阿部隆史 執筆E
『世界の艦船』2010年12月号 「連合艦隊はいかに戦ったか?」

日本海軍の連合艦隊は英海軍の大艦隊、米海軍の太平洋艦隊、帝政ドイツ海軍の高海艦隊などと比肩しうる大規模な艦隊である。
これらの艦隊は各国海軍兵力の過半数を編制下にもっておりツリー構造を主体とした陸軍とは異なった兵力運用単位であった。
本稿は日清戦争、日露戦争、太平洋に於ける連合艦隊の足跡を戦術的側面から辿る事を目的としている。

日清戦争1 「初の対外戦争へ向けての海軍創設」
明治維新以降、日本政府は「朝鮮半島問題」に対し武力対決を辞さぬ強硬策と外交的解決を軸とした宥和策の間で揺れ動き続けた。
最初に登場した強硬策は1872年の征韓論政変である。
そして1877年、征韓論政変を契機として西南戦争が勃発した。
西南戦争は朝鮮半島問題に起因する内乱だが国家の年度税収の85%に達するほどの戦費を要し以降、日本政府は国内の再編と陸軍の充実に大わらわとなった。
内乱の防止の為、陸軍の増強が優先されたからである。
こうして1880年代、日本は外征を封じられたがその間に清国が定遠型戦艦(7220t)2隻を入手し東アジアのバランスオブパワーは大きく変容した。
清国は朝鮮の宗主国であり日本が朝鮮に強硬策をとれば当然の如く日清間の武力対決となる。
定遠型2隻がアジアに回航された1885年時点で日本海軍には対抗できるだけの艦艇が存在せず以降は次第に海軍の増強が優先され始めた。
かくして各種の防護巡洋艦、三景艦などが整備されたが定遠型を凌ぐ12533tの富士型戦艦2隻(富士、八島)は予算不足の為、国会で否決され1893年に発布された建艦勅令でようやく英国へ発注されるに至った。
つまり日本海軍としては両艦の竣工を待ってから開戦するのベストなのである。
一方、清国としてはそれまで待っていては立場が逆転し勝機が完全に失われる。
よって戦艦保有国としての優位があるうちにと強硬策を次々と繰り出してくる。
海軍兵力だけで見るなら数年待つのが得策だが日清両国とも内憂外患の諸問題を抱え朝鮮政府もどちらに転ぶか判らない。
更にロシアを含め諸列強も事態の推移を虎視眈々と窺っている。
こうなるとベストでなくとも海軍は現有兵力で戦わねばならない。
ここで日清両国海軍の兵力と特徴を見比べてみよう。
まず統率面だが日本海軍では日清戦争に備え1894年7月19日に常備艦隊と西海艦隊からなる連合艦隊を設立した。
清国海軍には北洋、南洋、広東、福建の4水師(艦隊)があり対日戦を主眼とする北洋出師には有力艦艇が配備され山東半島の威海衛を根拠地としていた。
両軍兵力は1000t以上の戦闘艦(商船改造艦及び木造艦を除く)で比較した場合、日本海軍の11隻36894tに対し北洋出師は13隻の35730tでほぼ伯仲している。
だが総排水量は互角でも質的には大きな差があった。
北洋水師では定遠型2隻が各7220tであるものの、その他11隻は全て3000t未満に過ぎない。
一方、日本海軍では総勢11隻中、8隻が3000tを越えていた。
次に速力で見ると北洋出師では18ノット以上の高速艦が僅か2隻4600tなのに比べ日本海軍では5隻17223tが18ノット以上であった。
また日本海軍では巡洋艦吉野、秋津洲、千代田及び松島、厳島、橋立の三景艦などが新式のアームストロング製速射砲を装備しており投射量で優っていた。
アームストロング製15.2センチ速射砲の発射速度はクルップ製15センチ砲の約2倍(※1)に達する。
これらの差異を総合すると日本海軍の攻撃力が軽防御艦に対して強大であり清国艦は定遠型2隻を除き低速で沈みやすい小型艦揃いなのが判る。
さて、こうした状勢下で日清戦争はその幕を上げた。

日清戦争2 「初の対外戦争での勝利」
1984年7月23日、日清両国間の国交険悪化に伴い清国軍の上陸を阻止する為、連合艦隊は佐世保を抜錨し朝鮮半島西岸へ向かった。
そして同月25日、巡洋艦吉野、浪速、秋津洲からなる坪井少将指揮下の第1遊撃隊は豊島沖で輸送船を含む清国海軍部隊を発見し砲門を開いた。
まだ両国とも宣戦布告していなかったが最後通牒の期限が切れ国交断絶状態になっていたので国際法上の問題はない。
この豊島沖海戦で清国側は巡洋艦広乙を失い連合艦隊の初勝利となった。
ついで9月17日、大孤山沖で日清両軍主力が相まみえる黄海海戦が発生した。
この海戦で清国側は単横陣(正確には逆V字型の後翼単梯陣※2)で行動したがその理由は定遠型戦艦の主砲が側面に半数しか指向できなかった為である。
一方、連合艦隊は機動力を発揮し易い単縦陣で海戦に臨んだ。
かくして総戦力は互角(前述した主要艦艇中、連合艦隊は9隻、清国側は10隻が参加)であったものの連合艦隊は局所的な兵力優位による各個撃破を繰り返して5隻を撃沈(座礁及び全損を含む)し大勝利をおさめた。
ただし定遠型戦艦2隻については定遠に159発、鎮遠には200発の命中弾を与えたものの大きな損傷には至らず取り逃してしまった。
その他の艦の命中弾は来遠が225発、済遠が15発、靖遠が110発で喪失した致遠、広甲、経遠、超勇、揚威は不明である。
一方、日本側の命中弾は主要艦艇9隻中で最多が松島の13発、最少が千代田の3発で主要艦艇外を含む集計でも134発(※1)に過ぎず沈没艦はなかった。
技量による命中率の差もあるが発射速度が大きな影響を及ぼした海戦と言えよう。
その後、北洋水師の残存艦は威海衛に逃げ込み逼塞するに至った。
要塞に籠もる敵艦を撃破するには陸軍が要塞を攻め落とすのが有効である。
よって翌年1月20日、第2軍が栄城湾に上陸して威海衛要塞攻略を開始したが海軍もまたこれに呼応し史上初(※3)の水雷艇夜襲を敢行した。
この攻撃で戦艦定遠は損傷して自沈、巡洋艦来遠と靖遠も撃沈され残る戦艦鎮遠、巡洋艦済遠、平遠、広丙の4隻は鹵獲された。
この戦闘をもって日清戦争に於ける連合艦隊の作戦は概ね終了し1895年11月16日に解散(5月17日説、18日説も存在する※4)した。
日清戦争に於ける連合艦隊の戦いを総括すると速力の優位を活用した戦力の集中、アームストング製速射砲を活用した洋上での巡洋艦撃滅、魚雷を活用した港湾での戦艦撃滅となる。
反面、航洋性のない水雷艇では洋上で戦艦に対抗できない事、速射砲では戦艦に致命的損傷を与えられない事が判明し来るべき次の戦いでは戦艦を撃滅しうる大口径砲の装備が不可欠であると考えられた。

日露戦争1 「ロシア太平洋艦隊との対決」
日清戦争後、三国干渉を経て日露間に軋轢が生じ義和団の乱を経て軍事的緊張が高まったのは割愛させて頂き戦艦6隻(富士、八島、朝日、初瀬、敷島、三笠)、装甲巡洋艦6隻(出雲、八雲、磐手、浅間、常磐、吾妻)から成る六六艦隊の設立から話を始めさせて頂く。
連合艦隊にとって日清戦争と日露戦争の大きな違いは日清戦争が「日本が富士型戦艦を入手する前に清国が打った大博打」に対処した「予期せぬ戦争」だったのに比べ日露戦争は「対露戦に備えて整備した六六艦隊の完結」を待って始められた「計画的な戦争」だった点にある。
ちなみに六六艦隊の最終艦である戦艦三笠が日本に回航されたのが1902年5月18日であり相応の完熟訓練を経て充分な戦力となる期間を考慮すると1903年以降の開戦が適当であった。
計画的である以上、日露戦争の戦争指導はアクティブで様々な先手が打たれた。
日本の陸海軍は当初から対露戦を不可避と考え海軍が「六六艦隊の完結」を開戦の目安と考えていた様に陸軍は「シベリア鉄道の完成前」を目安としていた。
1904年の時点でシベリア鉄道は工区の大部分が出来上がっていたが難関のイルクーツク迂回線が未完成でバイカル湖を船で輸送(※5)せねばならなかった。
折角、揃った六六艦隊も時が経てば陳腐化しシベリア鉄道が完成すれば日本陸軍が苦況に立たされる。
よって日本陸海軍としては一日でも早い開戦を望んだ。
なお日清戦争では彼我海軍総兵力がほぼ伯仲していたが日露戦争では圧倒的に日本海軍が不利であった。
ただしロシアの海軍兵力は太平洋艦隊、バルチック艦隊、黒海艦隊に分割されており太平洋艦隊単独なら日本海軍とほぼ互角と言えた。
かくして日本海軍には「バルチック艦隊の回航前に太平洋艦隊を撃滅する」と言う時間的制約が課せられたのである。
また太平洋艦隊の根拠地には旅順とウラジオストックの2カ所があり旅順には主力となる戦艦部隊、ウラジオストックには通商破壊戦を担当する装甲巡洋艦部隊が配備されていたので1903年12月28日に編成された2度目の連合艦隊は旅順とウラジオストックへの二正面作戦を余儀なくされた。
さて、日露戦争に於ける連合艦隊の作戦であるが今回もまた国交断絶後、宣戦布告を待たずに奇襲攻撃が行われた。
方法は駆逐艦による夜襲雷撃である。
日清戦争の最後で行われたこの攻撃法が日露戦争では一番最初に行われた。
違いは水雷艇が駆逐艦に大型化しただけに過ぎない。
ただし戦果は戦艦2隻及び巡洋艦1隻の撃破にとどまった。
ついで陸軍部隊の仁川上陸で発生した仁川沖海戦で巡洋艦ワリヤーグを撃沈。
基本的に日露戦争前半期、旅順の太平洋艦隊戦艦部隊は強固な要塞に守られて逼塞しウラジオストックの装甲巡洋艦部隊がアクティブな通商破壊戦を繰り返した。
同部隊の出撃は6回に及び商船の撃沈破17隻、拿捕も5隻に上った。(※6)
なお、これに加え機雷戦が猛威を振るったのが前半期の特徴で戦艦ペトロパブロフスク、初瀬、八島などが次々と沈没していった。
また旅順に対して閉塞作戦が行われ当時、日本が保有した1000総t以上の商船197隻のうち1割に当たる21隻が投入された。
こうした消耗戦を続けたままバルチック艦隊の回航を迎えれば敗北は必至となる。
よって状況を打開する為、日本軍は陸からの攻撃による旅順要塞攻略を決定、第3軍を派遣し総攻撃の準備が進められた。
そこでロシア側はウラジオストックへの脱出を決意、8月10日に出港した。
これを連合艦隊主力が迎撃したのが黄海海戦(日清戦争時と同名)である。
日本陸軍によるウラジオストックと旅順の同時攻略はほぼ不可能だったので日本海軍としてはどうしても脱出を阻止せねばならなかった。
兵力は日本側が戦艦5隻(うち1隻は旧式の鎮遠)に装甲巡洋艦4隻と巡洋艦11隻及び駆逐艦、水雷艇などの小型艦艇、ロシア側は戦艦6隻、巡洋艦4隻及び小型艦艇で戦力的にはほぼ互角であった。
そしてこの「互角に見える戦力」が連合艦隊首脳部の目を惑わせた。
一般的に兵力に優る側は同航戦、劣る側は反航戦を選ぶ。
戦艦数で優位に立つロシア側は積極的な行動を取ると推察した東郷提督はそれに合わせ反航戦を指示(※7)した。
ところがロシア側は遮二無二、脱出を図り追撃戦となってしまった。
この誤判断によるタイムロスを取り返すのに多大な時間が費やされたが夕刻、大口径砲弾が連続して旗艦チェザレウィッチに命中し同艦は行動の自由を失った。
この為、ロシア艦隊は四分五裂に陥り戦艦5隻と巡洋艦1隻は旅順に退却、戦艦1隻と巡洋艦2隻は中立国に遁走して抑留された。
巡洋艦ノーウィックだけが脱出しウラジオストック近くのコルサコフまで辿り着いたが日本の巡洋艦千歳、対馬に追い詰められ座礁してしまった。
ただし黄海海戦で日本海軍は勝利を得たものの戦艦を1隻も撃沈できなかった。
戦艦の30.5センチ主砲を603発も発射(※7)したのにである。
これは初動の誤判断による影響(遠距離による命中率の低下等)が大きかったのだが「重防御の戦艦を砲撃で撃沈するのは至難」と強く認識される要因となった。
ついで旅順からの脱出を支援すべくウラジオストックの装甲巡洋艦3隻が出撃、日本側の装甲巡洋艦4隻と巡洋艦2隻がこれを迎撃して蔚山沖海戦が発生した。
この海戦でも日本海軍は勝利をおさめたが装甲巡洋艦リューリックしか沈められず重防御艦の評価はますます高まった。
以降、両国陸軍が壮絶な攻防戦を繰り広げ旅順は1905年1月1日に陥落した。
残存していた戦艦4隻と装甲巡洋艦1隻、巡洋艦1隻は日本陸軍の砲撃を受けた後に鹵獲され前述したワリヤーグと共に日本海軍籍へ編入された。
これら7隻の修理費用は総額851万3238円である。
ちなみに開戦直前に日本海軍がイタリアから購入した装甲巡洋艦日進、春日は2隻合わせて1598万4593円であった。
なお、旅順残存艦のうち戦艦セバストポリだけは6次に渡る水雷艇攻撃(※8)を退けて戦い抜き旅順陥落後の1月2日に自沈したので鹵獲できなかった。
こうして日露戦争の第1ラウンドが終了したのだが果たしてバルチック艦隊はその頃、どこにいたのだろうか?

日露戦争2 「日本海海戦」
答えはマダガスカルである。
そしてその後、三ヶ月半に渡りバルチック艦隊はマダガスカルへ滞留し続けた。
当然、日本海軍は艦艇の整備、補修に全力を尽くす。
こうして戦備を完了した日本の連合艦隊と回航で疲弊し尽くしたバルチック艦隊は1905年5月27日に会敵し日本海海戦の幕が上げられた。
意外に思われるかも知れないが、開戦から日本海海戦までの間に日本海軍の砲雷撃で沈められた3000t以上のロシア海軍艦艇は開戦時、太平洋艦隊に所属していた戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻、巡洋艦7隻の18隻中、僅か2隻でしかない。
その他16隻中、2隻は触雷、6隻は日本陸軍の砲撃、1隻は座礁、1隻は自沈で失われ3隻がウラジオストックに残留、3隻は中立国で抑留された。
一方、バルチック艦隊は戦艦8隻、海防艦3隻、装甲巡洋艦3隻、巡洋艦6隻の合計20隻中、実に11隻が日本海軍の砲雷撃で撃沈されている。
その他9隻は座礁1隻、中立国への抑留3隻、降伏による鹵獲が4隻、ウラジオストックへの到着1隻であった。
この様に両者で大きな大きな差がでた要因のひとつに命中率の増大があげられる。
沈んでしまった艦の被害状況を正確に知る事は出来ないがバルチック艦隊の命中弾数が太平洋艦隊より遙かに多かった事は沈没艦数の多さから類推できよう。
それに比べ日本海海戦に於ける30.5センチ砲の発射弾数は極秘明治三十七八年海戦史だと446発(うち徹甲弾32発)、安保砲術長の集計(※7)だと452発で黄海海戦時の603発に比べかなり少ない。
発射弾数が少ないのに命中弾が多いと言う事は命中率が高いのである。
黛治夫氏は日本海海戦時の命中率を黄海海戦時に比べ約3倍(※1)としている。
それでは何故、それほど命中率が向上したのであろうか?
ひとつには猛訓練による術力向上が挙げられよう。
1905年3月の命中率は同航戦で20〜50%、反航戦では一桁台だったが4月には同航戦で40〜60%、反航戦では20〜30%に向上(※7)した。
20〜50%の平均を35%、40〜60%の平均を50%として見れば約1.4倍と考えられる。
次に黄海海戦では反航戦で戦闘の幕が開かれたが日本海海戦は同航戦となった事も命中率向上(約2倍)の大きな要因と言えよう。
加えて日本海海戦では近距離戦に持ち込めた事も少なからぬ影響を与えた。
更に一斉射撃の導入も命中率の向上に貢献した。
紙幅の関係上、一斉射撃で命中率が向上する理由を説明するのは省略させて頂くが日本海軍では1901年末にバー式距離・命令伝達装置を発信器33セット、受信機215セット輸入し全主要艦艇で一斉射撃が可能(※9)となっていた。
こうした要因が積み上げられて命中率が格段に高くなったのだが日本側では日清戦争で効を奏したアームストロング製速射砲の全面採用に踏み切り新造艦はおろか旧式艦の大口径主砲までこれに換装していたので大口径では発射弾数が減ったものの中口径以下では逆に発射弾数自体が大変増えていた。
バルチック艦隊に比べて遙かに発射数が多く遙かに命中率が高いのだから極端に命中弾数が多かったのも当然であろう。
これに加え砲弾の質そのものが日露両軍で大きく異なっていた。
日本海軍が使用した砲弾の大部分は鍛鋼榴弾である。
鍛鋼榴弾は貫徹力が低かったが下瀬火薬が大量に充填されていた。
よって装甲は貫徹できないものの下瀬火薬は爆発力と燃焼力が非常に高かったので装甲板を脱落(※10)させたり火災を発生させる事ができた。
一旦、装甲が脱落した部分には小口径弾でも大きな脅威となりうる。
何よりも火災は消火せねばならない。
艦内各所で大量の放水が行われロシア艦の重心点はみるみる上がっていった。
加えて長距離航海に備え石炭を過剰積載していたので当初から安定性が悪かった。
かくしてバルチック艦隊の新鋭戦艦群は次々と転覆し沈没したのである。
それに対し旧式戦艦群は小型艦の雷撃と連繋機雷による攻撃で沈没していった。
なお、日本側の命中弾が多くロシア側の命中弾が少なかった要因として丁字戦法及び乙字戦法があり「速力の優越」こそがこれらを成立させうる。
日露戦争での丁字戦法には開戦前の1904年1月9日戦策による一斉回頭での丁字戦法、黄海海戦前に制定された7月1日戦策による丁字及び乙字戦法、翌年4月12日戦策による「奇襲隊の使用と正面変換を導入」した丁字及び乙字戦法、4月21日、5月17日、5月21日の改訂など様々なパターンがある。
最終的に日本海海戦では戦艦、装甲巡洋艦12隻が正面変換で行ったがこれは必ずしも当初から考えられていた丁字戦法ではなかった。
丁字戦法の詳細を記述する紙幅がないので割愛するが日本海軍は日清戦争から太平洋戦争の終結に至るまで常に他国の同種艦に対して「速力の優越」を意識した。
それは戦術機動での有利な態勢を重視したからであり丁字戦法はその線上にある。
丁字戦法は日本海海戦で使用された特殊な戦法ではなく日本海軍の基本理念そのものであり日本海軍の主要水上艦艇(空母などを除く)の設計に丁字戦法が与えた影響は少なくないと言えよう。
ここで日露戦争を総括すると特徴として常に時間的制約を受け続けた事、機雷戦の登場、通商破壊戦への対処、砲撃による重防御艦の撃滅が挙げられる。
日露戦争の為に編成された第2次連合艦隊は1905年9月5日の講和条約締結と共にその任を終え12月20日をもって解散した。

太平洋戦争1 「航空機の登場」
日清戦争での第1次および日露戦争での第2次連合艦隊は「戦争をする為に臨時編成された組織」だったが日露戦争後は性格が変わって「平時でも臨時編成される組織」となり、やがて常設組織となっていった。
加えて日華事変では「武力紛争に対処する軍令上の組織」として支那方面艦隊が編成されたので連合艦隊は「戦争類似の武力紛争」が起きているにも関わらず軍令上は蚊帳の外の存在となってしまったのである。
日華事変は連合艦隊の作戦ではなく支那方面艦隊の作戦なので本稿では省略するが艦艇の損害こそ少なかったものの航空機554機と搭乗員829名を失い日本海軍の戦力は大きく低下(※11)した。
なぜこれを記したかと言うと太平洋戦争に於いては航空機こそが主兵力であり連合艦隊へ損耗した基地航空部隊がそのまま編入され開戦を迎えたからである。
さて、太平洋戦争に於ける連合艦隊だがその特色は「世界最大の陸上機基地航空隊を編成下に置いた艦隊」である事につきる。
似た物として米軍にも海兵隊航空隊が存在したが海兵隊と米海軍はあくまでも別組織であり空母に海兵隊航空隊を配備する事はあっても海兵隊と海軍が人事的に混じりあう事はなかった。
それに比べ連合艦隊内の基地航空部隊は多少の温度差こそあれ同一組織であり作戦面に於いても海空一体の行動をとった。
基地航空隊なので当然、飛行場を必要とする。
よって太平洋戦争では飛行場の争奪が戦略上のキーポイントとなった。
緒戦期の資源地帯攻略にしても飛行場の奪取が不可欠でありポートモレスビーを目指したMO作戦(珊瑚海海戦が発生)、ミッドウェーを目指したMI作戦(ミッドウェー海戦が発生)、ヘンダーソン飛行場などを巡って発生したソロモン海の諸海戦など多くの海戦が飛行場争奪を目的に発生した。
イニシアチブが米軍に渡った戦争後半期もこれは変わらない。
飛行場及び艦隊泊地を求める米軍は1943年11月下旬のガルバニック作戦でタラワなどのギルバート諸島、1944年2月上旬のフリントロック作戦ではクェゼリンなどのマーシャル諸島、同月中旬のキャッチポール作戦でエニウェトク環礁に上陸しこれらを次々と陥落させていった。
更にマッカーサー将軍指揮下の部隊もニューギニア方面を西進し続けた。

太平洋戦争2 「あ号作戦」
この米軍の攻勢に対し日本軍は「あ号作戦」による決戦で戦局の挽回を図った。
決戦に備え定められた絶対国防線はニューギニアのソロン、パラオ、マリアナ、小笠原をつないでおり連合艦隊としては地勢上有利なパラオでの決戦を望んでいた。
決戦兵力の主軸は空母を主力とした第1機動艦隊(連合艦隊の大部分が編入されていた)と基地航空隊を主力とする第1航空艦隊である。
特に定数上の兵力で684機にもなる第1航空艦隊は連合艦隊として期待するところ大であったが、まだ編成途上であり練度も充分ではなかった。
一方、第1機動艦隊が保有する空母は9隻、搭載機は定数450機であった。
更に大本営は海軍横須賀航空隊を主力とした八幡部隊と呼ばれる基地航空隊を準備しており決戦時には連合艦隊へ編入される事になっていた。
かくして攻勢正面となるマリアナとパラオに第1航空艦隊を展開しておき侵攻が始まると同時に艦隊泊地から第1機動艦隊、内地から八幡部隊が来援し米艦隊を挟撃する予定だった。
ところが5月27日に米軍が絶対国防線外のビアクへ上陸してきた。
米軍がビアクに飛行場を建設するとパラオで決戦が発生した場合、日本海軍の基地航空隊が窮地に立たされる。
この時点で連合艦隊は米軍がパラオに侵攻して来るものと信じ込んでおりビアク上陸がマリアナ侵攻の陽動であると気づかなかった。
連合艦隊はビアクを救援する為に第1航空艦隊の主力をマリアナからビアク方面のハルマヘラへ転進させマリアナが手薄となった。
そして進出していった航空部隊は未整備の飛行場につきものの離着陸による事故と伝染病(デング熱)による搭乗員の損耗で半身不随となっていった。
加えて第1機動艦隊にもビアク救援の為に出撃が命ぜられた。
さすがに空母までは投入されなかったがビアク増援部隊を護衛する為に戦艦大和、武蔵を含む渾作戦部隊が編成され6月10日に泊地を出港していった。
ところが6月11日、突如として米空母機動部隊がマリアナを空襲したのである。
驚いた日本海軍は急遽、作戦中止を決定し渾作戦部隊には帰還命令が出された。
6月15日、米軍はついにマリアナのサイパンへ上陸を開始した。
6月16日に渾作戦部隊と合流した第1機動艦隊は翌17日夕刻に進撃を開始、内地の八幡部隊へもマリアナ進出が命ぜられた。
だが悪天候に妨げられて八幡部隊の進出が遅れた上、進出直後の弾薬庫爆発事故で大損害を蒙ってしまう。
かくして日本海軍は第1機動艦隊独力で米軍に立ち向かわねばならなくなり3隻の空母(大鳳、翔鶴、飛鷹)と大部分の航空機を失って敗退した。
日清戦争での黄海海戦や日露戦争での日本海海戦に相当する決戦を太平洋戦争で求めるならマリアナ沖海戦をおいて他にない。
ミッドウェー海戦は参加兵力こそ多かったが戦闘行動に参加したのは南雲部隊を中心とした一部の兵力に過ぎず、もとより決戦を意図した作戦計画ではなかった。
レイテ海戦も参加兵力が多く彼我の損害隻数はマリアナ沖海戦を上回ったが作戦の主目的が敵艦隊の撃滅ではなく泊地の船団攻撃なので決戦とは言えない。
連合艦隊は日清戦争での設立以来、常に決戦での勝利を目指してきた。
よってマリアナ沖海戦での敗北は連合艦隊の終焉を意味した。
もはや次の戦いは「降伏条件を良くする為の延命処置」に過ぎないからである。

太平洋戦争3 「ハワイとパナマ ふたつの誤算」
さて、本文中で太平洋戦争では飛行場の争奪を原因として多くの海戦が発生したと記述したがそうでない大きな海戦が二つあった。
開戦劈頭のハワイ作戦と1942年4月のインド洋作戦である。
これらのうちハワイ作戦は空母の集中運用を確立した画期的な作戦でインド洋作戦はその派生形であった。
連合艦隊は対米戦に備え長年、漸減邀撃作戦を予定してきたがハワイ作戦はその範疇に含まれぬ全く予定外の作戦で1941年1月末から研究が始められた。
ハワイ作戦には軍令部はおろか連合艦隊指揮下の諸部隊もこぞって反対し参加兵力も9月24日の空母4隻案、9月末の3隻案と二転三転し最終的に6隻案が決定されたのは10月19日になってからであった。
ハワイ作戦は卓見であり多数の米戦艦を撃沈したが日本が日露戦争の旅順攻略でロシア太平洋艦隊の沈没艦を鹵獲し浮揚させた様に米軍もまた浮揚、修理したので長期的に見れば大きな戦果とはならなかった。
ハワイ作戦は太平洋艦隊がハワイに進出した事によって実行可能となった。
よって「なにゆえハワイに進出させたか?」が問われなければならないだろう。
更に連合艦隊の目を曇らせてきた要因のひとつとしてパナマ運河に注目したい。
米国を仮想敵とする日本海軍は1914年の開通以来、パナマ運河とフィリピンを重視して作戦構想を立案してきた。
米海軍がパナマ運河を通じて大西洋の海軍兵力を太平洋に移し大艦隊を編成した上でフィリピンへ来援すると考えてきたのである。
またパナマ運河を通過する為に米海軍が建造する艦艇は全幅33mのパナマ制限を受けパナマ運河が使用できなければ米海軍が困難を来すと信じこむに至った。
だが米国は1940年度計画のモンタナ型戦艦や1942年度計画のミッドウェー型空母で全幅を33m以上に拡大しており旧式戦艦の損傷修理に際してもバルジを増設して全幅を33m以上に拡げているのである。
つまり米国は日本が考えていた程、パナマ制限に固執していなかった。
日本では「米海軍は全幅33m以上の戦艦を建造できない」と考えていたから大和型戦艦を建造し個艦優位で勝機を見いだせると考えていたのである。
もしも米国がパナマ制限に拘泥していないと知っていたなら大和型戦艦に過度の期待をしなかったのではなかろうか。
更に開戦後、日本海軍はパナマ攻撃を企図し特型潜水艦18隻の建造を計画した。
これも日本海軍がパナマ運河を重視していた表れと言えよう。
最終的にパナマ攻撃はなされなかったが実行し破壊したとしても日本海軍が期待した程、米海軍に影響を与えられたかどうか疑わしい。


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