阿部隆史 執筆記事E『世界の艦船』2010年12月号


日本海軍の連合艦隊は英海軍の大艦隊、米海軍の太平洋艦隊、帝政ドイツ海軍の高海艦隊などと比肩しうる大規模な艦隊である。
これらの艦隊は各国海軍兵力の過半数を編制下にもっており、ツリー構造を主体とした陸軍とは異なった兵力運用単位であった。
本稿は日清戦争、日露戦争、太平洋に於ける連合艦隊の足跡を戦術的側面から辿る事を目的としている。


日清戦争1 「初の対外戦争へ向けての海軍創設」
明治維新以降、日本政府は「朝鮮半島問題」に対し、武力対決を辞さぬ強硬策と外交的解決を軸とした宥和策の間で揺れ動き続けた。
最初に登場した強硬策は1872年の征韓論政変である。
そして1877年、征韓論政変を契機として西南戦争が勃発した。
西南戦争は朝鮮半島問題に起因する内乱だが、国家の年度税収の85%に達するほどの戦費を要し以降、日本政府は国内の再編と陸軍の充実に大わらわとなった。
内乱の防止の為、陸軍の増強が優先されたからである。
こうして1880年代、日本は外征を封じられたが、その間に清国が定遠型戦艦(7220t)2隻を入手し東アジアのバランスオブパワーは大きく変容した。
清国は朝鮮の宗主国であり、日本が朝鮮に強硬策をとれば当然の如く日清間の武力対決となる。
定遠型2隻がアジアに回航された1885年時点で日本海軍には対抗できるだけの艦艇が存在せず、以降は次第に海軍の増強が優先され始めた。
かくして各種の防護巡洋艦、三景艦などが整備されたが定遠型を凌ぐ12533tの富士型戦艦2隻(富士、八島)は予算不足の為、国会で否決され1893年に発布された建艦勅令でようやく英国へ発注されるに至った。
つまり日本海軍としては両艦の竣工を待ってから開戦するのベストなのである。
一方、清国としてはそれまで待っていては立場が逆転し勝機が完全に失われる。
よって戦艦保有国としての優位があるうちにと強硬策を次々と繰り出してくる。
海軍兵力だけで見るなら数年待つのが得策だが、日清両国とも内憂外患の諸問題を抱え朝鮮政府もどちらに転ぶか判らない。
更にロシアを含め諸列強も事態の推移を虎視眈々と窺っている。
こうなるとベストでなくとも海軍は現有兵力で戦わねばならない。

ここで日清両国海軍の兵力と特徴を見比べてみよう。
まず統率面だが日本海軍では日清戦争に備え、1894年7月19日に常備艦隊と西海艦隊からなる連合艦隊を設立した。
清国海軍には北洋、南洋、広東、福建の4水師(艦隊)があり、対日戦を主眼とする北洋出師には有力艦艇が配備され山東半島の威海衛を根拠地としていた。

両軍兵力は1000t以上の戦闘艦(商船改造艦及び木造艦を除く)で比較した場合、日本海軍の11隻36894tに対し北洋出師は13隻の35730tでほぼ伯仲している。
だが総排水量は互角でも質的には大きな差があった。
北洋水師では定遠型2隻が各7220tであるものの、その他11隻は全て3000t未満に過ぎない。
一方、日本海軍では総勢11隻中、8隻が3000tを越えていた。
次に速力で見ると北洋出師では18ノット以上の高速艦が僅か2隻4600tなのに比べ、日本海軍では5隻17223tが18ノット以上であった。
また日本海軍では巡洋艦吉野、秋津洲、千代田及び松島、厳島、橋立の三景艦などが新式のアームストロング製速射砲を装備しており、投射量で優っていた。

防御巡洋艦 松島
防御巡洋艦 吉野

アームストロング製15.2センチ速射砲の発射速度はクルップ製15センチ砲の約2倍(※1)に達する。
これらの差異を総合すると日本海軍の攻撃力が軽防御艦に対して強大であり、清国艦は定遠型2隻を除き低速で沈みやすい小型艦揃いなのが判る。
さて、こうした状勢下で日清戦争はその幕を上げた。


日清戦争2 「初の対外戦争での勝利」
1984年7月23日、日清両国間の国交険悪化に伴い清国軍の上陸を阻止する為、連合艦隊は佐世保を抜錨し朝鮮半島西岸へ向かった。
そして同月25日、巡洋艦吉野、浪速、秋津洲からなる坪井少将指揮下の第1遊撃隊は、豊島沖で輸送船を含む清国海軍部隊を発見し砲門を開いた。
まだ両国とも宣戦布告していなかったが、最後通牒の期限が切れ国交断絶状態になっていたので国際法上の問題はない。
この豊島沖海戦で清国側は巡洋艦広乙を失い連合艦隊の初勝利となった。

ついで9月17日、大孤山沖で日清両軍主力が相まみえる黄海海戦が発生した。
この海戦で清国側は単横陣(正確には逆V字型の後翼単梯陣※2)で行動したが、その理由は定遠型戦艦の主砲が側面に半数しか指向できなかった為である。
一方、連合艦隊は機動力を発揮し易い単縦陣で海戦に臨んだ。
かくして総戦力は互角(前述した主要艦艇中、連合艦隊は9隻、清国側は10隻が参加)であったものの、連合艦隊は局所的な兵力優位による各個撃破を繰り返して5隻を撃沈(座礁及び全損を含む)し大勝利をおさめた。
ただし定遠型戦艦2隻については定遠に159発、鎮遠には200発の命中弾を与えたものの、大きな損傷には至らず取り逃してしまった。
その他の艦の命中弾は来遠が225発、済遠が15発、靖遠が110発で喪失した致遠、広甲、経遠、超勇、揚威は不明である。
一方、日本側の命中弾は主要艦艇9隻中で最多が松島の13発、最少が千代田の3発で主要艦艇外を含む集計でも134発(※1)に過ぎず沈没艦はなかった。
技量による命中率の差もあるが、発射速度が大きな影響を及ぼした海戦と言えよう。

その後、北洋水師の残存艦は威海衛に逃げ込み逼塞するに至った。
要塞に籠もる敵艦を撃破するには陸軍が要塞を攻め落とすのが有効である。
よって翌年1月20日、第2軍が栄城湾に上陸して威海衛要塞攻略を開始したが、海軍もまたこれに呼応し史上初(※3)の水雷艇夜襲を敢行した。
この攻撃で戦艦定遠は損傷して自沈、巡洋艦来遠と靖遠も撃沈され、残る戦艦鎮遠、巡洋艦済遠、平遠、広丙の4隻は鹵獲された。
この戦闘をもって日清戦争に於ける連合艦隊の作戦は概ね終了し、1895年11月16日に解散(5月17日説、18日説も存在する※4)した。
日清戦争に於ける連合艦隊の戦いを総括すると、速力の優位を活用した戦力の集中、アームストング製速射砲を活用した洋上での巡洋艦撃滅、魚雷を活用した港湾での戦艦撃滅となる。
反面、航洋性のない水雷艇では洋上で戦艦に対抗できない事、速射砲では戦艦に致命的損傷を与えられない事が判明し、来るべき次の戦いでは戦艦を撃滅しうる大口径砲の装備が不可欠であると考えられた。


日露戦争1 「ロシア太平洋艦隊との対決」
日清戦争後、三国干渉を経て日露間に軋轢が生じ義和団の乱を経て軍事的緊張が高まったのは割愛させて頂き、戦艦6隻(富士、八島、朝日、初瀬、敷島、三笠)、装甲巡洋艦6隻(出雲、八雲、磐手、浅間、常磐、吾妻)から成る六六艦隊の設立から話を始めさせて頂く。

 六六艦隊
戦艦 富士(富士型)
戦艦 八島(富士型)
戦艦 朝日(朝日型)
戦艦 初瀬(敷島型)
戦艦 敷島(敷島型)
戦艦 三笠(三笠型)
装甲巡洋艦 出雲(出雲型)
装甲巡洋艦 八雲(八雲型)
装甲巡洋艦 磐手(出雲型)
装甲巡洋艦 浅間(浅間型)
装甲巡洋艦 常盤(浅間型)
装甲巡洋艦 吾妻(吾妻型)

連合艦隊にとって日清戦争と日露戦争の大きな違いは、日清戦争が「日本が富士型戦艦を入手する前に清国が打った大博打」に対処した「予期せぬ戦争」だったのに比べ、日露戦争は「対露戦に備えて整備した六六艦隊の完結」を待って始められた「計画的な戦争」だった点にある。
ちなみに六六艦隊の最終艦である戦艦三笠が日本に回航されたのが1902年5月18日であり、相応の完熟訓練を経て充分な戦力となる期間を考慮すると1903年以降の開戦が適当であった。
計画的である以上、日露戦争の戦争指導はアクティブで様々な先手が打たれた。
日本の陸海軍は当初から対露戦を不可避と考え、海軍が「六六艦隊の完結」を開戦の目安と考えていた様に、陸軍は「シベリア鉄道の完成前」を目安としていた。
1904年の時点でシベリア鉄道は工区の大部分が出来上がっていたが難関のイルクーツク迂回線が未完成で、バイカル湖を船で輸送(※5)せねばならなかった。
折角、揃った六六艦隊も時が経てば陳腐化し、シベリア鉄道が完成すれば日本陸軍が苦況に立たされる。
よって日本陸海軍としては一日でも早い開戦を望んだ。
なお日清戦争では彼我海軍総兵力がほぼ伯仲していたが、日露戦争では圧倒的に日本海軍が不利であった。
ただしロシアの海軍兵力は太平洋艦隊、バルチック艦隊、黒海艦隊に分割されており、太平洋艦隊単独なら日本海軍とほぼ互角と言えた。
かくして日本海軍には「バルチック艦隊の回航前に太平洋艦隊を撃滅する」と言う、時間的制約が課せられたのである。

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