戦略爆撃について

実際の所、不思議な話なんだ。
3月10日の東京大空襲は...
対日戦略爆撃での被害者数は調査機関によって30〜55万名までのばらつきがあるけどこれは核兵器による被害差が多くを占めているのであって、通常爆撃では17万名弱〜22万名強の範囲内に収まっている。
加えて3月10日の被害も最小で8万3千名、最大で10万名以上とされているから極端な差はない。
つまり「核兵器を除いた対日戦略爆撃による死者」の過半数が3月10日の東京大空襲で生じたのはほぼ間違いないと言える。

ここで着目したいのは「3月10日の爆撃は特殊だったのか?」と言う事だ。
確かに3月10日以前に比べれば夜間、低高度、焼夷弾使用の点で特殊と言える。
だが3月10以降の爆撃に比べればなんら特殊な点は見られない。
東京の地理的特性だろうか?
そんな事はない。
木造家屋だろうが交雑した河川だろうが日本の港湾都市ではどこでも当たり前の要素である。
第一、東京自体が何度も空襲を受けたにも関わらず3月10日程、大きな被害を受けた例は見あたらない。

300機以上で東京を爆撃したのは3月10日の334機(投下爆弾1782t)が死者約10万(1t当たり56名)、4月13日の352機(2140t)が2459名(1.1名)、5月24日が562機(3687t)で762名(0.2名)、5月25日の502機(3302t)が3651名(1.1名)だ。
通常戦略爆撃による県別被害で見ると1位が東京の約10万名、2位が愛知の11324名、3位が兵庫の11246名、4位が大阪の11089名、5位が神奈川の6637名、6位が静岡の6473名、7位が福岡の4623名だ。
ただし5位の神奈川は約1万名とする資料も見られる。

これを見ると1位の東京が極端に被害が大きく大都市圏が約1万名、大都市ではないが航空産業周密地域の静岡がこれに続き、その他は5千名以下であるのが一目瞭然である。
ちなみにこれらの被害は「1都市に対する1回の空襲」で発生した訳ではない。
県内には幾つも都市があるし複数回の空襲を受けた都市もザラだ。
例えば大阪府の被害だが3月13日の3115名、6月1日の3150名、6月7日の1594名に周辺小都市を合算した数値だし兵庫県も3月17日の2598名、5月11日の1093名、6月6日の3184名に周辺小都市の分などを合算した数値である。
3月10日の空襲に匹敵、もしくは上回る規模の空襲は20回以上、行われたが被害者が5千名を越えたケースは見られない。

一概には言えないが300〜400機の空襲で3千名前後の被害が生じた場合が多い。
東京の場合、4月13日や5月25日がこれに相当する。
もしも3月10日に極端な大被害が生じていなかったどうであろう?
東京の被害累計は恐らく約1万名(3月10日を約2000名とし4月15日の中規模爆撃を加算)となり「その他の大都市」と肩を並べるはずだ。
つまり3月10日の惨禍は爆撃した米軍にとっても予想外の結果であり「計算して出来る爆撃」ではないと思う。

その計算しきれなかった要素とはなんであろうか?
勿論、大規模な火災旋風である。
何も僕はルメイが根っからの善人で「そんなつもりじゃなかったんだ。偶然の産物なんだ。」と考えているとは思わないし「米の戦略爆撃は人道的なんだよ。悪いのは火災旋風なんだよ。」と言うつもりもない。
計算して大規模火災旋風を発生させられるならルメイは何度でもやったろう。
だが有り難い事に3月10日と同じ事は最後まで再現できなかった。
だから僕は大規模火災旋風を伴う爆撃は計算して出来ないと考える。

かつて東京を襲った大規模な火災旋風は3度。
いわずと知れた関東大震災(死者数10〜14万名)と明暦の大火(死者数3〜10万名)だ。
明暦の大火を見ても判る様に約300機のB29を飛ばさなくとも「たった振り袖1枚の火元」が大規模火災旋風に発達する例もある。
逆に600機のB29を出撃させたって出来ない物は出来ない。
冒頭で「不思議」と書いたのは、数ある戦略爆撃作戦で東京だけが大規模火災旋風を発生させた事と過去に2度も大規模火災旋風を生じさせた事で、これには何か因縁めいた物を感ずる。

さて、第2次世界大戦に際し大規模な戦略爆撃が実行されたのは米軍による対日戦略爆撃、米英軍による対独戦略爆撃、独軍による対英戦略爆撃である。
ここで、対日戦略爆撃と対独戦略爆撃、対英戦略爆撃を比較して見よう。
連合軍は多大な兵力を投入して対独戦略爆撃を遂行したが投下爆弾量は対独戦略爆撃が136万t(英94万t+米106万tの合計200万tとする説もある)、対日戦略爆撃が16万5千t(サンケイ「B29」だと17万t)であった。
これらに比べ独が行った対英戦略爆撃の投下爆弾量は7万4千tでずっと規模が小さい。

被害はどうであろうか?
戦略爆撃で死亡したドイツ民間人総数は「攻撃高度4000」巻末資料によると57万名、米戦略爆撃調査団では30万5千名だ。
とりあえず今回は57万名として比較してみる。
日本の被害は30〜55万名だが核攻撃の分を引くと17〜22万名になる。
更に「大規模火災旋風と言う特殊事例だった3月10日の約10万名」を除くと対日戦略爆撃の被害は約7万5千名から約10万名である。
よって今回は10万名として比較する。

なお前述した様に火災旋風には通常の火災旋風と大規模火災旋風の2種類があり太平洋方面では3月10日の1回だけに大規模火災旋風が発生している。
その為、3月10日の被害は通常の50倍以上に達した。
こうした極端な事例の数値を含めると戦略爆撃の本質が見えなくなってしまうのでとりあえずは別にして集計せねばならない。
さて、日本の被害者数を投下爆弾量で割ると0.6(以降は被害者数/爆弾投下量を被害率と呼称する)になる。

それでは対独戦略爆撃で「大規模火災旋風」が発生した例はないのであろうか?
ある。
ドレスデン(死者3.5万名:投下爆弾6700t)やゴモラ作戦で目標とされたハンブルグ(死者5万名:投下爆弾9000t)などだ。
対独戦略爆撃での被害率は平均で0.42になるが両都市の場合、ドレスデンは5.2、ハンブルクは5.5で平均の10倍以上に達する。
両都市で大規模火災旋風が発生した事は各資料にも詳述されているので少し紹介したい。
「ライフ第二次世界大戦史・ヨーロッパ航空戦」によるとハンブルクでは大規模火災旋風で気温が980度になり風速240km/hの旋風が吹き荒れたらしい。
ただしどうやって気温を判断したのか判らないがサンケイ「ドイツ空軍」だと気温は1000度以上、ウィキペディアだと800度となっている。
恐らく何かの推測値なのだろうが風速はどの資料も240km/hで同じだ。
いずれにせよもっとも低い800度でも人間が生存するのは不可能である。
ちなみに風速240km/hと言うのは第4艦隊事件で日本海軍が遭遇した大型台風の2倍であり「ライフ」によると自動車が巻き上げられたらしい。

何故、木造家屋の少ない欧州都市でこれほどの火災が発生したのだろうか?
その鍵は各資料で詳述されるアスファルトの燃焼にある。
通常、アスファルトを可燃物だとは認識しない。
もしアスファルトを可燃物だと思ったら怖くてタバコのポイ捨てなどできはしないだろう。
だがアスファルトは石油化合物なので燃えるのだ。
とてつもない高温を加え続ければ...
そして燃えだしたアスファルトが熱源となりどんどん燃焼は倍加されていく。
東京は木造家屋が多かったので少量の焼夷弾で大規模火災旋風を発生させたが欧州都市に比べアスファルトは少なかった。
それに比べ舗装化の進んだ欧州都市は一旦、大規模火災旋風が発生するととんでもない災厄となった。
ウィキペディアではドレスデンで発生した火災旋風の温度を1500度としている。

残念ながらドイツ全都市の被害状況を知悉していないので大規模火災旋風が発生した事例全てを掌握してはいないのだが1回の空襲で死亡者1万名以上の被害がでたケースは大規模火災旋風が発生した可能性があると考えられるだろう。
1945年2月3日のベルリン空襲(死者2.5万名:出典は「ライフ」)、1943年10月22日のカッセル空襲(死者1.2万名:出典はガーランド著「始まりと終わり」)、1945年2月23日のポルツハイム空襲(死者17600名:出典はヨーネン著「ドイツ夜間防空戦」)などだ。
これらを合計すると約14万名なのでドイツの被害率は(57−14)÷136=0.32となる。
日本の0.6に比べると大変、低い。
これは日本の都市が木造家屋である事とドイツでは待避所の整備や工場疎開など戦略爆撃への対応が相当、進んでいる事などに起因する物であろう。
なにしろドイツの1都市に対する爆弾投下量はとてつもなく多い。
東京に投下された爆弾は累計1万1千tだがベルリンへ投下された爆弾は「独軍用機の全貌」では10万t、ウィキペディアでは45万tとなっている。
よってもはや瓦礫の山と化した地域にも投下したので被害率が低下したとも考えられるのである。

続いて英国の被害だが郷田充著「航空戦力」で5万名、カーユス・ベッカー著「攻撃高度4000」で6万5千名、「第2次世界大戦事典」では空襲による英の民間人死者4万名などが見られる。
これらの数値のいずれかをこのまま適用して良いのだろうか?
それは英民間人の死者総数を「定本・太平洋戦争」で60595名、今井登志喜著「英国社会史」著では約6万名としており同書他、「第2次世界大戦事典」やサンケイ「Uボート」など多数の資料で英船員の死者を3万以上としているからである。
総数6万名で船員死者が3万名なら空襲による死者は3万名以下にならねばならない。
加えてV兵器による死者が約9000名ある。
これも引くと通常の戦略爆撃による英国民間人の死亡は約2万名になってしまう。
なおウィキペディアでは空襲による英国民間人の死亡を4万3千名としておりこれからV兵器の死者を引くと3万2千名で被害率は0.43になる。
日本の0.6やドイツの0.32に比べると4万名前後がもっとも信頼できそうに思える。
ちなみに英国で大規模火災旋風の発生事例はない。

それでは次に攻撃した側について考えて見よう。
まず最初に「独による対英爆撃」を取り上げる。
当初、対英爆撃は「アシカ作戦」の制空権確保を目的とした戦術爆撃が主体であった。
だがロンドン誤爆から次第に都市爆撃へ主軸が移り「鷲の日作戦」の中止(すなわちバトル・オブ・ブリテンの敗北)から夜間都市爆撃に方針が変更された。
夜間に都市を爆撃すると言う事は...
すなわち無差別爆撃である。
昼間爆撃でも無差別爆撃は行えるが都市に対する夜間爆撃となるともはや無差別爆撃しか行えない。
独が対戦略爆撃で夜間爆撃を始めた時、「民間人の大量殺傷を意に介さない総力戦」の新たな頁が開かれたと言えよう。
そうまでして開始された対英戦略爆撃は「ブリッツ」と呼ばれていたが何を目的としていたのであろうか?
英国の生産力を低下させるのが目的なら産業施設を破壊しなければならず、ただ民間人を大量殺傷し続けても効果がない。
だが昼間爆撃だと単座戦闘機の迎撃によって甚大な被害がでてしまう。
そこで独は夜間爆撃に切り換え損害の低下を図った。
つまり民間人の大量殺傷が目的なのではなく損害の低下が目的だったのだ。
「英国を屈服させる事」が目的でないにも関わらず対英戦略爆撃を続けた真意はどこにあるのだろうか?
その目的は「バルバロッサ作戦」から注意をそらさせる事にあった。
損害の低減化もバルバロッサ作戦を前に貴重な搭乗員と航空機を失いたくない事からきている。
よって1941年6月22日のバルバロッサ発動を前に対英戦略爆撃は終了しドイツ空軍の主力は東部戦線へと移動していった。
それから...
攻守所を換え話が英の対独戦略爆撃に移る。
さんざん夜間戦略爆撃を受けた英国が報復を選択するのは自然の成り行きであろう。
加えて英国には「夜間爆撃を選ばねばならない大きな理由」があった。
英重爆は高々度飛行能力が極端に悪いのである。
となれば夜間爆撃に頼るしかない。
しかも「仕返しをするだけの充分な理由」があった。
だが独が夜間爆撃で英国の生産力を低下させられなかった様に英国も独の生産力を低下させる事はできない。
そこでここに高々度飛行能力に優れた排気タービンと高々度爆撃に適応したノルデン照準器を装備する米軍が登場する。
かくして昼夜を分かたずドイツ本土は戦略爆撃に晒されたのであるが何故、独はブリッツを復活させなかったのであろうか?
いや、バルバロッサ開始後に独が全く対英爆撃をしなくなった訳ではない。
連合軍による対独戦略爆撃がされ始めると「ごくたまに少数の独爆撃機が対英報復爆撃に出撃する事」があった。
だがその規模は次第に小さくなり回数もどんどん少なくなっていった。
元々、ドイツ空軍はバトル・オブ・ブリテンで大量の重爆を失っていたが来るべきバルバロッサ作戦に備え戦闘機やスツーカの再建、増産が優先され重爆は後回しにされた。
ところがそうして残った重爆(He111)はスターリングラード攻防戦で輸送機として使われ大損耗するに至った。
更にHe111に代わる新型重爆として生産されたHe177は欠陥機でまともに使用できない。
何より英を戦略爆撃するより1機でも多くの迎撃機を配備して「英米の戦略爆撃を減殺する事」の方が焦眉の急であった。
なまじ英の民間人を殺傷しても英の生産力を低下させられないが「米の重爆を1機撃墜する事」ができれば独の工場に落ちる爆弾がそれだけ減り「英の重爆を1機撃墜する事」ができればそれだけ独の民間人が助かるのである。
独迎撃機の双肩にはドイツの運命そのものがかかっていたと言えよう。
ちなみに対独戦略爆撃で戦死した連合軍搭乗員は米79625名、英79281名の合計約16万名(出典は「航空戦力」)にものぼる。
また「独軍用機の全貌」によれば戦略爆撃と戦術爆撃を合わせた目標比率は英が都市49,軍事施設17、交通機関17、燃料工場10.6、航空機工場4.3、特殊工場2.2で米が交通機関40、軍事施設22.5、航空機工場17、燃料工場11、特殊工場5.5、都市4であった。
双方の戦術爆撃機と戦闘爆撃機は鉄道などの交通機関や軍事施設を爆撃するであろうが戦略爆撃機に関しては英が都市、米が工場に比重を大きくしているのが判る数値である。 

さて、独が対戦略爆撃で夜間爆撃を始めた時、「民間人の大量殺傷を意に介さない総力戦」の新たな頁が開かれたと書いたが連合軍の戦略爆撃でハンブルクに大規模火災旋風が発生するに至り、その二頁目が開かれた。
1943年7月24日から8月2日までの間、ハンブルクには9000tの爆弾が投下されたが他の都市に比べ特に多い量ではない。
「独軍用機の全貌」によれば戦争全期間に渡り最も多く爆撃されたのはベルリンで投弾量2000t以上の爆撃29回にも及ぶ。
2位のブラウンシュバイクが21回、3位のルドウィスハーヘンとマンハイムが各々19回でハンブルクは8位の16回に過ぎなかった。
だが人的被害はハンブルクが最も多く群を抜いている。
当然、英空軍は躍起になってハンブルクの再現を図ったが大規模火災旋風が滅多に発生しなかったのは前述の通りである。
また英軍による夜間爆撃と並行して工場を狙った米軍の昼間爆撃も繰り広げられたが如何に戦略爆撃を繰り返そうとドイツの生産力はいっこうに低下せずかえって増大するばかりであった。
結局の所、「戦略爆撃によるドイツ征服」は不可能だと連合軍首脳は悟り地上軍によるドイツ侵攻なくして勝利はあり得ないと気づく。
ドイツが戦略爆撃に対して強靱なのは工場疎開の成功と復旧工事の巧みさによる物で戦局の大転換となる1944年夏まで生産力の拡大は続いた。
日本の生産力拡大も1944年夏まで続くがこれは状況を全く異にする。
なぜなら日本は1944年夏まで戦略爆撃を受けていなかったのだから。
それではここで対独戦略爆撃と対日戦略爆撃の相違について考察してみよう。
まず対日戦略爆撃と対独戦略爆撃でもっとも異なるのは「攻撃側の損害」である。
対独戦略爆撃では約16万名(大戦中の日本陸海軍搭乗員損失が34485名:出典は「定本・太平洋戦争」)の連合軍搭乗員が戦死したが対日戦略爆撃での米軍戦死者は4千名にも達しなかった。
何故であろうか?
これはひとえにB29の存在による。
B29は欧州戦線へは投入されず対日戦略爆撃だけで使用されたがよく考えるとこれはとても奇妙な話だ。
航続距離の長いB29を優先的に太平洋方面へ使用したのは適材適所の概念から大変良く理解できる。
だがB29の特色は航続距離の長大さだけではない。
大搭載力や高速力、強大な防御火力も大きな利点だ。
欧州戦線で連合軍搭乗員の損害が膨大であったのにB29を全て太平洋方面へ回したのは相当、厳しい判断と考えざるをえない。
大戦末期、米軍はMe262の迎撃で甚大な損害を受けたがもし重爆がB29であったなら、それほどの損害にはならなかったかも知れないのである。
ただし全B29を太平洋へ投入したお陰で対日戦略爆撃では微々たる損害しか受けずに済んだ。
また硫黄島の陥落もまた搭乗員生還率向上に寄与したと言えよう。
同島に不時着したB29は2251機にのぼり2万名以上の搭乗員が助かったとされている。
不時着によってB29搭乗員が助かっただけではない。
護衛戦闘機の随伴によってこれまで出撃機数の5%前後だったB29の損害は1%代にまで低下した。
5%前後でも対独戦略爆撃に比べれば「希に見る楽な戦い」だったが1%代となると「向かう所敵なし」の状態である。
ちなみに米軍は対独戦略爆撃のシュバインフルト空襲で約20%、プロエシティ空襲では30%もの損害を受けている。
通常なら少しでも優秀な兵器を苦境に立たされた方面へ送るものだが、欧州の米軍重爆搭乗員達はどんな目で太平洋方面のB29を見ていたのだろうか?

ここで、対独戦略爆撃と対日戦略爆撃の相違をもう少し追ってみよう。
民間人の大量殺傷を目的とした「都市に対する夜間爆撃」が多発したのはどちらも同じだが「昼間工場爆撃での結果」は大きく異なった。
対独戦略爆撃では大量の爆弾を投下したにも関わらずドイツの生産力を低下させられなかったが対日戦略爆撃では投下量に比べ著しい成果が挙げられた。
日本の航空機生産量は1944年9月の2572機をピークとして以後、12月には2110機、1月には1836機、2月には1391機と減少に転じている。
たがこの減少要因は対日戦略爆撃による結果ではない。
日本の航空産業に痛打を浴びせた4月7日の武蔵工場空襲(中島の発動機生産量激減)、6月22日の各務原空襲(川崎航空機工場壊滅)、7月24日の愛知県の中島飛行機半田工場空襲などはまだ生起していないのだから。
年末から2月にかけての激減は前年末に愛知県を襲った東南海地震と工場疎開による影響が大部分なのである。
よって航空機生産量はジワジワと盛り返し5月には1592機にまで戻った。
それでは対日戦略爆撃で日本航空機産業は衰退しなかったのだろうか?
そんな事はない。
前述の各空襲によって6月は1340機、7月は1131機とジリジリ低下している。
「定本・太平洋戦争」によれば米軍は日本の航空機工場へ爆弾14252t(対日戦略爆撃の8.4%)を投下し建物面積の60%を焼失させた。
また石油関係施設にも10600tの爆弾が投下され精油所の50%と貯油槽の60%が破壊されるに至った。
一説によれば大戦末期の生産力低下は商船不足による物資欠乏が要因とされ「対日戦略爆撃は大きな影響を及ぼさなかった。」とする識者もいる。
確かに米潜水艦の跳梁によって日本の海上交通線は寸断された。
しかし例え船舶数が充分にあり物資が還送されたとしても末期には戦略爆撃で生産力が激減していたのである。
日本を経済的に締めあげるなら通商破壊戦で資源を枯渇させるか戦略爆撃で生産力を壊滅させるかどちらかひとつをすれば良い。
どちらかひとつでも日本は充分、滅ぶのだから。
だが米軍は両方とも実行した。
「資源がなければ生産力があっても生産できない。だから資源不足の方が先。」とも考えられる。
よって「日本経済にとどめを刺したのは戦略爆撃では無くて米潜水艦。」とも言えよう。
しかし致命傷がひとつだけとは限らない。
物資不足は日本を敗戦に導く致命傷であったが生産力の激減もまた致命傷であり「戦略爆撃は大きな影響を及ぼさなかった」とは言えないのである。
ただし...
「戦略爆撃が無くても日本は負けていた。」は成立する。

さて、対日戦略爆撃ではB29とならび新たな兵器が登場した。
「核」である。
第二次世界大戦の戦略爆撃を概括するうえで核兵器の存在を避ける訳にはいかない。
たとえそれが第二次世界大戦の最終頁に記載された項目であったとしても...

広島と長崎で使用された核兵器は巨大な破壊力で両市に壊滅的打撃を与えた。
今でこそ核兵器の破壊力が通常兵器に比べて段違いに大きいのは周知の事実だ。
だが1945年8月の時点ではトリニティ実験(アラモゴールドでの核実験)に関わった一部の人間だけがそれを知っていた。
その「一部の人間」にしても1945年7月16日のトリニティ実験前までは核兵器の破壊力を本当には判らなかったのである。
「破壊力の予測」で近似値を的中させたラービ博士を除いては...

我々は歴史から学べるから「どの様な原材料をどれだけ用意しどれだけの期間をかければどれだけの破壊力をもつ核兵器が作れるか?」を知れるが核兵器開発当事者達(政治家、科学者、軍人など)はそれを知らないまま大戦勃発を迎えた。
核兵器は綿密なスケジュールに従って順当に開発されたプロジェクトではない。
まだ海の物とも山の物とも判らない理論を元に始められた大バクチなのである。
それでは開発担当者達が知らなかった重要な点を列挙しよう。

1.核兵器は航空機へ搭載できる程小型化できる。
2.核兵器は大破壊力である。
3.核兵器は1945年8月までに実用化できる。

意外に思われるかも知れないが当初、核兵器は航空機に搭載可能な程、小型化できると思われていなかった。
よって艦船に搭載し自爆攻撃が企図(勿論、乗員は事前に脱出するかリモートコントロール操船と思われるが)されていたのである。
「定本・太平洋戦争」によると航空機による核兵器の使用が決定されたのは1943年9月らしい。
次に破壊力だが英のモード委員会は1941年7月の時点で「破壊力1.8ktのウラン爆弾は製造可能」と報告していた。
更に核兵器開発の総責任者であった米陸軍のグローブズ少将は1944年12月末、マーシャル参謀総長に「核兵器の完成予定は1945年8月、破壊力は0.5kt」と報告している。
そして...
実際にアラモゴールドで爆発したMK3ファットマンの破壊力は20kt(22ktと記述する資料も多い)でグローブス少将の予測より40倍も強大であった。
マンハッタン計画には20億ドルの予算(アイオワ型戦艦の建造費用が約1億ドル)が費やされたが、果たして核兵器に20億ドルに見合うだけの価値があるかどうか当初は誰にも判らなかった。
開発総責任者の予測が0.5ktと言う事はそれで20億ドルに見合うと考えられていたのだろう。
それがいざ出来上がって見ると破壊力が40倍なのだから20億ドルの投資に対し40倍の配当があったのと同じである。

ここで最初に考えられていた核兵器の使用法を頭の中で思い描いて頂きたい。
0.5ktの破壊力を持った核兵器を搭載した船を敵中に進撃させ自爆させる。
これは船を使用する以上、太平洋方面を前提としており恐らく目標はトラックなどの艦隊根拠地かサイパンなど日本陸軍が守る航空根拠地なのであろう。
自爆船が航空機に沈められては元も子もないから接近するのは夜間だ。
1回目はうまくいくかも知れない。
核を搭載した自爆船がやってくるとは思わないだろうから。
けれど2回目以降はどうであろうか?
怪しげな船の接近は断固として阻止されるに違いない。
核爆発に巻き込まれてはならないから自爆船周辺に護衛を配置する事もできない。
1回目にしても爆発力が0.5ktに過ぎないのだから大した戦果を挙げられるかどうか....
最初考えられていた核兵器はこの様に大変使いにくい兵器だったのである。
だが数々の難関を越え核は大破壊力かつ航空機搭載可能な兵器として誕生した。

さて、次にもっとも大きな問題「いつ頃完成するか?」を考えてみよう。
どんな兵器でも完成しなければ絵に描いた餅に過ぎない。
それでは連合軍は核兵器の完成をいつ頃と予測していたのだろうか?
なんと驚くべき事に米は「独の方が先行しており間に合わないかも知れない」と思いながら超特急で開発を進めていたのである。
だが米の心配は杞憂に過ぎず独の核兵器開発はさして進捗していなかった。
1942末、米が核分裂の連鎖反応に成功した時には独が1年先行してると大統領へ報告されているが1943年8月には独に追いついたと報告されている。

なお当時米国が開発した核兵器にはウランを原料とするMK1(リトルボーイ)とプルトニウムを原料とするMK3(ファットマン)の2種類があった。
両者のうちMK1は試作型、MK3が量産型である。
MK3の量産は120発で終了したがほぼ同型のMK4が550発、それを改良したMK6が1100発と以降10年に渡って生産が続けられた。
もしも「1945年夏には間違いなく核兵器が使用可能」と判っていれば...
きっと連合軍は16万名もの戦死者を出した対独戦略爆撃を手控えたであろう。
特攻で大きな犠牲を払った沖縄攻略戦も止めたかも知れない。
だが全てが終わった後で核兵器は登場してきた。
まるで次の世界大戦の予告であるかの様に。

ここで各国の核開発に目を転じて見よう。
第二次世界大戦勃発時、核兵器開発がもっとも進捗していたのはドイツだった。
しかし多数のユダヤ系科学者が亡命した事とヒトラーが核兵器にさして関心を示さなかった事により次第に遅れが目立ち始める。
またソ連も意外と早く1940年末にはサイクロトロンの建設に着手した。
これに対し米国は立ち上がりがかなり遅く真珠湾奇襲の前日にようやく科学研究開発庁(ブッシュ長官)が設立されたのである。
「定本・太平洋戦争」でもソ連の核兵器研究の開発開始は米より1年早かったと記述されている。
だが先行する独ソは1941年6月のバルバロッサ作戦発動で核兵器開発に著しい停滞をきたしてしまう。
数年先の超兵器より目先の戦車増産、航空機増産が焦眉の急となったのだ。
「米軍が記録した日本空襲」ではクルチャトフがソ連の核開発責任者であったが1942年に開発中断されポツダム会談後に再開と記述している。
ドイツもまた大きな遅れをきたした。
かくして米に好機が到来する。
1942年8月にはマンハッタン計画が発動、同年末から翌年初頭にかけプルトニウム生産用のハンフォード工場とウラン生産用のクリントン工場が建設され1943年4月には組み立て用のロスアラモス研究所も完成する。
更に英国の科学者が米国陣に合流、「理論上の兵器」は次第に「実用兵器」の色彩を帯びてくる。
ここで米英はコマンド部隊をノルウェーに送ってドイツの重水工場を爆破したり重水運搬船を沈めたりして妨害を繰り返す。
加えて当時、もっとも有力なウラン鉱山はコンゴにあったがこれを利用できるのは制海権を握っている米英だけであった。
米が先行する独ソを追い越し核兵器を実用化できた背景はこうした事情による。

さて、核兵器は究極の戦略兵器だ。
たった1機の重爆で4000機分の破壊をもたらす。
ただし破壊力が大きいので軍需産業や軍事施設と一般市民を判別できない。
よって「核攻撃=民間人の大量殺傷」となる。
第二次世界大戦中、戦略爆撃により多くの民間人が死亡したので「戦略爆撃=民間人の大量殺傷」と思われがちだが戦略爆撃は必ずしも民間人の大量殺傷を目的としていない。
基本的には軍需産業や交通機関などへの攻撃が目的だ。
ここで「軍需産業や交通機関などへの攻撃で民間人は死傷しないの?」とか「軍需産業の工員や交通機関の乗客は民間人じゃないの?」と言われると「全ての戦略爆撃は非人道的」となってしまい戦略爆撃の本質を見極められなくなってしまう。
戦争で人命が失われるのは悲しい事だ。
だが一口に人命と言っても軍人と民間人では道義的に少し異なる。
更に一口に民間人と言っても軍需工場の工員や輸送船の船員と婦女子ではこれも異なる。
よって軍需工場に対する戦略爆撃と住宅地に対する戦略爆撃は随分、意味合いが異なると僕は思う。
そこで戦略爆撃を区分したいのだが「非人道的」と言う単語を使用すると少し表現が怪しくなってくる。
「非人道的戦略爆撃」の方は言葉通りの意味が伝わるが対語の「人道的戦略爆撃」となると「どういう意味?」になってしまうからだ。
人道的支援と言う言葉はあっても人道的戦略爆撃はありそうにない。
僕としては戦略爆撃を犯罪的と非犯罪的に区分するのが良さそうに思うが犯罪的と断ずるからには法に抵触している必要がある。
ところが第二次世界大戦を代表する三大戦略爆撃(対独、対日、対英)の全てで「民間人の大量殺傷目的の爆撃」が行われたにも関わらず裁判されてはいない。
戦勝国、敗戦国に関わらず...
三大戦略爆撃に比べると小規模だが日本も中国に対して戦略爆撃をしている。
この場合も日本の罪が問われる事はなかった。
さすがに米英とて日独諸都市を廃墟にしておきながら自分の罪だけ棚に上げるのは憚られたのであろう。
いずれにしても「民間人の大量殺傷目的の爆撃」が法に触れない以上、犯罪と言う単語は使用できない。
「民間人の大量殺傷目的の爆撃」もしくはそれに準拠する爆撃を「無差別爆撃」とする場合がある。
この単語は比較的、使い易い。
だが対語はどうなるだろう?
差別爆撃?
これまた聞いた事がない言葉だ。
軍事目標を選別し民間人への被害を出来るだけ抑えた戦略爆撃をなんと呼べば良いのだろう?
すこしニュアンスが異なっているかも知れないがとりあえずここは「精密爆撃」と言う単語で話を進めたい。
「精密爆撃」の対語は「じゅうたん爆撃」になる。
ちなみに「じゅうたん爆撃」は精密爆撃と異なり目標を照準せずに面として水平爆撃する事で戦略爆撃と戦術爆撃の双方で使用される。
ここでちょっと考えて頂きたい。
はたして「じゅうたん爆撃」は非人道的と言い切れるであろうか?
対象となる地域に民間人が全く存在しない場合、じゅうたん爆撃と言えど全く非人道的ではない。
逆に都市の住宅地を正確な照準で精密爆撃したら充分に非人道的となる。
つまり「じゅうたん爆撃と精密爆撃の区分」は投下法の区分であり「民間人の大量殺傷を目的とした非人道性」を論じるにはもう一段条件を加えねばならない。
僕が「ニュアンスが異なる」としたのはここにある。
よって正確には単なる「精密爆撃」ではなく「都市に対する非人道的でない精密戦略爆撃」となる。
これでは長すぎるのでやはり本文では「精密爆撃」で済ますとしよう。

なおひとくちに精密爆撃と言ってもそれには高精度の照準器が必要となる。
しかし大戦中、高精度と言いうる照準器を量産配備できたのは米国(ノルデン照準器)だけだった。
日本もノルデン照準器のデッドコピーを開発したが終戦までに実用化できていない。
なお精密とまではいかずとも「やや精密程度」なら英独ソ日でも可能だったので本文ではこれらも合わせて精密爆撃として扱う。

ところで精密爆撃はどの程度、精密なのだろうか?
B29は充分な効果を挙げるまで何度も日本の航空機工場を爆撃した。
すなわちそれは何度も失敗した末に成功したと言う事だ。
となると精密爆撃はあまり「精密」ではないらしい。
その原因は風に由来する。

精密爆撃をするにはデータとして自機高度、速度、投下爆弾の弾道特性が必要だ。
これらのデータが正しく無風なら爆弾はそれなりの命中率で目標へ当たるだろう。
だが風がふいていれば爆弾はあらぬ所に落下する。
よって風向と風力もデータとして把握する必要がある。
ところが爆撃高度から地表まで常に一定の風向で同じ風力の風が吹いている訳ではない。
まして高度が高くなればなる程、風による影響は大きくなり着弾点がずれる。
高度を下げれば命中率が高くなるが対空火器による損害が激増してしまう。
更に米軍の場合、排気タービンによる高々度の優位性が失われるから迎撃戦闘機による損害も増える。
だから精密爆撃は常に高々度爆撃が前提となる。
それでも米軍は精密爆撃に固執した。
1945年3月10日に東京を夜間爆撃するまでは...

英独が夜間爆撃を選択した理由は前述の通りである。
また強いて理由を追加するなら英独戦略爆撃機の防弾装備が弱い事、防御火力が小さい事、速力が遅い事などが挙げられる。
日本の重慶爆撃は昼夜双方で行われたが基本的に昼間が中心だった。
1939年は25%、1940年は83%、1940年は81%が昼である。
なお日本軍が昼間爆撃した理由は「民間人の大量殺傷」を避ける為ではない。
外交摩擦を避けるのが目的であった。
当時、中華民国の首都であった重慶には多数の在外公館が林立していた。
しかも日中両国は正式には「戦争状態」になっていなかった。

それではなぜ1939年には夜間爆撃が多かったのだろうか?
その理由は1939年の段階ではまだ零戦が配備されておらず爆撃機が単独で戦略爆撃しなければならなかったからだ。
硫黄島の陥落とP51の同地進出が1945年4月7日からのB29による昼夜兼行爆撃へ繋がった事を思い返して頂きたい。
それと同じ事が1940年の重慶上空で繰り広げられた。

戦略爆撃は戦略爆撃機だけで行われる軍事行動ではない。
戦略爆撃機と護衛戦闘機、迎撃戦闘機のパワーバランス、戦略爆撃に対するドクトリンなどで大きく変容するのである。
戦略爆撃は民間人を巻き込む悲惨な軍事行動だから感傷的な視点だけで語られる事が多い。
逆に軍事に関心ある方は戦略爆撃から目を逸らす傾向がある。
だが戦争の帰趨に多大な影響を与え国民全てを当事者にしてしまう重大な問題だ。
是非ともこの問題については多くの方に熟考して頂きたい。
(完)


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