阿部隆史執筆記事F
『世界の艦船』2012年1月号「列強のド級戦艦はいかに戦ったか?」

1906年12月2日の英戦艦ドレッドノートDreadnought就役は列強海軍に大きな衝撃を与えた。
以降、多数のド級艦(本稿ではド級巡戦、超ド級、超ド級巡戦も包括する)が建造され数々の海戦に参加し戦没したが、本稿ではこれらド級艦の戦歴のうち代表的な海戦を紹介していきたいと思う。
ドレッドノート以後、諸列強は次々とド級艦を建造していき1914年8月の第一次大戦勃発時、保有国は英、独、米、日、仏、伊、墺、ブラジル、スペインの9ヶ国(他に露、アルゼンチン、チリ、トルコが建造中)に及んだ。
これらド級艦で初の戦没艦となったのは英戦艦オーダシャスAudaciousである。
同艦は1914年10月27日、北海のトリー島沖で触雷によって沈んだ。
元来、ド級艦は大口径砲による砲撃戦を主目的としていたが第一次大戦時に砲撃戦での戦没は僅か4隻に過ぎず触雷、魚雷艇攻撃、コマンド部隊攻撃、自軍による雷撃処分で各1隻、3隻が事故で爆沈し砲撃戦以外で7隻も沈んでいる。
ド級艦同士の砲撃戦が少なかったのは当時、世界第2位のド級艦保有量を誇る帝政ドイツ海軍の用兵が艦隊保全主義に根ざしていた事が理由の一つと言えよう。
さりとてド級艦の主砲が終始、沈黙を保っていた訳ではない。
ド級艦の主砲が真価を発揮した最初の戦いがフォークランド沖海戦である。


第一次世界大戦:ドイツ本国水域を遠く離れた戦い
英国は世界各地に植民地を領有しておりそれと対峙する帝政ドイツ海軍との戦いは瞬くうちに全世界へと広がった。
わけても開戦時に本国水域外にあった帝政ドイツ海軍艦艇は英国にとって大きな脅威となり各地で熾烈な砲火の応酬が交わされた。
装甲巡洋艦シャルンホルストScharnhorst及びグナイゼナウGneisenauを主力とし青島を基地とするシュペー中将指揮下のドイツ東洋艦隊は6月中旬から演習の為に出港しており大戦勃発時は南太平洋上にあった。
ドイツ東洋艦隊は当初、開戦の暁には仏印フランス海軍部隊を撃滅し同地を攻略する予定であったが8月4日、英国が参戦し日英同盟による日本の参戦も懸念された為、急遽、任務が変更された。
かくしてシュペー中将は南米方面への脱出を決定、9月にタヒチを砲撃、10月にはヤン・フェルナンデス島で燃料を補給しチリへ向かった。
そして1914年11月1日、装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、武装商船1隻からなるクラドック少将指揮下の英艦隊をコロネル沖海戦で撃滅した。
海上交通線の寸断は英国にとって死活問題となる。
よって英第1海軍卿フィッシャー大将は巡洋戦艦インヴィンシブルInvincible及びインフレキシブルInflexibleを基幹とする追撃部隊をスターディ中将の指揮下に編成し11日、南米のフォークランド島へ向けデボンポートを出港させた。
この時、巡洋戦艦の南米派遣を未だ知らぬドイツ東洋艦隊はスタンリー港を襲撃すべくフォークランド島に進撃を続けていた。
12日8日1030時、スタンリー港に在泊する巡戦2、装甲巡3、軽巡1からなる英艦隊はドイツ海軍東洋艦隊を迎撃する為、一斉に抜錨した。

戦闘は一方的な追撃戦となり1255時から砲撃が開始された。
戦況の不利を悟ったシュペー中将は軽巡を分散させて各自脱出を命じ装甲巡2隻で英艦隊に立ち向かった。
だが1617時にシャルンホルスト、1802時にはグナイゼナウと相次いで沈没、軽巡も1927時にニュールンベルグNurnberg、2123時にライプチッヒLeipzigと逐次、沈められドレスデンDresdenのみが脱出に成功した。
開戦時、独自の行動を迫られた帝政ドイツ海軍の水上艦部隊がもうひとつある。
巡戦ゲーベンGoebenと軽巡ブレスラウBreslauからなるゾーヒョン少将指揮下のドイツ地中海戦隊で開戦時にはイタリアのメッシナに在泊していた。
この部隊は北アフリカの仏領各地を砲撃した後、英巡戦3隻の追撃を振り切りイスタンブールへ遁走、その後、両艦はトルコ海軍籍に編入されゲーベンはヤウズ・スルタン・セリムYavuz Sultan Selim(以下ヤウズと略)、ブレスラウはミディリMidilliと改名されゾーヒョン少将はオスマン艦隊司令長官に就任した。
そして10月29日、ヤウズを旗艦とするオスマン艦隊はオスマントルコ政府内の親独派の了承の下、宣戦布告無しにセバストポリなどの黒海沿岸諸港を砲撃し31日にはロシアがトルコへ宣戦布告するに至った。

当時、ヤウズは黒海唯一のド級艦(ロシアの黒海艦隊は低速の旧式戦艦しか保有していなかった)だったのでイニシアチブを取り続ける事ができた。
同艦は11月18日に黒海艦隊と交戦したが双方とも主力艦の喪失はなかった。
その後、12月26日には触雷で損傷し翌年3月まで修理を余儀なくされた。
同艦は翌年5月9日にも黒海艦隊と交戦するが今回もまた決着はつかなかった。
ただし同年7月6日にインペラトリッツァ・マリヤImperatritsa Mariya、10月18日にはエカテリーナ2世EkaterinaUとヤウズより火力の大きいド級艦が相次いで竣工しオスマン艦隊の優位は大きく揺らぎ始めた。
1916年1月7日、ヤウズはエレグリ沖でエカテリーナ2世と交戦したが劣勢を強いられて退却せねばならなくなり速力差によってかろうじて虎口を脱した。
だが1917年3月に勃発したロシア革命により情勢が一変する。
ロシアの戦線脱落により沈静化した黒海を後にヤウズは1918年1月20日、エーゲ海に進出し英海軍のモニター艦ラグランRaglan及びM28を撃沈したが触雷で損傷、皮肉にも同艦がその損傷を修理したのは少し前まで敵であり講和が成立したばかりのロシア海軍根拠地セバストポリのドックであった。


第一次世界大戦:ドイツ本国水域での戦い
開戦劈頭の8月28日、ビーティ中将指揮下の英大艦隊巡戦部隊は軽巡及び駆逐艦と共にヘリゴラント島のドイツ艦隊泊地を急襲(ヘリゴラント・バイト海戦)しドイツ軽巡3隻を撃沈した。
これに対し1914年11月3日、ドイツ大海艦隊もヒッパー少将指揮下の巡戦を主力とする偵察部隊に英本土のヤーマスを砲撃させる。
更に12月16日にはスカボローが砲撃され英海軍の威信は大きく失墜した。
ついでヒッパー少将はドッガーバンクで操業中のトロール漁船団攻撃を決意したがこの情報はいち早く英海軍に察知される事となった。
ビーティ中将はハリッジに在泊するティルウィット代将指揮下の駆逐艦部隊に出撃を命じ自身もまた旗艦ライオンLionに座乗しローサイスから出撃する。
ヒッパー少将が率いる兵力は巡戦3隻、装甲巡1隻、軽巡4隻、駆逐艦18隻、ビーティ中将が率いる兵力は巡戦5隻、軽巡7隻、駆逐艦35隻を数えた。
1915年1月24日、まず両軍の軽巡および駆逐艦同士が遭遇して戦闘を始めついで9時頃に両軍主力が会敵(ドッガーバンク海戦)した。
戦いは英軍による追撃で進展し0935時にまずドイツ装甲巡ブリュッヒャーBlucherが火災を起こし1018時には英巡戦ライオンが大破する。
更にドイツ巡戦ザイドリッツSeydlizが後部2砲塔に相次いで被弾し大破、1048時ブリュッヒャーが落伍した。
だがライオンもまた戦列を離れざるを得なくなった。
その後も追撃戦は続き1213時にブリュッヒャーが沈没し戦いは終わった。
以降、しばらくの間、北海では活発なド級艦の行動は見られない。
北海に於ける作戦の焦点が潜水艦戦に移った為、大海艦隊に所属する主力艦の大部分が対露作戦を担当する東海艦隊へ編入されたからである。
バルト海に移された11隻のドイツ海軍ド級艦(巡戦3隻、戦艦8隻)は同年8月のリガ湾突入作戦でいかんなくその威力を発揮する。
だが1916年に入ると外交的配慮から潜水艦戦は消極化しそれにつれ再び巡洋戦艦による英本土砲撃作戦がクローズアップされてきた。
かくして北海に呼び戻された大海艦隊偵察部隊は4月24日にはヤーマス、25日にはローストフトを砲撃し5月末にはサンダーランド砲撃を企図する。
しかしサンダーランド砲撃計画は偵察の失敗により中止され急遽、大海艦隊偵察部隊によって英海軍巡戦部隊をジュトランド沖におびき出し大海艦隊主力でこれを撃滅する事に方針変更される。

一方、英海軍は無電傍受によりこれを察知し対応策を着々と進めていた。
跳梁する大海艦隊偵察部隊の撃滅はもちろんながら大海艦隊主力を英大艦隊主力で捕捉殲滅できれば後顧の憂いを断ち切る千載一遇の好機となる。
よって英海軍も巡戦部隊と高速戦艦部隊(第5戦艦戦隊)での誘因を画策した。
すなわち両軍とも巡戦を囮として使用したのだがドイツ海軍は英巡戦部隊を高速戦艦部隊が支援していた事と英大艦隊主力の出撃を知らなかった。
まず英独両軍の軽巡が中間距離にあるノルウェー商船を発見した。
そこで臨検の為、接近した両軍軽巡は互いを視認し砲戦を開始する。
ついで両軍の巡戦が戦闘に加わるが英高速戦艦部隊(クイーン・エリザベスQueen Elizabeth型4隻)は回頭命令を見落とし大きく遅れてしまう。
そして1545時にドイツ軍、1548時からは英軍が砲撃を開始する。
射距離は約15000mであった。
以降、熾烈な砲火の応酬が繰り返され両軍巡戦は次々と被弾、1606時には早くも英巡戦インディファティガブルIndefatigableついで1626時にはクイーン・メリーQueen Maryが爆沈した。

こうして英巡戦部隊は窮地に立たされたのだが遅ればせながら戦闘に参加した英高速戦艦部隊によって形勢が逆転する。
よって大海艦隊偵察部隊は主力が待ち受ける南方海面へ退避し追撃戦となる。
1640時、遂に大海艦隊主力が発見され今度は英軍が誘引すべく北上する。
その間、両軍の巡戦と高速戦艦は甚大な損傷を蒙る。
1830時、その姿を戦場に現した英大艦隊主力は当初、戦艦24隻からなる6列単縦陣であったが取舵によって戦闘隊形に変換する。
ここで形勢不利と見た大海艦隊主力は全艦を一斉回頭させ南下を開始した。
かくしてまたもや南方に向かう両軍の追撃戦が展開される。
そして1833時には英軍の巡戦インヴィンシブルが沈没する。
その後も両軍主力の決戦は生起せず戦場は次第に夕闇へと包まれて行った。
以降、深夜の0145時に大海艦隊偵察部隊旗艦リュッツォーLutzowが自沈しジュトランド海戦は終幕を迎える。

英軍の参加兵力は戦艦28、巡戦9、装甲巡8、軽巡21、偵巡5、駆78、その他1の計150、ドイツ軍は戦艦16、旧戦艦6、巡戦5、軽巡11、駆61の計99、戦没艦は英軍が巡戦3、装甲巡3、駆逐艦8、ドイツ軍は巡戦1,旧式戦艦1、軽巡4、駆逐艦5であった。
戦果のみで勝敗を論ずるならドイツに軍配が上がるが差は僅少であり以降、北海でのイニシアティブを失った事を考えれば英軍の戦略的勝利とも考えられる。
この海戦に参加したド級艦は英独合わせて58隻に達する。
だが戦没したのは英独合わせてたった4隻の巡戦(ちなみこれは第一次大戦時に砲撃で戦没したド級艦全てである)に過ぎなかった。
つまり参加隻数の5.8%が戦没したのでありこの数値から大兵力で交戦しながら微少な損害しか生じていない様に見えがちだが巡戦だけに限って見れば参加隻数の28.5%が戦没する大激戦であった。
本海戦の様相を概括するなら両軍の巡戦及び高速戦艦が激戦を繰り広げ両軍主力はこれを観戦していたと言えよう。
巡戦は高速を得る為に防御の弱体化をしのんだド級艦である。
本海戦によって高速でなければ交戦機会が得られない事と防御が弱ければそれだけ多くの犠牲が生ずる事とが列強海軍に再認識された。
よって以降、ド級艦の建造は高速戦艦への道を進んでいったのである。
ジュトランド海戦後、ドイツ軍のド級艦はバルト海に移動し再びリガ湾でロシア海軍と交戦するが大きな損害を受ける事なく1918年11月の休戦を迎えた。
そして1919年6月21日、スカパフローで大海艦隊の戦艦10隻、巡戦5隻の合計15隻のド級艦が一斉に自沈(他に戦艦1隻が座礁)し1度に多数のド級艦が沈んだ最高記録となった。


第二次世界大戦:欧州戦域
1939年9月1日の第二次大戦勃発時、参戦国のド級艦保有数は英の15隻がもっとも多く仏が7隻、ドイツは2隻であった。
なお建造中は英が7隻、仏が3隻、ドイツは4隻である。
またイタリアはまだ参戦していないがド級艦を4隻保有し3隻建造中、ソ連は4隻保有し3隻建造中、日本は10隻保有し2隻建造中、米国は15隻保有し4隻建造中であった。
更に開戦後、英が1隻、イタリアも1隻、ソ連は3隻、日本は2隻、米国は11隻を起工しこれらのド級艦を合計すると101隻になる。
そのうち2隻が戦後竣工(英仏各1)し17隻(英2、仏1、独2、伊1、ソ6、日2、米3)が建造中止となった。
これを差し引くと第二次大戦に参加した戦艦は82隻となる。
そして1945年8月15日の大戦終結時に56隻(英15、仏3、伊5、ソ4、日4、米25)が存在しており戦没艦は26隻(英5、独4、仏5、伊2、日8、米2)であった。
戦没艦の喪失原因を見ると航空機の攻撃によるものが9隻で最多を占め次が水上艦艇との交戦による8隻、自沈の5隻(自軍の手による爆破処分や堤防としての利用も含む)、潜水艦の攻撃による3隻、事故の1隻が続く。
なおビスマルクBismarckの様に水上艦艇との交戦と航空機による攻撃が複合した場合は主な要因(ビスマルクの場合は水上艦艇との交戦)でカウントしている。
水上艦艇との交戦で戦没した8隻のうち比叡は巡洋艦の砲撃、扶桑は駆逐艦の雷撃で戦没したので大口径砲で沈められたド級艦は太平洋戦域で2隻、欧州戦域で4隻の6隻(英1、独2、仏1、日2)となる。
また欧州戦域では戦没艦こそ生じないもののド級艦同士が砲戦を交える機会が数多く発生した。
欧州戦域に於けるド級艦の存在価値は相当高いと考えて差し支えないであろう。

反対に航空機で戦没した9隻(英2、米2、日2、伊2、独1)のうち6隻は太平洋戦域に集中している。
これは太平洋戦域の海戦が航空機を中心としていたからでありド級艦が水上艦艇相手の交戦で戦没した海戦は全て航空機の活動できない夜戦であった。
それに比べ欧州戦域ではド級艦同士の白昼砲撃戦が頻発した。
ただしド級艦が戦没する程の決定的な戦闘とならずに終わった例が多い。
これは大部分の海戦が通商破壊戦や輸送作戦の過程で発生で発生しており彼我いずれかが敵の撃滅より重要な任務を課せられていた事に起因している。
一例を挙げると1941年1月22日から3月23日まで大西洋で繰り広げられた通商破壊戦(ベルリン作戦)にドイツ海軍は巡戦シャルンホルストScharnhorst及びグナイゼナウGneisenauを投入したが英海軍のド級艦に3度も遭遇しながら一度も砲火を交わさなかった。
ドイツ側は商船への攻撃が主目的だったので危険を冒してまで接近せず英側は商船を放置してまでの交戦を欲しなかったからである。
よって仮に戦端が開かれたとしても戦況不利とあらば即座に退避するのでド級艦の戦没まで至った海戦が非常に少ない。
そうした欧州戦域での戦いは大西洋の戦いと地中海の戦いに分けられる。


第二次世界大戦:大西洋の戦い
第二次大戦で最初に戦没したド級艦は1939年10月14日にスカパフローで独潜U47によって撃沈されたロイヤルオークRoyal Oakである。
以降、英海軍では潜水艦によって大戦中にド級艦がもう1隻(バーラムBarham)沈められ3隻が損傷している。
更に戦没こそしなかったが大戦中は甲標的など日、英、伊の小型潜航艇が活躍し英、独のド級艦4隻が大きな損傷を受けた。
さて、第二次大戦勃発時のド級艦勢力比は英仏22隻に対してドイツは僅か2隻であり1割にすら満たなかった。
だが海外植民地に資源供給を依存する連合国にとり海上交通の遮断は致命的弱点なので少数であっても有力な通商破壊艦は看過できない存在であった。
本来、通商破壊艦には潜水艦もしくは航続力の長大な巡洋艦もしくは武装商船が充当されるので対応する護衛も対潜艦艇と巡洋艦で充分である。
ただし通商破壊艦が強大であれば護衛もまた相応に強大でなければならない。
よって開戦当初、通商破壊艦捜索部隊にはポケット戦艦に対応する為、比較的速力の速いド級艦3隻が編入された。

なおドイツが真にド級艦を欲した作戦は1940年4月に9日から開始されたノルウェー侵攻(ウェーゼル演習作戦)であった。
制海権を持たぬドイツにとっての渡洋作戦は薄氷を渡る思いであったが同年5月10日から始まった西方電撃戦により連合軍はノルウェー戦線へ兵力を傾注できなくなり、からくも6月9日にはノルウェーの占領に成功した。
これは以降、北海に面するノルウェー諸港を利用できる事を意味する。
ついで6月22日にはフランスが屈服しビスケー湾に面するフランス諸港も通商破壊戦基地として利用可能となった。
かくして英軍は英仏海峡と北海の封鎖線でドイツの通商破壊艦を阻止できなくなり全船団に相応の護衛を付けねばならなくなったのである。
この状況下で最初に実施されたド級艦による通商破壊戦が前述したベルリン作戦で商船22隻を撃沈後、ドイツの巡戦2隻はフランスのブレストに入港した。
更に1941年5月18日、新造戦艦ビスマルクがゴーテンハーフェンを出撃しベルゲンに入港、燃料補給の後、デンマーク海峡へと向かった。
これに対し英軍は巡戦フッドHoodと新造戦艦プリンス・オブ・ウェールズPrince of Walesで迎撃したが5月24日の交戦で脆くもフッドは轟沈、プリンス・オブ・ウェールズも撃破され英軍は大敗を遂げてしまった。
このままでは大西洋の海上交通が重大な脅威に曝されると考えたチャーチルはあらゆる手段を用いてのビスマルク撃沈を命じた。
かくして大西洋各地の英軍大型艦がビスマルク目指して進撃を開始した。
北からは本国艦隊が追い下がり南からはジブラルタルのH部隊が追い上げ、船団護衛中のド級艦までがその任を離れ追撃戦に加わった。
これに加え英軍はビスマルクの速力を低下させる為に空母の艦載機で空襲し夜間は駆逐艦による夜襲が敢行された。
そして5月27日、新造戦艦キング・ジョージ5世King Georg V及びロドネーRodneyの集中砲火を受け1036時にビスマルクは沈んだ。

一方、ブレストに在泊するシャルンホルストとグナイゼナウは度重なる英軍の空襲によって損傷と修理を繰り返していた。
敵制空権下の港湾に主力艦を停泊させ続けるのは危険極まりない。
よって1942年2月11日、両艦は英仏海峡を突破し本国に回航されたが2月26日にグナイゼナウはここでも空襲を受け大損害を蒙ってしまう。
ドイツとしては主力艦の温存を図る為にも、援ソ船団に睨みを利かせる為にも制空権外のノルウェーに主力艦を集めるのが最善の策となった。
だが1943年9月21日、ノルウェー北部アルテンフィヨルドに停泊するドイツの新造戦艦ティルピッツTirpitzは英潜航艇の攻撃で重大な損傷(修理期間6カ月)を受けドイツが保有する可動戦艦はシャルンホルストのみなってしまう。
そのシャルンホルストも12月26日、英の新造戦艦デューク・オブ・ヨークDuke of Yorkと交戦(北岬沖海戦)して撃沈される。
残ったティルピッツには英空母による空襲が繰り返され最終的には1944年11月12日にランカスター重爆による6トン爆弾の攻撃でとどめが刺された。


第二次世界大戦:地中海の戦い
地中海に於ける戦いで最初に訪れたターニングポイントは1940年6月22日のフランス降伏である。
これにより地中海情勢は一変した。
中立化した仏軍艦艇の帰趨次第では地中海の連合軍が窮地に立たされてしまう。
よって英軍は仏軍艦艇の接収に着手したが各地で大きな抵抗を受けた。
特に北アフリカのメルセルケビルでは戦艦2、巡戦1、空母1、軽巡2、駆逐艦11からなる英のH部隊と在泊する戦艦4、駆逐艦6、水上機母艦1とが7月4日に交戦し仏のド級艦ブルターニュBretagneが撃沈される激戦となった。
ついで7月9日、マルタからアレクサンドリアに向かう船団の護衛にあたる英地中海艦隊(戦艦3、空母1、軽巡5、駆逐艦18)と北アフリカへの輸送任務を終えタラントへ帰還するイタリア第1艦隊が交戦(カラブリア沖海戦)した。
この海戦では双方に若干の損傷艦が生じただけで1隻も戦没していない。

次に地中海の均衡が崩れたのは1940年11月11日に英軍が敢行した空母艦載機によるタラント空襲(ジャッジメント作戦)である。
この攻撃で新造戦艦1隻、旧式戦艦2隻が大破しイタリア優勢は崩れた。
そこで英国はマルタを救援する為に増援部隊の派遣を決定、船団はH部隊の護衛を受け11月25日にジブラルタルを出港した。
更に翌日、英地中海艦隊も支援の為にアレクサンドリアを出港、イタリア艦隊もまたタラントを出港し迎撃に向かった。
この戦い(スパルティヴェント岬沖海戦)での交戦兵力は英側が戦艦1、巡戦1、空母2、重巡1、軽巡6、駆逐艦14、イタリア側が戦艦2、重巡6、駆逐艦14を数えたが今回も若干の損傷艦が出ただけで戦没艦は生じなかった。
そして1941年3月28日、ド級艦が参加する地中海での3度目の大規模な海戦(マタパン岬沖海戦)が発生した。
1941年3月、大戦の戦火は拡大してバルカン半島にまで広がり英国は3個師団のギリシャ派遣を決定、船団が続々とアレクサンドリアから出港していった。
3月27日、イタリア艦隊(戦艦1、重巡6、軽巡2、駆逐艦13)がこの船団(AG9船団)を攻撃する為にタラントを出港、アレクサンドリアの英地中海艦隊(戦艦3、空母1、軽巡4、駆逐艦13)もこれを阻止する為に出撃する。
この海戦ではド級艦同士の砲撃戦は生起しなかったが英の空母艦載機がイタリア艦隊の旗艦である新造戦艦ヴィットリオ・ヴェネトVittorio Venetoを雷撃で撃破、夜戦でも英のド級艦がイタリアの重巡3隻を撃沈して勝利を飾った。

以降、地中海のイタリア海軍ド級艦は燃料の枯渇も相まって表舞台に登場しないまま1943年9月8日のイタリア降伏を迎える。
そしてイタリア海軍最大の悲劇が降伏後に起こった。
連合軍の指揮下に入る為、ラ・スペチアを出港したイタリア艦隊(戦艦3、軽巡6、駆逐艦8)をドイツ空軍のDo217K爆撃機12機が襲ったのである。
この攻撃でイタリアの新造戦艦ローマRomaは滑空爆弾フリッツXを2発受けあえなく沈没、新造戦艦イタリアItaliaもまた1発被弾し大破した。
更に同月16日には英艦隊も襲われウォースパイトWarspiteが撃破された。
なお1945年2月15日、ドイツ側に接収されたイタリア戦艦コンテ・ディ・カブールConte di Cavourが連合軍の空襲によって撃沈され地中海に於ける最後の戦没ド級艦となった。


第二次世界大戦:太平洋戦域
太平洋戦域で最初に発生したド級艦の大事件は開戦劈頭のハワイ作戦である。
日本海軍空母機動部隊によるこの空襲で米国はアリゾナArizona、オクラホマOklahomaを失い戦艦3隻が重大な損傷、3隻が軽微な損傷を受けた。
更に二日後のマレー沖海戦で英国の新造戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡戦レパルスRepulseが日本海軍陸上攻撃機によって沈められド級艦に対する航空機の優位は各国海軍に強く認識される事となった。
つまり両作戦によって日本海軍は太平洋戦域で「圧倒的なド級艦の優勢」を得たのであるが、とりもなおさず「あまり効果のない優勢」となったのである。
よって日米のド級艦はかたや米本土のドックの中、かたや柱島泊地で戦局の進展を眺めるだけで緒戦の戦局にはどちらもあまり影響を与えなかった。
ただし日本海軍の金剛型4隻は別で太平洋及びインド洋全域で縦横無尽の活躍をする空母機動部隊に随伴し支援任務を果たした。
また米国の新造戦艦も高速だったのでガダルカナル攻略(ウォッチタワー作戦)以降は空母の直衛に従事し日本の金剛型に匹敵する存在となった。
これらの米国新造戦艦は高角砲装備数が多く防空戦で絶大な威力を発揮した。
第一次大戦で巡戦だけが交戦機会を得た様に第二次大戦でもまた速力が大きなキーワードとなったのである。
真珠湾で受けた痛手を補う為に米軍は大西洋艦隊のド級艦を太平洋へ回航したが殆ど前線には姿を現さず、日本もMI作戦に11隻ものド級艦を投入したが実際に交戦したのは空母機動部隊に随伴する2隻だけだった。

第2次ソロモン海戦では例外的に陸奥が作戦参加したが低速ゆえ部隊行動に追随できず駆逐艦に護衛され別行動をとっている。
なお1942年10月13日、金剛及び榛名はガダルカナルのヘンダーソン飛行場に対し3式弾による夜間対地砲撃を行い絶大な戦果を挙げた。
制空権が米軍の手中にある為、航空機の飛行できない夜間に接近して砲撃し夜明け前に航空機の航続圏外へ離脱するには高速でなければならないのである。
ヘンダーソン飛行場に対する攻撃は11月12日にも比叡、霧島によって繰り返されたが米巡洋艦部隊による迎撃を受け、米軍の巡洋艦2隻、駆逐艦4隻を沈めたものの比叡が沈められた。
更に同月14日には霧島が重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦9隻と共にヘンダーソン飛行場へ向かったが米の新造戦艦ワシントンWashingtonとサウス・ダコタSouth Dakotaによる迎撃を受け霧島が撃沈(サウス・ダコタは大破)された。
なお米軍も1942年11月8日のモロッコ上陸(トーチ作戦)から頻繁に戦艦による対地砲撃を実行している。
ただし米軍による戦艦の対地砲撃は絶対制空権下に於ける昼間の上陸作戦支援でありゆっくり腰を据えて射撃するモニター艦的運用であって日本海軍が行った夜間の機動的対地砲撃とは本質的に異なっていた。
戦艦の対地砲撃は古来より頻繁に行われておりそれ自体はさして珍しくない。
日本海軍が行った艦砲射撃の特異性は航空機にイニシアティブを奪われた戦艦が航空機の飛行できない夜間に飛行場を砲撃し活路を見いだした点にある。

一方、米戦艦による対地砲撃は高速である必要はなく大戦後半期は多くの低速旧式戦艦がこの任務に充当されていった。
戦艦による対地砲撃が重視されたのは投射量が絶大だからである。
16インチ砲8門を装備する戦艦であれば弾頭重量約1トンの主砲弾が1門当たり約100発、合計800発(800トン)の投射能力をもつ。
それに比べ空母の搭載機用弾薬は少なく大型空母(例は翔鶴)の場合でも190トン程度しか航空機用爆弾を搭載していない。
よって空母に比べ戦艦が遙かに大きな投射能力を持っていると言えよう。
さて、1944年6月のマリアナ沖海戦で日本は6隻の戦艦を前線に進出させていたがその運用は速力による制限を見事に反映していた。
32ノット以上の大型高速空母3隻を主力とする甲部隊に戦艦は1隻も配されず26ノット以上の軽空母3隻を主力とする前衛部隊には金剛と榛名、大和、武蔵が配され約25ノットの隼鷹型を含む乙部隊には長門が編入された。
だが25ノット未満の扶桑はいずれにも編入されなかった。
扶桑型や伊勢型など日本の旧式戦艦は他国の旧式戦艦に比べかなり速力が高く大和型に対して約3ノット、長門型に対しても2ノット程度しか劣速力でない。
しかしその程度の差であっても「足手まとい」と評価されてしまうのである。
だが1944年10月、これらの戦艦が大量投入される戦いが発生した。
もはや空母戦力で劣勢を強いられた日本海軍は米軍のレイテ上陸に対し正面からの決戦ではなく上陸泊地に戦艦を突入させる奇策に打って出た。
日本に残された戦艦9隻全てを投入したこのレイテ海戦で武蔵は艦載機の空襲、扶桑は米駆逐艦の雷撃、山城は米旧式戦艦との砲戦で戦没、帰途に金剛が潜水艦の雷撃で沈められ日本海軍は大打撃を受けた。

以降、伊勢、日向が燃料輸送任務に使用されるなど若干の作戦行動はとられたものの燃料不足もあってあまり活発な活動は見られなくなった。
こうした状況下の1945年4月1日、米軍が沖縄に上陸し日本海軍は米輸送船団撃滅の為に大和及び軽巡1、駆逐艦8を出撃させた。
だが圧倒的的制空権下では生還を期し難く実体は戦意高揚目的の特攻であった。
そして4月7日、大和は多数の艦載機による空襲で魚雷12発、爆弾多数を受けて沈み、最後の戦没ド級艦となった。


前のページに戻る