阿部隆史 執筆記事F『世界の艦船』2012年1月号



1906年12月2日の英戦艦ドレッドノートDreadnought就役は列強海軍に大きな衝撃を与えた。
以降、多数のド級艦(本稿ではド級巡戦、超ド級、超ド級巡戦も包括する)が建造され数々の海戦に参加し戦没したが、本稿ではこれらド級艦の戦歴のうち代表的な海戦を紹介していきたいと思う。
ドレッドノート以後、諸列強は次々とド級艦を建造していき1914年8月の第一次大戦勃発時、保有国は英、独、米、日、仏、伊、墺、ブラジル、スペインの9ヶ国(他に露、アルゼンチン、チリ、トルコが建造中)に及んだ。
これらド級艦で初の戦没艦となったのは英戦艦オーダシャスAudaciousである。

戦艦 ドレッドノート
戦艦 オーダシャス

同艦は1914年10月27日、北海のトリー島沖で触雷によって沈んだ。
元来、ド級艦は大口径砲による砲撃戦を主目的としていたが、第一次大戦時に砲撃戦での戦没は僅か4隻に過ぎず触雷、魚雷艇攻撃、コマンド部隊攻撃、自軍による雷撃処分で各1隻、事故で3隻が爆沈し、砲撃戦以外で7隻も沈んでいる。
ド級艦同士の砲撃戦が少なかったのは当時、世界第2位のド級艦保有量を誇る帝政ドイツ海軍の用兵が艦隊保全主義に根ざしていた事が理由の一つと言えよう。
さりとてド級艦の主砲が終始、沈黙を保っていた訳ではない。
ド級艦の主砲が真価を発揮した最初の戦いがフォークランド沖海戦である。


第一次世界大戦:ドイツ本国水域を遠く離れた戦い
英国は世界各地に植民地を領有しており、それと対峙する帝政ドイツ海軍との戦いは瞬くうちに全世界へと広がった。
わけても開戦時に本国水域外にあった帝政ドイツ海軍艦艇は英国にとって大きな脅威となり、各地で熾烈な砲火の応酬が交わされた。
装甲巡洋艦シャルンホルストScharnhorst及びグナイゼナウGneisenauを主力とし、青島を基地とするシュペー中将指揮下のドイツ東洋艦隊は6月中旬から演習の為に出港しており、大戦勃発時は南太平洋上にあった。
ドイツ東洋艦隊は当初、開戦の暁には仏印フランス海軍部隊を撃滅し、同地を攻略する予定であったが8月4日、英国が参戦し日英同盟による日本の参戦も懸念された為、急遽、任務が変更された。
かくしてシュペー中将は南米方面への脱出を決定、9月にタヒチを砲撃、10月にはヤン・フェルナンデス島で燃料を補給しチリへ向かった。
そして1914年11月1日、装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、武装商船1隻からなるクラドック少将指揮下の英艦隊をコロネル沖海戦で撃滅した。
海上交通線の寸断は英国にとって死活問題となる。
よって英第1海軍卿フィッシャー大将は巡洋戦艦インヴィンシブルInvincible及びインフレキシブルInflexibleを基幹とする追撃部隊をスターディ中将の指揮下に編成し11日、南米のフォークランド島へ向けデボンポートを出港させた。

巡洋戦艦 インヴィンシブル
装甲巡洋艦 シャルンホルスト

この時、巡洋戦艦の南米派遣を未だ知らぬドイツ東洋艦隊はスタンリー港を襲撃すべく、フォークランド島に進撃を続けていた。
12日8日1030時、スタンリー港に在泊する巡戦2、装甲巡3、軽巡1からなる英艦隊はドイツ海軍東洋艦隊を迎撃する為、一斉に抜錨した。

戦闘は一方的な追撃戦となり1255時から砲撃が開始された。
戦況の不利を悟ったシュペー中将は軽巡を分散させて各自脱出を命じ、装甲巡2隻で英艦隊に立ち向かった。
だが1617時にシャルンホルスト、1802時にはグナイゼナウと相次いで沈没、軽巡も1927時にニュールンベルグNurnberg、2123時にライプチッヒLeipzigと逐次、沈められドレスデンDresdenのみが脱出に成功した。
開戦時、独自の行動を迫られた帝政ドイツ海軍の水上艦部隊がもうひとつある。
巡戦ゲーベンGoebenと軽巡ブレスラウBreslauからなるゾーヒョン少将指揮下のドイツ地中海戦隊で開戦時にはイタリアのメッシナに在泊していた。
この部隊は北アフリカの仏領各地を砲撃した後、英巡戦3隻の追撃を振り切りイスタンブールへ遁走、その後、両艦はトルコ海軍籍に編入されゲーベンはヤウズ・スルタン・セリムYavuz Sultan Selim(以下ヤウズと略)、ブレスラウはミディリMidilliと改名され、ゾーヒョン少将はオスマン艦隊司令長官に就任した。
そして10月29日、ヤウズを旗艦とするオスマン艦隊はオスマントルコ政府内の親独派の了承の下、宣戦布告無しにセバストポリなどの黒海沿岸諸港を砲撃し31日にはロシアがトルコへ宣戦布告するに至った。

当時、ヤウズは黒海唯一のド級艦(ロシアの黒海艦隊は低速の旧式戦艦しか保有していなかった)だったので、イニシアチブを取り続ける事ができた。
同艦は11月18日に黒海艦隊と交戦したが、双方とも主力艦の喪失はなかった。
その後、12月26日には触雷で損傷し、翌年3月まで修理を余儀なくされた。
同艦は翌年5月9日にも黒海艦隊と交戦するが、今回もまた決着はつかなかった。
ただし同年7月6日にインペラトリッツァ・マリヤImperatritsa Mariya、10月18日にはエカテリーナ2世EkaterinaUとヤウズより火力の大きいド級艦が相次いで竣工し、オスマン艦隊の優位は大きく揺らぎ始めた。

巡洋戦艦 ヤウズ・スルタン・セリム
戦艦 インペラトリッツア・マリヤ

1916年1月7日、ヤウズはエレグリ沖でエカテリーナ2世と交戦したが劣勢を強いられて退却せねばならなくなり、速力差によってかろうじて虎口を脱した。
だが1917年3月に勃発したロシア革命により情勢が一変する。
ロシアの戦線脱落により沈静化した黒海を後にヤウズは1918年1月20日、エーゲ海に進出し英海軍のモニター艦ラグランRaglan及びM28を撃沈したが触雷で損傷、皮肉にも同艦がその損傷を修理したのは少し前まで敵であり、講和が成立したばかりのロシア海軍根拠地セバストポリのドックであった。


第一次世界大戦:ドイツ本国水域での戦い
開戦劈頭の8月28日、ビーティ中将指揮下の英大艦隊巡戦部隊は軽巡及び駆逐艦と共にヘリゴラント島のドイツ艦隊泊地を急襲(ヘリゴラント・バイト海戦)し、ドイツ軽巡3隻を撃沈した。
これに対し1914年11月3日、ドイツ大海艦隊もヒッパー少将指揮下の巡戦を主力とする偵察部隊に英本土のヤーマスを砲撃させる。
更に12月16日にはスカボローが砲撃され英海軍の威信は大きく失墜した。
ついでヒッパー少将はドッガーバンクで操業中のトロール漁船団攻撃を決意したが、この情報はいち早く英海軍に察知される事となった。
ビーティ中将はハリッジに在泊するティルウィット代将指揮下の駆逐艦部隊に出撃を命じ、自身もまた旗艦ライオンLionに座乗しローサイスから出撃する。
ヒッパー少将が率いる兵力は巡戦3隻、装甲巡1隻、軽巡4隻、駆逐艦18隻、ビーティ中将が率いる兵力は巡戦5隻、軽巡7隻、駆逐艦35隻を数えた。
1915年1月24日、まず両軍の軽巡および駆逐艦同士が遭遇して戦闘を始め、ついで9時頃に両軍主力が会敵(ドッガーバンク海戦)した。
戦いは英軍による追撃で進展し0935時にまずドイツ装甲巡ブリュッヒャーBlucherが火災を起こし、1018時には英巡戦ライオンが大破する。
更にドイツ巡戦ザイドリッツSeydlizが後部2砲塔に相次いで被弾し大破、1048時ブリュッヒャーが落伍した。
だがライオンもまた戦列を離れざるを得なくなった。

巡洋戦艦 ライオン
巡洋戦艦 ザイドリッツ

その後も追撃戦は続き1213時にブリュッヒャーが沈没し戦いは終わった。
以降、しばらくの間、北海では活発なド級艦の行動は見られない。
北海に於ける作戦の焦点が潜水艦戦に移った為、大海艦隊に所属する主力艦の大部分が対露作戦を担当する東海艦隊へ編入されたからである。
バルト海に移された11隻のドイツ海軍ド級艦(巡戦3隻、戦艦8隻)は同年8月のリガ湾突入作戦でいかんなくその威力を発揮する。
だが1916年に入ると外交的配慮から潜水艦戦は消極化し、それにつれ再び巡洋戦艦による英本土砲撃作戦がクローズアップされてきた。
かくして北海に呼び戻された大海艦隊偵察部隊は4月24日にはヤーマス、25日にはローストフトを砲撃し、5月末にはサンダーランド砲撃を企図する。
しかしサンダーランド砲撃計画は偵察の失敗により中止され急遽、大海艦隊偵察部隊によって英海軍巡戦部隊をジュトランド沖におびき出し、大海艦隊主力でこれを撃滅する事に方針変更される。

一方、英海軍は無電傍受によりこれを察知し対応策を着々と進めていた。
跳梁する大海艦隊偵察部隊の撃滅はもちろんながら、大海艦隊主力を英大艦隊主力で捕捉殲滅できれば後顧の憂いを断ち切る千載一遇の好機となる。
よって英海軍も巡戦部隊と高速戦艦部隊(第5戦艦戦隊)での誘因を画策した。

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