君が5万石の武将だと仮定しよう。
家臣団をどう編成する?
君が剛勇無双の勇士なら「家臣などいらん!この斬馬刀さえあれば充分じゃ、敵が幾万あろうとも全てなで斬りにしてくれるわ、ガッハッハ!」と言って「5万石の米を全て金に換えて酒と女を連れてこい!」とカブくのも良かろう。

だけど謙虚に「僕の取り分は100石でいいよ。4万9900石取りで優秀な人物を雇うから、その人に全部まかせるよ。」ってのもアリかも知れない。
戦国時代で君の主君がそれを認めてくれればね。

でも・・・
徳川幕府の時代ではそんなのはどっちも×だ。
なにしろ軍役規定と言うのがあって大名は石高に応じた兵力を幕府からの命令に応じて動員しなくてはならないのだ。

まあ、軍役規定は徳川幕府成立前からあったんだけど制度としては緩やかなもんだったし、各戦国大名や時代に応じて百石につき4人とか5人とか随分と差があった。
これが徳川幕府になると百石につき約2人と人数は少なくなるんだけど、規定は凄まじく細かくなったのである。
もしも4万9900石で有能な人士を雇ったら「ああそう、藩政を司るつもりはないのね。だったらその有能な人士を大名に取り立てるからいいや。」って改易されるだろうし、家臣無しって事にしたら「そんな変な仕置き(政治の事)する奴に領国は任せられん。」と言うことでやはり改易されてしまうだろう。
また「百石につき2人なら5万石だと千人か。だったら給料の安い足軽千人雇えばいいや。浮いた人件費を自分でウハウハ使っちゃおう♪って考えてもそうは問屋が卸さない。

え〜と慶安での5万石の兵力は・・・
家老1(その従者12)、上級家臣13(その従者が各7)、馬上56、若党56、侍40、小頭12、弓足軽45、鉄砲足軽200、槍足軽107、旗指足軽30、その他342の合計1005名となる。
ではこれら家臣団を永年雇用と臨時雇いに分けて見よう。
まずその他だけど、これに属する大半は中間、小者などの臨時雇いだ。
これらは必要に応じて雇用されるので家臣とは言いがたく、召抱えるといったケースではなく二本差しでもない。
次に「その他と足軽以外」だけど、これは一般に士分と言われる。
慶安の軍役規定だと281人だ。
当然、刀は2本差しているし馬に乗ってる者もいる。
最後に足軽だけどこれは2本差ながら士分ではなくグレーな所だ。
まあ、藩によってはこれに「郷士」なんてのが混じり、この郷士の扱いが「藩によってマチマチ」なので紛糾を極めるのだが、本稿ではあえて割愛する。
さて、5万石の藩の人員構成と言えば忠臣蔵で有名な赤穂藩が約5万石である。
時は元禄14年12月14日、突如として響き渡る山鹿流陣太鼓も高らかに、四十七士は一糸乱れず吉良邸に押し寄せた〜。
御存知、忠臣蔵の山場だ。

だけど・・・
皆さん御存知と思うが改易された時、赤穂藩の藩士は47人じゃなかったんだよね。
なんと士分だけで300余名いた。
つまり討ち入りに参加したのはごく一部に過ぎなかったのだ。
おまけに47人のうち11人は部屋住(家臣の家族であり直接の臣下ではない)などの無禄者なので、家臣での参加は36名となる。
嗚呼、忠義の薄さ紙の如し・・・

ここで赤穂浅野藩5万3千石の家臣団を上から拾って見よう。
まず筆頭に浅野大学の3千石がいるけど、これは世子(跡継ぎ)なので家臣といえないからパス。
実質的な筆頭は言わずと知れた城代家老大石内蔵助の1500石。
ついで1000石の岡林と奥野、800石の藤井、650石の安井と大野、500石の大木などが続く。
でもこれら上級家臣の中で討ち入りに参加したのは大石内蔵助だけなのだ。
給料で忠義は買えない事の好例と言えるだろうね。


次に四十七士の禄高を見るとしたいが、その前に「禄高とは何か?」を説明しなくてはなるまい。
禄高は一般に「石」を単位とするが、これは米の量を表す。
1石は10斗、1斗は10升、1升は10合で1升の米は1.5kgだ。
つまり1石は150kgであり「平均して1人が1年に消費する米の量」とされている。

まあ明治元年の日本の総石高が3043万石(米以外も含む)で人口が約3000万人だから大体の目安とはなろう。
ただしこれだと1石=1000合だから365で割ると1日当たり2.7合になる。
当時の感覚では「成人男子が1日5合、成人女子は3合を基準」としていたので、平均4合からするとだいぶ少ない。
児童人口や老人も多いのでそれも合算すれば2.7合なのかも知れないし「貧乏人は麦(あと粟や稗)を食え」って事なのかも知れない。
昔はそう思われてきた。
だけど最近ではちょっと違ってきた。
額面上の総石高が約3000万石でも「実際に生産された米」はもっと多く、1人当たりの平均消費は2.7合よりずっと多いと考えられる事が主流となってきたのだ。

なお100石取の武士が100×150kgで米15tを貰えるかと言うとそうも行かない。
武士の家禄には知行取と蔵米取と給金取と扶持取がある。
これらのうち蔵米取と給金取と扶持取は天引きなしで貰えるが知行の石高は「農民の取り分も含めた石高」なので、実際に貰えるのは約40%なのだ。
1石(150kg)の40%は1俵(60kg)である。
残りの90kgが農民の取り分だ。
つまり100石取の武士1名が存在すると言う事は100石の収益が上がる田畑があり、武士とその家族、家臣以外に「田畑を耕作する農民」も存在している。

それでは「農民1人は1年にどれだけの米を生産」できるか?
これはまあ色々な資料があり、土地の豊貧、その年の気候などで大きく変化するので一概には言えない。
では士農工商の人口比はどうであろうか?
3000万人の人口のうち「武士と僧侶で7%、商人や職人が13%、農民が80%」と言う数字などをよく見かける。
しかしこれも半農の郷士もいるし、農民兼職人や農民兼商人も一杯いるから実際のところはよく判ってないのだ。
駕篭かきや馬方など運輸業者もたくさんいるしね。

それはさておき、タテマエでは日本に3000万人の人が住み3000万石の米が生産され、人口の80%が農民なら農民1人当たり1.25石の米を生産する事になる。
100石の領地なら80人だ。
だけど前述したように実際はそうではない。
「日本の総石高3043万石」と言うのは額面上の数量(表高)であり、実際の生産量(内高)はずっと多かった。
江戸開府当初は表高と内高が等しかったのだが、新田開発や農業技術の改良によって生産量はどんどん増大していったのだ。

でも米の生産量が増えたからって加賀100万石が134万石になったりはしない。
とりあえず100万石のままだ。
基本的に武士の数は軍役規定によって決定されるし、軍役規定の基礎となる石高がコロコロ変わっちゃまずいのだ。
よって表高はあまり変わらないのである。
更に「実際に収穫される米の量」が内高と等しいとは限らなかった。
理由はふたつある。
「年貢は「内高に税率を掛けた量」で取られる。だが農民としては年貢を多く取られたくない。
すなわち内高より「実際に収穫される米の量」の方が多いのが好ましい。

加えて「実際に収穫される米の量」は気候によっても大きく変動する。
基本的に農民の手には内高で規定されたより多い米が残る。
飢饉さえ来なければ・・・。
だが飢饉が発生し藩主が無慈悲や無思慮であったらとんでもない事になるのだ。
江戸時代の人口推移は飢饉の襲来を如実に反映している。


さて、諸大名は表高の軍役規定に従って「一定数以上の家臣団」を編成しなければならないと前述した。
でも軍役規定以上に多くの家臣を抱えてはならないと言う制限はないんだ。
では何ゆえ「軍役規定以上に多くの家臣」を抱える必要があるのだろうか?
理由は大きく分けて3つある。
一つは減封された場合で「これまでの家臣を簡単にリストラできない場合」だ。
このケースには120万石から15万石に厳封された米沢藩上杉家などが相当する。
もうひとつは「一朝事あらば幕府を相手に干戈を交える想定の場合」だ。
これに相当するのは長州藩や薩摩藩。
そして最後は「農地の拡張などでとてつもなく藩の財政が豊かになり、多くの家臣を召抱えても困らない場合」だ。
ま、これに相当するのはあんまりないけど、とりあえず可能性として挙げておく。

さて、どこから始めようか?
まずは当たりさわりの無い所から始めるとするか。
では最初に外様の優等生、加賀藩前田家だ。

ここは表高102万石で内高は120万石とも134万石とも言われている。
物語藩史6巻によると1721年には人口約70万人で、武士人口は67302人だったらしい。
つまり人口の約10%だ。
もっとも武士人口と一口に言っても老人や子供、女子も含むので、軍事組織の要員として期待出来るのは戸主だけに過ぎない。
ちなみに明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸であった。
1戸につき約4人なので妥当と言えよう。

前に慶安の軍役規定で5万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名と記述したが102万石の場合、士分5733人、足軽7181人、その他6977人を要する。
よって士分は23%の超過、卒分は33%の不足となるが「その他」の大半を占める小荷駄隊や鎧持ち、槍持ちなどは臨時雇いの農民で充分間に合う。
従ってこの数字は非常に健全なのだ。
なお加賀藩に於ける足軽の家禄は切米で20ないし25俵(20から25石取相当)で相当に待遇は良く士分に近い存在だったらしい。
他藩と違って前田家の足軽は1本差だけどね。

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