ノモンハン航空戦


第1節 戦果と損害
一般的に「自軍の損害報告はアテになるが戦果報告はアテにならない」とされる。
そこで今回はノモンハン事変を例に取り彼我の損害報告と戦果報告のズレを考察する。
ノモンハン事変は1939年5月11日に勃発し同年9月15日に停戦した日ソ両軍の国境紛争である。
えっ、たかが国境紛争レベルでは参考にならないって?
そんな事はない。
ノモンハン事変は日本陸軍航空隊にとって「とてつもない大戦(オオイクサ)」だった。
日本陸軍戦闘機搭乗員を調べる時のバイブルとも言える航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」をひもとこう。
ここには日本陸軍のエース一覧と経歴があるがこれによると20機以上撃墜した搭乗員は23名おりそのスコアを合計すると計630機となる。
そしてそのうち416機がノモンハン事変でのスコアとなっているので太平洋戦争でのスコアはなんと214機だけだ。
(日華事変でスコアを挙げたエースは加藤健夫少将:18機や江藤豊喜少佐:12機などごく少数であり20機以上エースでは1名も存在しない)
昭和16年12月から昭和20年8月15日まで44ヶ月続いた太平洋戦争が214機でたった4ヶ月(僅か1/11の期間!)のノモンハン事変が416機?
太平洋戦争では陸軍航空隊の空戦が行われなかったのだろうか?
そんな事はない。
開戦直後のフィリピン航空戦やマレー航空戦、蘭印航空戦、それに続くビルマ航空戦やソロモン、ニューギニア航空戦、フライングタイガースと戦った中国航空戦、末期に死闘を繰り広げたフィリピン航空戦や台湾、沖縄航空戦ならびに本土防空戦。
随分と空戦はあったはずだ。
だがトップエース23名による1ヶ月あたりの撃墜機数で言えば太平洋戦争が5機弱なのに対しノモンハン事変は104機で20倍を越える。
「ソ連機はチョロイからね。米英軍機とは比べ物にならないよ。」とか「きっと太平洋戦争のエースは20機未満にギッシリひしめいているのだな。」と見るのもひとつの考え方であろう。
しかしここで「ノモンハンでの戦果報告はちょっと怪しくないか?」と考えるのも重要ではあるまいか?
いずれにしても日本陸軍航空隊にとってノモンハン事変が「とてつもない大戦」であったのは事実である。
なにしろノモンハン事変勃発当時、日本陸軍の戦闘機部隊は10個戦隊(第5戦隊や第13戦隊などの練習部隊を含む。これらの部隊や第4戦隊は1個中隊しか戦闘機を保有していないし第1戦隊や第24戦隊、第59戦隊は2個中隊編成である。)と1個独立中隊で23個中隊(97戦15、95戦8:当時は1個中隊約9機だったので搭乗員の概数は約200名)だったがこれらのうち20個中隊(97戦14、95戦6)がノモンハンへ投入され100名近い戦闘機搭乗員を失ってしまったのだから。
特に戦闘機指揮官の損耗は激しく戦死者だけで少佐1、大尉8、中尉10に及ぶ。
「ふうん、戦闘機部隊じゃ佐官の戦死者は1名だけか。」と思ってはいけない。
投入された7個戦隊(1、9、11、24、33、59、64)のうち33戦隊が戦場にいたのは16日、59戦隊は6日、9戦隊は3日だけなので戦い続けた4個戦隊に限れば11戦隊を除く3個戦隊全てで戦隊長が撃墜され負傷しているのだ。
特に第1戦隊では7月12日に戦隊長の加藤中佐が負傷し29日には後任の原田少佐が初陣で戦死、最終的には全中隊長と全将校が死傷するに至った。
損害が多発したのは第1戦隊ばかりではない。
歴戦4個戦隊(計11個中隊)でみれば中隊長11名中9名が死傷しその後任中隊長や中隊長代理達も続いて軒並み死傷している。
ノモンハン事変での指揮官大量喪失がその後の日本陸軍戦闘機隊に大きな影響を及ぼした事は言うまでもない。

第2節 ノモンハン航空戦の概略
それでは事変の推移についてあらましを述べよう。
1939年5月11日、日ソどちらかの軍が越境して国境紛争(第1次ノモンハン事変)が勃発した。
この際、それが「どちらかである事」はどうでも良かった。
要はどちらも「退く気はないって事」が重要だったのである。
かくして事変は拡大した。
陸戦について書くと長くなるので以降は航空戦、特に戦闘機部隊についてだけ述べる。
最初、ノモンハンにいたソ連航空部隊は第70戦闘機連隊(ザバルーエフ少佐:38機)と第150爆撃機連隊(29機)とその他15機(ノモンハン全戦史では17機)からなる第100混成飛行団であった。
そこで関東軍は制空権を得るため13日に第24戦隊(97戦2個中隊)を投入した。
第24戦隊は18日から哨戒を開始し20日には初撃墜(偵察機)を記録する。
ソ連側としても黙っちゃいられない。
22日には第22戦闘機連隊(グラズイキン少佐:63機)と第33爆撃機連隊(59機:ただし38爆撃機連隊と記述する資料もある)を繰り出す。
24日には負けじと日本軍が11戦隊の半数(97戦2個中隊)を進出させた。
もはやノモンハン上空は大空戦である。
この戦いは日本軍が勝った。
日本が主張する戦果とソ連が発表する損害で食い違いが見られるものの5月中に撃墜されたのは28日に光富中尉が落とされただけでありソ連側も戦果が1機しか無い事と負けた事を認めているのだから。
29日、危機感を抱いたソ連軍は本国のスムシケービッチ空軍副本部長が48名のベテラン戦闘機パイロットを率いて旅客機3機でモンゴルの前線に乗り出す。
ついで30日、日本の第11戦隊の残部(97戦2個中隊)が進出した。
「このまま事態が推移していくとノモンハンは航空機だらけになるな」と思われたが6月2日に第1次ノモンハン事変は終結する。
終結と言うと「ああ、停戦交渉が開催されてハナシがついたのだな。」と思われるかも知れない。
でも日本軍が陸上部隊をちょっと後方へ退いただけでソ連としちゃ何も紛争を終えたつもりはなかったのだ。
相変わらずソ連は兵力の増強に努めるので6月17日には当然の如く第2次ノモンハン事変が勃発する。
今度は日本軍も兵力を小出しにはしない。
6月19日、第2飛行集団(戦闘機は第1,11,24戦隊:合計97戦8個中隊)に展開命令が下される。
かくして日ソ両軍は再び激烈な航空戦を繰り広げ22日にはグラズイキン少佐、24日にはザバルーエフ少佐が戦死した。
この余勢をかって発動されたのが6月27日の第1次タムスク空襲である。
ソ連軍飛行場を覆滅するこの作戦に日本軍は偵察機12機、戦闘機74機,軽爆6機、重爆21機の合計113機を投じ98機撃墜(日本陸軍戦闘機隊による数値:辻参謀の手記によると地上撃破を含め114機としている:丸648号では地上撃破を含め110機:世界の戦闘機隊では140機)の戦果(作戦に参加した第11戦隊の瀧山中尉ですら「とてもそんな数字にはならないはずです」と語ってるが)を報じた。
ただし当時のソ連軍兵力は空襲直前で戦闘機151機、爆撃機116機の計267機に過ぎず空襲による損害は14機(丸648の数値)としている。
最初は「負け」を認めていたソ連軍はこの頃から「戦果」を主張し始め両軍の戦果発表は大きなズレを示し出す。
さて両軍はますます戦力を増強する。
7月21日、ソ連は第56戦闘機連隊を進出させ8月15日には日本が第64戦隊(97戦3個中隊)を投入。
そして8月21日には第2次タムスク空襲、22日には第3次タムスク空襲が発動されたが7月12日に加藤中佐(第1戦隊:負傷)、7月29日に原田少佐(第1戦隊:戦死)、8月4日には松村中佐(第1戦隊:負傷)と各戦隊長以下、搭乗員の死傷が相次いだ。
もはや前線の日本軍部隊はズタズタである。
この穴を埋める為、8月30日には第33戦隊(95戦3個中隊)、9月9日には第59戦隊(97戦2個中隊)、9月12日には第9戦隊(95戦3個中隊)と更なる増援が繰り出されたがもはや97戦部隊は払底しており増援の主力は複葉の95戦部隊と成り果てていた。
なお最終期、ソ連軍は第19,22,23,56,70の5個戦闘機連隊を擁している。
そして9月15日の第4次タムスク空襲をもって航空戦は終わりを告げ同日成立した停戦交渉によってノモンハン事変はその幕を閉じたのである。

第3節 火力と防御力の比較
ここで両軍の主力戦闘機となった日本軍の97式戦とソ連軍のI−16を少し比較してみよう。
双方とも1930年代後半を代表する低翼単葉の単発戦闘機だが97式戦が固定脚、I−16は解放式キャノピーと言う欠点をもっており最高速度は同程度である。
また97式戦は運動性が優れていたが火力と防御力が弱くI−16は運動性が悪いものの火力と防御力が強かった。
それでは97式戦と同時期に開発された各国戦闘機の火力を列記してみよう。
97式戦は1935年12月に開発が開始され1936年10月に試作機が初飛行し1937年12月から量産された7.7o機銃2門を装備する単発単座戦闘機だ。
まずドイツで相当する戦闘機を探すと1935年9月に試作機が初飛行したBf109がこれに相当する。
Bf109は試作機段階では7.92o機銃2門の軽武装だったが初の量産型(1937年3月)であるB型では7.92o機銃3門となり1937年末から生産が開始されたC型では7.92o機銃4門に強化された。
次はイタリア。
スペイン内乱で活躍したフィアットのCR32は1933年4月に試作機が初飛行し1935年以降、続々と量産された複葉戦闘機で当初7.7o機銃2門だった武装は12.7o機銃2門に強化され後に7.7o機銃2門が追加される。
フランスはと言うと1935年に参考として日本が2機購入したドボアチンのD510が代表となるが同機には同軸式20o砲1門と7.5o機銃2門が装備されていた。
英国は1937年1月から部隊配備が開始されたグラジエーターが7.7o機銃4門で同年末から部隊配備が始まったハリケーンが7.7o機銃8門。
米国は1937年7月から部隊配備されたセバスキーのP35とほぼ同時期に量産されたカーチスのP36が97式戦の対抗馬となるが当初はどちらも12.7o機銃1門と7.62o機銃1門を装備するだけだった。
しかし後にP35は12.7o2門と7.62o機銃2門に強化されP36も12.7o機銃1門と7.62o機銃3門やら12.7o機銃2門と7.62o機銃4門やら7.62o機銃8門やら様々なタイプに強化された。
やはり諸列強戦闘機(列強じゃないけどオランダのD21(1936年初飛行)だって7.92o機銃4門だしポーランドのPZL.P11(1934年より量産)だって7.7o機銃4門だ。)に比べ97式戦の弱火力(97式戦より火力の弱い戦闘機は存在しない。すなわち最弱である。)は否めない。
こうして見ると97式戦の問題は「最初から少々、弱火力」であった所が他国戦闘機が次々と火力増強していく中、全く火力を強化しないまま3386機も量産した事にある。
すなわち量産が開始された1937年末の段階で97式戦は「ちょっと火力の弱い戦闘機」だったのだがノモンハン事変(1939年5月〜9月)の段階では「世界最弱火力の戦闘機」となってしまったのだ。
いや、最弱ではなかった。
もうひとつある。
日本海軍の96式艦戦も7.7o機銃2門装備でありこれが世界中の列強新鋭機の中で唯一、97式戦に匹敵しうる火力の戦闘機であった。
なおノモンハン事変の終結(1939年9月15日)は第2次世界大戦の勃発(1939年9月1日)と前後している事にも御注意頂きたい。
第2次世界大戦勃発時、世界で最も弱火力の戦闘機を揃えた国家が日本だった。
そしてその反動が零戦を生み出したのである。
ただし「零戦が20o砲を装備したので世界中が驚いた。」と言う記述がたまに見られるがこれは全くのマユツバなので気をつけて欲しい。
既にソ連はI−16の24型から20o砲を装備しているしフランスは日本が参考として輸入した程、同軸式20o砲の本家だ。
ドイツも頻繁にBf109に同軸20o砲装備を実験しているから驚くには当たらない。
英国だって零戦21型と同時期に生産されたスピットファイアMK1やMK2ですら20o砲装備型が少数だが生産されている。
P39に37o砲を装備した米国が驚くとは到底、思えないし単発戦闘機に20o砲を積んだからって驚いてくれるのはイタリアくらいであろう。
(ポーランドのPZL.P11の輸出型であるP24だって20o砲を装備している。)
「航空機に関しては後進国だと思われていた日本が20o砲装備の戦闘機を自力開発したんで驚いた」って言うんならありえるハナシだが。
次に防御力であるが97式戦が全く防弾されていなかったのに対しノモンハン事変へ投入されたI−16は既に装甲板を装備していた。
ただし全てのI−16が装甲板を装備していた訳ではない。
最初に投入された第70戦闘機連隊のI−16には防弾版が装備されておらず搭乗員の低練度と相まって甚大な損害を受けるに至った。
一方、次に投入された第22戦闘機連隊のI−16には装甲板が装備されており火力も20o砲2門、7.62o機銃2門に強化されていた。
ちなみにソ連がI−16の防御強化を始めたのはノモンハン事変からではない。
またI−16が装備した装甲板の厚さは戦史叢書「陸軍航空兵器」190頁では6.4o、丸648号や木俣滋郎著「陸軍航空隊全史」では9oとなっている。
戦史叢書「陸軍航空兵器」によると日本陸軍は撃墜したI−16の装甲板を見た事により日本特殊鋼株式会社に研究を命じ昭和14年12月にキ44(後の2式単戦鍾馗)用として防弾板試作を同社に指示したとある。
なお同書によれば日本陸軍機で最初に防弾板を装備したのは99式襲撃機であり防弾板の製造メーカーは大同製鋼株式会社としている。
ひとくちに防弾板と言っても戦闘機用と爆撃機用で製造メーカーが異なるのは面白い。
「I−16が防弾板を装備していた事」は「日本陸軍が戦果を過大評価した事」の素地となるのだが詳細は後述する。

第4節 両軍の報告比較
さて、それではノモンハン航空戦に際し両軍はどれだけの戦果を挙げたのだろうか?
日本側発表とソ連側発表の双方を記述している資料に航空情報別冊「世界の戦闘機隊」と丸648号があるがどちらもソ連側の数値を戦果660機、損害207機、日本側の数値を戦果1340機、損害171機としている。
ソシンスキー著「日ソ戦争と外交」に記載されているソ連側の数値は戦果660機、損害207機だ。
また「ノモンハン全戦史」では日本側発表の戦果を1370機としているがこれは上記の1340機に地上撃破30機を足した数値である。
戦史叢書「陸軍航空兵器」はどうであろうか?
戦果を1389機(うち戦闘機によるもの1332機)としており損害を192機(うち97戦119機)としている。
この資料は損害と補充量を機種と期間別に集計しており大変、素晴らしいが5月28日に光富中尉の97戦が撃墜されているのに6月20日以前の損害が0であるなど若干の疑問点も見られる。
桑田悦著「日本の戦争」に記載されている日本側の損害は166機である。
この様に日本側数値とひとくちに言っても戦果は1340〜1389機、損害は166〜192機に渡る。
日本側発表とソ連側発表。
どちらが正しいのだろうか?
日本側発表が正しいとすれば日本の記録的大勝利(戦史叢書を例にとれば1:7)だしソ連側発表が正しいとすればソ連の大勝利(1:3)である。
しかし両軍とも「相手が戦場に進出させた総航空数以上の航空機を撃滅したと主張」しているのだから両軍とも一概に信じがたい。
ここで仮に両軍が主張している戦果が正しいと考えてみよう。
ノモンハンの草原に日ソの航空機が大小取り混ぜて2000機以上も散乱している計算になる。
凄まじい光景だ。
日本側主張が正しいとしても約1500機、ソ連側主張が正しいとして約800機余。
やはりここは両軍の損害を「信頼できる数値」として見るのが良いであろう。
そうすると戦場に散乱する航空機は373〜399機となる。
多分、こんな所であろう。
よくノモンハン航空戦は日本軍の圧倒的勝利と言われる。
両軍が発表している自軍の損害を照らし合わせても日本の損害の方が少ない。
見方にもよるが日本の辛勝(悪く見れば引き分け)とは言えよう。
だが決して圧倒的勝利などではない。
第11戦隊に所属しノモンハンで5機のスコアを挙げた瀧山中尉は軍事史学128号47頁「前期は勝利、中期は五分五分、後期は負け」と記述している。
それでは日本軍の圧倒的勝利を主張する根拠はどこにあるのだろうか?
「前期は勝利」と「後期は負け」の2つの真理が共存する事がひとつの鍵となる。
1340機撃墜、40機地上撃破を主張する松村黄次郎中佐の場合、第24戦隊戦隊長として勝利の前期戦を戦い抜き中期戦の最中、8月4日に撃墜されて負傷し後送された。
つまり松村中佐はノモンハン戦の勇士ではあるものの「負け戦の後期戦」を御存知ない。
また松村中佐は丸エキストラ板19号113頁で「9月上旬における敵空軍の兵力は圧倒的に優勢で少なくとも前線にある小型機は1500機、大型機も300機を下らない」と判断されているが最終的にノモンハン航空戦へ投入されたソ連軍戦闘機は5個連隊(1個連隊は60数機)に過ぎず損害が潤沢に補充されたとしても戦場に1500機が集結するとは考えられない。
敵の所在兵力に対する過大評価が戦果の過大評価へ繋がった側面もあると言えよう。
先だって前期は勝利、後期は負け戦と記述したがどの程度の差があるか搭乗員の損耗を軸に論述してみよう。
ノモンハン航空戦で日本戦闘機搭乗員がどれだけ損耗したか指し示す資料は幾つかある。
まず航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」だがこの部隊史で各戦隊の戦死者を合計すると第1戦隊が16名、第11戦隊が19名、第24戦隊が12名、第33戦隊が3名、第59戦隊が5名、第64戦隊が8名で合計63名となる。
だが361頁の戦死者一覧表だと合計66名だ。
この66名中、なんと半数の33名が4ヶ月に渡るノモンハン航空戦で最後の1ヶ月に集中(7月16日から8月15日までの戦死者は18名。これが中期に相当する。それ以前の2ヶ月で戦死者は僅か15名。)しており後期の苦戦が忍ばれる。
またソ連側は自軍損害207機を認めているが航空情報別冊「世界の戦闘機隊」132頁によるとこのうち8月20日以降の損害(停戦が9月15日なので交戦期間は26日間となりほぼ1ヶ月に相当する)は34機に過ぎないとしている。
つまり後期は戦死者33名でソ連機34機を撃墜してるので1名当たり1機となるが前期、中期の平均では33名で173機を撃墜しているので1名あたり5.2機になる。
前期、中期は3ヶ月に渡っているので月単位で見ると後期は33名が戦死し34機を撃墜しているのに対し前期、中期は平均11名の戦死で57機(ソ連軍航空機損耗を前期と中期に細分化できれば良いのだが資料がない。よって173÷3=57で月平均とする)を撃墜している。
これにより損害と戦果は反比例し「負け戦は損害ばかり多く戦果が少ない事」が御理解頂けよう。
ただし日本軍戦闘機隊戦死者数とソ連軍航空機損耗数の比較だと日本軍爆撃機の損耗や戦死に至らない日本軍戦闘機損耗などが除外されるので必ずしも実相は反映されない。
戦死者1名につき1機を撃墜しているのであれば「負け戦」とは見えないからだ。
よって次に「戦闘機隊戦死者数」ではなく「日本軍の航空機損耗数(戦史叢書による)」と比較してみる。
日本軍航空機損耗は8月21日以降が70機なのでソ連軍航空機損耗(34機)の2倍以上に達している。
立派な負け戦だ。
中期の日本軍航空機損耗は69機なので前期、中期のソ連軍平均損耗の57機と比較してほぼトントン。
五分五分と言えよう、
前期2ヶ月の日本軍航空機損耗は53機、2ヶ月分のソ連軍平均損耗114機と比較すれば半分以下の損害で立派な勝ち戦である。
瀧山中尉が「前期は勝利、中期は五分五分、後期は負け」と記述された事が納得できる。
ここでもう一度、日本軍戦闘機搭乗員の損耗に目を向け「ノモンハン航空戦が日本陸軍戦闘機隊に与えた影響」を考えて見よう。
なお搭乗員の損耗は戦死者だけではない。
戦闘機の損耗=搭乗員の損耗では無いが負傷(松村黄次郎中佐など搭乗員として復帰できなかった負傷者は大変多い)を含めれば損耗数はもっと増える。
軍事史学128号17頁によれば8月末までの戦闘機隊の人員損耗は「当時戦場にあった戦闘機操縦者のほぼ3/4にあたる76名」としており全期間での航空部隊の損害を戦死141名、負傷89名、中隊長以上の戦死傷17名としている。
更に航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」によれば9月1日以降、少なくとも17名が戦死しており戦史叢書によれば9月1日以降の戦闘機損耗は24機(95戦6,97戦18)なので戦闘機搭乗員損耗は最終的に76+17=93名以上と考えられる。
本文の第1回でも書いたがノモンハン航空戦勃発時、日本陸軍の戦闘機部隊は合計23個中隊(1個中隊9機)で搭乗員概数は約200名だった。
その約半分が4ヶ月の航空戦で消えてしまったのである。
中隊長クラスの指揮官損耗は半分どころではなく遙かに多い。
これが拡張期の日本陸軍航空隊に与えた影響は多大であったと言わざるをえない。
もしノモンハン航空戦が無かったなら太平洋戦争に際し日本陸軍はかなりのペースで搭乗員を養成できたと考えられよう。
だが影響はマイナス面ばかりではなかった。
「航空機の補充はできても搭乗員の補充は困難である」と気づいた日本陸軍は日本海軍にさきがけいち早く戦闘機の防御力強化に着手したのである。
かくして誕生したのが前述した6.5o装甲板であった。

第5節 誤認の要因
さてノモンハン航空戦で日ソ双方がとてつもない戦果を発表し両軍とも自軍勝利を主張した事は前述した。
だが仮に両軍が発表した自軍損害が正しいとすればノモンハン航空戦は日本の辛勝もしくは引分である。
それにしても戦果誤認は航空戦の常だが何故、ここまで大きな誤認が発生したのだろう?
前述した様にソ連側が主張する戦果660機は日本側の損害166〜192機の3倍だが日本側が主張する戦果1340〜1389機はソ連側損害207機の7倍以上に達する。
3倍と7倍、この差はどこから来る物なのだろう?
1つには大量の航空指揮官損耗によって日本側が総合的な情報収集力を失ってしまった事が挙げられよう。
2つ目には「思いこみによる戦果誤認の多発」が挙げられる。
前述の通りI−16の操縦席背部には防弾版が装備されており日本軍の7.7o機銃では全く貫通できなかった。
日本側の常識としては防弾版の装着など思いもよらないので目標の背後から接近し操縦士めがけて射撃して命中が確認できれば「落ちないはずはない」と言う思いこみがある。
しかもソ連軍機は射撃を受けた際に「とりあえず急降下して難を避ける」と言う戦術上の特性(丸エキストラ版19号で松村中佐が述べており丸648号では古郡曹長の談話として記載されている。同文ではソ連軍機のこうした行動を「偽装墜落」と呼称している。)をもっている。
当然である。
I−16は旋回性能では劣るものの急降下時の加速は抜群なのだ。
一方、97式戦は基本的に急降下で逃げたりせず巴戦に持ち込む。
だから日本軍の戦闘機搭乗員には「戦える以上、急降下したりしない。」言う先入観が常に頭にある。
敵機の背後に食い付き敵操縦士に向かって確実な射弾を浴びせかけ敵機が地表に向かって真っ逆様に落ちてゆくのにそれが「撃墜でない」とは到底、思えなかったであろう。
3つ目として上級司令部による意図的な誇大戦果発表があったらしい。
統帥権を無視した現地軍の独断専行による事変なのだから結果が思わしく無ければ責任者は処罰されるのだ。
まあこれについては「そんな事ない。」と言ってしまえばそれまでなので興味のある方は牛島康充著「ノモンハン全戦史」の一読をお勧めする。
なお大抵の場合、ハードウェアの防御力が高い軍と低い軍が交戦するとえてして防御力の低い軍の側が誇大戦果に陥りがちであると言えよう。
どこの国の軍隊も「自軍が保有している装備は敵軍も保有している」と思いこみ「自軍が保有していない装備は敵軍も保有していない」と思いこむ。
だが思いこみ通りに事は運ばない。
自軍戦闘機に装甲板が装備されていないとしても敵軍で装備されていない保証はない。
よって「自軍戦闘機なら確実に墜落するダメージ」を敵軍戦闘機に与えたとしても墜落するとは限らない。
米軍は他国の重爆を恐れてP38に20o砲を搭載しP39には37o砲まで装備したが日本やドイツ、イタリアの爆撃機にその様な大口径砲は全く必要でなかった。
12.7o機銃だけで充分だったのである。
反対に重装甲の米軍爆撃機を相手とする日本軍戦闘機に必要なのは何よりも火力だった。
だが海軍の零戦が20o砲を装備していたものの陸軍の単発戦闘機は開戦以降、3式戦丙型が初陣を迎える1943年末まで12.7o以下の機銃しか装備していなかった。
ここでひとつ米軍重爆の装甲について説明しておこう。
戦闘機の搭乗員防御は操縦席背後の防弾板に依存しているが重爆の場合はもっと複雑で機体各所に設置された防弾板で複合的に防御されている。
B25H型を例に取ると尾部銃座背後、操縦席全面、操縦席背後に9.5o装甲板、側部銃座脇、上部銃座背後に6.3o装甲板が設置されているのだ。
シュツルモビクの様に操縦席の周囲がみっちりくまなく防御されている訳ではないし分厚い装甲板を設置している訳でもない。
一見すると最厚9.5oなのだから12.7o機銃でなんとかなりそうに見えよう。
ところがそうは問屋が卸さない。
戦闘機は通常、目標の後上方から攻撃する。
これは降下しながら攻撃すると自己の速力に落下速度が倍加され短時間に目標に接近できる為である。
次に有効なのが真後ろから目標へ接近する方法だ。
この場合、目標より優速でなければいつまで経っても接近出来ないであろう。
更に後下方からの攻撃だとよほど目標と自己の速力に差が無いと接近するのは難しい。
降下すると速力が倍加されると言う事は上昇する時に減速するからである。
人間だって下り坂を走る時にはスピードが上がるし登り坂ではスピードが落ちる。
さて後上方からB25H型の操縦席を攻撃したと考えてみよう。
射弾はまず上部銃座背後の6.3o装甲板に当たる。
もし射弾が7.7oなら弾き返されここでアウト。
12.7o以上なら6.3o装甲ぐらい撃ち抜けるから上部銃座の搭乗員を倒し操縦席に飛んでいくだろう。
だが射弾は6.3o装甲を抜く為に相当の運動エネルギーを消費しているから繰上席背後の9.5o装甲はとても抜けない。
20o砲弾ならなんとかなるかも知れないが後上方からの攻撃は上部銃座と尾部銃座の双方に撃ちまくられるので返り討ちに会う危険も大きい。
真後ろから撃つとまず射弾は尾部銃座に当たり機銃手が倒れる。
ついで射弾は尾部銃座背後の9.5o装甲に当たり抜ける物なら更に機体前方に飛ぶ。
この射弾を遮る2番目の障壁は側部銃座脇の6.3o装甲ドアだ。
装甲ドアは完全に通路を遮ってはいないので一部の射弾はここで弾かれ一部の射弾は装甲ドアを貫通し一部の射弾は装甲ドアに当たらず機体前方に飛んでゆく。
そして射弾は3番目の障壁となる操縦席背後の9.5o装甲に当たるのだがこうなるともはや20o砲弾と言えど貫通は望めない。
一方、後下方からの攻撃の場合、障壁となるのは操縦席背後の9.5o装甲板だけなので命中しさえすれば12.7o弾でも撃墜できるが接近する事自体が難しい。
目標に比べてよほど上昇力の高い戦闘機なら別なのであるが。
けれど戦闘機の上昇力を飛躍的に上げるのは難しい。
現状の機動性能のままでなんとか装甲板の設置されてない重爆の背面へ射弾を浴びせる方法は無い物だろうか?
そこで斜銃の登場となる。
とは言え斜銃や米軍の重爆は直接、ノモンハン航空戦と関わりをもたない。
よって話をノモンハンへ戻すとしよう。

第6節 両軍エース
それではノモンハン航空戦に参加した両軍エースの面々を列記してみよう。
まずソ連軍だがそれにはスペイン内乱から話を始める必要がある。
スペイン内乱(1936年7月勃発)はソ連軍航空部隊にとって並々ならぬ激戦であり航空機1409機と搭乗員141名(772名説もあり)が投入された。
航空機の損耗は1176機である。
投入された航空機数に比べ搭乗員数が少ないのは各国からの義勇軍兵士が多い為だろう。
それを裏付けるかの様にスペイン内乱で誕生したエースは各国多士済々に渡っている。
まずフランコ側だがスペイン人としてモラト(スコア40機)、サルバドール(25機)、バスケス(21機)が活躍した他、外国人としてドイツ人のメルダース(14機)、シェルマン(12機)、イタリア人のボンザノ(15機)、マンテリ(15機:12機ともされる)などが活躍した。
次に共和政府側としてはスペイン人のモルキラス(21機)に加え外国勢としてはフランス人のギード(10機)やベルギー人のド・グルンヌ(10機)、米国人のティンカー(8機)などが挙げられる。
ソ連人が参加したのは当然の如く共和政府側だ。
16機のセローフを筆頭にルイチャゴフ(15機)、エリョメンコ(14機)、ポブロフ(13機)、ラケイエフ(12機)、スプルーン(12機)などが暴れ回った他、ザハーロフ、グリツェベーツ、オシベンコ、コキナキ、ブラゴベシチェンスキー、グベンコ、クラフチェンコ、クリシェンコなどが参加している。
だが奮戦空しくスペインの空はフランコ側の掌中に握られてしまった。
スペイン内乱の次に起きた大規模な航空戦は支那事変(1937年7月)である。
この戦いでもソ連軍は1250機の航空機と多数の搭乗員を派遣した。
前述のスペイン内乱参加搭乗員達のうちルイチャゴフ、スプルーン、ザハーロフ、グリツェベーツ、オシベンコ、コキナキ、ブラゴベシチェンスキー、グベンコ、クラフチェンコ、クリシェンコなどは支那事変にも参加している。
この戦いではコザチェンコが11機、グベンコが7機のスコアを挙げた他、ズベレフ、ブラゴベシチェンスキー、ボロビコフ、ガイダレンコ、、クラフチェンコ、スリュサレフ、スプルーン、マルチェンコ、ニコラエンコ、セリワノフ、スーホフがスコアを伸ばしソ連邦英雄に任ぜられた。
ただし損害も多く200名以上の搭乗員が失われている。
そして1939年に勃発したのがノモンハン事変である。
第1次ノモンハン事変は日本の圧勝に終わったがこれは上記のエース達が殆どいない現地部隊と戦ったからでありスムシケービッチ空軍副本部長が48名のベテラン戦闘機パイロットを率いてモンゴルの前線に乗り出してからは随分と様相が変わった。
ちなみにノモンハン航空戦で活躍したソ連のエースはツェルデフ(11機)、ノガ(9機)、ダニロフ(8機)、ラホフ(6機)、ボロジェイキン(6機)などである。
またグリツェベーツはスペイン内乱から通算42機のスコア(ノモンハンだけで何機なのかは不明)を挙げたが停戦の翌日、事故死するに至った。
他にもスペイン内乱でソ連邦英雄となったクラフチェンコは支那事変で3機を追加しノモンハン事変で5機を加えた。
後に彼は第2次世界大戦で更に15機を落としている。
なぜかソ連軍搭乗員を「ボンクラの新米揃い」と評する戦記を見かける事があるがどうしてどうして、「ボンクラもいるがベテランもいる玉石混淆」と考えた方が良い。
当時の日本軍としては最初に戦ったのがボンクラだったので「終始ボンクラばかりを相手にしていたといった印象」が拭いきれなかった事もあると思うが。
ベテランのソ連軍搭乗員を相手にした日本軍搭乗員は多くの場合、戦死する。
戦死してしまった搭乗員の声は聞けない。
(篠原准尉の様に手記が残される場合もたまにあるが。)

次に日本軍の搭乗員を見よう。
ノモンハン航空戦で20機以上のスコアを挙げた日本軍搭乗員は14名である。
そして投入された日本軍戦闘機部隊7個戦隊(1,9,11,24,33,59,64)のうち激戦を繰り広げた3個戦隊(1,11,24)にこの14名は集中している。
まず第1戦隊に所属していたのは垂井光義曹長(28機)、細野勇曹長(21機)、浅野等准尉(22機)の3名である。
なお1939年9月1日をもって第11戦隊の第4中隊が第1戦隊に編入されたが本稿では事変勃発当初の編成をもって記述する。
次に第11戦隊だが第1戦隊及び第24戦隊が2個中隊編成(1939年9月1日には第24戦隊にも第3中隊が新設された。)だったのに比べ4個中隊と大規模なので日本陸軍史上のトップエースである篠原弘道准尉(58機:戦死)を筆頭に島田健二大尉(27機:戦死)、花田富男曹長(25機)、加藤正治曹長(23機)、東郷三郎准尉(22機)、大塚善三郎軍曹(22機)、吉山文治曹長(20機:戦死)、岩橋譲二大尉(20機)、古郡吾郎曹長(20機)など9名もの20機以上エースを輩出した。
特徴は9名のうち4名がノモンハン航空戦で戦死している事だが第11戦隊が特に他部隊に比べ損耗が大きかった訳ではない。
日本軍が優勢を誇った7月末までの搭乗員損耗は戦死傷合わせ第1戦隊が13名、第11戦隊が16名、第24戦隊が18名で第11戦隊が第1戦隊と第24戦隊を合わせた程の大部隊である事を考えると優勢期に於ける第11戦隊の損害は非常に少ないのである。
戦死した20機以上エース3名にしても8月下旬以降の劣勢期に於ける戦死なので上述した損耗には含まれていない。
部隊規模が大きいだけでなく損害が少なく戦果が多いのが第11戦隊の特徴と言えよう。
最後に第24戦隊であるがこの部隊に所属した20機以上のエースとしては斎藤正午曹長(25機)と斎藤千代治曹長(21機)の2人がいた。
両トップの名字が斎藤であると言う事が第24戦隊の特徴である。
(なんのこっちゃ...)

それはさておきノモンハン航空戦を彩る話題として「日本陸軍の戦闘機搭乗員が疲労困憊しカルピスしか飲めなくなりそれが損害の多発を招いた。」と言う説がある。
いや、別にカルピスが悪い訳ではない。
カルピスしか喉を通らなくなる程、疲労困憊した原因に問題があるのだ。
カルピスについて触れているのは軍事史学128号21頁や航空情報別冊「日本陸軍戦闘機隊」85頁などであるが戦史叢書53巻に当時の状況が詳述されており高々度飛行を疲労の主原因(「酸素不足による航空病が主要な原因」と記述)としている。
同書には「飛行第24戦隊では粥食をとりカルピスを愛飲」とか「栄養を補給するため空中勤務者がハルピンやチチハルに行くたびにハムやチーズを買い込み皆で分けあった」とか「予算の許す範囲内でスイカを購入して前線に送り」とか涙ぐましい話が色々と書いてあり興味が尽きない。
ところで何故、高々度飛行で酸素不足になっちゃうんだろうか?
ひょっとして日本の飛行機には酸素マスクが付いてなかったのか?
そんな事はない。
ちゃんと付いてた。
ただし「ノモンハン事変前、第2飛行集団(満州の航空部隊)は高々度訓練をあまり実施しなかった。」とありその理由として「予算の制約もあったようである。(高々度飛行には危険加俸が支給される定めになっていた)」と記述されている。
「えっ!それはあんまり...」と思うだろう?
危険加俸を払うのがもったいないからって折角、装備された酸素マスクを使用した高々度飛行訓練を実施しないなんて。
かくして「平素から酸素吸入器をつけて訓練していなかった為に酸素吸入器をつけると行動が著しく不自由になるように感じまた同器の故障も多かった。」という事態になった。
そりゃそうだ。
全然、使用しなければ故障があっても判りっこないし使い勝手も悪かろう。
一方、ソ連軍のSB2爆撃機は7000m以上の高度で日本軍を爆撃した。
当然、日本軍戦闘機も7000m以上まで上昇して空戦せねばならなくなる。
慌てた関東軍は7月1日に20組、19日には354組の酸素マスクを中央に要求した。
(かなりの酸素マスクがいかれてたんだね。)
最初から高々度飛行訓練を充分にしていれば「搭乗員が疲労困憊してカルピスしか飲めなくなる状況」は防ぎ得たであろうしもっと損害を少なくできたろう。
まことに残念だと思う。

さて、長々と続けてきたノモンハン航空戦の話であるが本稿をもって終了とする。

えっ?
戦果誤認の結論がでてないって?
20機以上エースの戦果合計だけで354機(最初に日本陸軍で20機以上撃墜したエースは23名、スコア合計が計630機、そのうち416機がノモンハン事変と書いたが僕が計算間違いをしている訳ではない。柴田力夫准尉や長谷川智在大尉の様にノモンハン航空戦では20機未満であったものの太平洋戦争でスコアを伸ばし20機以上となったエースの数字も含まれるからである。)に達しソ連側が発表している207機の損害を大きく上回る。
恐らく前述したスコアのうちかなりの部分で誤認があるのだろう。
これはソ連軍エースの場合についても言える。
だからと言って僕達はそう簡単に「嘘つきは誰だ!」と詮索する訳にはいかない。
「航空戦では誤認が付き物」ってのは日ソ双方どころか世界各国で共通だしね。
まあ航空戦に限らないが金科玉条の如く数字を信じたりせず常に「多分、誤認もあるのだろう。」と言う感覚で数字を見てゆく事を知って頂ければ僕としては大変、嬉しい。


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