デカブツ戦車からウルシー泊地に続く長い長い物語

これからデカブツ戦車の話をしよう。
プレイヤー諸氏はデカブツ戦車と問われどんな戦車を想起するだろうか?
有名な所ではまずキングタイガー(ティーガー2型でもケニッヒスティーゲルでもローヤルティーガーでも王虎戦車でもどれでもお好きな名前でどうぞ)。
こいつの車体長は7.26mで重量は69.7tである。
よって車体長9.03m、重量188tのマウスに比べるとデカブツとは言い難い。
しかしマウスにしても重量ではトップを争うものの図体の大きさではソ連の傑作多砲塔戦車T35(車体長9.72m)に負けるのだ。
しかし上には上がいる。
第2次世界大戦初頭、見かけ倒しの張り子の虎として名を馳せた仏軍超重戦車シャール2Cなどは車体長が10.27mもあった。
だがなんと!
それを更に上回る車体長の巨大戦車が大戦中に実在したのだ。

「どの国で?」と聞きたくなるであろう。
しからば私は「もちろん日本で!」と答える。
だが日本陸軍ではない。
当然、日本海軍に決まっている。
世界最大の戦艦大和、世界最大の潜水艦伊400、世界最大の61p魚雷など日本海軍は「図体の大きい兵器」が大好きなのだ。
かくして誕生したのが特3式内火艇(重量28.2t:47mm48口径砲搭載)で車体長は10.3mもあった。
フロート付きでの話だけどね。
でもフロートを外すのは実戦で敵と相対した時なんだからそれまではずっとフロート付きで行動する。
よってフロート付きの状態は普通の状態と言えよう。
輸送艦に搭載する時もフロート付きである。
2等輸送艦の搭載力は95式軽戦車(車体長4.30m)の場合14両、97式中戦車(車体長5.55m)の場合9両、特2式内火艇(車体長7.50m)の場合7両であった。
95式軽戦車14両の車体長総合計は60.2mなので97式中戦車だと10両搭載出来そうに思えるが半端な隙間はどうにもならないので9両となったのであろう。
この様に「輸送艦に何両の戦車が搭載できるか?」は割り算だけでは決まらないのであるが割り算だけで見ても特3式内火艇は5両しか搭載できないのだ。

かくも凄まじくデカブツの特3式内火艇であるが車高もまた異様に高かった。
車高の高さで天下に名を轟かす背負式二段砲塔戦車SMKの3.35mやマウスの3.63mを凌ぐ3.82mは戦場の通天閣と言えよう。
かくも高い視点で戦場を見下ろせば「絶景かな〜」と唸りたくなる事請け合いである。
この素晴らしき特3式内火艇のプラモ、作って見たいと思わない?
実はあるのだ。
特3式内火艇のキットが。
1/700のWL(ピットロード)だけどね。
同一スケールのタミヤの特2式内火艇、アオシマのタイガーやパンターなどと並べればデカブツ戦車の迫力を満喫できる事間違い無しだ。
虫眼鏡が必要かも知れないが。

さて、それでは特3式内火艇の車体について解説しよう。
とく3式内火艇の全長が10.3mなのは前述したけどフロートを外した場合でどれくらいあると思う?
残念ながら「フロートを外した特3式内火艇の全長」はどの資料にも記載されていない。
しかしパンツァー誌254号40ページには特3式内火艇の1:65側面図が記載されている。
これを定規で測ると112o、これを65倍するとなんと7.28mになる。
恐るべき事に特3式内火艇の全長はキングタイガーよりチビッと大きいのだ。
更に凄いのは全高。
戦車ってのは車体の上に砲塔を載せており車体高+砲塔高が全高となる。
特3式内火艇の砲塔は1式中戦車とほぼ同一だが車体高は1式中戦車の約1.55mに対して2.52mもある。
1式中戦車の全高は2.38m(つまり砲塔高は0.83m)なので両車を並べると1式中戦車の全高は特3式内火艇の車体高にすら及ばない。
特3式内火艇の車体高はマウスの車体高2.62m(パンツァー誌179号の1:75マウス側面図より算出)に準ずる程なのである。
キングタイガーに匹敵する長さとマウスに準ずる高さの巨大な車体に47o砲を装備したちっちゃな1式中戦車の砲塔がちょこんと載っている。
それが特3式内火艇なのだ。
それでは着脱式展望塔を外した特3式内火艇の全高がどれだけになるか算出してみよう。
2.52+0.83=3.35
マウスには及ばないがSMKより大きいのだからデカブツとは言えるだろう。
デカブツなのだから乗員も多く6名にも達する。

そしてこのデカブツ、ただデカイだけが取り柄ではない。
なんと耐圧構造なのである。
よって潜水艦に搭載でき最大深度100mまで潜れた。
この機能のせいで生産効率が物凄く悪くたった19両しか生産されなかった。
いや、こんなデカブツを19両も量産した事の方が凄いのかも知れない...
それでは何故、特3式内火艇を潜水艦に搭載しようとしたのであろうか?
賢明なる読者は既にお気づきの事と思うが特3式内火艇は奇襲上陸作戦の為に開発されたのである。

通常の上陸作戦は輸送船や揚陸艦を連ねて目的地に接近する。
夜陰に乗じて接近し夜明けと共に上陸するのが定法だがよっぽどの高速船を揃えねば前夜の航空哨戒で発見され奇襲効果は無くなってしまうだろう。
例えば米軍のLST(戦車揚陸艦)は最高速力12ノットだから払暁と薄暮を除く闇を10時間として夜間には120浬しか接近できない。
これに対し1式陸攻22型は3200浬以上の航続距離をもつ。
まあ往って探して帰ってだから哨戒範囲は1000浬程度になるが。
いずれにしても24ノットの高速船だって上陸前日の航空哨戒で発見される事は間違いない。
よって水上艦艇による奇襲上陸は太平洋方面ではあまり見られないのである。
欧州では英仏海峡やシチリア海峡などで頻発したけれどね。
さて水上艦艇による上陸作戦が航空哨戒で封ぜられるとなると...
潜水艦を使用しての奇襲を模索する事になる。

日本海軍は戦前から「潜水艦による奇襲上陸」に着目していたが本腰をいれたのは「ミッドウェー海戦」で敗退してからだ。
なぜミッドウェー攻略に失敗したか?
制空権の奪取に失敗したからだ。
ならば確実に制空権を奪取できる様に航空機と空母の増産に励めば良い。
だが日本海軍はそう考えなかった。
制空権が無くとも上陸でき奇襲効果が絶大な水中陸戦隊を思いついたのである。

かくして建造されたのが兵員110名と特殊上陸艇2隻を搭載する丁型潜水艦(途中で設計変更され物資輸送用になっちまったが)でありこれをバックアップする為に特3式内火艇が開発された。
考えてもごらん。
「敵など来るはずない」と思っている戦線後方へ戦車を伴った日本軍が突如として現れるんだから。
小規模兵力といったって効果は絶大だ。
絶大であって欲しい...
これは願いだ...
でなけりゃ大きな潜水艦を何隻も作って、耐圧構造の無茶苦茶生産効率の悪い戦車をわざわざ開発してとんだ散財だ...

効果が絶大であったかどうかは判らない。
ハッキリ言って効果は無かったかも知れない。
だが米軍が潜水艦を使用して繰り広げた幾つかの上陸作戦で日本軍が苦杯を嘗めたのは事実だ。
まあそれを考えると「潜水艦を使用した奇襲上陸作戦」で先輩格にあたる米軍がそうそう戦線後方の戸締まりをおろそかにするとも思えないんだが...

それでは日本海軍が「水中陸戦隊によってどんな上陸作戦を想定していたか?」を検証してみよう。
まず主力となる丁型潜水艦だが1942年10月に11隻の建造が改D計画の一部として追加された。
とは言え日本中のドックと船台は既存計画で建造中の艦艇や損傷艦の修理で手一杯だった。
よってその隙を見つけて各地(呉2隻、横須賀3隻、神戸6隻)で丁型潜水艦の建造が進められたのだが途中で任務が上陸作戦用から物資輸送用に変わった上、電池を増載する為に貨物搭載量を減らしたり再び貨物搭載量を増やす為に発射管を廃止したり改設計に改設計を重ねたので最終艦(伊369)の竣工は1944年10月9日まで遅れてしまった。

もとより日本海軍とてすぐに11隻の丁型潜が揃うとは思ってなかったろう。
1隻110名(丁型潜の陸戦隊乗艦数を120名とする資料もある)なら11隻で総計1210名となるが何隻ぐらい竣工したら作戦を実施するつもりだったのだろうか?
11隻のうち4隻(伊361、362、363、365)は比較的早期(1943年前半)に起工されたがここらあたりが作戦単位と考えられる。
そうなると440名もしくは480名。
支援部隊や兵站部隊を欠いたうえ定数割れした大隊兵力ってとこだな。
これ位の部隊を支援するなら戦車1個中隊ってのが相場だろう。
さて日本海軍の戦車中隊だが...
藤田氏の調査では横須賀第16特別陸戦隊は1個中隊10両だったらしい。
またパンツァー誌では特2式内火艇の場合、1個小隊2両編成で4個小隊+中隊本部1両の9両編成とある。
1個小隊2両とは極端に小規模だね。
なぜなんだろう?
この答えを解く鍵が原乙未生著「日本の戦車」198ページにある。
ジャジャ〜ン。
乙型潜が特4式内火艇を上甲板に搭載し潜航してゆく写真が4点掲載されているのだがなんと排水量2000t以上の乙型潜ですら特4式内火艇をたった2隻しか搭載できないのだ...
(竜巻作戦だって潜水艦5隻で特4式内火艇10隻をもっていく予定だった)
特4式内火艇の全長が11m、特3式内火艇が10.3m。
特3式内火艇だって2両しか積めないのは明白だ。
となると1個中隊10両の特3式内火艇を運ぶには...
たった440名の歩兵と10両の戦車を上陸させる為に丁型潜4隻(1440t×4=5760t)と乙型潜5隻(2198t×5=10990t)の合計16750tもの艦船(しかも高価な潜水艦!)を使用するとは何と贅を極めた上陸作戦であろう。

一方、米軍のLSTなぞは排水量1625tながら1隻で中戦車20両と兵員163名及びトラック多数を輸送できた。
これが10隻だと中戦車200両(日本の20倍)、歩兵1630名(日本の4倍)になる。
「水中陸戦隊の奇襲効果」がとてつもなく絶大でなければ割が合わない訳だ。
それなのになぜ、日本海軍はそんな怪しげな構想をうち立てたのだろう。
その答えは「日本の陸海軍が不仲だったから」に他ならない。
海軍としては毛頭、大規模な陸上部隊を編成する気はなかった。
なんせ「海軍」なのだから。
よって効率が悪くとも小規模兵力で上陸作戦を行うしかなく奇襲効果に頼らざるを得ないのである。
もしも陸海軍の仲が良かったら双方で同時に輸送潜水艦や護衛空母を建造したり戦車や迫撃砲、防空戦闘機、夜間戦闘機などを作ったり相うち揃って水冷エンジンで苦渋を嘗めたりしなくて済んだであろうに...

それでは潜水艦を使用した壮大なる贅沢をもうひとつ記そう。
パナマ運河を攻撃する為に晴嵐3機を搭載する特型潜が建造された事は有名だ。
結局の所、戦局が悪化し攻撃目標がウルシー泊地に変更された末、実行直前に終戦を迎えた事もね。
このウルシー攻撃が嵐作戦だがこれと並行しもうひとつの作戦が立案された。
光作戦である。

特型潜は当初、18隻の建造が計画されたが当時の日本にそれだけの超大型潜水艦を建造する余力は無かった。
だがそれなりの機数を投入しなければ空襲なんて意味をなさない。
そこで急遽、晴嵐2機を搭載すべく建造中の甲型潜(旗艦用潜水艦)が改装された。
これが甲型改2である。
昭和20年上半期、特型潜(イ400、401)と甲型改2(イ13,14)を擁する第1潜水隊(航空兵力は合計晴嵐10機)は来るべきパナマ運河攻撃に備え日夜、訓練と整備及び資材調達にいそしんでいた。
ところが情勢は日々、窮迫していきパナマ運河までいく燃料すらおぼつかなくなってしまった。
そりゃそうだ。
4月の大和出撃時の時ですら燃料事情は切迫してたんだもの。
なにしろ特型潜の燃料搭載量は1750t、甲型改2が1000t弱、合計して約5500t(ちなみに大和の燃料搭載量は6300t)にもなる。
伊達や酔狂で工面できる量(当時、呉にあった燃料は2000t)じゃない。
仕方ないのでイ400は満州、イ13と14は朝鮮まで行って燃料を補給した。
そんな事をしてるうち戦況は益々窮迫しパナマまで辿り着かない内に負けちゃいそうになったんでやむなく目標がウルシーへ変更された。

ここで不思議なのは第1潜水隊が二分された事だ。
本隊の特型潜2隻は晴嵐各3機を搭載してウルシーを攻撃(嵐作戦)するが甲型改2の2隻は彩雲各2機を分解搭載しトラックへ向かったのである。
この彩雲でトラックからウルシーを偵察するのが光作戦なのだがどうにも釈然としない。
彩雲の航続距離が2860浬、トラック横須賀間が1840浬なのに何故、潜水艦で輸送するのか?
空路で往った場合、着陸時に天候不良で降りられない場合もあり得る。
だがそれにしても貴重な攻撃力(10機)の40%まで充てる必要があるのか?
ひょっとしたら10機の晴嵐が揃えられなかったのかも知れない。
(晴嵐の製造数は27機だが不具合で使用できない機体も多かったそうだ)
だとしたら少しでも攻撃力を増大させる為、無理して改装された甲型改2とは一体、何だったのか?
まあそれからすれば竣工した時には搭載する航空機がろくになかった雲龍型空母の方が「大無駄」かも知れないが。

さて色々と疑問はあるがとりあえずイ13と14は7月中旬に大湊を出港、16日に米護衛空母部隊の攻撃でイ13を喪失するも8月5日にはイ14がトラックに到着し彩雲を揚陸している。
一方、イ400と401は7月26日に大湊を出撃しウルシーへ向かった。
そして8月10日(ちょうど63年前の今日だ)に彩雲の組み立てが完了し作戦可能となった。
ウルシー攻撃は8月17日の予定である。
しかし...
8月15日に日本が降伏し嵐及び光作戦は実行されないままその終幕を降ろした。

これで良かったのだ。
確かに1945年3月のウルシー攻撃(銀河を使用した丹作戦)では大きな戦果を挙げた。
とは言えいつでもウルシーに獲物がいるとは限らない。
(だから彩雲で偵察するのだが...)
連合軍機動部隊は7月からずっと日本本土沿岸を空襲し続けており8月15日には関東沖で暴れまわっていたのである。
当然、ウルシーはもぬけの殻だった訳だし大本営の方もそれは周知だったはずだ。
なのになぜそれを嵐、光作戦の実施部隊に通知しないのだろう?
なぜ作戦延期を指令しないのだろう?
終戦のドタバタでそんな事はもうどうでも良くなっちゃっていたのかな?
それを思うと実施部隊の悲哀と混乱が脳裏をかすめる。

もうひとつ不思議なのは嵐作戦の目標が依然としてウルシー泊地のままだった事である。
大戦末期、ウルシー泊地は確かに連合軍の重要根拠地であった。
1944年9月23日に占領されてから1945年3月14日までの約半年弱の間は。
ちなみに米空母機動部隊はいつでもウルシーに在泊している訳ではない。
燃料問題で活動が制約された日本海軍と異なり米空母機動部隊は常に洋上で作戦を繰り広げ燃料、弾薬、糧食などの物資が欠乏したり乗員の疲労が蓄積した場合した時に泊地へ帰港した。

それではここでひとつ米空母機動部隊の動勢をふり返ってみよう。
開戦時、ハワイを根拠地としていた米空母機動部隊はドーリットル空襲(42年4月)を最終とするヒットエンドラン作戦を繰り返し日本の後背部を攪乱した。
ヒットエンドラン作戦による実利的被害は少なかったが日本海軍統帥部に与えた心理的影響は少なくない。
この5ヶ月に渡る米空母機動部隊の活動を第1期としておこう。
さて第2期は日米空母機動部隊同士が正面対決をした期間で珊瑚海海戦(42年5月)からミッドウェー海戦、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦(42年10月)と半年間続いた。
かくして双方とも空母機動部隊は大損害を蒙り第3期の「再建期」に移る。

米海軍は可動空母0のお寂しい状態だったがエセックス型とインデペンデンス型が次から次へと戦列に加わるし艦載機と搭乗員の補充には事欠かない。
一方、日本海軍は瑞鶴と隼鷹を擁していたが搭乗員の補充で四苦八苦していた。
米軍にとって第3期は1943年7月まで9ヶ月間続く。
この間に米空母が活躍したのはサラトガが英空母ビクトリアスと共同で行った中部ソロモン空襲(1943年6月)くらいだ。
だが1943年8月末、再建成った米空母機動部隊による初作戦の幕が切って落とされた。
第2次マーカス空襲作戦である。
以降、米機動部隊はガルバニック作戦支援(タラワ上陸)や第2次ウェーク空襲、チェリーブロッサム作戦支援(ブーゲンビル上陸)など縦横無尽の活躍を遂げる。
それに比べ日本海軍は空母機動部隊の再建が一向に捗らなかった。
「い号作戦」や「ろ号作戦」で空母艦載機を陸上基地に派遣し搭乗員を一挙に消耗してしまったのがアダとなったのである。
ちなみに開戦以来、基本的に米空母機動部隊はハワイを根拠地として作戦行動(東京初空襲作戦の第18機動部隊の様にハワイに寄らず米本国から作戦目標へ直行した例もあるが)を繰り返した。
しかしいつまでもハワイの回りをうろついていても戦況は好転しない。
いつかはハワイに代わる大泊地をもった前進根拠地を手に入れなければならない。
かくして計画されたのがマーシャル攻略を目的としたフリントロック作戦である。

1944年1月22日、ハワイを出港した米空母機動部隊は戦争が終わるまで米本国ならびにハワイへ帰らなかった。
(一部の部隊や損傷艦船などが帰港する事はしょっちゅうあった。主力が帰って来る事は無かったとの意味である)
マーシャル諸島の中で米軍が目をつけたのはメジュロ(1月31日上陸)である。
再建から新根拠地獲得(メジュロ)までハワイを中心に米空母機動部隊が活動した5ヶ月が第4期の「ハワイからの進撃」となる。

メジュロ占領後、2月3日には早くも米空母機動部隊が入泊。
ちゃっちゃと補給を済ませ同月12日には出港し17日にはトラック、23日にはマリアナを空襲して暴れまくる。
一暴れしたらメジュロに帰港し補給を終えたらまた一暴れ。
こうしたメジュロを根拠地とする米空母機動部隊の活動は約4ヶ月に及ぶ。
更に6月6日、メジュロを出港した米空母機動部隊は新たなる局面打開に臨む。
戦略爆撃機発進基地となるマリアナの攻略だ。
サイパンへ上陸しマリアナ沖海戦で勝利を収めた米空母機動部隊は合計66日間にも及ぶ大遠征を終え8月11日にエニウェトクへ帰港。
これだけの大遠征となると補給期間もまた長く17日後の8月28日、米空母機動部隊は新根拠地獲得を目指して出港した。
そして9月23日、遂に米軍はウルシーへ上陸。
10月1日には米空母機動部隊がウルシーへ入港する。
メジュロ占領からウルシー占領までの8ヶ月は第5期の「メジュロからの進撃」と位置づけられよう。

さて10月1日にウルシーへ入港した米空母機動部隊は大急ぎで補給を終え6日には出港した。
きたるべきレイテ上陸の事前作戦として台湾及び沖縄の日本軍航空基地を叩く為である。
この出撃で米空母機動部隊は10月10日から16日に渡って繰り広げられた台湾沖航空戦、20日から始まったレイテ上陸の支援、それに続くレイテ海戦と獅子奮迅の活躍を遂げ10月30日にウルシーへ舞い戻った。
約1週間弱で補給し1ヶ月弱作戦行動を取るこのパターンはウルシーを前進根拠地とする期間、ほぼ踏襲される。
まずはフィリピン各地、台湾、仏印そして硫黄島などが次々と襲われた。
一方、日本海軍とてみすみす手をこまねいていた訳ではない。
米軍の前進根拠地がウルシーであると察知するやいなや潜水艦による特殊攻撃が企図された。
回天を使用した第1次玄作戦である。
だが潜水艦が首尾良く回天を潜入させても泊地がモヌケの空では効を奏さない。
そこで11月17日、トラックから彩雲によるウルシー偵察が敢行され空母4、戦7、巡及び輸送船100以上との報告がなされた。
当時、米空母機動部隊の主力はフィリピンを爆撃しまくっていたが運良くシャーマン提督指揮下の第38.3部隊(空母エセックス、タイコンデロガ、ラングレー、サンジャシント基幹)が在泊(出典は戦史叢書「海軍捷号作戦2」)していたのだ。
かくして11月20日、伊36と47から5基の回天が出撃しウルシー泊地を襲ったのだが戦果は給油艦ミシシネワを撃沈するにとどまった。
ちなみに小型潜航艇による港湾襲撃は日本海軍の常套戦術で開戦時のハワイ攻撃を皮切りにシドニー攻撃、ディエゴスワレス攻撃など数度に渡り甲標的を使用して実施されてきた。
玄作戦もこの流れを汲んでおり甲標的を回天に換えた亜流に過ぎない。
さて、こうした港湾攻撃は警戒の薄い時を狙っての奇襲が大前提なので1度実施してしまうと警戒が厳重になり2回目は相当難しくなる。
そこで次に日本海軍は空襲によるウルシー攻撃を企てた。
これが銀河を使用した第2次丹作戦である。

それでは第2次丹作戦の概容を述べよう。
1.日本本土から直接、ウルシー泊地を攻撃する長距離空襲作戦である。
2.使用兵力は銀河24機(攻撃262飛行隊)と誘導に2式大艇5機。
3.装備は各機800kg爆弾1発で薄暮攻撃。
これらは第2次丹作戦を特徴づける要素だが後述する様に全てが裏目に出た。

なおこの作戦の発案者は豊田連合艦隊司令長官である。
彼は米機動部隊が硫黄島上陸の事前作戦として日本本土の関東地方を暴れ回った昭和20年2月17日に「この敵機動部隊がウルシー泊地に帰投した時を狙って叩いてやろう」と思い第2次丹作戦を決意(出典は戦史叢書「海軍部・連合艦隊7」)したらしい。
そして3月7日、通信情報により米空母機動部隊のウルシー帰投が判明する。
8日、攻撃隊の誘導及び不時着機搭乗員の救助を目的としウルシー北西200浬地点へピケット潜水艦(伊58)の派遣が命令される。
ついで9日、トラックの彩雲によって偵察が敢行され午後には空母5、軽空母3、護衛空母7、戦8、巡4、軽巡1、輸送船54の在泊と空母4、戦3、その他が入港中との偵察報告がトラックに入った。
敵機動部隊のウルシー在泊が確認されたのだから当然の如く第2次丹作戦は発動され攻撃予定日は10日と定められる。
しかしトラックで偵察写真を判読し内地へ打電したものの艦種と隻数の部分が電波状況の悪化でうまく届かない。
敵艦隊は在泊しているものの「ひょっとしたら敵空母は不在なのでは?」との不安が実施部隊指揮官(宇垣第5航空艦隊司令長官)の心の中で頭をもたげる。
九州南端の鹿屋基地からウルシー泊地までは3000km近い。
かなり早く発進しないと現地に到着した時は暗くなってしまうのだ。
刻々と時間は経ってゆく。
やむなく攻撃中止を決し庁舎に戻ってもう一度電文を照合した結果、なんと艦種と隻数が判明するに至った。
かくして翌日の再攻撃が決せられたのであるが...
なんと翌日は寒さの為に発進が遅れると言うアクシデント(第5航空艦隊司令部が故意に出撃を1時間遅らせたと言う説もある)が発生してしまった。
発進の遅れはすなわち現地到着の遅れを意味する。
おまけに銀河と言う機体を使用した事が大きな災いとなった。
銀河は航続距離5370kmを誇る最新鋭爆撃機だが装備する発動機の誉は信頼性にかける欠陥品だった。
しかも高性能化を達成する為、搭乗員数を3名(つまり副操縦手は無し)まで減らしたので長距離飛行時には自動操縦装置に頼らざるをえずこの装置がまた欠陥品だったのである。
かくして発進した24機は事故や故障で次々と脱落、ウルシー泊地に到着した時は15機(16機とする説もある)となっていた。

さてここからが妙なのである。
この15機のうち指揮官の黒丸大尉機を含む3機はヤップ島、1機はルモング島に着陸、11機が在泊米艦隊に突入した。
だが11機のうち敵艦に命中したのは1機(空母ランドルフ:米側資料では2機命中)だけでありその他の10機は次々と海面へ激突するに至った。
何故であろうか?
これは銀河が悪天候(雲高300mかつ夜間)のさなか海面ぎりぎりを水平飛行していたからに他ならない。
それでは丹作戦の攻撃方法について考えて見よう。
艦船に対する航空機の攻撃方法には高々度の水平飛行で実施される水平爆撃、低高度の水平飛行で実施される反跳爆撃や雷撃、降下して実施される急降下爆撃や緩降下爆撃、銃砲を使用する掃射などがある。
水平爆撃は接敵時にレーダーで補足される事と命中率が低い事、雲下の敵が攻撃できない事が短所であり対空砲火による損害が少ない事が長所である。
水平爆撃では投弾後、そのまま直進して敵の上空を通過する。
雷撃は接敵時にレーダーで補足されにくい事と雲下の敵が攻撃できる事、命中率がそれなりに高い事が長所である反面、対空砲火による損害が甚大である事や搭載力の大きい機体でなければ不可能である事、低高度での運動性が必要である事などが短所となる。
反跳爆撃は魚雷を搭載できない機体や「雷撃能力はあるものの魚雷の調達が不可能」な状況で実施される。
ちなみに雷撃は敵前1000m前後、反跳爆撃は200〜300mで投弾する。
雷撃や反跳爆撃では投弾後、機体を上昇させ敵の直上を通過する。
そうしないと敵艦に激突する恐れがあるからである。
降下爆撃は接敵時にレーダーで補足される事や雲下の敵が攻撃できない事は水平爆撃と変わりないが命中率が格段と高いと言う長所がある。
ただし急降下爆撃となると頑丈な機体でないと強度が不足するしダイブブレーキも必要となる。
降下爆撃では高度500m前後で投弾し機体を急激に引き起こす。
そうしないと間違いなく海面に激突してしまう。
なおこれらの攻撃方法とは別にもうひとつの対艦攻撃方法が存在した。
特攻である。
この攻撃方法では爆弾を搭載したまま敵艦に激突する。
さてこれまでに説明した攻撃方法のうち水平爆撃は敵艦と激突する事はありえず降下爆撃は敵艦より海面と激突する可能性の方が高い。
よって特攻は雷撃もしくは反跳爆撃と同じく低高度の水平飛行で接敵し最後の「上昇による回避」を行わないで敵艦に激突する。
海面スレスレの低高度で飛行するのだから敵艦に激突する前に海面へ激突する可能性も高い。
まして夜間は...

「銀河の高度計には30m以上の誤差がある」とする説や「その為に第2次丹作戦では海面突入が相次いだ」とする説がある。
私も最初は「なるほど、そうなのか。」と思った。
高々度から急降下し敵艦に接近する急降下爆撃機と低空で一直線に敵艦に接近する雷撃機では高度の変化量が全く違うし高度差が操縦に与える影響も違う。
双方とも「海面に激突すればお陀仏」である事に変わりは無いが艦爆が100m単位での高度差が重要なのに対し雷撃では10m単位になる。
だから「同じ高度計ではまずいだろう」と思ったのだ。
雷撃機用に製造(もしくは調整)された高度計で急降下したら物凄い高度変化で読みとれなくなるだろうし逆なら些細な高度変化は判らなくなる。
そこで元横空飛行隊長の有馬元少佐に「雷撃機と急降下爆撃機の高度計は別ですか?」と聞いてみた。
そうしたら「私は艦爆も艦攻も乗ったけど高度計は同じですよ。」と答えられた。
そこで第2次丹作戦時に銀河が海面に突入した話をしたら「海面すれすれを飛行している時に高度計を見る暇はありません。」と仰られた。
そりゃそうだ。
となれば「高度計が原因で海面突入」は×となる。
そもそも当時の高度計は「30m以上の誤差」どころかもっとアバウトな物だったらしい。
やはりそうなると海面スレスレの低空飛行は練度の熟達が物を言うのであろう。

銀河は雷撃可能な航空機だが元来は急降下爆撃機である。
だが「二兎を追う者一兎も得ず」の例え通り搭乗員に雷撃と急降下爆撃の双方を訓練させては錬成に時間がかかりすぎる。
そこで攻撃262飛行隊の場合、総兵力30機を急降下爆撃隊24機、雷撃隊6機と区分し第2次丹作戦には急降下爆撃隊のみが出撃した。
雷撃隊であれば低空水平飛行が専門なのだから海面激突は避けられたであろう。
急降下爆撃をしていたらどうだったであろうか?
結果論に過ぎないが高度300m以上は雲に覆われているのだから例え夜間でなかったとしても目標は発見できない。
また米軍レーダーの隙をかいくぐる為、低高度で進入する事は必要条件だった。
しかし低高度で進入するのであれば会敵時に敵の全容を把握するのは不可能だ。
夜間はなおさらである。
かくして銀河部隊は誉の故障続出に加え副操縦員のいない長距離飛行で多数の脱落機を出したうえ慣れない夜間の低空飛行で次々と海面激突するに至った。
第2次丹作戦は構想的には素晴らしい作戦だったが実施段階で「銀河を使用した特攻」に拘泥した為、充分な戦果を挙げられずに終わった。
悲劇は銀河部隊で実行された事で始まり到着が夜間になった事で拡大したと言えよう。
ここでひとつ銀河以外によるウルシー泊地攻撃を想定してみたい。
当時、日本海軍には信頼性の高い発動機を装備し副操縦員を搭乗させる事ができウルシーまで到達可能な航空機として1式陸攻があった。
低空水平飛行にしても1式陸攻は雷撃が主任務なのだからお手の物である。
何も銀河に800s爆弾を搭載し低空飛行で特攻する必要はなかった。
1式陸攻で雷撃しても良かったのだ。
さて、特攻でなく通常の雷撃であれば残存機の着陸地が必要となる。
前述した「突入しなかった4機」を思い出して頂きたい。
第2次丹作戦は特攻作戦だが全機が突入した訳ではない。
指揮官の黒丸大尉以下4機は敵空母を発見できなかったので特攻せず艦種不明の目標に通常爆撃を行い1機はルモング島、3機はヤップ島に着陸した。
なおヤップ島に降りた3機のうち2機や着陸時に損傷したので残る1機に3機分の乗員9名と便乗者1名の計10名が搭乗し3月14日の午後、鹿屋へ帰着している。
ヤップ島の滑走路を充分に整備(爆弾の破裂孔が多数ありこれによって着陸時に銀河が損傷した)しておけば攻撃隊を収容できたのである。
ならば片道特攻する必然性はどこにもない。
それにも関わらず第2次丹作戦は特攻作戦として立案された。
誰か1式陸攻の使用を提唱する高級将校はいなかったのだろうか?
確かに銀河は1式陸攻より高速で優れた航空機だが「どの様な時でも優れている」のではない。
「銀河を使用した特攻」ではなく「1式陸攻を使用した通常雷撃」であれば損害も少なく大きな戦果を得られたであろう。
適材適所を忘れ杓子定規に性能のみを盲信した事により第2次丹作戦が悲劇的末路を辿ったと考えると残念でならない。

第2次丹作戦から3日後の3月14日、米空母機動部隊はウルシー泊地を抜錨し前線へ向かった。
目指すは沖縄、アイスバーグ作戦の発動である。
この出撃は3ヶ月を越え第2次世界大戦の空母行動史上、最長記録となった。
なお銀河の突入により損傷した空母ランドルフは修理の為、泊地に残され代わりにイントレピッドがラドフォード提督指揮下の第4群へ編入された。
米空母機動部隊による空襲は18、19日の阪神地区を皮切りに本土沿岸を荒れ狂い24日からはその矛先を沖縄に向ける。
これに対し日本軍は天号作戦を発動。
海軍部隊はより細分化された菊水1〜10号作戦によってあまたの航空機、艦船を沖縄水域へ送り込むに至った。
そのさなか、第3次丹作戦が発動された。
日本海軍はまったく懲りていなかったのである。
まず5月1日、3航艦と5航艦から銀河各12機を抽出し木更津で第3次丹作戦の実行部隊となる第4御楯隊(指揮官野口大尉)を編成した。
第2次丹作戦と異なる点は彩雲による事前偵察が行われなかった事と搭載爆弾を800s2発(安定ヒレを外し無理矢理詰め込んだ)に増やした事である。
第4御楯隊は5月7日の0645に出撃したものの発進時に4機が故障、1機墜落、飛行中にも脱落機が続発し沖の鳥島上空に達した時は隊長機以下5機に激減、やむなく攻撃を中断し帰投するに至った。
翌日、10日の再決行を予定するが天候不良で12日に延期。
ところがこれまた天候不良で14日に延期するも当日、鹿屋基地に並べた銀河に米空母艦載機が襲いかかり第3次丹作戦は全面中止となってしまった。
果たして7日の攻撃で脱落機が続出せず攻撃が遂行されていたらどうだったであろうか?
冒頭で米空母機動部隊の作戦行動が3ヶ月を越える最長記録と書いた事を思い出して頂きたい。
当時、ウルシー泊地はもぬけの空だった。
だいたい鹿屋に来襲するのだから米空母機動部隊がウルシー泊地にいるはずがない。
そもそも事前偵察もせず「米機動部隊ウルシー在泊」と信じ込む方がどうかしている。
なにしろ5月4日には菊水5号作戦が発動され海軍機約300(うち特攻機136)が出撃し英空母フォーミタブル、インドミタブル、ビクトリアス、米軽巡バーミンガム、米護衛空母サンガモンなどに突入する激戦(この攻撃では桜花も使用され敷設駆逐艦ショウを撃破している。)が繰り広げられているのだ。
もはやこの時点から日本海軍統帥部の混乱は始まっていると言えよう。

何故、日本海軍は偵察もせず「米機動部隊はウルシーに在泊している」と思いこんだのだろう?
確かにこれまでの米空母機動部隊の行動パターン(1ヶ月弱作戦して1週間弱補給)からみれば3月17日にウルシーを出港し既に1ヶ月半を経過しているのだから「もうそろそろ」と考えてもおかしくは無い。
日本海軍の空母機動部隊にしても一番活発に行動した時期の記録をみると1ヶ月以内に帰投している。
例として赤城を挙げてみよう。
1941年11月26日、ハワイ作戦の為、ヒトカップ湾を出撃し29日間の作戦行動後、12月24日内地帰投。
翌年1月17日、R作戦の為、トラックを出撃し11日間の作戦行動後、1月27日トラック入港。
2月15日、ポートダーウィン攻撃の為、パラオを出撃し7日間の作戦行動後、2月21日スターリング湾入港。
2月25日、ジャワ海掃討戦の為、スターリング湾を出撃し15日間の作戦行動後、3月11日スターリング湾入港。
3月26日、インド洋作戦の為、スターリング湾を出撃し28日間の作戦行動後、4月22日内地帰投。
5月27日、ミッドウェー作戦の為、内地を出港し6月6日戦没。
赤城の航続距離は巡航速度16ノット時で8200浬だ。
これはすなわち21日間(8200÷16÷24=21.3)の作戦行動を意味する。
ただし「どうあっても21日間しか作戦行動できない」と言う物でもない。
速度を落とせば燃費は良くなるし消費した燃料を洋上給油で補う事もできる。
とは言え燃料以外にも糧食などの消費物品があるので「いくらでも作戦行動できる」とはならない。
上記に於ける「赤城の21日間」はおおまかな指針と考えて頂きたい。
基本的には日米とも1ヶ月前後(ヨークタウン型は15ノット12000浬なので33日)が空母機動部隊の最大作戦行動期間だったのである。
多数のタンカーを配した洋上補給システムを米海軍が樹立するまでは。
大戦末期、米空母機動部隊は45年3月17日からの沖縄攻略(約3ヶ月強)と44年6月6日からのマリアナ攻略(約2ヶ月強)、45年7月1日からの日本本土空襲(約1ヶ月半)と3回に渡り長期間遠征を果たした。
これらの長期遠征は日本海軍にとって「まったく想定外の行動」であった。
日本海軍にはその様に大規模な「洋上補給システム」は存在しなかったのだから。
さて、それでは米空母機動部隊が3ヶ月の作戦行動を終え帰投する6月下旬にウルシーを攻撃すれば良かったのだろうか?
答えは「否」である。
6月下旬にも米空母機動部隊はウルシー泊地にいなかった。
3月17日にウルシー泊地を出撃した米空母機動部隊が同地に戻る事は2度と無かったのだ。
日本海軍の猛攻によって米空母機動部隊が全滅したからではない。
新たな艦隊根拠地のレイテ湾に帰投したからである。
つまり45年3月17日以降に日本海軍が企図したウルシー泊地攻撃は全て無駄となった。
そもそも前進根拠地の必要条件は優良な泊地を備え最前線から遠すぎず近すぎもしない事である。
もし遠ければ往復の航海で燃料と時間を費やしてしまうし近すぎれば「安全な泊地」たりえない。
よって戦況が変化するにつれ前進根拠地が移る事は当たり前なのだがどう言う訳か日本海軍はウルシー泊地に固執した。
ただし第4次丹作戦の攻撃目標はウルシー泊地では無かった。

さすがに日本海軍としても米軍がいつまでもウルシー泊地を前進根拠地としていない事に気づいた。
3月17日にウルシー泊地を出港し日本本土と沖縄を荒らしまくった米空母機動部隊はレイテ湾へ帰投したのである。
そして7月1日、レイテ湾で錨を揚げた米空母機動部隊は日本本土へとその矛先を向けた。
かくして今度はレイテ湾に帰投した時を狙う第4次丹作戦の準備が進められたのである。
攻撃隊は第5御楯隊(指揮官は第2次丹作戦と同じ黒丸大尉)として編成され石川県小松基地で訓練に従事した。
ちなみに第2次及び第3次丹作戦と異なる点は機数が25機になり1機増えた事と出撃基地が台湾になった事、目標がウルシー泊地からレイテ湾に変わった事などであった。
だが今回もまた米空母機動部隊は在泊していなかった。
7月1日に出港し終戦まで日本近海で空襲に明け暮れていたのだからいるはずがない。
しかしそうと知らない日本海軍は8月5日、第5御楯隊を台湾に進出させチャンスを待った。
今回の遠征は7月10日の関東地方空襲が皮切りだったから「1ヶ月のパターンでもうそろそろ帰投するだろう」と考えたのであろう。
更に日本海軍統帥部の考えを裏付けるかの様に7月31日の駿河湾艦砲射撃以降、米空母機動部隊はなりをひそめていた。
実際には洋上補給したり訓練したり悪天候で空襲を見合わせていたりしただけなのであるが。
そして8月9日、B29による長崎核攻撃とソ連の参戦、米空母機動部隊の空襲再開が突然、巻き起こった。
前日には通信情報で「米空母機動部隊がレイテに帰投する兆候」が見られたとの判断がなされた矢先である。
なおこの時の空襲は北緯37度以北(福島県いわき市以北)に制限され艦砲射撃も岩手県の釜石製鉄所であった。
これは「本州中部以南のいずれかの都市」が核攻撃の目標であった為、その影響を回避する措置に他ならない。
日本本土近海に米空母機動部隊がいるなら当然、レイテ湾はもぬけの空だ。
よって第4次丹作戦を見合わせている内に終戦の詔勅が下り全てが終わった。
ちなみに月刊丸755号196頁によると台湾からレイテへの銀河による偵察が4回も繰り返されたが3回は天候不順で失敗し8月8日の4回目でようやく田邊中尉機が米空母機動部隊の不在を確認したとある。
この情報も第4次丹作戦の延期に大きな影響を与えたと思われるが終戦の大混乱のさなかにありその実相はようとして知れない。

さてここで話を元に戻そう。
話の始まりは「嵐作戦で不思議なのは目標が依然としてウルシー泊地のままだった事」である。
第2次丹作戦で戦果が少ないながらもウルシー泊地を叩いた日本海軍であったが第3次丹作戦では「もぬけの空」のウルシー泊地を前に空振りし第4次丹作戦では「もぬけの空」のレイテ湾で空振り寸前に終戦を迎えた。
なぜこんな事になってしまったのだろうか?
それには2つの理由がある。
ひとつは米海軍の前進根拠地が頻繁に変更可能であると日本海軍が知悉していなかった事だ。
ウルシー泊地は巨大な礁湖に過ぎない。
だが米海軍はそこに第10補給修理部隊(サービス・スコードロン)を配置し重要な艦隊根拠地とした。
大事なのは「ウルシー泊地」ではなくそこに存在している「補給修理部隊」なのである。
ちなみに補給修理部隊と言うのは「ニミッツの太平洋海戦史」に於ける部隊名称であり同一の部隊を世界の艦船386号では第10役務戦隊、「神風、米艦隊撃滅」では第10補給任務群、「提督スプルーアンス」では第10支援部隊と記述している。
この補給修理部隊は必要に応じどの泊地にでも進出して「単なる礁湖」を一夜にして一大策源地に変えてしまう。
こうした発想は日本海軍にはなかった。
ゴールドラッシュが起こればたちまちの内に街が出来、ブームがされば瞬く内にゴーストタウンと化す米国人の国民性が造り上げたシステムと言えよう。
さて日本海軍が空振りを続けたもうひとつの理由、それは偵察不足だ。
トラックから飛び立った彩雲がウルシー泊地を偵察し回天やら銀河やらが攻撃するのが日本海軍の常套手段だったが第3次丹作戦ではこれが省略された為、大失態を演じた。
なぜ重要な事前偵察が省略されたのだろう?
使える彩雲がなかったのだろうか?
彩雲はあった。
44年5月から実戦配備された彩雲は戦時中に463機生産(398機説あり)されたが終戦時になんと173機も残存していたのだ。
事前偵察が重要なのは日本海軍としても判りきっていた。
よって軍令部第1部も「航空作戦に関する情勢判断」の中で「トラック偵察兵力の充実、8月中彩雲12機程度保有せしむるを要す」として文書化(45年5月末作成)したのである。
増槽付彩雲の航続距離(5308km)は銀河に匹敵する。
当然、トラックまで飛ぶ事は可能だ。
ただし現地到着時の悪天候による不時着や滑走路状態悪化による着陸事故などで損耗する危険は否めない。
リスクを覚悟しても短時間で前線配備できる長距離飛行を選ぶか?
それとも光作戦(潜水艦による彩雲輸送)でエッチラオッチラ運ぶか?
日本海軍は光作戦を選んだ。
その理由は恐らく「貴重な彩雲をリスクのある長距離飛行で無駄にしたくないから」であろう。
ここで「機数に余裕のある彩雲がなぜそんなに貴重なのか?」と言う疑問が発生するがこの謎を解く鍵は第723航空隊の設立にある。
太平洋戦争末期、日本海軍は721〜725のナンバーを持つ特攻専門の航空隊を設立した。
桜花の実戦部隊である721空(昭和19年10月1日編成の神雷部隊)、桜花搭乗員の錬成を目的とした722空(昭和20年2月15日編成)、爆装彩雲の723空(昭和20年6月1日編成:6月10日編成説もある)、爆装橘花の724空(昭和20年7月1日編成:ただし橘花が完成していないので99式艦爆で訓練していた)、陸上用桜花の725空(昭和20年7月1日編成)である。
横須賀で編成され木更津で訓練した723空の定数は96機(定数が満たされる事は無かったが多数の彩雲を保有していたらしい)にも上り日本中の各航空隊は極端な彩雲不足に陥った。
723空が偵察してくれるなら何の問題もない。
だが723空は連合艦隊直属の「特攻専門部隊」であった為、他部隊では偵察任務を「命令」できず「依頼」は殆ど断られてしまった。
それでは723空は特攻で潰えたたのだろうか?
否、最終的に723空は特攻出撃する事なく終戦を迎えるに至った。
如何に高速の彩雲と言えども爆装時には72km/hも速度が低下してしまい米直衛戦闘機に撃墜される公算が高くなったからである。
よって723空の特攻出撃は「米軍による本土上陸」が起こるまで控えられた。
まったく「宝の持ち腐れ」とはこの様な事を指すのであろう。
723空と言う特攻部隊を編成しなければ大戦末期とは言えもう少しましな作戦を取り得たであろうと思うと残念でならない。

ウルシー泊地は1944年秋から終戦まで日本海軍にとり恐るべき牙城と映った。
しかしその実体は単なる礁湖に過ぎず使用された期間も僅か6ヶ月に過ぎない。
開戦前、日米双方で無名に近い存在だったウルシーが大戦末期に戦局の焦点となる事を誰が予測しえたであろう?
米空母機動部隊と第10補給修理部隊が去るとウルシーは再び静かな礁湖に戻っていった。
しかしもはやウルシーは無名の存在には戻り得ない。
太平洋海戦史を彩る各頁にウルシーの文字が燦然と刻み込まれているのだから。
嵐作戦に端を発したウルシーの話をこれで終えるとしよう。


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