ミッチャー提督とマッケーン提督は大戦後半期の米海軍機動部隊指揮官として双璧の立場に位置づけられよう。
だがこの2人、武運に関しては対照的と言える程の差が見られる。
ちなみに武運とは「多くの戦いに参加し多くの勝利を収める事」だと僕は思う。
ミッチャー提督は米海軍兵学校(アナポリス)を1910年に131名108番で卒業し、マッケーン提督は1906年に116名中80番で卒業した。
かなり卒業年次に差があるがミッチャー提督は1904年に入学して1905年に素行不良で退学処分、1906年に再入学といったコースを辿っているので両者は同時に在学していた事になる。
マッケーン提督は海軍軍人の名門、ミッチャー提督は商人家庭の出身であったがあまり成績が宜しくないのは両者に共通していた。
卒業が早いのだからマッケーン提督の方が昇進が早いのは当然である。
マッケーン提督が空母の艦長になったのは1938年(空母レンジャー)であったが、ミッチャー提督が艦長となったのは1941年(空母ホーネット)になってからであった。
開戦時にホーネットの艦長であった事が彼の運命を大きく変えたと考えられよう。
同艦が行った最初の大作戦は東京初空襲作戦であり、この成功は彼に大きな名声を与えた。
同作戦後、彼は少将へ昇進し後任のホーネット艦長にはメイソン大佐が任命されたがメイソン大佐はまだ空母指揮に未熟であった為、ミッチャー提督が艦長を代行したままホーネットはミッドウェー海戦に参加し大きく勝利に貢献した。
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普通なら艦を降りて海戦に参加できなかったはずなのにである。
ミッドウェー海戦後、ミッチャー提督はハワイの哨戒航空部隊指揮官に任ぜられる。
(なお彼が降りた後、ホーネットは南太平洋海戦で撃沈されメイソン大佐は泳がされるハメになる。南太平洋海戦後、メイソン大佐は少将になりソロモン方面航空部隊指揮官に任命された。)
ちなみにマッケーン提督は開戦時からずっと米本国で航空局に勤務していたが、8月からは南太平洋海軍基地航空隊指揮官として前線に立つ。
しかしそれも束の間、9月になると航空局長に抜擢され再び本国へ戻る事になる。
彼の後任として南太平洋海軍基地航空隊指揮官に任命されたのはフィッチ提督である。
そして12月になると今度はフィッチ提督が転出し、ミッチャー少将が南太平洋海軍基地航空隊指揮官に任命される。
更に翌年2月、ミッチャー提督はソロモン方面航空部隊指揮官に任命されて1943年4月の山本提督撃墜作戦を成功させ大金星を挙げる。
メイソン提督はさぞ悔しかった事だろう。
その後、ミッチャー提督は1943年7月から米本土西岸航空部隊指揮官として本国へ呼び戻されるが、1944年1月になるとポーネル提督の後任として高速空母機動部隊指揮官に抜擢される。
それまで米海軍の高速空母部隊は新造艦の訓練と編成、小手しらべ的な小規模空襲に明け暮れていたのだから、大作戦を前の交代はポーネル提督にとってさぞや...
ミッチャー提督に配された高速空母部隊(第58機動部隊)はトラック空襲作戦やマリアナ沖海戦で勝利し、彼は名声を不動の物とする。
その頃、太平洋艦隊指揮下の艦隊を第3艦隊と第5艦隊に区分(実質的には1つの艦隊。艦隊司令部が2つあるだけである)する事が決定されたので、ミッチャー提督の他にもう1人の高速空母部隊指揮官(第38機動部隊)が必要になった。
そこで米本土でデスクワークにいそしんでいたマッケーン提督(1943年8月からは作戦本部航空部長)が抜擢されたのだが、いきなり空母部隊を指揮できる訳がない。
とりあえず彼は1944年5月から見習いとしてミッチャー提督の旗艦に同乗、ついでミッチャー提督指揮下の第1群指揮官となる。
マリアナ沖海戦はスプルーアンス提督指揮下の第5艦隊が行う作戦だから、高速空母部隊指揮官は第58機動部隊指揮官であるミッチャー提督がとるのが当たり前だ。
だがレイテ海戦はハルゼー指揮下の第3艦隊の作戦なので高速空母部隊は第38機動部隊指揮官が取らねばならない。
しかし「マッケーン提督はまだ空母部隊の指揮に未熟」と言う事でミッチャー提督が指揮したまま米軍はレイテ海戦で大勝利を収める。
特大の大金星だ。
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