江戸時代諸藩の家臣団について

君が5万石の武将だと仮定しよう。
家臣団をどう編成する?
君が剛勇無双の勇士なら「家臣などいらん!この斬馬刀さえあれば充分じゃ、敵が幾万あろうとも全てなで斬りにしてくれるわ、ガッハッハ!」と言って「5万石の米を全て金に換えて酒と女を連れてこい!」とカブくのも良かろう。

だけど謙虚に「僕の取り分は100石でいいよ。4万9900石取りで優秀な人物を雇うから、その人に全部まかせるよ。」ってのもアリかも知れない。
戦国時代で君の主君がそれを認めてくれればね。

でも・・・
徳川幕府の時代ではそんなのはどっちも×だ。
なにしろ軍役規定と言うのがあって大名は石高に応じた兵力を幕府からの命令に応じて動員しなくてはならないのだ。

まあ、軍役規定は徳川幕府成立前からあったんだけど制度としては緩やかなもんだったし各戦国大名や時代に応じて百石につき4人とか5人とか随分と差があった。
これが徳川幕府になると百石につき約2人と人数は少なくなるんだけど規定は凄まじく細かくなったのである。
もしも4万9900石で有能な人士を雇ったら「ああそう、藩政を司るつもりはないのね。だったらその有能な人士を大名に取り立てるからいいや。」って改易されるだろうし家臣なしって事にしたら「そんな変な仕置き(政治の事)する奴に領国は任せられん。」と言うことでやはり改易されてしまうだろう。
また「百石につき2人なら5万石だと千人か。だったら給料の安い足軽千人雇えばいいや。浮いた人件費を自分でウハウハ使っちゃおう♪って考えてもそうは問屋が卸さない。

え〜と慶安での5万石の兵力は・・・
家老1(その従者12)、上級家臣13(その従者が各7)、馬上56、若党56、侍40、小頭12、弓足軽45、鉄砲足軽200、槍足軽107、旗指足軽30、その他342の合計1005名となる。
ではこれら家臣団を永年雇用と臨時雇いに分けて見よう。
まずその他だけど、これに属する大半は中間、小者などの臨時雇いだ。
これらは必要に応じて雇用されるので家臣とは言いがたく召抱えるといったケースではなく二本差しでもない。
次に「その他と足軽以外」だけどこれは一般に士分と言われる。
慶安の軍役規定だと281人だ。
当然、刀は2本差しているし馬に乗ってる者もいる。
最後に足軽だけどこれは2本差ながら士分ではなくグレーな所だ。
まあ、藩によってはこれに「郷士」なんてのが混じり、この郷士の扱いが「藩によってマチマチ」なので紛糾を極めるのだが本稿ではあえて割愛する。
さて、5万石の藩の人員構成と言えば忠臣蔵で有名な赤穂藩が約5万石である。
時は元禄14年12月14日、突如として響き渡る山鹿流陣太鼓も高らかに、四十七士は一糸乱れず吉良邸に押し寄せた〜。
御存知、忠臣蔵の山場だ。

だけど・・・
皆さん御存知と思うが改易された時、赤穂藩の藩士は47人じゃなかったんだよね。
なんと士分だけで300余名いた。
つまり討ち入りに参加したのはごく一部に過ぎなかったのだ。
おまけに47人のうち11人は部屋住(家臣の家族であり直接の臣下ではない)などの無禄者なので家臣での参加は36名となる。
嗚呼、忠義の薄さ紙の如し・・・

ここで赤穂浅野藩5万3千石の家臣団を上から拾って見よう。
まず筆頭に浅野大学の3千石がいるけど、これは世子(跡継ぎ)なので家臣といえないからパス。
実質的な筆頭は言わずと知れた城代家老大石内蔵助の1500石。
ついで1000石の岡林と奥野、800石の藤井、650石の安井と大野、500石の大木などが続く。
でもこれら上級家臣の中で討ち入りに参加したのは大石内蔵助だけなのだ。
給料で忠義は買えない事の好例と言えるだろうね。

次に四十七士の禄高を見るとしたいが、その前に「禄高とは何か?」を説明しなくてはなるまい。
禄高は一般に「石」を単位とするが、これは米の量を表す。
1石は10斗、1斗は10升、1升は10合で1升の米は1.5kgだ。
つまり1石は150kgであり「平均して1人が1年に消費する米の量」とされている。

まあ明治元年の日本の総石高が3043万石(米以外も含む)で人口が約3000万人だから大体の目安とはなろう。
ただしこれだと1石=1000合だから365で割ると1日当たり2.7合になる。
当時の感覚では「成人男子が1日5合、成人女子は3合を基準」としていたので平均4合からするとだいぶ少ない。
児童人口や老人も多いのでそれも合算すれば2.7合なのかも知れないし「貧乏人は麦(あと粟や稗)を食え」って事なのかも知れない。
昔はそう思われてきた。
だけど最近ではちょっと違ってきた。
額面上の総石高が約3000万石でも「実際に生産された米」はもっと多く、1人当たりの平均消費は2.7合よりずっと多いと考えられる事が主流となってきたのだ。

なお100石取の武士が100×150kgで米15tを貰えるかと言うとそうも行かない。
武士の家禄には知行取と蔵米取と給金取と扶持取がある。
これらのうち蔵米取と給金取と扶持取は天引きなしで貰えるが知行の石高は「農民の取り分も含めた石高」なので実際に貰えるのは約40%なのだ。
1石(150kg)の40%は1俵(60kg)である。
残りの90kgが農民の取り分だ。
つまり100石取の武士1名が存在すると言う事は100石の収益が上がる田畑があり、武士とその家族、家臣以外に「田畑を耕作する農民」も存在している。

それでは「農民1人は1年にどれだけの米を生産」できるか?
これはまあ色々な資料があり、土地の豊貧、その年の気候などで大きく変化するので一概には言えない。
では士農工商の人口比はどうであろうか?
3000万人の人口のうち「武士と僧侶で7%、商人や職人が13%、農民が80%」と言う数字などをよく見かける。
しかしこれも半農の郷士もいるし農民兼職人や農民兼商人も一杯いるから実際のところはよく判ってないのだ。
駕篭かきや馬方など運輸業者もたくさんいるしね。

それはさておき、タテマエでは日本に3000万人の人が住み3000万石の米が生産され人口の80%が農民なら農民1人当たり1.25石の米を生産する事になる。
100石の領地なら80人だ。
だけど前述したように実際はそうではない。
「日本の総石高3043万石」と言うのは額面上の数量(表高)であり実際の生産量(内高)はずっと多かった。
江戸開府当初は表高と内高が等しかったのだが新田開発や農業技術の改良によって生産量はどんどん増大していったのだ。

でも米の生産量が増えたからって加賀100万石が134万石になったりはしない。
とりあえず100万石のままだ。
基本的に武士の数は軍役規定によって決定されるし軍役規定の基礎となる石高がコロコロ変わっちゃまずいのだ。
よって表高はあまり変わらないのである。
更に「実際に収穫される米の量」が内高と等しいとは限らなかった。
理由はふたつある。
年貢は「内高に税率を掛けた量」で取られるのだから農民としては年貢を取られたくないので内高より「実際に収穫される米の量」の方が多いのが好ましい。

加えて「実際に収穫される米の量」は気候によっても大きく変動する。
基本的に農民の手には内高で規定されたより多い米が残る。
飢饉さえ来なければ・・・。
だが飢饉が発生し藩主が無慈悲や無思慮であったらとんでもない事になるのだ。
江戸時代の人口推移は飢饉の襲来を如実に反映している。

さて、諸大名は表高の軍役規定に従って「一定数以上の家臣団」を編成しなければならないと前述した。
でも軍役規定以上に多くの家臣を抱えてはならないと言う制限はないんだ。
では何ゆえ「軍役規定以上に多くの家臣」を抱える必要があるのだろうか?
理由は大きく分けて3つある。
一つは減封された場合で「これまでの家臣を簡単にリストラできない場合」だ。
このケースには120万石から15万石に厳封された米沢藩上杉家などが相当する。
もうひとつは「一朝事あらば幕府を相手に干戈を交える想定の場合」だ。
これに相当するのは長州藩や薩摩藩。
そして最後は「農地の拡張などとてつもなく藩の財政が豊かになり多くの家臣を召抱えても困らない場合」だ。
ま、これに相当するのはあんまりないけど、とりあえず可能性として挙げておく。

さて、どこから始めようか?
まずは当たりさわりの無い所から始めるとするか。
では最初に外様の優等生、加賀藩前田家だ。
ここは表高102万石で内高は120万石とも134万石とも言われている。
物語藩史6巻によると1721年には人口約70万人で武士人口は67302人だったらしい。
つまり人口の約10%だ。
もっとも武士人口と一口に言っても老人や子供、女子も含むので軍事組織の要員として期待出来るのは戸主だけに過ぎない。
ちなみに明治元年における加賀藩の武士は士分7077戸、卒分(足軽以下)9474戸の合計16551戸であった。
1戸につき約4人なので妥当と言えよう。
前に慶安の軍役規定で5万石につき士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名と記述したが102万石の場合、士分5733人、足軽7181人、その他6977人を要する。
よって士分は23%の超過、卒分は33%の不足となるが「その他」の大半を占める小荷駄隊や鎧持ち、槍持ちなどは臨時雇いの農民で充分間に合う。
従ってこの数字は非常に健全なのだ。
なお加賀藩に於ける足軽の家禄は切米で20ないし25俵(20から25石取相当)で相当に待遇は良く士分に近い存在だったらしい。
他藩と違って前田家の足軽は1本差だけどね。

次はと・・・
一番ひでえ所を書くとするか・・・
勿論、薩摩藩だ。
ここは凄いよ。
まず表高は77万石だが内高は当初、35万石くらいに過ぎなかった。
いずれにせよ、屈指の貧乏藩である事は間違いない。
この収入で77万石の軍役を整えなくちゃならないんだからね。
77万石の軍役は士分4324人、足軽5421人、その他5267人の計15012人に及ぶ。
それでは薩摩藩にどれだけの武士人口がいたかと言うと宝永3年の場合、士分12万6000人、足軽を含めると17万人で全人口45万に対し38%を占めた。
異常でしょ?
17万人なら1戸を6人と換算すると約3万人の兵力となり軍役規定の2倍にもなる。
なんでそんな事が可能なのだろうか?
貧乏なのに?
これにはカラクリがあるのだ。
収益が少ないのに藩士を増やしたい場合・・・
そう、1人当りの禄高を減らせばよい。
加賀藩前田家の場合、足軽は20〜25俵(20〜25石相当)だったね。
薩摩藩の場合はと言うと・・・
薩摩藩士には無高と高持の2種類があるのだがなんと、無高とは家禄が無いのだ。
つまり俸禄が全く支給されないので農民と変わらないのである。
これに対し高持は家禄があるにはあるのだが・・・
城外士はとんでもなく少ない場合(城下士もさして高禄ではないけどね)が多い。
薩摩の伊作には藩士567人が存在したが無高が245人で高持であっても227人は1石以下であった。
つまり1石以下と無高を合計すると472人で全体の83%に達する。
これらが薩摩の郷士であって半農半士(殆ど農民に近い)なのである。
なお薩摩藩は色々と努力して幕末には内高が86万石にもなったらしい。
この推移は薩摩の人口でうかがえる。
農民がいなくちゃ米は生産できないし、農民が多数存在すると言う事は米をそれだけ消費すると言う事なので人口の推移は=石高の推移なのだ。
薩摩藩の人口(琉球など島嶼部を除く)は寛永13年(1636)に30万人だったが延宝5年(1677)には38万人となり宝永3年は45万人、明和9年は63万人、明治4年には72万人に増加している。
つまり2.4倍だ。
内高は35万石から86万石に増加しており、こっちは2.45倍。
ねっ、妥当でしょ。
それでは経済力が上がったなら藩士の暮らしは楽になったのだろうか?
いや、ならない。
藩士の数が更に増えたのだ。
明治初期の薩摩藩人口を72万人と前述したが、武士人口は34万人でなんと47%にも及んでいた。
まあ幕末から明治にかけての薩摩藩士族数を45042戸とする資料や43119戸とする資料もあるので実際(武士人口の定義に相違があるので)はもうちょっと少ないかも知れないが膨大な数である事は間違いない。
これが後述する長州藩との相違であり国民皆兵制の導入から征韓論、西南戦争へと続く大騒乱の発火点となるのである。

それじゃ今日は長州藩だ。
関ヶ原で西軍につき江戸時代を苦心惨憺で過ごした点では薩摩藩と同じだが家臣団の編成については真逆の方向へ進んだのが特徴と言えよう。
表高は37万石で薩摩藩の半分にも満たない。
ラッキー!
これなら軍役が少なくて済む。
元が120万石だったのが減封されて37万石となったので余剰家臣の再編がキモだったが帰農してくれる面々がいたので何とかなった。
それに・・・
37万石とは言え元々、内高は慶長年間で52万石もあり元和9年には66万石、1687年には82万石、宝暦13年には86万石と増え幕末には推定100万石となっていたらしい。
人口の方は元禄7年が335567人で武士人口は54295人(16%)、寛政4年は人口476505人で武士人口44349人(9%)、明治2年は人口565368人で武士人口48284人(8.5%)だった。
ねっ、薩摩藩みたいにどんどん人口に対する武士人口比が増えて行ったと逆でしょ?
つまり長州藩は経済力を重視して藩政を進めていったのだ。
とは言え軍役規定ぎりぎりまで武士を減らした訳ではない。
36万石の軍役規定は士分2024人、足軽2535人、その他2463人の合計7022人だけど明治2年での武士人口48284人は13366戸(1戸あたり3.6人)で構成されており軍役規定の2倍近い動員が可能だった。
それでもまあ、薩摩藩よりはずっと少ない。
だから戊辰戦争にあたり長州藩は武士人口以外からも兵を募って奇兵隊などを編成し新政府になってからも大村益次郎が主導して国民皆兵による徴兵制の導入を図ったのだ。
一方、薩摩藩は武士人口だけで充分な動員が可能だったし「軍隊は武士人口の貴重な受け皿」としての見方が強かったので徴兵制の導入に対しては「冗談じゃない!」と受け止めたのである。
よって、西南戦争が勃発した。

次は関ヶ原でとんでもない目にあった北国の雄、米沢藩上杉家に移る。
(おっ、なんだか少し赤穂浪士に近づいてきた気がするぞ?)
米沢藩上杉家は謙信の頃、越後にいたが豊臣政権下で会津120万石に移封され徳川幕府成立と共に米沢30万石へ減封、更に寛文4年(1664年)には15万石(内高28万石)に減封された可哀想な大名である。
そしてなんと、上杉家は120万石から15万石へと1/8にも小さくなったのに家臣のリストラ(「召し放ち」と言う)を積極的にしなかったのだ。
これを安易に美談と言うなかれ。
どういう手段をとったかと言うと家臣の家禄を平均的に削減したのは当然として他藩なら世襲でない足軽を世襲化して、そこに家禄の少なくなった家臣を組み込んだのである。
よって米沢藩の足軽(卒族)は他藩の士族とほぼ同じといえよう。
さて、米沢藩の家臣団だが15万石減封前の正保4年(1647年)は6653戸だった。
これが減封後の寛文9年(1669年)になると5161戸になっている。
なんと表高が半減したのに家臣団は13%しか減ってないのだ。
更に時代が下った享保10年(1725年)でも4912戸だから米沢藩の動員力はほぼ5000人と考えてよい。
ちなみに15万石の軍役規定は士分843人、足軽1056人、その他1026人の合計2925人である。
こうして見ると軍役規定の2倍は越えておらず「なんだ長州藩と同程度じゃないか。」と思えてくる。
と、こ、ろ、が!
人口に対する武士人口の比率が全然違うのだ。
長州藩では明治2年(1869年)の人口565368人に対し武士人口48284人で8.5%だったが米沢藩は文久2年(1862年)の人口129003人に対し武士人口32036人で25%にもなる。
「なぜ?」と思うでしょ。
答えは「1戸あたりの人数」にある。
長州藩の明治2年13366戸(1戸あたり3.6人)に対し米沢藩は明治元年で6733戸(1戸あたり4.7人)なのだ。
つまり「1戸あたり人数」が大きく違うのだがここで上記の「足軽の世襲」が大きく絡んでくる。
長州藩は「1戸あたり3.6人」だけどこれを「世襲化された士族」と「世襲化されていない卒族」(つまり足軽)に細分化してみよう。
士族が3000戸で11589人(1戸あたり3.8人)、卒族が3991戸で10262人(2.6人)、陪臣が6157戸で25487人(4.1人)、郷士(医者などが主体で薩摩藩の郷士とは全く違うから注意)が218戸で910人(1戸あたり4.2人)となる。
世襲化されていない卒族は独身が多く、結婚しても子供のない場合が多いのだ。
米沢藩は家臣団を足軽まで世襲化(元は士分だった家臣を足軽化したと言った方が正しいが)した為、動員兵力に比べ武士人口が多いのが特徴と言えよう。
米沢藩の人口(武士人口:比率)は元禄5年(1692年)が133259人(31173人:23%)、安永5年(1776年)が121730人(24061人:20%)、寛政3年(1791年)が99119人(不明)、天保11年(1840年)が112968人(25608人:22%)、嘉永3年(1850年)が120638人(28115人:23%)だった。
薩摩藩の様に郷士とすれば労働力としても期待できるが多数の「小禄だがとりあえず武士」を少数の農民が支えるとなると困窮するのは目に見えている。
この状況下でなんとか財政を健全化したから鷹山は傑物なのだ。

さて・・・
参考までに親藩だった松平家会津藩(表高23万石、幕末の内高40万石)の家臣団について記しておこう。
享保17年(1732年)の人口196125人に対して武士人口は14239人で7%だった。
また世襲化を極端に嫌った例としてやはり親藩の徳川家尾張藩などの例がある。
ここでは「能力給」で藩主や成瀬家(犬山城主3万5千石)、や竹腰家(今尾城主3万石)、渡辺家(1万4千石)、志水家(1万石)、石河家(1万石)など重臣8家を除き禄高が大きく変動した。
重臣であっても慶長年間には1万石であった寺尾家は寛文年間には千石になり4千石の山下家は150石に減封されている。
その反面、星野織部の様に13両3人扶持から5千石にまで出世したケースもあり波乱万丈であった。

それでは折角、東北地方に話が進んだので東北の雄である伊達家仙台藩についても解説しておこう。
なにしろ東北地方の藩が抱える問題は近世/近代の日本全体に重大な影響を及ぼしており現代でもまだ継続している。
その問題とは・・・
そう、米問題である。

米。
この主食でありアルコール原料であり基本通貨ですらあった偉大な農産物は日本全土(九州南部などの一部地域を除く)で消費され生産地も日本全土に広がっていたが東北地方は生産量が群を抜いて多かった反面、冷害などの自然災害で大きな打撃を受ける脆さも併せ持っていたのである。
厄介な事に米が持つ経済的価値がそれに拍車をかけた。
米の価格は変動相場であり全国に於ける毎年の生産量が平均的米価を決定した。
つまり毎年1万石の収穫があったとしてもそれが2万両に売れる年もあれば5千両にしかならない年もあったのである。
更に「全国的に不作で米価高騰」であったとしても自領の田が不作であるとは限らない。
だとすれば「他国の飢饉」はボロ儲けのチャンスとなる。
まさに江戸時代の「米」はバクチであったのだ。
まず米の価格と通貨だけど基本的に金1両=銀60匁=銭4000文であり慶長11年(1606年)年の米価は銀20匁だった。
つまり1石=0.33両である。
でも米価は正保2年(1645)に銀30匁、万治元年(1658)に銀50匁5分と値上がりを続け以降は1石1両が基本となる。
でもね〜、基本とは言っても寛文11年(1671)には銀47匁、天和元年(1681)には銀77匁、貞亨元年(1684)には銀40匁、元禄9年(1696)には銀105匁と変動が著しいのだ。
凄まじいのは宝永4年(1707)で火山は噴火するわ諸国で大地震が起こるわで銀120匁にまで暴騰した。
かと思うと享保3年(1718)には豊作で銀33匁まで米価は下落しそのまま安定期に入る。
ここで「ああ、これでみんな幸せに暮らせる様になったんだなあ」と安心しちゃいけないよ。
米の石高で収入を得る武士にとって米価が下落すると言うことは金銭収入が下落すると言う事なのだ。
田舎ならともかく、江戸の町じゃ金がなけりゃフンドシ1本買えやしない。
だから江戸時代初期は「農民から全て現物徴収」だった年貢も序々に一部金納や半々金納などに代わっていったんだけどね。

いずれにせよ米価の下落は武士と農民にとって面白い事ではない。
参勤交代や様々な公費負担で大名は痩せ衰えて行ったが旗本などの武士全般が困窮化していった要因として米相場の下落が大きく影響している。
(つまり給金取の下級武士は困らなかったわけだ)
しかし不作で飢饉が起こり一揆が発生するのも大変だし・・・
まあ、何にせよ米相場は政局に大きな影響を及ぼす。
さて、ここで飢饉が起きた時の事を考えてみよう。
名君たる者、飢饉に備えて米を蓄えて置かなくちゃならない。
「金に換えて置こうよ。飢饉が発生したらその金で米を買って配ればいいよ。米価が高いうちに売って金にしといた方が得だよ。」と考えてはならない。
だって飢饉の時は米価が暴騰してるじゃないか。
だから金を持っていてもちょっとしか買えないかも知れないよ。
「それなら米をたくさん蓄えときゃいいや。売るにしたって高値になるまで蓄えといた方が得だよ」なんてのも考えものだ。
だって新米ならちゃんと売れるけど古くなった米なんか商品価値なくなっちゃうよ。
よって売って金にする米と飢饉に備えた救荒米は別に考えなくちゃならない。

こうした米問題を抱えた伊達家は表高62万石56石4斗4升4合ながら宝暦6年の内高は101万石、人口80万人(1750年頃:武士人口17万)の大藩であった。
なお伊達家仙台藩の実際の収穫量は130万石くらいと言われている。
200万石や250万石と言う説もあるんだけど収穫量は変動するしね。
どの数字が本当なんだかちょっとわからないのがホンネだ。
さて仙台藩の武士人口だが元禄8年には人口82万人に対して武士人口20万人で24%に増え享保2年には人口が87万人に達しピークを迎える。
ところが・・・
飢饉が発生した天明6年には人口60万人、武士人口13万人で20%にまで落ち込んでしまうのだ。
ちなみに明治2年の武士人口は33128戸で172239人である。
他藩と比べとてつもなく武士人口が多い事がお判りいただけよう。
この武士人口を支えたのが「仙台藩の田んぼ」だったのだ。

さて、やっと赤穂浪士の所へ話が舞い戻る。
前述の通り討入に参加した47名のうち家臣は36名だった。
そしてその内、35名が士分であり1名が足軽である。
ここで「ふ〜ん、家禄が少ないと忠義も薄いのだな。」などと思ってはいけない。
300余名の士分のうち500石以上は大石、岡林、奥野、藤井、安井、大野、大木など7人だっがこれらのうち討ち入りに参加したのは大石だけだった。
つまり高禄だからと言って忠義が厚いと限らないのだ。
まあ、300余名のうち35名と言う事は11%なので7名のうち1人参加(14%)は「ごく当たり前」とも言える。
これら500石以上7人に400石代の外村、伊藤、玉虫、川村、進藤、多川の6人(この中に討入参加なし。)を加えた13人が家老+上級家臣13人に相当(1人足りないって?まあいいじゃない。色々、事情があるのだ。杓子定規にゃいかないよ。)する。

13人中1人だと7.6%か・・・
ちょっと寂しい気もするな。
頑張れ、上級家臣!
そして400石未満を見てみると・・・
討入参加者36人中、いるわ、いるわ、350石の片岡源五を筆頭に100石以上の者が28人もいる。
このあたりが馬上56人や侍40人だ。
ただ不思議なのは役職が「馬廻」の者が100石取りの中に3人もいる事である。
何が不思議かって言うと馬は高価だから100石取クラスだと維持できないのだ。
馬廻と言うのは馬に乗っている武士で戦国時代屋江戸時代初期は馬上=馬廻だったんだけど江戸も元禄になり合戦なんて絵巻物や講談でしか御目にかかれなくなると役職と実態が遊離していったんだろうね。
だから100石から300石のグループは馬上+侍と考えるのが妥当だ。

次に100石未満の家臣を見ると・・・
なんと21〜99石までが皆無なのだ。
そして扶持取と給金取ならびに複合が登場してくる。
村松喜兵衛の20石5人扶持とか神崎与五郎の5両3人扶持とかね。
ここで扶持取について解説しておこう。
扶持取とは固定化された加給の一種で男は1日5合、女は1日3合として禄高に加算する仕組みである。
1日5合だから1年では365×5合=1825合=1.8石に相当する。
ただしこれは切米と同じで知行に換算すれば3倍の5.4合に相当する。
まあ、女の場合は3石なので平均し4石相当と考えればよい。
つまり前述の村松喜兵衛20石5人扶持は知行40石に匹敵する。
給金取は1両=1石と考えるとこれも切米と同じく3倍だから神崎与五郎の5両3人扶持は知行27石相当だ。
米の価格が変動相場だから一概には比較できないけどね。
この下級藩士が12名おり、うち1名の寺坂吉右衛門のみが3両2分2人扶持(知行になおして17石相当)の足軽だ。
加賀前田藩の足軽が切米20〜25俵(知行20〜25石に相当)だから無難な家禄と言えよう。
おっと堀部弥兵衛が20石取になってるけど、これは元300石取だったのが隠居料として与えられているので下級藩士や足軽ではない。

さて、それじゃ武士の暮らし振りと物価を覗いてみよう。
まず米だけ食ってるわけにゃいかんから石高を金に換えなきゃいけないね。
武士の最低がサンピン(3両1人扶持、3両1分とする説もある)だからこれだと3両+1.8石で約5両となる。
つまり20000文だ。
加賀藩の足軽で20俵取だと約7両で28000文。
100石取の馬廻で40両(160000文)。
それでは物価はと言うと4玉の串団子が4文、蕎麦が16文、鰻丼が100文、銭湯が10文、清酒1合が32文、下駄が50文。
サンピン侍が「拙者は鰻丼が好物でなあ」と1日3回食い続ければ2カ月ちょっとで金が無くなり後は餓死してしまう。
蕎麦なら1年中、食べても大丈夫だが「独身者で他に出費がなければの話」だ。
女房子供と家族3人なら5ヶ月目を迎える事なく破産するであろう。
やはり外食を中心とした生活は無理だ。
それでは町人の給金はどの位かと言うと・・・
栗原柳庵の漫録によると文政年間の野菜行商人(天秤棒を担ぐ「ボテ振り)の稼ぎは1日400文(400文で年間290日働けば29両)、大工は1日銀6匁(290日働くと銀1740匁で43両)としている。
平均的な大工の収入は100石取の旗本を凌ぐのだ。
(でも杉浦ひなこ女史の説によると「江戸っ子は怠け者で年のうち半分しか仕事せずゴロゴロしていた」そうだから実収入はそう多くないかもしれない)
これに加えて町民は収入に対し支出がずっと少ない。
武士は体面を保たねばならないから、ツギの当った着物で人前に出られず、諸事の支出も大変多いが町人にはそんな制約が無いからだ。
だから年間30両の収入がある武士と町人を比べた場合、暮らしむきは比較にならない程、町人の方が楽になる。
「武士は食わねど高楊枝」は真実なのである。
大工だって若い衆を何人も抱えた棟梁、親方となればもっと収益が大きいし野菜だって行商ではなく八百屋として店を構えたなら儲けはずっと増えるだろう。
そんな貧しい武士なのに、ああ、貧しい武士なのに・・・
吉良上野介は上杉家米沢藩(前述した通り日本でも貧しい藩の筆頭!)と縁戚(4代藩主綱憲が上野介の息子)なのでたかりまくり綱憲の衣食住による江戸での支出が毎年2000両、吉良家への支出が毎年1000両にも及んだ。
「物語藩史1巻」の376ページでは「米沢雑事記」を引用し赤穂浪士によって殺害されたときの状況を「面々が内心では上野介殿をうらんでいた最中の出来事だったからその知らせをきくや悲しむ心はなくむしろいい気味と口に出していいたい」と記している。
なにしろ米沢藩は「明暦元年の掟」で
1.諸侍、諸給人は平常、絹布を着してはならない。
2.朋輩との寄り合い、振る舞いを停止する事。
  親類縁者で祝儀、振る舞いする場合でも1汁1菜に止める事。
3.遊山、賭博の禁止。
てな事を法制化しなければならない程、困窮していたのである。
だから赤穂浪士は「上杉藩にとってこそ真の義士」なのだ。
「命を捨てて米沢藩の為に吉良を討つ」とは、ああ、なんて美しい話だろう。
もし討ち入りが失敗に終わっていたら米沢藩の借財は更に膨らみとんでもない事態に陥っていたかも知れない。
(もしガッカリした人がいたらゴメンね。夢を壊すつもりはなかったんだ・・・)

江戸時代の収入は基本的に終身固定制(尾張藩などごく一部の例外を除く)だったが商人(行商などの個人営業を除く)だけは異なっていた。
例えば100石取の武士が隠居して息子がそれを継いだとするでしょ、そしたら現代の様に相続税が取られる事はなく石高は減少しない。
よほど良い事か悪い事でもしない限り石高は増減しないのだ。
百姓だって同じだ。
6反の田んぼを受け継いだら収入は6反のままだ。
歳をとったからって田んぼが広くなったり収穫量が増えたりはしない。
(新田開発でもすれば別だが)
大工も同じで給金は年功じゃなく「腕の差」で決まるので技術が一定のラインに達したら親方や棟梁にならない限り収入は増えはしない。
「駕篭かき」だって「乗せた客の数」で収入が決まるのであって勤続年数は収入に関係ない。
(現代だって老人が運転しているタクシーに乗ったからってたくさん払ったりしないでしょ)
ところが・・・
江戸時代に於いて商人だけは年齢によって収入が変動したのだ。
まず丁稚(十代)、これはほぼ無収入だが衣食住は保障され教育をして貰える。
次が手代(二十代)、これは年3〜6両しか貰えないけど住み込みなので食住は保障される。
番頭(三十代以上)、店によって給金は異なるので一概に言えないが10両以上と考えて良いだろう。
店主(四十代以上)、収入は店の売り上げ次第なのでなんとも言えない、悪けりゃ倒産、良ければ千両以上だ。
こうして見ると番頭以下は同年齢の大工や行商人に比べ薄給と言えるだろう。
でもね、暖簾わけして貰えば店主になれるし大店の場合は勤続20余年以上で退職した場合には手代であっても50〜100両の退職金が貰えたらしいので「暖簾わけ」が許されなくても充分な事業資金になった。
色々の文献などで三井を参考とし江戸時代の商人を「300人から1人が浮かび上がれる過酷な競争社会」などと表現しているが、これは「三井の様な大店だけの特殊事情」に過ぎない。
果たして三井の如き大店が日本にどれだけ存在し日本中の商人の如何ほどが「大店」に勤務していただろうか?
多くの「店」は使用人も含めて10人以下の小規模経営である。
また家族だけの零細店(まあ現代の一般的商店と変わりない)も多かったろう。
だから決して日本中の商人が「丁稚->手代->番頭->店主」のコースに乗って競争を繰り広げていたわけではないのである。
小規模店の場合、跡継ぎ息子は同業者の店で手代として修行し親父(店主)が隠居したら帰ってくることもあるだろう。
零細の場合は最初っから家族で店を盛り立てていくだろう。
行商人が金を貯めて店をだす事もある。
様々なのだ。
大店は江戸時代の中で現在の日本社会に最も似た給与形態だったと言えよう。

5万石の大名の慶安軍役規定が士分281人、足軽352人、その他342人の合計1005名だと前述した。
それでは10万石の大名はそれを2倍すれば良いのだろうか?
1万石の場合は1/5にすれば良いのだろうか?
実はそうではないのである。
5万石大名の軍役規定は1万石と10万石の中間に位置しているが1万石と10万石では質的に大きな差があるのだ。
今回はそこら辺を探ってみよう。
まず1万石だが馬上10、若党10、侍16、弓足軽13、鉄砲足軽25、槍足軽42、旗指足軽9、その他119の合計235名となる。
所帯が小さいので5万石と違い家老や上級家臣はおらず馬上の家臣が代行する。
次に10万石だが家老3(その従者が各15)、上級家臣24(その従者が各7)、馬上143、若党143、侍65、小頭25、弓足軽80、鉄砲足軽500、槍足軽195、旗指足軽60、その他820の合計2155名だ。
それでは双方を比較(10万石の方を1/10する)してみよう。
馬上及び上級家臣、家老は1万石の10に対し10万石では合計17で7割も多い。
鉄砲足軽などは1万石の25に対し10万石では50で2倍にも増えている。
すなわち1万石の大名10家と10万石の大名1家が対戦した場合、石高は同数でも火力で2倍もの差が生じる。
一方、近接兵器を所有する侍は1万石の16に対して10万石では6.5に過ぎないので半分にも満たず槍足軽も1万石の42に対し10万石は19.5でこれも半分に届かない。
1万石で鉄砲1丁に対し1.7本だった槍が10万石では0.4本にまで減少しているのである。
実に1/4だ。
いや、10万石の方が火力4倍になっていると考えてもよい。
恐らく大大名は火力戦闘を主体とした合戦や攻城戦及び篭城を前提に軍役が規定され小大名はゲリラ戦を主体とした治安維持任務を前提としているのであろう。
なお、軍役規定では「この人いったい何を任務とするんだろう?」といった役職が多く存在しており、僕はこれらを「その他」で包括している。
よって「その他」は中間や小者だけではなく士分や足軽も若干、含む。
例えば「押足軽」と言うのがあり千5百石の軍役規定で2人(つまり7百5十石で1人)、4千石で4人、1万石で6人、5万石で8人、10万石で12人(8千3百石で1人)である。
8千3百石と7百5十石では11倍もの開きがある。
それでは押足軽といったい何なのであろう?
どうもこれは現代で言う所の司令部勤務下士官に相当するものらしい。
また勝海舟の「吹塵録」では「忍び」は押足軽に含むとある。
よって押足軽は槍足軽や弓足軽、鉄砲足軽と異なり総兵力に比例して数が決定されず名称は足軽であっても実態は士分に近いと考えられる。

さて、中間や小者は武家奉公人と呼ばれる。
これらは大名が軍役規定に従って軍勢(大名行列も含む)を整える時、臨時に雇用されるが平時に於いてもそれなりに一定の数が雇われている。
多くの場合、平時に雇われている小者は下男(女性であったら下女となる)であり給金は「中間の場合、宝永年間で2両」とか「下男は3両で下女が1両」とか「明和4年で下女の1両2分(1.5両)」と言われている。
勿論、衣食住(私服は除く)は主人持ちだ。
なお、下男、下女は武家に限らず町人でも多く雇っていたので江戸の人口のうち結構、多数が「武家奉公人及び町屋での下男、下女」であったと考えられる。
給金の額としては「商人の手代の初任給」とあまり差はない。
だが「武家奉公人及び下男、下女」は商人と違い昇給しないのだ。
では何ゆえ「武家奉公人及び下男、下女」になるのであろうか?
「武家奉公人及び下男、下女」のメリットはどこに?
実の所、最初から人生の目的を「武家奉公人及び下男、下女」に置いているケースはあまり無いと思われる。
彼らは殆どの場合、独身だ。
だって住み込みだしね。
「最初は商人の手代だったけど・・・」とか「1度は結婚したんだけど亭主に離縁されちゃって・・」とか「若いうちは駕篭かきやってたんだけど歳取ると体がいうこときかなくてね・・・」とか「もう博打に手を出してスッテンテン、夜逃げしてきたんだよ・・・」とか事情は様々、色々ある。
基本的に「武家奉公人及び下男、下女」は給金が安い代わりに責任はなく仕事もヒマだ。
養わなきゃならない家族があるならともかく、そうでなけりゃ、それなりに安定してるからメリットは充分に存在する。
問題は「雇う側の事情」で金のある町人(金が無けりゃ雇わなければいいだけの話だ)ならともかく「金は無くとも体面上、雇わなければならない武士」だと大変な負担になる。
こうした場合は「ずっと家族同様の付き合いをしてきたんだから今月の給金はどうか待ってくれ(涙)」と情にすがって奉公して貰うしかない。
武家の家計が「火の車」なのは前述の通りだ。
にも関わらず武家奉公人を雇わなければならないのだから大変である。
(火の車なのに下女を雇う理由は「江戸時代は電気洗濯機も電気掃除機もなかったから」である。電話も無いから知人に手紙ひとつ届けるにも下男は不可欠なのだ。体面もあるけどね。)

それで次に軍事組織としての家臣団の機能を考察しよう。
10万石大名の場合、軍役規定21550名のうち直接戦力となるのは大まかに見て馬上、若党、侍、小頭、足軽の合計1211名である。
これらのうち馬上はかつて鎌倉時代などでは大きな戦力であったが戦国時代中盤以降、徐々に鉄砲の比重が増え存在意義を失っていった。
読者諸氏も教科書で習うだろうし黒澤映画や大河ドラマ見て知ってるよね。
でも太平洋戦記3みたいに「騎兵役にたたねえ、そんなもん全部没!馬は補給物資や大砲曳かせるのに使っちゃえ!」なんて事にはなっておらずとりあえずは軍役規定に入っている。
本当に「騎兵役にたたねえ、そんなもん全部没!」となるのは機関銃が登場してからである。
馬上が用いる武器は槍で家臣団の「その他」には143人の槍持が含まれている。
更に「その他」には143人(他に予備として70人)の「具足持」がいるが彼らが運搬している具足は馬上が着用する為のものである。
鉄砲で撃たれたら役に立たないけどね。
また「その他」には143人の騎士口附がいる。
「騎士口附とは聞きなれない役職だ。何をする人だろう?」と思われたかな?
そこで馬上を取り巻く143人ずつのこれらの集団と「200石取の旗本」の軍役規定を比較してみよう。
200石取の旗本の軍役規定は侍1人、甲冑持1人、槍持1人、馬口取1人、小荷駄1人の計5人となっている。
当然、旗本自身は含まれない。
これを馬上と比較してみると「馬上=旗本自身」で「若党=侍」、「具足持=甲冑持」、「騎士口附=馬口取」、「槍持=槍持」であり馬上は200石取の旗本に相当する事が判る。
馬上の方に小荷駄がいないのは藩全体の小荷駄50人に含まれるからである。
慶安軍役規定によると10万石の大名は各56騎の3備を保有(つまり168騎)を保有するとあるので上級家臣(2名を除く)と馬上を合わせ騎兵集団(これが3備)を構成する。
よって若党及び上級家臣の従者の一部、侍で騎兵集団の支援部隊を構成する。
これで「若党って何だろう?」と思っている方はご理解頂けただろう。
つまり彼らは「徒歩の侍」なのである。
嗚呼、種子島に南蛮船がやってこなければ・・・
彼らが主役だったのに・・・

さてそれじゃ、ほんとの主役である足軽について解説しよう。
鉄砲足軽500人には予備150人が含まれ小頭14人で統率する。
つまり小頭1人に鉄砲足軽25人+予備約10人で1部隊となる。
槍足軽195人には予備45人が含まれ小頭7人が統率する。
よって小頭1人に槍足軽21人+予備約6人で1部隊となる。
1部隊の兵力が若干少なくなり予備に至っては半分近くに減少している。
弓足軽は80人に予備20人が含まれ小頭4人が統率する。
小頭1人が率いる兵力は弓足軽15人に予備5人。
更に部隊規模が小さくなったわけだ。
旗指足軽になると60人で予備はおらず指揮官も小頭ではなく宰領になっている。

これがまあ、10万石大名家臣団の戦力のあらましだけど、「直接戦力に含まれない部分」にもちょっと目を向けてみよう。
直接戦力を「軍役規定21550名のうち馬上、若党、侍、小頭、足軽の合計1211名」としたが、まず最初に上級家臣や、その従者の一部が上記の様に「騎兵集団や徒歩の侍」として加わる。
それでは反対に家臣団の中から「これは絶対に戦力じゃないな。」と言うのを選びだして行くと・・・
まず茶弁当の2人、次に雨具持の2人、これらはまず戦闘員じゃない。
蓑箱の2人や甲冑持の6人(及び宰領3人)、挟箱持の4人、口附の8人、沓箱の4人(及び予備4人)もそうだ。
おっと、忘れちゃならないのが草履取の2人。
なにしろ出世の登竜門だからね。
ちなみに家臣に草履取が登場するのは250石取の旗本からだ。
坊主8人も戦力とは言い難いだろう。
ただし武蔵坊弁慶みたいな奴がいるとすれば別だ。
前にも書いた押足軽12人。
これはまったく戦力と考えて良いのやら悪いのやら皆目判らない。
似たようなのが長刀(ナギナタ)の2人。
だってたった2人だよ?
どんな部隊を構成するのやら・・・
この長刀は1000石取旗本の1人から登場し10万石大名になっても2人のままである。
う〜ん、戦力なのかはたまた儀礼上の存在なのか?
こうしたよく判らない役職を多々抱えて2155名の家臣団が構成されているのである。

最後に家臣団の俸禄を考察して本稿を締めるとしよう。
前回、馬上は200石取の旗本と同等と書いた。
だとすれば馬上143人に対し143×200=28600石の俸禄を出さねばならない。
143人の若党や143人の具足持、143人の騎士口附、143人の槍持は馬上が俸禄を払うから28600石のうちに含まれる。
それでは家老や上級家臣がどの程度の旗本に相当するか調べると上級家臣の従者7人と同数なのが300石取、家老の従者15人と同数なのが700石取となる。
よって上級家臣24人は24×300=7200石、家老3人は3×700=2100石で馬上と合算すると3万7900石に達する。
徒歩の侍が何石取の御家人に相当するのか判らないが足軽の方は参考例があるので計算し易い。
加賀藩を例にとるなら足軽の俸禄は20俵(知行に直せば20石に相当)だから鉄砲、弓、槍の足軽775人で1万5500石、小頭を40石取と仮定するなら25人で1000石の合計1万6500石、家老や上級家臣、馬上と合わせると5万4400石で10万石の半数を超える。
つまり防衛予算(城の補修など防衛施設費は抜き)の人件費(徒歩の侍は含んでいない)だけで歳入の半ばが消えてしまうのだ。
当然、城や藩邸は古くなったら補修しなくちゃならないし橋や道だって壊れたら修理しなくちゃならない。
飢饉に備えた米の備蓄も必要だ。
なにより人件費は武士だけに限らない。
城詰めの腰元やお女中にもなにがしかは支払わなくちゃならないし草履取も欠員にしとく訳にゃいかない。
(実は上級武士が外出するのに草履取は必須なのだ)
おっと、忘れちゃならないのが参勤交代の大名行列だ。
人件費やら補修費やらを払った残りから捻出するんだよ?
まして1万石残ったからって、そのまま換金できる訳じゃない。
農民だって霞食ってるわけじゃないんだから5公5民として5000石分だ。
1石1両として5千両だからネズミ小僧が「御金蔵からちょいと拝借」と言って千両箱をひとつ盗みだしたら10万石の大藩といえど大変な事になる。
大名なんて存外、貧しいものなのだ。

ちなみにこれまで一口に上級家臣と書いてきたけど詳細には用人4人、旗奉行4人、長柄奉行6人、物頭10人となっていた。
これら上級家臣がどの様な職務を担当するのかを概括しよう。
まず10万石2155名の軍勢だけど1名の指揮官の下で手足の如く運用するにはちょっと規模が大きすぎる。
そこで分割して運用するのだが分割された1作戦単位を「備」(そなえ)と言う。
なお「備」には1作戦単位の中核となる「騎兵集団」を意味する場合もある。
10万石は3備で家老は藩主が指揮官となる本陣の副指揮官もしくは各備の指揮官を担当する。
慶安軍役規定による各石高の家老数と備及び騎兵数は10万石が家老3で3備(騎兵各56騎)、9万石が家老3で3備(騎兵各50騎)、8万石が家老3で3備(騎兵各43騎)、7万石が家老2で2備(騎兵各55騎)、6万石が家老2で2備(騎兵各45騎)、5万石が家老1で1備(騎兵70騎)、2万石が家老1(この家老は従者9人なので大藩の家老より少禄)で1備(騎兵20騎)である。
1万石も当然、1備だが騎兵は僅か10騎で家老は存在しない。
用人は言わば参謀である。
旗奉行は旗足軽、長柄奉行は槍足軽、物頭は鉄砲足軽と弓足軽と侍と馬上を統括するのだが・・・
鉄砲足軽の小頭14人と弓足軽の小頭4人、馬上143騎、侍65人を統括するのに物頭10人を必要とするのは妥当としてもたった7人の槍足軽小頭を指揮するのに6人の長柄奉行、たった6人の旗足軽宰領を指揮するのに4人の旗奉行を必要とするのは合点がいかない。
どうもこれらの奉行は「名誉職」の様な気がする。
まあ指揮階梯としては家老は備の指揮官で大隊長、用人は参謀、物頭は足軽を指揮する場合は中隊長で騎兵を指揮する場合は小隊長、小頭は小隊長、宰領は分隊長と考えれば良い。


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