阿部隆史 執筆B『丸』2006年7月号



第2次世界大戦に際し列強海軍はこぞって小型潜水艇(ミゼットサブ)を建造した。
これらは3つのタイプに区分される。
まずは魚雷を装備するタイプであり日独海軍で多く運用された。
日本の甲標的や海龍、独のネガーやマルダー、ゼーフントに代表されるこのタイプは魚雷を主兵装としているので、港湾襲撃のみならず洋上襲撃が可能であった。
ただし可能とは言っても航洋能力と捜索能力、通信能力の低さから実戦的ではなく、あまり有効な洋上襲撃は行われなかった。
日本海軍では甲標的の洋上襲撃用母艦(名目上は水上機母艦)として千歳型、千代田型、日進型などを次々と建造したが、実際の甲標的運用戦例はハワイ攻撃、シドニー攻撃、ディエゴスワレス攻撃など港湾襲撃に終始している。
独の小型潜航艇についてもノルマンディー戦などで船団攻撃に投入された物の、隻数の割にはさしたる戦果を挙げる事ができなかった。
2番目のタイプは魚雷を装備せず目標の近辺に爆発物を投下もしくは設置して待避する物で、イタリア海軍や英海軍で多く運用された。
3番目のタイプは特攻兵器で日本海軍の回天が挙げられる。
さて本稿の主旨は英海軍の小型潜航艇なので2番目のタイプとなるが、「密着攻撃型ミゼットサブ」とも称しうるこれら小型潜航艇の歴史は意外と古い。
何故、魚雷装備型ミゼットサブに較べ密着攻撃型ミゼットサブの歴史が古いかと言うと、近代的魚雷がホワイトヘッドによって発明(1866年)されるまで潜水艦の攻撃法は密着攻撃しかありえなかったからである。

史上初の成功した密着攻撃は南北戦争中に行われた。
1864年2月17日にチャールストン港沖で南軍の潜水艦ハンレー(全長12m、全高4m、乗員8名、重量約30t)が北軍の木造帆走艦フサトニック(1800t)を撃沈した戦いがこれである。
ハンレーの兵装はスパートーピード(棒水雷:炸薬量90ポンド:約40s)と呼ばれる物で、目標にぶつかって槍状の先端を突き刺した後に15m後進してから爆発させる仕組みになっていた。
ハンレーの速力は約5ノットと称されているが航続力は明確でない。
それもそのはずでハンレーは人力を動力としていたのだ。
艇長を除く7名の乗員が手回しクランクでスクリューを回転させるのである。
これでは乗員の腕力や栄養状態で速力や航続力は大きく変化するであろう。
ただし第2次世界大戦中に日本海軍が使用した乙型潜水艦の水中最高速力が8ノット、独海軍の使用したUZC型が7.6ノットだった事を考えると、ハンレーは「当時としてかなり高速だった」と言える。それではハンレーはその性能と隠密性を武器に縦横無尽の活躍をしたのであろうか?
ハンレーにとって最大の弱点は性能面ではなく安全性にあった。
1863年に建造されたハンレーは同年8月20日、事故によって沈没し引き揚げられたものの、10月15日にも事故で沈没し多くの犠牲者を出した。
2月17日の出撃では見事、目標を撃沈したものの、この時も沈没し全乗員が艇と運命を共にしている。
小型潜航艇にとって事故こそが最大の敵である事をハンレーは見事に物語っていると言えよう。

さて前述した「魚雷の発明」によって潜水艦の主兵器は魚雷にとって代わられた。
1隻当たりの攻撃力が大きいに越した事は無いのだから、1門でも多くの発射管を装備し1発でも多くの魚雷を搭載する為、潜水艦は次第に大型化していく。
それでは密着攻撃は消え去ってしまったのだろうか?
いや、魚雷と言う便利な兵器が登場した後でも伝統的な潜水艦の攻撃法である密着攻撃はイタリア海軍によって、すたれる事なく研究され続けたのである。
それどころか密着攻撃用に考案されたのは「魚雷を改造した小型潜航艇」であった。
小型潜航艇と言っても潜水服を着用した乗員が跨って搭乗するのだから、水中スクーターに限りなく近い。
第1次世界大戦中にイタリア海軍が開発したイグミナータ(乗員2名)がこれで、1918年11月1日にはポーラ港に在泊するオーストリー戦艦V・ウニーティス(21730t:30.5p砲12門:速力20ノット)を撃沈している。

戦艦 V・ウニーティス
戦艦 クィーン・エリザベス

ついで第1次世界大戦後の1935年にイタリア海軍はイグミナータを改良したSLC(乗員2名)を開発(設計者はテゼイ少尉及びトスキー少尉)し、1940年から41年にかけペルラ型潜水艦(680t:53p魚雷発射管6門)のアンブラ、イリデ、ゴンダル、シーレをSLC母艦(搭載数3〜4隻)に改装した。
マイアレ(豚)とも呼称されるSLCは全長6.7m、全幅5.33mで性能は最大深度30m、速力4.5ノット、酸素保有量6時間であった。
イグミナータと同じく2名の搭乗員は潜水服を着用して目標まで航行する。
使用する爆薬は初期型220s、中期型250s、後期型300sで、爆発ケーブルにより目標の直下に設置し最大5時間の時限信管が装着されていた。
1940年6月10日の参戦以来、同年11月のタラント空襲(戦艦3隻大破)や翌年3月のマタパン岬沖海戦(重巡3隻、駆逐艦2隻喪失)で苦杯を嘗め続けたイタリア海軍は、1941年12月18日に潜水艦シーレのSLC3隻でアレクサンドリア在泊のクィーンエリザベス型戦艦(32700t:38.1p砲8門:速力24ノット)のクィーンエリザベスとバリアントを大破させ敗勢を立て直す。
とは言えSLC部隊にとってこの作戦は4度目(1度目は1940年8月の第1次アレクサンドリア攻撃:戦果なし、2度目は1940年10月の第1次ジブラルタル攻撃:戦果なし、3度目は1941年9月の第2次ジブラルタル攻撃:商船3隻撃沈)であり、初の大戦果であった。
そしてこの成功が敗者の英海軍を強く刺激し、X艇が誕生する契機となったのである。

もっとも英海軍とて「1941年12月18日の敗北」から急に小型潜航艇を開発しだした訳ではない。
第1次世界大戦前の1909年、G.ハーバート退役中佐はデバステーターと呼ばれる小型潜航艇の建造を立案しているし、1915年にはロバート・デービスがウェット&ドライ室付の3人乗り小型潜航艇を立案している。
ついで第1次大戦末期にはホートン大佐がデバステーター案を改良したが、これらのプランはいずれも英海軍に採用されなかった。
しかしホートン大佐は諦めず1924年に3種類の小型潜航艇を起案、1930年にはバーリー退役中佐(第1次大戦時の英潜L1号艦長)も2人乗り小型潜航艇を起案し、第2次世界大戦勃発直後の1940年に改良案を上申したのである。
このプランがX艇の原型となり前述のG・ハーバート、R・デービス、ホートンの各氏が賛同、特殊兵器開発のジェフェリーズ陸軍大佐も加わり一挙に本格化する。
ただしいくら本格的な建造案であっても当局の支持がなければ予算が成立しない。
こうした状況下で「1941年12月18日の敗北」が発生し、英海軍の小型潜航艇建造計画は海軍当局の支持を受け具現化するに至った。
なお英海軍に於ける小型潜航艇の建造案は前述のX艇だけではない。
イタリア海軍のSLCを回収した英海軍はこれを模倣し、1人乗りのウェルマンと2人乗りのチャリオットを開発している。
当然の事ながらこれらは水中スクーター的小型潜航艇(魚雷を改造して開発しているのでこれらを人間魚雷と称する文献が多いが特攻兵器と混同され易いので本稿では水中スクーター的小型潜航艇と類別する)であり、潜水艦型小型潜航艇のX艇とは「目標まで水中航行で接近し爆発物を設置すると言う点」では変わらないものの潜水服を着た生身の人間によって操作されるので、能力的には大きく異なる。
X艇とチャリオットの差はスクーターと自動車の違いに似ていると言えよう。
600ポンド(約270s)の磁気吸着時限機雷を装備するチャリオットはイタリア海軍の模倣である事と構造が簡単な事から、X艇に先駆けいち早く実用化された。
ちなみにX艇にも潜水服を装着した乗員が1名だけ「艇内に搭乗」する。
防雷網の切断等を任務とするこの乗員が艇外へ交通する為に設置されたのが前述のウェット&ドライ室でありX艇の大きな特徴となっている。
こうして最初に建造されたX艇は試作のX3型(X3、X4)であった。
何故、X1でなくX3が最初であったかと言うと、X1は1925年に竣工した巡洋潜水艦(2425t:13.2p砲4門、53.3p魚雷発射管6門)、X2は鹵獲された元イタリア潜水艦ガリレオ・ガリレイ(970t:10p砲2門、53.3p魚雷発射管8門)で、既に使用された艦名だったからである。
X3(27t、全長15.2m、全幅1.7m、水上42馬力6.5ノット/水中25馬力4.5ノット)は1942年3月15日に進水している。
だが進水はしたものの不具合な点が多く、すぐに戦力とはならなかった。
X3は5月から様々な試験を繰り返したが英海軍に兵器として納入されたのは翌年1月になってからであり、実戦で使用する量産型のX5型が同時に建造された。
一方、兵器の完成を待たず4月には部隊編成と訓練が先行して開始された。
指揮官は1942年2月23日に英潜トライデント艦長として独重巡プリンツ・オイゲンを撃破した功績を持つスレーデン少佐である。
X艇は言うに及ばずチャリオットも未完成だったので、訓練には「キャシディー」と呼ばれる木製の訓練艇(チャリオットの原型)が使用された。

さて英海軍の小型潜航艇が立ち向かう相手は日独伊の枢軸国海軍となる訳だが当面、最も大きな脅威はドイツ海軍であった。

戦艦 ティルピッツ

当時、ノルウェー水域のフィヨルドに潜むドイツ艦隊は戦艦ティルピッツ(41700t、38.1p砲8門、30ノット)とシャルンホルスト(34841t、28p砲9門、32ノット)を主力としており、対ソ船団航路に睨みを利かせていた。
実際に主力艦同士が砲火を交えれば独艦隊を壊滅させる事も可能なのだがフィヨルドから出てこない以上、「別の手段」を用いて独戦艦の撃沈を図らねばならない。
まず最初に行われたのが英空軍重爆による夜間空襲で、1942年1月28日(16機)、3月30日(33機)、4月27日(43機)、28日(34機)の4回に渡って出撃が繰り返されたが1発の命中弾も得る事ができなかった。
そこで次にJ・S・ウィルソン陸軍大佐によりチャリオットを使用したティルピッツ攻撃が企図された。

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