第一節 ミッドウェー海戦
一般的に「ミッドウェー海戦は太平洋戦争の天王山であり空母機動部隊の壊滅が敗戦を決定づけた。」とされている。
それは確かだ。
空母や航空機の喪失については。
だが搭乗員の損害についてはどうであろう?
実のところミッドウェー海戦では米空母と死闘を繰り広げた飛龍の搭乗員こそ全滅に近い損害をだしたものの、他の3空母搭乗員は大した損害を受けていないのだ。
搭乗員全体についての正確な損失数は澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」に詳述されているので、ここでは大尉以上の搭乗員指揮官についてだけ見てみよう。
赤城に乗っていた指揮官搭乗員には淵田中佐(戦後に「ミッドウェー」を著述)を筆頭に雷撃の神様として有名な村田少佐、強行偵察の名手として名高い千早大尉(「我に追いつく敵機なし」の電文で有名)、エース戦闘機搭乗員の白根大尉(「紫電改のタカ」にもでてくる。スコア9機)などがいたが彼らは全員、生き残って内地へ帰還した。
エース戦闘機搭乗員として名高い加賀の飯塚大尉(スコア8機)や蒼龍の藤田大尉(スコア11機)、艦爆隊の名指揮官として著名な江草少佐なども。
なんと飛龍に乗っていた重松大尉(彼もエースとなった戦闘機乗り。スコア10機)もである。
(他にも大勢、生き残ったがとりあえずこれだけ挙げておく。)
結局、ミッドウェー海戦で戦死した大尉以上の搭乗員指揮官は11名で、珊瑚海海戦の8名より3名多いだけだった。
「将校はたくさん生き残ったが下士官兵は皆戦死したのか?」
その様な事はない。
「記録ミッドウェー海戦」によると、航空機搭乗員戦死者数は米軍の208名に対し日本軍121名とある。
空母撃沈数では1対4と大敗を喫したが搭乗員戦死者数では逆に日本軍の方が少なく、日本の空母4隻が沈没した時に艦と運命を共にしたのは121名のうち29名だけであった。
空母の搭乗員総数は不明であるが各機種の搭乗員が艦戦1名、艦爆2名、艦攻3名なのでざっと概算すると約500名となる。
よって逆算すると泳いで助かった搭乗員は約380名となり、29名の損失は全体の1割弱に過ぎず「空母が沈んだとしても周辺に救助を担当する随伴艦(多くの場合は駆逐艦)があれば必ずしも搭乗員が戦死するとは限らない」と考えられよう。

それでは次に空母の搭載機数について若干、ふれて見よう。
御存知の通り日本空母の搭載機数には定数(常用機と補用機によって構成される:以下常用機+補用機で表示する)とは別に実数(実際に作戦期間中に搭載している機数)がある。
例えば蒼龍の場合、開戦時の定数(戦史叢書:ハワイ作戦127頁)は艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機だったが実数(同書344頁)は艦戦21、艦爆18、艦攻18の57機だった。
これがミッドウェー海戦時の実数だと艦戦21、艦爆18、艦攻18、艦偵2の59機となる。
作戦経過の推移によって実数は常に変動する。
また定数自体が変化する場合もある。
開戦時、瑞鶴の定数(戦史叢書による定数)は艦戦18+3、艦爆27+3、艦攻27+3の72+9機(丸スペシャルなどでは補用機の数が異なる)であったが、1942年1月からは艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機に減らされてしまった。
大型の新型機が開発されたので機数が減らされた訳ではない。
搭載機の機種は同じままだ。
単に格納庫が「がら空き」になっただけなのである。
定数が減れば実数もまた小さくなる。
よって真珠湾奇襲では72機であった瑞鶴の搭載機実数は珊瑚海海戦では僅か45機(定数の常用機は54機であるが損耗により更に少なくなっていた)にまで減少してしまった。
それはなぜか?
開戦後、祥鳳や隼鷹などの改装空母が続々と竣工した為、海軍航空隊はこれらの搭載機を工面せねばならなかったのである。


第二節 開戦と兵力の拡張
さて開戦時に日本海軍の主力空母6隻が搭載した航空機の実数は艦戦120、艦爆135、艦攻144の合計399機だった。
前述したように艦戦の乗員は1名、艦爆2名、艦爆は3名だから搭乗員数の合計は822名となる。
ただし「実際に6隻の空母に乗っていた搭乗員が822名か?」と言うと答えは「必ずしもそうではない」となろう。
日本海軍の陸上航空部隊では搭乗員定数を航空機の「常用機定数の1.5倍」と規定(戦史叢書ハワイ作戦216頁)していた様であるが、これは目標数値であり搭乗員実数はこれを大きく下回っていた。

実例を示そう。
1942年5月20日の時点で太平洋正面に展開していた第24及び第26航空戦隊の兵力(戦史叢書ミッドウェー海戦215頁)であるが、隷下6個航空隊のうち第1航空隊は定数(常用機のみ)が艦戦27、陸攻27であるが実数は艦戦17、陸攻32であり搭乗員は艦戦22名、陸攻29組であった。
木更津航空隊は定数(常用機のみ)が陸攻27で実数が陸攻23、搭乗員は陸攻27組、三沢航空隊は定数(常用機のみ)が陸攻27で実数が陸攻27、搭乗員は陸攻28組である。
これらから搭乗員実数は航空機の実数と「大きな差はない事」が窺えよう。
まあそれはさておいて前回は隼鷹と祥鳳の竣工によって日本海軍航空隊が搭載機と搭乗員を工面しなければならなくなった事を書いた。
よって今回は両空母の搭載機数の話となる。
まず1942年1月26日に改装完了した祥鳳だが同艦の搭載機定数は艦戦12+0、艦攻12+0の24+0機であった。

軽空母 祥鳳

1942年5月3日に竣工した隼鷹の方は少々、ややこしい。
丸スペシャル軍艦メカ3によれば定数が艦戦12+3、艦爆18+2、艦攻18+0の48+5機であるが淵田美津雄著「ミッドウェー海戦」では艦戦24、艦爆21の45機としており戦史叢書:ミッドウェー海戦236頁ではAL作戦時の定数を艦戦6+2、艦爆15+4の21+6機、便乗の6空艦戦を12機としている。
更に丸スペシャル11号32頁にはAL作戦時の搭載機が艦戦20、艦爆19と記載されている。
AL作戦時の出撃機数にしても計画では4航戦(隼鷹、龍譲)の第1次が39機(戦15、爆15、攻9)、第2次が12機(戦3、攻9)の51機(戦史叢書:ミッドウェー海戦236頁、この機数は隼鷹、龍譲の定数:常用機の合計に一致する)であったものが、実際の出撃機数となると戦史叢書:ミッドウェー海戦279頁では第1次45機(戦16、爆15、攻14)、第2次45機(戦12、爆15、攻14、水偵4:計画と違い第2次攻撃隊は第1次攻撃隊の帰還機で編制された)としており、淵田美津雄著「ミッドウェー」では第1次27機(戦9、爆12、攻6)、第2次24機、柑灯社「日本海軍戦闘機隊」では第1次34機(戦16、爆12、攻6)、第2次21機(戦6、爆15)としている。
(戦史叢書:ミッドウェー海戦に於ける隼鷹の定数は実数ではないかと考えられる。同書の攻撃隊編制機数にそれが窺える。僕はAL作戦時に隼鷹が搭載した実数を6空の便乗艦戦を合わせ艦戦18、艦爆15と判断している)

空母 隼鷹

まあいずれにしても祥鳳の24機と隼鷹の48機を合わせ、日本海軍航空隊は80機前後の航空機とそれに見合う搭乗員を用意せねばならなくなった。
そこでまず1942年1月1日、翔鶴、瑞鶴の定数が艦戦18+3、艦爆18+3、艦攻18+3の54+9機に削減(元は72+9機)され4月1日には赤城の艦爆が9機削減された。
これで常用機45機が浮いた勘定になる。
だがそれだけではまだまだ足りない。
本来なら約50機を搭載する予定であった隼鷹がAL作戦時に「異様に少ない定数」で作戦参加している背景には「日本海軍航空隊の搭乗員不足」が大きく影響していると考えられよう。
かくして日本海軍は「隻数は増えたが水増しによって各艦の搭載機数が少なくなった空母機動部隊」で第2段作戦を開始する事になった。


第三節 第2段階作戦
さて第2段階作戦であるが最初に躓いたのは珊瑚海海戦であった。
この戦いに参加した日本空母は第5航空戦隊(以下5航戦と略)の翔鶴と瑞鶴及び輸送船団の護衛を担当した祥鳳の3隻であったが、搭載機の定数(常用)は翔鶴と瑞鶴が艦戦18、艦爆18、艦攻18の各艦54機、祥鳳が艦戦12、艦攻12の24機であった。
実数は祥鳳が艦戦13、艦攻6の19機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」204頁)、5航戦の2隻が合計114機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」251頁)だったらしい。
そしてまず初日の戦いで祥鳳が沈没(艦戦3はデボイネ基地に帰投したが残りは喪失。艦の乗員839名中生存者は203名に過ぎないので残りの搭乗員も殆どが戦死したと思われる)し、5航戦もタンカーに対する攻撃や夜間攻撃で18機を喪失、搭載機は96機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」350頁)となる。
続く二日目の決戦で日本軍は大量の航空機を失い翔鶴もまた大きな損傷を受ける。
両空母搭載機64機(森史朗著「海軍戦闘機隊4」436頁)は瑞鶴に着艦したが、そのうち12機は放棄するに至った。
なお残った航空機のうち使用に耐える機体は39機であった。

空母 翔鶴

すなわち5航戦が作戦開始時に保有していた114機の搭載機と搭乗員は39機(他に損傷機13機)の搭載機と64機分の搭乗員(他に翔鶴への強行着艦や不時着等で救助された搭乗員が11機分)に激減したのである。
これは「もしも補充が得られないのであれば」翔鶴の損傷が復旧したとしても、5航戦は各空母に37機しか航空機を搭載できない事を意味する。
ついで発生したミッドウェー海戦で日本海軍は4隻の空母と248機の搭載機(艦戦72、艦爆72、艦攻81、艦偵2、便乗艦戦21:便乗艦戦を除いた搭乗員を合計すると463名になる)及び108名の搭乗員(澤地久枝著「記録ミッドウェー海戦」、他に水偵搭乗員11名と便乗搭乗員2名)を失った。
(ミッドウェー海戦に於ける米軍の搭乗員戦死数は208名)
なお1942年1月1日に翔鶴、瑞鶴の艦攻及び艦爆各9、4月1日には赤城の艦攻9が定数削減された事は前述したが、ミッドウェー海戦時には加賀の艦爆9も定数削減されている。
さて463−108は355である。
となると約350名が生還したと考えられよう。
艦戦は1名、艦爆は2名、艦攻は3名が乗員数である。
よって1機2名を標準と考えた場合、350名の生還は約175機に相当する。
搭乗員不足に悩む日本海軍は定数削減によって空母数を揃え、第2段階作戦に臨み珊瑚海海戦で搭乗員の大損耗を喫するに至った。

もしミッドウェー海戦が生起せねば5航戦の搭乗員は補充しきれなかったであろうし、飛鷹の搭載機もまた充当できなかったであろう。
しかしそこへ主(母艦)を失った175機分の搭乗員がミッドウェー海戦の敗北により降って湧いた。
日本海軍はこの搭乗員を如何にして使い空母機動部隊の再建を図ったのか?
まずミッドウェー海戦後の1942年7月14日、空母の搭載機定数(常用)がまたもや変更され、翔鶴型は艦戦27、艦爆27、艦攻18の合計72機(丸スペシャル「軍艦メカ3」74頁)、隼鷹型は艦戦21、艦爆18、艦攻9の48機(丸スペシャル「軍艦メカ3」105頁)へと大きく増大した。
この4隻の搭載定数は総計240機になる。
だが前述した様に翔鶴と瑞鶴の搭乗員は両艦合わせて75機分しか残っていないし、隼鷹の搭乗員も便乗艦戦を降ろすと19機(AL作戦で艦爆2を喪失している為)に過ぎない。
つまり146機分の搭乗員不足である。
これを穴埋めする為にミッドウェー海戦から帰還した175機分の搭乗員が充当され、日本海軍の機動部隊は再編成を完了した。
そしていよいよソロモン海の激闘がその幕を開ける。


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