部隊を28機編成としているが巻末では基本的なB29部隊の編成として爆撃飛行隊10機、4個爆撃飛行隊の35機+予備機10の合計45機で爆撃部隊、4個爆撃機部隊+予備機12機の合計192機で爆撃機集団と記述している。
これはちょっと計算がおかしい。
10×4+10は50であって45では無いからだ。
爆撃部隊の45機と爆撃飛行隊の10機が正しく予備機の10機が誤記の様に思われる。
なぜなら45機と予備10機が正しいなら実働は35機で4個飛行隊で割り切れない。
更に実働35機に対して予備10機だとあまりに予備の数が多すぎる。
また他の資料でも4個爆撃部隊による爆撃航空団192機編成が散見されるので爆撃部隊が45機なのは間違い無い様に思われる。
爆撃部隊は10機編成の4個爆撃飛行隊+予備機5機の45機編成なのではなかろうか。
戦史叢書4巻「大陸打通作戦1」66頁ではクォドラント会談で爆撃部隊を28機編成に決定したと記述している。
木俣滋郎著「陸軍航空隊全史」326頁では8機編成の4個爆撃飛行隊8機編成で爆撃部隊(32機)としている。
郷田充著「航空戦力・上」193頁では爆撃飛行隊を9〜12機編成、爆撃航空団の編成数を180機、後に192機としている。
冨永謙吾著「定本・太平洋戦争」に於ける第58爆撃航空団の編成定数は120機だ。
わかった?
つまり最初に編成された第58爆撃航空団は7機編成の爆撃飛行隊だったらしいが編成が逐次、拡大されどうやら最終的には12機になっていったようである。
それと同時に爆撃航空団に所属する爆撃部隊数も4個から3個に減少した。


マリアナ奪取!:
話を元に戻そう。
カルカッタ及び成都からの日本本土空襲は1944年6月16日に始まり翌年1月6日のの大村空襲で幕を閉じた。
1944年11月24日にはマリアナからの日本本土空襲が始まり非効率なマッターホルン計画はその存在意義を失ってしまったからである。
かくしてカルカッタ及び成都のB29を擁する第58爆撃航空団は逐次、マリアナに進出し1945年5月からは第21爆撃集団に所属して日本本土空襲に参加する事になった。
だがそんなにマッターホルン計画が非効率でマリアナからの作戦が効率的なら何故、米軍は最初からマリアナ攻略を前提にして日本本土空襲を実施しなかったのだろうか?
マッターホルン作戦の開始からマリアナからの作戦開始まで僅か5ヶ月しか経ってない。
その理由を戦史叢書19巻304頁では連合軍首脳部が1944年内に太平洋方面で「日本本土爆撃が可能な島嶼を占領し得るとは思われなかった」と記述している。
それに占領したとしてもすぐにB29の基地として使用できる訳ではない。
米軍がサイパンを占領したのは8月10日だが第21爆撃集団が日本本土爆撃を開始したのは11月24日で3ヶ月もの日時がかかった。
よって1945年初頭にマリアナを占領できても日本本土空襲ができるのは1945年4月以降になると予測された。
それに比べマッターホルン作戦は本来、1944年5月1日には作戦開始する予定(結局遅延した)だったので1年近くも差が開くと考えられたのである。
それならば何故、マリアナを予想以上に早く攻略できたのであろうか?
その理由は戦没した伊1号潜から暗号書を入手できたり、ニューギニアの第9艦隊司令部壊滅や海軍乙事件で「あ作戦」の計画書が入手できたり、T事件で日本海軍の基地航空隊と船団が脆くも壊滅したり、日本軍がガダルカナル戦で「大部隊は送れども食糧は送らず」といった自滅的作戦指導をして「盆と正月がクリスマスベルを鳴らしながらやって来た様な幸運」が次々と発生したからである。
その極めつけがマリアナ沖海戦で暗号が筒抜けだったり作戦計画がバレバレだった事を勘案しても主力2空母に次々と潜水艦の魚雷が命中し大鳳に至ってはガス爆発で脆くも沈むとはお釈迦様でも予想し得なかったであろう。
更に爆戦と言う中途半端な機種を配備したりアウトレンジ戦法と言う企画倒れの愚策を弄して自滅したのだから米軍は笑いが止まらなかったと思われる。
マリアナ沖海戦だけにしても「米潜の雷撃成功」と「爆戦」及び「アウトレンジ戦法」がなければ大きく勝敗の様相は変わっていたであろう。
元来、大鳳は敵の急降下爆撃に耐えうる装甲空母なのだ。
最終的には沈むにしても敵の第一撃に耐え第2次攻撃隊、第3次攻撃隊を発進して戦うべき存在なのである。
それが最後方に位置し航空機の航続距離のみを頼りにするアウトレンジ戦法で戦うとは「何の為に貼った装甲飛行甲板?」と聞きたくなる。
爆戦にしても「爆撃機としても戦闘機としても使える」としたフレコミで採用されたものの爆撃機としては緩降下爆撃しかできないので命中率は艦爆の半分以下であり戦闘機としての能力は搭乗員が艦爆出身者であった為に「空戦能力はほとんどなかった」(戦史叢書12巻378頁)という有様であった。
もし装甲空母の大鳳を前衛部隊の3航戦に所属する瑞鳳と代えていたらどうであろうか?
アウトレンジ戦法など採用せず前衛は大きく前進して戦端を開いたら?
爆戦など採用せず千歳や千代田には防空用の戦闘機を満載していたら?
どうせ後方にいては能力が発揮できない防空駆逐艦は思い切って前衛部隊に配属して防空能力を高めていれば?
長門にしても後方にいては役に立たないが前衛部隊に配属されていれば、もしも戦艦による洋上決戦が生起した時には参戦の機会があるかもしれない。

死児の齢を数える様だがこれらの「if」を少し検証してみよう。
マリアナ沖海戦の敗因は何よりも日本の艦載機が米戦闘機の迎撃で壊滅した点にある。
これはアウトレンジ戦法を取った為、米艦載機の航続距離では日本艦隊が攻撃できず全戦闘機が迎撃任務に充てられた為に発生した。
よって日本の前衛部隊が接近していれば米機動部隊はこれに攻撃隊を発進させていたであろうし攻撃隊に護衛戦闘機を随伴させるのなら迎撃に使用できる戦闘機は半減する。
よって日本海軍の各攻撃隊が米空母に投弾できる機会は大幅に向上し生残性も増大する。
確かに米の攻撃隊に襲われる前衛部隊は大きな損害を蒙るであろう。
多分、軽空母の2隻は即座に沈没し大鳳も大きな損傷を受けたかも知れない。
しかし多数の爆戦に代わり多数の防空戦闘機が存在し戦艦、巡洋艦、防空駆逐艦からなる対空火網が効を奏するならば米の攻撃隊とてただでは済まないだろう。
前衛部隊の日本空母が壊滅するのと引き替えに1、2、3航戦から発進した攻撃隊はどれだけの米空母を叩けるだろうか?3隻か?4隻か?5隻か?
いずれにせよその後、両軍の戦艦による決戦が始まる。
戦艦戦力なら大和型2隻を含む日本の5隻は米新式戦艦7隻に充分、対抗できる。
果たしてどんな戦いとなるのだろう?
案外、地中海で英伊の戦艦が演じた様に両軍、上手く近寄れず行ったり来たりの繰り返しで物別れとなったかも知れない。
アッツ島沖海戦やスラバヤ沖海戦の昼戦が遠距離砲戦に終始し決定的な勝敗がつかなかった様に。
何はともあれ、史実で生起した様な一方的な大敗は避けられたのではなかろうか。
まあ、それはさておき実際の話、日本海軍はマリアナ沖海戦で敗北しサイパンは連合軍の手に落ちた。
連合軍指導部が偉いのはここからでマッターホルン計画が難航するのならB29部隊全部をマリアナに集中させる事に方針転換したのである。
間違いは誰にでもある。
日本陸軍も連合軍指導部も大きな誤算をした。
しかし「棄てる神あれば拾う神あり」。
「誤りあらば改め勝機あらば乗ず」の心構えがある方に勝利の女神は微笑む。


大統領とB29:
さて、ここまで読んできて「なぜ連合軍首脳部は1945年4月まで日本本土空襲を待てなかったのだ?」と思われた方が大勢いらっしゃるだろう。
その問いに対する答えは「1944年が大統領選挙の年でありその6月前後にはどうしても大きなイベントで国民の好感度を得たい」と言う思惑があったからなのだ。
だからこの年の6月にマリアナ攻略、ノルマンディー上陸、ローマ攻略、マッターホルン計画による日本本土初空襲と米軍は次々に大作戦を実施している。
そしてこれらが片っ端から上手くいったからルーズベルトは見事、選挙で勝利し米史上、最初で最後の4選大統領に就任した。
つまりマッターホルン計画は実質的な作戦と言うより選挙対策の宣伝的意味合いが強くマリアナの占領が確定した後もしばらく続いたのはルーズベルトの個人的都合が大きい。
だから宣伝さえ終わったらマッターホルン計画に固執せずマリアナへB29を集中投入した辺りは面子より実利を取る姿勢が感じられ、しぶとさが垣間見える。
さて、B29は以下の特徴をもつ。

1.ずば抜けて航続力が長い。
2.与圧キャビンが装備されており高高度性能が優れている。
3.多数の遠隔操作銃塔を装備し防御火力が充実している。
4.非常に速力が高く補足が難しい。
5.爆弾搭載量が非常に大きい。

これらの特徴は日米双方に大きな影響を与えた。
まず1だがこれを過小評価した日本陸軍は無駄に大陸打通作戦を発動させ貴重な資材と人命と時間を浪費し本土空襲の災禍を防ぎそこねた。
何故過小評価したのだろうか?
誰か正当に評価できる人物はいなかったのだろうか?
戦史叢書19巻195頁によるとB29はミッドウェーから東京を攻撃可能だと海軍の源田実大佐は言っていたらしいがこれは幾らなんでも過大評価だ。
196頁によると1943年末の陸軍の予測ではウェークから攻撃可能と推測しているが197頁の予想性能表の数値だとその場合の爆弾搭載量は1tになり桂林−九州は3tと推測してる様である。
だが実際はもっと航続力が長かった。
元来、海軍の陸攻は防御力が低い代わりに航続力が長く陸軍の重爆は防御力が高い反面、航続力は短い。
よってこうした評価の差になったのであろう。
次に2だがB29の高高度性能を恐れた日本側はやっきになって排気タービン装備の高高度戦闘機を開発したが難航を重ね最終的に実用化できなかった。
よって高高度で侵入するB29を殆ど迎撃できなかったのだがB29もまた高高度では爆撃が成功せず最終的に中高度以下での爆撃へ移行した。
結局、高高度性能は偵察と核攻撃以外、あまり役には立たなかったのである。
高高度戦闘機に振り回された日本側も日本側だが理論倒れに終わった高高度性能に固執し無駄に面倒臭い爆撃機を開発した米国も米国である。
今度は3だがB29の防御火力は凄まじく強力だったがルメイは日本の防空戦闘機が劣勢(本当は単発戦闘機はいっぱいあったが本土決戦に備えて温存し出撃させなかった)と考え機銃を撤去させ爆弾搭載量を増加させて出撃させた。
これが上手くいって日本は焦土と化した。
結果論から言えば「ルメイの大成功」となるが日本が温存策を取らなければかなりの損害(硫黄島を攻略できているか否かがこれに大きく影響する)が出ていたであろう。
日本側が愚かなのかルメイが強運なのか・・・
いずれにせよ無理して強力な防御火力を装備した事は無駄に終わった。
4は確かにB29の良い点である。
ただし高高度性能と違い昼間の中高度以下であれば全く追いつけない程ではなかった。
5も重要だ。なにしろ核爆弾は重いからね。
でもルメイの様に「機銃を降ろして爆弾を増載しろ!」って事になるなら「爆弾搭載量は多ければ多い程良い」と言う事になり「どれだけあれば充分か?」など関係なくなる。
つくづくB29は因果な爆撃機だ。
日本本土を戦略爆撃したからだけではない。
B29のせいで散々、日本陸海軍は振り回され果ては連合軍首脳部すらもかなり頭を悩ませられたからである。
つまり最初のB29運用構想と実際にB29が使われた状況はかなり乖離していたのだ。


B29に対する積極的対抗策その1(成都への反撃):
さて、日本本土へ来襲するB29に対処するには本土上空で迎撃する消極的対抗策とB29の飛行場を叩く積極的対抗策が考えられる。
本土防空戦が如何にして推移し破綻したかは多くの書籍で述べられている。
だが日本軍が実施した積極的対抗策について語られる事は少ない。
果たして日本軍は何時、どの様な手段で積極的対抗策を実施したのであろうか?
攻撃的防空を目的としてB29の飛行場予定地を奪取する1号作戦(大陸打通作戦)は究極の積極的対抗策だったがB29の航続力を誤算し画餅に帰した。
だが、まだ諦めるのは早い。
成都近郊に点在するB29の前進基地を日本軍占領地域から空襲すれば良いのだ。
例えB29の在地機を破壊出来なくとも集積燃料や滑走路を破壊できれば痛撃となる。
B29による日本本土初空襲は1944年6月16日の八幡空襲(63機)である。
ただしこの時点でB29の作戦は燃料不足から少数機による出撃が多く50機以上の多数機を投入したのは8月20日(80機)が2回目であった。
成都を前進基地とするB29が日本本土を空襲するには飛行経路の大半を日本陸軍が占領し随時、日本陸軍航空部隊が迎撃できる中国大陸上空を通過せねばならない。
よって当初、日本陸軍航空隊は往路及び復路での迎撃を実施したが高速かつ高高度性能に優れたB29を捕捉するのは容易ではなく殆ど戦果は上がらなかった。
なお、B29の前進基地に対する空襲作戦はB29のインド進出情報に接した5月頃より企図されていたが司偵による事前偵察と爆撃機(この時点では99式双軽が主力)の航続力延伸工事が難渋しており具体的な計画案の策定は困難を極めた。
これが現実性を帯びたのは前述した2回目の日本本土空襲(8月20日)が昼間空襲であり上空を通過していくB29の大編隊を目視した日本陸軍第5航空軍首脳部が事態を憂慮した為だとされている。
第5航空軍の長距離機(司偵以外)は9月1日時点で99式双軽26機、97式重爆2型21機、1式戦30機、4式戦30機で短距離機を合わせると合計207機であった。
そして9月8日、115機のB29が前進基地を出撃(目的地は日本本土ではなく満州の鞍山であった)したのが偵知され第5航空軍は第1次成都攻撃を実施した。
使用兵力は97式重爆1個戦隊から8機、双軽2個戦隊から各5機の計18機である。
戦史叢書74巻中国方面陸軍航空作戦によると北支の運城に集結した攻撃隊は2330に出撃し夜間爆撃を実施、重爆2が未帰還となったがB29を14機撃破したと報告した。
ただしカール・バーガー著サンケイ「B29」P111ではこの攻撃による被害はB29及び輸送機各1機が損傷したに過ぎないとしている。
第2次の成都攻撃は9月26日であった。
同日、117機のB29が成都を出撃して鞍山へ向かったがその帰投時を狙い10機の99式双軽が1940に出撃、8機が爆撃した。
日本側はB29を7機炎上、7機撃破と報じたがサンケイ「B29」では5機のB29が損傷したと記述している。
3次は10月7日だが米軍の爆撃作戦に呼応した「送り狼」ではない
10月にはもはやB29が成都へ常駐化しつつありこれに対するタ弾攻撃が実施された。
運城に集結した双軽10、重爆6は2300に出撃し出撃し大型機3、小型機1を炎上 、大型機23、小型機18を撃破と報告したが重爆1を喪失した。
そしてこの攻撃を最後に97式重爆は内地へ帰還し以降は双軽のみとなった。
10月25日、56機のB29が大村を昼間空襲した。
その翌日夜、4次攻撃として双軽2個中隊が成都を空襲、B29を15炎上、42撃破と報告している。
27日夜も出撃予定だったが前進根拠地に着陸直前、米戦闘機に攻撃され中止となった。
5次は10月29日で双軽8が出撃したが戦果は確認されていない。
さて、11月13日に第5航空軍が保有していた長距離機(司偵以外)は99式双軽38機、1式戦11機、4式戦13機で短距離機を合わせると合計152機である。
双軽の数は補充によってかなり増えているが戦闘機は激減している。
第5航空軍の主任務は大陸打通作戦の支援であり成都攻撃は副次的任務であった。
よって戦闘機は在支米航空部隊(第14空軍)との激烈な空戦で損耗したのである。
双軽もまた成都攻撃が専任ではなく他の戦術支援任務に従事していた。
そして11月21日、109機のB29が大村を空襲し同日夜、双軽6が第6次成都攻撃を実施、4機のB29を炎上させ1機を撃破したと報じた。
12月18日には94機のB29が漢口を空襲した。
更に翌日、今度は40機のB29が大村を昼間空襲、第5航空軍は第7次として双軽10機による攻撃を実施したが目標に到達しえたのは6機(戦果不明、損害なし)であった。
これが最後の成都攻撃となった。
なぜならインドから成都経由でB29を出撃させるマッターホルン作戦は翌年1月17日に実施された台湾の新竹空襲を最終攻撃とし同月28日には全機がマリアナへ転出してしまったからである。
米側記録によると成都に対する日本軍航空部隊の来襲は10回、来襲機数は43機としている。
実際の来襲は7回で来襲機数はもっと多いが夜間でもあるし正確を期すのは不可能だ。
米側は「損害は重大と言うよりも、むしろうるさい程度」としてしか評価していないが投入した兵力の規模から見て致し方ない。
前進基地でのB29の有無に関わらずもっと大規模な戦爆連合で基地の燃料等に対する昼間空襲を実施していれば補充に悩む米軍は相当、大きな痛手を蒙ったであろう。
米軍の燃料補充が弱点であったと当時の第5航空軍首脳は知っていたので残念である。
ともあれ第5航空軍が如何に健闘しようとも既にマリアナは失陥し戦局の焦点はそちらへ移っているので事後の戦局に大きな影響を与えはしなかったのだが。


補給:
B29にまつわる「ふたつの誤算」はこうして幕を閉じた。
そしてマリアナを基地とするB29の大編隊が日本本土を襲う悪夢の如き次章の幕が新たに開いたのである。
ただしマリアナを攻略してもすぐにマッターホルン作戦が中止となり全B29がマリアナへ転進した訳ではなく当面はマリアナとインドの二正面から対日戦略爆撃が実施された。
第21爆撃機集団のB29がマリアナへ進出したのは1944年10月12日、マリアナから日本本土に対する最初の空襲は11月24日で以降、成都からの最後の日本本土爆撃となった1945年1月6日の大村空襲まで二正面からの日本本土空襲が続いた。
マリアナを攻略すれば成都を経由するインドからのマッターホルン作戦は不要なはずだ。
だが連合軍統合参謀本部はマッカーサー元帥がフィリピン攻略作戦の為、成都のB29(第20爆撃機集団)に支援を要請していたので当初、マリアナ移転を躊躇していた。
よって第20爆撃機集団が空襲した目標はフィリピン戦での日本軍後方基地である九州及び台湾各地の飛行場が多かった。
つまり第20爆撃機集団の任務は戦略爆撃ではなく戦術爆撃になっていたのである。
そして1月15日、遂に陸軍航空隊総司令官アーノルド大将はマリアナ移転を決定した。
1月28日には第20爆撃機集団に所属する最後のB29が成都から撤収している。
マッターホルン作戦で米軍は49回の空襲(3058ソーティ)を行い11477tの爆弾を投下し105機のB29を失った。
こうしてマッターホルン作戦は修了したのだが、ここで成都のB29前進基地に対して日本陸軍が実施した様な攻撃がマリアナでも行われたか触れてみたいと思う。
マッターホルン作戦の場合、前進基地の成都へ燃料を集積するのが大きな問題であった。
日本陸軍はB29を撃破するのに執着した為、米軍が日本本土などへ大規模な空襲を実施した直後に成都を攻撃したがこれはあまり合理的な運用ではなかった。
B29を撃破しても航空機生産力に優る米国にとってさして痛痒とはならない。
次から次に生産しどんどん前線に送るだけだからである。
まして地上で撃破されるのなら貴重な搭乗員を失う事もない。
当時、米軍は成都に事前集積してある燃料を失うのが一番の痛手であった。
幾ら多くのB29を保有していても成都の事前集積がなければ1機も出撃できない。
逆に成都から大規模な出撃をした直後は事前集積が0に近いのだから全く困らない。
日本軍は米軍が一番困らない時を選んで攻撃を繰り返した事になる。
事前集積の大部分が終わった時に攻撃し、それを繰り返したなら成都を前進基地とするマッターホルン作戦はより困難をきたしたであろう。
それに比べ目をマリアナに転じるとT3型タンカーが1隻入港すれば18000tの燃料、ビクトリー型輸送船1隻が入港すれば10620tの物資が供給される。
B29の燃料搭載量は最大で約31t、爆弾搭載量は高度や目標までの距離で異なるが1945年5月までは平均して4t前後だったからT3型タンカー1隻とビクトリー型輸送船1隻で580機分の燃料と2655機分の爆弾が供給されるのである。
成都からの出撃の場合、100機のB29を出撃させる為には400機のB29が燃料補給に従事せねばならなかったと前述したがマリアナでは容易に燃料と爆弾が補充できた。
米軍がタンカーと輸送船に困る事はない。
ビクトリー型輸送船は531隻、タンカーもT3型とT2型(搭載量16600t)を合わせ588隻も建造されたのだから。
よってマリアナの場合には燃料などではなく「B29そのもの」を叩かねばならない。


B29に対する積極的対抗策その2(マリアナへの反撃):
マリアナからB29が初出撃したのは1944年10月27日のトラック空襲である。
18機が参加し10月30日と11月2日にもトラック空襲は繰り返された。
この3次に渡るトラック空襲によりマリアナのB29が実戦投入段階に達した事が日本軍にも判明、同日夜には航空部隊によるマリアナ攻撃(靖一号作戦)が開始された。
なお、この作戦には陸海軍航空部隊が参加した為、戦史叢書に幾つかの混乱が見られる。
どういった混乱かと言うと陸軍の関係者が記述した叢書では海軍の作戦について詳述しておらず海軍の関係者が記述した場合には逆の問題が発生するからである。
また出撃機数や戦果についてもかなりの差が生じている。
よって以下の文章は少々、読みづらくなっているがどうか、御理解頂きたい。
まず陸軍関係の戦史叢書36巻「沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦」から始めよう。
米軍は6月15日にサイパンへ上陸し7月9日には日本軍の組織的抵抗が終了した。
サイパンを失えば早晩、B29が進出し激烈な航空戦が生起する事は目に見えている。
よって日本陸軍は7月20日には早くも各教導飛行師団から選抜したマリアナ攻撃隊を編成、当初の隷下部隊は97式重爆2型装備の第2独立飛行隊、100式司偵装備(50s爆弾2発搭載)の第3及び4独立飛行隊の3個中隊編制であった。
ついで10月16日には4式重爆の110戦隊(2個中隊)が創設され編入されている。
初攻撃は前述の様に11月2日で新海少佐指揮の第2独立飛行隊9機が内地を出撃し硫黄島を経由して8機が2000に出撃、7機が到達、5機を喪失した。
第3及び4独立飛行隊も攻撃する予定だったが機体が揃わず中止となった。
そして同日、海軍の陸攻もサイパンを攻撃したと記述されている。
一方、海軍系の戦史叢書85巻「本土方面海軍作戦」ではこの日の作戦を攻撃703飛行隊の陸攻10機がマリアナ各地を攻撃し8機が攻撃成功、喪失3機と記述している。
米軍の記録によるとこの日の損害は3機だったらしい。
この攻撃の対抗措置として米軍は11月5日に24機のB29で硫黄島を空襲した。
そして翌日、日本軍による2回目のマリアナ攻撃が実施された。
叢書26巻には97式重爆3機が2245に硫黄島を出撃し損害なしで戦果11、司偵も8機出撃の予定だったが3機しか出撃できず1機喪失と記述されている。
これが叢書85巻だと陸攻7、重爆5、司偵6でマリアナを攻撃し戦果不明と記述しており戦史叢書45巻「連合艦隊6」では陸軍機を重爆4、司偵2と記述、戦史叢書94巻「陸軍航空の軍備と運用3」では司偵の出撃機数が4機となる。
これらの書物の差異をいちいち挙げても面倒なので以降は概括して説明するとしよう。
11月8日、米軍が反撃作戦としてしB29による2回目の硫黄島空襲をした。
ついで11日にも米軍はB29でトラックを空襲している。
更に24日、米軍は80機のB29で日本本土への初空襲(東京:昼間)を実施した。
これに対し日本軍は26日夜、3機の97式重爆(叢書85巻では4式重爆と記述)でサイパンを報復攻撃をし12機の戦果を挙げた。
そして翌日、戦闘317飛行隊からの抽出兵力で編成された第1御盾隊(指揮官大村謙次中尉、零戦12、彩雲2)が0800に硫黄島を出撃しサイパンを攻撃した。
戦果は渡辺洋二著「日本本土防空戦」で破壊3、大破2としているがウィキの「硫黄島の戦い」では破壊11、損傷8としており奥宮正武著「海軍航空隊全史」では米軍からの通信傍受で炎上4、大破6と判断したとある。
零戦はパガン島に帰還する予定であったが1機も戻らなかった。
残念なのはその日、大部分のB29(81機)が東京への昼間空襲に出撃中で僅かの機数しか飛行場に駐機しておらず戦果が少なかった事である。
当時、マリアナに展開していたB29は11月22日の時点で118機に過ぎず81機が出撃していたとするなら攻撃対象は約40機に過ぎない。
サイパンへの夜間攻撃は28日にも実施され陸攻5(12とする資料あり)が出撃した。
米側は26〜28日にかけての攻撃で受けた損害を大破4,中破6、小破22としている。
陸戦史集「硫黄島作戦」による27日の戦果は破壊4、大破13である。
B29による日本本土空襲は11月30日の東京夜間空襲(29機)、12月3日の東京昼間空襲(86機、目標は中島飛行機の武蔵野工場)と続いた。
これに対し日本陸海軍は12月6日に4式重爆10機を2240に硫黄島から出撃させ8機が目標に到達、各機50sタ弾15発を搭載して攻撃し戦果32(6機喪失)を挙げた。
この攻撃には攻撃704飛行隊の陸攻6も参加し2機が未帰還となっている。
以降1週間、日本本土空襲がなかったので日本側はこの攻撃を効果大と判断した。
だが12月13日から名古屋各地の三菱重工へ昼間空襲が実施された。
まず13日に発動機工場(90機出撃)、ついで18日には航空機工場(63機出撃)、22日には再び発動機工場が爆撃を受けている。
硫黄島に対する爆撃も激化し19日には74機、24日には73機が来襲した。
なお、この時点では硫黄島爆撃に貴重なB29は使用されずB24などが投入された。
当然、日本側もマリアナに対して爆撃を実施する。
25日夜には762空の銀河5と第7戦隊の4式重爆3、翌日夜は762空の銀河4と第7戦隊の4式重爆3がサイパンを攻撃し2日併せて銀河2、4式重爆1を喪失した。
この攻撃で4式重爆は30s爆弾20発を搭載して出撃している。
そして27日に米軍は報復措置として約70機で硫黄島を空襲し12月26日が日本軍による最後のマリアナ攻撃となった。


空挺作戦:
マリアナへの爆撃が中止された理由はふたつあり、ひとつは硫黄島への資材空輸が急務になった事、もうひとつは以降のマリアナ攻撃が空挺作戦に変更されたからである。
空挺作戦を実施する義烈空挺隊は挺進第1連隊の1個中隊を基幹として編成された空挺部隊で独立第3飛行隊の97式重爆5機(100式司偵から改編)に各10名搭乗し強行着陸でB29の在地機を攻撃する計画(戦史叢書94巻参照)であった。
広い飛行場に50名の歩兵を進出させていったい何ができるのであろうか?
仮に無事、胴体着陸出来たとして目標となるB29まで徒歩で進撃するしかない。
全員で1機のB29を破壊すれば済む訳ではないから各員、バラバラに行動する。
米軍とて黙って行動を見逃しはしないだろう。
はっきり言って義烈空挺隊による作戦は無謀で50名では戦果の挙げようも無い。
米軍夜間戦闘機の迎撃と対空砲火をくぐり抜け目標上空にまで達したなら地上掃射した方が確実に戦果を挙げられるし後にはそうした目的で銀河や4式重爆が改造されている。
こうして無謀極まりない空挺攻撃の為に部隊を編成し訓練もされたのだが逼迫する戦況から硫黄島への資材空輸(2月4日から12日で30t)が優先され作戦実施は延期された。
そして2月19日に米軍は硫黄島へ上陸し空挺作戦は中止となったのである。
ただし義烈空挺隊は12機(168名)に拡大のうえ沖縄戦に転用され出撃した。
1945年5月24日に実施されたこの攻撃(義号作戦)で出撃した12機のうち4機は中途帰還し残り8機のうち7機が撃墜され1機のみが着陸に成功している。
義烈空挺隊は99名戦死し破壊した米軍機は9機(軽微な損傷機多数)に過ぎなかった。
だが日本軍は義号作戦に懲りず更に大規模な空挺作戦をマリアナ方面で計画した。
既に硫黄島が敵手にある以上、マリアナ攻撃は片道とならざるを得ない。
この空挺攻撃は剣作戦と命名され陸海軍空挺部隊の混成約600名(輸送は1式陸攻60機の胴体着陸)で実施する予定で同時に多銃装備銀河15機と爆装銀河15機による攻撃(烈作戦)も行われる予定であったが米軍の空襲で航空機が破壊された為、8月18日以降に延期となり終戦によって中止となった。
こうしてマリアナのB29飛行場に対する日本軍の航空攻撃は終焉を迎えたのである。


B29恐るるに足らず!:
さて、「日本本土防空戦」では11月2日以降、マリアナ攻撃に出撃した日本軍機を合計73機で損失34機と記述しているが私の集計では出撃機が海軍51〜58機、陸軍33〜38機の合計84〜96機であり叢書94巻では海軍出撃機63機と記述している。
日本軍機の損失要因には対空砲火や夜間航法ミスの墜落などが考えられるが米軍の第6夜間戦闘飛行隊などが保有するP61夜間戦闘機の迎撃による被害も多い。
一方、戦果は「日本本土防空戦」だとB29の全損11機、大破8機、一部損傷35機で兵員約250名を死傷させたと記述している。
これに対し米軍が硫黄島に対して実施した空襲は12月だけで906機に及び日本軍が12月に出撃させた31機の約30倍にも達した。
米軍が物量に優るとは言えなぜ、この様に大きな差が生じたのであろうか?
それは日本軍が決戦正面を捷一号作戦で戦局の激化したフィリピンと考えており陸海軍の主力航空部隊が南西方面へ転出してしまったからである。
更に初期の日本本土空襲が高高度爆撃であったが為に命中精度が悪く大きな爆撃効果が無かった事も「B29恐るるに足らず」との過信を生んだ。
当時の日本軍にとってB29は「高高度性能と防御火力及び防弾に優れた墜とすのが困難な強敵」だったが「さして危険はない敵機」でもあったのである。
だから「B29の発進基地を覆滅する積極策」より「来襲したB29を捕捉出来る高高度迎撃機の開発に重点を置く消極策」が取られた。


B29恐るべし!:
B29による被害が激増したのは1945年3月以降でその理由は以下による。

1.爆弾搭載量が増大した事。
2.出撃機数が増大した事。
3.爆弾から焼夷弾に変更した事。
4.高高度精密爆撃から夜間無差別空襲に戦術転換した事。

まず1だが当初、マリアナから日本本土を空襲する際、硫黄島上空での日本軍警戒網を避ける為、大きく迂回し「くの字形」に飛行経路をとらねばならなかった。
だが硫黄島の陥落によって飛行経路は直線となりあまつさえ燃料不足の際には帰途に不時着可能となった為、爆弾搭載量は大きく増加した。
4により燃費の悪い高高度飛行から燃費の良い低高度飛行に移行した事も一因である。
ちなみに1944年12月3日に実施された東京空襲では86機のB29が各機225s爆弾10発を搭載して出撃し76機が目標に到達し56機が高度8700mで中島飛行機武蔵工場に投弾したが命中弾したのは僅か26発(命中率4.6%)であった。
つまり有効打となったのは爆弾5.85tに過ぎない。
それに比べ1945年3月10日の東京大空襲では325機(334機とする資料もある)のB29が出撃し高度1500〜2300mで市街地に投弾、東京は焦土と化した。
この空襲に参加したB29の搭載量は「日本本土防空戦」や戦史叢書19巻によると各機平均6tで全投下量は1625t、爆弾は搭載されず全て焼夷弾であった。
これが3の効果で軍需施設には効かないが市民生活に対しては全弾が有効打となる。
加えて折からの季節風で類焼して巨大火災旋風が発生し被害が拡大した。
B29の搭載量は以降も機銃撤去などで増加し戦史叢書19巻によると1945年5月16日の名古屋空襲では平均8tを搭載している。
この頃になると2の効果で出撃機数は522機(投下は457機)に増え12月3日の6倍、1機当たりの搭載量が3.5倍なので全投下量は21倍にもおよんだ。
低高度での命中率上昇や焼夷弾の効果と共に甚大な損害を日本側へ与えた。
この様に当初は「さして危険はない敵機」だったB29は次第に「恐るべき敵機」に変貌したのであり「硫黄島の失陥」がB29の戦力増大に与えた影響は実に大きい。


硫黄島:
それでは「硫黄島の失陥」がどの様な影響を与えたか列挙してみよう。

1.P51などの昼間護衛戦闘機基地としての活用。
2.B29不時着地としての活用。
3.迂回せずに飛行経路を設定できるのでB29の搭載量増大。
4.日本軍の航空攻撃からマリアナを保全。

一般には1が知られているが実際には2、3、4の方が戦局に大きな影響を与えた。
第21爆撃機集団のB29は11月24日以来、1945年3月4日までの期間に22回の日本本土空襲を実施し2148機を出撃させ5198tの爆弾/焼夷弾を投下した。
戦史叢書19巻によると1945年1月の損害は全出撃機の5.7%である。
「日本本土防空戦」では1945年1月1日から2月10日までに第21爆撃機集団のB29が受けた損害を41機損失、出撃機の5.9%としている。
損害がピークに達したのは1945年2月10に実施された群馬の中島飛行機太田工場空襲で出撃機118機に対し10%の12機が撃墜された。
これが硫黄島に不時着可能となった3月4日から激減したのである。
3月10日の東京空襲は4.3%でまだ大きかったが12日の名古屋、13日の大阪、16日の神戸、19日の名古屋(2回目)での出撃数合計1243機に対し損失合計は僅か7機で0.5%にまで低下した。
ここまで損失が低下したのは硫黄島が不時着地として有用な働きをしたからである。
ちなみに硫黄島から出撃した戦闘機が日本本土空襲へ初参加したのは4月7日であり上記の損失低下に1の昼間戦闘機進出は一切、影響していない。
硫黄島に不時着したB29は2241機(サンケイ「B29」の数値)とも約2400機(「航空戦力・上」や「陸軍航空隊全史」の数値)とも言われる。
もし米軍が硫黄島を手中にしていなければそれらは全て墜落していたのであろうか?
そんな事はあるまい。
それでは第二次世界大戦に於けるB29の出撃機数と損害を資料別に列挙してみよう。
まずサンケイ「B29」だが第20空軍が34790機出撃、414機損失とある。
次は「陸軍航空隊全史」で第20空軍が約35000機出撃で414機損失。
英ウィキの「日本本土空襲」でも第20空軍は414機損失だ。
これが日ウィキの「B29」だと33004機出撃で494機損失(他に米本土での訓練中事故260機を合わせると754機)となり読売新聞だと33000機出撃、損失は米本土での訓練事故を合わせて714機としている。
ちなみに日ウィキの「B29」は第9爆撃部隊を二重集計しているので御注意頂きたい。
更に米空軍の資料では31387機出撃で損失は米国内で119機、外地進出時の10機、戦闘で414機の合計543機としている。
「定本・太平洋戦争」では32612機出撃で485機損失となっている。
この本では損失要因を空戦58(12%)、空戦+対空砲火29(6%)、対空砲火+事故(82%)と詳述しており2707機の損傷機についても空戦348(13%)、対空砲火2063(76%)、空戦+対空砲火234(8%)、事故62(2%)と詳しい。
「航空戦力・上」は「定本・太平洋戦争」と同値だが出撃機数を第21爆撃機集団としているので誤記と思われる。
この様に資料によってかなり数値が異なるのだが仮に第20空軍の出撃数を34790機、損失を414機とした場合、第20爆撃機集団の出撃数は3058機、損失は105機なので第21爆撃機集団の出撃数は31732機、損失は309機となる。
第21爆撃機集団の3月4日までの出撃機数は2148機、損失は1945年1月1日から2月10日までで41機、1944年は手持ち資料の判明分だけで36機(日本本土空襲で24、硫黄島空襲で1、日本軍の空襲で11)なので合計すると77機以上となる。
よって1945年3月4日以降、終戦までの出撃数は29584機、損失は232機で出撃機数に対する損失の割合は僅か0.78%となる。
前述の1945年3月12〜19日までの0.5%に比べれば若干、上昇しているがこれは日本軍が米軍の夜間低高度無差別空襲に対応して戦術転換した為である。
これにより5月23日(558機出撃、17機損失、3%)と5月25日(498機出撃、26機損失、5.2%)では甚大な被害が生じた。
そこで米軍もまた戦術転換し5月29日の横浜空襲では510機の出撃に対し7機の損失で1.3%まで被害を低減化している。
5月23、25日の特例とも言える大損害を除くと終戦までの出撃数28528機に対して損失189機なので0.66%となり0.5%にかなり近い数値と言えよう。
この様に硫黄島の奪取により第20空軍の損失は大きく低下したのである。
次に3の搭載量増大だが前述の如くB29の搭載量は3.5倍にも増えたので硫黄島を確保し続ければ日本本土に投下された爆弾/焼夷弾は1/3.5で済んだであろう。
4のマリアナ保全については本稿で論述した通り日本軍によるマリアナ空襲が小規模だった為、現在に至るもあまり話題にのぼる事がない。
もし、日本軍が大規模なマリアナ空襲を実施していたらどうだったであろうか?
硫黄島の飛行場施設は広大で「あ号作戦」でも横空(定数267機)の選抜兵力(112機)と27航戦(定数陸上機144+水上機、1944年6月初頭の陸上保有88機)で編成された八幡部隊が進出し作戦に参加している。
それゆえ米軍は硫黄島に所在する日本軍航空機を恐れ執拗に爆撃を繰り返した。
もし日本軍がマリアナのB29基地に大規模な空襲を実施していたらどうであったか?
おそらくそれなりの戦果が挙がっていたであろう。
だが米軍も必死に反撃し硫黄島とマリアナ間で熾烈な航空戦が生起したと思われる。
その結果はどうなったであろうか?
日米が航空消耗戦を実施して勝利を得る事は考えづらいからいずれは負けるであろう。
だが日本本土が焦土と化す事態を若干、先に延ばせたかも知れない。
ではもし、大本営が硫黄島を諦めず陸上守備兵力の更なる増強、航空兵力の本格的投入による決戦を企図していたら?
やはり護りきる事は難しいと思われる。
日本軍の壊滅が3月25日ではなくもっと先に延びたり米軍の損害が28600名ではなくもっと増えるだけかも知れない。
米軍が硫黄島の重要性を認識している以上、如何なる時をかけても如何なる損害を払っても必ずや攻略するであろう。
だがそうであっても硫黄島は護るに値する戦略的重要性を秘めた要衝なのだ。
日本本土空襲による生産力の激減、国民の戦意喪失、多大なる人的被害を考えれば硫黄島防衛戦こそが真の天王山となる戦いだったと御理解頂けよう。


大本営の問題点:
それでは硫黄島防衛戦を日本軍は如何なる方針で遂行したのであろうか?
戦史叢書93巻「大本営海軍部・連合艦隊7」214頁によると1944年夏の時点では米軍の侵攻に際し基地航空隊で迎撃、撃滅し島の確保を図る計画であった。
その後、1945年1月に策定された帝国陸海軍作戦計画大綱でも所要航空兵力と潜水艦兵力の集中運用で撃滅し上陸に至った場合でも極力、出血消耗を強いる方針であった。
ところが2月初頭になって方針が変更されて「結局は敵手にゆだねるのもやむを得ぬ」となり航空兵力の運用は「一部の航空兵力をさくにとどめる方針」とされたのである。
その理由を同書では「来攻を予想される南西諸島方面と硫黄島を両方とも防衛するには(航空兵力が)到底不充分」としている。
つまり南西諸島(沖縄)と硫黄島を天秤にかけ南西諸島を選んだのである。
果たしてその判断は正しかったであろうか?
前述の様に硫黄島の帰趨は日本本土空襲の成否を分かつ。
戦略爆撃の脅威を充分に認識しているのなら南西諸島より硫黄島を優先したであろう。
だが沖縄戦に投入された兵力が菊水作戦だけで陸海軍合わせ延べ2969機に及ぶのに対し硫黄島戦には彗星12、天山8、零戦12で編成され艦船攻撃を主任務とする第2御盾隊と飛行場爆撃を主任務とする少数の陸攻(延べ26機出撃)しか投入されなかった。
確かにどこもかしこも護る事などできはしない。
決戦すべき拠点があれば諦めざるを得ない拠点もあろう。
だとすればなぜ、航空兵力を結集した沖縄で決戦しなかったのであろうか?
米潜の跳梁する南シナ海で無理をしてまで移送した第9師団を台湾へ転用した理由は?
補充として第84師団を移送(最終的には中止された)するくらいなら最初から第9師団ではなく第84師団を台湾へ送った方が良かったのでは?
大本営の沖縄防衛は理解に苦しむ。
そもそも沖縄で決戦したのは間違いではなかったのか?
決戦すべきは日本本土への脅威となる硫黄島だったのではなかろうか?
硫黄島が確保されていたからこそ日本本土が本格的戦略爆撃の惨禍から免れていた事を大本営は理解していなかったのだろうか?
だとすれば大本営の判断は拙劣としか思えない。

身も蓋ない判定をするなら核兵器の存在で第二次世界大戦の勝敗は決まったと言える。
しかし1945年7月16日にアラモゴードで実施された史上初の核実験までマンハッタン計画の核兵器は絵に描いた餅に過ぎなかった。
もし核兵器が「科学者の空想ではない」と多くの政治家、軍人に理解されていたら第二次世界大戦で実施された数多の作戦は行われず、さっさと手を挙げて降参していたか必死になって核兵器開発に邁進していただろう。
そして核兵器の戦力化が不確定であったからこそ重爆による戦略爆撃で日本にとどめを指す為、海洋ではガダルカナルからマーシャル、マリアナへと続く飛び石作戦が繰り返され大陸では多くの障害を乗り越えマッターホルン作戦が敢行されたのである。
だが本稿で述べた様にマッターホルン作戦は大きな誤算によって瓦解した。
マリアナ奪取も硫黄島の存在により必ずしも決め手とはならなかった。
硫黄島攻略によって遂に米軍は日本を敗北に追い込む機会を得たのである。

私は大本営の誤判断を責めているのではない。
統帥する以上、誤算はつきものだ。
本稿で述べた様に日米とも誤算につぐ誤算を繰り返し戦争を遂行している。
そして自らの誤算を反省し次の一手を編み出す者が最後の勝利を掴み取る。
我々は常に先人の誤算を見据え自分が手を打つ時の糧とせねばならない。
                                   (了)


付録:
第二次世界大戦中に編成されたB29装備部隊一覧

第20空軍:ヘンリー・アーノルド大将
 第20爆撃機集団:ウルフ准将(インド、中国方面)
  58爆撃航空団:サンダース准将 後に第21爆撃機集団へ転出
   40爆撃部隊
    25爆撃飛行隊
    44爆撃飛行隊
    45爆撃飛行隊
    395爆撃飛行隊(44年10月廃止)

   444爆撃部隊 全機B29基本型
    676爆撃飛行隊
    677爆撃飛行隊
    678爆撃飛行隊
    679爆撃飛行隊(44年10月廃止)

   462爆撃部隊
    768爆撃飛行隊
    769爆撃飛行隊
    770爆撃飛行隊
    771爆撃飛行隊(44年10月廃止)

   468爆撃部隊
    792爆撃飛行隊
    793爆撃飛行隊
    794爆撃飛行隊
    795爆撃飛行隊(44年10月廃止)

 第21爆撃機集団:ハンセル准将(マリアナ方面)
  73爆撃航空団:オドンネル准将
   497爆撃部隊
    869爆撃飛行隊
    870爆撃飛行隊
    871爆撃飛行隊

   498爆撃部隊
    873爆撃飛行隊
    874爆撃飛行隊
    875爆撃飛行隊

   499爆撃部隊 全機B29基本型
    877爆撃飛行隊
    878爆撃飛行隊
    879爆撃飛行隊

   500爆撃部隊
    881爆撃飛行隊
    882爆撃飛行隊
    883爆撃飛行隊

  313爆撃航空団:デービス准将
   6爆撃部隊
    24爆撃飛行隊
    39爆撃飛行隊
    40爆撃飛行隊

   9爆撃部隊
    1爆撃飛行隊
    5爆撃飛行隊
    99爆撃飛行隊

   504爆撃部隊
    398爆撃飛行隊
    421爆撃飛行隊
    680爆撃飛行隊

   505爆撃部隊
    482爆撃飛行隊
    483爆撃飛行隊
    484爆撃飛行隊

   509混成部隊(核攻撃部隊)
    393爆撃飛行隊 B29核搭載型

  314爆撃航空団:パワー准将
   19爆撃部隊
    28爆撃飛行隊
    30爆撃飛行隊
    93爆撃飛行隊

   29爆撃部隊
    6爆撃飛行隊
    43爆撃飛行隊
    52爆撃飛行隊

   39爆撃部隊
    60爆撃飛行隊
    61爆撃飛行隊
    62爆撃飛行隊

   330爆撃部隊
    457爆撃飛行隊
    458爆撃飛行隊
    459爆撃飛行隊

  315爆撃航空団:アームストロング准将 全機B29B型
   16爆撃部隊
    15爆撃飛行隊
    16爆撃飛行隊
    17爆撃飛行隊

   331爆撃部隊
    355爆撃飛行隊
    356爆撃飛行隊
    357爆撃飛行隊

   501爆撃部隊
    21爆撃飛行隊
    41爆撃飛行隊
    485爆撃飛行隊

   502爆撃部隊
    402爆撃飛行隊
    411爆撃飛行隊
    430爆撃飛行隊

第8空軍:ドーリットル中将(沖縄方面)
  316爆撃航空団(作戦投入なし)全機B29基本型
   333爆撃部隊
    435爆撃飛行隊
    460爆撃飛行隊
    507爆撃飛行隊

   346爆撃部隊
    461爆撃飛行隊
    462爆撃飛行隊
    463爆撃飛行隊

   382爆撃部隊
    420爆撃飛行隊
    464爆撃飛行隊
    872爆撃飛行隊

   383爆撃部隊
    876爆撃飛行隊
    880爆撃飛行隊
    884爆撃飛行隊

装備機は特記ない限りB29基本型もしくはA型である。



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