話阿部隆史 執筆記事D『世界の艦船』2011年12月号 


昭和11年1月、日本は第2次ロンドン会議からの脱退を表明し、同年末をもってネーバルホリデイは終焉を迎えた。
かくして到来した無条約期に対応する為、日本海軍は昭和11年6月に改訂された帝国国防方針(主力艦12隻、空母10隻、重巡20隻を基幹)に従い、兵力の整備に邁進した。
この情勢下に策定された建艦計画には「昭和12年度海軍補充計画」(通称B計画)、「昭和14年度海軍充実計画」(通称C計画)、「情勢に応ずる軍備欠陥補充」(通称臨計画)、出師準備計画(通称急計画)、追加計画(通称追計画)などがある。
本文ではこれらの建艦計画から、無条約期に於ける日本海軍の方向性を論証したいと思う。


新戦艦と建造施設
ネーバルホリデイ以前、海軍兵力の主役は戦艦であった。
急速な航空機の発達により空母も重要な兵力として台頭しはじめたが、昭和12年の無条約期到来時にあってはまだ戦艦を脅かす程の存在ではなかった。
軍縮条約の失効を迎えるにあたり、日本海軍が建造した新戦艦は大和型である。
大和型が如何なる戦艦であるかについては多くの文献で語られているので本文では詳述しないが、建造上の問題点としてあまりに船体が長大である為、建造可能な造船所が限られた事と工期が長期に渡った為、保有数が限られた事を御留意頂きたい。
さて、大和型戦艦の建造方式だが1番艦大和は呉海軍工廠の造船船渠、2番艦武蔵は三菱重工長崎造船所の第2船台、3番艦信濃は横須賀海軍工廠の第6船渠(修理用)で建造された。
これら船台、造船船渠、修理用船渠にはそれぞれ一長一短がある。
船渠での建造は注水で進水できるが、船台で建造された艦船は滑り出して進水させねばならない。
よって船体が長大だと進水に多大な困難を生ずる。
更に船台は水面に対し傾斜して設置されているので工事も難しかった。

戦艦 武蔵(竣工時)


三菱重工長崎の場合は船台の幅が狭く、ガントリークレーン柱と武蔵の舷側の間が僅か80センチしかなかった事も大きな妨げとなった。
ただし船台そのものを建設するのは容易であり、船台の建設費用も低廉であった。
一方、船渠での造船は平坦な場所での作業なので効率が良かったが、船渠そのものの建設が高価かつ長期に渡った。
横須賀の第6船渠の場合、工期6年(昭和15年5月4日完成)、工費は1700万円に及ぶ。
なお造船を目的とする造船船渠にはガントリークレーンが設置できるが、修理用船渠には設置できず作業効率が著しく劣った。
修理用船渠にガントリークレーンを設置できない理由は艦橋、煙突、マストなどの上部構造物が障害となるからである。
かくして大和型戦艦は異なった環境で建造が進められたが、起工から進水までの工期は1番艦大和が約2年9ヶ月、2番艦武蔵が約2年7ヶ月、3番艦信濃が約4年6ヶ月(戦艦として予定された工期は3年5ヶ月)かかった。
つまり日本で3カ所しか存在しない大和型戦艦建造所で、1隻あたり進水まで約3年を要した。
これを日本全体で見ると年に1隻しか建造できない事を意味する。

それではかつて日本が企図した八八艦隊計画と大和型の建造を比較して見よう。
八八艦隊計画では艦齢8年未満の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻計16隻の保有を目的としたが当時、日本には呉及び横須賀の2大海軍工廠と三菱重工長崎及び川崎重工神戸の2大民間造船所があり、4カ所がフル稼働で起工から進水までの工期2年の艦を建造すれば、8年で16隻の主力艦を建造できるはずであった。
八八艦隊計画1番艦長門は起工から進水まで2年3ヶ月かかったが2番艦陸奥は約2年、3番艦加賀は1年3ヶ月、4番艦土佐は1年10ヶ月で進水している。

戦艦 長門
戦艦 加賀

すなわち八八艦隊艦隊計画に於いては年2隻の主力艦建造が順当に可能であり、大和型の年1隻とは大きな差があった。
しかも3番艦用の横須賀第6船渠の完成予定がかなり先であり、呉海軍工廠と三菱重工長崎しか使用できない日本としては大和型は2隻の前提で建艦計画を練らざるを得なかった。
かくして策定されたのがB計画である。


B計画
第70回帝国議会(昭和11年12月26日開会)で予算が成立したB計画(昭和12年度海軍補充計画)で、建造を予定された艦艇は大和型戦艦2隻、翔鶴型空母2隻、日進型水上機母艦1隻、敷設艦3隻、砲艦4隻、占守型海防艦4隻、甲型駆逐艦18隻、各種潜水艦14隻、掃海艇6隻、特務艦2隻、敷設艇5隻、駆潜艇9隻の計70隻に及ぶ。

空母 翔鶴
水上機母艦 日進

なお、これらのうち駆逐艦3隻及び潜水艦1隻の計4隻は予算を偽装する為のダミーであり、実際には建造されなかった。
予算総額は8億654万円で昭和12〜16年度の会計予算が充てられた。
ただし当時は物価高騰が著しく76回帝国議会でB計画の総額は8億6421万円に変更されている。
建造された66隻の排水量合計は26万9510t(建造計画時の排水量で実際の排水量とは若干異なる)であるが、これを主要艦種別に区分すると戦艦が12万8000t(全体の47.5%)でトップになる。
もっとも予算は2億7227万円でトップではあるものの33%に過ぎない。
排水量で2位(4万t)になる空母の予算は1億3200万円、3位(3万t)の駆逐艦は1億3500万円である。
注目したいのは潜水艦で、排水量では4位の2万4800t(9.2%)ながら予算では2位の1億6310万円(20%)を占めていた。
B計画で建造された潜水艦は全て甲型、乙型、丙型などの巡洋潜水艦であった。

甲型潜水艦
乙型潜水艦

戦艦、空母、駆逐艦、潜水艦以外で異彩を放つのは占守型海防艦である。

海防艦 占守

占守型海防艦は従来、旧式駆逐艦が充当されてきた北方海域の警備を主任務としており耐氷構造や防寒設備、全二重底などが施されていた。
その為、工数が102496(例:八丈)と大変多く、排水量では約2倍半近い甲型駆逐艦の120592(例:磯風)の84%にも達した。
ついで13年度計画ではB計画に加え練習巡洋艦2隻、特務艦1隻が建造され、73回帝国議会で予算成立(総額1720万円)した。
B計画の特徴としては潜水艦の比重が高い事、無条約期に入ったとは言え早期に戦争が始まる状況ではないので「戦時になったら本当に必要な特務艦や小型艦艇」があまり多くない事などが挙げられる。

一方、米国は昭和9年の第1次ビンソン案(空母ワスプ及び補助艦102隻建造)に続き、1936年度計画でノースカロライナ型戦艦2隻の建造に着手していたが昭和13年5月、日本のB計画に対応する為、海軍兵力の20%拡大を目指す第2次ビンソン案を発表した。
この第2次ビンソン案で建造されたのがヨークタウン型空母の3番艦ホーネットと、エセックス型空母の1番艦エセックス、サウスダコタ型戦艦などである。

戦艦 ノースカロライナ
戦艦 サウスダコタ



C計画
シーソーが上下運動を繰り返す様に、軍備もまた拡大の応酬を繰り返す。
米国の第2次ビンソン案に対応する為、日本はC計画(昭和14年度海軍充実計画)を策定し74回帝国議会(昭和13年12月26日開会)で予算化された。
C計画で建造を予定された艦艇は大和型戦艦2隻、大鳳型空母1隻、阿賀野型軽巡4隻、大淀型軽巡2隻、甲型駆逐艦15隻、丙型駆逐艦1隻、乙型駆逐艦6隻、各種潜水艦25隻、練習巡洋艦1隻、飛行艇母艦1隻、敷設艇10隻、掃海艇6隻、駆潜艇4隻、敷設艦1隻、特務艦1隻の計80隻である。

装甲空母 大鳳
軽巡 阿賀野

これらのうち丙型駆逐艦は島風型、乙型駆逐艦は秋月型で他にB計画時と同じく予算要求上のダミーとして甲型駆逐艦2隻と潜水艦1隻が予算化された。
総額は当初、12億6300万円だったが12億578万円に査定されている。

駆逐艦 島風
駆逐艦 秋月

かくしてC計画はスタートを切ったが、肝心の大和型戦艦の起工は大幅に遅れた。
3番艦信濃は横須賀第6船渠が完成するまで起工できず、4番艦は呉の造船船渠で建造する事になった為、1番艦大和が進水(昭和15年8月8日)するまで起工できなかったからである。
結局、4番艦が起工されたのは昭和15年11月7日になってからであった。
それでは八八艦隊計画時に戦艦建造の一翼を担っていた川崎重工神戸の船台では何を建造していたのであろうか?

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